イギリス西部に位置するブリストルは、石造りの建物に古い街並みが今も残る港湾都市だ。
 太老達はこの街で準備を整え、車でサマセットへ向かうことになっていた。

「えっと、まずは何を買うんだ?」
「調味料を調達した後、日用品の買い出しですね」

 太老とリリアナは繁華街へ買い物に来ていた。
 桜花やエリカの目を欺くため、表向きは備品や食料品などの買い出しと言うことになっているので、リリアナはいつもと同じメイド服姿。太老は半袖のシャツに白地のジャケット、下はジーンズにスニーカーと、こちらもいつもと変わらぬラフな格好だ。
 カレンから手渡された買い出し用のメモを片手に、リリアナは太老に付き添うように並んで歩いていた。

「人が多いな」
「この辺りで一番大きな繁華街ですから。それに今日は休日で……」
「リリアナ、危ない!」

 後ろから来た通行人とぶつかりそうになり、咄嗟に太老はリリアナの手を取って胸に引き寄せた。
 吐息が触れるほど近くに太老の温もりを感じ、リリアナの胸が激しく鼓動する。

「……大丈夫か?」
「あ、はい。ありがとうございました」

 また一つ、リリアナの胸が激しく波打った。
 手は握られたままだ。その手を伝って、太老の体温が伝わってくる。

(手を取って、人の少ない方に誘導してくれているのか)

 飾り気のない優しさ。太老の何気ない気遣いに触れ、リリアナは更に頬を紅くする。
 得に意識をしてやっている訳では無い。これが『フラグメイカー』や『幼女ホイホイ』と呼ばれる太老の自然体だった。
 普通、リリアナのような美少女と手を繋げば、照れて動揺するくらいはありそうだが、幼い頃から女性ばかりの環境で育った太老は、女性に対する免疫力が非常に高かった。
 しかも、周りにいたのは銀河でも有数の美女・美少女ばかりだ。さすがに裸でベッドに潜り込まれれば動揺するが、過剰なスキンシップを好む女性達に囲まれて育ったため、ちょっとやそっとのことでは動じない性格になっていた。

(やはり、女慣れしている。それもそうか……)

 勘違いとも言えない、的を射た評価を太老に下すリリアナ。
 しかし、男とデートなどしたことのないリリアナにとって、それはある意味で救いだった。
 リリアナの知る男と言えば、祖父や父くらいのものだ。男に対して免疫のないリリアナは、家族以外の男性をほとんど知らない。ましてや、こんなにも大勢の人がいる場所で異性と手を繋いで歩くなど、リリアナにとって未知の体験だった。

「リリアナ? 顔が紅いけど、もしかして周囲の熱気にでもやられたか?」
「い、いえ! だ、大丈夫です!」
「そうか? 辛いなら無理せず言うんだぞ」

 自分でもわかるほど身体が熱かった。
 頬が先程にも増して紅潮していくのが、リリアナにもわかる。
 このままではまずいと思いつつも、嬉しさや恥ずかしさが入り交じって感情を抑制できない。

(これが、ご主人様の手……)

 初めて触れた太老の手は、小柄なリリアナの手に比べ、とても大きかった。
 ふと、太老の横顔を見上げるリリアナ。こうしてみると、どこにでもいる普通の青年だ。
 その穏やかな顔付きからは、彼が世に恐れられる魔王の一人には、とても見えなかった。





異世界の伝道師外伝/新約・異界の魔王 第20話『リリアナの選択』
作者 193






「暇……」

 特にやることもなく、桜花はテレビを見ながらゴロゴロと、だらけた様子でソファーに俯せになっていた。
 エリカはトレーニングルームで積み木特訓の真っ最中。アリスは車の手配や、念のため地元の結社に繋ぎを取っておきたい、と言ってカレンを供に出掛けている。
 アリアンナは夕飯の準備に掃除や洗濯とメイドの仕事があるし、リリアナと太老は買い出しに出ていた。
 自分も太老に付いていけばよかったと少し思わなくもない桜花だったが、そうしたなかったのは彼女自身だ。
 実のところ、カレンとリリアナが何か悪巧みをしていることに、桜花は気付いていた。
 内容まではわからないが、それが彼女達が所属する結社の指示であることも予想が付く。しかし、太老にそうした企みが通用しないことは、桜花が一番よく知っている。どんな悪巧みをしようと、それが太老を害する行為なら、彼女達の企みが成功することはない。
 それに――

(あんな顔をされちゃあね……)

