ハイデルは恐怖に顔を染めながら必死に走っていた。
 エレベーターの到着を待っている余裕すらなく、非常階段への扉に手を掛ける。
 重い鉄製の防火扉を開け、息を切らせながら階下へと通じる階段を駆け下りるハイデル。

「く、くそっ! はあはあ……なぜ私がこんな……」
「叔父上! いい加減、諦めろ!」
「ひぃっ!」

 階段の吹き抜けに反響してアンゼリカの声が響く。
 言葉にならない小さな悲鳴を上げながら、ハイデルは転げ落ちるように階段を駆け下り、近くの扉から廊下へと飛び出す。手足を床に付けながら、会長室を目指して這々の体で走るハイデル。
 やっとの思いで部屋の前に到着したハイデルは重厚な扉を開け放ち、端末のあるデスクへと向かった。

「私をこんな目に遭わせて許さんぞ! 警備ロボを総動員してでも奴等を――」

 ビル内の警備は人ではなく、ラインフォルト社が技術力の粋を集めて作ったロボットが担当している。
 そのセキュリティを一括管理するためのシステムが、ここ会長室の導力端末には搭載されていた。
 デスクから端末を起動し、役員用のアクセス権を行使してセキュリティシステムにアクセスするハイデル。そこから各階の警備ロボットに、侵入者を排除するように命令を送ろうとするが、エラーの文字が画面にはでるだけで何も起こらない。

「な、何故だ! 何故、命令を受け付けない!?」
「無駄ですよ。一足先に、ビル内のシステムは掌握させて頂きました」

 ハイデルよりも先に部屋に侵入していたアルティナが、〈クラウ=ソラス〉と共に姿を見せる。彼女は一足早く作戦を実行するために会長室へ忍び込み、部屋の端末からビルの地下にある中央コンピューターにアクセスしてシステムをロックしていた。当然こうした行動にハイデルがでることを見越してのことだ。
 既に上層へと通じるエレベーターは停止しており、上層から中層へと通じる階段には防火用のシャッターが降りている。どこにも逃げ道はなかった。
 リィンが自分でハイデルを追わなかったのは、そのことを知っていたからだ。

「き、貴様はルーファス卿の……っ!?」

 アルティナの正体を察して、驚愕の表情を浮かべるハイデル。
 ルーファスが総参謀を降ろされ、カイエン公の怒りを買って軟禁されていることは彼も知っていた。しかし貴族派の重鎮、アルバレア公爵家の跡取りであるルーファスがカイエン公を裏切り、貴族派と通じているなどと俄には信じ難い話だったこともあり、本気では信じていなかったのだ。
 だが、こうしてアルティナが現れ、アンゼリカたちと結託してハイデルを捕らえようとしている事実が、その話の信憑性を高めていた。

「そこまでだ。叔父上」
「ア、アンゼリカまで……ぐぬぬぬ」

 逃げ道と対抗手段を失い、焦るハイデルの元へアンゼリカが追いついてくる。
 顔を赤くして、やり場のない怒りをぶつけるかのように机に拳を打ち付けるハイデル。
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――こんなところで終わっていいはずがない!
 ハイデルは何か吹っ切れた様子で、ハハッと虚ろな目で乾いた笑みを漏らす。

「まだだ。まだ私は終わっていない! こうなったら――」
「待て! 何をするつもりだ!」
「させません――」

 ハイデルが机の下に手を伸ばした瞬間、アルティナは危険を察して飛び出した。
 背中を押さえつけるかのような衝撃がハイデルを襲う。〈クラウ=ソラス〉の豪腕に押しつけられ、肺から息を吐くハイデル。
 しかし、その表情は諦めるどころか、余裕に満ちた不気味な笑みを浮かべていた。

「ハハハハッ! 無駄だ。もう何をしようともな! 貴様等はここで死ぬ!」
「一体なにを――」

 ハッと机の下を覗き込むアルティナ。机の内側、その側面には機械仕掛けの三十リジュほどの小さな箱が取り付けられていて、箱から伸びる赤いレバーが倒されていた。
 ゴゴ、と低い音を立てながら西向きの壁が開き始める。隠し部屋――とアルティナが声を漏らした、その時。
 開ききった壁の向こうから、銀色に輝く鋼鉄の鎖に繋がれた異形の怪物が姿を見せた。

