ロンドン北部の高級住宅街ハムステッド。古い石造りの建物が多く建ち並ぶ閑静な住宅街に今、轟音が鳴り響いていた。
 プリンセス・アリスの邸宅。歴史と風格さえ漂う城のように大きな建物は今や倒壊の危機に直面し、邸宅を囲むように建てられた四本の塔のうち三本が破壊され、自然の景観美を追究した見事な庭園は荒れ地と化し、見るも無惨な姿を晒していた。
 これをやったのは、今もアリス邸の上空で激しい戦いを繰り広げている二人だ。
 イギリスの魔王『黒王子(ブラックプリンス)』の異名を持つアレクサンドル・ガスコインと、『青い悪魔』の名で恐れられる青髪の少女――守蛇怪・零式。
 人類にとって悪夢としか例えようのない史上最悪の戦いが、ここハムステッドで繰り広げられていた。

「くそっ! なんて奴だ!」

 アレクは必死に逃げながら悪態を吐く。雷光を身に纏い稲妻と化したアレクを、彼の得意とするスピードで翻弄する零式。速さを競う勝負でこれまで一度も負けたことのないアレクが神速の領域で追い詰められていた。
 ここ最近ずっと賢人議会とアリスの動向を窺っていたアレクだったが思わぬ情報が手に入り、その確認のためにアリス邸を訪れてみれば、そこでバッタリ零式と遭遇した。これが不運の始まりだった。

 青い悪魔――この名を知らない者は、魔術界にいない。

 アレクの治める王立工廠もこの悪魔の襲撃に幾度となくやられており、貴重な神具や魔術品の多くが彼女に奪われていた。
 青い悪魔が恐れられているもう一つの理由がそれだ。黒王子アレクと言えば『聖杯』の探求者として知られており、目的のためなら手段を選ばす『調べてみたい』からと言う理由だけで他人の物を奪うことに躊躇しない。持ち主の断りなく拝借状を送りつけたり、予告状を出して強奪するといった怪盗染みたことをするカンピオーネとして有名だ。
 そんなアレクの持ち物を盗むといった人間には考えもつかない非常識なことをする悪魔。それが零式だった。
 まさにアレクにとって天敵とも仇敵とも言える相手。そんな二人が出会って争いにならないはずがない。結果はこの通りだ。

「ここ最近、お父様のことをコソコソ嗅ぎ回っていたのはあなたですね!」
「お父様だと……っ! なんのことだ!」
「白々しい! お父様の敵は私の敵! 大人しく捕まるですよっ!」

 冗談ではない――と逃げるアレク。しかし、このままでは埒が明かない。それだけにアレクの表情にも焦りが見え始める。
 今のところは逃げに徹することでギリギリ零式の攻撃を避けられているが、それもいつまで保つかはわからない。しかし対策を講じようにも、これと言った手段がアレクには思いつかない。アレクが堕天使レミエルから簒奪した神速の権能『電光石火(ブラック・ライトニング)』は移動や逃げにはいいが、加減が難しく戦闘には余り向かない力だ。ましてや神速に対応できる敵が相手では尚更、優位に立つことが難しい。
 受けた攻撃や呪詛を相手に叩き返す『復讐の女神(ジャッジ・オブ・フューリーズ)』は、一定時間の瞑想と儀式を必要とするため、こうした突発的な戦闘には向かないし、この場で思いつく有効な攻撃手段と言えば、真っ先に女神メリュジーヌより簒奪した『無貌の女王(クイーン・ザ・フェイスレス)』がアレクの頭に過ぎるが、こんな開けた場所では『女王』を召喚するわけにもいかない。メリュジーヌの伝承にあるように、呪いによって蛇へと姿を変えた『女王』は人前に姿を晒すわけにはいかず、その召喚にも『女王は決して顔を見られてはならない』と言った厄介なルールが存在した。
 残された手は『さまよう貪欲(ウィアード・グリード)』か『大迷宮(ザ・ラビリンス)』を使い時間を稼ぐことだが、こんな場所で『さまよう貪欲』を使えば生じた重力球によってアリス邸は疎か、周囲の建物や自然は尽く吸い込まれハムステッドは崩壊する。

「厄介な……っ!」

  アレクはこんなことで命を懸ける気は毛頭ない。他のカンピオーネと違い、彼の目的はあくまで神秘の探求だ。
 そのためなら手段を選ばず、策謀を巡らし知略を駆使し思うが儘に行動する。謂わば、周りの迷惑を考えない冒険家と言ったところだ。
 しかし彼は、そんな非常識な行動を取る一方で冷酷になりきれない偽悪家でもあった。

