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春になったら
作者:犬   2012/06/24(日) 10:48公開   ID:YhAu1LoFuUI

 年が明け、徐々に寒さも和らぎはじめる2月の初旬。立春も間近な、冬の終わりの頃。
 昨夜から音もなく降り続けた雪は、今朝方からなりをひそめていた。薄い雲に隠れ、太陽が昇ってきたからだろう。静かに、しかし人の足を奪うほどに降り続けた雪は、葉を落とした木々に積もり、昨日とは一変した白い世界を見せていた。
 路面を見れば、アスファルトやタイヤにより黒ずんだ銀世界であるが、それもまた都市が生んだ自然だ。見た目の華やかさこそ差があれ、白黒で覆われた景色は、この季節の風物詩である。
 テンカワ・アキトは、とあるマンションの、窓に面した和室で寝転がりながら、ぼんやりと薄暗い曇り空を見上げていた。
 アキトの顔をなでる、ひんやりとした空気が運んでくるのは古い匂い。冬の乾燥した空気の匂いと、饐えた畳の匂いが混じった匂いだ。人の住まいに自然にあったはずのこの匂いが、人々の中から薄らぎはじめてからどれくらいが経つのだろう。ともすればやや不快なこの匂いではあるが、祖先から受け継いできた古い遺伝子はこれを懐かしいと感じている。
 アキトは指で畳の目をなぞりながら、ずり落ちた縁の黒い毛布を手に取って、それを頭からかぶり、そっとつぶやいた。

「寒いな…………」

 火星でのあの寒い夏の日から、もうすぐ半年が経とうとしている。
 彼は今でも、黒衣を捨てられない。







春になったら








 平日だというのに堂々と二度寝をかました、彼、テンカワアキトは二度目の朝の目覚めを迎えていた。
 顔をなでる冷たい空気と、体を包むぬっくぬくの暖かい毛布のギャップ、そして目覚めの倦怠感。
 冬の醍醐味ともいえるその状況に気持ちよさを感じていると、なにやら腰回りに小さな重みを感じた。そして、しだいにその重みが胸の方まで上がってくる。
 うっすらと眠い目を開けて見てみると、馬乗りになってじっと見つめるラピスの姿。
 いや、ラピスではない。頭に猫っぽい耳をつけたラピスだ。

「ラ、ラピス…………?」

「にゃ?」

「その耳はいったい……?」

 嘘だ。前からである。

「にゃー」

 つい先日、なんかよく分からないが猫化した。なぜ、と言われてもよく分からないのだから分からない。前夜に笑っておやすみと言って寝て、翌朝起きたら猫だったのだから、よく分からないとしか言えない。
 なんとなく幼児退行の一種だろうかとも思ったが、まさか虐待やネグレクトなどしているわけもなく(むしろやや過保護の感があるほどで)、そもそも突然すぎる。過去の記憶のフラッシュバックが、という線についてもさすがに今さらというか、やはり突然すぎる。猫化する前日まで、たしかに変わりなかったはずなのだ。何らかのそういったサインを見逃していた、とかいう公共教育施設の教員みたいな話はない。
 いや、絶対にないだなんてことは、猫化した現状じゃ断言することはできないが、そこまで察知できたなら以心伝心とか超えて超能力者だろう。そして残念ながら、俺はいたって普通の人間である。
 ともかく、ラピスは猫化した。

「うにゃー」

 猫らしい声を上げながら、ラピスが毛布の中に潜り込んできた。かるく頭突きをしてスペースを空けろと要求してきたので少し動くと、今度は腕を押しのけて腕枕を要求してきたので、それにも応じる。それでもまだ物足りなさそうだったので、眉間をかるく親指でこすりあげつつ頭をなででやると、ようやく満足したのか、笑顔を浮かべて脱力してくれた。
 なんとなく、猫の真似をしているお子様っぽいが、たぶんそれで合っている。

