幻想水滸伝 FINAL  〜円と連鎖の地平線〜


  序章 天地の星


 私は起きながらに夢を見る。
 瞼の裏に映るのは石造りの遺構だ。光の入り込む余地のない純粋にして完全なる闇を、
その日犯したのは他でもない、我が命を受けた者たちだった。
「これは墳墓か」
 髭面の男が言う。それに答えたのは白衣の女性だ。
「四角錐の建造物に棺を置くという風習は決して珍しいものではありません。しかしこ
れは……」
 広い空間に無数の石棺があった。彼らはちゃんと数えはしなかっただろうが、百八つあ
ったことを私は知っている。
「ただの棺じゃありませんよ、何か、管が伸びてる」
 若い男が言った。それぞれの棺から管が伸びて、それは中央に置かれた、とりわけ細工
の凝った棺へと繋がっているのだ。
「それぞれの棺の蓋に文字が刻まれています。名前ですね」
 女性が言った。
 若い男は蓋が開かないかと試みるが、びくとも動かない。
 彼らはやがて中央の棺へと歩み寄る。棺の蓋にはやはり名前が刻まれていた。それも無
数の名前が。
「この蓋は他とは違うな」髭面の男は蓋をしげしげ見つめて、「石板かこれは」と呟く。
「解読してくれないか」
 若い男に言われて、女性は蓋代わりの石板に顔を近づける。
「シンダル……という名が先頭にあります。ほかには……」
 それきり女性が絶句した。「どうした」とひげ面が尋ねる。
「ここに……ヒクサクという名が」
「なんだと? どういうことだ」
「ここでの詮索はよそう。我々が受けた使命は、中央の棺を運び出すことだ」
 若い男は少し気味が悪くなっていたのだ。だからさっさと言われたことをやって戻ろう
と思った。髭面と女性も同感だった。彼らは棺を運び出すために管を切り落とすことにし
た。
 若い男の振り下ろしたナイフが、棺から伸びる管に食い込んだ。そのときである。
 石板に刻まれたすべての名前が輝き始めた。呼応するように周囲の石棺も一斉に振動し
始める。揺れているのは棺だけではない、空間全体が揺さぶられ始めた。
 地震か、と彼らは思ったが、すぐにそうではないと思いなおす。何か人知で計れぬこと
が起きている。
 空間は崩れ始めた。四角い石がばらばらと落ちてくる。百八つの棺から人魂を思わせる
光が飛び出し、中空へと吸い込まれていった。あるいはそれは流星のようでもあった。
 入り口が石でふさがれた。彼らは退路を失った。四角錐は容赦なく崩れた。悲鳴は崩落
の音に飲み込まれた。
 そして静けさがようやく訪れたとき、そこには瓦礫の山と一枚の石板があった。石板は
まるで崩落をすり抜けたかのように、瓦礫の頂上にまっすぐ立っていた。そしてそこに刻
まれたすべての名前はいつの間にか消えていた。
 天がにわかに暗くなった。強制的な夜が訪れた。
 星が異様な速度で動いている。刻々とその配置は変化していく。ただ一つだけ、中央に
座して動かぬ星があった。その星が何を待っているか、私は知っている。
 やがて夜を太陽が駆逐すれば、否応なく始まるのだ。歴史とでも呼ぶべきものが。
 私は起きながらに夢を見る。
 星とともに呪いが解き放たれ、そして私はようやく、自由になった。





  第一章 クリスタルバレー




 すべて水晶とは信じられなかった。山脈の如き雄大な石英を削り出してひとつの建造物
とし、さらに表面には繊細な彫刻まで施している。
 これこそが国政の中枢たる円議庁か。圧倒されそうになりながらヘルメス・ダアトは思
う。ハルモニア神聖国の首都を水晶雪渓〈クリスタルバレー〉とは言い得て妙だ。
 初めて首都を訪れた。辺境の地を治める二等市民でしかなかった自分が、十八という年齢
で国民議員へ出世を遂げた。あまりに縁遠い場所だったのだ。
 ヘルメスは右眼があるはずの辺りを指でつついた。眼帯の固い感触は、不思議と自分の
存在を確かなものにしてくれるような気がした。
 初登庁も早々に聖円議会が待ち受けている。ヘルメスは透き通った眺めの庁内を議場へ
と急ぐ。途中、青い衣装を身に付けた神官たちとすれ違い、自分も同じ制服姿なのだ、と
