自室のベットでこと切れているフクベが発見されたのは、翌日の昼過ぎの事だった。

 勤務時間になってもブリッジに現れないフクベを不審に思ったプロスが、様子を見に行った際に発覚したのである。

 ケイとイネスが検死に当たり、死因は急性の心筋梗塞であると見立てられた。眠っている最中のことで、苦しみはなかっただろうと言う事だった。

「きっと、気が緩まれたんでしょうね。ずっと気に掛けていた火星の人たちを助けられて……」

 そう言って、哀しげに微笑むケイだった。

 その3日後、ナデシコ・クルーによる葬儀がしめやかに執り行われた。

 ネルガルの社員契約により、死亡した社員の葬儀はネルガルが全責任を持って行う事となっている。

 しかし、フクベは仮にも第一次火星会戦の英雄である。地球に戻れば、軍による大規模な軍部葬が行われる事だろう。フクベが契約の際に記した葬儀 は、『最低限の葬儀を行い、死んだ妻の隣に埋葬して欲しい』というものだったが、その希望が叶えられる事はない。

 しかし、ナデシコで行われた葬儀は本人の希望を汲んで、主要クルーとフクベと交流のあった者のみが出席した。

 ブリッジ・クルーとパイロット達。プロス等ネルガル関係者。フクベと親しかったケイ。カリン。黒百合と、そのオプションとしてラピスも付いてきて いる。

 意外だったのは、生前はフクベを嫌っていたアキトが参加した事だった。

「……フクベ提督は、影ながら私たち支えて下さいました。まだ未熟な私を艦長として信頼して下さいました。その事に対して、感謝の念に絶えませ ん……」

 クルーの代表者としてユリカが弔辞を読んでいる間、アキトは神妙な顔で俯いていたが、その拳は硬く握りしめられていた。

「……出来れば、もっとたくさんの事を教えて頂きたかったです……

 お疲れさまでした、フクベ提督。どうか安らかにお眠り下さい……」

 ユリカの弔辞は、その言葉で締められた。

 その時、俯いていたアキトがぼそっとかすれた呟きを発した。「ばかやろう……」と言う台詞を聞き取れた者は誰もいなかった。

 

 

 その後、艦長自身による艦内放送で、1週間喪に服する旨がクルー達に伝えられた。

 



機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE

 

 

第23話

「そして船はゆく」



 

「毎度っ! ナデシコ食堂でーす」

 出前の岡持を片手に下げたアキトが、ブリッジに入って威勢良く声を上げる。

 それを出迎えたのは、無感動な琥珀色の瞳。

「ご苦労様です、テンカワさん」

 シートに座ったまま顔だけを向けて、ルリが答える。その両手はコンソールから離れていない。

 だが、これでも随分と愛想が良くなった方だという事は、本人よりもアキトの方が知っていた。まったく気にする事なく、いつもの屈託のない笑顔を少 女に向ける。

「お待たせ。いつものチキンライスだったね」

「はい。どうも」

 アキトはチキンライスの皿を岡持から取り出しながら、

「ルリちゃん、いつも出前を頼むのってチキンライスばっかりだけど、他のものも食べなきゃ駄目だよ?」

「1日に必要な栄養バランスは、ビタミン剤などで摂取できているので、問題ありません」

「そりゃあ、そうかもしれないけどさ」

 アキトはおもてに出ない程度に苦笑した。彼がブリッジに出前に来る度に繰り返されている会話である。最初は憤慨したアキトであったが、今ではルリ の素っ気ない言動にも慣れたものだった。

「あれ、そういえばユリカは?」

「艦長でしたら、こちらです」

 そう言ってルリはウィンドウを開いた。その中では、ルリと一緒にブリッジに詰めているはずのユリカが、作務衣姿で座禅を組んでいる。その後ろを、 托鉢を持ったロボットが往復していた。

 ロボットがユリカの背後を2往復してから、アキトは絞り出すような声音で、

「…………何やってんの、ユリカのヤツ」

「はい。何でも、『艦長とは何か』という命題に突き当たったそうで、落ち着いて考えるために瞑想ルームに行ってしまいました」

「……業務をほっぽりだして?」

「ナデシコの運営は、基本的に私とオモイカネがいれば問題ありませんから。それで、座禅を組んでいる内に、真剣に悟りを開くつもりになったようで す」

「……はあ、そうなんだ」

 アキトは呆れたような表情を作った。

 フクベの喪が明けて、ナデシコは平穏な日常を取り戻した。フクベはクルーとの交流が少なく、またその死因も病死である事が公開されているため、ナ デシコの志気に影響はない。懸念されていた木星蜥蜴の追撃もなく、地球への帰路は何の問題もなく進んでいる。