「にゃ?」

 胸元で頬擦りしていたラピスがにこにこしながら小首をかしげた。
 まぁ、つまりそういうことである。猫っぽいが、あくまで人間が持っている猫のイメージの動き。口数が少なくおとなしかったラピスがそうする理由は分からないが、猫のフリをしているのである。
 そのため、本当の猫のようにおしっこを躾けないとダメとか、そういう話はない。一応は中学生も間近なお嬢さんらしく、普通にトイレに行くし、お風呂も入るし、着替えやご飯も…………ご飯は食べさせてるか。

「ラピス」

「みゃ」

「おはよう」

「ふにゃー」

 けだるそうな声を上げながら、首筋に鼻をこすりつけてくる。だが満足げである。
 ここまで表情豊かなラピスは、猫化する前までは見ることが出来なかった。

(……この変化は歓迎すべきなんだろうか)

 時折、そんなことを考える。
 今でこそ楽観的ではあるが、当初は精神的な疾患の可能性を考え、情けなさ全開で狼狽したものだ。いつかの日々と違い、仲良くやれているものだと、そのときは思っていたから。あるいは、心を開き始めてくれているものと信じて疑わず、浮かれてさえいたことと思う。
 それがどうして猫だなんて、狙いどころが広いのか狭いのか分からない状態になったのか。教育的によろしくないものでも見たのか、過去の記憶のフラッシュバックによる逃避か、などと色々と考えた。
 だが、イネスさんに連絡取ったら、まぁ、なんというか、紅茶を噴いていた。
 あまり深く考えなくていいのだと思った。

「にゃー」

「はいはい」

 とりあえずは朝食の準備である。

 ご飯はまだかー、と言わんばかりにリビングのソファで足をばたつかせているねこラピスを背後に感じつつ、まな板に向けて包丁を振るう。たまに覗きに来ては横から手の動きを眺め、しばらくすると飽きるのかあくびと伸びをしながらリビングに戻り、そしてまた覗きに来るというのを繰り返す。その際ちらりとこちらの顔を見てくるが、目が合うと顔をそむけられる。

「ラピスも近いうち料理を覚えような」

「にゃー……」

 かまって欲しいのかと思い当たって声をかけてみたが、やる気のなさそうな返事。
 いやまったく、気ままというか、伸び伸びしているというか。

「それはそうとラピス、ちゃんと服を着ろ」

「にゃ」

 イヤ、とも聞こえるような返事をしたラピスは下着そのものの格好である。暖房をかけているとはいえ冬の寒い日であるし、何よりそろそろ中学生になるお嬢さんとしては若干はしたないのだが、それ自体はまぁいいのだ。
 問題は、タンスから発掘してきたらしい俺のトランクスを履いてることだ。もちろんサイズなど合っていないので、今にもずり落ちそうで危険だ。
 そういった行動は、もう5〜6年して素敵な彼氏を見つけていたのならばいいのであるが、情操教育やしつけが大事なこの年頃では許すことはできない。可愛いけれど、怒らなくてはいけないのである。

「こら、いくら家の中だからって」

 料理から手を放してラピスを捕まえようと手を伸ばすと、ひょいと逃げられた。運動をしていた経験はあまりないはずであるが、運動神経はいいのだ。こちとら一応現役パイロットの身であるというのに、こんな感じで手を焼くほどに。
 さて、どうしたものかと思いながらラピスの逃げる先を見ていると、急に立ち止まった。そして、おそらくいつかの黒い衣装を着た俺らしい姿がデフォルメしてプリントされている抱き枕を抱え上げ、じっとこちらを見つめてきた。
 あの年ながら、いや、なかなかに艶っぽいものである。というと親ばかの類なのであろうか。