気付かされる。地方では祭事のほかは私服を着てばかりだった。
 椅子も机もやはり水晶で作られた議場にたどり着き、国民議員側の席で待った。やがて
水晶の背景に慣れきった人々が入ってきてすべての席が埋まった。
 ヘルメスは緊張で固まった心身をどうにもできずにいた。
「揃ったようだな。では始める」
 神託長ロンベルト・クウガが重々しい声で告げる。一等、二等市民の代表である民院と、
神官将たちから成る将院。二院の議論を取りまとめ、神官長ヒクサクに上奏する立場にあ
るのが彼だ。
「とりあえず新しく席に加わった議員を紹介する。ヘルメス・ダアト殿。あのダアト領を
治めていた前途有望な若者だ」
 ヘルメスは立ち上がり、「よろしくお願いします」と声を張った。議員たちからはせいぜ
い会釈するくらいの反応しか返ってこない。どこか空回りしていることを自覚しつつ腰を
下ろした。
「まだ議会政治の歴史は浅い。若い才能が加わることは大いに喜ばしい」
 この国ではもともと神官政治という秘密主義の高い政が行われていた。力ある神官が己
の裁量で政治を動かそうとするため派閥争いも絶えなかったのだが、八年前にロンベルト
が二院から成る議会政治への改革を、国主たる神官長ヒクサクに提案。長く国政に口を出
してこなかったヒクサクが承諾したことにより、円議庁の在り方は劇的な変化を遂げた。
「本日は予定していた議題を後回しにして、相次いでいる過激派の凶行について意見を出
し合ってもらう。まずは昨日の被害報告を」
「では私から」
 将院側の席から一人が立ち上がった。多くの兵を預かる神官将であるから、首都で起こ
る事件の調査なども任されているのだ。
「昨日、ここ水晶雪渓にて火の紋章による自爆行為がありました。これにより八名の一般
市民が犠牲となり、二十二名が負傷しました。過激者は無残に消し炭となっておりました
が、残された毛髪などから、三等市民と見て間違いないかと」
「また三等市民か!」
 国民議員の一人が吐き捨てた。それを皮切りに口々に言葉が乱れ飛ぶ。
「黒髪どもめ。やることが常軌を逸しておる」
「三等市民の犯罪がここ数カ月、増加傾向にあります」
「神聖なる首都でこのような狼藉、許されぬ」
 露わにされた感情が激しく飛び交いヘルメスを圧倒する。
「地方ではどうなのだ。そこの、ヘルメス殿と言ったか」
 急に名を呼ばれ直立した。が、言葉がすぐに出てこない。
「僻地の領を任されておったのだろう。どうだったのだ」
 声を絞り出さねば、と思った。
「は、我が領では、二等市民と三等市民の格差は極力開かぬようにと、努めておりました」
「それで」
「このような事件は、少なくとも私が統治していた領では起きたためしがありません」
 三等市民を一方的に責めるのはどうか、という意味を込めたつもりだった。しかし神官
将の一人、エドワード・アキナスが鼻で笑った。
「地方の小さな領、いや村と言ったほうがいいかな。首都とは規模が違い過ぎて参考にな
らん」
 それを言われては返す言葉がなくなる。隣の議員をちらりと窺うが同じ民院だというの
に援護してくれる素振りもない。
「首都で起きた此度の事件をそなたはどのように考えておるのか、ヘルメス殿」
「まことに、遺憾だと。しかし」
「しかし、何なのだ」
「いえ、その……」
 アキナス家といえばハルモニアでは知らぬ者のない武門だ。ヘルメスが委縮し、口ごも
っていると、ロンベルトから助け舟が渡された。
「忌憚なく意見を述べられよ。そなたらは民の代表なのだ」
 しかし舟に掴まれず、言葉は喉に詰まる。苛立ったようにエドワードが言い募る。
「無辜の民が犠牲になったのだぞ。そこをどう考えておられる」
 頭の中が奔流のようになって、思考を整列させられない。自分の意見はあり、何を言う
べきかはわかっているはずだった。しかし多くの市民が犠牲になったことを思うと、途端
に何もわからなくなった。
「もうよい」とエドワードが呆れたように言った。「これを機に、三等市民に何らかの制裁
を加えるときが来たのではないかと。過激思想に染まった者のあぶり出しもせねばなりま