 だが、フクベの死がもたらした変化もまた存在していた。その一つが、艦長であるユリカの挙動不審である。

 先達であったフクベの死を受け止めた結果、現在の自分に疑問を抱いたのだろう。『自分はこのままで良いのだろうか?』という疑問を持ち続けるの は、自己啓発の面から言っても悪い事ではない。のだが、どうにも彼女の行動は極端へと走る。普通、悟りを開こうとするまでには至るまい。

 どこまで行ってもユリカはユリカだった。

「何してるんだか、こいつも……しょうがない、瞑想ルームまで届けてやるか」

 溜め息をつくアキト。彼の方は、フクベの喪が明けてからも何の変化もないように見えた。

 アキトの性格から考えて、フクベが亡くなって陰鬱な表情が続くだろうと誰もが思っていた。だが、意外な事に葬儀が終えてからは、少なくとも表面 上、アキトに変化は現れなかった。

 その事を誰よりも意外に思っているのがルリだった。いくら人付き合いの少ない彼女とはいえ、食事の度に会話していればアキトの性格はある程度把握 できる。

 素直で直情的、それに感情の起伏が激しく、情緒不安定な面も見受けられる。やや内罰的な傾向あり。

 つまり、自分と正反対なのだ、テンカワ・アキトという青年は。ルリから見れば、アキトの行動は不条理に満ちている。

 そんな彼が、今回に限ってはパターン外の反応を見せている。ルリ以外の者は、アキトの態度に何となく感じるものがあって敢えて触れようとはしてい ないが、人付き合いの経験が少ない故にルリにはそこまで察する事が出来ない。

 とはいえ、アキト本人に問い質すのも妙な話なのはルリにも分かる。第一、そんなのは自分のキャラではない。

 ルリが内心、そんな葛藤を抱えているとはつゆ知らず、アキトはチャーハンセットの入った岡持を手に取った。

「じゃ、ルリちゃん、俺はユリカに昼食を届けに行くから。お皿は後で回収に来るよ」

「あ、はい。お願いします」

「ルリちゃんも、ユリカが艦長なんてやってると、色々苦労するでしょ?」

「ええ。それはまあ」

「ははは、ハッキリ言うね、ルリちゃんは」

「はい。あ、いえ、すいません」

「別に俺に謝らなくたっていいよ。ホントの事だろうし。でも、ユリカのヤツも最近はアレで結構色々考えてるみたいだからさ。もう暫く我慢してやって よ。ね?」

「はあ……」

 何故アキトがユリカの事を弁護するのか、ルリには不思議だった。ユリカの突飛な行動で最も迷惑を被っているのは、目の前で苦笑いを浮かべている青 年のはずなのだが。

 やっぱりアキトの言動は不条理だ、とルリは改めて思った。

 

          ◆

 

 ナデシコに乗ってから支給されたパイロット用の赤い制服に身を包んで、ヤマモト・カイトはトレーニング・ルームの扉の前に立っていた。中に入ろう としているのだが、先程からやや躊躇うようにドアの前を往復している。

