ナデシコは順調にその航路を消化している。火星までの道程の折り返し地点を通り越して、残りは後1/3というところまで来ていた。

 その間、相変わらず木星蜥蜴の襲撃は散発的で、警戒態勢から戦闘態勢へと移行する必要のある事態は、一度として起こっていない。それは大局的に見 れば幸運だったが、小局的に見れば不運だった。

 取り立てて何の変化もない環境というものは、人の精神をたやすく蝕む。いくら民間企業運営とはいえ、戦艦という閉鎖空間の中ではさしたる娯楽もな い。没頭できるほどの趣味を持つ者と、退屈というものとの付き合い方を知っている者を除いて、過半のクルー達は退屈に飽きていた。

 そんな中で、操舵士のハルカ・ミナトは過半以外の後者に属していた。彼女の最近の関心事はふたつ。その内のひとつが食べる事である。

 ナデシコは戦艦としては異常と言っていいほど食の充実している艦である。その功績は、チーフ・コックであるリュウ・ホウメイの負うところが大き い。

 ホウメイのこだわりで、ナデシコ食堂の厨房には世界中のスパイスが揃っており、食堂に並ぶメニューの数は100を超える。しかも週ごとに新メ ニューを追加し、日替わりのナデシコ定食はこの1ヶ月間、一度として同じメニューがトレイの上に並んだ事はない。

 ミナトの楽しみ――それは、ナデシコ食堂のメニューを完全制覇する事である。

「ふ〜んふふ〜ん♪」

 今日も今日とて、ルーティンな午前の業務を終えた昼休み、口笛など口ずさみながらミナトはナデシコ食堂へとやって来た。

 カード代わりのネルガルの社員証を食券販売機のスリットに通すと、居並ぶメニューのボタンに一斉に明かりが点る。

「ど・れ・に・し・よ・う・か・なっと♪」

 悩むようにボタンの列をなぞらっていたミナトの指が、ある一点で止まる。しばし考えた後、ミナトはそのボタンを押した。カラン、と乾いた音を立て て食券が吐き出される。

 『カツ丼』。

 ミナトの容姿からするとえらく不釣り合いな食べ物のような気もするが、今日はそんな気分だったらしい。嬉々として食券をその手に握ると、カウン ター越しに声を掛けた。

「アキトく〜ん、これお願いね〜♪」

「はーい!」

 厨房から顔を出したのは、コック見習いのアキトだ。食券の内容を確かめると、後ろを振り仰いで声を上げる。

「ホウメイさん、カツ丼一丁!」

「はいよ、カツ丼一丁!」

 早速ホウメイが調理に取りかかる。

 ナデシコ食堂で調理を担当しているのは、あくまでホウメイただ一人である。唯一の男手であるアキトはあくまで見習いであり、ホウメイ・ガールズ達 も調理補助が役割だ。最後の仕上げは、必ずホウメイの手によって行われているのである。