「くっ、こうなったら仕方がない!」

 勝つ必要はない。こうなったら悪魔から逃げられるだけの時間を稼げれば十分だとアレクは考える。
 牽制のために周囲に雷を放つと、アレクはその隙を突いて逃げるように東へ飛び去った。
 しかし、そんなアレクを逃がすまいと後を追う零式。ロンドン最大の公園『ハムステッド・ヒース』へと戦いの舞台は移っていった。





異世界の伝道師外伝/異界の魔王 第28話『悪魔王』
作者 193






「うわあ……」

 廃墟と化したアリス邸を前に、太老は呆れたようにため息を漏らす。電話を受けた時から覚悟していたことだったが、これは余りに酷かった。
 まるで台風と地震と津波が一緒にきたような惨状だ。ここまで被害を受けては修繕するよりも、更地にして建て直した方が早いだろう。
 そんな荒れ果てた庭園の中央に、太老は人集りを発見した。

「アリスお嬢様。正木太老様をお連れしました」

 太老を案内してきたメイドの一人が、人集りの中央で屋敷の使用人に指示を飛ばす一人の女性に声を掛けた。
 膝下まで届く滑らかなプラチナブロンドの髪。透き通るような白い肌。淑やかなベージュ色のドレスに、肩に白いストールを羽織った女性はメイドの声で太老に気付き、にこやかな表情で笑顔を彼に向けた。
 この邸宅の主にして賢人議会の特別顧問アリス・ルイーズ・オブ・ナヴァール。プリンセス・アリスその人だ。

「ようこそ、お越し下さいました。御身をお呼び立てするような真似をしてしまい申し訳ありません」

 そう言って優雅に挨拶をするアリス。淑やかな振る舞いの中にも気品が漂って見えた。
 年齢は二十四歳という話だが、豊満な体つきをした白人女性には珍しく均整の取れた身体は、見た目以上にアリスを幼く見せる。

「もう、ご存じかと思いますが、私の名はアリス・ルイーズ・オブ・ナヴァール。『プリンセス』と呼んで下さる方もいらっしゃいますが、どうぞお気軽に『アリス』と呼び捨てにして下さい」
「これはご丁寧にどうも。ご招待に与り参上しました、正木太老です。俺も太老でいいですよ」

 アテナをホテルに残して来たのは問題をこれ以上大きくしないため。最悪の場合は戦闘が起こることも考慮して、ひかりや恵那も連れて来なかった。二人の護衛と何かあったときの連絡役に桜花にもホテルに待機してもらっていたくらいだ。それだけに覚悟していたのだが、どこか気さくなアリスの話し方に太老も少しほっとした様子で緊張を緩めた。
 そうして冷静になると太老のなかに罪悪感が込み上げてくる。こうなった原因の一端を零式が担っていたからだ。

「すみませんでした。零式が無茶を色々とやったみたいで……被害の補償は必ずさせて頂きますので」
「い、いえ、弁償は結構ですわ。このくらいの被害は想定済みなので。それに今回の件は私にも……」
「私にも?」
「こ、こちらのことですわ。それより太老様にお伝えしておくことが……」

 挙動不審なアリスの態度を訝しみながらも悪いの自分達だからと、太老は黙ってアリスの話を聞くことにした。
 アレクと零式が戦闘になったことは聞いていたが、その二人の姿が見えないことが気になっていたからでもあった。

「『ハムステッド・ヒース』をご存じですか?」
「ああ、観光名所にもなってる自然公園ですよね」

 ロンドンの北部に位置する『ハムステッド・ヒース』は、その大半を草原と森林に囲まれた自然豊かな公園だ。
 観光名所となっていることは勿論、地元の人達もピクニックや散策を楽しみに訪れ、ここで休日を過ごす人も多い。
 そんなロンドン市民にとって憩いの場となっている場所が今、

「アレクの権能『大迷宮』によって、今あそこは迷いの森と化しています……」

 迷宮と化していた。アリスの悲痛な表情からも問題の大きさが伝わってくる。
 アレクが魔力を注ぎ続けなければ三ヶ月ほどで『大迷宮』の効力は失われるとはいえ、三ヶ月もの間『ハムステッド・ヒース』を全面的に立ち入り禁止とするのはかなり厳しい。ロンドン市民の反発も強いだろうし、どう説明するかを今から考えると対策でアリスは頭が痛かった。
 しかし、やらなければ被害者を増やすばかりだ。一般人がアレクの造りだした迷宮から自力で生還できる確率はゼロに近い。

「なんで、そんなことに?」
「『青い悪魔』――太老様が『零式』と呼ぶ少女を足止めするために、アレクが使用したみたいです」
「それじゃあ、零式は……」
「はい、今頃は迷宮の中かと。アレクはその隙に逃亡。恐らく今頃は悠々と逃げているはずですわ!」

