嗚咽はやがて啜り泣きへと変わり、零れる涙は雫となって黒百合の胸を濡らした。

 薄桃色の髪の少女をその腕に抱く黒百合は、躊躇いがちに少女のおもてに手を掛ける。琥珀色の瞳から止めどなく溢れ出る雫を黒い手袋をはめた指で そっと拭い、その面差しを見つめた。

「ラピス……なのか?」

 その声は震えていた。

 一人にはしないと、約束した少女。その約束は果たされぬままに別れてしまった少女が、目の前にいる。

 腰まで伸ばした薄桃色の髪に、琥珀色の輝きを湛える瞳。黒百合の記憶と違わぬ容姿、だがその身体は違っていた。

 細身を帯びた容貌。曲線を描く身体のライン。僅かな膨らみを見せる胸の双丘。そのどれもが、黒百合の記憶より成長した少女の姿を浮き彫りにさせて いる。

「アキト……」

 ようやく涙を納めたラピスが、黒百合を見つめる。

「アキト……きっと迎えに来てくれると思ってた」

「……え?」

「アキトは……ワタシを一人にはしないって約束してくれた。一人にしても、きっと迎えに来るって約束してくれた」

「ラ……ピス……」

「だから、ワタシはずっとアキトを待ってた。絶対迎えに来てくれるって、信じてた。信じてたから……」

 ラピスの言葉は黒百合の胸に突き刺さった。

 なんと言う事だろう。

 自分は、ラピスが傍らにいなかったというだけでもう諦めていた。果たす事の出来なかった約束を悔やんで、だがそれだけだったのだ。

 自分の言葉だけを信じ、待ち続けていたラピス。それに比べて、自分の何と不甲斐ない事か……

「アキト……」

「ラピス……済まない。随分……待たせてしまったな」

「ウウン、イイ。こうしてまた逢えたから。これからはずっと一緒だよね、アキト」

「ああ……ずっと一緒だよ、ラピス」

「ウン……」

 ラピスはその身を黒百合に預けるように投げ出した。少女の細い身体を抱き留め、黒百合は新たな誓いをその身に刻み込むのだった。

 



機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE

 

 

第19話

「火星で何が起こったか」



 

 誰もが、驚きにその身を固めていた。

 ナデシコ・クルー達も、火星の生存者達も、呆然として黒百合とラピスの抱擁を見つめていた。

「…………く、黒百合さん。そ、そちらの方は、お知り合いですか……?」

 最初に我に返ったイツキが、どもりがちに尋ねる。心なしか口元が引きつっていた。

「……あ、ああ」

 次に我に返ったのは黒百合だった。予期せぬラピスとの再逢で頭が真っ白になっていたが、よく考えてみればここは衆人環視の中である。

 そんな中で、ラピスは自分の名前を呼んだ。もちろん黒百合という偽名ではなく、本名で、だ。

 ……拙い。これは、非常に拙い。

「あ、あー、この娘は」

 どんな言い訳をするべきか、考えながら口を開いた黒百合の隣。ラピスはそんな彼の思惑なぞ気付きもせず、思うが儘を口に出していた。

「ワタシはラピス。ラピス・ラズリ。ワタシはアキトの目、アキトの耳、アキトの手、アキトの足、アキトの――もが」

 黒百合が慌ててラピスの口を押さえた時には――もう遅かった。その場にいる全員が、胡乱な目つきで黒百合を見やっている。

「黒百合さん……一体どういう事です?」

 イツキが、笑顔で問い掛けてくる。しかし目は笑っていなかった。

 奇妙なプレッシャーを感じて、黒百合は後ずさった。そう、まるで、『前回』にナデシコに乗っていた頃、ユリカやメグミやリョーコの手作り料理を突 き付けられた時の様な……

