時は少し遡る。
 嘗ては世界最大の港と知られ、現在ではテムズ川の河口に位置するロンドン港。そこにSFの世界から飛び出してきたかのような、先鋭的な姿をした全長百メートルを超す巨大な船が停泊していた。
 守蛇怪・零式――七人目のカンピオーネと噂される男の船だ。

 この突然の魔王のイギリス訪問に驚いたのは魔術師ばかりではない。
 イギリス女王を始め、政府や軍は何が目的かと戦々恐々とした思いを強いられることになり、まさか二人の魔王を打ち倒し、東欧を支配下に置き、その力を誇示する魔王を刺激する訳にもいかず、ただ黙って状況を受け入れるしかなかった。

 しかし、このままと言う訳にはいかない。
 誰かが魔王と謁見し、その目的を尋ねなくてはならない。そこで白羽の矢が立てられたのが、パトリシア・エリクソンだった。
 祖国と女王を魔王という脅威から守るために作られた組織。それが賢人議会だ。
 白き巫女姫の側近として仕え、アリスと共に魔王と深く関わる経験を持つ彼女だからこそ、今回の交渉に最適と判断された結果だった。

「お待ちしていました」

 そう言ってエリクソンを出迎えたのは、メイド服に身を包んだカレンだった。
 カレンの案内で船内へと足を向けるエリクソン。魔王の城とも言うべき、その場所に彼女は護衛も伴わず一人でやって来た。
 相手が魔王なら、人間の護衛など何の役にも立たない。魔王の機嫌を損ねれば、抵抗する間もなく一瞬で殺されて終わりだろう。
 ここに彼女が一人でやって来たのは交渉が決裂した時のことを考え、犠牲を最小限に留めるためでもある。
 いや、そもそも魔王を相手に、通常の交渉など何の意味もない。人間は魔王には逆らえぬのだから――
 魔王の要求を聞き出すこと。それだけがエリクソンに課せられた仕事だった。

(これが、報告にあった魔王の船……)

 はっきりとしたことはわかっていないが、この船がイタリア海軍を壊滅させたという報告もある。
 近代兵器を無効化するほどの力を持った船が、普通の船であるはずがない。魔王の持ち物と言うだけで警戒に値する。
 恐らく何らかの権能が使われているのだろうとエリクソンは推察する。いや、神獣を呼び出し、迷宮を造り出す権能が存在するくらいだ。この船自体が、何らかの権能によって生み出された物と考えることも出来る。
 神より簒奪した権能は使い手によって、その能力が異なるとされている。この先鋭的な姿も持ち主の能力によるもの、もしくはカモフラージュであると考えれば理解できないわけではなかった。

「こちらです。この道を真っ直ぐお進みください」

 重厚な銀色の扉が、プシュという音と共に左右に開く。
 その先の通路は、ぼんやりと足下が光っているだけで漆黒の闇が広がっていた。

(この先に……魔王が……)

 ゴクリと唾を呑み、カレンに促されるまま暗闇へと歩みを進めるエリクソン。
 何者かに見られているかのような、張り詰めた空気が肌を刺す。罠に嵌められたかと考えたが、エリクソンはすぐにその考えを振り払った。
 こんな罠に嵌めずとも、魔王なら一瞬で自分の命を刈り取ることが出来ると思い至ったからだ。
 今は言われた通りにするしかない。
 そう覚悟を決めた時、青白い光が彼女の身体を包み込んだ。

「な、なに!?」

 エリクソンの身体が奇妙な浮遊感と共に消失する。
 次の瞬間、彼女の目に映る世界が上書きされた。

「これは……」

 先程まで自分はどこにいた?
 確かに船のなかにいたはず。
 思わずエリクソンは息を呑んだ。
 見たこともない幻想的な景色が、彼女の前に広がっていたからだ。

「嘘でしょ……」

 群青に輝く空に、地平線にまで広がる森。
 自分の立っている場所を確認して、彼女は更に驚きで表情を強張らせる。
 巨大な大樹。そうとしか例えようのない場所に、彼女は足を付けていた。
 最初は転移を考えた。確かに高度な術式ではあるが、カンピオーネほどの膨大な呪力を持ってすれば不可能ではない。しかし、すぐにその考えを振り払う。
 こんな場所は地上のどこにも存在しない。そして彼女の五感が、この世界が偽りでないことを証明していた。
 肌に触れる風の心地よさ。身体に染み渡る空気の味。清純な緑の香り。
 偽りなんかじゃない。確かに、この世界は存在する。

