「それで、確保したヴァイスはどうしている?」

 ヨコスカ・シティの旧市街――保護ドームの建設範囲から外れたため、再開発の手も未だ入らず、密やかな佇まいを忍ばせている。

 旧市街というと荒れたイメージがあるが、決して治安は悪くない。その土地に愛着を持つ人々が暮らす、閑静な住宅街と化している。

 その、旧市街の臨海にある旧ヨコスカ港。その一角に設けられている倉庫の中の一つに、彼らはいた。

 小さな窓から零れる僅かな月の光が、闇の中に佇む者たちの輪郭を微かに浮かび上がらせている。

 問い掛けたのは、赤いトレンチ・コートを着た男だった。歳の頃は20代後半。体躯はそう大きくはない。前髪を整髪料で上げているという事以外、顔立ちにこれと言った特徴はないが――外見から窺える年齢の割には深く刻まれた眉間の皺が、特徴と言えば特徴かも知れない。

「今はKellerで眠って貰っているヨ」

 赤トレンチの男の問い掛けに答えたのは、目の前のソファーにどっかと腰掛けている、金髪の男だった。くっちゃくっちゃとガムを噛みながら、独特のイントネーションで。

 無造作に腰辺りまで伸ばした金髪、青色のゴーグル、襟元にファーをあしらったレザー・ジャケットにジーンズ、チェーンのアクセサリーと、いかにも落ち着きのない格好をしている。その態度にはやる気や覇気といったものが感じられない。

 それを感じ取って不快そうな表情を浮かべたのは、赤トレンチの男の隣にいたハンティング帽の女だった。だが結局、口を挟むのは控えた。いま、目の前にいるこの出来損ないのロッカーのような男は、ただの男ではない。クリムゾン・グループの裏の実行部隊《ラグナロック》を束ねる、裏の世界ではその人ありと言われた男である。本当に、外見からは想像できないが。

 本名不明、正体不明――コード・ネーム『ロキ』。

「妙な事はしていないだろうな」

「してないっテ。Schlafmittelを嗅がせてやっただけだヨ。まア、ちょっと効きが悪くて量を増やしたけれどネ」

 青ゴーグルの男は何が可笑しいのか、含み笑いを洩らしながら、

「それにしてモ、捕らえたMädchenの身の心配をするとハ、《炎の獅子》スルトのお言葉とも思えないネ」

「……何だその炎のなんたらってのは。そんな呼ばれ方をした覚えはないぞ」

「まあそうだろうネ、ボクがカッテに呼んでいるだけだシ」

「勝手に変なふたつ名を付けるなよ」

 赤トレンチの男――スルトが呆れたような声を出す。

「前々から言おうと思っていたが、そのけったいな物言いは何とかならんのか? ジャパニーズとジャーマンが無意味に入り交じってるぞ。その気になれば完璧に発音できるんだろうが」

「残念だけどそれは無理だネ。ボクなりのHemmungだかラ、改める気は無いヨ」

「ああ、そうかい」

 時間を無駄にした、とばかりにかぶりを振るスルト。溜息をひとつついてから、やおら話を元に戻した。

「……薬の効きが悪いというのは、恐らく体質改造の所為だろうな」

「一応ヘルとガルムに見晴らせているヨ。もっとモ、気が付いたとしても脱出する事なんて出来ないけどネ」

「……大丈夫なんだろうな」

「心配カ?」

「俺が心配しているのは、ヴァイスの利用価値が下がる事だ。マシンチャイルドの成功例は今のところネルガルにしかない。出来れば、サンプルは生かしておいた方がいい」

「死なせはしないヨ」

「”生きている”のと”死んでいない”のとは、違う。お前らは解らんようだがな。生きているにしても、碌にオペレートも出来ない状態では意味がない」

「解っているっテ。あア、ヴァイスのWertについての方だけどネ。ボクからしっかりと言い聞かせてあるかラ、ガルムもそんな馬鹿な事はしないヨ」

「なら、いいがな……」

 スルトはふんと鼻を鳴らした。

「ところでスルト。さっきから君の隣にいル、なかなかイカしたInteresseの彼氏は誰だイ? ボクのGedächtnisが確かなラ、初顔合わせだと思ったんだけド?」 