 リリアナが太老に向ける感情まで嘘だとは思えなかった。女としての勘だ。
 そのことから、何を企んでいるのかはわからないが、太老に任せてみようと桜花は考えたのだ。
 ここで自分が出て行ったところで、彼女達に余計な警戒心を与えるだけだ。それに、リリアナの気持ちがわからない訳でもない。彼女は顔に出やすい。何かに悩み、思い詰めていることに桜花は気付いていた。
 太老との仲を応援するつもりはないが、あんな顔をして思い悩んでいる相手を、更に追い詰めるような真似は桜花とてしたくなかった。

「後で、たっぷりお兄ちゃんパワーを補給しないと」

 とはいえ、ヤキモチを焼いていない訳では無かった。
 お兄ちゃんパワーは、桜花にとって必要不可欠なエネルギー。それがないと彼女は暗黒サイドに堕ちてしまう。
 そうなって一番困るのは太老だが……。
 とにかく、そんなこんなで桜花は暇を持て余していた。

「――ッ! アテナ、一緒にゲームでもしない?」

 暇人(なかま)を見つけたとばかりに、リビングに顔を出したアテナに声を掛ける桜花。
 キラキラと目を輝かせ、強引にアテナの手を引き、自分の隣に座らせる。

「はあ……」
「どうしたの? やっぱり格闘ゲームより、パズルゲームの方がいい?」

 智慧の女神と言うくらいだし、頭を使ったゲームの方がいいかと思った桜花だったが、アテナのため息はそれと違っていた。

「あなたは不思議な人だ。神にこうも気安く接する人間など、見たことがない」
「んん? それって不思議なこと? お兄ちゃんもでしょ?」
「太老は神殺し≠ネのだろう? しかし、あなたは人だ。もっとも、普通の人間とは少し違うようだが……」

 実際のところ太老が神殺しであろうとなかろうと、目的の邪魔をしないのであれば、アテナからすれば大した差はなかった。
 追っていた『蛇』の気配が突然感じられなくなり、途方に暮れていたところを助けてくれたのだ。寧ろ、こうして協力してくれていることに、彼女は感謝すらしている。
 しかし、不可解なのは平田桜花と名乗る少女だ。本人は、自分は『神殺し』ではないと言っているが、アテナの機知が彼女は危険だと告げている。戦えば、ただでは済まない相手だと警笛を鳴らしていた。
 ただの人間が、神殺しですらない人間が、神を相手にありえない。しかし、アテナは自分の勘に絶対の自信を持っている。故にわからないのだ。平田桜花という少女が――

「私の正体……そんなに知りたい?」
「――ッ!」

 一瞬、桜花から得体の知れない気配を感じ取り、アテナは条件反射で席を立ち、身構えた。
 神であるはずの自分が、汗を流していることにアテナは驚く。
 それが恐怖だと理解するのに、然程時間は掛からなかった。

「なーんてね。冗談だって、そんなマジにならないでよ」
「あなたは……」
「さっきの答えだけど、私は人間よ。少なくとも、私はそう思っている」
「その言葉を信じろと?」

 少なくとも、今の殺気は人間にだせるものではない。
 神に恐怖を抱かせるなど、普通の人間には到底できないことだ。
 桜花の言葉を素直に信じるほど、アテナは愚かではなかった。

「信じる信じないはあなたの自由。でも、私はあなたの敵じゃない。お兄ちゃんが、あなたを家族≠セと認めている以上はね」
「妾が、太老の家族だと?」
「少なくとも、お兄ちゃんはそう思ってるでしょうね」

 アテナからすれば、まったく理解に苦しむ話だった。
 この世界の常識、理から逸脱している。智慧の女神と言えど、初めてのことばかりだ。
 おかしなことを言う人だ、とアテナは思う。

「私からも一つ質問していい?」
「……なんだ?」
「あなたは探し物を見つけて、どうするつもりなの? いえ、どうしたいの?」
「知れたこと。闇と大地と天上の叡智を再び、この手に。妾は三位一体の姿を取り戻す」
「それは結果でしょ? 私が聞きたいのは、そうして力を取り戻したあなたが何をしたいのか、ってこと」

 考えもしなかった質問に、アテナは目を丸くして固まる。
 力を取り戻したあとのことを考えなかった訳じゃ無い。自由気侭に生き、思うが儘に力を振るう。それが恐らく、まつろわぬ神として正しい在り方。しかし、そこに明確な目的がある訳では無かった。

「ねえ、もっと人生を楽しんだら?」
「……それが、妾をこの遊戯に誘った理由か?」
「ゲームもそうだけど、何か趣味を持つとか。ネットで色々と情報を仕入れてるんでしょ?」
「む、むう……」
「人間だから、神様だからっていうのは、今時ナンセンスだと思うよ」

