火星は既に、モニターに映る星の中で最も大きいもののひとつに過ぎなくなった。木星蜥蜴からの追撃がないことを確認し、安堵の息をもらすブリッ ジ・クルー達。

 生きて地球への帰路に着ける事を喜び、笑顔を交わしあった。

 それが一段落つくと、次に待つのは未来へと繋がる現実である。火星と地球の公転軌道を計算して、航路を決定しなければならない。

「木星蜥蜴から身を隠すため、迂回コースを取りましょう」

 そう発言したのはユリカである。火星から地球までの直線は、常に木星蜥蜴の進撃ルートである。敵との遭遇率の高い航路は避けねばならなかった。

「ルリちゃん、地球までだいたいどれくらいの時間で着くかな?」

「はい……出ました。地球の公転進路に覆い被さるように迂回ルートを設定します。けど、以前より地球-火星間距離が縮まっているので、往路よりも短 期間で帰れますね。航期は3ヶ月と4日、何事もなければ5月25日に地球に到着します」

「そっか……うん。ナデシコはこれより、第4級警戒態勢のまま地球への帰路につきます。皆さん、気を抜く事のないよう、職務に当たって下さい」

「はーい♪」

 ミナトが挙手して了解を示す。やはりどこか学校っぽい。

「ユリカ、ちょっといい?」

 相談も一段落したのを見て取って、影の薄いジュンが口を開いた。

「あ、うん。どうしたのジュン君?」

「火星からの脱出のゴタゴタで曖昧になっていたけれど……テンカワの事なんだ」

「アキト? アキトがどうしたの?」

「ふむ……テンカワさんが、フクベ提督に暴行した件ですな」

 眼鏡をくいっと直しながら、プロスが補足する。

「上官への暴力行為は、軍ならば軍法会議ものだ。ナデシコは軍艦ではないとはいえ、まったくの免責というわけにもいくまい」

「ここは艦長として、厳とした処罰を下すべきだよ」 

 元軍人と現役士官の意見に、ユリカは顔を曇らせた。

「そんな、アキトにお仕置きなんて…………何がいいかな♪」

 一転して顔を緩ませて、くねくねと踊るユリカを見て、ラピスが不思議そうに黒百合に問い掛ける。

「アキト、あのヒトどうして踊ってるの?」

「……何か良い事でもあったんだろう」

 黒百合の言葉には、幾分か呆れの要素が含まれていた。

 

          ◆

 

 結局、アキトに下された処分は、3日間の反省室入りである。アキトはブリッジに呼び出され、ユリカの口からそれを告げられた。

「ゴメンねーアキト。ジュン君がどうしてもアキトを処罰しろって言うから」

「ユリカ! 僕は、艦内風紀を保つために……」

「別に気にしてないって、ジュン。当たり前の事だしな」

 アキトは特に興奮するでもなく肩を竦めた。

「それではテンカワさん、反省室にご案内しますので、あとを付いてきて下さい」

「あ、はい。すいませんプロスさん」

 プロスと無言のゴートに促されて、アキトは歩き出した。しかし、ブリッジから出る前に、ある人物の前で足を止めた。

「…………」

「……テンカワ」

 フクベの前で立ち止まったアキトに、ゴートが催促の声を掛ける。しかしアキトはそれに答えず、フクベをじっと凝視している。

 ゴートが強引に連行しようと、行動に移ろうとする直前に、アキトが口を開いた。

「……フクベ提督。俺は正直、アンタが許せない」

「…………」

「ユートピア・コロニーは俺の生まれ故郷だったんだ。それが地表から消えたのは、間違いなくアンタのせいでもあるんだ」

「アキト、でもそれは……」

「でも」

 ユリカの言葉を遮って、アキトは続ける。

「でも、ケイさんがアンタを赦すと言ったんだ。ケイさんは、娘さんがコロニーで行方不明になってるのに、それでもアンタを責めるつもりはないっ て……」

 アキトは感情を押し殺しているかのように淡々と話している。フクベもまた、無言でアキトの弾劾を受け止めていた。

「だから、俺もアンタを責めない。俺なんかよりも、ケイさんの方がよっぽどその権利があると思うから。それに、アンタを殴って俺の気が晴れたって、 アイちゃんが戻ってくるわけじゃない。火星の人たちが生き返る訳じゃない。

