今に思えば、奴と出会ったのは“縁”だったのだろう。
神に仇なすその男は、二メートル強の剛刀を背に担いでいる。
――陰惨とした地上には疎遠の、強き意志を宿した蒼穹の瞳。
俺が唯一、この世に残した未練とも言うべき相手。
アレン・ガード。
奴は俺の死に際に、まるで自分が自決するかのような顔でそう名乗った。
アルトリア城の廊下に、青年の声が響く。
コツコツと軍靴の音が鳴り、止まる。と、アルトリア軍近衛騎士団長の父は、息子を振り返った。「王立騎士団長」の名に相応しく、父は厳格な男だ。歳は五十前半。明るく映える金髪に、気難しそうな凛とした面立ち。蓄えた鬚は几帳面に整っており、ギリシャ神話の男神を思わせる精悍な男だった。
彼は絹で出来た上等なマントを翻し、息子に向きなおると頭を振る。
「ジェラード王女、ロンベルト殿、そして兵士三十数名の死者。……事態は明白だ」
「父さん!」
珍しく息子が食い下がる。普段は聞き分けの良い息子の――ロウファの思いに比例して、彼が着こんでいる銀の甲冑がカシャリと鳴った。
無理も無い。
息子――このロウファと言う青年は、アルトリア最強と謳われた傭兵・アリューゼを、誰よりも慕っていたのだから。
父の凛々しさに反して、ロウファは中性的な美青年騎士だった。銀の甲冑に流れる、細い金髪。青の瞳。女性のように線の細い面立ちが、今は怒りできゅっと引きしめられている。
父は溜息を吐いた。
「わかってくれ」
去り際に、ロウファの肩を叩く。会話を終える時の、父の癖だ。
いつも一方的で、それ以上の質問は許さない。
ロウファは唇を噛んだ。俯く。
槍を握る、自分の手が震えた。自分の無力が、無知が、歯痒い。
(アリューゼさん……)
胸中(こころ)の声が、力なく零れていく。
まるで暗闇で灯火を失った幼子ように、ロウファの胸には、ぽっかりと穴が開いていた。
――三日前。
「ここに、男性が駆け込んで来なかったか!?左目に刀傷のある、長身の男性だ!!」
ロウファが昼の稽古を終えて門前を過ぎると、西門の門番に、血相を変えて一人の青年が詰め寄っていた。
歳はロウファと同じ二十前後。ロウファより色素の薄い金髪と、蒼色の瞳が印象的だ。カーキ色のジャケットに黒のTシャツ、白のズボンという――鎧が剣士の標準装備であるアルトリアでは、珍しい姿の青年だった。彼は背に、二メートル強の白い大きな筒を抱えていた。
(左目に刀傷のある、長身の男性……?)
突然現れた青年の言葉に、ロウファはぴたりと足を止めた。
左目に刀傷――
アリューゼの特徴だ。
ロウファはハッと目を剥いた。
「ちょ、ちょっと君!それってもしかして、アリューゼさんの――」
「頼む!通してくれ!!急がないと、手遅れになる!!」
ロウファに心当たりがあると見るや、青年は門番を押しのけて城に割り込もうとした。慌てて、門番とロウファが、青年を押しとめる。
「ちょっと待ってくれ!その前に事情を――」
ロウファが問うと、青年は、何かに気付いたように、は、と瞬きを落とした。
「……悲鳴」
そう、確かに彼は言った。
ロウファは怪訝に思いながらも、青年に倣って耳を澄ましてみる。
が。
だんっ!
青年は二人の意識が別を向いたと見るや、脇を押さえていた門番を肘鉄で黙らせ、城中に駆け出した。
「こ、こら!!!!」
慌てて、ロウファが後を追う。
だが彼はすでに、十数メートル前を駆けていた。
多くの兵が倒れた、血まみれの廊下を無言で駆け抜けて――……。
……………………
………………
ロウファがハッと顔を上げると、部屋の蝋燭が、ゆらゆらと自分を照らしていた。
今日は槍の稽古にも身が入らない。そう思って、自室の本を読み漁っていた時のことだ。いつの間にか、うたた寝したらしい。
アリューゼが事件を起こして以来、ロウファは眠れない夜が続いている。部屋に灯した蝋燭を見やると、半分くらいの高さにすり減っていた。
つまり今、深夜だ。
蝋燭の揺れる火を見据え、ロウファは右手で額にかかった金髪を、くしゃりと掻きあげた。
「……どうして、忘れていたんだ……」
アリューゼの死。
そのショックがあまりに大きすぎて、一部、記憶が欠落したのかもしれない。――それから、思考も。
ロウファは慌てて机から立ち上がると、愛用の槍斧を手に、地下牢へ向かった。
アルトリア最強の傭兵・アリューゼが、ロンベルトという男を殺害し、彼自身も自害してから三日。
城最奥の地下牢に、一人の青年が投獄されていた。表向きは不審者として、実際はアリューゼとの共犯容疑で。アリューゼが凶行及んだあの日、青年はその現場にいた。アルトリア城内の関係者でないにも関わらず、だ。
青年は、アルトリア人らしい金髪碧眼だった。――碧眼、と称するには少し濃い蒼色。美青年と言う訳ではないが、理知的な鋭い双眸が、勤勉なヴィルノア人に似ている。
服装は、奇妙なデザインのジャケットと黒のTシャツ、白のズボンというラフな格好だ。
青年の名は、アレンと言った。
投獄されたアレンは当然、手錠と足枷で動きを封じられ、背に担いでいた二メートル強の白筒――相棒の剛刀を六人がかりで兵士に取り上げられている。
「……」
そんな地下牢の一室にて。アレンは、三日前の出来事を思案する。
レーテ街道で起きた惨劇を。――そこから、アルトリア城まで兵士を斬り殺しながら進んで行った傭兵(アリューゼ)の真意を。
あの街道では、アレンが見た事も無い魔物が現れた。
アリューゼが頑なに殺す事を拒んだ魔物。
その魔物を倒した、天使。
そして、アリューゼが血相を変えて城に殴りこみ、殺したロンベルトという男。
三日前の出来事で、気がかりな点はその三つだ。
ロンベルトについては、アレンは知らない。だが、この三日間の尋問で「ロンベルトという男が、アルトリアの大臣である」という事は把握できた。
傭兵が、何故国の大臣を殺す決意を固めたのか――。
それも、自らの命を投げ売ってまで。
(街道に現れた魔物の周りには、この国の騎士団の死体が山ほどあった。あの魔物と、彼(アリューゼ)の関係。それが彼の死因を解く鍵だ。――恐らくは)
アレンにある材料は、それだけだった。
あの魔物と相対した時、アリューゼは憔悴し切った表情をしていた。街中にいた時は、あれほど好戦的な、ぎらついた目をしていたのに。
それが、アレンには引っかかっていた。
(……まさか……、人……だったのか?……魔物と戦った場所の近くに落ちていた小瓶。小型解析器(スキャナー)では“グール・パウダー”と出ていたが……)
グール・パウダー。
スキャナーが分析した成分表を見ても、アレンの知る物質は一つとして出てこなかった、“この惑星の”粉だ。
仮説は出来ていたが、確かめる術が今は無い。
頭上にある蝋燭が、ちりちりと揺れる。鎮座したアレンは、投獄されてから今日まで、食事を与えられていなかった。
……かつん、かつん、
また、足音が近づいてくる。
(尋問か……)
閉じた瞼を開け、彼は足音に視線を向けた。
常人ならば、アリューゼと共犯でなくとも三度は自供してしまいそうな拷問。その中でも、アレンは正気だった。
こうしてこちらの眠りを妨げるように、あるいは思い出したように、彼らが現れるのは珍しくない。だからアレンは、いつもそうしているように毅然と尋問官を見据えた。
「何度言われても同じだ。俺を疑うのなら、まずはこちらが要求した捜査を行ってもらおうか」
あの魔物が現れた、現場の捜査を。
しっかりした語調で言うと、足音が止まった。
「要求?」
口が酸っぱくなるほど繰り返した言葉に、返ってきたのは不思議そうな声だった。
アレンは顔を上げる。この三日間。尋問官は五人やってきたが、そのどれでもない。
若い男だった。
(新しい尋問官か?)