 やがて意を決し、「よしっ!」と気合いを入れて足を踏み出す。ぷしゅっ、とドアが開くと、眼前には赤い物体が迫ってきていた。

「は?……わっと!」

 すばらしい反射神経で飛来してきたそれをひらりと躱す。謎の物体はごろごろと廊下を転がり、壁にぶち当たってその動きを止めた。

「な……何?」

 そーっと様子を窺う。よく見れば、その謎の赤い物体はヤマダだった。ひっくり返った団子虫のような格好で目を回している。

 突然の事態に呆気にとられていると、部屋の中から黒百合が顔を出してきた。

「……誰だ?」

「あ、組み手の最中だったんですか、黒百合さん」

「ああ……?」

「あ、僕はカイトと言います。ヤマモト・カイト」

「ああ、ラピスと一緒にユートピア・コロニーからナデシコに乗ったんだったな」

「ええ、そうです」

「此処に何か用でもあったか?」

「いえ、貴方にちょっと話があったんですけど」

 やや思い詰めたような、厳しい表情を浮かべるカイトに黒百合は訝るような視線を向けた。

「そうか、なら、中で話を聞くが」

「ええ……ところで、彼は放っておいて良いんですか?」

 未だに目を回しているヤマダを指差す。

「このままでも風邪を引くような事はないだろうが、通行の邪魔だな。中に入れておくか」

 黒百合に足を掴まれて、ずるずると部屋の中へ引きずられていくヤマダ。結構酷い扱いを受けているのだが、カイトはまったく気にもとめなかった。

 カイトがトレーニング・ルームの中に入ると、壁にもたれ掛かって体育座りをしている薄桃色の髪をした少女が目に入った。

「ラピスちゃんじゃないか。どうしたの、こんな所で」

「アキトと一緒にいるの」

 返ってきたのは、いつも通り素っ気ない答えだった。

「そうか、ユートピア・コロニーにいたのなら、ラピスと顔見知りでもおかしくはないな」

「ええ、まあ。シェルターの中で、イネス博士と一緒に顔を合わせた事はあります」

「そうか……で、話というのは?」

「その前に……良ければ僕と手合わせして貰えますか?」

「何?」

 カイトの意外な提案に、黒百合は眉を動かした。

「おかしいですか? 僕はこれでもパイロットですし、訓練学校のカリキュラムで、基本的な格闘技くらいは修めてます」

「まあ、別に構わんが」

「それじゃあ、宜しくお願いします」

 丁寧な言葉遣いとは裏腹に、カイトはやる気満々のようだった。即座に拳を握って構えを取る。その構えは空手のそれに近い。黒百合の目から見ても、 隙無くまとまっている。

(ほう……)

 密かに感嘆する黒百合。華奢なカイトの体格からは想像しにくいが、少なくともヤマダよりは出来そうだ。

「……行きますっ!」

 黒百合の返答を待たずにカイトは飛び出す。それは、黒百合の想像を超えるスピードだった。

「!」

「シッ!」

 3メートル近い間合いを一瞬にして詰め、カイトは左ストレートを繰り出す。速さ、威力共に申し分ないそれを黒百合が躱すと、間髪入れずに反対側の 拳が襲いかかって来た。それも体をずらして避ける。すると、それを見越していたようにフック気味の左の拳が黒百合を追撃してくる。

 ストレート、フックを織り交ぜた左右の連打。拳の戻りが早いために隙も少なく、反撃の糸口がない。だが、常人ならとうてい捌き切れないカイトの猛 攻を、黒百合は体捌きだけで躱していた。

(何かを狙ってるな……)

 カイトのパンチがあくまでも牽制に過ぎない事に黒百合は気付いていた。自分からは手を出さず、慎重にカイトの手を窺っている。

 と、カイトがいきなりくるりと背を向けた。

「?」

 無防備な背中を晒されて、一瞬だけ虚を突かれる黒百合。そこを狙い澄ましたかのように、左の裏拳が唸りを上げて襲いかかる!

「おっと」

 だが、黒百合にとっては充分対処可能な範疇だった。慌てる事無く身を沈めて裏拳を避ける。と、頭上に殺気を感じて後ろに飛び退いた。

 ヒュォン!

 黒百合の眼前僅か3センチの所を、カイトの右脚が風切り音を唸らせて通り過ぎていく。当初からのパンチのラッシュで拳に注意を引きつけて置いて、 虚と突いた裏拳で体型を崩し、本命の回し蹴りを叩き込む! カイトが狙っていたのはこれだった。

 しかし蹴りは空を切り、体勢を崩すカイト。そこに黒百合が反撃に出た。

「ふっ!」

 体重を乗せた正拳。空手では那覇手と呼ばれる正拳突きだ。もっとも、黒百合が本気で撃てば冗談抜きで人が殺せるため、当然加減してある。

「くぅっ!?」

 カイトは身体を捻って何とかこれを躱すが、続く左の掌打までは避けきれなかった。両腕でガードするが、堪えきれずに後方へ2メートルほど吹き飛ん だ。再び、間合いが開く。