「ミナトさん、今日は一人なんスか?」

「そうよぉ、メグちゃんと艦長はブリッジ番なの」

 食事のためにブリッジを空にするわけにもいかず、食事は交代でとるのが決まりになっている。メグミと一緒に食事にするのがミナトの常だった。

「艦長が居なくて安心した?」

 ミナトはからかうようにアキトに笑いかける。正直ほっとしていたアキトはばつの悪い表情を作った。

「いや……まあ」

「アキト君も大変ねぇ。でも、あの艦長の猛烈なアタックを受けて、ちょっとくらい絆されたりしないの?」

「え?」

「普通の男の子だったら、ちょっといい気になるもんだと思うけどなぁ〜」

 ミナトが小首を傾げる。彼女の言っている事はアキトと同世代に限らず、世の中のほとんどの男性に当てはまる事ではあった。

「はあ……でも、ユリカの場合、ただの思いこみって感じがするんスよね。俺、王子様なんて柄じゃないし。

 あいつは昔っからああなんですよ。思い込みが激しくて、人の話を聞きゃぁしない」

「ふふふ……想像できるわ」

 ころころと笑うミナト。渋い顔で幼い頃のユリカに関わる災難を話すアキトはかなり情けなく、確かにとても『王子様』といった風情はない。

 ちなみに彼の背後ではサユリが耳をそばだてており、さらにその背後で彼女らの様子を窺いながら、ひそひそと囁きあっているホウメイ・ガールズ達が いた。

「ほらほら、サユリさんさっきから手が止まってるよ」

「サユリさんって、やっぱりアキトさんのコト……」

「えー、それじゃぁあの艦長がライバルなんだぁ」

「大変ねーサユリさん」

 しかしそんな事には気付かないサユリ。当然アキトも気付くはずもなく、ユリカの天災ぶりについて熱を入れて語っている。

 ミナトは気付いていたがわざわざ教えるつもりはなかった。理由は簡単――面白そうだから。

 人の色恋沙汰は最高の娯楽だ。これが、ミナトのもう一つの退屈しのぎの楽しみである。

 と、ここでふとミナトが悪戯を思いついた。

「そう言えばアキト君って、ルリちゃんと仲いいの?」

「はっ?」

 アキトはキョトンとした表情を作る。

「ほら、前にルリちゃんと食堂でお話ししてたじゃない? あの娘がここで食事してるの見るのってアレが初めてだったから、私ちょっと驚いちゃった」

 笑いかけて、それとなく厨房を窺う。サユリが先程いた位置から2メートルほどこちらに近付いていた。

「あの後も、誘って一緒に食事なんかしてるの?」

 びきっ――

 サユリの手にしている皿にひびが入り、それを見たホウメイ・ガールズ達が揃って後ずさった。

 背後から襲いかかってくるプレッシャーには微塵も気付きもせず、アキトは首をひねった。

「はあ……あのー、ルリちゃんって誰ですか? 俺の知ってる娘ですか?」

「へっ?」

 この返答は予想外だったのか、ミナトは間抜けな声を出してしまった。

「えっと……知らないの? ほら、ナデシコが軍隊に捕まっちゃった時、ここで一緒に食事してたじゃない。ちょっと青っぽい髪を二つにまとめた、10 歳くらいの女の子」

 年齢をばらしてしまってはサユリに対しての悪戯にはならない。後ろでは険の取れたサユリが二つに割れた皿を不思議そうに眺めている。

「ああ、あの子ですか。へぇ、ルリちゃんって言うんですか」

「もしかして、知らなかったの? 名前」

「ええ……そういえばあの時、聞きそびれてたっけ。あの後あんな事が起こったから、すっかり忘れてたなぁ」

 ぽりぽりと後頭部を掻くアキト。

「なぁんだ、つまんないの」

 期待が外れて、ミナトはがっくりと項垂れる。その鼻先に、ホウメイの威勢のいいかけ声と共に、湯気を上げる丼が置かれた。

「はいよ、カツ丼お待ち!」

 



機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE

 

 

第16話

「食堂へ行こう」



 

「そういえば、あの子が食堂にいるのって見た事ないなぁ」

 アキトは腕を組んで首をひねった。ルリの容姿は印象に残りやすいのに、何故今まで気付かなかったのか解せない様子だ。

 カウンター席に座ってカツ丼をまぐまぐと食べていたミナトは、箸を丼の上に置いて顔を上げた。

「あら、やっぱりそうなんだ」

「ええ……見たらすぐ気付くと思うんですけど……」

「そっかぁ……私が食事に誘っても、一人だけ部屋に帰っちゃうから、そうじゃ無いかとは思ってたんだけどね」

「うーん、何でだろ? この間のチキンライスが、よっぽど気に入らなかったのかなぁ」

「え? 何かしたの?」

「ええ、チキンライスの味付けをちょっと甘めにした方がいいかと思ってそうしたんスけど、あの子の好みじゃ無かったらしくて……」

「ふーん、そうだったんだぁ……。それじゃあ、アキト君が原因?」

 茶化すようにミナトが言う。

「そ、そりゃないっスよミナトさん」

「あはは、ごめんごめん、冗談よ。あの娘、ちょっと人を寄せ付けないような所があるから、多分それが原因だと思うんだけど」

「そうですか……」

「あの娘もいろいろあるみたいだし……何とかしたいとは思ってるんだけど、ね」

(それに、黒百合さんから言われている事でもあるし……)

