フレイシア湾に船が着く直前のことだ。
 取り敢えず入港したら直ぐにその場を離れたいが、仮にもマーズテリアの拠点。
 人数が多ければ、見つかる確率も上がるだろう。
 目立ってしまっては、何のためにケレースまで来たのか分からない。
 なので、二手に分かれることにした。

 落ち合う場所については、湾の近隣にかつてアムドシアスが使っていた屋敷がある。
 今はもう廃墟となっているだろうが、人目につかないという点では悪くはない。
 だから私にアイドス、エクリアの組と、セリカにハイシェラ、セリーヌの組に分かれた。
 そして、カーリアンにはセリカと同行してもらい、ハイシェラに案内を任せようとしたのだが……

『そのアム……アム何とかというのは誰のことだ?』
『……まさか、本当に忘れたのか?』
『我の知り合いか? 覚えがないが……セリカ、お主は知っておるか?』
『いや、記憶にない』

 使徒ほどではないが、使い魔というのは主の影響を受け易い。
 それがハイシェラに該当するか分からないが、三百年前のことなので仕方なくもある。

 しかしその年月を長いと感じるのは、人間ならばの話だ。
 不老である魔神に、三百年など大した時間ではない。
 にも拘わらず忘れているということは、ハイシェラが人を知ったと好意的に捉えるべきか。
 単にセリカに毒されただけと考えるべきか。

「……何だか雲行きが怪しそうだから言うけど、この近郊に村が一つあるみたい」

 カーリアンはそう言うと、船員から借りた地図をテーブルの上に広げた。
 当時アムドシアスが拠点にしていたのが華鏡の畔と呼ばれていた場所。
 地図がいつごろ作成されたものかは分からないが、それによると確かに、華鏡の畔からやや北に行った場所に村があるようだ。
 ……少し歩けば、ハイシェラも何かしら思い出すだろう。

「ならばそこを合流場所にしよう」

 問題があるか、最後に全員に問う。
 位置的にはフレイシア湾から南東の方角だ。
 これから先は、一切の油断が許されない魔境。
 心構えを確認する意味もあった。

 それにしても随分と懐かしいところに来たものだ。
 ケレースと云えば、シュミネリア・テルカの子孫がイソラ王国を統治しているはず。
 他にもかつての盟友たちに会うかもしれない。
 何かしら予感めいたものを抱きながら船を降りた。





 薄暗い森が続く。
 ここはまだ人里に近いためそれほどでもないが、深淵に行くほど魔の気配は濃くなっていく。
 アイドスや私の神気に誘われて襲撃してきた魔物を屠り、時折エクリアの様子を気にしながら進む。
 彼女も確かに魔神級の実力はあるが、体力まで人を越えてはいない。
 この地での疲弊は死に直結するため、疲れを隠すことのないように伝えておく。
 彼女はよく無理をする傾向があるからな。

「村まで真面な休みは取れそうにないが、この分なら大丈夫そうだな」
「……私だって、いつまでも足を引っ張ってはいません」

 聞こえるか聞こえないか、そんな小さな声で告げる。
 気に障ったのかもしれない。

「……」

 ――っと、突然エクリアが何かに驚いたように目を見開いた。
 周囲を確認してみるが、特に変わったところはない。
 魔物もいい加減力の差が分かったのか、近くに気配は感じなくなった。

「どうかしたのか?」
「……ルシファー様が笑ったところを初めて見ました」
「私だって偶には笑うぞ」
「……いえ、確かに雰囲気がそのような時はありますが、それと分かるほどの微笑は初めてです」
「そうだったか?」