 青ゴーグルの男が水を向けたのは、スルトを挟んでシンマラの逆隣に物言わず佇んでいる、此処にいる面子に負けず劣らず独特の雰囲気を撒き散らかしている男だ。

 特筆すべきはその髪の色。まるで平原に積もった新雪のような真白の芳髪の持ち主で、あまつさえ顔の半分を仮面で覆っていた。

 仮面の意匠は、一言で表せば鬼の髑髏といった処だろうか。質感は硬く、こめかみの辺りには角のような造作さえ覗いていた。ハンマーか何かで叩いたかのように左半分が欠落しており、隠しているのは目元と右頬くらいのもので、仮面としての用を満たしているとは言い難い。

 その半仮面の男は、何も喋らずにじろりと視線だけを青ゴーグルの男へと向けた。

「おお、怖い怖イ」

「そいつはグリームニル。最近入った新入りだ」

「ふうン、グリームニル、ネ。名は体を表すと言ったところかナ」

「まあな」

「キミのお眼鏡に適ったという事ハ、腕の方は確かなんだろうけド。こんな素敵なKörperbauをしているのなラ、噂くらいは届きそうなものだけどネ」

「さてな。実を言うとコイツの素性はこちらも把握していない。記憶を失っているらしくてな。本人に訊いても意味がない」

「へエ、慎重な君にしては珍しいネ」

「たまには、そういう事もある」

 青ゴーグルの男の軽口には取り合わず、スルトは踵を返した。

「もう行くのかイ、親愛なる友ヨ」

「これでも忙しい身なんでな。お前のお守りをする為だけに、わざわざこんな極東の地に足を運んだ訳じゃないんだよ」

「それはつれないお言葉。流石に会長令嬢のBräutigamとなるト、何処へ行っても引く手数多だネ」

「言ってろ。シンマラ、グリームニル、行くぞ」

「了解しました」

 シンマラは律儀に返事をして、グリームニルは無言で、スルトの後に付き従っていく。

「また気が向いたらいつでも歓迎するヨ、マイン・フロイ〜ント」

 どこまで行っても不真面目な青ゴーグルの男の声を背に聞きながら、スルト達はその場を後にした。おそらくは見張り番だろう、カーキ色のパンツ・スーツを着たオール・バックのブロンド女性が、スルト達をエスコートするように倉庫の出入り口を開く。

 従卒よろしく一礼して控えているのブロンドの女の横を通り過ぎると、音もなく扉が閉まった。見た目はただのドアノブ式の扉だが、その実は指紋照合式の、幾重にもセキュリティを張り巡らされた、最新鋭のプロテクト・ドアである。

 この倉庫も、寂れた外見からは想像できないほどの耐久性を誇り、地下には食料も蓄えられ、非常時にはシェルターとしても用を成すように作られていた。もちろん、その事実を知る者は少ない。

 夜の埠頭を歩き、倉庫が夜景に浮かぶ影に見える程度に離れた頃、スルトは足取りを変えずに告げた。

「警戒を怠るな。ロキは考慮していないようだが、ネルガルのシークレット・サービスはそれほど無能じゃない」

「こちらのスタッフも配置しますか?」

「いや、それには及ばんだろ。グリームニル、お前は残って監視を続けろ。何事もなければ良し、もし不測の事態が起こった場合は、お前の推量で動け。だが――」

 そこで一度スルトは語を区切った。

「だが、《ラグナロック》のメンバーがネルガルに確保されるのだけは阻止しろ」

 つまり、生きていなければ良い――言外にスルトはそう言っているのだ。

「ヴァイスは?」

 初めてグリームニルが口を開いた。押し殺したような低い声だ。スルトは肩を竦めて、

「元々、俺はマシンチャイルドなぞに興味は無い。本社の連中には悪いがな」

「そうか」

 それだけで用は済んだとばかりに、グリームニルはすっと身を翻すと、次の瞬間には夜の闇に紛れて消えていた。

 それを振り返って確認するでもなく、スルトはシンマラに呼びかける。

「さて、行くか。まだまだやる事は多い」

「了解しました、隊長」

「隊長はやめろと言っただろ」

「失礼しました、スルト」

 すましてそう言ってくるシンマラに溜息を返して、スルトはトレンチ・コートのポケットから煙草を取り出した。

 くしゃくしゃの紙箱から飛び出たよれよれの煙草を一本口で直接咥えると、今時珍しい木のマッチで火を付ける。何かこだわりでもあるのか、左手に何を持っている訳でもないのだが、一連の動作を右手のみでこなしていた。