 カイトは痺れの残る両腕を振りながら、

「流石……ですね。イツキから聞いていた以上ですよ」

「イツキから?」

「ええ。僕は訓練学校時代のイツキの同期ですからね。……彼女から聞いてなかったんですか?」

「いや……そういえば、最近イツキとは話をしていないな」

 今気がついた黒百合である。鈍いところは昔と変わっていない。それを聞いて、カイトは何かを堪えるように、ぶるぶると身体を震わせた。

「僕の話って言うのも、イツキの事なんですがね……」

「…………」

「……僕は、訓練学校の頃からずっとイツキと一緒でした。自惚れじゃなく、一番仲が良かったのは僕だと思っていますよ。イツキの事は、誰よりも良く 知っています。

 ……そのイツキが、今では僕の知らない表情ばかりを浮かべているんだ。落ち込んだような暗い表情で、いつも思い悩んだように俯いてる。彼女にそん な表情は似合わない。イツキは笑顔でいるのが一番なんだ」

「その事については反論はしないが……それで、何故俺に?」

「イツキにそんな表情をさせているのは……貴方だ。

 僕は、イツキのあんな表情なんて見たくない。見たくなんか無いんだ!」

「それで、俺に突っかかってきた訳か。だが、お門違いだな」

「そんな事――言われなくてもっ!」

 言い捨てて、カイトが再び床を蹴った。

「ヒュッ!」

「っ!」

 回し蹴りを引いて避ける黒百合。カイトは回転の勢いを活かしてそのまま逆足の後ろ回し蹴りを放ち、それも避けられると右のキックを矢継ぎ早に繰り 出した。

 弧の軌道を描く回し蹴りではなく、矢のような直線軌道の突き蹴りである。しかも、マシンガンのように連続で放ってくる。その動きは、先刻のものよ りも――

(疾い!)

 黒百合と比べても、遜色のない動きをカイトは見せている。連続で蹴りを放っても体勢を崩す事なく、軸足は床に張り付いているかのように動かない。

 どうやらカイトは拳打よりも蹴打の方が得意らしい。

(言うだけの事はあるな。だが――)

 黒百合から見ればまだ隙がある。技術はともかく、実戦経験ではまだ黒百合に後れをとっている。

 黒百合が動いた。カイトの蹴りを腕で受け、同時に左足を前に踏み込む。それだけの事だが、カイトの体勢を崩すのには十分だ。

「く!」

 懐に飛び込まれたカイトは、黒百合を突き放そうと右の膝蹴りを撃つ。だが、苦し紛れの一撃は十分な威力が乗ってはいない。左の掌で受け止め、裂帛 の気合いと共に、右の掌打を放つ!

 木連式柔の一・『襲虎』!

 獲物に襲いかかる虎の姿を模倣したその一撃が、突き上げ気味にカイトの身体の中心に突き刺さった。ゴム毬のようにカイトの身体が跳ね飛び、2秒ほ ど滞空して床に墜落した。

「……しまった、やりすぎたか」

 掌底を突き出した体勢のまま、黒百合が呟く。予想以上のカイトの実力に、つい力を込め過ぎてしまった。

 どうやら無意識のうちに受け身は取れたようだが、カイトは完全に気絶している。インパクトの瞬間に咄嗟に力を抜いたので、1時間もすれば目が覚め るだろうが……

「しょうがない、医務室に運んでやるか」

 脱力しているカイトをひょいと担ぎ上げる黒百合。

 それにしても、カイトがこれほどまでに思い詰めているとは思わなかった。それに、少々激情家の気もあるらしい。

 もっとも、黒百合は何故カイトが自分に突っかかってきたのか、その根底にある理由までは理解していない。行動が報われないあたり、カイトは結構 ジュンに似ているかも知れない……

(に、しても……)

 黒百合はひとつだけ気になる事があった。カイトの動き――その技や体捌きに、どことなく見覚えの合ったような気がしたのだが……

「……アキト」

「ん? ラピス?」

「エイ」

 ぽか。

 いつの間にか忍び寄っていたラピスが、気絶しているカイトの後頭部をぐーで叩いた。非力なため、大した威力もないだろうが、死人に鞭打つラピスの 行動に黒百合は呆気にとられた。

「……何やってるんだ、ラピス」

「カイトが、アキトを叩こうとしたから。オシオキ」

「お仕置きって……もう気絶してるじゃないか」

「イネスが言ってた。弱ったテキにはヨウシャするなって。確実にトドメを差して、ハンコウする気も起きないようにするんだって」

「そ、そうか……」

 無垢な表情からは想像もできない辛辣なラピスの台詞に、黒百合は頬に汗を伝わせた。

(……ラピスにどんな教育をしていたんだ、ドクターは)