 笑うことが少ないというのは自覚している。
 しかし、そこまで言うほど稀だっただろうか。

『傍で見てきた私の見立てだと、正直エルフ族並みだと思うわ』

 ……それは、

「だが微笑などそれほど驚くことではないだろう?」
「……そうですね」

 何か諦めたような言い方だった。
 苦笑を浮かべたエクリアは、はたと何かに気付いたように、

「ところでルシファー様。いったい何に対して笑ったのですか?」
「さて……自分でもよく分からん」
「……どうやら、本心のようですね」
『ふふ、単に拗ねた態度が微笑ましかっただけじゃないかしら』
「なっ、アイドス様っ!」
「あまり大きな声を出すな。魔物を嗾けるだけだ」
「――ッ、はい……」

 殊勝に頷き、気配を探る。
 だが私が先ほど確認したように、まだ命知らずはいない。
 そうと分かると、今度は少し怒ったような顔で、

「先へ行きましょう。セリカ様たちはもう着いているかもしれませんし」
「そう急かすな。村に着いたところでやることがあるわけでもない」
「……そうですけど」

 本当に表情をよく変えるようになったと思う。
 使徒の契約を交わしたあの日の“私は私で居られる”という言葉。
 こうも様々なエクリアを目の当たりにすると、偽りではなかったのだと思える。
 何が正しかったのかは今も分からないが……悪くはない、本当に。

 ――そうだ。

 アイドスには既に渡していたから機会を逸していたが、船に乗る前に買った耳飾り。
 折角だから今のうちに渡しておこう。
 彼女はどんな反応を見せてくれるだろうか。
 それが楽しみであり、気に入らなかったらどうしようかと、少し怖くもある。
 珍しく高揚する感情を抑えながら、私は彼女の名を呼んだ。





 フレイシア湾から山を一つ越え、歩くこと一週間ほどが経つ。
 想像以上に厳しい旅路となったが、イソラ王国辺境の村にたどり着いた。

 周囲を木の柵で囲まれた小さな集落。
 小高い丘の上には宿屋があって、看板を見るに名前は『迷子の羊と羊飼い亭』。
 一階を酒場にしたごく普通の宿だ。
 まずはそこに向かい、光の神殿勢力の影響がどのくらいか確認する。

 酒場の扉を開くと、まず胡散臭そうにこちらを窺う視線に晒される。
 このようなケレース地方の辺境の村に来るのは物好きくらいだろうから、無理もない。
 まばらな客達の大半は獣人族だが、いくらか亜人間種や人間族もいる。
 どうやら共同で暮らしているらしい。

「……何か用かい?」
「部屋を一部屋頼む。それから――」

 ターバンを頭に巻いた、混沌領域で暮らしているだけあって随分と体格のいい店主。
 無愛想だが、余所者を嫌うというのは寒村には珍しくないことだ。
 下手に取り繕ったりしないだけ、逆に好印象だろう。
 私はエクリアに何か飲むか心話で尋ね、紅茶を二杯注文することにした。

「あいよ。しかし、お前さんたち夫婦かい?」
「そのようなものだ」

 驚く声を無理やり押し殺すような気配を、エクリアから感じた。
 今頃耳飾りを渡した時と同じように、真っ赤になっているかもしれない。

「こんなご時勢に旅とは、随分と酔狂だな」
「何かあったのか?」
「何かあったも何も、ここから北のレスペレント地方に闇の一大国家ができただろう」
「ここでは関係ないのではないか?」
「それ自体は関係ないさ。けど焦ったマーズテリアの連中が何を思ったのか、活発に動くようになった」
「……道中で騎馬を見かけたが」
「村に自分たちの兵を置くように言い回ってるのさ。
 冗談じゃねえ、俺たちは自分で身を守って生きてたんだ。布教なら余所でやれって話だ」

 酒場の他の村人が、同意するように頷いたのが視界に入る。

「マーズテリアに良い感情は持っていないようだな」
「随分と率直に言うな。……まあ、その通りだ。
 神聖なフレイシア湾に砦なんぞ築きやがった輩に好印象を持てってのが無理だ」
「なるほどな。私もあの神殿とは馬が合わない」
「そりゃ良かった。……取り敢えずこの村はあんたらを受け入れるぜ。もちろん、払うものがあるうちはな」