「やれやれ」

 と、小声で言って肩をすくめると、ラピスはまさしく猫のようなかるい足取りでリビングを出て行った。愛用しているらしい抱き枕もご持参だ。自分で縫い付けて作ったから愛着があるのだろう。刺繍という概念すらよく理解していなかった娘が、とうとつに刺繍セットを引っ張り出してきて3日で縫い上げたときにはとても驚いたものだ。
 まったく、神は二物を与えずというが、彼もたまには本気を出して持てる技のことごとくをつぎ込んでみたいと思ったのだろうか。だがそれにしたって頭もいい、運動神経もいい、手先も器用、容姿もよいというのはいささかやりすぎではなかろうか。
 もっとも、生い立ちと幼少期を考えれば、それは果たしてプラスと言えるのか、それは分からない。

「……やれやれ」

 ぺちゃんこになってきた抱き枕を思い出し、そろそろ綿を新しく詰めないといけないなと、ふと思った。









 朝食の準備ができる頃合になると、ラピスが降りてきた。さすがに寒くなったのか、言うことを聞いてくれたかは分からないが、きちんと服を着てくれている。猫化してから多少わがままになったが、最後には言うことを聞いてくれるから可愛いものだ。
 どこから引っ張ってきたのか、また俺の服を着ているのが残念だが。
 それにしても、ぶかぶかのシャツ、それにより穿いているかわからない下着、さらにそこから伸びる生脚という組み合わせは、故意にせようっかりにせよ、どうにか致さなければなるまい。
 まぁ、今はともなく食事である。

「さぁ、食べようか」

「にゃー」

 食卓について食事を開始。しかしながらこのお嬢さん、猫言葉ながら行儀よく返事するものの、自分で食べようとはしない。熱いものはさすがに火傷を警戒しているのか自分で食べるが、それ以外は基本的に食べさせてもらう気満々である。おかげさまで食事にそこそこ時間がかかる。
 と言ってもまぁ、ラピスは小柄な体格もあって食べる量自体は少ない。それにゆっくり食べるのは消化にいいということもある。

「にゃーにゃー」

 催促するラピスの口元にスプーンを運ぶ。過去に悪戯心が働いて、ラピスが口を開いた瞬間にスプーンを引いたところ大いに拗ねたのでそういうことはしない。同様に、メニューを全て熱いもので構成したときも、いたくご機嫌ナナメとなったので回避している。鍋が美味しい寒い季節だけに、その悪戯は後悔したものだ。

「にゃ」

 次をご所望なラピスの口元にスプーンを運ぶ。薄桃色の唇でスプーンに食いつく甘えた全開な様を見て、これはもしかしたら深刻かもしれないと思ったが、あんまりにも可愛らしくて和んでしまったのですぐに忘れた。
 よくよく考えれば、一番深刻なのはこの親ばかであると思う。






 洗濯機を回している間に、朝食の洗い物を済ませ、簡単に掃除をする。掃除が終わる頃には洗濯機が止まるので、カゴに衣類を詰め込んでベランダに行き、物干し竿にかける。
 今朝はいい天気だ。冷たい空気の中、低い楕円軌道を描いて昇っていく太陽の光が、ほのかな暖かさを感じさせてくれる。どこかに出かけるには今日は絶好の日和と言える。

「ふにゃぁ……」

 しかし冬となれば駆け回ることなく、コタツならぬ床暖房つきフローリングの上で丸くなるこの猫である。薄着のまま暖を取るという矛盾を堂々と実行しており、そのすばらしき運動能力を一切使用しようとしない。吸盤でも付いてるのかと思うくらいにカーペットにへばりついている。そしてえらく気持ちよさそうである。