 イヤな感じの汗が背筋を伝う。

「……ちょっと、人を無視して、勝手に痴話喧嘩を始めないでくれない?」

「誰が痴話喧嘩なんかしてますか!」

 冷めた声が割って入り、それに反応したイツキが『きっ!』と後ろを振り向く。そこに立っていたのは、ブロンドの髪の女性。

「……イネス」

「イネス?」

 黒百合の指の隙間から零れたラピスの呟きを聞きとがめ、黒百合が戸惑ったような声を出した。

「そう、私の名前はイネス・フレサンジュ。その娘――ラピスの保護者よ。

 貴方がどうしてラピスを知っているのかは後で訊くとして……まずは貴方のお名前を教えてくれないかしら? 黒衣のナイトさん?」

「あ、ああ……」

 黒百合は困惑して、イネスを見返した。

 目の前に居る女性は、確かにイネス・フレサンジュに似ている。ただし、黒百合が知っている彼女よりも、幾らか若いように思える。

「俺の名は……黒百合だ」

「黒百合? さっきラピスは、アキトって呼んでいたようだけれど?」

「え? 黒百合さんって、アキトと同じ名前だったんですか?」

 ユリカ。こういう時、場の雰囲気を読めない輩も役に立つ事があるのだと、クルー達はしきりに感心していた。

「あ、ああ……アキト、と名乗っていた頃もある。だが、今は黒百合と名乗っている」

 咄嗟に出た言い訳にしては上等だった。少なくとも嘘はついてない。

「あら、そう。何か事情でもあるのかしら?」

「……それを言うべき義務はないと思うが?」

「……それもそうね。別に興味のある事でもないし。重要なのは、貴方がラピスの言っていた『アキト』だという事よね?」

「まあ……そうだな。どんな話が伝わっているのかは知らんが。出来れば後で聞かせて貰いたいものだ」

 イネスの冷静な声につられるように、黒百合も落ち着きを取り戻す。

「それは願ってもない事だけど。所で……いつまでそうしているのかしら?」

「は?……あっと!」

 気付いて、黒百合は今までラピスの口を塞いだままになっていた手をどかした。

「ぷは」

「済まない、ラピス。苦しくなかったか?」

「ウン、大丈夫」

 ぎゅっと黒百合の腕にしがみつくラピスだった。そんな彼女に、イネスは肩を竦めて、

「……何だか毒気を抜かれちゃったわね。

 プロスさん、取り敢えず、私をナデシコまで乗せてくれないかしら? こんな所で言い争っていても、感情論にしかならないでしょう?」

「はあ……そうですなぁ。ですが、イネス博士にはネルガルの社員義務がございますので、ナデシコには否応なしに乗って頂く事になりますが……」

「ええ、分かっているわよ。ただ、どうして火星の人たちがナデシコに乗ろうとしないのか、ちゃんと『説明』して上げようと思って」

 『説明』の部分に妙にイントネーションがかかっている。それを聞いて、黒百合は彼女がまごう事なきイネス・フレサンジュである事を確信した。

 

          ◆

 

「さて……先程も言った通り、私たちはナデシコに乗るつもりはないわ」

 場所をユートピア・コロニー跡からナデシコの艦橋に移してからの、イネスの第一声である。

 火星の生存者達の代表として、イネスの他にはカイトとラピスが同行していた。もっともラピスに関しては、黒百合に付いて来たと言った方が正しいか も知れない。彼のマントの端を掴んで放そうとせず、そんな彼女を黒百合も好きにさせていた。

 そんな二人の様子を見つめるイツキとミナト。その視線が少々怖い。イツキは傍らにいるカイトの表情を引きつらせ、ミナトは隣に立っているメグミを 怯えさせていた。

 イネスの意気揚々とした声が響く。

「何故かと思うでしょうけど……私たちは軍を信用できない。木星蜥蜴が襲撃してきた時、私たちを見捨てた地球の軍隊なんかはね」

「でもよぉ。オレ達は軍隊とは関係ねぇぜ?」

 リョーコが腕を組んで不機嫌に言う。助けに来た相手に罵声を浴びせられて、彼女たちからすればとても納得できたものではない。後ろでは今にも喚き 出そうとしているヤマダを、ヒカルとイズミが二人がかりで押さえ込んでいた。