 現金な連中だ。逞しいとも言えるが。
 しかしマーズテリアと仲が悪いのは好都合だ。
 カーリアンの提案を受けたのは間違いではなかったようだな。

「……ところで人を探しているんだが」
「ん? どんな奴だ?」
「赤い髪の……女のような男と、エクリア――妻によく似た女。
 それから、左目の下に花びらを散らしたような刺青をした女剣士だ」
「ああ、そいつらなら先日うちに来たぞ。けど今はいねえな。確か、集落の裏手の方に向かったと思うが」
「そうか、悪いな」

 こういう時の一種のきまりのようなものとして、店主にいくらか握らせる。
 礼というわけでは無い。
 単にその方が次もいい情報を得られ易いというだけだ。
 こういう私やアイドスに縁が無かった振る舞いはハイシェラに習ったもの。
 共にいると時々忘れてしまうが、彼女はこの手のことには詳しいのだ。





 集落の裏手に回ると、目に入ったのは長閑な山間の風景だった。
 これがもう少し南の方に出向くと、死霊の蔓延る魔境になるから不思議なものだ。
 何か少しでも道筋を違えれば簡単に闇に堕ちる、そんな人間族のあり方とよく似ている。

「“袖の下”なんてよく御存じですね、ルシファー様」
「魔神と雖も人間たちの中で生きていけば、自然に覚える。……と言いたいところだが、多くはハイシェラに教わった」
「ハイシェラ様にですか?」
「ああ、あいつもかつては魔軍を率いていた魔王だったからな。交渉事には詳しい」
「そういえば、凶暴な魔神がケレース地方を統一仕掛けたが、マーズテリアの勇者に討伐、阻止された。
 その時の遠征軍が砦を築き、南――アヴァタール地方へ至る街道を守護するようになったという話を聞いたことがありますけど……」
「知っての通り、討伐はされていない」

 神殿がそういう噂を流したのか、或いは民衆がそう思いたかったのか。
 おそらくは両方なのだろうな。

「凶暴な魔神って、やはりハイシェラ様のことなのですね……」
『エクリアの疑問も最もだけど、今はあんなのでも昔は大軍を率いてケレースを席巻していた魔王だったのよ』
「その魔王がこの地方を放り出した結果、混沌領域に逆戻りしたわけだ。だが人間族にとってどちらでも同じことだろう」

 秩序立って行動する魔軍ならば交渉もできるが、その分精強。
 逆に話の通じない魔物では交渉もなにもないが、統率が取れていない分倒し易くはある。
 まあ数が数な上、アーライナの信徒など混沌を願う人間族もいるから、討伐もそう簡単にはいくまい。
 事実、あれから未だにケレースの平定は成されていない。

「あんなのって……えっと、その……」
『……何だの、エクリア嬢ちゃん。思うところがあるなら言ってみるだの』

 独特な話し方に辺りを窺うと、牧草地帯の向こうにセリーヌたちを引き連れたセリカの姿があった。
 ――っと、セリカの傍らに見慣れぬ姿がある。
 金糸のような長い髪を左右で纏めている、尖った耳をした女性。
 一見エルフのようにも見えるが、下に目を向けると足が植物の根のようになっている。
 確か……ユイチリという種族だっただろうか。

「遅かったな。待ち草臥れて置いていくところだったぞ」
「悪かった。……ところでそっちは?」
「テトリだ」
「よ、宜しくお願いします!」
「……名前は分かったが」

 何やら含み笑いをしているカーリアンが気になる。
 すると、少し不機嫌な様子のセリーヌが一歩前に出た。
 どうやら代わりに説明するつもりらしい。

「ルシファー様、こちらの方はテトリさんと申しまして、先日セリカ様がご契約なさいました」
「……同行者が増えたわけか」
「セリカさんには、その……責任を取って頂かないと……」