それとも、処刑人か。
アレンは目を細めると、若干の警戒を交えて相手を睨んだ。こちらの言い分をまるで歯牙にもかけない対応は、もう身に染みついている。だが、初めてアレンの下に現れた青年(ロウファ)は、これまでの尋問官とは明らかに態度が違った。
傷だらけのアレンを見るなり目を見張ったのだ。
「誰がこんなことをっ!?」
慌てて駆け寄ってくる。薄暗い牢屋にいるアレンの傷を、どの程度見分けたのかは知らないが、アレンは首を傾げ、奇異なものを見るようにロウファをしげしげと観察した。
「君は……?」
「僕はロウファと言います。あの日、アリューゼさんが事件を起こした時に。僕は貴方にお会いしましたね?」
ロウファに問われ、アレンは瞬いた。ロウファの顔を、もっと良く見る。すると、今までの尋問官達とは真剣味が違った。ロウファの真摯な眼差しがアレンに向けられている。
「なるほど。ようやく、俺にもツキが回ってきたということか」
アレンはわずかに口元を緩めると、少し、安堵したように言った。
「聞かせてもらえますか?貴方の事情を」
「ああ」
つぶやく彼に、ロウファは表情を引き締めた。アレンは順を追って、あの日の状況を説明した。ちらりと番兵の詰め所を一瞥して。
「これは、あそこの兵士達にも話したことだが……。事の始まりは、恐らくあの街道だ。俺はあの日、アルトリアの城下町で騎兵が慌ただしく走っていくのを見て、ヴィルノアに続く裏街道――レーテ街道と言うらしいな。そこに辿り着いた」
「レーテ街道、ですか……」
「ああ。そこで魔物に襲われているアリューゼと出合った。地面に座り込んで、魔物が襲って来るのを茫然と見ている彼と」
「アリューゼさんが敵を前に?……失礼ですが、貴方は以前からアリューゼさんとは知り合いで?」
アレンは首を横に振った。
「いや。その前日――今から四日前だな。倭国料理店で、アリューゼが女の子と食事している時に知り合った」
「女の子?」
「その子の事は詳しく知らない。ただ、アリューゼと親しそうな女の子だった。よく目立つ、青いリボンの帽子を被っていたんだが……」
該当する人物に、ロウファは心当たりが無かった。首を捻るロウファが、よほど要を得ない顔をしていたのか、アレンは話を本題に戻した。
「君の言いたい事は分かる。俺も、これでも剣士だ。アリューゼが敵を目の前に戦意喪失する人物とは思わない。まして、魔物の攻撃に反応出来なかったわけでも無いだろう。だから――。恐らく、彼は何らかの事情があって、あの魔物を庇っていたんじゃないかと思う」
「魔物を、庇う?……あのアリューゼさんが、ですか?」
「ああ。彼は何か――ひどく絶望しているようだった。どうにか、俺と二人で魔物を倒しはしたが――彼は何も言わず、幽鬼のようにその場を立ち去っていったんだ」
アレンはロウファを見上げた。
戦乙女の事は語らない。あれが“この世”のものではないと、アレン自身が肌で感じていたからだ。
蝋燭に照らされたロウファの顔は、得てして表情が無かった。
アレンは話を続けた。
「後は君も知っての通り。アリューゼはこの城の、ロンベルトという大臣を殺して、自決した」
「……」
ロウファは黙った。青年の言葉が全て真実とは思わない。だが、ウソを吐いているようにも見えなかった。
顔を上げた青年が、ロウファを見据える。
「頼む。一度……俺があの時いた、レーテ街道を調べてくれないか?」
「それが、貴方の希望する捜査、ということですか?」
「ああ。あのとき、どうしてアリューゼが魔物を庇おうとしたのか――。それが分かれば、事の真理が見えてくると思うんだ」
「…………」
「それに、あそこにはアルトリア騎兵の死体もある」
「えッ!?」
ロウファは息を呑んだ。青年の無表情が、蝋燭に照らされている。
「魔物に殺された兵士だ。全員で八人にいる」
「アルトリア騎兵が、殺された?」
青年が頷いた。
「傷口からして間違いない。まだ、この城に戻っていない部隊がある筈だ。少なくとも、彼らは君と同じ甲冑を着ていた」
「……!」
ロウファは鳥肌が立つのが分かった。王の勅命を受けて城を出た部隊と言えば、王女捜索隊だ。まだ捜査が難航しているのだろうと思っていたが、この男の話が本当なら、彼らはすでに――。
ごくりと唾を呑みこんだ。
ロウファの気配が変わる。緊張に満ちた彼の顔を見つめて、青年は神妙な面持ちのまま続けた。
「ところで、グール・パウダーと言うのを知っているか?」
「グール・パウダー?」
耳慣れない言葉に、ロウファは首を傾げた。柵の向こうで青年が、眉根をひそめる。
「この辺りで使われている品物だと思うんだが。……用途は俺も知らない。だが、兵士の死体の中に、それらしきものを握っている者がいた。これくらいの小瓶だ」
アレンは言って、親指と人差し指の間隔で小瓶の大きさを説明する。五センチくらいの大きさだった。
「装備からして、部隊長と思われる。魔物が目の前に居たというのに、彼は剣ではなくその瓶を握っていた。自分が命の危機にさらされていたのに」
「……」
ロウファは押し黙った。彼の言いたい事は分かる。騎士として、敵を前に剣を握らず瓶を握っていた理由――。
それは、部隊長が剣を抜く前に殺されたと言う事だ。
「でも――どうして貴方は、用途が分からない物を“グールパウダー”だと断定できるんです?」
ロウファが問うと、アレンが、ぅ、と息を呑んだ。
「それは……」
「それは?」
「……以前に、同じような物を見た事があるんだ。知り合いに、そう言った事に詳しい人物がいて」
「なら、その人に“グールパウダー”の事を聞けば、分かると?」
「ああ……。だが、その人はもう――」
視線を伏せる青年を見据え、ロウファは目を細めた。
数秒。
ロウファは真剣な表情のまま頷くと、颯爽と立ち上がった。
「まあ、いいでしょう。とりあえず――今は貴方を、信じてみます」
青年に対する疑念が無いと言えば嘘になるが。
調べてみろと言われたなら、調べるだけだ。
そう目で答えるロウファに、アレンは顔をあげ、小さく頷いた。
城下に降りたロウファは、場末の酒場に向かった。
城の正規兵――ロウファの纏う白銀の甲冑は、うらびれたこの場所にはあまり似つかわしくない。高貴な生まれと一目で分かるロウファは、明らかに酒場で浮いていたのだ。
だがそれも、いつもの事となれば、気にする者はいない。酒場に集まった客はロウファに一瞥くれることもなく、テーブルを囲った面々と他愛もない会話を続ける。
そんな酒場の奥に、テーブルを囲っている二人組の冒険者がいた。
「で。そいつは信用しても大丈夫なのか?」
疑り深く訊いて来たのは、二人の冒険者の内の一人、青みがかった黒髪を一つにまとめた青年だ。年はロウファと変わらない。だが、こちらはいかにもみすぼらしい青銅の鎧を着た冒険者だった。
名を、カシェルと言う。
ロウファは逡巡の後、頷いた。
「少なくとも、調べてみる価値はあると思います。話の筋は通ってますから」
「でも、囚人なんでしょう?」
眉根をひそめて、もう一人の冒険者、セリアは声を落とした。
こちらは女性で、長い茶髪を藍のリボンで纏め、白とピンクの鎧をセンスよく着こなしている。だが、カシェルと同じく、庶民臭い雰囲気を漂わせた女性だ。
「……」
「セリア」
黙すロウファに、カシェルが窘めるようにセリアを制した。
“囚人”。
それは、今は亡きアリューゼの事をも意味する。
「ごめんなさい」
失言だったと気付いて、セリアが謝った。ロウファは空気が悪くならないように、いえ、とだけ答えて微笑う。
と、カシェルが、酒場のテーブルから勢いよく立ちあがった。
「じゃ。行ってみるか!その“魔物”とやらが出たって街道に」
言って、カシェルはパンッと拳を打ちつけるなり、頭の後ろで腕を組んだ。ロウファも頷いて立ち上がる。肩越しに、ロウファは酒場の外を示した。
「行きましょう。外に馬を連れています」
酒場を出た三人は、ヴィルノアに続く街道、レーテ街道へと向かった。
レーテ街道を行くと、不意にロウファの愛馬が大きく嘶いた。
「!?どうしたんだ!?」
「ぅわっ!!」
直立する馬にカシェルが悲鳴を上げる。ロウファは手綱を引いて愛馬を宥めてやったが、驚きを隠せなかった。この馬は気性が大人しい。こんな風に興奮するのは、珍しいことだ。
「だ、大丈夫!?」
ロウファとカシェルの後方をついてきていたセリアが、馬を止めて尋ねてくる。
カシェルは暴れる馬の手綱を引いてどうにか踏み止まらせると、カラ元気で笑った後、頷いた。
「ん、まあ……なんとか」