「慌てないで。今言ったのが理由の一つ。もう一つは……ナデシコでは、火星を脱出できないからよ。私たちは、沈むと判っている船に身を預ける気には ならないわ」

「お言葉だが、我々は今までの木星蜥蜴の戦闘に全て勝利を収めてきた」

「それは木星蜥蜴がまだ本腰を入れていなかったからに過ぎないわ。ナデシコの戦力では、木星蜥蜴には対抗できない。それどころか火星を脱出するのも 難しいでしょうね」

「な、何だとう!」

 ヒカル等の戒めから逃れたヤマダが、怒声を上げる。

「俺達は、今まで木星蜥蜴の奴らを蹴散らしてここまで来たんだぞ!」

「そうだぜ、アンタにナデシコの何が分かってるってんだ。ナデシコは最新技術の塊なんだぜ」

 血の気の多いヤマダとリョーコだけでなく、ヒカルやイズミも不服そうにしている。最前線で戦っている彼女たちだからこそ、イネスの物言いは自分た ちを貶されたように感じてしまったのだろう。

 だがイネスは、氷の視線で彼女たちを見据え返す。

「最新技術って何かしら? グラビティ・ブラスト? それともディストーション・フィールドかしら。そのいずれも、木星蜥蜴が既に実戦配備している 装備に過ぎないのよ」

「な……っ」

「何故知っているのかって顔ね? それは、ナデシコを設計したのは私だからよ。だから私には判る。ナデシコでは、木星蜥蜴には敵わない。決してね。

 ……それを理解しているのは、私だけじゃ無いみたいだけど?」

 イネスが視線を向けたその先には、黒衣の青年が佇んでいた。……脇に桃色の妖精を引き連れて。

 一同の視線が自然と集まる。それに催促されたように、黒百合はもたれ掛かっていた壁から背中を浮かした。

「……確かに、言う通りだな」

「何だとう!」

「聞け。今まで木星蜥蜴はこちらの戦力を分析していたに過ぎない。だからこそ戦力を小出しにしてきた。

 火星に降りてからしばらくは、蜥蜴からの襲撃がなかった。分析が完了したと見るべきだろう。遠からず、総力を挙げた襲撃がある」

「……そう言う事。同じ戦艦クラスなら、数で押されればどうしようもないでしょ?」

 イネスの言葉が、冷たい刃のように現実を突き付ける。

 クルー達は言葉を失った。事態がそこまで切迫していたとは、誰も思っていなかったに違いない。

「……まあ、説明はここまで。非常にわかりやすかったでしょう?

 取り敢えず社員義務があるから、私はナデシコに乗り込むわ。もしかしたら他にも乗船を希望する者が居るかも知れないけれど、そう多くはないわよ。

 それで、ここからは個人的な事になるんだけど……『黒百合』さん、いいかしら?」

「……ああ、何だ?」

「ちょっと、場所を変えてお話ししたいんだけど、いいかしら?」

「構わんよ。俺も訊きたい事がある」

「そうね……じゃあ、食堂にでも。案内して下さるかしら?」

「ああ……っと」

 先導しようと足を踏み出して、マントに抵抗を感じて黒百合は振り向いた。そこには、ラピスがマントにしがみついたまま、縋るような視線でこちらを 見返している。

「あー……ラピス?」

「……ワタシも一緒」

 ラピスの潤んだ瞳攻撃。それに晒される黒百合に、イネスは笑みを零した。

「……ふふっ、ラピスも一緒でいいわよ」

「ウン」

 こくりと頷くラピス。扉が閉じて、三人はブリッジから姿を消した。ハッチから視線を外さずにいたミナトがぼそっと呟く。

「……怪しいわね」

「あのラピスという娘……黒百合さんとどういう関係なんでしょうか」

「妹さん……にしては似ていませんでしたよねぇ……」

 やや怯えを含んだメグミの声である。

「これは……はっきりしないといけないわよねぇ、艦長」

「あ、あはははは……そ、そうですね、ミナトさん」

「そうです。艦内風紀を維持するためにも」

 ミナトとイツキの静かな迫力に、さしものユリカもたじたじだ。ジュンは発言すら出来ない。その背後では、プロスとゴートがこそこそと話をしてい る。

「……ミスター、これでいいのか?」

「うーむ、ですが、黒百合さんの正体を探る良い機会かも知れません。ここは任せておきましょう」

「…………」

 フクベだけが黙って事態を見守っている。

「え、えーっと。ルリちゃん、黒百合さんの所に受信オンリーでコミュニケを繋いでくれる?」

「……いいんですか? プライバシーの侵害に……」

「あらぁ、何か言った? ルリルリ」

 にこにこ。にこにこ。

「……いえ、何も」

 一人オペレーター席から動かずに興味なさげなルリだったが、ミナトの笑顔の迫力に押されてすぐさまコンソールに向 き直った。

 ブリッジのメインモニターに、イネスと黒百合がちょうど席に座るところが映し出された。

 