「まったく、マイペースだな」

 そうぼやきつつも、家事が一段落したのでラピスにならって横になることにした。大の字になって一息つくと、見計らったかのようにラピスがゴロゴロと横転してきて衝突し、そのまま体の上に乗り上げて仰向けで停止した。そのままだと不安定なので捕まえようとしたが、ラピスはもぞもぞと動いたかと思ったら反転し、うつぶせになってしっかりと肩を掴んできた。どうやら目算が誤っていたらしい。
 思わず笑みを零してしまいながら、ラピスをややこちらの頭側に引き上げて、背中に手を回した。以前に、腕が重いとブーイングあるいは頭突きを食らったので、なるべく重みがかからないように調整する。
 ちなみに、頭突きはラピスの最近お気に入りの抗議・要求ジェスチャーだ。頭ぶつけてばかりだとバカになるぞとたしなめたものの、本人は頭の良さとか心底どうでもいいようである。

(本当に頭が良いんだがなぁ)

 ラピスは、話相手によってきちんと話し方を変えることができる。例えば話相手が技術者なら、自分にはわけの分からない専門用語や比喩表現を多用して話すが、同じ話を自分にするときには専門用語を使わないし、比喩も抽象度を増やしてみせる。相手の意図や理解度を理解して、その時々で使う言葉の抽象レベルを選択できるのだ。本当に頭がいいものだと感心する。

「にゃー」

 なお、ただいまの会話レベルはおそらく最底辺である。
 まぁ、頭の良さを鼻にかけて斜に構えるよりはよっぽどいいが、鈍感と評判なばか野郎に対して「にゃー」の語調だけで把握させるのは難度が高すぎるように思う。
 とりあえず今の「にゃー」は特に意味がない「にゃー」と思ったので気にせず、無心に頭を撫でることにした。

「…………み、っ」

 ふと、ラピスが身じろいだので目をやると、少し顔を紅潮させてなにか耐えるような表情をしていた。
 なんだろうと思っていると、どうやら耳を触られているのがダメなようだ。もちろん耳といっても猫耳なのであるが、この猫耳はナノマシン通信によって神経伝達を行うことで、本物の猫耳と同様の機能と感覚を持たせることができるという製品らしい。正直、そっちの趣味のものとしか思えないが、一応はナノマシンと神経系医療の研究過程で生まれた義肢の一種なのだそうだ。
 なんで猫耳か、と言われると回答に窮する。

「っ……っ……」

 ともかくこのラピスさん、猫耳を触られると刺激が強いらしいというか、神経伝達の設定値がおかしいらしい。本当にそっちの趣味のものを間違えて持ってきたんじゃなかろうか。ネルガルに行くと、待ち時間中に気まぐれに技術開発部の助っ人に入っては可愛がられてるそうだから、うっかり本当の意味で本物でしたってこともありえるかもしれない。
 何はともあれ、それならばただ撫でるだけというのもつまらないので、撫でる手を止めて指の動かし方を変えてみることにした。

「みっ!?」

 すばらしきかな、この年齢のわりに妙に落ち着き払ったロウティーンの近日稀に聞く悲鳴である。確か前聞いたのはケーキを買ってきたとき、「生物ですのでお早めに召し上がりください」の生物という漢字を「なまもの」ではなく「せいぶつ」と読んで、生き物が入ってると警戒していたときだったろうか。なんのかんので人生経験不足のお嬢さんである。元料理人だからてっきり本物の生き物を捌くのだと思ったらしい。死角から箱を揺らしたときの驚きっぷりはとんでもなく可愛かったが、そのあと2日くらい口をきいてくれなかった。

「ゃっ……!?」

 毛並みのいい耳のたおやかな稜線を指でなぞると、また声が漏れた。少し様子を伺うと、うつぶせの格好のまま、あさっての方向を見ながら目を見開いている。顔は真っ赤だ。
 なんとも、文字通り未知の感覚に戸惑い耐えているラピスの様は、非常に愛らしい。いや、そう言うとなんだかやらしいが、普段アドバンテージを掴んで放さないラピスがディスアドバンテージを掴まされ、こうも弱気になっているのを見ると、嗜虐心にも似た愛しさを抱くもの詮無いことと思う。
 ぴくぴくと跳ねる耳の内側など一通り触ってみたが、いつもの頭突きによる抗議はなかった。そうするとなんだか顔を見たくなってきたので、ラピスの両腋に手を差し入れて、ベンチプレスのように持ち上げた。ラピスはトレーニングマシンのそれに比べれば軽すぎるくらいだ。