 ……アンタは生きるべきなんだ。生きて、罪を償い続けるべきなんだ。少なくとも、そうする義務がアンタにはあるんだ」

「…………」

「もしアンタがそれから逃げるようだったら、俺はアンタを赦さない。絶対に、赦さない。

 ……俺が言いたいのは、それだけです。殴ったりして、申し訳ありませんでした」

 ぺこり、と頭を下げて、アキトは歩みを再開した。二度と振り返らずに、ブリッジをあとにする。

 後に残された者たちは、それぞれの表情でそれを見届けた。

「テンカワ君も、何とか気持ちの整理がついたみたいね。良かったじゃない、艦長」

「え、ええ。そうですね、ミナトさん」

 ミナトにそう答えるユリカだったが、その表情は彼女らしくもなく曇りがかっていた。

「アキト……」

 



機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE

 

 

第22話

「それは、贖罪なのか」



 

 火星を無事脱出し、少数ながらも人員を救出できた事に湧くクルー達だったが、2日も経つと熱狂も冷めて、往路で経験した退屈な日常業務がやってく る。

 たかが3ヶ月。されど3ヶ月。それを長いと取るか、短いと取るかは人それぞれだが、少なくともナデシコ・クルー達は変化の乏しい日常を求めている 訳でないのは確かだった。

 末端のクルー達は、退屈さに愚痴を漏らしつつ、暇つぶしの種を考えていればいい。しかしクルーを総括する立場にある者は、むしろその退屈さを支え るために努力をしているようなものだ。常に不測の事態に備えておかなければならない。

 その日、ブリッジ・クルーを艦橋に揃えて、プロスがとある提案をした。

「ラピスを、オペレーターにする?」

「はい、左様です」

 確認するように問い掛ける黒百合に、プロスはにっこりと頷いた。

「現在、不足の事態に備え、ブリッジにクルーが常在しているよう、交代制でブリッジ待機をして頂いている訳ですが……」

 プロスはそう前置きして話を進める。

 ブリッジ・クルーは現在、オペレーターのルリ、操舵士のミナト、通信士のメグミの三人。

 それに対し、緊急時の指揮権を持つ者は、艦長のユリカ、副長のジュン、提督のフクベ、副提督の黒百合の四人だ。

 最低ブリッジ・クルーが一名、指揮人員が一名ブリッジに待機していなければならない訳だが、現在のままではクルーの方が一人少ない。そこで、ラピ スをサブ・オペレーターとして迎え、同人数に調整したいのだ。

「ラピスはネルガルの社員じゃないぞ」

「あくまで、地球に帰還するまでの暫定の処置です。もちろん、その間のお給料はお支払い致しますし、それ以後ナデシコに乗るかどうかはご本人の意思 に任せます。

 現在、ナデシコのオペレーターはルリさんしかいらっしゃらないわけで、彼女にもしもの事があった場合、ナデシコの運営に重大な支障が生じてしまう のですよ。

 ラピスさんは、火星において見事なオペレートをなされていましたし、能力的には問題はないと思うのですが」

 この時、ルリの身体が僅かに揺れたのだが、気付いた者はいなかった。

 プロスの言っている事は正しいには違いないが、すべてを語っている訳ではないのは明白だった。ネルガルの抱える最高のマシン・チャイルドであるル リを凌駕する能力を見せたラピスを、このナデシコに確保しておきたいのだ。

 その思惑が読めるだけに、黒百合としては慎重にならざるを得ない。己の意志でネルガルに接触した自分と違って、ラピスは出来るだけネルガルの闇の 部分には関わっては欲しくなかった。

 だが、それはあくまで黒百合の思惑である。

「ワタシが、ナデシコのオペレーターになるの?」

 ラピスは首を傾げて、プロスに問い掛けた。その右手は、黒百合のマントをしかと握りしめている。その事を気に掛けている人物が、ブリッジ・クルー の中に一名いるのだが、敢えて名前は伏せておこう。