「……おかしいですね」
そんなカシェルを尻目に、ロウファは首を傾げた。馬が一歩も進みたがらない。戦場でも、勇敢に野を駆ける軍馬が。
「しょうがねぇ。こっからは歩いて行こうぜ」
蹴っても叩いても、まったく反応しない軍馬にため息を吐いて、カシェルは颯爽と馬から降りた。
何の変哲もない山道。今のところ、囚人の青年が言ったような魔物も、城の兵士の死体も見当たらない。
「そうですね」
カシェルにならってロウファも馬から降りる。さく、と草を踏みしめると、爽やかな風が街道を吹き抜けた。
――が。
馬が怯えた目で見ていた方角にロウファ達が歩き出すと、木々を抜けた所で異臭がした。眉をひそめて先を行くと、まるで地獄絵図のような醜い光景が広がっていた。
ひしゃげた荷車が街道を横断し、その周りに寄り添うように兵士達の死体がごろごろと転がっていたのだ。
「……ひどい」
思わずつぶやいたセリアは、自分の呼吸機構を守るように口元を庇った。あまりの光景に、顔がしかめられる。
無残に朽ち果てた騎士団の遺体――。
囚人の青年――アレンが話した通りだった。
彼が“魔物”と称した異形の骸は無かったが。
「……」
見知った人の遺体を越えて、ロウファは無言のまま、ひしゃげた荷車に歩み寄った。甲冑の種類が違う兵――部隊長の死体に。
「これが、」
真っ白になった部隊長の手に、小瓶が握られていた。栓は開けられている。中身ももう無いが、瓶の壁には少しだけ中身が付着していた。
「セリアさん!」
腰を上げ、痛ましい表情で兵士の死体を見やっているセリアを呼ぶ。すると、セリアはこちらに視線を向け、何?と首を傾げた。
ロウファは小瓶を持って、彼女に駆け寄る。
「これが、彼が言っていた小瓶のようです。――分かりますか?」
“グール・パウダーかどうか”。
そう続く言葉を暗に伏せて、ロウファは真剣な表情でセリアを見つめる。
人間を、魔物に変える薬。
魔法剣士のセリアは、“グール・パウダー”をそのように説明した。
ロウファにとっては、にわかに信じがたい話が、この瓶が本当にグール・パウダーなら、“魔物”が現れたというのは事実になる。
アリューゼが、何故その魔物と戦おうとしなかったのかは分らないが――。
(と言うより、アリューゼさんに限って、敵を前に剣を置くなんて……)
アレンが話した内容で、ロウファが一番納得のいかない所だ。
だがそれ故に、アリューゼの真意と深くつながっているような気もする。
自害など、普段のアリューゼを考えればあり得ない。
父を斬らない為とはいえ――。
(だから僕は……、知らなければならない)
アリューゼの真意を、無念を晴らすために。
考え込むように小瓶を見つめていたセリアが、顔を上げた。
「……だめ。こんなに少ないんじゃ、グール・パウダーかどうかなんて、確認のしようがないわ」
「そうですか……」
平静を装って返事したつもりが、溜息が混ざった。
セリアが申し訳なさそうにこちらを見る。ロウファは場を誤魔化すように微笑った。
カシェルが兵士の死体を検めながらつぶやいた。
「でもよ。この死体、確かに人の手によるものじゃねぇぜ。
傷口見てみろよ。これ、少なくとも剣の痕じゃない。――何かに引きちぎられたみたいだ」
「……」
「それって。兵士が殺されたのは、“魔物”の仕業かも知れないってこと?」
セリアが問う。カシェルは死体の前に膝を折ったまま、小さく頷いた。
「ただの獣に正規部隊を全滅させられるほど、アルトリア騎兵だって腑抜けじゃないだろ。ってことは……」
言葉を切ったカシェルが、ゆっくりとロウファを見る。顔色を窺うように。
ロウファは考え込むように目を閉じた。
「……至急、城に戻って応援を呼びましょう。少なくとも、彼らをここに放っておくわけにはいきません」
目を開けて、カシェルを見る。いつになく神妙な面持ちのカシェル。お調子者な性格をしているが、彼が決して愚かで無い事を、ロウファは知っている。
「だな」
だから、明言を避けたロウファに対して、カシェルがニッと笑ってくれたのは、ロウファにとって救いだった。
ロウファはカシェルを見据えて、言った。
「それから、僕はもう一度。彼に会ってみようと思います。――地下牢の彼に」
つぶやいたロウファに、カシェルも神妙に頷いた。
××××
カシャンと音を立てて、隣の牢が開けられた。
「大人しく入ってろ!逆賊が!!」
兵士の罵倒する声と、たたらを踏む靴音が重なった。
兵士の言葉で、アリューゼの身内、と察した囚人の青年――アレンは、隣の牢に寄るなり、そっと耳をそばだてた。
かつかつと軍靴を鳴らして、番兵が牢を去っていく。
「痛たたた……っ」
隣の牢に残された囚人の声は、聞き覚えの無い男だった。倭国料理店で会った、あの少女とは違う。
アレンは隣の牢に向かって問いかけた。
「大丈夫ですか?」
「……!」
ふと、隣の牢で息を呑むような気配が上がった。
まさか、こんな所で声をかけられるとは思わなかったらしい。戸惑っている様子が伝わって来た。
アレンはわずかに、語調だけを落とした。
「アリューゼさんに近しい方、とお見受けしますが?」
途端。隣の牢に入れられた男が、はっきりと息を呑んだ。
「き、君はっ……!?」
「彼の知り合いです。彼が自害したその場に、居合わせました」
「ロンベルト様と王女様を殺した、兄さんの仲間……ってこと?」
「……王、女?」
隣牢の囚人――ロイの質問に、アレンはハッと息を呑んだ。
もしや、あの魔物は――。
アレンは慎重に仮説を整理した。
「あのっ、彼女は元気ですか?白い帽子に、青いリボンをつけた、貴族風のご令嬢です」
事情は良く分からないが、アリューゼと少女が、アレンには親しい仲のように見えた。
血生臭い傭兵の男と、いかにも貴族風の少女。
組合せとしては、あまりにも脈絡のない二人に、一種、物珍しさを感じていたのだが。
「……ジェラード王女のこと?」
ロイが声を潜めた瞬間。
アレンの中で、仮説は真理として繋がった。
では――、
グール・パウダーとは。
「…………」
視線を下げ、アレンは息を呑んだ。
あの日出遭った、魔物のことを思い出す。
アリューゼの憔悴し切った顔を。
魔物を斬るなと訴えた、彼の悲痛な叫びを。
当然だ。
あれは――、あの悪魔は、王女だったのだから。
あの時、倭国料理店で仲良くアリューゼと話していた彼女が、あの姿に……。
(そして――、その犯人がロンベルト。そう言いたかったのか。貴方は)
自殺したアリューゼを思い出しながら、アレンは、ぐ、と奥歯を噛み締めた。
何もかもが後手。
それが、どうしようもない現実だと分かっていても。
「あの……?」
黙りこむアレンを不思議に思ってか、ロイが尋ねてきた。
思考を解いたアレンが、顔を上げる。
まだ、問題は残っている。
――未練は無ぇ。……もう、決着(ケリ)はつけたからな。
最期、アリューゼが死ぬ間際に、アレンにかけた言葉だ。
“死ぬな”と伝えた、自分に対するアリューゼの解答。その剣一本で、自らの復讐を遂げたアリューゼの顔を思い出しながら。
(貴方は良くても、まだ……終わってはいない、か)
アレンは苦笑気味に、力無い笑みを浮かべた。フッと息を吐く。
これがアレンに出来る、唯一の手向けだ。
誇り高い死を選んだ彼への。
結論付けると、アレンは蒼瞳を開いた。
「自分は、アレン・ガードという者です。貴方のお名前は?」
問いかけるアレンに、ロイの不思議そうに首を傾げながらも、答えた。
ロウファが地下牢に向かうと、そこに目的の人物はいなかった。
ロイが鉄柵越しに、暗い視線を向けてくる。ロウファは慌てて、番兵に詰め寄った。
「もう一人の囚人は、どうしたんです!?」
「……い、いくら尋問しても口を割らないので、先に処刑することに……」
「っ、っっ!!」
ロウファは番兵の胸倉を乱暴に手放すと、ロイに一瞥だけを送って地下牢を後にした。
(くそっ!あの人が殺されてしまったら、本当にアリューゼさんの潔白を証明する人がいなくなる!!)
走った。
アルトリアの代表的な処刑法は、ギロチンだ。牢獄から屋外に出ると、城壁を挟んでギロチン台がある。周りは木柵で、処刑の様子を見ることも可能だ。
アレンの容疑が、ただの不審者で無い事をロウファも分かっている。王族殺しの犯人として祀り上げられては、ロウファにはどうすることも出来ない。
(だから――!!)
それまでに、彼を捕らえねばならない。
祈るような気持ちで、ロウファは処刑場に続く道を走る。
あと一歩。
処刑場に続く、鉄扉を開ければ――。
そこで、
わぁあああ……っ!!
