【Side:太老】

 見知らぬ赤髪の女性と二人きりで温泉に浸かっていた。
 湯着の上からでも分かるラインの整った、しなやかで張りのある身体。武術の心得でもあるのか、普段から身体を鍛えていなかったら、ここまで張りのあるバネのような筋肉は身につかない。
 少し色黒な肌と、肩に届く程度に長さを揃えた外側に跳ねる癖のある髪の毛。釣り上がった鋭い金色の瞳が気まぐれな猫を彷彿とさせる。
 普段から美女、美少女を見慣れている俺からみても、『美人』と言う意外に例えようがないくらい綺麗な女性だった。

 ここの温泉に入っていたという事は屋敷で働く侍従の一人なのだろうが、生憎と俺はまだ全員の名前と顔を覚えていない。
 精々、身体の作りからして警備部辺りに所属しているのではないか、と推察できるくらいだ。

 それというのも昔と違い、今は使用人だけでも軽く数百に上る大所帯を抱えている。
 屋敷で働く侍従も、以前のメイド隊員募集の際に大幅な人員増加を行ったため、その数はこの屋敷だけで二百を超えるほどだ。
 それでなくても普段は首都に詰めていて、領地の屋敷に居る事が少ない俺だ。はっきり言って、全員の顔と名前を覚えているはずがない。
 とはいえ、まさか『どちらさん?』などと訊けるはずもなく、かといって会ったばかりの彼女の趣味趣向など分かるはずもなく特に会話など思いつかない。互いに無言のまま静かに時間だけが過ぎ去っていく。
 そんな中、先にその沈黙を破ったのは彼女の方だった。

「ふう……良いお湯ですね。私、お風呂が大好きなんですよ」
「俺も好きでしたけどね……」
「でした?」

 首を傾げる赤髪の女性。いや、風呂は確かに好きだ。特に温泉は大好きだ。
 しかし、ここ最近はその寛げるはずの風呂でアクシデントばかりに見舞われている所為で、正直微妙な感情を抱いていた。
 せめて風呂くらいは、ゆっくりと何も考えずに入っていたい。何で毎度毎度、風呂に入る度に疲れるような出来事に遭遇するのか?
 目の前の女性が悪い訳ではないと分かっていつつも、心の中で愚痴を溢さずにはいられなかった。

「あれ? そう言えば、この時間帯、使用人は温泉の使用を控えてくれてるんじゃ……」
「……え?」

 知らなかったのか、忘れていたのか、何だか意外そうな顔を浮かべる赤髪の女性。

「……た、太老様。よろしければ、お背中をお流しします」
「え、でも……」
「どうぞ、遠慮なさらずに」

 何だか誤魔化された気がするが、どうしてもと言うので背中だけ流してもらう事にした。
 今回は注意を怠った俺にも責任はある。その事に関しては、余り突っ込まないであげるのが優しさだと考えた。

 大方忘れていたか、時間を勘違いしたか、その辺りだろう。
 見た目は確りしてそうに見えるが、この様子から察するに意外にうっかりさん≠ネのに違いない。
 ドジッ娘属性か。ありと言えばありだが、現実にメイドさんのドジッ娘を前にして、どう反応すれがいいか困ると言うのが正直なところだ。
 ここは気付かなかった振りをしてスルーするのが、お互いのためだと結論付けた。

(でも、気をつけないといけないな)

 いつもの癖で風呂に入りにくる使用人が他に居るかもしれないので、そこは注意が必要だと改めて思い知らされた。
 ユライトにも、念のため注意を促して置いた方がよさそうだ。痴漢扱いされても可哀想だしな。

「気持ちいいですか?」
「あ、はい……」

 ゴシゴシと丁寧な手つきで背中を擦る赤髪の女性。緊張して震えているのか、少し辿々しいタオルの感触が背中に伝わってくる。
 こんなところをマリア辺りに見つかったら、また大騒ぎになりそうなシチュエーションだ。
 早く風呂を出たいが、そう言う訳にも行かない。後から入ってきて身体も洗わずに先に出るのは不自然だ。
 彼女が温泉に入っている事に気がついた時、さっさと出ておけばよかったのだが、勢いに流されて頷いてしまったのが失敗の素だった。

「私、ずっと想像していたんですよ」
「想像?」
「大陸全土に名を馳せる大商会を一代で築き上げ、平民から大貴族の一人にまでのし上がった方って、どんな方なんだろうって」