「なんだ、この化け物は……」
「まさか、これは……」

 赤い皮膚で覆われた人型の魔物。全長は三アージュ近くあり、分厚い筋肉を鎧のように纏っている。
 頭には二本の角、瞳は黄金色に輝いており、巨大な大剣を手にしていた。まるで神話に登場する悪魔のような出で立ちだ。
 見たこともない怪物を前に驚くアンゼリカの隣で、ハイデルを取り押さえながらアルティナは何かに気付いた様子を見せる。

「何か知っているのか?」
「恐らくは魔人化(デモナイズ)という現象です。以前、目にした資料に書いてあったのを覚えています」
「……魔人化?」
「半年前のクロスベルの事件を覚えていますか?」
「新聞を読んで知っているくらいだが、マフィアと通じていた警備隊や政府の関係者が大勢処罰された事件だな。マフィアが売り捌いていた薬が原因で、多くの人間が集団幻覚に陥ったと……」
「その原因となったのが、グノーシスと呼ばれる薬です。〈教団〉と呼ばれる組織が研究していた薬で、理性と引き替えに身体能力を限界以上に引き出す効果があるとか」

 半年前に起きたクロスベルの事件はアンゼリカも知っていた。
 その事件を切っ掛けにクロスベル政府とマフィアの関係が明るみになり、帝国派で知られていた議長が責任を追及され、他にも多くの警備隊・政府関係者が解任・更迭されたと各社メディアが報じていたからだ。しかし報道の中身には、敢えて事件の原因となった薬に関しては何も情報がなかった。恐らくは何かの理由があって伏せられたのだろうと思っていたが、そのような効果のある薬が出回っていたというのはアンゼリカも初耳だった。
 そして息を呑む。アルティナの話が本当だとすれば、目の前の怪物は――

「では、あれは元人間だと!?」
「はい、恐らくは……。青と赤の二種類の薬が確認されていて、なかでも赤い方の薬は服用しすぎると魔人化という現象を引き起こすことが報告されています」
「くっ! 叔父上、あなたという人は――」

 苦い表情を浮かべ、〈クラウ=ソラス〉に拘束されたハイデルを睨み付けるアンゼリカ。
 どうしようもない叔父だとは思っていたが、怪しげな薬に手をだし、人体実験まで行っているとは思ってもいなかった。
 当然ログナー候は知らないことだろう。幾らハイデルの好きにさせているとは言っても、このことを知れば皇族への忠義に溢れ、厳格な人物で知られるログナー候が黙っているはずがない。必ずハイデルを処罰していたはずだ。

「ガ、ア……」

 先程まで唸り声のようなものしか聞こえなかった魔人の口から声が漏れた。

「何かを言おうとしてるのか? 一体なにを……」

 何かを伝えようと唇を震わせる魔人を見て、アンゼリカはその声に耳を傾ける。
 まだ理性があるのなら、どうにかして助けてやりたかった。このような所業、人として許されることではない。

「ブ……リジ……ト……」
「ブリジット? いまブリジットと言ったのか?」
「知り合いですか?」
「知っている少女に同じ名前の子がいる。士官学院の生徒だ。まさか……」

 学院の生徒、特に女性の名前であれば、アンゼリカは全員覚えている。そのなかにブリジットという名の生徒は一人しかいなかった。
 アンゼリカの口説きにも応じず、貴族クラスの生徒にしては珍しく貴族的な思想に染まっておらず、身分違いの幼馴染みの青年のことを気に掛けていた心優しい少女。その彼女の隣によくいた青年の名前。確か――

「アラン! キミはブリジットの幼馴染みのアランなのか!?」
「ア……ラン?」

 アンゼリカの言葉に反応を見せる魔人。僅かではあるが、理性が目に宿ったかのように見えた。
 しかし、それも一瞬のことだった。
 何かを思い出したかのように全身から闘気を放出して、雄叫びを上げる魔人。