歓声が、ロウファの耳に届いた。
「、、、くそぉっ!!」
固く閉じられた鉄扉を、ロウファは力任せに殴った。
この扉を開ければ、もはや首なしの証人が、そこに――。
悔しさで、涙が滲んだ。
――その時、
「何としても、捕えろ!!」
「手の空いている者は、すべて奴の捕縛に向かえぇ!!!」
「……え?」
ロウファは瞬いた。
歓声、と思ったその声が、実は兵士によるものだった。処刑場から聞こえる声は、よくよく聞くと、城内からと分かる。
ロウファは目を剥いた。
「、、まさか……!」
考えるより先に、走り出した。
事情は分からない。だが、彼が死んでいないのであれば、まだ話を聞く事は出来る。
まだ、最悪の事態は防げる――。
そう信じて、ロウファは走った。
「はっ、はっ、はっ!!」
一歩を踏みしめる度、甲冑がカシャカシャと音を立てる。槍を手にし、彼は全力で走った。
今度は――、アリューゼの時のように遅れないように。
(頼む……!!)
間に合え、と祈るような気持ちで、招集されていく兵士の先を追った。
謁見の間に続く廊下に、転がるようにして駆けこむ。
と。
そこに、例の囚人がいた。
並み居る近衛騎士達に囲まれていながらも、堂々と立つ囚人が。
「くそっ!何て強さだ!!!!」
忌々しげに舌打った近衛騎士は、自分の折れた剣を見下ろした。
相手は一人。
先ほど、城の廊下を堂々と歩いているアレンが目撃され、捕らえようとしたのだが、この男の強さに負けて、捕縛できずにいる。
囚人の背には、物干し竿のように長い、二メートル強の筒があった。だが、実際に近衛騎士の剣を折ったのは、男の貫手。
彼は、素手だった。
「もう一度、言う」
静かに、厳かに。
アレンは兵士達を睨み据えた。思わず、兵士達が背筋を伸ばす。
「城主に会わせろ。言うべき事がある」
「解せぬ事を。お前は処刑されるべき囚人。口を慎むが良い!!」
凛と声が響き、ロウファはハッと目を剥いた。振り返る。すると、自分の肩を叩く、父とすれ違った。
近衛騎士団長、ロウファの父だ。
白銀の鎧を纏った近衛騎士団長を前に、アレンは目を細めた。
「……王の側近か」
騎士団長の立ち振る舞いもさることながら、アレンの目に留まったのは、己の偉業を誇るような、騎士団長の胸の勲章だった。その数が、作りが、普通のものよりも華美である。
精彩の無い城下の民からは想像もつかないほどに。
アルトリアをよく理解していないアレンにも、今の国内情勢がすぐに分かった。
何と、虚勢に満ちた国なのか。
勲章など、称号など。
町行く人の笑顔に比べれば、何の価値も無いと言うのに。
(曇っている)
疲れた顔をした町の人々を思い出して、アレンは、すぅ、と騎士団長を睨んだ。
凍てつくような、同時に、激しく燃え盛るような、怒りの瞳で。
「これを見ても、同じ事を吐くつもりか」
アレンは声を押し殺した。感情は乗せない、抑揚の無い口調で。
内ポケットから取り出したのは、脱獄後、ロンベルトの部屋で見つけた報告書だ。
それをアレンは騎士団長にもはっきりと見えるよう、掲げた。
ヴィルノア宛の、ロンベルト直筆の報告書を。
「……それは!」
ロウファが息を呑む。さしもの騎士団長も顔色を変えた。
ロンベルトの筆跡で書かれたその報告書には、アルトリアの内政は勿論、次の出兵予定、数、傭兵を招き入れる準備期間、――そして。金で雇い入れた兵で国内を固めて、最後的にはアルトリアの防衛力を、まったくの無にするという謀略。
すべてが詳細に、明瞭に書かれていた。
「ロンベルトが……、ヴィルノアのスパイだと?」
我が目を疑う騎士団長に、アレンは無言のまま、頷いた。
「ロンベルト様が……」
茫然と、ロウファもつぶやく。
今は亡き宰相と、あまり話した事がないが、そういった謀略をするような男には見えなかった。少なくとも、ジェラード王女の教育係として立っていた彼は。
騎士団長はしばらく黙っていたが、すぐに表情を元に戻した。
「それで。……これを見せたことで、己の罪が払拭できると言うつもりか?その証拠は、提示していないと言うのに」
「父さん!!」
「黙っていろロウファ!!」
「…………っ!」
ロウファに引き下がる気は無かった。今回の、このことだけは。
だが、ロウファが決起して口を開く前に、視線で、アレンに止められた。
そして――、
アレンは騎士団長を見、苦笑した。
騎士団長を前に、思い出したのだ。
自害する直前のアリューゼにかけた、騎士団長の言葉を。
――アリューゼ。私にも剣を向けるのか?
その時の、この男の顔を。
彼は、アリューゼが剣を向けないと知っていた。
その上で――
アレンは固く、拳を握りしめた。
「そうやって、アンタはスパイに激怒した誇り高い戦士の死を不意にし、その弟まで罪人だと、
国の決定だからと殺すつもりか!!?
……俺の言葉を信じないのは構わない!!
だが。
ならば何故、調査の手掛かりを不意にした!!!
何故その手で真相を調べなかった!!!
何故、自分と親しい人間の死を、その意を汲んでやらなかった!!!!!」
びりぃ……っ、、、
アレンの恫喝で、場の空気が一気に緊張する。金縛りにでもあったように、皆、息を呑んで動きを止めた。
激しい怒り。
今にも処刑される身の、ただの極悪犯の男に浮かんだ怒りが、蒼の瞳が、兵達の胸の奥にある何かを、激しく揺さぶる。
“忠義”という名の。
「父さんに、捜査願を……?」
静寂に満ちた廊下で、ロウファはぽつりとつぶやいた。力無く、茫然自失したような声で。
「……ああ」
そのロウファに、アレンは静かに頷いた。
途端。
ロウファの瞳が、感情を帯び始める。どれだけ嘆願しても、たとえ証拠が見つからなくとも。
ロイは釈放すべきだとロウファが進言した時の、父の顔を思い出しながら。
「……何故、僕に黙っていたんですか。父さん……!!」
アレンが示したという、アリューゼの死の真相の情報を。
調べる事も許さなかったというのか。
尋ねる息子を前に、父の返事は素っ気無いものだった。
「お前には、知る必要が無い」
能面のように無表情な父を見据えて、ロウファの顔色が怒りに染まった。
ドンッッッ!!!!