 

          ◆

 

「くちん!」

「あら、フレサンジュ博士、風邪ですか?」

「誰か、私の噂でもしてるんでしょ」

「私の話、聞いてますかぁ? イネスさん」

「はいはい、聞いてるわよ、艦長」

「アキトったらユリカが誘っても恥ずかしがってすぐ逃げちゃうんですよぉ。さっきお昼ご飯を届けてくれたときも……」

「まあまあミスマル艦長。男の人ってみんなシャイなのですよ。テンカワさんだって艦長のことを嫌ってるわけではないのですから」

「そうですか? そうですよね!」

「ええ、ちゃんと艦長としての仕事もこなした上でアプローチすれば、テンカワさんもきっと応えてくれますよ」

「はい! ユリカ頑張っちゃいます!」

 イネスの部屋に呼ばれていたカリンを尋ねてきたユリカは、何故かイネスの個室に用意されていた炬燵に寄り合ってカリンと歓談している。どうやらア キト絡みで彼女に相談があったらしい。すっかりユリカのお守り役が板に付いているカリンである。

「それでねそれでね、アキトったら……」

「まあ、それは……」

(何やってるのかしらねぇ、私も……)

 ユリカの話はいっこうに終わる気配を見せない。炬燵の上に当然のように置いてあるミカンをつまみながら、イネスはそんな事を呟いていた。

 


 

 三角フラスコがアルコール・ランプの火に掛けられている。中に入っている液体が、こぽこぽと音を立てていた。

 たおやかな手がフラスコを取ると、中に入っている液体を耐熱ビーカーへと傾けた。透明なビーカーが、黒瑪瑙を溶かしたような色の液体で満たされて いく。

 2つのビーカーに液体を注いだ後、くすんだブロンドの髪の女性は台に置かれていた試験管を取る。きゅぽん、という音と共にゴムキャップを外すと、 中に入っていた白い粉末を匙で採取して、ビーカーへと加えた。

 さらに別の試験管に手を伸ばす。その中に入っていたのは、乳白色の液体だった。スポイトで吸い取り、ぴったり10滴をビーカーへと落とし、それを マドラーで攪拌した。

「はい、イツキさん」

 ケイはにっこりと微笑んで、コーヒーの入ったビーカーを椅子に座っているイツキへと渡した。

「どうも……」

「インスタントですけど、ホウメイさんから頂いたものですから、味はいいんですよ」

 ケイも自分の椅子に腰掛けると、自ら淹れたコーヒーを一口啜った。だが、イツキは手にしたコーヒーを飲もうともせず、視線を落としたままである。 医務室を訪れてから、彼女はずっとこんな感じだった。

「……それで、どうされたんですか?」

 コーヒーをもう一口啜ってからケイが切り出すと、イツキはびくんと身を竦ませた。言うべきか言わざるべきか、此の期に及んでまだ悩んでいるのがそ の表情から窺える。果断な彼女には珍しい。

 もっとも、ここ数日ほど彼女が悩みを抱えているのは気付いていたし、その悩みの内容もおおよそは見当がついていた。イツキは自覚していなかったの だろうが、彼女の視線は常にとある人物に向けられていたからだ。

「……あの、その……」

「なにか、相談があっていらしたんでしょう?」

「そ、それはそうなんですけど……」

 しどろもどろになるイツキに微笑ましいものを感じて、ケイはくすりとしてしまう。が、ウブで生真面目なイツキをからかっても意味はない。此処は年 長者が導いてやるべきだろう。