 心の中でだけそっと付け加えるミナトだった。そんなミナトの内心にはもちろん気付かないアキト。

「そういえば、あの子……ルリちゃんでしたっけ、その子のほかにも、食堂に顔を見せない人が居ますよ」

「あら、そうなの? 誰? 私の知ってる人?」

 もしかしたら、ルリの更正(?)の手助けになるかも知れない。そんな期待を抱きつつ、ミナトが身を乗り出す。

「ええ、ミナトさんもよく知ってると思いますけど……」

 プシュッ。

 アキトが言いかけたところで、話の腰を折るタイミングで食堂の入り口が開いた。圧搾空気の抜ける音と共に姿を現したのは、赤い制服に身を包んだパ イロット四人娘たちである。

「あ〜、ちっくしょう! メシだメシだぁ!」

 どっかと荒々しくカウンター席に腰を下ろすリョーコ。なにやらご機嫌斜めのようだ。

 一緒に入ってきたヒカルやイズミ、イツキらも、心なしか疲れの見える顔つきである。

「いらっしゃい。どうしたの? みんな、ヤケに疲れてるみたいだけど」

 注文を取りに来たアキトが、比較的仲の良いヒカルに問いかける。何故仲がよいかと言えば、当然ヤマダと一緒に見るゲキガンガー上映会の常連だから である。

「あ、アキト君。あたし、焼きサンマ定食ねー」

 ぐったりとカウンターに俯せになったヒカルが力無く注文する。どうやらこちらの質問に答える余力もないようだ。

「オレはラーメンとチャーハン」

「カレーライス大盛り……」

 リョーコとイズミも同様だ。イズミに至ってはお得意の寒い駄洒落すらない。

 アキトは、このパイロット四人娘の中で比較的元気なイツキに疑問の視線を向けた。瞳で問いかけられたイツキは苦笑を浮かべて、

「ええっと……先程、シミュミレーターで黒百合さんと模擬戦を行ったんです」

「ああ、あのエステの奴ですよね。俺も訓練でやった……」

「ええ、そうです。それで、一対一の戦闘で私たちが黒百合さんに全敗しまして」

 イツキの苦笑がますます深くなる。横で話を聞いていたミナトが、感心したように、

「あら、やっぱり黒百合さんって強いのねぇ」

「そうですね。正直な話、連合軍の中でも、堂々とトップを張れるだけの腕前を持っておられると思います」

「ふーん、じゃあ、みんな黒百合さんに負けちゃったからこんなになっちゃったの?」

 ぐてっと脱力しているリョーコらに視線を向けるミナト。

「いえ、それだけならまだ何ともなかったんですが……」

「まだ何かあったんスか?」

「ええ、リョーコさんがよっぽど悔しかったのか、一対多数の集団戦を持ちかけまして……」

「あら、それじゃさすがに黒百合さんもたまんないでしょ」

 驚いたように言うミナトに、イツキは言いにくそうに、

「いえ、それがその……私とリョーコさん、ヒカルさん、イズミさん、それにヤマダさんの五人対黒百合さん一人で戦闘を行ったんですが」

「五対一ぃ? それはさすがに無茶じゃないの?」

「いえ、黒百合さんからの提案だったんですよ。それで、五対一の戦闘の結果……私たちが大敗しまして」

「へっ?」

「負けちゃったんスか!? 五対一なのに!?」

 驚きの声を上げるミナトとアキト。その声に反応して、リョーコらの身体が『びくっ!』と痙攣した。

「そうなんですよ……それで皆さん煤けてしまって……。ヤマダさんなんて、シミュレーターの中で真っ白になってましたから」

「へー、そ、そうなんですか……」

 真っ白い灰になって燃え尽きているヤマダを想像して、アキトは汗を浮かべた。

「で、その黒百合さんは?」