 スルトはいかにも旨そうに煙を吸い込むと、その味を十分に堪能したあとにゆっくりと吐き出した。口から漏れ出た紫煙が風にたなびいて、ヨコスカ・ベイの夜の闇へと滲んで消える。

 そんなスルトに、物言いたげな視線を向けるシンマラ。

「……なんだ、何か言いたい事でもあるのか?」

「煙草は健康を害します。それに、地球環境を悪化させる要因にもなり得ます。禁煙すべきだと、以前お話ししたはずですが」

「身体に悪いのは承知の上だ。それでも吸いたいなら、むしろ吸うべきだと思うがな。第一、これ一本にどれだけ税金がかかってると思ってるんだ」

 ちなみにこの時代でも、煙草は全面禁止には至っていない。だが、環境保護の観念から、喫煙場所にはかなりの規制が掛かっており、煙草に課される税率はあらゆる税金の中で最も高い。

「周囲の者の受ける悪影響を鑑みれば当然の処置と思われますが」

「言うな。虚しくなる。今じゃ煙草を吸っているだけで犯罪者みないな扱いを受ける。唯でさえ肩身が狭いんだ、仕事の時くらい大目に見ろよ」

「……一本だけですよ」

 若干の沈黙の後、不満げな心情を乗せた嘆息混じりのシンマラの言葉に、スルトは何も応えずに大きく煙を空に向かって吐き出したのだった。

 



機動戦艦ナデシコ
ANOTHERアナザ・クロニクルCHRONICLE

 

 

第29話

「闇夜に舞い降りる」



 

 彼女は『ヘル』と呼ばれていた。

 もちろん本名ではない。コード・ネームだ。

 歳の頃は27,8の美女である。身体のラインがはっきりと浮き出る黒レザーのボディ・スーツにその肢体を包んでいるが、その胸元のファスナーを思いっきり下げ切っていた。ボディ・スーツの下には下着を一切着けていないらしく、へその下の際どい辺りまで肌が露出して、豊満なバストを強調するように胸元をはだけさせている。様々な意味で危うい着こなしとなっていた。

 頭髪を含め、身につけているものは全て黒一色で統一しているのだが、彼女が着こなすと地味な印象は全くなく、むしろ淫靡な雰囲気だけが強調されているようにも見える。

 瞳は恍惚としたようにとろんと潤み、その頬を上気したように紅潮させている。なめらかな肌を微かな汗で湿らせ、その所為で前髪が額にへばりついていた。その唇からは、熱の篭もった吐息が漏れる。

 それらは特に感極まっているという訳ではない。彼女にとってはこれが常態なのだ。大人の妖艶な色香を漂わせた魔性の美女。それが、ヘルである。

『と言うわけで、本社の方たちも随分と、気に掛けていらっしゃる様ですから十分に、警戒して下さいな』

「わかっているわよ? シギュン」

 特秘通信モニターに映る薄紫色の髪の女性に、ヘルは気怠そうに答えた。

「わたしも下手を打つつもりはないわ? シークレット・サービスの動向にも注意してる。貴女が何をそんなに気にしているのかわからないわね?」

『そうですわね。わたくしも何となく、なんですけれど』

「つまり、勘ってことかしらね? 貴女の勘は当たるから怖いわ」

 モニターの中の女性が微笑みを浮かべる。ヘルは、鼻に掛かったような声で続けた。

「それにしても、最近は本社の方でも随分と動きが慌ただしくなって来ているようね?」

『そのようですね。わたくしたちには関係ない事ですけれど』

「関係ないってことはないんじゃないかしらね?」

『いえいえわたくしたちお仕事は、上が誰になろうと変わりはありませんし、それにわたくしたちのお仕事が、綺麗さっぱり無くなるという事はありませんよ。ですからヘル、安心して戴きたいのですけれど』