          ◆

 

「わあっ! 黒百合さん!?」

「……何をそんなに驚いているんだ」

 食堂に入ってきた黒百合を見るなり驚きの声を上げたアキトを、不機嫌そうに睨む黒百合。

「あ、いえ、黒百合さんが食堂に来るなんて珍しいなって……」

「……思った事は、口に出さん方が身のためだぞ」

「は、はは、すいません……」

 注文を取ってこそこそと逃げていくアキトを尻目に、黒百合は手近な椅子に腰掛ける。ラピスは当然のように黒百合の 隣に座り、イネスは向かいの席に腰を下ろした。

「……で、話というのは?」

「あら、せっかちねぇ。まあ、そう言うのは嫌いじゃないけど。

 訊きたい事は一つ。貴方とラピスの関係よ。見たところ、その娘も随分懐いているようだけれど。兄妹……じゃないわ よね」

「……その問いに答えるためには、こちらの質問に返答して貰わなければならない。

 ドクターは、ラピスとは何年前に知り合った?」

「それが何か関係あるのかしら?……まあいいけれど。

 私がラピスを拾ったのは……今から4年ほど前だったかしら。火星極冠付近の砂漠に倒れていたのを、ちょうど研究 チームの車が見つけたの。

 最初は泣いてばかりでとても話せる状態じゃなかったわ。泣きやんでからも怯えるばかりだったんだけど、何故か私に は比較的懐いてくれたみたいで……成り行きで私が面倒を見ることになったわ」

「……つまり、ラピスはネルガルの研究所にいた訳か」

 黒百合が顔を覗き込むと、ラピスはこくんと頷き返した。その頭を、そっと撫でてやると、ラピスはくすぐったそうに 目を瞑った。

 おそらく、ランダム・ジャンプによって、ラピスは自分よりもさらに過去に出たのだろう。イネスという前例も(あち らの世界での事だが)ある。それならばラピスの成長も納得がいく。

 黒百合の反応を勘違いしたのか、イネスは神妙な顔を作った。

「……貴方が何を心配しているかは分かるつもりよ。でも安心して。そういう意見がまったく出なかった訳じゃないけ ど、そんな事は私がさせなかったわ。

 判る? 私はこの4年間、いつも傍にいてラピスを保護してきたわ。そのラピスが、今まで見た事がないほど貴方に懐 いている。

 ……私には、貴方が何者か、確認する権利があると思うけど?」

 口を閉ざしたイネスは、ホウメイ・ガールズのエリが運んできたコーヒーに口付ける。

「あら、結構いい豆を使ってるのね」

「……ナデシコ食堂は、こだわりのコック長が切り盛りしているからな」

「ふーん、贅沢なのね。戦艦だっていうのに。

 その割には、貴方はあまり利用してないみたいね。さっきのコック君の言い様からすると」

「……俺にとっては無意味だからな」

「無意味?」

 イネスが黒百合の顔を見返す。しかし問い掛けの視線には答えずに、黒百合はラピスに目を移した。

「……確かにドクターの察しの通り、ラピスはマシンチャイルドだ。俺は、この娘が11歳の頃まで一緒にいた」

「マシンチャイルド……その完成例は、このナデシコに乗っているホシノ・ルリが最初のはずよ。でもラピスは、彼女よ りも明らかに年齢が高い……これはどういう事かしら?」

「世の中には表に出ない部分も多い。それほど気にする事でもないと思うが?」

「ネルガルではヒューマン・インターフェイス・プロジェクトと呼ばれていたけれど……人類の遺伝子操作は昔から行わ れていたわ。でもそのことごとくが失敗した。仮に成功しても、その生体は成人するまで生きてはいられない。

