――洛陽の都
 漢王朝の現皇帝である献帝。その皇帝が治める王都がここだ。
 度重なる悪政により官の信用は地に落ち、皇帝の権威も薄れ、まさに王朝末期と言われる中、この国残された全ての権力と富が集まる場所。
 同時に複雑な事情が絡み合い、陰謀と欲望が蠢くこの場所は、この国が抱える闇を象徴しているかのようでもあった。

 事実、天の御遣いがこの洛陽に現れるまで、ここにはこの世の天国と地獄という相反する二つが共存していた。
 幼き皇帝を傀儡とした宦官達の思惑によって――

「少しは休まぬと身体がもたぬぞ」

 膝下まで伸びる長い銀髪。歳は璃々より少し上くらい、まだ幼いその小さな少女こそ、この国の皇帝――献帝その人だった。
 (いみな)は劉協。霊帝の死後、劉弁との間で起こった後継者争いで親と姉、肉親を全て失い天涯孤独の身となった少女。
 太老や林檎との出会いが無ければ今も権力争いの道具とされ、宦官達の傀儡となっていたはずだ。

「――陛下!? ご心配をお掛けして申し訳ありません。ですが、ボクだけが休んでいる訳には……」

 書簡に筆を走らせていた作業の手を止め、劉協に深々と頭を下げる賈駆。
 董卓軍の軍師である彼女は、ここで太老と林檎の代わりに計画の最後の準備を進めていた。
 太老と林檎が出発してから丸二日。劉協が声を掛けたのもこの二日、殆ど寝ずに仕事を続けている賈駆を心配しての事だった。

「太老の事を気にしておるのか? 心配するだけ無駄じゃと思うが……」
「ですが、相手は五万を超す大軍……。陛下は不安にはならないのですか?」

 太老と林檎に何もかも頼りっぱなしのこの状況と、そして何よりそうと知りながら何も出来ない自分の無力さを恥じる賈駆。
 こうして寝ずに仕事をしていたのも計画のためというのもあるが、そうした気を紛らわすためでもあった。
 それに相手は五万を超す軍勢。幾ら、太老と林檎が非常識な力を持っているとはいっても、確実になんとかなる相手とは言えない。
 万が一の事を考えると、不安を拭いきれない賈駆。しかし、劉協の考えは違っていた。

「我は何があっても太老を信じると決めたからの。林檎との出会いがなければ、太老と巡り逢わなければ、我はずっと張譲の傀儡のままじゃった。そしてそれは、宦官から連合の誰かになったところで大きな違いはなかったじゃろう」
「それは……」

 賈駆は劉協の言葉を否定出来なかった。連合に負ければ董卓は無事では済まない。勿論、賈駆はそうしないために努力を続けてきた。
 それと同じように皇帝の救出を大義名分に掲げている諸侯ではあるが、結局のところ後ろ盾が張譲から諸侯の誰かに代わったところで、劉協が傀儡である事に大きな変化があるとは思えなかった。
 何れにせよ、漢王朝の時代はここで終わる。衰退した国を建て直せるだけの力は、もはやこの国に残されてはいない。
 そしてそれを幼い皇帝に求めるのも酷という物だ。
 民が求めている平穏な世界。それを実現できるだけの力が、今の自分にあるとは劉協も考えてはいなかった。

「太老は出来ぬ事を口にしない男じゃ。太老が大丈夫というのなら、大丈夫なのじゃと我は信じておる」
「はあ……。同じような事を月も言ってました」
「張三姉妹も心配はいらぬと言っておったぞ」

 疲れきった様子でため息を漏らす賈駆を見て、その反応を面白そうに眺めている劉協。
 だが、それだけでは終わらなかった。
 そんな賈駆にトドメを刺すように爆弾発言を投げ掛ける劉協。

「この件が片付いたら、我は真名を太老に預けるつもりじゃ」
「……え? 陛下、それはまさか!?」

 真名――それは家族や、名を呼ぶ事を許された心から信頼されている相手だけが呼ぶ事が許される神聖な名。
 その人の本質を現す名前だとも言われている。だが、皇帝の真名にはもう一つ重要な意味があった。
 皇帝の真名を呼ぶ事が許されるのは、同じ皇帝の一族だけ。しかし皇帝の一族は、今では劉協を置いて他にいない。
 その劉協の真名を呼ぶ事が許される者。それが意味するところは、一つしか無かった。





異世界の伝道師外伝/天の御遣い編 第87話『王都洛陽』
作者 193






「母ちゃん! 華蝶仮面の舞台があるって!」
「張三姉妹の舞台、新曲の発表もあるらしいぜ!」

 一方、街の方はちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。
 提灯や華やかな飾りで彩られた街並み。更には大陸中から騒ぎを聞きつけてやってきた旅人と商人達。
 勿論、張三姉妹の応援団も北は幽州、南は荊州と大陸中の至るところから、ここ洛陽に人が集まってきていた。
 洛陽に集まって来ている彼等の目的や理由は様々だが、その内の一つに張三姉妹の舞台が関係しているのは間違い無い。