 桜花の知っている神様と言えば、マッドだったりストーカーだったり色々だ。
 人間以上にバカをやっているような気の良い人達ばかり。
 アテナだって自分で気付いていないだけで、人間臭い部分はたくさんある。

「そう言えば、元の姿を取り戻したら成長するんだよね?」
「う、うむ」
「成長かあ……それは拘るわよね。ずっと、ぺったんこなんて嫌だもんね」

 どこか実感の籠った声で遠い目をして天を仰ぐ桜花を見て、アテナは何とも言えぬ寒気を感じた。


   ◆


 一通り買い出しを終えた太老とリリアナが向かった次の目的地。
 それは――

「リリアナ……本当にここに入るのか?」
「えっと、はい。ダメ……ですか?」
「ダメってことはないけど、それなら俺は外で待っていた方が……」
「お、お願いします! こんなところで私を一人にしないでください!」
「いや、そうは言うけど……」

 女性用下着の専門店。欧州各地に支店を構える有名なランジェリーショップだった。
 セレブ向けの高級下着を主に取り扱っている老舗ブランドと違い、若者をターゲットにしたアーティスティックなデザインと、お手頃な価格が魅力の新進気鋭のブランドで、カレン一押しの店でもあった。

「まあ、仕方ないか……」

 リリアナの買い物に付き合うと約束したのは自分だ。太老は観念した。
 それに、まったく恥ずかしくない訳ではないが、こうした店に入るのは初めてではない。
 実際、店内には男性の姿もちらほらと見える。日本では奇異に映るが、欧州では珍しくない光景だ。
 下着選びに付き合わされたこともある太老からすれば、この程度は動じるほどでもなかった。
 しかしリリアナは、想像していたのと違って場に慣れている太老に戸惑いを見せる。

(ぐっ……意外と冷静だな。これでは、私の方が緊張しているみたいではないか)

 その通り、リリアナは羞恥心も相俟って酷く緊張していた。
 ランジェリーショップに男と一緒に入るのは初めてのことだ。
 しかも、隣にいるのは四年前に命を助けられてからと言うもの、気になっている運命の相手。
 この状況で平常心を保てるほど、リリアナは経験豊かではなかった。

「リリアナ、どうかしたのか?」
「い、いえ。なんでもありません! こ、これなんて、どう思いますか?」

 無造作に近くにあった下着を手に取り、それを太老に見せるリリアナ。
 それは、中身が透けて見えるシースルー素材の、かなり際どい黒の下着だった。
 ガーターベルトにストッキングまでセットとなった本格的な代物だ。少し過激なデザインではあるが、似合う似合わないで言えば、リリアナの白い肌に黒の下着は良く映えるだろう。とはいえ、コメントに困る下着であることは間違いなかった。

「ああ、うん。似合うとは思うけど、少しリリアナには早い……かな? 俺的には、もう少し落ち着いたデザインの方が良いと思うぞ」
「え……?」

 冷静さを装った太老のコメントに、ようやく自分を取り戻すリリアナ。視線を下にずらし、手にした下着に気付く。
 本当に隠す気があるのかわからない、布越しに向こうが透けて見える薄い生地。エリカでさえ、こんな下着は身に着けていないだろうと思わせるほど、それはリリアナにとって過激な内容の下着だった。
 自分のしでかした失態に気付き、リリアナは顔を真っ赤にしてプルプルと肩を震わせる。

「きゃ……」
「きゃ?」
「きゃあああああああっ!」

 突然、壁を隔てた大通りに響くほど、大きな悲鳴を上げるリリアナ。
 この後、悲鳴を聞きつけた店員に警備員を呼ばれ、リリアナの手を取って慌てて逃げ出す太老だった。


   ◆


「……酷い目に遭った。あの店には、もう行けないな」
「申し訳ありませんでした……」

 シュンと落ち込み、深く反省するリリアナ。その表情は暗い。
 それもそのはず。感情に身を任せ、仕えるべき主に迷惑を掛け、窮地に追い込んだのだ。
 普通なら叱責もの。どんな罰を与えられても、文句を言えない大失態だった。
 しかも相手は魔王。魔王の怒りを買えばどうなるか、わからないリリアナではない。

「ああ、もういいよ。俺も悪かったしな」
「いえ、ご主人様は何も悪くありません! 私があそこで声を上げなければ――」
「じゃあ、お互い様ってことで。俺も、もうちょっと言葉に気を遣うべきだった」