 恥ずかしそうにしながら、そんなことを言って身をくねらせるテトリ。
 その姿に僅かセリーヌの気配が変わった気がしたが。

 ――苦笑しつつ、カーリアンが話しかけてきた。

「マーズテリアには見つからなかったようね」
「まあな。だが動きは活発になっているようだ。
 幸いこの村は繋がりが薄い。しばらくここに滞在して、様子を見た方がいいかもしれない」
「私たちもそれを考えていました。ハイシェラ様も同意見です」
『光の神殿と魔族。双方から挟み撃ちだけは避けたいからの』

 ……悪くはない。
 それに悪戯にケレースに踏み込むのもできれば避けたい。
 何しろこの地方には――

「めぇぇぇぇぇ……」

 気の抜けるような声に思考を止める。
 目を向けると、暇を持て余したらしいセリカが何かを触っていた。
 まったく、気まぐれなや――

「………………羊か」
「羊だ」

 近づいて、私もその毛に触れてみる。
 もこもこしているが、ごく普通の羊だ。
 だがこの感触は癖になる。
 ……魔神ナベリウス辺りが好きそうだな。

『貴方たち、いったい何をやっているの……』
『随分とご執心のようだが……まさか、こやつに性魔術をかけるつもりか?』

 エクリアやセリーヌたちが、戸惑ったような視線を向けてくる。
 ハイシェラは何を馬鹿なことを言っているのか。

「そんな訳ないだろう。ただ、この感触が気になるんだ」
「ハイシェラの感性は少しおかしいのではないか?」
『喧しいだの! 冗談に決まっている!』

 心話の聞こえないカーリアンだけが少し困惑した様子だ。
 気になってセリーヌに通訳でも頼んだのだろう。大笑いを始める。

「……めぇぇっ!」

 二人がかりで弄られたせいか、逃げるように走り出した羊。
 セリカはそれを名残惜しげに見ていたが、

「少し、この辺りを散策してみるか。常に気を張っていても仕方がない」
『……相変わらず気まぐれなやつだの』
「あははははっ! ほんとあんた達と行動すると退屈しないわね」

 セリカたちとは合流できたが、やれやれ。
 だが確かに偶にはこういうのも悪くないかもしれない。

『……何か、以前も同じようなことがあった気がするけど』
『気のせいだろう』
『そうだったかしら……』

 その日はそれで、宿に戻ることにした。


◆ 


 何処までも暗い空間に、突如現れる眩い光。
 その光と相対する自分自身の姿を捉え、これは夢なのだと理解する。
 夢の中の私は悪態を吐くが、確かこの時は“ああ、またか”と思っていたはずだ。

「……物好きな奴め」

 黒の長髪に切れ長の赤い瞳。
 威風堂々としたといえば聞こえはいいが、腕組みをした姿は尊大にしか見えない。
 勝手に私の住処に現れては、勝手に話をして去っていく。
 ……悪くはないが、煩わしいと感じることもあった。

「汝もまた、相変わらずであるな。余がわざわざ出向いてやったというに」
「知ったことか。お前が勝手にこの地を訪れ、勝手に話していくだけだろう」
「その通りだ。余が話し、汝はそれをただ聞けばいい」
「だから物好きだというのだ」
「仕方あるまい。ここには今は、汝と余しかおらぬのだからな」
「……“今は”?」
「いずれ、時が経てば分かる。それより此度の邂逅は、天使のことについて話そうか」
「……前はお前たち神の扱う魔術について。そして今度は天使のことだと?」

 貴様はいったい何がしたいのだ。
 そう私は問おうとしたが、逆に手で制される。

 ……いつもそうだった。
 質問は受け付けるが、彼が興味を持たなければ答えはしない。
 知る必要はないとでも言いたいのだろう。――勝手なやつめ。

「汝も知っての通り、魔王となるより以前は余もまた天使であった。
 天においては“光を掲げる者”と呼ばれ、或いは“曙の明星”と賞賛され、最高の栄誉と地位――光の頂に座する導きの天使だった」
「自慢話なら余所でやれ」
「ククク、そう邪険にするな。まず前提を話しておかねばならぬからな」

