ラーシェナらとの交戦があったその日の夜。
 神剣を部屋に置いたまま、私は一人宿を出て街中を散策していた。

 そうしなければならない、特別な理由があったわけではない。
 ただ漠然と、そんな衝動に突き動かされたからだ。

 パイモン、そしてラーシェナとの戦い。
 改めて思うのは“ルシファー”という名前の重さだった。

 かつて魔王として君臨した古き竜。
 純粋に、或いは打算から彼に従う者は、私の想像など及びもつかないほどにいたのだろう。
 今その大半は、使徒という枷から解き放たれ、暗黒の太陽神などと関わりを持つに至っている。
 しかしそれでも尚、ラーシェナのようにかつての忠誠を忘れずにいる者もいた。
 自分で選択した業なのだから、それを煩わしいと思っているわけではないし、気押されしているわけでもない。
 考えていたのは、他のことだ。

 私は――

「こんなところにいたのね」

 女の声に振り返れば、私よりも背の低い何者かの影。
 宵闇の路地を照らす赤い月が、その姿を顕にする。
 困惑したような、安堵したような、複雑な表情のエクリアだった。

「どうかしたのか?」
「……何が、どうかしたのかだ。アイドスまで置いて何処かに行く奴があるか」

 彼女はそう言うと、重そうに胸に抱えていた神剣を差し出す。
 アイドス本人は黙っているが、多少不機嫌であることが感じ取れた。
 心話で謝罪の意思を伝え、受け取って背負い直す。

「何をしていたの?」

 やや躊躇うようにして、私の隣に近づいたエクリア。
 無意識なのかは知らないが、その声音は硬い。
 何か思い悩んでいるような様子だ。

「特に何も。……少し考え事をな」
「……そう」

 言葉が続かない。
 それも、あまり良い雰囲気ではない。
 魔力を根こそぎ奪われたかのような負荷。
 そんな錯覚を感じるほどに、重苦しい空気が漂う。
 打開しようとアイドスに心話を送るが、口を挟む気はないらしい。

 ……。

「――何を悩んでいる?」

 私の言葉にハッとしたような顔をして、エクリアは俯いた。
 考えを伝えたい気持ちはあるが、別の感情が邪魔をして言い出せないような。
 しかし今この時を逃せば二度と話す機会はないとでもいうように、彼女はゆっくりと口を開いた。

「……私は何をしているのだろうな。共に旅をすると決めたはいいが、貴方に迷惑をかけてばかりいる。
 今回のこともそうだ。魔神がいることは分かっていたというのに、あの様とは……」

 私に弱音を吐く彼女に、少し驚く。
 決して心が強い訳ではなく、それを仮面で押し隠して気丈に振舞っていたのは気付いていたが……。
 自分が引き起こした戦争の結果。
 さらには深凌の楔魔の復活を眼にして、相当弱っているのか。

「……ふっ、貴方の側にいるとどうにも調子が狂う。今の言葉は忘れて欲しい」

 自分自身に呆れたように笑って、そう告げる。
 何を忘れて欲しいというのだろう。
 自分の弱さを知られたこと?
 おそらく、それもある。
 私とエクリアとの間に、旅の同行者という繋がり以上のものはない。
 ……私は、エクリアのことをよく知らない。
 そんな存在に、弱さなど見せたくはないだろう。

 ――だが

 この女がこの手のことで下らない駆け引きができるほど、器用ではないことなら感じている。
 だいたい、狙ったように見せられた“弱さ”に懐柔されるほど私は安くはない。
 しかし必要ないと感じれば関わることはしないが、踏み込むことそのものを恐れたりもしない。

 彼女は……良くも悪くも私に似ている部分が多いのだ。
 特に感情をあまり表に出さないように見えて、その内面は激情家であるところとか。
 だからこそ、そんな女の不器用な言葉に“そうか”の一言だけを返すほど、私は愚かでいるつもりはない。

「エクリア、少し付き合え」
「――なに?」





 伸縮する連接剣の猛攻を避け、相手の懐に飛び込む。
 驚愕に染まった顔を尻目に、神剣を振るう。
 剣に追従する風で砂が舞う。
 相手は咄嗟に後ろに飛んで避けたが、着地した直後に砂に足を取られ蹈鞴を踏んだ。

 ――追撃。

 即座に左手に、氷結系の秘印術を完成させて放つ。
 精霊魔術とは違い術者の魔力を氷に変換しているため、砂漠だからといって威力に影響は無い。
 出現した氷の槍は、狙い違わず相手に向かっていく。