 ホシノ・ルリが『完成』したとき……10齢を超えた時、その筋の世界でどれだけ話題になったか、貴方は知らないで しょうね。

 仮に裏社会であっても、それは例外ではないわ。情報はどんな形にしろ伝わるものよ。噂話とかね。完全極秘なんて、 ただの理想にしか過ぎないわ」

「そうかも知れんな。だが、その研究所が消えれば話は別だ」

「……消える?」

 手に持っていたカップをテーブルに置く。

「そう……クリムゾン・グループの地下研究所。そこでもネルガルと同じように、秘密裏にマシンチャイルドの研究が行 われていた。そこに……俺とラピスはいた。モルモットとしてな」

 

          ◆

 

『――モルモットとしてな』

「「「「「「「!!」」」」」」」

 ブリッジでコミュニケを眺めていたクルー達が息を呑む。

「黒百合さんが……研究所の実験体に……?」

「……ミスター」

「むう、これは……」

 プロス等が言葉を失う中、モニターの向こうでは黒百合が淡々と続ける。

『もっとも俺はラピスと違って、遺伝子に手を加えられたわけじゃない。だが徹底的に頭の中を弄くられた。その結果――俺は味覚をはじめとする五感の ほとんどを失った』

『!……五感を……?』

『先程無意味だと言ったのはそういう事だ。俺は何を食べても味を感じない。俺にとって食事とはただの栄養摂取の手段に過ぎない。視覚や聴覚も、この バイザーで補正を掛けて、やっと人並み程度と言うところだ』

 黒百合が掛けているバイザーを指さす。

『その欠けた五感を支えるため……ラピスが俺のサポートになった。ナノマシンによって感覚を共有する事で、俺は五感を取り戻した。ラピスとリンクし ている間だけだったがな。

 俺とラピスの間では、考えている事が筒抜けになっていた。感覚どころか思考まで共有しているのだから当然だな。

 ラピスが俺に懐いているのもそういう理由だ』

『そう……そういう事』

『ある日……幸運にも奴らの戒めから逃れる事が出来た俺は、そのままその研究所を消した。根こそぎな。今となっては火星の何処にあったのかすら定か でないが……

 ラピスとはその混乱の中で離ればなれになった。リンクもその時に途切れていた。そのため、ラピスの居場所も分からず……俺は火星を彷徨う事になっ た。

 これが、俺がラピスと一緒にいた頃の顛末だ。理解してもらえたかな?』

 黒百合は大きく息を吐くと、背もたれに身を預けた。

 

 

「……ルリちゃん。もういいよ」

 項垂れたユリカが、顔を伏せたまま力無く言う。

「いいんですか?」

「うん、これ以上は、聞いちゃいけない気がする」

「そう……ね。ちょっとルール違反だったかしら……」

 ミナトもまた後味が悪そうだ。モニターを見ていたクルーの誰もが、苦虫を噛み潰したような顔つきをしている。

「黒百合さんが……」

 イツキもまたショックを受けていた。彼女はクルーの中では一番黒百合との付き合いが長いと言えるだろうが、考えてみれば黒百合の事をまったく知ら ない事に、今更ながらに気付かされた。

(……だとすると、あの時、火星に残ったのも……)

 会戦時、黒百合がスノー・ドロップ号を降りた際にイツキに残した言葉。『大切な忘れ物』というのは、ラピスの事だったのだろうか。

 胸に、ちくりと痛みが走る。

「イツキ」

「……なに、カイト」

「あの、黒百合って人は、一体どういう人なんだ?」

 カイトの問いに答えるには、今のイツキには若干の時間が必要だった。

「…………黒百合さんは、ナデシコのパイロットよ。それに、私の恩人でもあるの。会戦時、火星で助けて貰ったことがあるから……」

「そう、なんだ……」

 そのまま会話は途切れる。

 思考の海に沈み込んでいるイツキに、カイトは複雑な想いを込めた眼差しを向けるのだった。

 


 