「……黒百合さんの事でしょう?」

「え!」

 イツキは文字通り飛び跳ねんばかりに驚いた。手に抱えているビーカーが震えて、コーヒーの水面が揺れる。ケイはくすくすと笑いを漏らし、

「イツキさんってば、最近黒百合さんばかりを目で追っているんですもの……すぐ分かりますよ」

「そ……そんなに見てましたか?」

「ええ。ご自分では気付いていないとは思いましたけれど」

「そうですか……」

「黒百合さんと、何か……あったんですか?」

「いえ、そう言う訳ではないんですが……」

 イツキは俯いてビーカーに視線を落としたまま、ぽつぽつと話し出した。

 ユートピア・コロニー跡で一瞬頭をよぎった疑問。

 いつの間にか黒百合に頼りきりになっていた自分の不甲斐なさ。以前の火星脱出の際と同じように、置き去りにされたような感覚。

 黒百合に追いつけないもどかしさ。そして、黒百合の隣に佇む、薄桃色の髪の少女の事……

「ともかく、自分が情けなくて……悔しくて……

 黒百合さんを見ていると、申し訳ない気持ちで胸が苦しくなるんです。でも、それでも……」

「それでも、つい黒百合さんを追ってしまうんですね?」

「はい……」

 こくり、と頷くイツキ。そして、照れを隠すようにすっかりぬるくなったコーヒーに口を付けた。その頬は、若干の赤みを差している。

「それで、どうすればいいのか……私、一体どうしちゃったんでしょう!?」

「どうしちゃった、と言われましても……」

 ケイは頬に手を当てて、困ったように首を傾げた。

 特定の異性から目が離せなくなって、見つめていると訳もなく胸が苦しくなると言う。そんな症状は、古来からひとつしかないのだが……

(多分、気付いてらっしゃらないんでしょうねぇ……)

 自分の口から言っても良いものかどうか。だが、どうもイツキはそちらの面には疎いらしく、自分で気づけるかどうか分からない。それに、今回のケー スでは、相手の方に期待する事も出来ないだろう。

 仕方ない、とばかりにケイは溜め息をついてから、

「……イツキさんは多分、黒百合さんに恋をなされているんだと思いますよ?」

「………………は?」

 若干の沈黙の後、イツキは問い返した。ケイの言葉が、まるで未開地の原住民の言語のように理解不能だった。

「イツキさんは、黒百合さんに恋をなされているんです」

 今度は断言した。イツキは惚けたような表情を作った。

「はあ」

 抜けたような息を漏らして、コーヒーをひと啜り。

 ケイは空になった自分のビーカーにもう一杯コーヒーを注ぎながら、しみじみと呟く。

「やっぱり、気付いてらっしゃらなかったんですねぇ」

「え? あの……えっと? 私が、黒百合さんに……ええ?」

 かぁ〜〜〜っ。

 ケイの言葉の意味が浸透して来るにつれ、イツキの血液は急速に重力に逆らって上昇を始めた。

「そ、そそそんな。私が、そんな、黒百合さんに、あの、その……

 動転してしどろもどろに弁解を始めたが、ケイの穏やかな視線に晒されて尻つぼみになり、耳まで真っ赤に染めて俯い てしまった。その脳天からは、ほくほくと湯気が立ち上っている。

(若いって、いいですねぇ……)