「黒百合さんは……シミュレーション・ルームからそのままお部屋に帰ったみたいです。一緒にお食事にとは誘ったんですけど……」

「あら、そうなんだぁ……まあ、何となくそんな感じはするけど。孤独を好む一匹狼って感じで。ワイルドよねぇ」

「わ、ワイルドっすか……」

 一匹狼という表現はさすがに古い、とはアキトも突っ込めなかった。その代わり、思い出した事を口にする。

「そういえば……さっきの話の続きですけど」

「え? 何です?」

「ああ、ルリちゃん以外に食堂に顔を出さない人のコト?」

「ええ、それって……黒百合さんなんスよ」

「そうなの?」

「ええ……あんな格好してるから、来れば一目で分かるはずなんですけど……」

 アキトはしきりに首を捻っている。悪戯を思いついた子供のような表情で、ミナトは含み笑いを漏らした。

「ふーん、そうなんだぁ……」

「あのー、何のお話ですか?」

「うふふ……な・い・しょ♪」

 話が分からず小首を傾げるイツキを、ミナトは揶揄の篭もった瞳で見返した。

 

          ◆

 

 その、10分後。

「いま、私は黒百合さんの部屋の目の前に来ている訳ね」

 人差し指をぴっと立てて、ミナトは独り呟く。誰に向かって言っているのかは全く謎だ。

 目の前のドアのネームプレートには、明朝体で『黒百合』と書かれている。脇にあるインターホンをぴっと押した。

 ぴんぽ〜ん♪

 何ともレトロなチャイムが響く。返答を待っているミナトの姿は、どことなく上機嫌だ。しばしして、ウィンドウが開いて黒百合が顔を出した。

『……誰だ?』

「あ、私。ミナトよ〜。黒百合さん、もしかしてお食事中だった?」

『いや、もう済んだ。何か用か?』

「ええ。ルリちゃんのコトでちょっとお話ししたい事があるんだけど。中に入れて貰っていいかしら?」

『あの娘の事でか?……わかった、ちょっと待ってくれ』

 ウィンドウが閉じる。ミナトは『よっしゃぁ!』とばかりにガッツポーズを取って喝采を上げた。しかしドアが開いた瞬間には平素に戻っているのは流 石だ。

「待たせたな。入ってくれ」

「ええ♪……って黒百合さん、もしかして部屋の中でもマント着てるの?」

「そうだが。それが?」

「う、ううん。別にいいんだけど」

 さらっと答える黒百合に、ミナトは頬に汗を伝わせた。そんな彼女の様子には微塵も気付かずに、黒百合はミナトを部屋の中へと誘う。その行動がどの ような意味を持っているのかすら理解してはいないだろう。また、整備班の中に敵が増えそうだ。

「……」

 意味を理解していながら誘われるままに部屋に入ったミナトは、内装を見て言葉を失った。

 黒百合の部屋はとにかく簡素だった。家具そのものは、黒百合がトーキョー・シティに潜伏していた頃と変わっていない。シングル・ソファーと冷蔵庫 がひとつずつ。増えているものといえば、各部屋に備え付けられているベットのみだ。

 ゴミ箱の中には空になったレーションの缶詰と、ハイ・カロリー固形食品の箱。どんな食生活をしているかが、一目で窺える。

「い、イメージ通りって言えばイメージ通りだけど……」

「……何の話だ?」

「ううん、気にしないで」

 ミナトは軽くかぶりを振った。今にも目眩を起こしそうだった。

 ミナトの持っている資格のひとつに、インテリア・コーディネーター資格がある。秘書をやっていた頃は、自宅のマンションのカーテンや調度品など、 季節の変わり目ごとに模様替えを行って楽しんでいたものだ。