「何に安心して良いのか分からないわね?」

 ヘルは呆れたように息を吐いて、手慰みに腰まで届く長い黒髪を梳き上げた。

「まあともかく、わかったわ。周辺にはよっく警戒しておく。それで良いかしらね?」

『ええ宜しく、お願いします』

 モニターの中の女性が微笑んだまま、モニターの電源が落ちた。

 

 

 ここは、ヨコスカ・ベイの一角にある倉庫の中である。ただし、こちらは新市街地の臨海に建設されていた。

 この貸倉庫を借りているのは名義上、トメリ運輸という運送会社になっているが、これはクリムゾン・グループがアジアで活動する際のペーパー・カンパニーだった。現在実際に倉庫を使用しているのは、グループに属する警備会社である。

 クリムゾン・セキュリティ・コーポレーション――通称CSC。クリムゾン・グループの関連企業の全面出資によって興された警備会社である。構成人員は約1200名。備品・人員の質・量共に、最高クラスを誇り、その信頼性は高い。

 だがその実体が、クリムゾン・グループの裏の実行部隊であるという事は、裏社会では公然の秘密と化していた。何しろ備品の中に機動装甲服までもが含まれており、しかもその事を隠そうとはしていないのである。

 しかし、そのCSCの中にあって、さらに秘密性の高い特異な部署が存在していた。

 正式名称は護衛任務部特殊護衛課第二小隊《ラグナロック》。クリムゾンの暗部の、さらに闇の部分を担当する影の実行部隊である。ヘルは、その中の一員だった。

 電灯の点いていない倉庫の中を、淀みのない足取りで彼女は歩いていた。階段を下りて地下へ向かう。

 通常、倉庫に地下室など存在していない。この倉庫は元々、こういった用途を想定して作られていた。もちろん、作ったのは親元の会社である。

 地下室の中で最も奥にある部屋の前で、彼女は足を止めた。

 ノックもせずに扉を開く。その先にはもう一つの扉。そちらには厳重に錠が掛けられている。ヴァイスの特性を考慮して、電子ロックと併用して原始的な錠前を用いている。

 その扉の脇に、冴えない風貌の男が蹲っている。手入れのされていないブラウンの髪と無精髭、こげ茶の背広と相まって貧相なサラリーマン風の容姿だが、小さな丸眼鏡の下のギラついた瞳が裡に秘めた凶暴性を現している。

 この男の本名を彼女は知らない。少し調べれば分かるのだが、彼女には興味がない。ガルムというコード・ネームが彼の全てであり、それ以外の事などどうでも良い。

「傷の具合はどうかしらね?」

 ヘルは鼻に掛かった声で尋ねて、ガルムの右手に目を向ける。そこには白い包帯が巻かれ、止血しきれずに僅かに赤い染みが出来ていた。

「痛ぇに決まってるだろうが」

 犬歯を剥き出しに唸ってくるガルムを、ヘルはつまらなそうな視線で迎えた。

「わたしに八つ当たりされても困るわね? 貴男がわたしの言い付けを守らずに、一般人にかまけていたのが悪いんだから」

「目撃者をそのまま逃がす手はねぇだろうが」

「よく言うわね? 貴男はただヒトを殺したかっただけでしょうに。《ラグナロック》は、貴男が今までいたドイツの秘密警察とは違うの。そろそろ弁えて貰っても良い頃だと思うんだけどね?」

 揶揄するように鼻で笑うヘル。ガルムは顔を顰めて、

「目撃者は殺す。俺は楽しむ。それだけだろうが」

「結局殺し損ねたじゃないの? 邪魔が入って」

「あれはっ! あんたが止めるから……っ」

「煩いわね? 躾の悪い犬にかまけているほどね、わたしは暇じゃないの。これ以上吠え立てるなら、引きちぎるわよ?」

「…………っ!」

 ヘルが眼を細め、虚空を掻きむしるように五指を蠢かせると、ガルムは怯んだように身を竦ませた。

「ここに付きっきりでいる必要はないでしょ? さっさと上に上がって頂戴な」

「……セキュリティ・コーポレーションの連中が哨戒しているんだ。俺達まで気を張る必要はないだろうが」

「まあ、そうなんだけどね?」

 ヘルはあっさりと認めた。物憂げに肩を竦めて、

「でも、シギュンが嫌な予感がしているらしいから。警戒していて損はないわ。彼女の勘はよく当たるから。

 それに、貴男がヴァイスにお手つきしないようにってお達しなの。まあ、ロキならとやかく言わないでしょうけど、そんな事したらシギュンやアングルボザに八つ裂きにされるわよ?」