「どうなってるんだ?」

 と首を傾げるのは公孫賛。彼女が全く事情が呑み込めない、と言った様子で困惑するのも無理はない。
 董卓の悪政により民達は怨嗟の声を上げていると話を聞いていたのに、実際に洛陽に着いてみればこのお祭り騒ぎだ。
 怨嗟の声どころか、街の彼処から聞こえて来るのは人々の活気に満ちた声。
 とてもではないが、悪政に苦しめられているとは思えない光景が広がっていた。
 しかも無理矢理連れて行かれたと聞いていた張三姉妹は舞台に立つと言うし、公孫賛にしてみれば全く分からない事だらけだった。

「おや?」
「お前は!?」

 そして偶然、街角で巡り逢う二人。公孫賛の視線は、正面から歩いてきた一人の女性へと向いていた。
 相手もそんな公孫賛の視線に気付いた様子で、ピタリと足を止める。
 真っ昼間から、お気に入りのメンマと酒を両手にご機嫌の女性。
 お祭ムード一色といった中で見事に場に溶け込んで楽しんでいる彼女こそ、昇り龍の名で知れた武芸者、趙子龍その人だった。

「子龍! まさか、お前とこんなところで会えるなんて思わなかったぞ!」
「ええと……」
「まあ、積もる話は色々とあるが今は詮索はなしにしよう。それよりも訊きたい事があるのだが……」

 と公孫賛が話し掛けるも、困惑した表情を浮かべる趙雲。
 実は太老のところに転がり込む前は路銀を稼ぐために、公孫賛のところに身を寄せていた過去がある趙雲。
 昔と言うには余り歳月も経っていない最近の出来事のはずなのだが――

「どちら様で?」

 趙雲はすっかり公孫賛の事を忘れていた。


   ◆


「酷いぞ! お前がそんなに薄情な人間だったとは……私は悲しい!」
「だから、こうして悪かったと謝っているではありませんか。伯珪殿」
「いや、そもそも普通、私の名前を忘れるか? 仮にも一時、主従の関係にあったというのに……」

 公孫賛の言い分は正しい。正しいのだが、そこが彼女の不幸なところだ。
 実際のところ趙雲どころか、親友にまで存在を忘れられているとは微塵も彼女は思っていなかった。
 散り散りになった連合の諸侯ですら、果たして公孫賛の事を覚えているかどうか……。
 実際、劉備が彼女の事を忘れているように、曹操すらも覚えていない可能性が高い。ある意味で特筆すべき能力だった。

「それで伯珪殿はどうしてここに? 観光ですか?」
「なんでそうなる!?」

 それほど数は多くないとはいえ、武装した兵を連れているのに団体客程度にしか思われていない状況に、公孫賛は苛立ちを覚えていた。

 ――どうして分かって貰えないのか?
 ――どうして気付いて貰えないのか?

 もはや呪いとでも言って良いこの状況。洛陽の正面に現れたのが曹操軍だったなら、もっと違った反応があったかもしれない。
 だが、そこは良くも悪くも公孫賛の軍だった。
 精々、商隊や観光にやってきたお偉いさんを警護してきた兵隊くらいにしか思われていない可能性が高い。
 誰も洛陽を攻めに来た連合の諸侯の一人だとは、微塵も考えていなかった。

「もう良い……。連合の話は伝わっていないのか?」
「ああ、なるほど。伯珪殿は反董卓連合に参加されていたのですな」
「知っていたのか? なら、何故? それに、この街の様子は……」

 趙雲の反応も不思議だったが、公孫賛が一番理解できなかったのはこの街の様子だった。
 噂とは正反対の洛陽の様子に、何が起こっているのか事情がさっぱり呑み込めなかったからだ。

「ふむ。まあ、私があれこれと説明するよりも、実際に自分の眼で確かめられた方がいいでしょう」
「自分の眼で?」

 趙雲の思わせぶりな台詞に、やや訝しげな表情を浮かべる公孫賛だった。


   ◆


 大きな街の一角に、更に一際目立つ大きな建物と広大な敷地があった。
 この国の権力の中枢――漢王朝が誇る宮廷だ。

 尤も、現在の皇帝である劉協自身が宮廷内は疎か、お忍びで街を散策して回っているくらいだ。
 太老の影響で女官はメイドへと姿を変え、更には劉協を皇居に閉じ込めていた張譲を始めとした宦官達も尽く粛正されてしまったため、以前とは違って外に開かれた場所へと姿を変貌させていた。
 それと言うのも、劉協と董卓が官吏達の反対を押し切り、宮廷の一部を民に解放した事に大きな理由があった。

 幾ら洛陽が急速に復旧を続けているとはいっても、一日や二日で可能な話でもない。
 そこで公共事業に携わっている労働者や、家を失った民達の仮住まいとして皇居の一部を解放する案を思いついたのだ。
 そのアイデアの元となったのが、太老の何気ない一言だった。

『無駄に広い! 贅沢すぎる!』

 ――殆ど使われてない施設とか無駄でしかないだろう!?