くぐもった鈍い音が、城の廊下に響く。
ロウファは目を剥いた。かっと頭に上がった血が、一瞬、冷えた気さえした。
「、、ぐ、ぅっ!!!!」
たたらを踏んで――それでも堪え切れず、父の体が廊下に崩れた。左頬に内出血。父の唇から、一筋、血が流れた。
「、っ!!」
見上げる父の顔色が、怒りを帯びる。それを見下ろして、騎士団長の左頬を容赦なく殴り倒したアレンは、静かに問うた。
「殴られると、腹が立つか?」
淡々と、無表情に。
囚人の身でありながら、自分を見下ろす男。
騎士団長の唇は痛みで強張り、くぐもった呻き声を上げるだけだ。
反論すらして来ない。
蒼の瞳がゆらりと揺れた。
「……アンタの怒りは、その程度のものか!!!!!!」
ぐい、と右腕一本で騎士団長の襟首を掴み、乱暴に立たせる。怒りに満ちた瞳で、騎士団長を睨みつけたが、騎士団長はアレンと視線すら交わそうとはしなかった。
――曇っていた。
どうしようも無いほど。
当然だろ。民間人の死は悲惨だが、軍人の死は立派。そんなもんだ。
昔、同僚が言っていた言葉を――唯一、自分と考えのまったく違う同僚(なかま)と、アレンが共通した考えを――軍人の、戦士の“死”を。
この騎士団長は、ただの犬死に貶めたのだ。
戦場で散るのは“立派”。
そうやって、“立派”に死ぬのが軍人の務めだと、己に言い聞かせて戦場に立つ男達。
だがそれは、同じ信念を持った仲間が後ろにいるからこそ、勇んで向かえるのだ。それを、この騎士団長は共に戦うどころか、後ろから突き放した。
軍人として、最もやってはならないこと。軍人の誇りを、泥で汚すような行為を平気で。
アレンには、それがどうしても許せなかった。頬を打たれた痛みなど、戦友を亡くした痛みに比べれば、取るに足らない。
「…………!!!!」
ぎり、と奥歯を噛み締めて、アレンは騎士団長を無造作に跳ね除けた。どさ、と重い尻餅をついて騎士団長が倒れる。が。アレンももう、見向きもしない。
こつこつと響き渡る靴音を耳にしながら、兵士達は呆然とアレンの背を見送った。その中に、彼を追いかけるだけの気概のある者はいなかった。
抜けていた。
欠けていた。
腐っていた――。
軍人としての誇りも、信念も。
どうしようもない数の人間が、救いようも無いほど根の部分で。
――お前に話したところで、もうどうにもならねぇよ。
ロンベルトを手にかけた後、アリューゼが言っていた意味が、今のアレンにははっきりと理解できる。
それでも、
――恩師に、刃は向けられぬと。
信義を貫き通した彼の強い心を。
アレンは目を閉じ、己の怒りを静めるように、ふ、と息を吐いて、歩き出す。
謁見の間は、もう目の前にあった。小国アルトリアに、あまりにも不釣合いに作った華美な虚栄の扉。その扉に手をかけて、アレンは静かに拳を握った。
自分の行為は無駄になるかもしれない。
曇った騎士団長の目を、死んだアリューゼの目を思い出して、アレンは思う。
だが生きていく限り、立ち向かわねばならない。どんなに不合理なことでも、己の本懐を遂げる為には、背を向け、逃げてはならない。それが、父から唯一学んだ家名(ガード)の誇りだ。
豪奢な内装の、空虚な部屋を睨み据えて、アレンは一歩、踏み出した。
「……!」
その背を見据えて、ロウファは目を瞠った。
何故か、この青年がアリューゼと被って見えたのだ。
――己のみを信じて生きる、強靭な精神力が。
ロウファは拳を握りしめると、きっ、と顔を上げた。
「僕も付き合います」
「っ!ロウファ!!?」
父の叱責に近い声がかかる。だがロウファは、父に構わなかった。
「……いいのか?」
騎士団長を視界の端に、アレンがロウファを見る。
ロウファは謁見の間へと続く扉を見据えて、言った。
「僕も、アリューゼさんの真意を知りたいと願っている者の一人ですから」
「そうか」
つぶやいたアレンは、ゆっくりと扉を開けた。
………………
…………
「ま、真を申しておるのか!!!?」
度肝を抜かれたような顔で、アルトリア国王は渡された紙とアレンを交互に見比べた。
アレンに渡されたのは、三枚の報告書。
ロンベルトが最期に書いた、ヴィルノアへの報告書だ。アルトリアの重鎮だった彼の文字を、国王は一番よく知っていた。
それを手渡して、アレンはもう一つ。報告書と共に、ロンベルトの部屋から持ってきたグール・パウダーの原料を取り出した。
「その報告書とは別に、この瓶がロンベルトの机の小箱に入っていました。
自分が話した現場に行けば、これと同じ物が見つかる筈です。王女を凄惨な死に追いやった、この瓶と同じ物が」
そう言って、アレンはロウファを見た。
うっ、とロウファが息を呑む。王女捜索隊の部隊長が手にしていた小瓶と、まったく同じ型の小瓶を目にして。
「それじゃあ、ジェラード王女を殺したのは……!!」
息を呑むロウファ。しかし、国王は状況を理解できないでいるのか、死んだ魚のような目をアレンに向けて、首をかしげた。
「その小瓶が、何だと申すのだ?」
「グール・パウダーです」
「グール・パウダー?」
更に首を傾げる国王に、本来ならばグール・パウダーの説明など必要ない。
何故なら、玉座の傍らに、豪奢な杖があるからだ。魔導師の端くれならば一度くらいは聞いたことのあるグール・パウダーの名前。
――ネクロマンサーの研究過程で生まれる副産物という常識を、しかし、王は知らなかった。
知識の象徴である杖を、玉座の隣に置いていながら。
だが、そんな常識など知らないアレンは、起こった出来事から、言うべき事を伝えた。
父親に見せるには――あまりにも無残な、娘の遺骸を思い出しながら。
「人間を魔物に変える薬です。アリューゼは、魔物に変わってしまった王女を救おうとした。だがそれも適わず、ロンベルトの策略を知って、先日の暴挙に出たのです」
「そん、な……!!」
あまりの真実に、ロウファは言葉を失った。
それでは、あんまりだった。
――そうやって、スパイに激怒した誇り高い戦士の死を不意にし、その弟まで罪人だと、国の決定だからと殺すつもりか!!
先ほどのアレンの言葉に、今更ながらにぶるりと背筋が凍った。
彼がいなければ、アリューゼは、ロイはどうなっていたことか。
「な、なな、なんじゃと!?ならば何故、その理由を余に話さなんだのだ?」
震える唇で、本当に不思議そうに目を丸くする国王。
アレンは、じ、と蒼の瞳で見据えた。
「耳を、澄まされましたか?」
「……なに?」
「貴方は国を治める方だ。高貴な身分と引き換えに、果て無く重い責務を負った方だ。
貴方はその責任を果たすために、多くの声を聞き、多くの家臣と、城下の民と言葉を交わされましたか?」
澄んだ蒼の瞳に浮かんでいたのは、最早怒りの色ではなかった。
――深い、哀しみ。
王族という血筋に生まれたが為に枷を受け、誤りを正す家臣も無かった王を憐れんでいるのか、
それともこの王によって命を落とした、多くの兵を悼んでいるのか。
王は、死んだ魚のような目を見開いて、ごくり、と固唾を飲み込んだ。
目の前の青年は、語調は穏やかだが、あの男を思い出させる。
ははは……哀しいな、王よ。
そう高貴な自分を嘲った、傭兵風情を。
――俺はこんな茶番に付き合うほど暇じゃあない!!
あの、傭兵風情と――。
「……ぅ……っ、」
同じように、己の間違いを真っ向から正されて、国王は手で顔を覆った。
否。
侮辱からの回避方法を、彼は知っている。
国王は掌の下で憤怒の表情を作ると、指の隙間からアレンを見据えて――、ぎ、と奥歯を噛み締めた。
「無礼者が!!!!」
恫喝、というより、ヒステリックな怒声でアレンを諫めると、目の前の青年は微かに目を細めた。その彼に、国王は、びっ、と人差し指を突きつける。
「ロンベルトがスパイじゃと!?ジェラードが化け物に変えられたじゃと!!!?あの傭兵風情が、娘の為に命を投げ出したじゃと!!!?」
顔を真っ赤にして怒鳴り始めると、アレンを指差す指にも、力が籠もった。
不審人物として捕らえた男の虚言と、そう思ってしまえば何のことは無い。
「貴様、一体何様じゃ!?なんの根拠があって――」
「陛下!!」
国王を止めようとして、それをアレンに制された。しかし、ロウファの方も、アリューゼに冤罪の汚名を被せたままにしておく訳にはいかない。
睨みつけるようにアレンを振り返ると、アレンは小さく首を横に振った。
ここは任せろと。
彼の瞳が言っている。
「…………」
ロウファは不服ながらも、とりあえず黙した。
アレンは言う。
「ロンベルトがスパイという証拠は、今陛下が手にされている書類を見れば明らかです」
「黙れ無礼者が!!どうせ、これは貴様の作った紛い物じゃろうが!!!!」
怒鳴りつけると、アレンは小さく、自嘲気味に笑った。
「……なるほど」
筆跡鑑定をすればすぐに分かる事だが、どうやらそれも聞く耳は持たないらしい。
そして、騎士団に証拠を探させようにも、あの騎士達では――。
アレンはちらりとロウファを見やると、言った。
「馬を借してくれ。この人には、見せるべきものがある」
「見せるべきもの……?」
急に話題を振られて、ロウファが首を傾げる。が、それも一瞬のことだ。
ロウファは、ぐ、と表情を引き締めると、小さく頷いた。
アレンに連れてこられたその場所は、ロウファ達が調査に来たレーテ街道だった。
馬が思わず足を止める、異臭に満ちた、あまりにも醜い場所。
そこに、無残に朽ち果てた騎士団の遺体が横たわっていた。
あまりにも禍々しい光景に、国王は口を両手で覆った。
「き、きき、貴様貴様っ!!……よ、よよ、よくも余を、こんな所に連れてきて……!!!!」
「件のグール・パウダーを所持している遺体は、こちらです」
喚く王には取り入らず、アレンは無残に朽ち果てた騎士団の――捜索部隊の小隊長を務めていた男の遺体に歩み寄った。ロウファ達も見たものだ。
「確かに、彼が小瓶を握っていました。陛下」
ロウファが言うと、国王は顔をしかめながらも頷いた。
アレンが問う。
「彼が握っていた小瓶の底に、粉が付着していなかったか?」
「緑色の粉のことでしょう?しかし、あれは仲間にも確認してもらいましたが、グールパウダーと断定することは……」
あまりにも極微量の付着物に、ロウファが困惑する。
アレンは微笑った。
「なら、グールの死体があれば納得出来るな」
「……グールの死体、だと?」
後ろを振り返って国王が問うと、アレンは小さく頷いた。
「あれです」
一瞬、憂いの色を浮かべたアレンは、す、と崩れた荷馬車を指差した。
無残に飛び散った、ジェラードの物と思われる衣服の残骸を。
これには、ロウファよりも国王の方が反応を示した。
「う、ううう、嘘じゃ!!!!」
か、と目を見開き、国王は首を横に振る。異形の死体は無かった。それでも、異形の血がついた馬車はひしゃげ、ボロ切れと化したジェラードの服には見覚えがある。
馬車の周りについた、おびただしい不死者の血が。
「こんなものが……!」
カシェル達と来た時は気付かなかった。
思わずロウファがつぶやくと、国王は場所を指差して怒鳴った。
「き、きき、貴様貴様っ!!これ、こここ、これっ、これが!!?これが……、ジェラード……じゃと?」
甚だしい無礼だ。とてつもない、侮辱だった。
怒りで目の前が暗くなりそうだ。
だがそれと同時に、国王の視界に入ってくるのは、変わり果ててはいるが、見知った騎士団の顔ぶれ。
どれも、自分が王女捜索のために差し向けた騎兵達だった。
「これが……ジェラード……じゃと?」
もう一度、つぶやく。
人間を、魔物に変える薬。
魔物――。
この男はそう言った。
だが。
だが――、
「ジェ、ラ……ド……じゃと?」
面影など微塵も無い。愛らしく整った娘の顔も、聞かん気の強そうな瞳も、美しく伸びた、あの金色の髪も。
どれも、この禍々しい馬車の痕からは見られなかった。
「……嘘じゃ、嘘じゃ嘘じゃ嘘じゃ!!!!!」
娘が、こんな身で死んだなど!