 突然、そんな事を言われて反応に困ってしまった。そう言われると凄そうな人物に思えるが、俺は至って平凡な男だからだ。

「俺はただの一般人ですよ」

 周りが凄いのであって、俺が凄いと言う訳では無い。現在の商会があるのも、水穂やマリア、それにマリエル達、皆のお陰だ。
 貴族にだって、ある日突然フローラに任命されて成り行きでなったようなものなので、そんな風に言われても余りピンと来ないというのが本音だった。
 思い返してみると、我ながらこれだけ成り行き任せでよく今の地位につけたものだと感心する。

「周りは、そうは思っていないようですが?」
「……でしょうね。でも、俺自身は極普通の生き方しか出来ない、平凡な男ですから」

 それが嘘偽りのない正真正銘、俺の本音だった。
 周囲の状況は確かにそうは言っていない事くらい、俺も理解している。
 しかし、信じて貰えるかどうかは別として、何を言われてもそれ以上は答えようがなかった。
 一部、特にマリアとかが過剰に騒ぎ立てているだけの話で、俺としては平穏に暮らせさえすればそれで十分だからだ。

「ガッカリしました?」
「いえ、内心ほっとしました。それと」

 赤髪の女性は『もっと興味が湧きました』と言葉を続けた。

【Side out】





異世界の伝道師 第165話『温泉の秘密』
作者 193






【Side:ネイザイ】

 正木太老。偶然とはいえ、これは彼の人となりを知るチャンスだと思った。
 敵にはならないと言ったが、それはユライトとのやり取りから判断した私の主観による物に過ぎない。
 敵となるか、それともその逆か、それは分からないが最低でも中立を維持して欲しいと私は考えている。
 だからこそ、少しでも彼の思惑を探る判断材料が欲しかった。

 彼が本当は何を考え、何を思っているのか?
 そして、正木太老とはどう言う人物なのか?

 悪人では無いと思う。そうでなければ、ここまで大勢の人に慕われはしないはずだ。
 慕っている部下が女性ばかりという点は少し気になるが、教養に優れた人材が女性に多いのは聖機師に依存している社会ではよくある事だ。
 正木卿メイド隊という名前からも、男の使用人が混ざっているのは不自然なので、考えて見れば自然な事と言えなくは無い。
 邪推な考えは振り払う事にした。とても世間で噂されているような自らハーレムなどといった物を作るような男性には、客観的に見ても思えなかったからだ。

 あれも彼の才能に嫉妬した貴族達の勝手な憶測による話に過ぎない。
 尤も、『英雄色を好む』ともいう言葉もある。
 彼に声を掛けられて振り向かない女性は殆どと言って良いほど居ないだろうが、本人にその気が無いのでは仕方が無い。

「ふう……良いお湯ですね。私、お風呂が大好きなんですよ」
「俺も好きでしたけどね……」
「でした?」

 何故、過去形? という疑問と共に首を傾げる私。直ぐに警戒されているのか、と考えを改めた。
 私と彼は顔を合わせた事は無い。そのため、下手に狼狽えるよりも堂々としている方が危険は少ないと判断した。
 さすがに二百を超す屋敷の使用人の顔と名前を全て覚えているような事はないはずだ。
 彼自身、普段は首都に詰めていて、領地の屋敷に顔を出したのは随分と久し振りの事だという話だ。
 だからこそ、使用人になりすます方向で動いたのだが――

「あれ? そう言えば、この時間帯、使用人は温泉の使用を控えてくれてるんじゃ……」
「……え?」

 やはり、警戒されている。まさか、屋敷の使用人の顔を全員覚えているのか、と考えさせられた。
 いや、それは無いはずだ。それならば、こうして一緒に温泉に入っている意味は無い。最初から、私を捕らえれば良い事だ。

「……た、太老様。よろしければ、お背中をお流しします」
「え、でも……」
「どうぞ、遠慮なさらずに」

 例え警戒されていても、問答無用で正体を暴き捕まえるつもりはないようだ。それなら、この状況を遠慮無く利用させてもらおうと考えた。
 疑われていても、その疑いを晴らす手段は私には無い。ここで逃げるような真似をすれば確実に彼は私を捕らえようとするだろうし、正直なんの準備も無しに彼のような規格外な存在から逃げられるとは思えない。例え逃げられたとしても、顔を知られてしまった後では計画に支障をきたす恐れがある。
 彼が立ち去ろうとした時、反射的に呼び止めてしまったが、あそこで呼び止めた事はやはり軽率だったと反省させられた。
 とはいえ、後悔しても後の祭りだ。今、私が唯一取れる選択は、どうにかしてこの状況を何事も無くやり過ごす事だけだ。