 プロスは喜んでラピスに向き直った。プロスにしてみれば、ラピスの同意を引き出すのは容易な事だ。

「はい、そうして頂けると助かるのですが。その場合、ラピスさんは黒百合さんと組んで頂こうと考えています。お二人とも、お知り合いのようですし」

「アキトと一緒なら、イイ」

 至極あっさりとラピスは頷く。まさにプロスの思惑通りだった。見かねて黒百合が口を挟む。

「……ラピス、無理に引き受ける事はないんだぞ?」

「ワタシは、アキトと一緒にいたいだけ。……アキトはワタシと一緒にいるのがイヤなの?」

「い、いや、そういう事を言っているんじゃなくてだな」

「イヤなの?」

 見上げるラピスの琥珀色の瞳が潤む。

「…………嫌な訳があるか」

「なら、ワタシはアキトと一緒。ずっと、一緒」

「…………」

 黒百合は白旗を掲げて降伏した。まったく、それ以外に選択肢はなかった。

 どうにも、ラピスが相手だと強く出れない黒百合である。ラピスには復讐に巻き込んでしまったという罪の意識があるし、何より彼女が乏しい感情を精 一杯表情に出して懇願してくると、どうしても断りきれない。こんな事ではいけないと、分かってはいるのだが……

 

 

 ラピスと再会してすぐ、黒百合の自室を尋ねてきたラピスに状況を説明し、自分の事は黒百合と呼ぶように言いつけた。だが、普段は従順なラピスがそ れだけは頑として譲らなかった。

『どうしてそんなコト言うの? アキトはアキト、呼び方を変える必要はナイと思う』

『いや、確かにそうなんだが、今ナデシコには昔の俺が乗っている。同じ名前だと、プロス辺りが勘ぐるだろう。俺の事は、ナデシコに乗っている間は黒 百合と呼ぶんだ』

『……イヤ。アキトはアキトだから。クロユリなんて呼ぶのは、イヤ。クロユリなんて名前もヘン』

『へ、変か?……って、そういう事じゃなくてだな』

『イヤ』

『あのな……』

『イヤ。……アキトは、ワタシのコトが嫌いだから、そんなコト言うの?』

『そ、そんな事はない。俺がラピスの事を嫌うはずが無いだろう?』

『なら、アキトはアキト』

『ラピス、いい子だから……』

『イヤ』

『だから……』

『イヤ。ゼッタイ、イヤ』

 最後には泣き出してしまったラピスを宥める羽目になってしまった黒百合である。

 ラピスにとって4年間離れていた反動か、彼女は以前にも増して黒百合に依存している。その反面、イネスの教育の賜か、余計な知識だけは身に付けて いて、冷たくあしらうと男女間のあらゆる文献から引用して黒百合に縋るのだ。

『アキトは、ワタシをモテアソブだけモテアソンで、飽きたら捨てるんだ!』

 涙を浮かべるラピスの口からその言葉が飛び出したとき、黒百合は卒倒しそうになった。言った本人がその意味をよく理解していないのが、せめてもの 救いだ。

 ナデシコがアルカディア・コロニーに辿り着くまでの間、黒百合はラピスの矯正に掛かり切りになった。結局、呼び方を直す事は出来なかったのだが。

(どうして、こんな事になったのやら……)

 その時の苦労を思い出し、心の中で溜め息を吐く黒百合の横で、ラピスはプロスの差し出した契約書にサインをしていた。

 その場にいたクルーの考えていた事を公約すると、概ねこうなる。

 黒百合さんの、弱点み〜っけ♪

 

          ◆

 

 反省室から出されたアキトは自室に戻り、3日間の垢をシャワーで洗い落とした後、最初に向かったのは自称恋人のユリカの所でもブリッジでもなく、 ナデシコ食堂だった。

 まだ朝食を摂りに来るクルーの数もまばらという時間である。アキトが厨房に復帰するのは明日からという事になっているため急いで食堂に向かう必要 はないのだが、アキトは一刻も早く厨房に戻りたかった。