ロンベルトが、ヴィルノアのスパイだなど!
こんな男の言うことが、すべて現実にあるなど!
国王は首を振って、全てを否定した。
血の上った頭でアレンを睨み据える。こんな気味の悪い場所まで連れてきて、凝った芝居で自分をたぶらかそうとした、この男を――
(余を……!)
そのとき、国王は目を剥いた。
後ろにいたアレンが、深く、目を閉じていたのだ。
騎士の死を、王女の死を悼むように。
彼は、そ、と蒼の瞳を閉じ、冥福を祈るように右手を握って立っていた。彼を虚言者とのたまうには、その光景は厳粛で、清廉で。
そしてあまりにも――残酷だった。
「………………ぅっ、」
国王の頬に、涙が伝った。
嘘であって欲しかった。
すべて虚言で、すべてが悪い夢であって欲しかった。
「うぅ……っ、っっ!!」
娘の遺体――とも言えない、馬車の残骸を見据えると、王は力なく膝をついて、例えようのない絶望に涙した。
どうして――。
(ジェラードを……、娘をこんな卑しい姿にするぐらいなら、どうして余を殺さなんだのじゃ……!)
本当は、分かっていた。証拠と差し出された書類を目にした時から。
あまりにもロンベルトが推し進めていた政策に沿った報告書の内容と、ロンベルトの癖字を、誰よりも国王は理解していたのだ。
見間違える筈も無い。
だが。
信じた家臣が、スパイだった。
卑しい傭兵が、娘の仇を討った恩人だった。
娘の無念を晴らすため、その身を犠牲に、汚名まで被ってロンベルトを討った――、
それは、王にとって信じたくない現実だ。
「ふぅ……ぅぅ……、、っっ!!!!」
首を横に振る。手で耳を塞いで、嫌々する子供のように、蹲って首を振った。
一番大切なものを奪われた。
昨日、傭兵に娘が殺されたと聞かされた時よりも、ずっと。
惨めな現実が――真実が、弱い王の心には、受け止めようも無くのしかかる。立つ気力さえ、湧いてこないほどに。
「これ、が……」
骸さえも残っていない娘のボロ切れと、騎士団の遺体を見据えて、ロウファがつぶやく。
生前の王女を、当然騎士であるロウファも知っている。
あの可憐な少女が――今は、こんな姿で。
(この人が脱獄しなければ、こんな場所(トコロ)で、野晒しとなっていたのか……)
こんな、寂しい場所で。
そう思うと、ぶるっ、と身体が震えた。
今なら分かる。
アリューゼがこんなものを目にして、黙っている筈が無いと。だからこそ、アリューゼなのだと。
父の本性を知って絶望した今、アリューゼの、あまりにも真っ直ぐな信念がロウファの胸を叩いた。
(アリューゼさん……)
涙が、込み上げてくるような気さえした。
アリューゼが、自分の思い描いた通りの人物であった事に改めて安堵して、それと同時に、それを失ったどうしようもない悲しみに、ロウファは喉の奥にある熱いものを飲み込んだ。
「……弔ってあげましょう。我々に出来る事は、もうそれしかない」
静かにつぶやくアレンに、失意の王は首を横に振った。
「何故、じゃ……!何故、……こんなことに……!!!!」
深く目を瞑る。他の言葉を聞かないように、王は喚く。
涙が、体中の力という力を、洗い流すように落ちていく。
(……もう、立てぬ……!)
だらしなく嗚咽を吐いて、王は無念に膝を折るしかない。
もう何も、したくなかった。
「……それに関する答えは、もう知っておいででしょう?本当は、ずっと前から」
上から降るアレンの言葉が、深く、抉るように胸に刺さる。
何故――。
アレンの言う通り、国王は知っていた。
何故、こんなことが起きたのか。何故、これを未然に防げなかったのか。そして何故、自分はそれを理解しようとしないのか。
「よ、……余……、……余、が、……悪い……のか……っっ!!!!」
蹲(うずくま)る自分が、我ながら惨めだった。
違う!父上は何も悪くなど、無いのじゃ!!!!
そう言って励ましてくれていた娘は――もう、この世にいない。
「余、が……!」
暗君だと、罵るばかりで具体的にどうすれば良いかなど、誰も教えてはくれなかった。
民の声――。
民の声とは一体、何だというのだ。
暗君と、罵る臣下と一体何を話せというのだ。
「余は……、余は、」
「……失礼を」
項垂れた国王の頭上から、アレンの声が届いた。
白くなった頭の中で王は首を傾げるが、体は反応しない。
と。
ぐ、と王の襟首が掴まれ、片腕で、アレンに体を持ち上げられた。
「!?」
目を白黒させる。何事か、王が事態を把握するよりも先に――
「いつまで、寝惚けている!!!!」
街道の脇に広がる草原に、恫喝が響き渡るようだった。
びくり、と硬直していた王の体が動き出す。顔を上げると、王の、死んだ魚のような瞳を刺し貫くように、蒼の瞳がこちらを睨み据えていた。
「アンタは娘の死を前に、それでも自分の愚かさから背を向け、逃げるつもりか!!?
――立ち向かえ!!
歯を食いばれ!!