 夢の中の“私”は唇の端を吊り上げる男に、何を言っても無駄だと諦めたようだ。
 好きに話をさせて、さっさと終わらせるのがいいとでも思ったのだろう。

「だが余は、仕えるべき主神に反旗を翻した。理由は今はよかろう。
 結果的には敗北し堕天したわけだが、それが余の格を闇を束ねる対極の神に昇華させたのは皮肉なことであろうな」
「……人間の信仰の影響。三神戦争とやらに敗北した原因も確かそうだと言っていたな」
「異境の神々の奸計にしてやられた。
 尤もそれ以前より信仰心などないも同然だった。故に結果は変わらなかっただろう。まあ、終わったことは良い」

 本気でそう思っているわけではあるまい。
 封印などという辱めを与えた現神は当然。
 機会があるならば、すぐにでも自分を裏切った“人類”を抹殺したいところだろう。
 そんな態度を表に出さない理由は、敗北者としての矜持か。
 何れにせよ、この自尊心の高い男が八つ当たりなど無様な真似をするはずはない。
 事実、彼は最後まで傲慢なまま消えていった。

「そこでだ。汝、堕天使というものをどう思う」
「堕ちた天の使いという意味だろう。それがどうかしたのか?」
「そうではない。余が訊きたいのは、汝が堕天使と聞いて受ける印象だ」
「知らないな。第一、私は自分以外の存在などお前しか見たことがないのだぞ。どう答えろというのだ」
「……そうであったな。いいか、人類の間で余ら堕天使は一般的に良くないものとされている」
「“堕ちた”というくらいだからな」
「しかしだ。堕天使が良くない存在だというのならば、何故“父”はそんな可能性を生んだ?」
「自らの敵とするためだろう。明確な敵がいれば、その対極はより輝く」
「ほう、汝はやはり分かるか」
「……まさか、お前の“光を掲げる”という名は――」
「さて……今となっては何を以て主神が余にそのような名を付けたかは分からぬ。
 しかし、余以外に適任は異教神バアル・ゼブルくらいしか居るまい。
 或いは余が地に堕ちることは、生まれた瞬間に定められていたのやもしれぬな。
 余が“傲慢”と……“憤怒”の二つに分かれたこともまた……」

 じっと“私”を見て、サタンは意味深げに語る。
 
「……お前が主神に反旗を翻した理由は、その運命を変えるためか?」
「ふん、さてな。そんなことを思ったこともあったというだけだ」

 それ以上、理由について語ることはないと口を閉じる。
 主神に取って代わるためなどとかつて語っていたが、何処まで本気か今も分からない。
 だが何らかの目的があって弓を引いたのは本当のようだった。

「余が言いたいのはな、堕天使全てが余のような欲望故に堕ちた者ではないということだ。
 中には忠義のため、光をよりいっそう輝かせるため、神への怒りのため。
 ……或いは、堕とされたわけではなく自ら望んで堕天使となった者さえもいる」

 何かを思い出すようにサタンは微笑したが、それが何を思い出してのことなのかは分からない。

「そんなことを私に教えてどうする?」
「いつか汝がこの揺り籠を出る時、やつらに出会うかもしれぬからな。知っておいて損はないと思っただけよ」
「……ふん」
「ククク……では、余はそろそろ行くことにしよう。――また会おう“息子”よ」
「二度と来るな」

 哄笑しながら闇の中に消えていく男。
“私たち”はそれを、何とも言えない気分のまま見送った。





 窓から山間の涼しげな風が入り込んでくる。
 ベッドから体を起こし――溜息。
 また随分と懐かしい夢を見たものだ。
 どれほど昔のことかは、数える気にもなれない。

「今頃になって何でまた……」

 こうもはっきりと古神が見る夢は、特別な意味を持つ。
“世界の律”からの警告――予知夢である可能性がある。
 つまり、天使に関わる何事かが起こる。
 だとすればラーシェナとパイモン、か。