 からかうような視線を向けるが、ガルムは乗ってこなかった。ヘルは心底つまらなそうに息をつく。

 ――と。

「あら?」

 くん、と鼻を鳴らしたヘルが声を漏らした。驚くでもなく、慌てるでもなく。ただ当たり前の事に気付いたかのように。

 数々の死線や修羅場を乗り越えた者に働く独特の嗅覚が、周囲の異変を嗅ぎ取っていた。

 ふうん、と鼻を鳴らして彼女は呟く。

「やっぱり、シギュンの勘は当たるわね」

 常に潤んでいる瞳に、僅かに喜悦の色を浮かべて。

 

          ◆

 

 クリムゾン・セキュリティ・コーポレーションが警備企業の体裁を取っている事は前述した通りだが、実際に一般の顧客から警備を請け負う場合も多い。政財界や社交界からの依頼が多いのも確かだが。

 社員数が1200名とはいえ、そのすべてが裏の活動に関わっている訳ではない。せいぜいその1/4程度である。

 いま、倉庫の哨戒に当たっている者達は、その1/4に含まれている。厳格な実力主義の組織の中にあって、一流と呼ばれるだけの腕を持つ猛者達。その中には、名だたる戦歴の持ち主もいる。

 彼らは、この倉庫の中で一体何が行われているのか、窺い知る事はない。この倉庫の中に、遺伝子操作を施されたマシンチャイルドが監禁されているなど、想像すらしていないだろう。

 何故なら、『倉庫に不審者を近づけない』という命令を実行する為には、知る必要がないからだ。上の者の判断をいちいち下の者が知る事が、必ずしも有益だとは限らない。

 彼らの組織形態は、軍隊に酷似している。そして、その実体も。

 そのクリムゾン・セキュリティ・コーポレーションのスタッフが、呻き声すら立てずに地に伏せた。眼窩にナイフを突き立てられて絶命している。

 スタッフの倒れた場所は倉庫の裏。互いに補完しあう4人の警備員の、わずかな死角を突いた格好である。

 びくん、びくんと痙攣する死体には目もくれず、侵入者は次の標的に移る。

 立ち並ぶ倉庫と倉庫の間の通路から警備員が姿を現した瞬間、人影が躍りかかった。

 習熟された震脚からえぐり込むように放たれた肘鉄は、寸分違わず警備員の喉元に突き立てられた。

 鍛え抜かれた筋力と全体重を乗せた一撃は、気管を押し潰し、首の骨を粉砕する。あらぬ方向に折れ曲がった首、眼球は内部からの圧力で魚のように飛び出し、破裂した血管から吹き出した血液が、まるで涙のようにだだ漏れている。

 間違いなく即死だった。自分が死んだという事を認識する暇すらなかったに違いない。

 続いて、振り向きざまに投擲されたナイフは、同じように通路から顔を出した警備員の顔面に吸い込まれる。

「――かっ」

 と小さく息をもらして、不幸な警備員は仰向けに頽れた。

 この時点で、外にいる警備員の残りは1名。

 倉庫正面、シャッター付近を警戒している警備員に背後から忍び寄り、羽交い締めにする。声を立てぬよう口を塞ぎ、もう片方の手を警備員の後頭部に添えて――

 ごき。

 次の瞬間には、警備員の顎が星空の方を向いていた。

 頭部が上下180度に逆転した警備員を物陰にうち捨て、影は倉庫の入り口に忍び寄る。

 電子ロック式のドアに端末を差し込み、数秒と経たずに解除。開いたドアの隙間に躊躇いもせずに滑り込んだ。

 窓から差し込む僅かな月明かりのみの闇の中、人影は迷いのない足取りで倉庫の中央付近まで進む。足下すら定かではない暗がりだというのに、まるで危なげのない足取りだった。

 人影が足を止めるのと同時、

 ――かっ!