 ナデシコの反省室は清潔で、部屋の広さもアキトの自室と何ら変わりはない。1日3食、ナデシコ食堂から食事も届けられ、行動の制限こそあるが、生 活環境は非の打ち所はない。TVなどであるような、意地の悪い看守のいびりなどは、このナデシコでは無縁の物だ。

 だが、その中で過ごすたった3日間が、アキトにはこの上もなく辛かった。自分の手で料理を作れない事が、これほど辛い事だとは思わなかった。

 やはり、自分はコックが好きなのだ。その事を思い知らされた。

 アキトは食堂に着くと、すぐさま厨房へと飛び込んだ。朝食を摂りに来ていたユリカが目聡く気付いて声を掛けてきたのだが、アキトの目と耳には入り 込んでは来なかった。

「お早うございまー……す?」

 アキトの言葉は、尻つぼみに途絶えた。アキトの知らない少女が、黄色い制服にエプロンを掛けて立っていた。

「あ、お早うございまーっす」

 少女は溌剌とした笑顔をアキトへと向けた。まだ幼さの残る顔立ちだが、恐らくアキトと同じくらいの年頃だろう。癖毛なのか、短めに切りそろえた髪 の毛先がハネている。

「お、お早うございマス」

 曇りのない笑顔を向けられて、訳もなく動揺したアキトは、何故か敬語で返事を返してしまう。少女は気にする事無く、てきぱきと作業をこなしてい た。野菜を千切りにするその手際を戸惑いながら見つめていると、少女は居心地悪そうに、

「あ、あのぉう、じっと見てられると、やりにくいんですけどぉ」

 頬を赤く染めて、そう言ってくる。

「あ、ご、ご免。えーっと、俺はテンカワ・アキト。ここのコック見習いなんだけど……君は?」

「あーあー、貴方がテンカワ君かぁ」

 少女は包丁をまな板に置いて、くるりとアキトに向き直る。

「えぇーっと、私はアスカ・ウツホ。つい3日前に、ナデシコ食堂のコック見習いになりました。ヨロシクね!」

 びしぃっ、と何故か敬礼してそう言う少女――ウツホ。

「そ、そうなんだ。じゃあ、俺が休んでいる間に?」

「うん、そうだと思う。人手が足りなくなったってプロスさんに言われて。で、私はこのフネに乗って、別に仕事があるわけじゃなかったし、火星では大 学の学食のコックをやってたから」

「え……? じゃあ、アスカちゃんは、ユートピア・コロニーからナデシコに乗ったの?」

「うん、そうだよ。あ、それと、私の事はウツホって呼んで。アスカって言うのは名字だから。どっちが名前だか分からないってよく言われるんだけど」

 こりこりと頬を掻くしぐさに、愛嬌がたっぷりと乗っている。

 確かに、ナデシコ食堂は慢性的な人手不足だった。何しろ200名分の3食の食事を、たった七人で賄っているのである。その内正式なコックはホウメ イ一人、アキトは未だ見習いで、サユリ等ホウメイ・ガールズの面々は調理補助である。