 思い出すのは彼らのこと。
 サタンへの忠義や羨望によって堕天した二柱の魔神。
 ラーシェナは正々堂々を好むため放っておいても私達にはそれほど害はない。
 ……問題なのは、何を考えているのか分からないパイモンの方だ。

 魔神となったとはいえ、パイモンは元座天使《ソロネ》の位階にあった天使。
 かつての戦で主天使の下位程度まで弱体化したとはいえ、あれは元々魔王の一柱に数えてもいいほどの力を持っていた。
 それがどうしてたかだか楔魔の六位程度に甘んじているのか。
 それすらもあいつの策略なのか。

「……いや」

 そもそも主が必要というのは、天使の本能だ。
 それを未だに残しているからこそ、あいつは闇の王を求めている。

 ただ無理やり魔王にしてしまっては意味が無い。
 あいつが求めているのは“父”のような指導者。
 厭くまで自身の意思で魔王となった者を欲しているのであって、飾りの王が欲しいわけではない。
 だからあいつは、直接こちらに何かするようなことはない。
 その辺りは徹底しているから、あいつ自身が表立って私達に牙を剥くようなことはないはずだ。
 ……まあ、変なやつなのは間違いないが。

 しかしそうなるとあの夢の意味は――

「失礼します。ルシファー様、宜しいでしょうか?」

 声色からしてエクリアだ。
 昨日は隣のベッドで眠ったはずだが、買い物にでも出かけていたのだろうか。
 返事をして、入室して構わないことを告げる。

「食事の用意ができたようです」
「分かった。用意をしたらすぐ向かう。……そういえば、セリカの気配がないが」
「セリカ様でしたらセリーヌを連れて釣りに向かわれました」

 ……あいつは本当に釣りが好きだな。

「ならば、カーリアンは残っているのだな」
「はい。ですがもう少し眠るらしいです。……その、隣がセリカ様の部屋ですし」
「それがどうかしたのか?」
「ですからっ! ……いえ、カーリアン様はお部屋に」
「なんだ? そこで言い淀まれると気になるな」
「……ぐっ……わ、私をからかってませんか?」
「からかっているとは何がだ?」
「っ……何でも、ありません」

 本当にからかいがいのある奴だ。
 セリカではないのだから、素で何故かなど訊くわけがないだろう。
 目覚めたらしいアイドスがくすくすと笑い始めたことで、漸くエクリアが気付く。

「やっぱり態となんですね……全く、貴方という人はっ!」
「可愛らしく思っているのだから、別に構わないだろう?」
「――ッ、それとこれとは話が別です!」

 さて、いつまでもエクリアの反応を楽しんでいるわけにもいかない。
 どうにも嫌な気配が近づいている気がしてならないのだ。
 おそらく正体はマーズテリア。
 念のためエクリアにも注意を促しておくか。

 未だ記憶から消えずに残っている夢。
 その意味をもう一度考える。
 ――少なくともあれが、戦いが近いことの暗示なのは間違いない。





「釣りなど知ったのも、セリカからだったな」
「……俺は覚えていないが」
「あれだけ饒舌に語っておいてか……。というか、セリーヌは生き餌が平気なのか?」
「いえその……セリカ様に付けて頂きました」

 どうやら姉妹共々苦手らしい。
 普段、死霊や身の丈以上の魔物を屠っているというのに可笑しな話だ。

『そやつらとて、竜の眷属なのじゃから敬意を持って扱わねばならんぞ』
「嘘を教えるな、ハイシェラ」

 そんなセリカとハイシェラのやり取りを聞きながら、エクリアの釣竿の針に生き餌を付ける。
 彼女は礼を言って受け取ると、おずおずといった様子で、透き通った水面に垂らした。