泥水を飲み、辛酸を舐める覚悟で乗り越えろ!!!」
ロウファは目を見開く。あまりに突拍子の無いアレンの行動に、一瞬、目を疑った。
王の目が見開かれる。本当に、今、目が覚めたかのように。
「……ぁ……、」
つぶやく国王を見据え、アレンはゆっくりと、国王の襟首から手を離した。
国王の持ち上げられていた体が、支えを失って崩れ落ちる。腰から尻餅をつくように座り込んだ。ぺたり、と地面に手をついて、国王は力の無い瞳をアレンに向ける。
どれほど脱力しようとも、蒼穹の瞳から、目を背けられなかったのだ。
蒼の双眸を前に、拒否権は無い。
一切の、甘えを許さない戦士の瞳だった。
「……ぁぁ……」
痛感させられてしまう。
国王の苦悩が、この男の前ではちっぽけな言い訳に過ぎないと。
見下ろすアレンが、じ、とこちらを見据えている。澄んだ、蒼の瞳が。
「……このまま、ヴィルノアの好きにさせるのか?」
「っ、っっ!」
静かに問われて、国王は、ぐっと歯の根を食いしばった。
――娘を、こんな姿にした大国(ヴィルノア)を。
許しておけるはずが無い。だが、現実はヴィルノアに立ち向かえるほど、アルトリアは強くない。
大国に比肩するには、この国はあまりに非力だった。
「……っ、っっ!」
悔しさで、目が霞む。本当なら、ロンベルトの報告書を見た時点で決断しなければならなかった外交問題。
見てみぬフリをするべきか、否か。
ジェラードの事が無ければ、考えるまでも無かった弱腰外交。
だが、
だがそれでは――。
「くち、おしい……!口、惜しい……っ!!」
何も言えない自分が、何も出来ない自分が。今も、昔も――そして、将来も。
国王は拳を握り、歯の根から零れる嗚咽と、伝う涙に必死で堪えた。
どうしようもない屈辱だ。騎士団の弱体化という現実を知っているわけではない。だが、知らなくとも分かる。
ヴィルノアに勝てるはずが無いと。
それほど、ヴィルノアは世界的脅威だった。
「屈するのか?そうやって」
静かに降ってくる声に、国王は怒りの瞳をアレンに向ける。死んだ魚の目ではない、愛娘を殺された、父親の怒りの目だ。
しかし、それを見下ろすアレンは冷たく、容赦が無かった。
「貴方が招いた結果だ。玉座にふんぞり返ったまま、民に耳を傾けなかった貴方の責任」
「黙れ!無礼者が!!」
くつくつと沸く怒りが、アレンの瞳をも睨み返した。だが、それも長くは続かない。次の言葉が、国王の胸に突き刺さったからだ。
「何故貴方はそうやって、身分ばかり気にする?貴族も平民も、貴方の前では同じ、アルトリア国民だというのに」
「っ……!!」
弾かれたように顔を上げ、国王は眉根を寄せた。
「アルトリア国民……じゃと?」
脳裏を過ぎったのは、あの、異例の表彰式だった。
蛮族退治で活躍した傭兵の男を、表彰したあの時のこと。
――傭兵風情が……。貴様も蛮族と変わらぬクセに。
あのときの胸中での毒づきを、まるで知っているかのように。
「き、さま……」
ふるふると、握る拳に力が入った。以ての外だ。何を隠そう、あのような傭兵風情と、貴族と平民を、等価に見るなど――
「出来ないことじゃない。貴方が指導者として力を発揮していたなら、貴族の献金に目を晦ませなければ」
「っ、っっ!!!!」
氷塊を背に押し付けられたような気分だった。何故かは分からない。
臣下が個人的に王族に贈り物をする事など当然だ。だが目の前の男は、それを許さないように、冷えた目をしていた。
「貴方が、国政から目を逸らさなければ」
つぶやかれた言葉とともにアレンは一歩、前に踏み出した。それと同時に、国王は地面を這って後ろに下がる。
ひっ、と緊張した喉が声を洩らした。
壮絶な緊張感。頭に上っていた血が、残らず冷えていくのが分かった。
「都合の悪い時だけ、臆するのか?」
「っ!」
我に返って、国王はアレンを睨み上げる。目の前の青年はどこまでも冷たく、静かな表情だった。
「そして自分を守るために、怒ったフリをする」
アレンは国王の前で膝を折った。目線が同じ高さになる。なのに、見開いた国王の目には、同じ高さの視線が、遥か高みにあるような気がした。自分とは、まったく違う次元の高みに。
「ぅ……、」
唾を飲み込んで、国王は覚悟を決めたようにアレンを見る。緊張で顔が引き攣った。だが、その緊張が恐怖からのものではないことに、国王はまだ気付かない。
「それでは何も変わらない。――変われないんだ」
アレンの瞳が、和らいだ。
国王を孕んでいた緊張が消える。肩の荷が、す、と下りたような錯覚さえした。
しかしそれでも、哀しい瞳だった。目の前の青年の瞳は。
国王は息を呑む。いくらか緊張が解けた分、王には余裕が出来たが、先程までのように青年を罵倒する気になれなかった。
ただ、
変われないと。
青年の言葉が、ずしりと胸に沈み込んだ。ヴィルノアに屈するしかない。その現実は変えようがないと――そう思うと、国王の拳が震えた。
(不思議な、男じゃ……)
アレンを見上げて、国王は思う。相当無礼を働かれたというのに、国王の心は――視界は、妙にすっきりと晴れていた。
(この男は、……余に、勇気をくれる……)
今は亡くした、娘のように。
精彩のない家臣達とは違う、アレンの意志を持つ光に、王の心は強く揺れていた。
「余に……、余に、立ち直れと申すのか……?」
死んだ魚の瞳が、希望の光を見つけて、強くアレンを見返す。先程の怒りの目ではない。
今はまだ小さな、小さな光を眼に宿して、すぅ、とアレンを見る。
その国王の変化に、アレンは嬉しそうに微笑った。
「自分の弱さを知った人間は必ず強くなれる。今の貴方のように、意志の光を宿せたなら」
「……余が、つよ……く?」
初めて耳にした言葉に、国王は目を丸くした。あまりにも縁遠い言葉過ぎて、一瞬、言葉の意味を理解出来なかったほどに。
頷くアレンの姿が、鮮やかに、王の目に焼きついた。
「人は過ち、迷い、見失うものです。自分の事も理解出来ないのに、相手の事も理解しなくてはならない。
……貴方の過ちは悲しい因果を生んだ。
だが、貴方が歯を食いしばり、その過ちに正面から立ち向かったなら。
王女の死は、ただの死ではなく、貴方にとって最も重要な、意味のある死になる。
――少なくとも、俺はそう考えています」
「……余は、お前を投獄し、処刑までしようとしたのじゃぞ?……なのにそれを、赦すと言うのか?」
どうして、この男は保身を考えない。
どうして、この男は最初から国王を奮い立たせる為に、ここまでするのか。
自分が殺されるかもしれない、そんな状況だというのに。
(……何故、余を恨まないのじゃ……)
ここまで賢明な、近衛騎士団でさえ明かせなかった真実を、解き明かすほどの男だというのに。
アレンは国王を振り返ると、首を横に振った。
「いいえ。俺が貴方を赦す時は――この国に、笑顔が戻った時だ」
「国の笑顔……それが、民の笑顔、と?」
神妙な顔で、しかし、本当の意味で“民の声”を理解していない王は、自信がなさそうに声を落とした。
すると、この不思議な青年は、冗談事のように言った。
「よろしければ手伝いましょうか?城下がどんな町なのか。その目で確かめてください」
王の無知を、少しも責めずに。何故なら王の目覚めは、今この時だと理解しているから。
意志の光を帯びた、王の瞳を見据えて、アレンは小さく微笑った。
××××
「絶対、右だ!!!!」
「いんや、絶対左だ!!!!」
アルトリア山岳に続く街道のど真ん中で。
二人の少年がいがみ合っていた。
一人はタヌキの耳としっぽを持つ、100cmにも満たない小柄な少年。
もう一人は、黒猫の耳としっぽを持つ、100cmよりは身長の高い――小柄な少年。
二人の少年はきりきりと奥歯を噛み、互いを睨む。
最早、どちらの道が合っているかなど関係なかった。
(右だ!絶対、右に行ってやる……!)
(左!つったら、左だぜぃ!!!!)
迫力の無い、しかし、やる気だけは伝わってくる睨み合いを繰り広げながら、二人は、むむむ、と眉根を寄せる。
どこかに消えていったアレンを探して、町中に下りたのはいいが、目撃証言が町の外にまで及んだため、こうやって街道まで出張ってきたのだ。
町の外に出て、クレルモンフェランとヴィルノア、どちらに向かったかも分からないので、とりあえず道を東に進んだ。
クレルモンフェランがある、東に。
この時点で、アレンと出会える可能性が無くなっている事に、二人が気付くことはない。
大小の山々が連なるアルトリア山脈を背景に、クレルモンフェランとルクセンブルグに向かう更なる分かれ道を前に。
二人は、先程の不毛な言い争いを続けるのだ。
が。
しばらくして――、
「つぅか、おかしいじゃんか!!さっきから二時間も歩いてんのに、ちっともアレン兄ちゃんに会わないぜ!?」
鬱蒼とした山合を歩いていくと、次第に、街道から外れてしまった。
あまりに不毛な言い争いを続けて、よく前を見ていなかった所為もある。
「う、ぅぅ、うっせうっせ!!!最初に町の外に出たとき、東に行けっつったのは、お前だろが!!」
昼間だというのに、少年達の周りは鬱蒼とした木々で暗くなっていた。
少しは身長が高めのカーキ色のバンダナを巻いた少年――ルシオが、視線を左右に振りながら不安の色を浮かべる。が、それをタヌキ耳の少年には気取られまいと、敢えて大声を張り上げる。
対するロジャーは、そんなルシオの心境など気付かない様子だ。
「棒切れ持ってきて倒れた方にしたのは、お前じゃんか!!」
「う、うっせ!!」
「んだとぉ!」
ぷんぷんと、頭から蒸気を出さん勢いでロジャーが地団駄を踏んでいる。
それを視界の端で見ながら、ルシオはふと、一層不安そうな色を顔に浮かべた。
「……お、おい。バカダヌキ」
声をひそめて、ルシオは茂みに身を隠す。
「んだよ?アホネコ?」
ルシオの警戒に対し、ロジャーは無頓着だ。
不用意に声を暗い森に響かせるロジャーの口を、ルシオは、ひっ、と喉を鳴らしながら、手で押さえた。
(バッキャロ!……アレ見ろ)
もごもごとルシオの手の中で暴れるロジャーを制して、ルシオは茂みの中から、そ、とそれを指さした。
石造りの建物だ。
年季がかなり入っていて、相当昔の物と思われる。
アルトリア山岳遺跡と呼ばれる場所だった。
ルシオの手を払い除けたロジャーが、嬉しそうに目を光らせる。
(おぉ!でかしたぜ、アホネコ!まさに兄ちゃんが首を突っ込みそうな遺跡じゃんか♪)
口笛でも吹かんばかりの勢いで、ロジャーは背中に差した手斧を握るなり、さくさくと茂みから出て行く。
「お、おい!」
その彼を引きとめようとルシオが手を伸ばすと――振り返ったロジャーが、に、と口の端をつり上げた。
「よっし、今はとにかく冒険を楽しむぞ♪アホネコっ♪」
ぴょん、と一つ高く飛んで、ロジャーは遺跡の中に入っていく。その後に、慌ててルシオも続いた。
「ま、待てコラ!抜け駆けは許さねぇぞ!」
迷走、続く――。
………………
「マジかよ……」
陰惨とした馬車のあるレーテ街道の空に、既に肉体を無くした二つの魂が、地上を見下ろすように浮かんでいた。
一人は長身巨躯の、生前は最強の傭兵として名を馳せていた男。
もう一人は、豪奢なピンク色のドレスに、美しく波打った金髪が印象的な、人形のように顔の整った姫。
生前、ジェラードと呼ばれていた少女だった。
「まったくじゃ!」
彼女は可憐な顔を真っ赤に染めて、父の傍らに立った男を噛み付かんばかりに睨み据えた。
「父上をあのように罵倒するとは、何たる無礼!!!万死に値するぞ!!!!」
手に握った杖を、叩き折らんばかりの勢いで、アレンに向かって罵倒する。
と、
少女の傍らで同じく成り行きを見守っていたアリューゼが、顔をしかめて首を横に振った。
「逆だ、ジェラード。奴はお前の父親の、あの死んだ目を醒ましやがったんだ。
……昏君としか言いようの無かった、あの不甲斐無い王をな」
「な、なな何じゃと、アリューゼ!!!!