「…………」

 で、その持ち上げられたラピスはというと、まさに借りてきた猫のようだった。腕も脚もだらんと脱力していて、目は開かれたままこちらを見ている。強いて言えば顔が赤いが、身を預けたまま微動だにしない様は、本当に猫のようである。
 ゆっくりとラピスの体を下ろしていき、それに伴って顔が近づいていく。本当に微動だにしないのでちょっと不安になったが、まばたきをしたので少し安心した。
 また、そろそろと体を下ろしていく。

「…………」

 もうすぐ鼻先が触れ合いそうだ。よく引っ付いてくるラピスだが、そういえばここまで接近するのはなかなかない。この距離で見て、改めてその造形に感心する。人間の造形は結局遺伝子の組み合わせであり、サイコロを何百何千と振っての結果のようなものであるが、するとこの場合はほぼ全て6の目が出たような、神さまが設定した人間の造形美の上限ではないだろうか。
 まぁ、正直完全に主観が織り込まれている上に誇張表現であるが、それほど的外れでもないとも思う。

「…………」

 ラピスがなにかアクションを繰り出してくるかと思ったが、本当におとなしい。至近距離のままラピスはずっとこちらを見ている。一応腕を離してみたが、そのままの位置をキープしてじっと見つめている。あんまりにも見つめてくるものだから、両手でラピスの頬に触れてみた。なんとも言い難い、20代で多くは失われてしまう、ティーン特有の柔らかな感触である。
 それでもラピスは一向に動かなかったため、頬をかるく引っ張ってみた。
 グーが飛んできた。
 これは予想外だった。

「っ……!?」

 肉体的なダメージはほぼ皆無ではあったが、それより精神的なダメージが大きかった。ショック、というよりは驚愕といった方が近いだろうか。そのため何も反応できず呆然としていると、ラピスは勢いよく飛びのき、どこかへ走っていった。そこでようやく我に返り、手は痛くなかったかな、と思いながら体を起こすと、ラピスが抱き枕を抱えて走ってきて、今度はそれを盾に突撃してきた。

「ぐおっ!?」

 顔面に食らって昏倒する。小柄といっても30キロ前後の重量物だ、それなりに効く。今度こそ肉体的なダメージで悶絶していると、ラピスはそのまま抱き枕を押し付けたあと、またどこかに走っていった。
 どうやら追撃はないようだった。

「……何が何やら」

 そうぼやいて、横たわったまま抱き枕を持ち上げた。
 デフォルメされた自分がこっちを見ていた。

「お前も大変だな」

 せっかく掃除したばかりなのに、縫い目が破れて綿が散らばっていた。









 近日稀に見るほど機嫌を損ねてしまった。どうしようか、などと思いつつ、どうせなので破れた抱き枕を洗って綿を詰めなおそうとしていると、軽い足音を立ててラピスが歩いてきた。着替えてきたのかよそ行きの格好だったが、先に表情の方が目に付いた。柳眉を逆立て、口はへの字、じとっと見つめて見事にお怒りのところ申し訳ないが、どう見ても可愛らしい。
 まぁそれはさておき、さてどうしたものかと思案しようとすると、何を思ったのか背を向けてしまい、そのまま颯爽と玄関のドアを開けて出て行ってしまった。

(いってきます、かな)

 行き先はイネスさんのところだろうか。少々道中が心配になったが、外出ともなればネルガルSSの2〜3人も張り付いてくるだろう。ネルガルにとってラピスの身分は既に自分の遥か上、手放すことのできない人材だ。