「……ごめんなさい。辛い事を話させてしまったわね」

「別に……気にする事はない」

 黒百合は静かにかぶりを振った。

 もちろん、黒百合の言った事は事実とは違う。この時代に火星にクリムゾン・グループの研究所があるかどうかすら定かではない。

 だが、自分の身に起きた事については、紛れもない事実である。若干の真実を織り交ぜた嘘を見破るのは難しい。これも『前回』に学んだ交渉術であ る。プロス達がコミュニケでこちらを覗いているのは承知の上だ。

「所で、その格好はその頃からのものなの?」

「ああ、そうだが」

「そう……なら、アルカディア・コロニーに現れた《黒衣の救世主》っていうのは、貴方ね?」

「救世主? 何だそれは?」

 聞き慣れない言葉に黒百合が眉をひそめる。

「アルカディア・コロニーからここにやってきた人たちがいるけれど……彼らが皆口を揃えて言うのよ。黒ずくめの格好をした青年に助けられたって。

 聞けば、コロニーからシャトルが発進するのを自身は最後まで火星に残って守り抜き、その後は残りの人たちをユートピア・コロニー跡まで先導して、 そのまま姿を消したと言うわ。

 会戦当時に火星にいて、黒ずくめの格好をしていて、凄腕の機動兵器のパイロットなんて、かなり限られて来るんじゃないかしら」

「……それが俺だと?」

「違う?」

「……人違いだろう。俺は救世主なんて柄じゃない」

「そう。ま、そういう事にして置いて上げる」

 イネスはその返答を予期していたようだ。コーヒーを飲み干してカップを置いた後、椅子から腰を上げて、

「あ、そうそう。こんな話も知っているかしら?」

 今思い出したかのように話題を振る。白衣のポケットに手を入れて、黒百合の顔を見据えている。まるでその表情を窺うかのように。

「私はネルガルのオリンポス研に所属していたんだけど……木星蜥蜴の襲撃が一時的に止んだ後、すぐに研究所を出てユートピア・コロニー跡に向かった わ」

「ほう……随分大胆な事をするんだな」

「身の危険を感じたからね。あそこの所長は結構好色なの。非常事態をいい事に、食料を独占して、女性研究員達に服従を強いたわ。食事にありつきたけ れば、自分の言う事をきけってね。

 もちろん私はそんな事に従う気はなかったから、ラピスを連れて真っ先に逃げ出したわ。でも、他の同僚はそうはいかなかった。生きるために、彼らに 進んで身体を開いた人もいたでしょうね」

 その時の憤りを思い出しているのか、イネスの表情が歪む。

「でもね。それから半月後くらいだったかしら。研究所に残ったはずの同僚達が、ユートピア・コロニーに避難して来たの。そのほとんどが女性だった わ。

 もちろん私は詳しく事情を聞いたわ。彼女たちは怯えて碌に話せないような状態だった。よっぽど恐ろしい目にあったんでしょうね。それが何だか分か るかしら?」

「……さあな」

 黒百合の、氷のように冷たい声。

「研究所の所長を始めとする、男性研究員達……その全員が、皆殺しになったらしいわ。彼女たちの目の前で。それも、木星蜥蜴の無人兵器の仕業じゃな い。何処からか現れた、一人の人物の手によって。

 食料を独占していた碌でもない連中だったけど、それでも一応は同僚だったんだもの……顔見知りが目の前で殺されれば、そりゃあ怯えもするわよね」

「……そうだな」

「ちなみに、彼女たちの証言によると、その人物は黒ずくめでバイザーを掛けた若い男性だったと言う事なんだけど……当然、貴方であるはずがないわよ ね?」

 その瞳に危うい輝きを宿らせて……イネスが微笑みかける。

「………………知らんな」

 答える黒百合の声音も、凍り付くほどに涼やかだった。

 若干の間。二人の周囲にだけ、緊迫した空気が漂う。その圧力に押され、ホウメイ・ガールズ等は厨房から出れずにいた。

 その危うい空間を解いたのは、スピーカーから響くアラームの音だった。

『黒百合さん! 木星蜥蜴が現れました! すぐにブリッジに戻って下さい!』

 慌てたメグミのコミュニケが入る。「すぐ行く」と答えて、黒百合は椅子から腰を上げた。

「さて、それじゃ、お手並み拝見と行こうかしら?」

 イネスの挑戦的な声が、やけに耳の近くで聞こえたような気がした。

 



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