「気持ちいいですか?」
「あ、はい……」

 傷一つ無い艶やかな肌。熟練の戦士を思わせる引き締まった張りのある筋肉。その大きな背中を前に、私は恐怖を感じずにはいられなかった。
 かなりの実戦を潜り抜けてきている事は、これまでの彼の実績やその洞察力と物腰からも明らかだ。
 にも拘らず、僅かな傷一つ無いというのは、それだけ彼が傷一つ負う事なく圧倒的な力で勝利してきたという証明に他ならない。

(……とてもじゃないけど、勝てるとは思えないわね)

 背中に冷たい汗が流れる。震えを我慢するだけでも精一杯だった。
 逃げ出したい気持ちを必死に抑える。自分が捕まる光景。殺される姿しか思い浮かばなかった。

 やはり私の予想通り、彼だけは絶対に敵に回してはいけない相手のようだ。

 利用するつもりで近付いたはずが大変な事になった。
 恐ろしい魔獣の巣穴に足を踏み入れ、逆に逃げ場を失ったかのような感覚だ。
 そうなってくると、彼が味方か敵か、それとも中立の立場かで、私達の運命が決まってしまう。

「私、ずっと想像していたんですよ」
「想像?」
「大陸全土に名を馳せる大商会を一代で築き上げ、平民から大貴族の一人にまでのし上がった方って、どんな方なんだろうって」

 そうなる前に、彼の真意を知りたかった。だから意を決して、自分から話題を振る事にした。
 上手く行けば、この場をやり過ごす事も出来る。そんな打算的な考えもあった。

「俺はただの一般人ですよ」

 そう言って苦笑を漏らす彼。そんな言葉を信じられるはずがない。
 彼がただの一般人≠ネらば、私は死を覚悟したりはしない。

「周りは、そうは思っていないようですが?」
「……でしょうね。でも、俺自身は極普通の生き方しか出来ない、平凡な男ですから」

 その言葉の真意を計りかねたが、嘘を言っているような様子ではなかった。
 そこで直ぐに思い浮かんだのが、正木商会が掲げているという理念の話だ。

 ――より住みよい世界に

 そこから考えられる事は、『極普通の生き方しか出来ない』というのは平穏に生きる術しか知らない。それ以外の望みは自分には無いのだと言っているに違いなかった。
 信じる信じないは私次第だが、それが真実ならば彼の平穏を乱した時、彼は私達の敵に回るという事だ。
 目の前に、運命を左右するような大きな選択肢を用意されているのだと、私は気付いた。
 平凡な男とは良く言ったものだ。それは私に向けたメッセージ。彼なりの比喩だった。
 変に勘繰らなくても野心など無い。商会の理念、その言葉こそが真実だ、と言われてしまっては返す言葉も無い。

「ガッカリしました?」
「いえ、内心ほっとしました。それと」

 警戒どころか、最初から気付かれていた。
 ユライトとの関係まで気付かれているとは思わないが、私がこの屋敷の使用人などでは無い事に最初から気付いていたのだろう。
 本当に底が見えない人物だ。利用するつもりで、質問しているつもりでいて、いつの間にか彼のペースに引き込まれている。
 いつでも捕らえる事など出来たはずなのに、その上でこの茶番に付き合い、私の質問に答えてくれた。それが彼の答え。
 敵に回るのなら容赦はしない、と警告している一方。どうするかの選択は、私に委ねているのだ。

「もっと興味が湧きました」

 私だけで、今すぐに答えを出す事は出来ない。それが今答えられる、精一杯の正直な気持ちだった。

【Side out】





【Side:太老】

 風呂から上がり部屋に戻る途中で、洗面用具を手に持ったマリアとバッタリ会った。

「お兄様? 今、お風呂から上がられたのですか?」
「え? あ、うん。マリアはこれから風呂?」
「はい。それにしても随分と長湯だったのですね」
「ああ……まあね」

 マリアと別れてから、もう一刻ほどになる。確かに長湯といえば長湯だ。
 とはいえ、その理由を包み隠さず説明出来るはずも無かった。
 まさか、見知らぬ美人と二人で温泉に入っていた、などと言えるはずもない。
 その結果どうなるかなど、結果を想像するに容易かった。

「では、お兄様。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。マリア」

 マリアの後ろ姿を見送ってから、ほっと胸を撫で下ろす。変に勘繰られなくて本当によかった。
 正直、もう温泉関連のトラブルは勘弁願いたい。

「はあ……ゆっくり何事も無く風呂に入りたい」

 それは切実な願いだった。

【Side out】





 ……TO BE CONTINUED



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