 人の趣味にとやかく言うべきではないが、こんな人間らしさの欠片もない殺風景な部屋に人が住んでいるなどと知っては、我慢できるはずもなかった。

「それで、話というのは……」

「模様替えをしましょう!」

 ミナトは屹然とした態度で言い放つ。話を遮られた黒百合は、困惑した声を出した。

「……は?」

「カーテンとかは必要ないから、とりあえず天井にイミテーションか何かを飾って……壁にも絵のひとつくらい欲しい所よね。花……は宇宙空間だから用 意できないけど、せめて造花くらいは飾らないと何の潤いもなくなっちゃうわ! 私の部屋にある花瓶、ひとつあげるからそれに何か活けて……

 もう! こんな部屋に閉じこもってるから、そんな怪しげな格好をしても何の違和感も感じなくなっちゃうのよ! 人が住むなら人が住むで、それらし い部屋にしなきゃ!」

「何かえらく失礼な事を言われたような気がするが……」

 黒百合は呟くが、そんな事などミナトの耳には入っていない。まるで某艦長が乗り移ったかのような強引グ・マイウェイぶりを発揮してまくし立てた。

「ともかく私に任せて! インテリア・アドバイザーの経験だってあるんだから! そうと決まればすぐ実行ね。艦長に言って半休を貰ってくるから、今 日の内に済ませちゃいましょ! 黒百合さんはとりあえず、私に見られたらまずそうなものを片付けといて!」

 言い放ってミナトは部屋をばたばたと出ていった。コミュニケを使えばユリカと話はできるのだから、おそらくは自分の部屋に戻ったのだろう。

 今の黒百合の姿を見た者がいれば、誰もが驚いていただろう。彼は呆然としてミナトの出ていったドアを眺めていた。

 

 

 彼女がルリの食堂嫌いについて話すために黒百合の部屋に訪れたのだという事を思い出したのは、その日の深夜に及んで部屋の模様替えが終わり、黒百 合の手ずから出された紅茶をすすって一息ついていた時の事だった。

 


 

(食事、か……)

 翌日の昼前。ひとり艦内の廊下を歩く黒百合は、物思いに囚われていた。

 昨晩にミナトから聞いたルリの事。あの娘が食堂で食事をするのを嫌っていた事は知っている。『以前』にそれに気付いたのは自分だったし、半ば強引 に食事に誘ったのも自分だ。

 それは今よりもう暫く先の事ではあった。少なくとも、ボソンジャンプで火星から戻り、連合軍に組み込まれて地球の海上を渡り歩いていた頃だったは ずだ。その頃には彼女も随分ナデシコの雰囲気に馴染み、時々ではあるが穏やかな表情を浮かべるようになっていた。

 だが、その頃と今とでは大分状況が違う。今のルリに諭しても、頑なな拒絶が返ってくるだけだろう。いまだ、彼女の殻は破れてはいない。

 それに何より、黒百合はルリに積極的に関わる気はなかった。いや、それはルリだけの事ではない。クルー全員に言える事だ。

 今でこそまだ至らぬ所を補うために口を出してはいるが、それも最初の内だけの事だ。ナデシコ内に人材は揃っている。自分が口を挟むまでもなく、ナ デシコのクルー達は自分らしい道を見つけ、進んでいくだろう。

 そうすれば、このナデシコに自分の居場所はない。その時はナデシコを降りて、自分の目的のための道を模索するつもりだった。

 いずれ消えて無くなる者が、幅を利かせている必要はない。第一、クルー達の為にもならないだろう。

(いや……それも詭弁か)

 心の中で黒百合はかぶりを振る。自分の本心は、自分がよく分かっている。

(俺は怖いんだ……ナデシコの空気に触れ、和んでいく自分が……)

 この心の中に未だ燻り続けている黒い炎は、今や分離不可能なまでに自分と混ざり合っている。この黒い炎が消えたとき、またあの頃の無力な自分に 戻ってしまうのではないか。大切なものを護れなかった、その過ちを繰り返してしまうのではないか。

 そう思ったら、とてもではないがナデシコの雰囲気に馴染んではいられない。己を鍛え、いじめ抜き、より過酷な状況に追いやっていなければ、不安に 押しつぶされそうになる。