すまい」
 もはやヘルメスを気にかけてもいない。腰を下ろした途端、羞恥から顔が熱くなる。
 領民の熱意に励まされ、その人望が幸いして首都から国民議員として認められた。自分
の考えを国政の場で発言し、この国を変えることができればと思った。しかしまともに論
を組み立てることもままならないとは、不明を恥じるしかない。
「具体的にどのような制裁を課すか」
 ロンベルトが言った。様々な意見が交わされる。違う、とヘルメスは思った。制裁なら
受けているのだ。三等市民という立場こそが一方的な制裁であり、その長きにわたる圧迫
が今回の事件を生んだのだ。
 思ってはいても、すでに会議の流れから取り残されたヘルメスに発言の機会はとうとう
巡ってこなかった。
「反乱軍の動向も看過できなくなってきた。それについてはどう思う」
 ロンベルトが言ったのは、最近になって規模の拡大を見せ始めた反政府組織のことであ
る。
「奴ら、不遜にも革命軍と名乗っておるそうな。しかも多くの三等市民によって構成され
ていることが明らかになりました」
「革命とは名ばかりの、破壊者どもよ」
「エドワード様、奴らの頭領がけったいな仮面をつけていると小耳にはさんだのですが、
よもや仮面の神官将などではありますまいな」
 民院からの問いかけに、エドワードが口の端を持ち上げた。皮肉な笑いだった。
「あれはグラスランドの蛮族どもに討ち取られた狂人だ。亡霊が出たとも思えん」
 さざ波のような笑いが広がった。
 仮面の神官将は八年前、西のグラスランド侵攻のため動き、のちに本国の意志に反して
軍を暴走させた。それは国家転覆を企てるに等しい行為だったそうで、最後はグラスラン
ド軍の手によって討ち取られた。
「討伐のため軍を大々的に動かす必要はあると思うか、エドワード卿」
 ロンベルトが灰色のひげをなでながら尋ねた。
「此度の事件と無関係とも思えません。動向を把握し、潰さねばなりますまい。なんなら
私の軍を動かしてもいい」
 反乱軍に三等市民が多いということは、その意志も明確に見えてくる。身分制度への反
発、現在の国政の転覆といったところか。しかし他にやりようはないのか、とヘルメスは
唇をかんだ。あまりに無謀なのである。
 反乱軍の動きが災いして三等市民への圧力はかえって強まるのではないか。聖円議会の
流れが行きつく場所を思うと、背筋に冷や汗が浮いた。真っ先に浮かんだのは幼馴染の少
女、エルクの顔だった。あの太陽に似た笑顔が悲しみに歪むのだけは見たくない。しかし
流れを変える防波堤になる自信は最後までわかず、口を閉ざして議論を聞いているうちに
閉会となった。消沈して、席を立つ。

 勤務時間が終わり円議庁を後にしたヘルメスは市街をあてもなく歩いた。上品な町だと
思った。自分の場違いさが際立って見える場所だ。やがて馬車に行き合い、目的地を告げ
て乗り込む。それはひょっとすると馴染める場所を求めていたのかもしれない。
 たどり着いたのは三等市民街だった。中心市街から隔絶されたような距離にあり、実際
それは次第に遠くへ追いやられた結果なのだろう。すっかり日は落ちてしまい、まさかこ
れほど遠いとも思っていなかった。
 灯りがなかった。灰を被ったように全体がくすんで、鼻にこびりつくような臭気も漂っ
ている。
「これほど酷いのか」
 思わず呟いていた。建物は修繕することもできずにくたびれ、路地もひび割れている。
月が出ていないと歩くこともままならなかったに違いない。
 不気味な静けさだった。馬車は長居したくなかったのか、すでに去ってしまった。歩い
て帰るとしたら骨だが、帰らねば明日の仕事に差し支える。
 もっと日の高いときに時間を作って来ようと思い、もと来た道を引き返そうとした。そ
のとき、何かが横からぶつかってきて無様に転んでしまった。はっとなり懐を探る。財布
がない。
「掏りだ、誰か!」
 叫んだが虚ろに木霊する。追いかけようにもすでに掏摸の姿は闇に溶け込んで見えない。
 そんなに大金は入っていない。しかし明日のパンが買えなくなるのも事実だ。円議庁で