父上に対する一度ならぬ二度の暴言!!
最早我慢ならぬ、妾が直に引導を〜〜!!!!!」
杖を振りかぶって、高々と詠唱を始めるジェラードを、アリューゼは片手でむんずと掴んで押し止めた。
やはり信じられない、と驚愕した目を、アレンに向ける。
「……大した野郎だ」
もしかしたらこの男は、弟のロイを助ける事やアリューゼ達の無念を晴らすだけでなく、アルトリアそのものを変えるのかもしれない――。
そんな突拍子も無いことを、感じさせる男だった。
「早まるんじゃなかったぜ……!」
ぐ、と拳を握り、口惜しげにふるふると首を振る。
せめて、奴と一戦交えるまで。それまで生きていた方が――
「もがぁ〜!もが、もがぁ〜!!!!」
押さえ込んだ王女が、暴れつつも何か叫んでいる。
その王女に視線を落として、アリューゼは冗談混じりに考えた思考を、笑って掃き捨てた。
「……ん?どうかしたのか、ヴァルキリー」
本当なら、来たくも無かったジェラードの遺体の残る地に、有無を言わせず連れてきた戦乙女を仰ぎ見る。
何故か驚いたように、アレンを見る彼女を――
(馬鹿な……。至宝(ドラゴンオーブ)を無くした人間界(ミッドガルド)の混乱を……治さめるというのか、人間が)
アリューゼの言う通り、国王の心情の変化は、レナスにも感じていた。
国王の、顔つきが変わったのだ。
暗君と。
そう称されていた男とは思えないほど、何かが変わっていた。
――――そして、
一カ月後。
王都アルトリアを一望できる丘の上に、ロウファとアレンは居た。
ここはロウファにとって、かつてアリューゼと訓練後に訪れた思い出の場所だ。
アリューゼは丘の上に群生する草を一房掴んで、さっと風になびかせた。
――お前は風に吹かれっぱなしの草か?
騎士団長の息子として、周囲の羨望、嫉妬、期待、失望……。
いろいろな感情を含んだ視線にさらされていたロウファは、あの頃伸び悩んでいた。
何度練習しても槍の腕が上がらず、何の為に槍を持っているのか。
それすらも分からず、ただ日々を生きて、時間に身を委ねていた頃。
アリューゼがふと、この丘に呼び出して、言ったのだ。
ロウファを、草と。
「………………」
今でも目を閉じれば、アリューゼがくれた言葉の一つ一つが、ロウファの脳裡に蘇ってくる。
丘に吹き上げる風を感じて、ロウファは目を細め、アリューゼよりも一回り小さい、自分と同い年くらいの青年を見据えた。
「ありがとうございます、アレンさん。貴方の御蔭でアリューゼさんの濡れ衣はおろか、アルトリアも少しずつ、良くなっている気がします」
丘から王都を眺めていたアレンは、ロウファの声でこちらを振り返った。
ロウファより淡い金髪が、風になびく。アレンの髪は色彩の淡さを物語るように、陽に当たると白く透けた。
ロウファほど繊細な面立ちではないが、それでもロウファと変わらない体格の彼が所持している“剛刀”にはいささか違和感がある。
獲物の大きさは同じでも、ロウファのように“槍”ではなく、彼が持っているのは“剣”なのだから。
白い革袋から解放された“兼定”は、刃渡り二メートル、柄と合わせると二メートル三十センチを超える超剛刀だった。
アレンの身長、百八十二センチを考慮しても、やや不釣り合いなほどに。
そのアレンの剛刀を一瞥して、ロウファは槍斧を握りしめた。
アレンはまた王都に視線を向け、首を振る。
「アリューゼの事も、この国の事も。
結局、解決させたのは、――これからも解決していくのは、君と国王陛下だ。
俺はきっかけを作ったにすぎない」
「そんなことはありません。……少なくとも、そのきっかけが無ければ、我々はとんでもない過ちを犯すところだったんですから」
「……ヴィルノアか」
「ええ。陛下と協議して、新しい騎士団の構想が出来たんです。
良ければ、貴方にもその中に入っていただきたい」
アレンは首を横に振った。
「すまない。人を待たせてるんだ。
……てっきり王都内で待っていると思ってたんだが、どうも外に移動したようでな。
これから、彼等を探さないといけない」
苦笑混じりに嘆息するアレンに、ロウファは小さく微笑った。
「そうですか……。
不思議ですね。貴方なら、断ると思ってました。“騎士”なんて柄じゃないって。
……貴方は、どこかアリューゼさんと似ているから」
「俺が?」
「ええ」
頷いたロウファは、ザッと槍斧を構えた。
「アレンさん。どうせこの国を出るなら、最後に一度。僕と立ち合っていただけませんか?
その剛刀の実力、しかと目に焼き付けておきたい。
この国を変えた、貴方の実力を」
「……悪いが、この“刀”は人に向けるものじゃない。だが、相手にはなろう。
アリューゼに比べれば力不足かも知れないが、全力で行く」
アレンは言うと、剛刀“兼定”を脇に置き、ジャケットの懐から一本の筒を取り出した――……。
××××
アルトリア国家防衛軍。
国王が立ちあげた新制度は、それまで金で雇うだけに過ぎなかった傭兵を、希望すれば正規兵として雇用する、アルトリアの新騎士団のことだった。
貴族と傭兵。
かけ離れた身分の差に、発足当初は衝突が絶えないと予想された新騎士団だったが、就任したアルトリアの若き騎士団長、ロウファの働きにより事態は早期に収束した。
そしてもう一つ。
新騎士団が発足されるのと同じ頃。
アルトリア王都に、ちょび髭を生やした貴族風の男が、度々現れた。その男に生活苦について相談をすると、何故か救済措置が次の日には国から政策として発表されるらしい。
そんな、明るい都市伝説が王都を賑わせ、街が、国が、変革を始めた。
その影に、身の丈よりも長い剛刀を操る青年の姿があった事を、アルトリアの国民は知らない……。
「さて、と」
徐々に、活気を取り戻し始めた王都を見下ろして、アレンは旅の一式を肩に担いだ。
片手間に、通信機を展開する。以前、ロジャーとルシオに渡しておいた通信機が作動していれば、彼等の現在地が特定出来る。
ほどなくして、ぴぴっ、という電子音。
画面に、ロジャーとルシオの現在地が示された。ここから、ちょうど三十キロほど下った地点だ。
それを確認して、アレンはため息を吐いた。
「結局、土産らしい土産を用意出来なかったな……。怒ってないといいんだが」
困ったように頭を掻きながら、アレンはアルトリアに背を向けた。
当ての無い旅を、続ける為に――……。