 これで終わりとばかりに話を終わらせる太老に、リリアナは「はあ」と気の抜けた返事をする。やはり、リリアナの知る魔王と太老は大きく違っていた。
 噂されているような非道な魔王には、とても見えない。なんとも不思議な王様だった。
 だからと言って、先程の失敗がなかったことになる訳では無い。太老が許すと言ったところで、リリアナの気持ちは落ち込んだままだ。
 そんなリリアナの気持ちを察してか、太老は『それなら』と別の話題を振る。

「次は、俺の買い物に付き合ってくれるか?」
「え……はい。それは別に構いませんが……」
「なら、決まりだ」

 ニカッと微笑むと、太老はリリアナの手を取って歩き出す。

「あ、あの……どちらへ?」
「特に決めてない。色々と見て回ろうぜ」
「え、それはどういう?」

 太老の考えがわからないまま、リリアナはただ、その後に付いていくしかなかった。


   ◆


 楽しい時間はあっと言う間に過ぎる。ベンチに腰掛け、リリアナは一息つく。
 そんな彼女の隣には、買い物袋を挟んで太老が座っている。
 街を照らす月明かり。日は沈み、すっかり辺りは暗くなっていた。

「んー、久し振りに自由を満喫したな。リリアナはどうだ?」
「あ、はい。楽しかった……です」

 最初は太老に連れ回され戸惑ってばかりいたリリアナも、時間が経つにつれ、自然とデートを楽しむようになっていた。
 そう、それはリリアナが夢にまで見た。デートそのものだった。
 ショッピングをして、ジェラートを食べ、一緒に並んで公園を歩く。
 小説の中の出来事ではなく、実際に太老とデートをしたのだと思うと胸が熱くなる。

「俺も最近色々と思うことがあってな。息抜きがしたかったんだ」

 その言葉に嘘はないのだろう。
 しかしリリアナにはどこか、それが自分を気遣っての言葉のように思えてならなかった。
 今、振り返ってみれば、太老の行動の一つ一つに、自分への気遣いをリリアナは感じる。
 そんな太老の優しさは、リリアナが思い描いていた魔王の姿と大きく異なっていた。

「ご主人様は、どうしてカンピオーネに?」

 だから、自然とそんな質問をしていた。
 リリアナのなかで、もっと太老のことを知りたいという感情が湧き起こる。

「敢えて言うなら、成り行きだな」
「成り行きですか?」

 まったく予想もしていなかった答え。
 成り行きで、神を殺せる人間がいるとは驚きだ。

「自分に出来ることをしたら、何故か『魔王』なんて呼ばれるようになってた。ただ、それだけだ」
「自分に出来ることを……」

 太老の気負いのない言葉は、リリアナの胸に深く突き刺さる。
 その言葉の意味を考え、太老が魔王らしくない理由が、リリアナには少しわかった気がした。
 自分らしく――口にするのは簡単だが、それを実行するのは容易くない。今のリリアナがそうだ。
 様々なしがらみに囚われ、彼女は自分の意思で選択することが出来なくなっていた。

「私は……」

 終わりにするつもりだった。
 太老との思い出が作れれば、それで十分だと。自分には過ぎた願いだと思っていた。
 なのに、今は――

「これは……?」

 そんなリリアナの手に、綺麗にラッピングされた小さな袋が載せられた。
 太老から手渡された紙袋の意味がわからず、戸惑いの表情を浮かべるリリアナ。

「やっぱり、あの願い事だけじゃ不公平だと思ってな」
「え?」

 太老が何を言っているのかわからない。
 リリアナは既に願いを叶えてもらった。いや、それ以上の思い出を太老から受け取っていた。
 これ以上、望んではダメだとさえ、彼女は思っている。なのに――

「俺も楽しんでたら公平とは言えないだろう? だから、これは今日のお礼だ」

 わからない。考えてはいけないはずなのに、どうしてか、自然と涙が溢れてくる。
 ポツポツとリリアナの頬を伝って、こぼれ落ちる涙。
 それは嬉しさからか、太老を裏切っている罪悪感からか、リリアナにもわからない。

「おい、リリアナ……」

 心配そうに自分の顔を覗き込む太老を見て、リリアナは不思議な温かさに包まれた。

(やはり、私はご主人様のことが……)

 これまで抱えていた悩みが、嘘のように晴れていくのをリリアナは感じる。
 それは、自分がどうしたいのかを考え、覚悟を決めた瞬間だった。

「ご主人様……ありがとうございました」

 助けられたあの日から、ずっと伝えたかった言葉。
 四年前から止まっていたリリアナの時間が、ようやく動き始めようとしていた。





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