働きだして早々、給料の前借りなどできるものか。
「頼む、戻ってきてくれ! せめて半分は返してくれ!」
 遠ざかった足音が引き返してくるはずもなく、項垂れた、そのとき。
「馬鹿だなお前は」
 不意に聞き覚えのある声がした。前方に小さな明かりが灯る。まさかと思い、明かりの
ほうへ近寄っていった。ぼんやり闇に浮かび上がったのは懐かしい少女の顔。
「エルクじゃないか」
 黒髪の少女、エルクがにやりと笑った。片手に手提げ灯を持ったまま、誰かを地面に押
さえつけている。
「こいつが、お前の財布を盗ったのか。しかしなヘルメス、掏りに遭っておきながら、半
分こにしようなんて言う奴はお前くらいだな」
 まさか会えるとは思っていなかった。しかもこんな場所で。全身の緊張が解けた。
「君ってやつは、いつもいいときに現れる」
「なに、たまたまさ」
 その言い草にヘルメスは笑みが込み上げた。
「たまたま首都まで薬の行商か」
 本当は首都に移り住んだヘルメスが心配で、行き先を合わせてくれたに違いなかった。
 薬品の行商をするエルクとは幼馴染だった。それというのも、父の縁でヘルメスの実家
に住まわせていた薬師がいて、その弟子がエルクだったのだ。彼女が独り立ちしてからも、
たびたび会う機会はあった。連絡も取り合っていた。
「まるでここを私が訪ねるとわかっていたみたいだな」
「だから、たまたまだ。水晶雪渓の三等市民街とやらに興味があった。それに、お前のこ
とだ。首都に移り住んだからにはここを見ずにはいられない」
 たまたまではない、と言っているようなもので、ヘルメスは妙に嬉しくなった。
「それより、その掏摸」
「ああ」
 エルクは軽々と掏摸を起き上がらせて、後ろ手に拘束した。まだ子供のようだ。
「ヘルメス、ここはお前の住んでいた領とは違う。心が荒めばこういう輩も現れる」
 今日のふがいなさを叱責されたような気がした。
「同じ三等市民でもな、私はこういう奴は気に入らない。いいか掏摸の小僧、人としての
誇りを持て」
「んなもん、犬に食わせちまえ。それに小僧じゃねえし」
「ああ、女だな、悪かった」
 エルクが無造作に胸を触るものだから掏摸の少女は激昂した。
「くそ、ふざけんな、離せ」
「返すものを返してからだな」
「右のポケット」
「ああ、これか」
 エルクは掏摸の服から財布を探り出し、投げてよこした。中身はちゃんとあるようだ。
エルクが拘束を解くと、掏摸は脱兎の勢いで駆け去った。
「はは、元気がいいな」
 エルクは嬉しそうだ。今でなければ言えない気がして、ヘルメスは思い切って重い口を
開いた。
「あのさ、昨日の事件、エルクも知っているかな」
「昨日の……ああ、悲惨だったな。あんなやり方では大義もヘチマもない」
「今日が初仕事だったんだ。でも……」
 何もできなかった。そしてこれからも、何もできないかもしれない。エルクはふっと笑
った。
「なに沈んでんだ。難しいこと考えてるな」
 ヘルメスが黙っていると、エルクはことさら明るい声で言った。
「お前の治めていた領は、良かったな。十五のときに家督を継いで三年間、お前はよくや
ったと思うよ」
「父の残してくれたものが大きかったんだ」
 今、その領は弟のアルスが治めている。ひとつ下のアルスは自分よりしっかりしていて、
領民は平等に扱うという家訓もよく心得ている。
 ちなみに血は繋がっていない。ヘルメスはもともと赤子のとき、ダアト家の軒下に捨て
られていたのを父が引き取って育ててくれたのだ。今では捨てられたことなどどうでもい
いと思えるほどに、ヘルメスは父とアルスを本当の家族と感じていた。
「領民に支持されて国政の場に出たのに、私は不甲斐なさだけを痛感した」
「馬鹿だなお前は。初仕事なんてそんなものだ。地方の領主と首都の政治家ではやること
も違う。そうだろ」
「うん」
「お前ならやれるさ。偉そうにふんぞり返ってる奴らに、目に物見せてやれ」
「うん」
 少し話を聞いてもらえるだけで随分と胸の内が楽になった。
「それよりもさっさと家に帰ることだ。明日も仕事なんだろ」
