イタリア半島の西方、地中海に位置するサルデーニャ島では現在、観光客や島民の避難が大急ぎで進められていた。
 政府より避難命令が勧告されたからだ。理由はサルデーニャ近海において海底火山の活動が観測されたとのことだった。
 とはいえ、そんなものは表向きの口実に過ぎない。
 実際の理由は、この島がカンピオーネとまつろわぬ神の戦いの舞台に選ばれた不運にあった。
 とはいえ、サルデーニャ島は地中海においてシチリア島に次ぐ大きさを誇る島だ。その人口は百六十万人を超える。一口に避難と言っても百六十万人もの人間を移動させるとなると、イタリア中の魔術結社が総力を結集しても簡単に行く話ではない。そのため、イタリア政府や軍にも協力を要請することになり、現在の状況に至ると言う訳だ。
 これは国家存亡の危機と言っても間違いではない。

「決戦の日まで、残り三日……正直に言って、かなり厳しいわね」

 太老のお陰で神獣の脅威は去り、ウルスラグナとの決戦まで一週間の猶予を得たとはいえ、既にあれから四日。
 避難状況はようやく人口の半数を超えようかと言ったところでペースを大きく落としていた。
 無理もない。政府が避難命令をだしたところで、全員が素直に応じる訳でもないからだ。
 退去に応じない者は無理矢理連行すると言った強引なことも裏では行なわれているが、兵士や魔術師の数にも限りがある。
 よくて八割。島民全員を期日内に避難させることは時間的に難しいだろうとエリカは考えていた。

「何、難しい顔をしてるんだ?」
「島民の避難が余り上手く行ってないのよ。このままじゃ、少なくない犠牲者がでることになるわ……」

 サルデーニャにある高級ホテルの一室。コーヒーカップを片手に現れた太老の問いに、悩ましい表情で答えるエリカ。
 太老がどういうつもりでサルデーニャを決戦の地に選んだのかは分からない。
 しかし、あのまま神獣を放置すれば、イタリアは壊滅的な被害を受けていた。
 そう言う意味では、経済的な損失は大きいものの被害が島一つに限定されるのであれば、まだ現実的な選択とも取れる。

「避難? なんでそんなことを?」
「……はい?」

 何を言ってるんだと言った表情で尋ねてくる太老に、エリカは呆気に取られながら訝しむ。
 カンピオーネとまつろわぬ神の戦いは、本人たちの意思に関係無く周囲を巻き込む一種の天災だ。
 今回のように決戦の日時や場所が分かっているのであれば、そこにいる住民を避難させるのは当然の対処と言って良かった。
 カンピオーネとまつろわぬ神の戦いによって発生する被害を最小限に食い止めるのは、魔術結社の役割でもあるからだ。
 なのに――

「ちょっと待って。避難しなくていいって、どういうこと?」

 何か、太老との間に重大な認識の齟齬があるのではないかと、目尻を押さえながらエリカは心配になって尋ねる。
 太老は確かに魔王の中の魔王と恐れられるくらい理不尽で非常識な力を持っている。
 しかしヴォバン侯爵と違い、人を人とは思わない悪辣な性格をしていると言う訳ではない。
 むしろ、敵には容赦のない側面がある一方で、敵意のない相手や無関係の民には寛容な王だとエリカは思っていた。
 だからこそ太老を王と崇め、剣を捧げる気にもなったのだ。
 それだけに太老の言葉にエリカは違和感を抱く。

「どういうことも何も、そのままの意味だけど? ただのゲーム≠ネんだから、避難する必要なんてないだろ」
「……ゲーム?」

 やはりそうだとエリカは確信する。
 自分たちが考えている戦いと、太老の思っている戦いは別のものだとエリカは気付く。
 確かに太老はウルスラグナの挑戦を受けはしたが、戦争をするとは一言も口にしていない。
 ただ、ゲームをしようと言っただけだ。

「何をするつもりなの?」

 その質問に太老はどう説明したものかと逡巡すると「体験してみるか?」と言って、エリカを外へ連れ出すのだった。





異世界の伝道師外伝/新約・異界の魔王 第28話『因果応報』
作者 193






 避難命令がだされてから一週間。避難状況はエリカが予想した通り、凡そ八割と言ったところで止まっていた。
 とはいえ、人口の凡そ八割。百万人以上もの人が島から退去したのだ。
 いつもなら観光客で賑わうビーチも人気がなく、街も閑散としている。
 そんな人気の無い街中で、どう言う訳か人目を忍びながら路地裏をこそこそと移動する人影があった。
 指名手配中の逃亡犯――青銅黒十字の魔術師、リリアナ・クラニチャールだ。