 と言った、太老の言葉に心を打たれた劉協と董卓の二人が、その言葉を真に受けて実行に移したのだ。
 勿論、『伝統だ。格式だ』と言って反対の声はあったが、民達のためだと言って二人はその言葉をはね除けた。
 洛陽が……この国がこうなってしまった原因は宦官達だけではなく、自分達にもあると言って官吏達を説得したのだ。

 現在、祭の主会場として解放されている場所も壁が取り払われてはいるが、元々は宮廷の一部だった場所だ。
 それも天の御遣いのお陰とする声が多いが、現在の皇帝に感謝している人達も少なくなかった。
 とはいえ、一度失った信用を取り戻す事は容易ではない。不安を隠しきれず、手の平を返したかのような官の対応に、疑心暗鬼になっている人達も少なく無かった。

 天の御遣いの名と功績によって、それらの声が辛うじて抑えられているに過ぎないのが現状だ。その事は劉協自身が一番よく分かっていた。
 しかし一つだけ、以前に比べて良くなっている点もあった。漢王朝の評判自体は以前として余り良くないが、少なくとも劉協に対する評価自体は決して悪いものとは言えなくなってきていたからだ。
 皇帝がまだ幼い少女だという話は、民達も知るところだ。その状況を利用して、宦官達が悪政の限りを尽くしていた事が問題となっていた。
 だが逆に、天の御遣いが幼い皇帝の後見人になってくれるのであれば、と考える民は少なく無い。
 あれほど黒い噂のあった洛陽にこうして多くの人達が集まってきているのも、官に対する信用と言うよりは太老に対する期待によるところが大きかった。

 守ってくれるはずの国に見放され、信じていた官に裏切られ、何を信じていいか分からなくなっていた民達の心に差しかかった希望の光。それが天の御遣いだった。
 事実、本人の自覚があるなしは別として、太老はそうした人達に目に見えるカタチで希望を提示した。
 多くの民を飢餓の危機から救い、ここ洛陽でも官によって苦しめられていた人々を解放してみせた。
 それ故に民が太老に寄せる期待と信頼は、本人が思っている以上に大きなものとなっていた。
 劉協が、この国に必要なのは漢王朝でも皇帝でもないと考えるようになったのには、そうした民達の心の変化に理由があった。

「どうなってる? いつまで経っても人形共はやって来ないし、警備の数も全く減る様子がない……」

 そしてそんな宮廷の屋根裏に身を隠し、息を殺している一人の少年の姿があった。左慈だ。
 干吉と打ち合わせた計画通り、じっと時が来るのを待っていた左慈だったが、そろそろ痺れを切らせ始めていた。
 玉璽の在処は代々漢王朝の皇帝にしか伝わっていない、この国の最高秘密だ。
 予定では干吉の術で傀儡と化した張譲が人形兵を率いて洛陽を襲撃し、兵が出払ったところで混乱に乗じて左慈が皇帝の身柄を抑え、玉璽を手に入れる算段だった。

 だが、幾ら待っても張譲の率いた軍勢が洛陽にやってくる気配はない。
 そればかりか五万の敵が向かって来ているというのに、迎撃の準備を一向に始めようとしないのは明らかにおかしかった。
 函谷関が落ち、五万の敵兵が向かっているという情報が未だに伝わっていないと言うのは考えられない。
 だとすれば、考えられる事は一つしか無い。

「干吉め。また何か失敗をしたな」

 苦虫を噛み潰したような表情で、忌々しげにそう口にする左慈。
 干吉が作戦を失敗したと言う事は、イレギュラーな事態が起こったと言う事に他ならない。真っ先に左慈の頭に過ぎったのは、正木太老の姿だった。
 とはいえ、左慈に与えられた役目は玉璽の奪取。今更、それを取り止める事も出来ない。
 計画に必要不可欠な物である以上、なんとしても玉璽を手に入れる必要性があったからだ。
 干吉だけではない。彼以上に、この計画の成功を願っているのは左慈自身だった。

「役立たずめ。こうなったら、俺だけの力で……」

 干吉のように術や策略に長けている訳ではないが、単純な戦闘力だけなら干吉よりも上の力を左慈は有している。
 誘導など必要無いとする左慈の言葉を退け、今回の計画を立案したのは干吉だった。
 だが、幼い皇帝を一人攫ってくるだけの簡単な仕事。その上で、玉璽の在処を吐かせる事など造作も無い。
 戦力の要である太老がここに居ないのであれば、自分だけの力でも十分にそれが可能だと左慈は考えた。

「見ていろ。俺一人で十分だと言う事を思い知らせてやる!」

 失敗続きの干吉に代わって、自分がこの計画を成功に導くと心に決める左慈。
 以前は北郷一刀に後れを取り、今回は正木太老の所為で計画が失敗するなど彼のプライドが許さなかった。





 ……TO BE CONTINUED



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