「ああ、そうだね。また機会があったら会おう」
「待て、歩いて帰るのか」
「馬車は帰ってしまった」
「馬鹿だな、金を掴ませてでも留まらせておけ」
「うっかりしていたよ」
「仕方ない、私が途中まで守ってやる」
 それなら心強い。エルクの剣の腕は信頼に足るものだった。それに話したいことは出尽
くしていなかった。帰路はいろいろなことを話した。首都での生活のこと、驚いたこと、
行き交う人々のこと。しかし仕事の話はもうしなかった。やがて人家の灯りが見えてきて、
手を振って二人は別れた。
 明日も頑張る気力がわいた。エルクのおかげだ。

 気づくと懐かしい風景の中にいた。
 故郷の野を駆ける自分もエルクもまだ子供である。
 不意にエルクが立ち止まる。茂みの奥に妙な兎を見つけたのだ。発達した指で小さな石
斧を器用に持つそれは、知能が高く集団で狩りをすることもあるのだと、弟から聞いた。
「斧を持ってなければかわいいのにね」
「馬鹿、お前、あれは見た目より獰猛なんだ。家畜や獣売りが扱ってる兎とはわけが違う」
 エルクは呆れ顔だった。
 獰猛な兎をそっとやり過ごして、遠くからも目立つ大樹のもとに向かう。エルクは自分
の胴より何倍も大きな幹をするすると登り、枝の間に鳥の巣箱を仕掛けた。この巣箱を手
先が器用なエルクはあっという間に作り上げ、更に屋根の部分には丁寧な細工を施したの
だった。
「鳥が来ればいいよな」
「来るよ、エルクが作ったんだから」
 二人で長いこと木を見上げていた。ふと足もとで落ち葉の鳴る音がした。見ると小さな
白蛇が滑るように動いている。「ぎゃあ」とエルクが素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「大丈夫だよ、これは毒がない奴だ」
 それも弟から聞いた。
 白蛇の頭を指で挟んで持ち上げる。まだ子供の蛇で、つぶらな赤い眼はかわいいものだ
った。
「まさか怖いの、エルク」
 意外な弱点を見つけたことがうれしくて、エルクの顔に近づける。やめろ、とエルクが
叫び、胸を強く押された。後ろに倒れる。後頭部に鈍い衝撃が走って、意識が途切れた。
 気づくとベッドの上だった。しかしまだ、子供のままだ。
「おお、ヘルメス様、目が覚めましたか」
 執事のアルベールが言った。
「ヘルメス様は、大樹のそばで気を失っておられたのです。それを地方軍所属の方が通り
がかって、ここまで運んでくださいました」
 ぼんやりした頭が、次第にはっきりしてくる。地方軍、というところが引っ掛かった。
「エルクは」
 するとアルベールは苦い顔になった。
「エルクさんは、地方軍の詰め所に、連れて行かれたそうです。先ほど戻られたご主人様
が、様子を見に行っておられます」
「エルクは悪くないんだ。僕がからかったからいけなかったんだ」
「牢に入れられたと聞いています。でも心配いりません、ご主人様が……」
 牢だって。ヘルメスはベッドから飛び下りた。頭が鈍く痛んだが、駆けだした。裸足の
まま屋敷を出て詰め所を目指した。どこをどう走ったものか、気づくと詰所の横の、地下
牢への入り口に立っていた。階段を下りていく。冷たく湿った牢の中に、兵士と父がいて、
そして、エルクがいた。
 壁に鎖でつながれている。衣服が破れ、負傷の痕が見える。
「エルク!」
 駆け寄ろうとして、しかし父に遮られる。
「エルク!」
 叫んだ、その声で目を覚ました。
 なんという夢だ。ヘルメスは全身に冷たい汗をかいていた。
 夢は幻でしかなく、現実とは違う。エルクがあのあと取り調べを受けたのは事実だが、
実際は父の取り成しですぐに放免となったのだ。
「ああ、いやな夢だった」
 夢だったのだと口に出せば、すべてなくなって楽になるような気がした。気分を切り替
える。いつもより早く起きたので登庁の刻限に遅れる心配はない。

 その日の議会でも反乱軍への対処と、それに絡めて三等市民の扱いについて話し合われ
た。ヘルメスはやはり、なかなか発言の機を掴めずにいた。
「問題は三等市民だけではありません。反乱軍の気勢をここいらで完膚なきまでに削いで