(なんで俺の周りの女の子って、才能から生まれてきたような娘ばかりなんだろう)

 と、思ったりしても仕方がない。世の中には上には上がいるなら下には下がいるし、右も左もたくさんいるのである。
 物事を相対的に量ることも、絶対的に評価することも、方法論の違いにすぎない。それに自分が囚われるかどうかが大事、ということなのだろう。



 お昼前になると、イネスさんから連絡が来た。ラピスが来ていて昼食は一緒に食べる、とのことだった。
 鈍感もいい加減にしないとただの馬鹿よ、と注意された。笑いながらのご指摘はまじめに取り合うべきなのか、少々悩ましい。
 話を聞いていると、どうやらイネスさんにはラピスの行動の意図が分かっているようだった。なら教えてほしいものであるが、どうやら彼女はラピスの味方らしい。
 とはいえ、彼女は根っからの説明好きである。ヒントをねだると、わりとあっさりと教えてくれた。

 小さな魔女は春が来れば歌うのよ、と。

 ラピスが帰ってきたのは、日も暮れ始めた頃だった。
 絵になりそうな清純な容姿をしたお嬢さんは、帰ってくるなり「にゃ」という挨拶もそこそこに部屋に戻り、閉じこもってしまった。
 特に機嫌が悪そうでもなかったが、寝るのと着替えるの以外で自室にこもるラピスは珍しい。普段はここが自分の居場所だと言わんばかりに、リビングに居座っているというのに。

(しかし、ヒントなんていっそ聞かなければよかった。さっぱりわからん)

 さんざん頭をひねっても分からなかったが、ラピスが帰ってきたので改めて考えてみる。
 小さな魔女、というのはラピスのことを含んでいるだろうとは予想がつく。コンピュータのエキスパートを意味する魔法使い(ウイザード)の女性形であるウイッチ(Witch)、そして自分達にとって害悪でしかない魔女という意味で、ネルガルと敵対的な立場にある者達がラピスに付けたあだ名だ。小さな、と付いているのは先輩との区別のためだったと思う。直接ラピスの名をださなかったたりに別の意図がありそうだが、これはさっぱり分からない。
 春が来れば歌うというのは、なおのこと分からない。たしかに暦の上ではもう少しで立春になるが、そうしたら喋りだすということだろうか?
 これも歌うという表現を使っている以上、もっと他の意味がありそうだが、やはり、さっぱり分からない。

(まいったな。まぁずっとこの状態が続くとも思えないし、ひとまず立春まで待ってみるか)

 我ながら日和った選択であるが、鈍感であることに定評のある自分が奔走してもいい結果とならないのは身にしみている。
 期限付きなら、待ってみるのも悪くはないだろう。






 自室に戻ると、メールの受信があった。
 タイトルは日付だけ。本文ですら一行に満たず、簡素極まりない。
 定期的に送られてくることメールは、ただそれに添付された画像データだけがその内容を示している。

 古くさい本を膝の上に、見上げるように座っているルリの姿。襟章のラインが、記憶しているものより一本増えている。彼女の後ろには、通りがかりですと主張するように手荷物を抱えながら、ルリの姿を横目で見つめる少年の姿。そしてさらにその後ろには、心底愉快そうに、にやついた表情を浮かべる金髪の男の姿。毎回恒例の3人の写真だ。おそらく、撮られているのに気づいていないのは少年だけだろう。

 競技場らしき場所で、胸を張り、歯をむいて疾走しているユキナの写真。そして肩を組んで笑う、ユキナとミナトの写真。
 少し中央を外れた構図は、まるでそこに誰かがいないようで、すこし胸が痛む。

 露出度が高く布地の薄いユニフォームのユキナに抱きつかれて、慌てふためくジュンの写真。
 この二人はどうなっているんだろう。そして最近、自らパイロットとして立ちふさがったあのときのジュンは、もしかして別人だったのではと疑い始めている。