「ようこそ、『守蛇怪・零式』へ」

 背後から掛けられた声に、動揺を隠しきれないままエリクソンは振り返る。
 そこには一人の若者が立っていた。
 歳の頃は二十代前半と言ったところ。黒髪に東洋人を思わせる顔立ち。
 ――間違いない。エリクソンは許しを請うように膝をつき、(こうべ)を垂れる。

「お招きに応じて参上致しました。カンピオーネ――正木太老様」

 それが彼女と魔王の最初の出会いだった。





異世界の伝道師外伝/新約・異界の魔王 第14話『魔王の要求』
作者 193






「太老も人が悪いわね。真っ青な顔をして帰ったわよ。彼女……」

 エリクソンとの対談を終えたのが、つい先程のこと。
 ふらふらとした足取りで顔を青くして帰って行ったエリクソンを見て、エリカは他人事のように思えず太老を批難した。
 まだ自分の足で歩いて帰れただけマシというもの。彼女でなければ気を失っていただろう。

「いや、そうしろって提案したのエリカだよな?」

 賢人議会の使者を出迎えるにあたり、交渉を有利に進めるためにエリクソンをここに案内するように提案したのはエリカだ。なのに、そんな風に批難をされては堪らないと太老は愚痴を溢す。
 話し合いの結果、表向きはカンピオーネであると、太老は受け入れることを決めていた。何度も事情を説明するよりは、そうして勘違いをしてくれていた方が面倒が少ないと考えたからだ。
 それに大抵のことは、権能であると説明してしまえば誤魔化すことが出来る。強大な力を持つ王であるということをアピール出来れば、相手も迂闊な行動は取れないし、いざと言う時、交渉を有利に働かせることが出来る。
 もっとも、賢人議会ほど大きな組織ならバカなことはしないだろうが、長年カンピオーネを研究してきた組織だ。油断のならない相手だということはエリカも理解していた。
 そのため、魔王の威光を示すためにこのような方法を取ったのだが、悪い意味で効果がありすぎた。

「確かにその通りだけど……アテナを紹介しろとまでは言ってないわよ?」
「でも、アテナのことは伝えておいた方が良いって言ってなかったっけ?」
「それはそうだけど……タイミングってあるでしょ? あれじゃあ……」

 アテナを紹介された時のエリクソンの顔は酷かった。
 血の気が引いたように顔を真っ青にして、この世の終わりみたいにガクガクと震えていた。
 必死に恐怖を隠そうとしていたようだが、傍目から見ても動揺を隠しきれていなかったことがわかる。
 太老はただアテナが一緒だということを相手に伝えたつもりなのだろうが、エリクソンからしてみれば強大な力を見せつけられ、更には『まつろわぬ神』という災厄を喉元に突きつけられ、脅されているようにしか取れない。
 しかも、太老の要求は――

「その上、プリンセスの身柄を要求するなんて……」

 敬愛する(あるじ)を差し出せと言われ、エリクソンの心中は如何ほどだったことか。
 アリスは太老が思っている以上に、賢人議会――このイギリスにとって、なくてはならない重要人物だ。
 魔術界においては、政府や女王よりも権威のある存在。天の位を極めた魔女、白き巫女姫の名は伊達ではない。ましてや、公爵家令嬢という立場もある。
 魔王に『差し出せ』と言われれば断ることは難しいが、だからと言って簡単に魔王の脅しに屈し、身柄を引き渡せるような人物でもなかった。


   ◆


 ロンドン・グリニッジ賢人議会。議会はエリクソンの報告で騒然としていた。
 アリスを魔王の要求通りに差し出すか?
 それとも徹底抗戦の構えを取るか?
 しかし、どれだけ議論を重ねても、後者を選べないことくらい彼等にもわかっていた。

 近代兵器が通用しないことは、イタリア海軍がその身をもって実証したばかりだ。
 魔術もまた同様。カンピオーネに魔術が効かないことは、魔術師ならば誰でも知っていることだ。
 ましてや二人の魔王を打ち倒した強大な魔王に、人の身で勝てる可能性は万が一にもない。
 魔王を倒すことが可能なのは、同じ魔王か、まつろわぬ神くらいのものだ。
 ここで要求を拒否すれば、賢人議会は――いや、イギリスは魔王の怒りを買い、滅ぼされる可能性すらある。
 そんな危険を冒すような真似が絶対に出来ないことくらい、彼等は理解していた。