「そっか……宜しく、ウツホちゃん。俺の事もアキトでいいよ」

「うん! 宜しく、アキト!」

「あ、うん、宜しく」

 呼び捨てされた事に少々面食らったが、不思議と違和感はなかった。今まで、アキトの名前を呼び捨てにする異性は、ユリカ以外にいなかったのだが。

「アーキートーぉ……」

 そう、こんな感じに……

「って、うわあ! ユリカ!?」

「あ、艦長さん」

「アキトぉ〜、何でユリカを無視するのぉ〜?」

 ハンカチを噛んでしくしくと涙を流すユリカが、いつの間にか背後に忍び寄っていた。

「ユリカ、おま、脅かすなよ!」

「アキトってば、さっきからユリカが声掛けてるのに無視するんだもん!」

「む、無視って……別に無視してなんかいねぇぞ! 気付かなかっただけで……」

「むー! それに、さっきからウツホちゃんと仲良さそうにお話ししてるし……」

 頬をぷくっと膨らませるユリカ。とても二十歳過ぎには見えない。

「浮気は駄目なんだからね、アキト!」

「浮気って何だよ、おい……」

 そもそも、ユリカと付き合ってすらいないのだが……

「あはは、艦長さんとアキトって仲良いんですねぇ」

「そうだよ、アキトはユリカの王子様なんだから!」

「誰が王子様だよ、誰が……」

 アキトは頭を抱えた。反省室は料理が出来なかったが、少なくともユリカはいなかった。果たしてどちらがマシなのだろうか。

「ウツホちゃんは、アキトの事アキトって呼ぶのは禁止! そう呼んでいいのはユリカだけなんだから!」

「えー、別にいいじゃないですかぁ」

「駄目ったら駄目ぇ!」

「私もアキトって呼びた――おぎゅ!」

 くわん!

 ウツホの脳天に、銀色の円盤が落ちてきた。配給に使う、ステンレス製のトレイである。

「ウツホちゃん、何遊んでるのかなぁ〜?」

 にこにこと――擬音だけを張り付けたような作り物の笑みを浮かべるサユリが、いつの間にかウツホの背後に立っていた。トレイを振り下ろしたのは彼 女である。

「野菜の下拵えは終わったのぉ〜?」

「え、えっとぉ、その、まだ、です

「駄目じゃなぁい。早く終わらせないと、お客さんが待たされちゃうでしょぉ〜う?」

 どことなくぎこちないサユリの口調に底知れぬ恐怖を感じたのか、ウツホは冷や汗をかいて愛想笑いを浮かべた。

「そ、そそそそうですねぇ。すぐ戻りますぅ。それじゃアキト、また!」

「あ、あはははははは、そう言えば私、朝ご飯まだだっけ! アキト、また後でね!」

 ぴしっと手を挙げると、トレイを頭に載せたままスタコラとウツホはキッチンへと戻っていった。ユリカは持ち前の戦 略眼を発揮して、撤退を図った。朝食の乗ったトレイを持って、食堂から飛び出していく。

 それらを横目で見届けると、サユリは笑顔のまま、先程から金縛りにでもあったかのように固まっているアキトへと向 き直った。

 と――仮面のような笑顔が崩れて、半目でじろりとアキトを睨む。

「……ウツホちゃんと随分と仲がいいんですねぇ。名前で呼び合っちゃったりして。ホントに初対面なんですか?」

 敬語を使った丁寧な言い回しが、かえって迫力をいや増していた。

「そ……そう、デス」

「……ふぅぅ〜ん。信じられませんけど。今までホントに反省室にいたんですか? 夜中に抜け出してナンパでもしてた んじゃないですか?」

「ナ、ナンパって……(汗)」

 ナンパという行為が、アキトほど似合わない者はナデシコには居ないだろう。ほかには黒百合やゴート辺りか?

 何にせよ事実無根である。そもそもアキトは何故サユリにこんな事を言われているのか、何故これほど圧迫感を感じる のか分かっていない。分かっていないからこそサユリは怒っているのだが。

「女の子に声を掛けてる暇があるなら、厨房の方を手伝って下さい。誰かさんが居なくなっちゃったせいで、今忙しいん です」

「え、あの、俺って今日は休めって言われてるんだけど……」

「手伝って下さいますよねぇ、ア・キ・ト・さん!?」

「あ……いてっ、サユリちゃん、手伝うから! 手伝うから、耳引っ張らないで、耳! 痛い、痛いって!」

 ずるずるずる……

 

 

「ああ、アキト。何もできないユリカを許して……」

 サユリに耳たぶを掴まれて引かれていくアキトを、ユリカは食堂の入り口の影で、朝食を食べながら見守っていた。見 守っているだけだった。

「戻って早々、テンカワも災難だねぇ」

 呆れたようなホウメイの呟きに続いて、厨房の奥から男性の悲鳴が響き渡った。

 


 

 フクベ・ジンにとって、第一次火星会戦以後の人生は悔恨の日々だった。

 第一主力艦隊の惨敗、己の判断ミスによるコロニーの壊滅。護るべき者を護れず、救うべき者を救えず、軍人としての矜持を傷つけられて地球への帰途 に就いた。

 だが、地球に降り立ったフクベを待っていたものは、戦死者の遺族からの罵倒でも軍法会議への招集状でもなく、軍首脳からの賞賛の言葉だった。

 未知の敵との遭遇戦において第一主力艦隊の壊滅を防いだだけでなく、敵母艦を撃墜する事で一矢を報いた英雄!