 忌々しそうにアレクの名を叫ぶアリス。ロンドンの崩壊といった最悪のケースを避けることが出来たとはいえ、こんな置き土産を残していかれては堪ったものではない。アリスは今すぐアレクを追い掛けて、文句の一つも言ってやりたい気持ちで一杯だった。
 しかし本気で逃げに入ったアレクを今から追い掛けるのは不可能だ。世界中を飛び回り、自ら盟主を務める組織にすら滅多に顔を出さない神出鬼没な男だ。いつイギリスに戻ってくるかもわからない男を捜すのは時間の無駄と言えた。

「そこでお願いがあるのですが……」
「お願い?」
「はい。避難が間に合わず『大迷宮』に囚われている一般人が複数いると報告が入っています。その救助をお願いしたいのです」
「ああ、そのくらいなら喜んで協力しますよ」
「本当ですか!」
「え、ええ」
「ありがとうございます! では、早速行きましょう! ミス・エリクソンが戻ってくる前にっ!」

 お礼を言うや、逃げ出すようにアリスは太老の手を引いて屋敷を飛び出す。
 これがまさか新たな誤解を生む切っ掛けになるとは、太老もこの時は思っていなかった。


   ◆


 ――魔術界に激震が走った。『青い悪魔』と『黒王子』の激闘でアリス邸は崩壊。『ハムステッド・ヒース』がアレクの権能で迷宮と化し、プリンセス・アリスは七人目の魔王『正木太老』に連れ去られたという噂が瞬く間に広まったからだ。
 そしてもう一つ魔術師達を驚かせたのは、今まで謎とされてきた『青い悪魔』に関する新情報だった。
 正木太老が四年前にヴォバン侯爵を倒したカンピオーネであることは既に知れ渡っている。そんななか数々の神を嗜虐し、魔術師達を恐怖のどん底に沈めた『青い悪魔』がアリス邸を襲撃し、その件に太老が関わっていたとなれば行き着く結論は一つしかない。
 悪魔と魔王は繋がっている。しかも状況から察するに『青い悪魔』を裏で操っているのは、正木太老である可能性が高いということだ。
 これには魔術師達も戦慄した。史上最悪の悪魔が、魔王の手先となれば人類に為す術はない。連れ去られたアリスの身を案じてはいても、魔王の手からプリンセスを救出しようと手を挙げる勇者が一人として現れなかったのもそのためだ。アリス邸の惨状は明日の我が身かもしれないと思うと、誰もプリンセスを助けようなどと口に出せない。少し力のある新参の『魔王』だと思っていた相手が、実際には悪魔を従える『悪魔王』だった。これは人類にとって悪夢としか言いようがなかった。

「蛇どころか、とんでもないものが出て来ましたね……」

 ロンドンから遠く離れた日本の大都市『東京』。正史編纂委員会のエージェント甘粕冬馬は、沙耶宮の別宅で今朝一番に届いたイギリスからの報告書に目を通していた。
 これほど早く情報が拡散したのは、各国の魔術師達が賢人議会の動向に注視してロンドンに人員を配置していたためだ。
 賢人議会がどれだけ情報を隠蔽しようとしても、あれだけ大っぴらに起こった大事件を隠し通せるはずもなかった。

「参ったよ。お偉いさん方の愚痴を聞かされるのは、これっきりにして欲しいね」
「これは馨さん。ご苦労様です。それで四家の方々の反応は?」

 リビングに顔を出した沙耶宮馨を労うように、頭を下げて出迎える甘粕。
 先程まで別室のビデオチャットで緊急の代表者会議を行っていた馨の表情は、どこか疲れきった様相を見せていた。

「色々だよ。草薙護堂との関係を強化して正木太老に対する抑止力とする意見や、これまで通り監視に留めるべきとする意見。共通して言えることは『触らぬ神に祟りなし』ってところかな。『青い悪魔』の飼い主が彼だったという話は、余程ショックだったと見える。皆、青い顔をしていたよ」
「それはそうでしょうね。私も内心、戦々恐々としていますから……」

 魔術師達にとって『青い悪魔』の名は今や禁忌となっている。これが欧州だけの問題なら対岸の火事とスルーすることも出来た。しかし『青い悪魔』の飼い主と噂される太老が日本に拠点を構えている以上、日本の呪術師達にとってそれは他人事では済まない非常に厄介な問題だ。