 イツキのあまりにもウブな反応に、ケイはそんな年寄りじみた事を考えてしまった。

「ふふ、イツキさん、落ち着いて。まったく悪いことをしている訳じゃないんですから」

「はい……」

 真っ赤なままに頷くイツキ。

 深呼吸をして、胸に手を当てて動悸を落ち着かせると、やがて真剣な表情でケイに向き直った。……頬は赤いままだったが。

「あの……私、そうなんでしょうか?」

「そうだと思いますよ。少なくとも傍目から見た限りでは」

「わ、分かりません……私、そういった事は今まで全然縁がなくて……」

「そうなんですか?」

 ケイの脳裏には、現在ナデシコに乗っている男性の顔が二人ほど浮かんだのだが、イツキには告げずにおいた。ただ、「お気の毒に……」とは思った。

「老婆心から言わせて貰えれば、自分の気持ちに正直になる事ですよ。意地を張っても良い事はありませんから。ライバルも多いでしょうけれど、頑張っ て下さいね」

「が、頑張れと言われましても……」

 イツキが返答に苦慮していると、インターホンの呼び出し音が鳴り響いた。

「あら、誰かいらしたみたいですね。はーい、開いていますよ」

「ああ、失礼する」

 開いたハッチの向こうから入ってきたのは、気絶したカイトを小脇に抱えている黒百合だった。

「あら、黒百合さん。カイトさんも。どうされたんです?」

「組み手中にこいつが気を失ってな。目を覚ますまでちょっと預かっておいて欲しいんだが……」

 そこまで言いさして、黒百合は顔を真っ赤に茹で上げ、あうあうしているイツキに気付いた。

「イツキ? どうしたんだ医務室で。顔が赤いが。風邪か?」

 黒百合に声を掛けられて、イツキは我に返った。

「くっ! 黒百合さん! 聞いてました!?」

「……何をだ?」

 防音性を備えたハッチ越しに、部屋の中の会話が聞こえるはずがない。そんな事に気付かないほどイツキは動転していた。

「い、いいいいいえ! 何でもありません! そ、それより黒百合さんこそどうして此処に!?」

「いや、だからカイトを寝かしに来たんだが」

「そっ、そうですか! どうぞどうぞ遠慮なく!」

「まあ、遠慮なぞしないが……どうかしたのか? 様子が変だが」

「いっ、いえその」

「ちょっと女性同士のプライベートな話をしていたものですから」

 のほほんと韜晦するケイ。ひたすら慌てているイツキとは対称的だ。

「そうか、邪魔したな」

「いえいえお構いなく。そうだ、よろしかったら黒百合さんもお茶して行きませんか?」

「いや、せっかくだが遠慮しておく。ちょっとラピスの相手をしてやらなければならないんでな」

 ちら、と物言わず自分の後ろに佇んでいる少女に視線をやる黒百合。

「そうですか、残念ですね」

「ま、次の機会にな。

 ――ああ、そうだ、イツキ」

「はっ、はいっ!?」

 不意に名前を呼ばれて、イツキは素っ頓狂な声を上げてしまった。何とか動揺を抑えて、努めて冷静な声を出す。

「な、何か?」

 それでも若干は震えていたが。

「もしよければ、そいつが目を覚ますまで傍にいてやってくれ」

「は? え…え、別に構いませんが」

「なら、頼む」

「はい」

「それと、最近何か悩み事を抱えているようだが……あまり思い詰めるなよ。真面目なのはイツキの長所だが、真面目過ぎるのがイツキの短所だからな」

「え……」

「前にも言ったかもしれんが、もう少し肩の力を抜いた方がいい」

「あ…………はい!」

 しばし唖然としていたイツキだったが、やがて喜色をそのおもてに満面と浮かべて頷きを返した。

 イツキの返答に黒百合は小さく笑みを漏らすと、医務室を後にした。それに付き従う薄桃色の髪の少女が、イツキにもの言いたげな視線を向けたのだ が、気付いたのはケイだけだった。

 黒百合が出ていったハッチを見つめたまま、イツキは自分の胸に手を当てた。その仕草は、まるで自分の胸中にあるものを確かめているかのようでも あった。

 

          ◆

 

 その日が終わって、黒百合は自室の扉をくぐった。今し方、眠そうに瞼を擦りながなも自分の後を付いて回っていたラピスを、イネスの部屋へと送った ところである。

 黒百合が帰ろうとしたところでラピスがぐずりだし、黒百合に縋り付いたりして一悶着あったのだが、なんとか説き含めて部屋へと戻ってきた。

 ふう、吐息をついて、ソファーに腰掛ける。

「ラピスの事も、どうにかしなければな……」

 あの薄桃色の髪の少女は、4年間も離れていた反動か、以前よりも自分に対する依存が激しい。こんな事ではいけない。ラピスには、自立心を養わなけ ればならないのだ。何故なら……

 不意に、びくん!、と黒百合の身体が揺れた。己の意志に反して、全身の筋肉が震え出す。身に付けている黒のアンダー・スーツに、幾つもの青白い線 状の輝きが浮かび上がった。

「……ぐ!」

 苦痛の呻きを、すんでの所で飲み込んだ。

 身体をくの字に折って、無言で苦痛に耐える黒百合。誰もその姿を見ている者はいないとしても、無様にのたうち回るのは彼の矜持が赦さなかった。

 これは報いだ。何の罪もない人たちの命を奪った、自分の罪。

 時折、口から掠れた呼気が漏れる。そしてひときわ激しく身体の輝線が輝きを増し、黒百合は喉元に感じた灼熱を苦悶と共に吐き出した。

 びしゃ!

 赤黒い液体が、無機質な床にぶちまけられる。その赤色の中に場違いに混じる、青白い光の塊。それは幾たびか明滅を繰り返し、やがて赤い色の中に滲 んで消えた。

 しばし咳込んでいた黒百合は、呼吸を整えると、自嘲気味に口を歪めた。

「ふん……俺もそう、長くはないな……」

 

 

 ――様々な想いを乗せて、ナデシコは星の海をゆく。

 その行く末を知る者は、もはや誰も存在しない。

 


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