「やはり、プリンセスを魔王に差し出す他あるまい」

 議長が苦しげな表情で口を開く。
 賢人議会が魔王の脅しに屈するなど、本来あってはならないことだ。しかし、どんな手を使っても祖国と女王を魔王の手から守らなければならない。アリス一人のために、国を危険に晒すことは出来ない。彼等が取れる選択肢は他になかった。
 議長の決定に誰も口を挟まない。反対することなど出来るはずもなかったからだ。

「異論はないな。では――」
「まあ、少し待て」

 議長の言葉を何者かの声が遮った。
 一斉に声のした方を振り向く議員達。その姿を眼に映した途端、議員達の顔に動揺が走る。

「俺に考えがある。お前達さえよければ、任せてはみないか?」

 そこには、ダークグレーのスーツに身を包んだ黒髪の青年が立っていた。
 高い背にガッシリとした体格、欧米人特有の彫りの深い顔立ち。
 一見すると怒っているようにも見える愛想のない表情を浮かべ、男は議員達の前に姿を見せた。
 アレクサンドル・ガスコイン。このイギリスで彼の名を知らぬ者はいない。
 自ら『王立工廠』と呼称する組織を束ね、その風貌と若さから『黒王子』の異名を持つカンピオーネ。
 アリスの宿敵にして、賢人議会にとって最も警戒すべき男。それが彼だった。


   ◆


 アリスとアレクの仲が悪いというだけで、賢人議会がアレクを警戒しているわけではない。
 一見すると、貴公子と呼ぶに相応しい人柄に見えるアレクではあるが、その実はカンピオーネであることに変わりはない。
 彼によって引き起こされた事件は数知れず、大英図書館襲撃事件、欧州魔術界を騒然とさせた魔導杯強奪事件など、彼が何か事件を起こす度に賢人議会は彼率いる王立工廠と対立を余儀なくされてきた。
 そもそもコーンウォールに王立工廠の拠点を構えたのでさえ、グリニッジへ拠点を構える賢人議会への嫌がらせに過ぎない。
 そんな人物が、魔王の横暴に苦しむ賢人議会へと手を差し伸べた。
 それも宿敵のアリスを助けるためだと聞けば、何か裏があるに違いないと考えるのは自然なことだ。
 当然、賢人議会はアレクが何かを企んでいることくらい気付いていた。
 しかし他に代案もなく、ましてや提案を拒否したところでアレクがすんなりと諦めるとは思えない。
 この上、アレクと事を構えることを恐れた賢人議会は、彼の提案を呑まざるを得なかった。

「それで、何を企んでいますの?」
「心外だ。俺は責務を果たそうとしているに過ぎない。まつろわぬ神が現れたのであれば、それを討つのはカンピオーネの務めだろう?」

 アレクの三文芝居じみた言葉を、そのまま鵜呑みにするアリスではない。
 アレクという男が、そのような気遣いが出来る人物でないことくらい、アリスが一番良く理解していた。
 ましてや、『カンピオーネらしく』という言葉が、これほど似合わない男はいない。

「寧ろ、何かを企んでいるのは貴様ではないのか?」
「……なんのことかわかりませんわ」

 さらっと白を切るアリス。そう、この男は頭が回る。
 他の魔王と違い、良くも悪くも魔王らしくない魔王。それがアレクという男だ。
 神経質で気になったことは、とことん調べないと気が済まない性格。変に頭が回る分、目的のためには今回のように策略を巡らせ、政治にまで口を出してくることがある。一筋縄ではいかない厄介な男――というのがアレクへの印象だ。
 恐らくアリスと太老の密約に関しても、それとなく気付いているのだろう。頭が良く回る癖に、妙に勘が鋭い。こういったところは他のカンピオーネと変わらないのだから、面倒なこと極まり無かった。

「一つだけ忠告しておきます。何を企んでいるかはわかりませんが、油断をしていると足元をすくわれますわよ」
「それは経験談か?」
「どうとでも取ってください」

 実際、今のこの状況はアリスにとって、まったくの予想外だった。
 今更この状況を作り出したのは自分です――などと白状できるはずもない。
 まさか、ここまでの騒ぎに発展するとは予想もしていなかったからだ。
 エリクソンは疑っているようだが、まだバレてはいない。なら、このまま流れに身を任せるしかない。

(きっと大丈夫……ですよね?)

 アリスは知らない。
 太老を計画に組み込んだ時点で、この計画は破綻していることを――
 そしてそれは、策略を企てるアレクサンドル・ガスコインにも言えることだった。





 ……TO BE CONTINUDE



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