「僕ハ、ア、ラン。彼女ハ、僕ガ、僕ガ守ルンダ!」

 彼はアンゼリカの予想通り、ブリジットの幼馴染みのアランだった。ブリジットを人質に取られ、ハイデルの実験に協力させられていたのだ。
 半年前の事件で回収され、証拠品の一部として帝国政府へ提出され、帝都に厳重に保管されていたはずのもの――グノーシス。密かにカイエン公を通じてラインフォルト社に持ち込まれ、解析と研究が依頼されていたものを実験の名目で無理矢理に摂取させられ、このように変わり果てた姿となったのだ。
 いざという時の切り札として使うために、ハイデルは研究を続け、アランを閉じ込めていた。
 その楔が解き放たれた。人間を超越した存在。魔人と化したアランは拘束具を引き千切り、アンゼリカへと強烈な一撃を放つ。
 呆然とするアンゼリカをアルティナは〈クラウ=ソラス〉の腕で抱き上げ、青い障壁を前方に張ることで庇った。
 ノワールバリア――〈クラウ=ソラス〉に搭載された物理攻撃を反射するバリアだ。

「くっ――」

 苦悶の表情を浮かべるアルティナ。
 アランを弾き飛ばすつもりで張った障壁。しかし衝撃に耐えきれず、亀裂が走り、コンクリートの床が粉々に砕け散った。
 落下しながらも、どうにか空中で制止し、床への激突をギリギリのところで回避するアルティナ。
 一方、足場を失ったアランはそのまま瓦礫へと背中から落ちる。

「やったのか?」
「いえ……ほとんどダメージを負っていないみたいです」

 しかしダメージを特に負っている様子はなく、すぐに立ち上がると咆哮を上げる魔人アラン。
 その凄まじい咆哮に、アンゼリカは冷たい汗を流し、気圧される。

「戦えないのなら下がっていてください」
「待て、どうするつもりだ?」
「無力化します。放置するのは危険です」

 アンゼリカの質問に、冷静な声で淡々と答えるアルティナ。

「くっ、放せ! RFグループの会長の私にこんな真似を――はぐっ!」
「少し黙っていてください」

 アルティナは騒ぐハイデルを〈クラウ=ソラス〉に命じて締め上げ、黙らせる。
 気を失ったハイデルを放置して、アンゼリカへと再び視線を向けるアルティナ。

「……殺すつもりなのか?」
「最悪、止むを得ないかと。ああなってしまっては、他に止める術はありません」

 教会の法術であれば元に戻すことも可能かもしれないが、現状では不可能な話だ。
 あれだけの魔人。浄化しようと思えば、聖痕の力を有した星杯騎士団の守護騎士クラスの力が必要だろう。
 ならば殺す気でやるしかない。運が良ければ命は助かるかもしれないが、そこまで配慮するつもりはアルティナにはなかった。
 所詮は赤の他人だ。障害となるのであれば、殺すことになんの躊躇いもない。
 しかし、アンゼリカは違う。顔見知りと戦うのは辛いだろうと考えてのアルティナなりの気遣いの言葉でもあった。

「……私にやらせてくれ」
「構いませんが、戦えるんですか?」

 訝しげな視線をアンゼリカに向けるアルティナ。
 先程の醜態を見る限り、アンゼリカが目の前の魔人に少なからず同情を抱いていることは明らかだ。
 殺す気でやらなければ、殺されるのは自分だ。果たして、その覚悟がアンゼリカにあるのか、という問いでもあった。
 そんなアルティナの問いに、アンゼリカは胸の前で拳を打ち付けながら答える。

「何もせずに諦めたくない。女性(レディ)を悲しませるのは、私の主義に反するからね」
「……甘い考えですね」

 そんなアルティナの酷評に、アンゼリカは苦笑する。
 しかし、自分の主義を曲げるつもりはなかった。アランを殺すのではなく救ってみせる。
 ブリジットのためにも――それがアンゼリカのだした答えだった。