 なるほど、確かに一側面においてそれは正しいと言えるかもしれない。だが、明らかに事実を隠蔽して、都合のいい側面だけを衆目に晒すことに、一体 何の意味があるというのか?

 だが、連合軍総司令部に戦意向上の為と言われれば、フクベに断る事は出来なかった。

 フクベは古いタイプの軍人だった。軍人の役目は、民衆を護るためだと自覚して、それを実行できる者が、今の地球連合軍の中に何人いるだろうか。フ クベは、その中でもかなり希少な将官だった。

 生き延びてしまった事に、フクベは忸怩たる想いを抱えていたのだ。

 木星蜥蜴を倒す事が、贖罪になると信じていた。だからこそ作られた英雄という立場も甘んじて受け入れたのだ。

 だが、スノー・ドロップ号が地球に到達し、イツキ達が注目を浴びるようになると、それと対称的にフクベは日陰に追いやられるようになった。

 それは当然だ。イツキ達は本当の英雄なのだ。作為的に作られた自分などとは違う。

 フクベは、英雄という立場に執着があったわけではない。だが、勇退という形で半ば強制的に軍を抜けたとき、フクベにあったのは無力感だけだった。

 今、自分にとっては木星蜥蜴を倒す事だけがすべてだ。それだけが、火星で自分が奪ってしまった人の命を償う唯一の方法だった。だが、軍を追われた 自分に、それを成す力はない。

 無力感と、そして徒労感に苛まれるフクベ。プロスペクターからのスカウトがあったのはその頃だった。フクベは一も二もなく飛びついた。ネルガルの 思惑が火星の研究所にある事も分かっていたが、それでも構わなかった。

 火星に行ける。火星の人たちを助ける事が出来る。少なくともその可能性がある、それだけで充分だった。

 生還率が低いのは問題ではなかった。もとより、生きて還るつもりなど無かった。

 火星の住民を助ける事で贖罪を果たし、火星の大地で果てる。そんな最期を希望していたのだと、今では分かる。何と浅ましい事だろう。英雄という立 場を厭うていた自分が、英雄としての死を望んでいたのだ。

 だが、その時は、それ以外に自分に道はないと信じていたのだ。いかに生き、そしていかに死ぬか。それが問題だった。

 ユリカに艦長としての資質があると認めた時点で、フクベはナデシコ運営に関わる事をやめた。この船は若い。自分のような老骨が、したり顔で差し出 口を叩いても、弊害を及ぼすだけだ。幸い、黒百合という指導者もいた。ここで自分の出来る事は何もない。後はどこで死ぬか、いつ死ぬか、それだけだ。

 だから、ケイが火星出身者だと知った際、フクベはすぐに彼女の元へと向かった。そしてすべてを話した。火星で旗艦をチューリップにぶつけたのも、 単に自分の面子を保つためだったのだという事も伝えた。その上で、フクベはケイに自分の持っていた銃を渡した。その銃で、自分を撃ってくれる事を期待し て。

 フクベは断罪されたがっていた。この贖罪の日々に、終わりを告げて欲しかった。フクベは疲れ果てていたのだ。

 だが、ケイから言われたのは意外な言葉だった。ケイは、受け取った拳銃をそっと床に置くと、静謐な眼差しをフクベへと向けてこう言った。

『わたしに……フクベさんを裁く権利なんてありませんわ』

 そんな事はない。娘を失った母親が、娘の仇を討つのに、他にどんな理由がいろうか。

『娘の仇を討とうなんて考えてはいませんよ? わたしは、アイは生きていると信じていますから』

 何故、そんな穏やかな笑みを浮かべる事が出来るのだろう。自分が憎くないのか? 生まれ故郷を壊滅させた自分が!