「結局、監視を継続。清秋院と万里谷に問題を丸投げすることになったよ」
「それはまた……」

 悪魔の目を自分達に向けさせないために、万里谷を悪魔の生け贄とするつもりなのだ。清秋院も正木太老との繋がりを得たはいいが、とんだ爆弾を懐に抱えた状態だ。何か問題が起これば直接カンピオーネに諫言することは難しくても、清秋院に責任を転嫁すればいい。そうすれば厄介な家の力を削ぐことが出来る。因習や権力に取り憑かれた老人達の考えそうなことだと馨は思った。
 今はどこも様子見を決め込むつもりだ。下手に関わって賢人議会のようになりたくないというのが一番の本音だろう。
 どの家も太老と関係を持つことの旨味よりも、今は恐怖が勝っていると言った方が正しい状況だった。

「で、馨さんはどうされるおつもりで?」
「一度、本人に会ってみるかな。正直なところ老人達の考えているようなことには、ならないと思ってるんだよね」

 四年前の事件然り先日のヴォバンとの一件を考えても、そう理不尽な要求はされないだろう。
 他のカンピオーネと同じく常識は通用しないと考えた方がいいが、正木太老は人を人と思わない傍若無人な王という感じでもない。これまでの事件や『青い悪魔』の所業から考えれば、目的のためには躊躇をしない性格をしていることは窺えるが、話の通じない相手ではなさそうだ。
 なら、どうするかを決めるのは本人に会ってからでも遅くはない。どちらにせよ、監視は必要なのだから――と馨は考えていた。
 恵那やひかりから或いは何らかの情報を得られないかと馨は期待していたが、状況に進展は見られなかった。
 何も知らないと二人は言っていたが、何かを隠していることだけは確かだ。しかし、それを無理に聞き出すような真似は出来ない。そうして魔王の怒りを買うことを委員会は一番恐れていた。

「恵那やひかりは既に取り込まれているみたいだしね」

 馨は苦笑する。
 ある意味で予想した展開ではあったが、今では恵那とひかりが何も話さなかった理由が少しわかった気がした。
 下手をすれば、『青い悪魔』との関係すら霞んで見える大きな秘密を隠している可能性もあるということだ。

「はあ……それで具体的には何を?」
「九法塚から、例の件どうにかならないかと相談を受けてるんだよね」
「まさか、あれを? 自殺行為では……あの御仁が許可されるとは思えないんですけどね」
「だよね。だから九法塚も頭を悩ませてるんだと思うよ。ひかりが正木太老の庇護下に入った以上、彼女への下手な接触は自分達の首を絞める結果に繋がりかねない。最悪、草薙護堂を含めて二人の王に目を付けられるリスクを考えたら、とてもじゃないけど言い出せるはずもないさ」

 九法塚と言えば、日本の呪術界を統べる四家の一つだ。沙耶宮とも繋がりが深い。それだけに馨は九法塚から、ある相談を受けていた。しかし、その相談の内容というのが厄介だった。
 万里谷ひかりに関することだ。太老は勿論のこと話が伝われば護堂も黙ってはいないだろう。確実に厄介なことになる。

「かと言って、どうにかしないと九法塚は役目を果たせない。百年振りに現れた禍払(まがばら)いの能力者だからね。諦めきれないんだと思うよ」

 四家には呪術家の大家としてのしがらみと役目がある。そのなかでも九法塚の役目には特別な力が必要で、ここ百年はその能力を持った媛巫女が現れなかったために役目を果たせないまま肩身の狭い思いを強いられてきた。そんななか現れたのが万里谷ひかりだ。彼等にとって、ひかりの才能は九法塚が嘗ての影響力を取り戻し、役目を果たすために必要な力だった。
 それだけに諦めが付かないのも無理はない。相談を受けた馨も、これにはどう対処すべきかと頭を悩ませていた。
 九法塚の気持ちもわかるが、カンピオーネと事を起こすのは絶対に避けたい。下手をすれば九法塚だけでなく組織存続の危機へと発展しかねない問題だ。
 だからと言って、無視することも出来ない。古くから続く呪術師の家には色々としきたりがあり、時に過ぎた因習は個人の人格や意思を否定する。特に頭の固いのが老人達だ。余り問題を先送りすれば、一部の勢力が暴走する可能性もあるだけに放置するといった選択肢はなかった。
 なら、暴走をされる前に手を打つべきだと馨は考えた。上手く行けば、少しは風通しがよくなるかもしれない。

「では……」
「うん。そういうことで悪いんだけど、目を配っておいてくれるかな?」
「了解しました。しかしまあ、次から次へと大変ですね……」
「これも運命と思って諦めるしかないね」

 馨と甘粕は同時にため息を漏らす。当然そんな二人に夏休みがあるはずもなかった。





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