「……くっ!」

 苦渋の表情を浮かべ――回避。
 お返しとばかりに同じ魔術攻撃を仕掛けてくる。

「……エクリア、そんなものでは私に届かない」

 片手で握った神剣の一振りで、全ての氷槍を消す。
 そして素早く障壁を張り、予想通りに繰り出されていたアウエラの裁きを防ぐ。
 直後、闇と静寂の支配する砂漠に爆発音が響く。
 幸いにしてこの地は街から大分離れた場所なので、気にする必要はないが。

「今度はこちらから行く」

 左手に印を組む。
 詠唱するのはユン=ステリナル。

「――っ!」

 自身最も得意とする系統であるため、魔力の流れで気付いたのだろう。
 目を見開き、その両手に魔力をかき集めるようにしていた。

 手を突き出すようにして、完成した魔術を開放する。
 直後、エクリア目掛けて空間が凍っていく。
 その異常な事態から逃れるため、彼女は私のそれと同規模の魔力で以て、エル=アウエラの魔術を放つ。

 轟音と共に砂煙が舞う。
 ……視界は悪い。
 相手の姿など見えるはずはない。
 そう思っているのは向こうも同じだろう。
 しかし――

「……お前の負けだ」

 神剣を彼女の眼前に突きつける。
 魔力を感知したわけでも、特別な力を使ったわけでもない。
 端的に言ってしまえば、単なる勘だ。

 三百年以上にも及ぶ長い旅の中で培ってきた、神殺しの盟友としての直感。
 いつ如何なる時、その命が狙われるか分からなかった私とあいつが、身につけざるを得なかったもの。
 勝敗を分けたのはそれだけではないが、決定的な差であることは間違いなかった。
 そうして、エクリアの目から戦意が無くなったのを確認すると、神剣を鞘に納めた。





 呆然として、エクリアは腰が抜けたように座り込んでいる。
 少し迷い――私はそのまま腰を降ろした。
 丁度向かい合うような形になり、彼女は僅かに肩を震わせて俯く。

 遣り過ぎたかとも思う。
 いくら彼女が神格位――神の格に匹敵する位置にあるとはいえ、古神に連なる私との差は歴然たるものだ。
 これは自惚れでも、過信でもない。
 種族の違いが大きいように、神と人の力は隔絶している。
 無論、現状の古神と現神の力も。

「私に……力の差を教えて……お前は弱いと、そう言いたかったのか?」

 心の悲鳴を、そのまま音にしたような声。
 酷く弱々しい、まるで生まれたばかりの小鹿のような姿。
 姫将軍と呼ばれた面影など、何処にも無い。
 心を丸裸にされた女だけが存在していた。

「お前如きでは魔神には勝てない。だから、下らない戯言など口にせず大人しく――」
「――お前は、魔神に勝ちたいのか?」

 彼女の言葉を遮り、そう口にする。
 正直に言えば、何を伝えればいいのか分からない。
 口数の少ない自分が嫌になる。
 リウイなら、気の利いた言葉の一つでも言うのだろうか。

「魔神ゼフィラに攫われる前、お前は言いかけていたことがあったな。あの時、何を言いたかったのだ?」
「……魔神の力は人にとっては脅威だ。油断していいものではない。そう、言うつもりだった」
「……そうだな。だが私があの時“そんなことか”と口にした意味は、自分の力を過信したわけではない」
「当然だろう。貴方の自信は、その圧倒的な力に裏打ちされたもの。過信であるはずが――」
「――そうじゃない」

 珍しく、強い口調で吐き出したように思う。
 こんなことは今まで、アイドスとセリカを相手にした時以外になかった。
 ひどく驚いたような顔をして、エクリアは私を見ている。

「私はお前に迷惑をかけられることなど、些細なことでしかないと言いたかったのだ」
「だからそれは、私が招く災いなど、貴方にとっては大したことではないと……」
「エクリア」

 じっと彼女の目を見つめて、名前を呼ぶ。

「私はお前が気になって仕方が無いんだ」

 気付けばそう口にしていた。
 だがそれは、私の本心に違いなかった。

 アイドスに向けているものとはまた違う感情。
 それを恋しいという感情かと問われれば――分からないと答えるしかない。

 アイドスに対するものは、はっきりそうだと言える。
 彼女と私は互いを半身と認めているし、運命だと伝えられても疑念の一つも浮かぶことはないだろう。

 しかしエクリアに対するものは、私自身よく分からない。
 ただ――ああ、そうか。
 だから私はあの時、エクリアと叫んだのか。

「私はお前に、何処かに行って欲しくない。その結果として災いを招くことになったとしても“そんなことか”としか思えない。
 それよりもお前が何処かに行ってしまうことの方が、ずっと恐ろしく感じる。
 ……だから……お前は弱くてもいい。敵は私が退ける。……だから、私の前からいなくならないでくれ」