 煌々としたサーチ・ライトの光が闇を引き裂いた。複数の光条が人影の姿を照らし出す。しかし、人影は身じろぎもせずに、泰然とそこに佇んでいた。

「ようこそ、と言いたいところだけれど……生憎と招待した憶えはないわね?」

 ヘルが鼻に掛かった声で、光の中に浮き彫りにされた人物に呼びかける。

 黒く黒く黒く黒く、闇色に染め上げられたロング・コートに白い芳髪、顔の半分を覆うオーガの仮面。

「どういう事か、説明して貰えるかしら? グリームニル」

 

 

 ヘルとグリームニルは、ロキに先だって面識があった。ヨコスカ・シティの商店街でヴァイスを確保する段取りを整えている際、現地に足を運んでいたスルトに引き合わされたのである。

 その場では単に名前を紹介されただだが、これほど特徴のある人物を見間違うはずがない。グリームニルは、彼女が記憶している姿見と寸分違わぬ格好で、スポット・ライトの光の中に佇んでいた。

「どういう事かしらね? 何故《ムスッペル》の一員である貴男が、私たちを襲撃してくるの?」

 気怠げに息を吐いて、前髪を掻き上げるヘル。無造作に問い掛けている様に見えて、油断なくグリームニルの挙動に眼を光らせている。彼女の横にはガルムが無音拳銃を左手に構え、その二人を中央に据えて、左右翼にそれぞれ6人づつ、CSCのスタッフがそれぞれの獲物を手に展開していた。

「それとも――それは、スルトの意志に従っての事なのかしらね?」

 もしも彼女の言う通りだとすれば、それはつまり本社――クリムゾン・グループが、闇の実働部隊たる《ラグナロック》を切り捨てたという事になる。

 もしそれが事実だとしたら重大どころの話ではないのだが――ヘル自信はそれほど危機感を抱いてはいない。この業界では実にありきたりな話であるし、どのような状況になっても自分たちは生き残るという自負がある。

 だが、彼女の想像が間違っていた事はすぐに知れた。他でもない、目の前にいる男がかぶりを振って否定して見せたからだ。

「別に俺は、スルトに命令されて此処にいる訳では、ない」

 ヘルは初めてこの半仮面の男の声を聞いた。もちろん何の感慨もありはしないが。

「なら、これは貴男の独断という事かしらね?」

「そうなるな」

 身じろぎもせずに答えるグリームニル。14人の敵に囲まれているというのに、何ら危機感を抱いている様には見えない。

 単なる開き直りか、あるいはこの窮地を切り抜ける自信があるとでもいうのか。半仮面に遮られて、グリームニルの表情を窺う事は出来ない。

「――何故?」

「さて――何しろ俺は記憶喪失だからな。何故こんな事をしているのやら」

「ふざけないで貰えるかしらね?」

 前髪を掻き上げ、さもつまらなそうにヘルが切り捨てる。目の前の男を見据える視線に剣呑とした物が混ざるが、グリームニルは気にしたようには見えなかった。

「別に、ふざけているわけではないんだが」

 小さな嘆息を挟んで、半仮面の男は続けた。

「実際、俺に記憶がないのは本当だ。スルトと出会ったとき、俺は何故その場所にいるのかすら定かではなかったからな。

 その時スルトたちは任務遂行中で、いきなり現れた俺をネルガルのシークレット・サービスと勘違いしたらしくてな。スルトの部下に問答無用で襲いかかられて、やむを得ず迎撃した」

「……?」

 いきなり昔語りを始めたグリームニルに、ヘルは訝しげな表情を浮かべた。

「俺に対する誤解はすぐに勘違いだと判明したんだが、その部下がプライドを傷付けられたらしく、無関係な俺を執拗に狙うようになってな。それに対して反撃している内に、その報告がスルトの処にまで届いたそうだ。