『憎くない……と言えば、嘘になりますわ。でも、だからといって、フクベさんを撃っても誰も喜びませんもの』

 そんな事はない! そんな事は……

『フクベさんも辛かったのだと、分かりますわ。今まで、十分に苦しまれていたんでしょう?

 でも、それでも、償いを果たしたいと仰るのでしたら……』

 言うのなら?

『……生きて下さい。簡単に死んで償うなんて仰らないで。それで気が晴れるのはフクベさんだけですわ。わたし、フクベさんが死んでもちっとも嬉しく なんかありませんもの。

 だから……しっかり生きて、フクベさんが誰か一人でも……火星だろうと地球だろうと、誰か一人でも救うことが出来れば……助けることが出来るのな ら、それでわたしはフクベさんを赦します。

 だから、死ぬなんて仰らないで。それが贖罪だと仰るのなら、生きて償って下さいな』

 ケイの言葉を聞き終えた時、フクベは年甲斐もなく涙を流していた。

 罪と、赦しと……自分の求めていた答えがここにあった。

 そうだ、何をいままで血迷っていたのだろう。死んで償うなんて簡単な事だ。それは逃げに過ぎなかった。

 誰からも断罪されず、それ故に誰からも赦される事の無かった咎人は、初めて贖罪する機会を得たのだ。

 ケイの部屋を辞したフクベは、世界が変わったのを感じていた。

 生きてみよう。そして、自分に出来る限りの事をしよう。人がそれを生き恥と呼ぶのなら、喜んで生き恥を晒そう。

 だが、すべては地球へ還ってからの事だった。

 この戦争を終わらせる。それがフクベの結論だった。

 フクベは、地球連合政府がひた隠しにしているこの戦争の真実の姿を知っている。偽りの英雄とは言え――あるいはだからこそ――万人の知り得ない情 報に触れる機会があったのだ。

 今までは、軍の面子を慮って口を閉ざしていた。フクベの贖罪のためには、軍が必要だったからだ。

 だが、これからは違う。真実を暴き、この無意味な戦争の犠牲者を少しでも減らすのだ。あの、アキトのような若者が、戦場で果てる事などないよう に。黒百合のような青年を作り出さないために。

 黒百合。あの黒ずくめの青年。

 黒いバイザー越しに窺えるその双眸には、年齢に相応しからぬ錆び付いた光が宿っている。一体どのような体験をすれば、あの年齢であのような眼をす る事が出来るのだろうか。想像を絶するような地獄を経験してきたはずだ。

 フクベは、黒百合に自分と同じ匂いを感じていた。もしや黒百合も、自分と同じく何らかの贖罪を果たそうとしているのではないだろうか。それが何な のかは分からない。だが、黒百合が底知れぬ闇を抱えているのは確かだった。

 自分がケイの言葉に心救われたように、黒百合もいつか赦される日が来るだろう。フクベは年長者として、同類として、経験者として、一日も早くその 日が訪れるよう願った。

 

          ◆

 

 ――夜半過ぎ、フクベは自室のドアを開けた。

 その日はユリカの発案により、火星の無事脱出と火星住民の救出成功を祝して、ささやかながら祝宴が設けられた。

 お世辞にも気を抜ける状況ではないのだが、お祭り好きなナデシコ・クルーは非常に乗り気だった。普段は難色を示すプロスやゴートも、ガス抜きの一 環として結局は承認し――最も堅牢な障壁だと思われた黒百合はあっさりと許可を出したため、その日の夜には既に会場の準備が整っていたという。

 何故戦艦であるナデシコに酒が積まれていたのかと言えば、アルカディア・コロニーの倉庫の中で、誰の目にも触れる事無く埃を被っていた発泡酒のコ ンテナをひとつ、拝借したためである。

 火星避難民の代表者であるカリンの謝辞によって幕を上げたこの祝宴は、最後には飲めや歌えやの大騒ぎとなった。その間、ナデシコの運営に問題が生 じなかったのは、ひとえにオモイカネと最年少であるが故に酔っぱらい共の酒注ぎ攻撃から逃れたルリの手腕によるだろう。