 伝えたいことは、伝えたと思う。
 私が思っていること。
 その全てとは言えないが、言の葉に乗せることはできたのではないだろうか。

「……」

 返答は無い。
 その無音の時間が、ひどく恐怖を煽る。
 初めから私は闇に連なる者として、良い感情は持たれていないはず。
 それを知っているにも関わらず、なぜこれほどエクリアの次の言葉を恐れるのか。
 これがセリカが何度も経験した、誰かを失うかもしれない恐怖なのだろうか。
 ……いや、私も一度この感情を味わっていたな。

「――っ、ぁ」

 耳を必死に傾けなければ聞こえないような、か細い音。
 それがエクリアの声であることに気付くのに、少しばかり時間がかかった。
 しかし何を言っているのか分からない。

「……エクリア?」

 顔を覗き込むようにして様子を伺う。
 彼女の顔に浮かんでいたのは――

「……ぇ……――!?」

 ――直後、今私に気付いたとでもいうように目を見開き、

「あ、ああ、貴方は何を言って――」
「お前が欲しい。お前が必要なんだ」
「――!?」

 いっそう、動揺を増すエクリア。
 少し混乱しているようだが、抱いているのは負の感情ではないようだ。
 しかし彼女のまともな返答を聞くには、もう少し時間がかかりそうだった……。





 街を出てからどれくらいの時間が経っただろうか。
 私はエクリアに近付き、狼狽える彼女の肌理細やかな頬に触れた。

 そこで漸く自分が何をされているか気付いたのか、彼女の肩がびくっと震える。
 だが予想した罵声の類はなく、どうしたらいいのか分からず戸惑った様子。
 ……気位が高い女だと思っていたが、存外しおらしい一面もあるようだ。

 しかしこうして触れていると、胸の奥底に何か込み上げてくるのを感じる。
 苦しい、とはまた少し違う、締め付けられるような感覚。

 不意に、エクリアがフッと笑った。
 先ほどまでの戸惑いの変わりに、まるで“慈悲の女神”のような表情を浮かべている。
 ほんのりと頬を朱に染めた彼女は何を思ったのか、顔に触れていた私の手にひんやりとした手を重ねた。
 何かを感じ取ろうとでもするように、エクリアは瞳を閉じる。
 それが何であるのか分からなかったが、私はそのまま彼女の好きにさせた。
 それから少しして、エクリアはゆっくりと目を開けた。

「女神アイドスという半身がいながら、私が欲しいだと?
 どうせ、その理由もよく分かっていない癖に」
「……ああ」
「貴方はやはりひどい男だ。理由も分かっていないのに、あんな言葉……」

 少しだけ悲しげに笑って、エクリアは重ねていた手を離した。
 それと同時に、私の手もすとんと落ちる。
 ……いつだったか、遠い昔に似たような表情を見たことがあった。
 それがいつのことだったかは思い出せない。
 しかしここにきて私は漸く、エクリアを傷つけてしまったことに気付く。

 ――無様などというものではない。

「私は、貴方が嫌いだ。“姫将軍”である私を奪われ“フェミリンス”である私は壊された。
 残ったのは、エクリアというどうしようもないほど弱い女だけ。
 挙句、魔神のくせに私の心をかき乱す。そんな貴方が、私は大嫌いだ。でも……」

 今度はエクリアが私の頬に触れる。
 仕方がないとでも言いたそうな表情。
 自分自身に呆れているような顔で私を見つめ、

「貴方の前でだけは、私は“私”で居られる。
 ……だから、仕方がない。ああ、本当に仕方がないから、ずっと貴方の側にいてやる」
「……それで、いいのか?」

 私のそんな言葉に、彼女は苦笑した。
 右手を自身の胸に当て、何かを確かめるようにして、

「貴方らしくないぞ。私の意思などどうでもいいのだろう。
 傲慢で、不器用で、なのに――。本当に私そっくりな嫌な奴だ」
「……不器用な上に嫌な奴で悪かったな」
「ふっ、そういうところが不器用だというのだ」

 何となくきまりが悪くなって、誤魔化すように私はエクリアを抱き寄せた。
 急な私の行動に驚いたのか、私の胸に添えられた手に力が篭る。
 だがそれも徐々に抵抗を失い、

「私を貴方の使徒にしろ」
「いいのか? 私の使徒になるということは、現神と敵対すること。もうその加護を受けることはできなくなるぞ?」
「構わない。そんなことより、私は貴方と共に在りたい」
「……一度しか言わないからな。……ありがとう」