『竜の眷属かどうかは別にして、大地を豊かにしているのは間違いないから、あながち的外れでもないわね』
『女神よ、嘘ではないぞ。ミミズは赤い竜と書いて“赤竜”といってだな……』
「ハイシェラ、大昔の言語で理由付けしてもエクリアたちには分からない。だいたいそれなら、もぐらも竜の眷属だろう」
「あの、大昔の言語とは?」
『ルシファーが言っているのは、先史文明期以前の言語のことよ。ファスティナ創世記時代に失われたけれど』
「そのころからファスティナ神聖語――現代魔法語が主流になったらしいからな」

 セリーヌの問いに答える傍ら、私も釣竿に餌を付けて振るう。
 その間にセリカがまず一匹、両の掌を広げたくらいの川魚を釣り上げた。

「……上手ですね」
「慣れればすぐだ。まあ、魚の気分次第というのもあるが」

 セリカはセリーヌにそう答えると、手慣れた手つきで針を外し魚籠に入れる。

 受け皿からまた生き餌を取って付けると、川に投じた。
 一方私はというと、セリカほどではないにしろ、大きめの魚を釣り上げた。
 ――っと、その様子を見ていたらしいエクリアの釣り糸が引かれている。

「あ……」
 
 漸くそれに気付いたようで必死に竿を引くが、中々引き上げられない。
 無理もないな。腰が引けている。
 あれでは先に糸が切れてしまう。

「力任せに引こうとするな。重心を落とせば楽になる」
「これくらい……んっ……」

 手伝いが必要かとも思ったが、逃げられたのならばそれも経験と敢えて手は出さなかった。
 しかしそんなに下手ではないらしい。
 水飛沫が上がったかと思うと、中々の大きさの川魚を釣り上げた。

「釣れた……釣れました!」

 子供のように喜んでいたエクリアは、セリーヌの視線に気付いたのか頬を赤くする。
 そのセリーヌはというと少し驚いた様子ではあるが、同じように顔を朱色に染めていた。

『姉妹揃って、はしゃぎ過ぎだの』
『そこが可愛いんじゃないかしら』
「か、可愛いって……ッ!」

 エクリアよ、怒ってもあまり怖くないぞ。
 だいたいさっきまで子供と一緒に川遊びをしていたくせに、今更恥ずかしがってどうするのか。

 それから私の物言いに真っ赤になって抗議するエクリアをからかいながら、夕方まで釣りを続けた。
 最終的にセリーヌまでも参加し出し、若干あいつは涙目になっていた気がする。

「もう、釣りなんてしません!」
「悪かったから拗ねるな」
「す、拗ねるなどとそんな……」
「私はお前とまた釣りに行きたいのだがな」
「っ……わ、分かりました。あ、主の命であれば仕方ありません」
『ふふ、エクリアって本当に可愛いわよね』
「アイドス様っ!」

 まあ、いいことなのだろう。
 少なくともあの光景を見て、誰も元“姫将軍”とは思うまい。

 それで魚の方はといえば、綺麗な川だったせいかかなりの量が釣れた。
 この分ならば、部屋でディアーネたちを呼んで食事を取るのもいいかもしれない。
 ユイチリは野菜しか食べられないが、魔神や天使ならば口にはできる。

「――で、私だけ仲間外れにして、あんたらは釣りに行っていたと」
「お前は起きなかったとセリーヌが言っていたぞ」
「……誰のせいだと……いや、もういいわ。言っても無駄な気がするし」

 分かってますとでも言いたげな顔のカーリアンだ。

「ただの釣りだし、別にいいんだけどね……」
「明日は近くの遺跡を探索するつもりだ。頼りにしている」
「……そう言われちゃ仕方がないわね。まあ、任せておきなさい!」

 セリカの一言で機嫌を直した。
 もともと、それほど気にしていなかったのかもしれない。
 ……しかし近隣の遺跡か。
 確かアムドシアスの拠点だったはずだが、おかしな罠など無ければいいが。




あとがき

この時期のエクリアはまだメイドではないのでご主人様とは言わないだろう。
そう思って主という呼称を使いました。

>暁の魔さん
完結まで頑張りたいと思います。



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