 ライブ後なのか、華美な衣装に汗をしたらせて笑うメグミとホウメイガールズの写真。
 芸能界はたいへんと聞くが、変わらず元気そうで何よりだ。しかし、よく分からないが、アイドルがこういった写真を撮らせてもいいのだろうか。

 グラスを合わせて乾杯しているリョーコ、ヒカル、イズミの写真。
 場所は居酒屋だろうか。軍服、どてら、ドレスという姿で集まって酒をあおるのはこの3人ぐらいだと思う。この3人の仲の良し悪しは、なかなか計れない。

 機械に頬ずりしながら笑うセイヤさんの写真。
 真っ当なものかもしれないが、なぜか得も知れぬ不安を感じさせる。その後ろで苦笑する奥さんは、本当に出来た人だと思う。

 毎回仏頂面のゴート、別の意味でまた仏頂面のエリナ、一人だけ朗らかな笑顔で違和感のあるプロスペクターの3人の写真。
 気のせいとわかっているが、嫌な予感しかしない。

 フレームから何から過剰に豪華に加工されたアカツキの写真。
 無意識的に削除しようとしたが、なぜかパスワードを尋ねられた。煩わしいので記憶から抹消した。

 白い軍服に身を包み、腰に手を当て、天を指さし、歯をみせて子どものように笑うユリカの写真。

「…………」

 彼女の写真だけが、カメラに向かって視線を向けていなかった。
 誰が撮ったのか、どういったメッセージを含んでいるのかは分からないが、一枚だけこうであればさすがに気づく。

「軍服、か」

 軍に復帰したのだろう。請われてかもしれないが、彼女は自分のルールに反したことはしない。何かしら軍属になることに意義を見出したから、そこにいるのだろう。
 突飛で自由奔放に見える彼女は、実際はとても思慮深い人間だ。子どもっぽい物言いや振る舞いのせいで、子どもの思いつきに見えやすいが、軍大学で飛び級を果たした経歴を持つエリート中のエリートであり、戦術ではなく戦略を考えられる人間だ。

「そういえば将棋もチェスも、一度も勝てなかったな」

 特に盤面の外から駒を投入できる将棋は、六枚落ち(飛車角行桂馬香車の全落ち)でも接戦にさえ持ち込めなかった。それでも勝つたびにやはり子どものようにはしゃいでいたから、ハンデ付きのくせに思わずムキになって何度も挑んだのを覚えている。
 一度くらい勝ってみせたかったが、結局敵わなかった。役者が違いすぎた。おそらく、一生涯をかけてもハンデをなくすことすらできないだろう。

「だが、次は、もうすこしいい勝負を――――ん?」

 後ろでドアが閉まった気がして、振り返る。

「…………?」

 気のせいだろう。電子ロック付きのドアなのだ。ロックがかかっていることとランプが点灯しているし、開くはずがない。






『さぁ、本日お送りするのは昔懐かしを遥かに通り過ぎた、古い時代の名曲たちだ』

 ラピスが自室から出てこないので、久々にWebラジオを聞きながら夕飯の支度をする。
 わりと貴重な古い時代の音楽を扱う番組で、最近のお気に入りだ。ラピスはあまり好きではないと言うので普段はかけないが、録音は欠かしたことはない。

『リスナーのみんなは、250年前ってどんな時代と思っているかな? そう、この曲たちは、この国がかつて戦争に敗れて間もない頃、何もなかったが夜空が綺麗だった時代、今となっては250年も昔の人々が生み出したんだ。みんなどうだい? 250年前に生きていた人達ってどんなことを考えていたと思うかな?』

 リアルタイムで寄せられているコメントへの応酬を聞きながら、250年前か、と漠然と思いを馳せる。実感覚としても数ヶ月程度なら時間旅行を、理論上は数百数千年以上もの時間旅行をしている身であるが、250年という月日はとても長く感じる。その1/10程度しか生きていないというのに、これだけ色々とあったのだ。
 思い返せば、目の前のことで精一杯だった時期が大半だった気がする。幼い頃なんて特にそうだった。

(ん……ラピスが出てきたか?)