 顔を隠すように外套のフードを目深く被り、周囲を警戒しながら慎重に目的地を目指すリリアナ。
 島に物資を運ぶ船に密航し、どうにかサルデーニャに着いたのは一週間ほど前のことだ。
 しかし、政府より発令された避難命令の影響もあって、リリアナは今日まで身動きを取ることが出来ずにいた。
 島民を避難させるために兵士だけでなく、イタリア中の魔術師がサルデーニャへ派遣されていたからだ。
 そんななかで迂闊に動けば、見つかる可能性が高い。更には、リリアナの目的地は人口四十二万を超える島内最大の都市圏カリャリの中心地にあった。
 木を隠すには森の中と言ったように魔術師たちの目を欺くため、州都カリャリにある小さな屋敷に彼女の祖父クラニチャール老は身を隠していた。
 何かあった時のために、青銅黒十字にすら秘密で用意してあった隠れ家の一つだ。
 この隠れ家を知るのは家族でも限られた者だけ。ここにクラニチャール老が身を隠していることを知っているのはリリアナだけだった。

「やっと……着いた」

 目的地に着くと、焦燥しきった様子で屋敷を見上げるリリアナ。
 太老のもとを去ってから、ずっと逃亡の日々を過していたのだ。
 魔術師たちに追い回され、体力だけでなく精神的にも今のリリアナは相当に追い詰められていた。
 門の前に立つと、リリアナは自身に覚悟を問うように瞼を閉じながら逡巡する。
 ずっと祖父の命令に従って生きてきたが、太老と出会うことでリリアナの中の何かが変わろうとしていた。

「これで、すべてが終わる」

 覚悟を決めると門を開け、リリアナは迷うことなく真っ直ぐに庭を駆け抜ける。
 そして屋敷の中へと踏み込むと、慎重に罠を警戒しながら一階に人の気配がないことを確認して、二階へと向かう。
 そこで奇妙なことに気付く。

「おかしい。人の気配がなさすぎる」

 クラニチャール老は高齢だ。
 クラニチャール家の本邸と比べれば手狭だと言っても、これだけの屋敷を一人で維持できるはずがない。
 だとすれば、屋敷の管理や身の回りの世話をする者たちを雇っているはずなのだ。
 政府の避難命令に従って既に避難をした後という可能性はあるが、クラニチャール老はリリアナと同様に指名手配されている身だ。
 使用人たちはともかくクラニチャール老は屋敷から外へでれば、魔術師たちに捕まることになる。そんなことは彼も承知のはずだ。
 それにリリアナですら、この一週間大人しく身を隠していることしか出来なかった状況を考えれば、もう逃げた後とは考え難かった。

「なんだ? この臭いは……」

 死臭のようなものを感じ、リリアナは警戒を顕にする。
 一体どこからと眉間にしわを寄せ、警戒しながら臭いを辿って二階の書斎へと向かうリリアナ。
 部屋の中から漂う異臭。嫌な予感を覚えながらもドアノブに手を掛け、扉を開くと――

「そんな……」

 書斎の中央でうつ伏せに倒れ、既に事切れたクラニチャール老をリリアナは発見するのだった。


  ◆


 遠見の魔術で、クラニチャール家の屋敷を観察する銀髪の少女の姿があった。アテナだ。
 そして、彼女の隣には桜花と――リリアナと同様、太老のもとから逃亡して行方知れずになっていたカレンの姿があった。
 この三人がクラニチャール老を手に掛けた、と言う訳ではない。
 本来はリリアナを泳がせて、クラニチャール老の居場所を特定した後、先回りをして捕らえるつもりだったのだ。
 しかし、ようやく潜伏場所を突き止めて屋敷に着いて見れば、既にクラニチャール老は事切れていた。
 調査をした結果、現場の状況から導き出した答えは――

「因果応報とは、よく言ったものだ」

 冷たい表情を浮かべながら、そう呟くアテナ。
 魔術師たちの眼を欺くために、裏の事情を知らない者たちを敢えて使っていたのだろう。
 しかし政府の避難命令に従い、避難しようとした使用人たちから情報が漏れるのを恐れ、クラニチャール老は彼等を処分しようとしたのだ。
 相手は裏のことなど何も知らない一般人だ。何人いようと魔術師の敵ではない。最初から不要になれば始末するつもりで、彼等を雇ったのだろう。
 脅える使用人たちに向かって魔術を放とうとした、その時。クラニチャール老の身に予期せぬ異変が起きる。
 高齢に加え、自分でも気付かない内に逃亡生活での疲労が溜まり、身体も弱っていたのだろう。
 胸を押さえ、苦しそうに蹲るクラニチャール老。その一瞬の隙を突いて、逃げる使用人たち。
 自分たちを殺そうとした人間を彼等が助けようとするはずもなく――死因は心筋梗塞≠セった。