 黒百合の内心は、皆の見る外見とは裏腹に、張りつめすぎた糸のような状況をかろうじて保っているに過ぎなかった。

 そして、ナデシコの誰もが、そんな黒百合の心境に気付いてはいない。

 

 

「……黒百合さん?」

 声を掛けられてはっとした。気が付けば、ルリが目の前に立って不思議そうにこちらを覗き込んでいた。

 自分の考えに気を取られ過ぎていたらしい。少女が近付いていたのにも気付かなかった。

(迂闊、だな)

「黒百合さん?」

「ああ、いや、何でもない」

 改めてルリを見やる。彼女は珍しいものを見たとでもいうように、こちらに好奇の視線を向けている。周りを見渡してみれば、ここは自販機のある通路 だった。どうやら、無意識のうちに足を向けていたらしい。

 自然と、視線はルリの持っている包みへと向けられた。

「あ、コレですか?」

 視線に気が付いたルリが、手に持ったハンバーガーを掲げる。

「ああ……昼食か?」

「はい。私はいつもこれで済ましていますので」

「そうか……」

「これでも、一日に必要なビタミンや栄養バランスは確保できていますから」

 以前、誰かに言われた事があるのだろう。もしかしたらミナトかも知れない。こちらが何か言う前に、ルリは弁明するように言った。

「別に、そんな事を咎めるつもりはないがな」

「そうですか?」

「ああ、それに関しては、俺も人の事は言えんしな」

 実際、黒百合もムネタケの反乱以降、食堂に足を運んだ事はない。ルリと同じように意図的に避けている。しかし、その理由はルリとは違っていたが。

「そうですか……安心しました。黒百合さんは、やっぱりほかの人たちとは違いますね」

「……違う?」

「はい。ほかの人たちは、私が子供だと思って無駄な世話ばかり焼きたがって……私がいいって言っているのに、それを押しつけるなんて迷惑なだけで す。何でそれが分からないんでしょうか。ほんと、みんなバカばっか」

「…………」

 黒百合はルリの言葉を無言で聞いている。彼女は気付いているだろうか。愚痴を言っている自分の表情が、少しだけ和らいでいる事に。そもそも、愚痴 を言うという行為自体が、自分の変化の顕れだという事に。

 彼女は……気付いているだろうか。

「なら、やめさせるか?」

「え?」

「ナデシコのクルーはお人好し揃いだ。きっぱりと明言すれば、そういった事も減るだろう。それでも口出ししてくる奴がいるなら、俺が叩きのめして分 からせてやってもいい。

 なに、気にする事はない。自分の事も管理できない奴が、他人に構おうとするのがそもそも間違っているんだ。そうだろう?」

 黒百合の冷酷な言葉に、ルリは絶句した。冷ややかな視線がその小さな身体を射すくめる。舌の根元に乾きを感じ、ルリは唾を飲み込んだ。

 絞り出すような声音でようやく口を開く。

「……本気で、言っているんですか……?」

「そう思うか?」

「…………」

 逆に問われて、ルリは押し黙ってしまった。少なくとも、黒百合が戯れで言っているようには見えない。

 そもそも、黒百合はそんな事を言う人間にも思えない。外観こそ怪しい格好をしているが、その言動の端々に表れる暖かみには、ルリだけでなく主要ク ルーのほとんどは気付いていた。