 扉の開く音がして、足音が近づいてくる。なんだかいつもより勢い強い足音であるが、何か抱えているのだろうか。
 進撃するかのごとくのラピスだったが、リビングに入る前の扉でいったん止まってしまった。やはり何か抱えているのだろうかと思ったが、一呼吸の後に力強く開かれた。

「もうすぐ夕飯だから待っていてくれないか、ラピス」

 ちょうど調理の終わりで手が放せないので、視界の端に収めながら声をかける。そういえばラピスの年頃のときなんて、本当に目の前のことが全てだったなぁ、などと振り返る。
 アルコール摂取が過ぎて明日は二日酔いかも、とか、オーバーワークで明日は筋肉痛かな、とか、食べ過ぎて太りそうだ、とか。
 そんなことなんて知ったことじゃなかった。
 今日を全力で生き、疲れたら寝る。今日が全て。明日どうなろうと知るものか。
 そう、きっと、あれは幼い時代の特権だったのだろう。

「もう支度ができるから、先に食器とお茶を――」

 つかつかとラピスが歩み寄ってくる。
 この猫のお嬢さんは、今度は何をするんだろうと身構える。最近機嫌が悪いので、何かしらの攻撃と予測する。定番の頭突きか、そろそろ引っ掻きか。もしかすると平手打ちだろうか。あれは奇妙な痛さと、心理的なショックがあるので、出来ればご遠慮願いたいものである。

「…………」

 ラピスはすぐそばで立ち止まり、じっと見上げてくる。
 呼びかけようとすると、両手でぱちんと顔を挟まれた。平手にしては弱いが、なんの意思表示なのだろう。
 外が寒いせいか平時より手が冷たい気がするので、暖を取っているのだろうか。
 そんなことを考えていると、そのままぐいっと引きずり下ろされる。
 なすがまま頭を下ろすが、意外と首が痛いので、思わず抗議の声を上げる。

「おい、ラピス――――」

 瞬間、温かく柔らかい感触が唇から伝わり、ちゅっという音が聞こえた気がした。

「    」

 思考が停止する。
 しかし、現象は明らかだ。
 しかし、脳が審議拒否を起こして再検証を求めるのを繰り返している。
 しかし、現象は明らかだ。
 しかし、受け入れられないのは、だって、そう、なぜなら自分はラピスのことを娘のように――――

「わたし、アキトのこと好きだから」

 たたみかけるようにラピスは言った。

「アキトがユリカのこと好きなのは知ってる。わたしがまだまだ子どもだってことも知ってる。それ以外のことも知ってる。でも本気」

「本当にアキトが好き。もしアキトがわたしのことそういう意味で好きじゃなくても、わたしはずっと好き」

 ラピスは名残惜しそうに細い指をアキトの顔から離して、くるりと踵を返して、さっさと自室に戻っていってしまった。
 完全に不意を突かれ、見事なまでに思考停止状態、とても効果的に脳に感触やら表情やら言葉やらを叩きこまれてしまったアキトをよそに、つけっぱなしのラジオパーソナリティは静かに話していた。

『僕が思うに、おそらく250年前の人間も、リスナーのみんなと変わらないのさ。250年経っても変わらずこの星では切ない恋でいっぱいだ。―ーーーさぁ、そろそろ1曲目といこうか。リクエストはアイちゃんさんから。春が来るたび歌いましょうという歌詞が印象的な片思いの切ないラブソング。――タイトルは、「BEWITCHED」。邦題は、「魅せられて」』

 混雑する思考を整理するため、無意識的にラジオを止めようとすると、なぜかパスワードを尋ねられた。
 記憶から抹消できそうにはなかった。








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