「まあ、お兄ちゃんに悪意を向けた時点でね……」

 あっけない幕切れだが、太老に悪意を向けた時点でこうなるのは時間の問題だったと、この結果に桜花はむしろ納得していた。
 アテナの言うように、自業自得だ。クラニチャール老がやってきたことを思えば、同情する気持ちにもなれない。
 基本的に桜花は、太老の敵には容赦がない。なかでもクラニチャール老のように家族でさえ駒としか思っていないような人間は、特に嫌悪するタイプだ。
 一応は捕らえるつもりでいたが、抵抗するようなら殺してしまっても仕方がないとさえ考えていたのだ。
 桜花からすれば、手間が一つ省けたと言った程度の結果でしかなかった。
 そんなことよりも――

「さてと、あとはお姉ちゃんたち≠フ処分なんだけど」
「覚悟は出来ています」

 抵抗する意思はないようで、桜花の裁定を待つカレン。彼女が捕まったのは三日前のことだった。
 囮となりながらも追手の魔術師たちを撒いたのは、さすがと言うしかない。しかし、彼女の目的は別にあった。
 リリアナの逃走に協力したのは、クラニチャール老の潜伏場所を特定するため――
 リリアナが手を下す前に、自分の手でクラニチャール老を始末するつもりだったのだ。
 だから危険を冒してまでイタリアの国境でリリアナと別れ、密かに後を付けながらチャンスが来るのを待っていたのだろう。

 青銅黒十字の命令でないことは、既に調べがついている。今回の一件は、すべて彼女の独断専行だ。
 その動機がリリアナのためであることは明らかだった。
 とはいえ、カレンに同情をして、ここで桜花が手を下さずとも今のままでは彼女たちに未来はない。
 今回の一件が明るみになれば、青銅黒十字も無事では済まないだろう。
 魔王の怒りを買うくらいなら、幾ら〈七姉妹〉に名を連ねる名門と言えど切り捨てられることは間違いなかった。
 そうなったら、彼女たちも粛清の対象だ。イタリア中の魔術師に命を狙われることになるだろう。
 だが、

「はあ……主従揃って、本当にバカね。アンタはもう少し賢いかと思ってたんだけど」
「え?」

 桜花が何を言っているのか分からず、呆けた顔を見せるカレン。
 しかし、呆れているのは桜花も同じだった。
 リリアナはともかくカレンはもう少し利口≠セと思っていたからだ。

「青銅黒十字は、お兄ちゃんの傘下に収まることが決まったわ。既に〈七姉妹〉にも通達済みよ」

 そう言われて、理解できないと言った表情を覗かせるカレン。
 魔王の庇護下に入りたい魔術結社はたくさんある。なのに態々、自分に牙を剥いた組織を引き込む理由などない。
 だからせめてリリアナだけでも助けようと、元凶であるクラニチャール老を始末することで、太老に恩赦を願いでるつもりでいたのだ。

「言っておくけど、お兄ちゃんの庇護を受けたからと言って好き勝手できると思ったら大間違いよ。扱いは奴隷と大差ない。あなたたちに一切の拒否権はないと思った方がいいわ」

 そんなのは詭弁だとカレンは思う。
 元より、カンピオーネの命令に逆らえる魔術師などいないからだ。
 庇護を受ける魔術結社であれば尚更、王の命令は絶対と言っていい。

「本当は私も反対なんだけどね」

 そう言って肩を落としながら、溜め息を漏らす桜花。
 しかし、太老が約束≠オてしまった以上、もうそれは確定であって覆る話ではない。
 ディアナが協力の条件にだした依頼。それは、青銅黒十字の処分を太老に一任するというものだった。
 組織を解体するも、怒りのままに構成員を皆殺しにするもよし。ただ〈七姉妹〉に丸投げするのではなく、太老の手で処分を下して欲しいと願ったのだ。
 恐らくは、太老なら酷い結果にならないという確信がディアナにはあったのだろう。
 結果、太老はディアナの思惑に乗り、青銅黒十字を傘下に収めることを〈七姉妹〉に通達した。
 どうせ罰を与えるのなら、現地協力者として利用した方が良いと考えたのだろう。
 それに――

「お兄ちゃんはね。あなたたち二人がいなくなった後に、こう言ったのよ。『家族を信じるのは当然だろう?』って」

 リリアナとカレンのことを身内だと、太老が認定してしまっているのだ。
 もう、その時点で手後れだと言っていい。
 呆然と話を聞くカレンを横目に、何かに気付いた様子で空を見上げる桜花。

「ようやく、はじまったか」

 アテナも空を見上げながら、そう呟く。
 空間が歪み、島が結界のようなものに包まれる。
 それを見て、太老がウルスラグナを出迎える準備を始めたのだと、桜花とアテナは察する。

「しっかりと見届けるといいわ」

 あなたちが仕えることになる魔王≠フ力を――
 と、太老の勝利を少しも疑っていない様子で桜花は胸を張りながら、カレンに言い放つのだった。





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