 最初はナデシコ・クルーの熱気に当てられて戸惑っていた火星避難民達も、時が経つに連れてその場に馴染み、ついにはクルー以上に騒ぎまくる者もま で出てくる有様だった。1年に渡る避難生活で、鬱積しているものもあったのだろう。

 ウツホはホウメイ・ガールズ達同じ職場の仲間との会話を楽しんでいた。時々、酒に酔ったサユリがアキトに絡んでいたりもした。

 カリンは何故かユリカの相談役のような立場に落ち着いてしまい――コップ一杯の発泡酒で耳まで赤くしたユリカの愚痴を苦笑いで聞いていた。

 ちなみに黒百合は、酔っぱらって抱き付いてくるミナトを避けて、会場の隅でラピスと一緒にオレンジ・ジュースに口を付けていた。イツキはそんな黒 百合に気付いていたが、近付いていくのも躊躇われ、カイトの持ってくるカクテルを機械的に処理していた。

 フクベは、第一次火星会戦の時から断っていた日本酒を、杯に注いで嗜んだ。久しぶりに飲んだ酒は、しみじみと身体に染み渡るようだった。

 宴会が終わると、大部分の者は会場で酔いつぶれて横になっていたが、数少ない良識派はきちんと自室に戻ってベットに就いたのだ。フクベは後者に属 していた。

 自室のドアを閉めると、フクベはよろめいて壁へともたれかかった。

「少々、飲み過ぎたかな……」

 それほど懸念もしていない声でフクベは独りごちる。

 心地よい酔いが身体を回っている。これほど良い酒が飲めたのは、果たして何年ぶりだっただろうか……

 元々フクベは日本酒が好きで、以前はよく仕事帰りに一杯やっていたものだ。泥酔する事は避けていたが、酔う事自体は嫌いではなかった。

「また、こんな酒を飲みたいものだな……」

「残念ですが、それはないですよ」

 声は、誰もいないはずのフクベの部屋の片隅から聞こえてきた。フクベがそちらを振り向く前に、侵入者の手がフクベの顔を鷲掴む。

「ぐっ!?」

 視界を塞がれたフクベは、呻き声を上げた。両手で顔を覆っている腕を掴むが、びくともしない。が、圧迫されているわけでもない。

「む……う……?」

「火星会戦の英雄ともあろう方が、往生際が悪いですよ、フクベ提督」

「そ、その声は……君は……」

「謎解きの時間はありませんよ?」

 ざわり、とフクベを掴む腕が音を立てる。非常に小さいものが擦れ合うような音と共に、フクベは自分の体の中に何かが入り込んでくるのを感じた。

 その直後、急速に意識が遠ざかってゆく。苦痛はない。それがむしろ恐怖を誘う。

 と、フクベの視界を覆っていた闇が取り払われた。もはや身体に力の入らぬフクベは、そのまま脇にあったベットへと倒れ込む。

「う、くっ……」

 最後の力を振り絞って、フクベは侵入者を見上げた。照明が灯っていないため、人相までは見えない。だが、暗がりの中で、ふたつの琥珀色の輝きだけ が浮かび上がっている。

「き、君は……何故……」

「貴方がそれを知る必要はありません。さようなら、フクベ提督。せめて安らかな眠りを……」

 侵入者は詠うように言葉を告げる。

(私は死ぬのか……?)

 結局、自分はこんなものなのだろうか。生きていこうと決意した直後に、こんな死に方を迎えるとは。何故殺されるのか、どうやって殺されるのかも分 からない。

 だが、自分にはお似合いの最期のような気もした。

(これも、贖罪だというのか……)

 自嘲したが、口からはかすれた呼気が漏れただけだった。

 薄れゆく意識の中で、フクベは黄色い制服を着た少年の姿を思い出した。

(すまん、約束は……守れないようだ…………)

 

 

 そして、第一次火星会戦の英雄、フクベ・ジンの時間は永遠に停止した。

 

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