 しかし、今の黒百合は違う。今まで見せていたものとは違う一面を、ルリの前に垣間見せている。

 答えあぐねている少女に、黒百合はふっと表情を和ませると、緊迫した空気を解いた。

「その沈黙が答えだよ、ルリちゃん」

「え?」

「戸惑っているんだろう? このナデシコの空気に。今まで出会った者達とはまるで違う対応をしてくるクルー達に」

「そんな事は……」

「否定しても分かる。君は自分で思っているほど無表情でもなければ、ましてや無感情なわけでもないさ。ただ、それをどう表現していいか解らないだけ だ」

「…………」

「……こんな事を言うのもな、俺も君と同じ様な身寄りの子を知っているからだ」

「私と同じ?」

「そうだ。詳しい事は言えんがな」

「……同情ですか? それとも代償行為?」

「かもしれん。だがひとつだけ言わせて貰えば、人は変わろうと思えばいくらでも変われる。もちろん並大抵の事ではないがな。俺はその実例をこの目で 見てきた。

 逆に言えば、変わろうと思わなければ人は変われない。自分が人形だと思っている内は、いつまで経っても人形のままだ」

「……!」

 ルリの瞳に驚きの色が宿る。

 言うべき事を言い終えて、黒百合は口を閉ざした。もう話は済んだとばかりに、ルリの脇を通り過ぎる。その背中に呼びかけたわけではないだろうが、 ルリがぽつりと呟いた。

「…………貴方に、何が分かるって言うんですか」

「分からんよ。経験に基づいて想像しただけだ。それに、俺の言う事を真に受ける必要もない。あくまで君自身の問題だからな。自分で考え、自分で決め ればいい。自分で出した答えなら、誰も文句は言えん」

「……やっぱり、黒百合さんは他の人とは違いますね」

「……そうか」

「ひとつだけ、聞いていいですか?」

「ああ……?」

「その……私と同じ身寄りという人は、今、どうしているんですか?」

 ルリの問いに、黒百合は足を止めて虚空を見上げた。その双眸に浮かんだ感情は、バイザーに阻まれて読みとる事は出来ない。

 涼やかな声音で、独白するように呟く。

「もう……この世の何処にもいない」

 

          ◆

 

 黒百合との一連の会話が交わされてから、ルリはずっと黒百合の言った言葉の意味を考えていた。

 反感を覚えた所もあった。だが、納得できた所もあった。それらを噛み含めた上で浮かんでくる疑問はただ一つ。

(私も変われる……?)

 黒百合が言っていたのはそういう事だ。しかし直後に否定もしている。必ずしも信じる必要はないと。決めるのは自分自身なのだと。

 そう言われてルリは戸惑ってしまう。ルリは今まで、自分の意志で何かを決めた事がなかった。物心付く前から研究所で実験体として扱われ、それを疑 問に思う事もなく、何も望まず、ただ流されるままに生きてきた。

 このナデシコに乗ったのも同様だ。別段自分から望んだ訳でも、やむを得ぬ事情があった訳でもない。

 だが、もしかしたら期待はしていたのかも知れない。何かが変わる事を。今までに出来なかった何かが見つかるのではないかと。

 しかし希望に打ち震えるにはルリの心は冷め切っていた。自分の心の奥底にある感情に気付かぬ振りをして、今まで身につけてきた仮面をかぶって生き ていく。

 もちろん、ルリ自身に自覚があるわけではない。本人すら気付かぬ心の奥底での動向に、だが黒百合は気付いた。いや、知っていたと言うべきか。

(私も、変われるんでしょうか……?)

 女性としての魅力の溢れるミナトのように。誰とでも親しくなれるメグミのように。何も考えてない笑みを浮かべるユリカのように……艦長のようにな るのはイヤだな。

 

 

 それは……ルリが初めて、『自分の将来』というものに対して考えを及ばせた出来事だった。

 感じた疑問は、些細なきっかけに過ぎない。それがやがて自分を包む殻を壊すまでに大きく育つなど、ルリには想像もできなかっただろう。

 だからその日、ミナトにいつも通り昼食に誘われた時に承諾の返事をしたのも、ルリにしてみればただの気まぐれに過ぎない。

 だが、ミナトにしてみれば大きな変化だった。少なくともその第一歩ではある。

「♪っ」

 喜びに身体を踊らせて、時折スキップなど踏みながら歩いている。

(何がそんなに嬉しいんですかね……)