  ◆


「……取り引きだと? 俺は宰相の命を狙ったテロリストだぞ?」

 テロは重罪だ。しかも一国の宰相の命を狙ったのだ。帝国解放戦線のしてきたことを考えれば、重罪は確実だろう。
 この内戦、革新派の勝利に終われば、クロウは間違いなく罰を受けることになる。そしてそれはクロウも覚悟していた。
 そんなテロリストに取り引きを持ち掛ける。正気の沙汰とは思えない。
 ましてやリィンは、アルフィンに雇われている謂わば中立勢力の人間だ。

「それを言えば、俺は猟兵だ。しかも鉄血の血縁者で、この妙な力の所為で教会にも狙われている。案外、俺の方が微妙な立場にいるんじゃないか?」

 しかし、リィンも相当に面倒な立場にいた。あのギリアスの子供というだけでも厄介な立場なのに、〈アルス・マグナ〉の一件で教会からも目を付けられている。挙げ句、起動者になれる資質が高いために、こうして〈結社〉にまで言い寄られ、貴族連合やそれに与した猟兵たちからは恐れられ恨みを買っている有様だ。
 今後の行動次第では、更に敵を増やす可能性は高い。それを察し、クロウはなんとも言えないやり難そうな表情を見せる。

「取り引きの内容は?」
「この上、結社まで敵に回すほどバカじゃないからな。ヴィータの狙いが〈灰〉と〈蒼〉の決着にあるのなら、受けてやってもいい。どちらにせよ、騎神はそのうち取りに行くつもりだったしな。ただし、タイミングはこちらで指定させてもらう」

 先程までと百八十度意見を変えて、条件付きとはいえ〈結社〉の計画に協力してもいいと言うリィンの話を、クロウは何か裏があると感じて訝しむ。

「……何をするつもりだ?」
「獅子戦役の再現」

 リィンの企みを聞き、クロウは目を剥いて驚く。
 既に獅子戦役に似た様相を見せている内戦ではあるが、リィンは敢えてその流れに乗って歴史をなぞらえるつもりでいた。

「まだ復讐を続けるっていうなら止めないさ。でもどうせなら、ただ殺すだけよりも奪われる苦しみを相手にも味あわせてやった方がスッキリするだろ?」
「お前……」

 テロリストよりも、えげつない考えを口にするリィンに、クロウは顔を引き攣る。
 戦火に苦しむ民のために、内戦を終わらせるべく立ち上がる皇子と皇女。セドリックとアルフィンの二人を計画の前面に押し出すことで――第三、第四機甲師団を抱き込み、ログナー候さえも味方に付け、リィンはカイエン公との戦いに文字通り終止符を打つつもりでいた。以前、アルフィンに危険が伴うと言ったのは、そうした理由からだ。
 革新派や〈子供たち〉の手ではなく、皇位継承権を持つ皇族の手によって、この内戦に決着を付ける。
 それがどういうことを意味するのか、わからないクロウではなかった。

「……鉄血だけでなく陛下にも内戦の責任を取らせるつもりか? それを皇女殿下が了承したと?」
「ギリアスが仕向けたのは間違いないが、こうした事態を招いた責任は皇帝にもある。トップが責任を負うのは当然だろう? それに計画の大筋を考えたのはアルフィンだ」

 そこまで話が進んでいるとは思わず、クロウは言葉を失う。

「落としどころとしては悪くない提案だと思うが、どうする?」

 リィンの協力が得られなければ、どちらにせよ〈結社〉の計画は詰んだも同然だ。
 それにギリアスの命を再度狙ったところで上手く行くという保証はなく、殺したところでリィンはまったく損をしない。
 むしろ、その結果さえもリィンなら上手く利用しそうだ。なら提案を呑み、協力した方がまだマシだ。断れるはずがなかった。

(とんでもないジョーカーを引いちまったみたいだな……)

 リィンがアンゼリカを遠ざけ、何故あんな話をしたのか、いまになってクロウは理解した。
 武器を収め、リィンの提案にクロウが返事をしようとした、その時。轟音と衝撃がビルを襲った。

「この揺れは……」
「面倒なことになってるみたいだな。この禍々しい気配……覚えがある」

 四年前の事件を思い出しながら、リィンは苦々しげな表情を浮かべた。



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