 スルト自身が乗り出してきて、直ぐにその騒動は治まった。その部下は処分されたらしい。本来ならそこで終わるところなんだが、俺に興味を持ったスルトが俺に接触してきた」

「ちょっと……?」

「害意がないのは互いにすぐに知れたから、俺も正直に記憶喪失である事を伝えた。別に黙っている理由も無いと思ったからな。

 そうしたら、スルトが俺をスカウトしてきた。正直、正気を疑ったんだが、行く当てがある訳でもない。

 俺も自分に何故こんな戦闘能力があるのか不思議に思っていた処だったからな。記憶が戻るまでという条件で、《ムスッペル》に世話になる事に――」

「ちょっと待ちなさい!」

 ヘルが声を上げると、存外素直にグリームニルは口を閉ざした。

「さっきから、なんのつもりかしらね? 聞きもしない事をぺらぺらと……」

 寡黙なグリームニルの印象からすれば異常とも取れる饒舌さに、ヘルたちは困惑よりも警戒が先に立った。

「いや、単に俺が記憶喪失である事を証明しようとしただけだが」

「お生憎様だけど、そんな説明はいらないわ。おしゃべりな男は嫌われるわよ?」

「そうか」

「時間稼ぎのつもりかしらね? でも残念だけど、お仲間がいても中には入って来れないわよ?」

 この倉庫は、一般にはないセキュリティを採用している。グリームニルが侵入した際はわざと招き入れたが、現状は全ての出入り口にはロックが掛かっている。開口部には強化防弾ガラスが施されており、装甲車でも持ってこない限り突破は不可能だった。

「別に、仲間がいる訳ではないが」

「あらそう? なら、諦めたという事なのかしらね? あまり殊勝な態度には見えないけど」

「いや、それも違う。だが、時間稼ぎというのは正解だ」

「なん――」

 ですって? とヘルが続ける前に。

 爆音と衝撃が、辺りを揺るがした。

 

          ◆

 

「――ッ!?」

 シャッターが吹き飛び、爆煙が内部に流れ込んでくる。

 予期せぬ衝撃に体勢を崩したヘルの眼に、爆煙に紛れて身を翻すグリームニルの姿が映った。

「待――」

 部下に発砲を命じる間もなかった。気圧差によって生じた風に巻かれて、爆煙はすぐに霧散する。グリームニルの姿を見失っていたのは、ほんの数秒程度だっただろう。

 そのたった数秒の間に、グリームニルは姿を消していた。

「…………!?」

 今度こそヘルは驚愕に目を見開く事となる。

 既に爆煙は収まりつつあり、スポットライトの照らし出す中に人の姿はない。出口には全てロックが掛かっており、それがこじ開けられた形跡もなかった。そもそも、ほんの数秒で電子錠を突破できるはずもない。まさか、たった今の爆発で開いたシャッターの穴から飛び出したという訳でもないだろう。

 それこそ煙かなにかのように、グリームニルの痕跡は完全に消え去っていた。

 まったく訳が分からない。

 だが、そんな不可思議な現象の謎を追究している暇は、彼女には与えられてはいなかった。

 ヘルは心の中で舌打ちしつつも気持ちを切り替える。

 まあいい。グリームニルの目的は不明だったが、取り敢えずのところは捨て置くしかない。場合によっては、ロキからスルトへ掛け合って貰う事になるだろう。だが、それはともかく後の事だ。今はこの襲撃への対処が優先される。

 倉庫の耐弾仕様のシャッターを吹き飛ばした破壊力からして、恐らくは対装甲車用のロケット・ランチャーか何かだろう。ひしゃげて破れた強化シャッター、その穴から零れてくる月の光の中に、その男は立っていた。

 漆黒のアンダーにマント、バイザーを掛けた黒ずくめの男。先ほどまで眼前にいた半仮面の男とは、また異なる黒衣の威容。ヘルは報告書でその姿を確認していたし、今日の昼にはモール街で視認もしている。

「シュバルツ……」

 マントを風にたなびかせて立つ黒百合は、闇夜に舞い降りた堕天使のようにも、死神のようにも見えた。

 

 


※注意

 この第29話は、「ぴよこ’s village」で当初連載していた内容に加筆修正を施してあります。話の大筋は変更していませんが、キャラクターの描写・口調等に変更を加えてあります。以前のものをご覧になっていた方はご了承ください。


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