 ルリはそう思うが、何故かイヤな気はしない。

「いらっしゃい!」

 食堂に着いたルリを出迎えたのは、威勢の良いかけ声だった。このナデシコ食堂で唯一、黄色い制服の上にエプロンを掛けている男性の声。

「は〜い、アキトく〜ん」

「いらっしゃい、ミナトさん。どうしたんスか? ずいぶんご機嫌みたいですけど」

「んふふ、わっかるぅ? それはねぇ……」

 ミナトはもったい付けるように溜めをつけると、後ろにいるルリの肩を押して前に出した。急に押されて驚いたルリは、バランスを崩してたたらを踏ん でしまう。何とか踏みこらえて顔を上げると、ちょうどアキトと目があった。

 キョトンとした表情で、アキトはルリの顔を見ている。ぱちくり、と瞬きをしてから、ふっとそのおもてが和らいだ。

「いらっしゃい。え……っと、ルリちゃんだっけ?」

「はい、ホシノ・ルリといいます。よろしく」

「あ、うん。よろしくね」

 ぺこり、とお辞儀をする二人。ミナトは微笑ましいものを見て上機嫌だった。

「アキト君、私はAランチセットね。ルリちゃんは何食べる?」

「はあ……そう言われましても、私、こういったところで食事をするのは初めてなので……」

「あ、ルリちゃんの最初のオーダーは決まってるんだ。ちょっと待ってて」

「え?」

 怪訝な表情を浮かべる二人を置いて、アキトは厨房へ入っていった。

 待つことしばし。時間にして4分程か。戻ってきたアキトは、トレイをルリの席のカウンターに置く。

「はい、お待たせ」

「これって……チキンライス?」

 ミナトが不思議そうに訪ねる。

「はい。前にルリちゃんが食べたとき、ちょっと口に合わなかったみたいで。また改めて御馳走しようと思って練習してたんですよ」

「ふ〜ん、そうなんだぁ」

「……本気だったんですか」

 感心したような、呆れたような二人である。

「これはこの間のお詫びって事で、俺の奢りだから。ルリちゃん、良かったら食べてよ。ね?」

 対応に苦慮したルリは、ミナトの顔を窺うが……満面の笑みを浮かべた頷きが返って来たため、観念してスプーンを握った。ため息をひとつ。

「はあ……その、いただきます」

 ためらいがちに薄赤色の小山にさくりと突き刺し、ちょうど自分の口に無理なく収まる大きさに掬うと、それをおもむろに口に納めようとしたところ で……じ〜っとこちらを凝視している少年と女性の顔が目に入った。

「……そんなに凝視されると、食べにくいんですけど」

「あっ、ごめん! つい……」

「前にも言いましたけど……」

「ルリちゃん、気にしないの。ささ、ぱくっといって、ぱくっと」

 ミナトはあくまでお気楽に言っている。はあ……ともう一度だけため息をついて、ルリはチキンライスを口にした。その様子を、アキトとミナトが期待 に目を輝かせて見守っている。『ぐぐっ』という擬音が聞こえてきそうな感じだ。

「………………おいしい……」

 ルリの唇から漏れた言葉に、アキトはぱっとおもてを輝かせ、ミナトは満面の笑みを浮かべた。

「ほんと!?」

「おいしい、です。前に比べるとちょうどいい味付けですし」

「そっかぁ……よかった。練習した甲斐があったよ。ありがと、ルリちゃん」

「はあ……どうも」

 何故に食事を奢って貰った自分が、奢ってくれた本人に礼を言われなければならないのか。

 不可解には思ったが、アキトの嬉しそうな笑顔を見ていると、どうでもいい様な事に思えてきた。

「アキトく〜ん。喜んでるのはいいけど、私のAランチまだぁ〜?」

「ああっ! ホウメイさんに注文するの忘れてた!」

 アキトが慌てて厨房に飛んでいく。ミナトはその様を見て笑っている。

 騒がしい事この上ない。しかしこの雰囲気は不快ではない。

(こんな食事もいいかもね)

 いつものポーカー・フェイスでチキンライスを食べながら、ルリは少しだけそう思った。

 

 

 翌朝、顔を合わせたミナトに「おはよっ、ルリルリっ♪」と声を掛けられ、ルリは目を丸くして驚く事になるのだが……それは単なる余談である。

 

 



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