 そんな風にしか言えない自分に、少し腹が立つ。

「ふふ、何だそれは……。本当に傲慢なヒトね、貴方は。
 ……でもこれは私が初めて自分のためという理由で決めたこと。貴方にだってどうこう言われる筋合いはない。だから礼なんていい」

 そんなことを言う、私と同じく素直ではない彼女がどうしようもなく可愛らしい。

 ――愛しい。

「……そうか。しかし仕える神に使徒にしろと言って契約するなど、前代未聞だろうな」
「ああ、違いない」
「だがそれも、私たちらしくて――悪くは無い」

 頭に手を回し、エクリアをぐっと引き寄せる。
 突然のことに彼女の切れ長の瞳が見開く。
 それに構わず、私は彼女に深く唇を重ねた。
 逡巡は僅かな間。
 ゆっくりと、エクリアの瞼が閉じられていく。

「……ん、ふっ……んんっ……」

 二度目とはいえ、鼻から漏れる甘い声にはまだ僅かに緊張が残る。
 普段は気丈に振舞ってみせていても、本当はこんなにも弱い。
 何も心配はいらないと、抱き寄せていた手に力を込める。
 強く、きつく、彼女が何処かに行ってしまわないように。

「ん、はふぅ、は……んっ……んっ」

 そうして不安にさせないように抱きしめていると、徐々にではあるが、エクリアの固さが解けていった。
 私の舌を受け入れ、不慣れながらも絡ませてくる。

 互いに受容すること。
 それが使徒の契約を結ぶ必要条件だったな、などと何処か冷静に思いつつ、エクリアの健気な様子に我を失いそうになる。
 そうしてやがて、性魔術によって身体が一体化したような感覚に襲われたころ。

 ――我、ルシファーの名において、この者を我が使徒とする。

 エクリアと私との間に、確かな繋がりが形作られていく感覚。
 その狂ったような熱さを享受しながら、この女を必ず守ろうと心に誓った。





 パラダの街、その宿屋に戻る間に、私はアイドスから散々に罵倒された。
 いくら何でも不器用過ぎるだの、そこはもう少し言いようがあっただの。
 至極真っ当なことなので、真摯に受け止めることにした。

 とはいえ、目の前であれだけのことをされていながら、それに関しては何も言ってこないのはなぜか。
 ……おそらくアイドスが裏で何か画策していたのだろう。
 今にして思えば、どうしてエクリアは態々運び辛い神剣アイドスを持ってきたのか。
 片手剣でも私はある程度扱えるのだから、護身ならそれで良かっただろうに……。

「……アイドス、謀ったな」
『何かしら、私は全く身に覚えがないのだけど』
「……オウスト内海に沈めるぞ」
『ちょっとルシファー、それはいくら何でも酷すぎるわっ!』
「なら、正直に言え」
『少し背中を押してあげただけよ。私自身は何もしていないわ』
「そうか……後で、仕置きしてやる」
『……ぇ、ちょっとルシファー、何か黒くなってない?』
「私は元から黒い」
『いや確かに貴方の見た目は黒だけど、そういう意味じゃなくて――』
「ルシファー、様。そろそろ、お休みになられた方がいい……宜しいかと」

 それから、エクリアの口調が変わった。
 私は使徒なのだからそれに相応しい話し方にすべき、だそうだ。
 正直エクリアからルシファー様などと呼ばれても違和感しかないのだが、アイドス曰く、線引きだそうだ。
 愛し愛される者ではないという、彼女なりのけじめ。
 エクリアらしいといえばらしい。

「それで、その……」
「エクリア」

 彼女の言おうとしていることが、何となく分かってしまう。
 こんな感覚はアイドス以来だ。

「部屋で待っていろ」
「――ッ、はい……か、畏まりました」

 言葉の意味が分かったのだろう。
 顔を真っ赤にして、小声で彼女は承諾し、私の部屋へと先に行く。
 ……認めてもいいのかもしれない、私は彼女にも愛しさを感じていることを。
 だが、それでも私は言葉にはしない。
 それを口に出せば、エクリアを傷つけることが分かってしまったから。

「……アイドス」

 そして、それは裏切りでもある。
 半身と認め、慕う彼女への。 

『何かしら。まあ、何であっても私は気にしていないわ』

 分かっているだろうにそう答えたのは、彼女の優しさ。
 ……本当に私にはもったいない半身だ。
 ならば、いい加減うだうだ言うのは止めることにしよう。
 それこそ逆にエクリアを傷つける上、アイドスに失礼というものだ。

 共にあることを願い、そしてエクリアは私の使徒となった。
 リウイが知ったらどんな顔をするだろう。
 そんなどうでもいいことを考える。
 宿の二階の廊下。
 その窓から外を眺める。
 街並みが、静穏な月の光に照らされていた。



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