おかねば、下等市民にまで火が付きかねないのです」
 神官将の一人、ノエル・シャフトが言った。うら若き女性、しかも二等市民の出自であ
りながら、卓越した魔術の才で神官将に上り詰めたと聞いている。
 神官将は大隊長の上に位置し、一軍を率いる立場にある。かつて国政のすべては神官職
が掌握していたが、一軍を率いる軍人には神官将の位が与えられ、国政への参与が許され
た。地位としては大神官と同等だが、現在は軍人に比して神官職の地位が相対的に下がっ
ている。
「反乱軍はそこまで伸長しているのか、ノエル卿」
 ロンベルトの問いにノエルがうなずきを返す。
「ただ、それにかこつけて、いたずらに三等市民、下等市民への圧力を強めるべきではな
いでしょう。それこそ圧迫された米菓子のように、不意に爆発しかねませんから」
「今まで通り、生かさず殺さずということだ」
 これを言ったのはエドワードだった。
 あからさまな階級差別に馴染めないヘルメスは、市民階級制度の成り立ちについて思い
を巡らせた。
 ハルモニアは周辺国を併呑してどんどん大きくなってきた経緯がある。もともとからの
ハルモニア国民が貴族階級から成る一等市民で、攻め滅ぼされた国の民は三等市民に落と
された。他国民でもハルモニア側に味方したり、忠誠を誓った者は二等市民の地位を得る
ことができたのだ。
「まあ、三等市民はともかく、下等市民は歯向かう意思すら持ち合わせておらぬでしょう
よ。あんな獣紛いが、そこまで頭を働かせられるものか」
 国民議員の一人が言った。下等市民とは、いわゆる亜人族のことであった。立って歩く
犬のような姿のコボルト、地中で生活するモール、水上生活するビーバーなどがそれであ
る。
「頭はどうか知らんが、なかなか侮れんものだぞ」
 そう言ったのは禿頭が眩しいルス・クル神官将である。戦ではさほど活躍しないが、部
下をうまく差配し、作戦立案に長けていると噂に聞いた。
「ビーバーは造船や建築の技術を持ち、モールは奇襲や偵察に適している。コボルトはま
あ、死に兵かな。戦において有用な者も育ってきている」
「亜人部隊だったな」
「そうですロンベルト様。奴らの力をうまく使えば、第三次グラスランド征伐も無理では
ないかもしれません」
 その言葉にロンベルトは何も返さず、どこか冷めた目をしていた。
「ルス卿の言うことにも一理あると思いますぞロンベルト様」エドワードが言った。「その
ためにも後顧の憂いは断たねばなりません。近いうちに反乱軍と、まともにぶつかってみ
ましょう。賊に毛が生えたような連中など、こちらが本気を出せば簡単につぶせる。問題
は、いかにして連中を一塊にして誘い出すか、ですな」
「その件については任せてよいか、エドワード卿」
「はい、お任せを」
 今回の話し合いで重要だったのは、このようなところだった。最後まで発言らしい発言
ができないまま、ヘルメスは椅子から立ち上がれずにいた。他の者は既に議場を去ってし
まったあとだ。
「ヘルメス殿」
 不意に、ロンベルトに名を呼ばれた。直立する。
「は、何でしょうか」
「疲れておられるようだな」
「ああ、はい、まあ」
 我ながら煮え切らぬ返事だった。これではいけないと思い、顔を上げた。
「あの、ロンベルト様。書庫の利用届を出したいのですが」
 円議庁の書庫には公文書がしまわれている。
「何を調べたいのだ」
「昨日、反乱軍の首領が仮面の神官将ではないかとの話が出ました。それで、当時の記録
にあたってみたくて」
 ロンベルトは灰色の髭をなでながら皮肉な笑みを浮かべた。
「真に受けるな、あれはたわごとだ」
「それでも、知っておきたいのです。正直なところを言うと、外部との接触があまりない
領地で生まれ育ったので、私はこの国の歴史をよく知らないままなのです」
 ロンベルトはふと真顔に戻った。
「当時のことが知りたいのであれば、わざわざ書庫に行かずとも、私が教えてやる」
 そう言ってヘルメスの向かいの席に座った。
「まず何が知りたい。第一次グラスランド征伐からにするか」
 ロンベルトは語りはじめた。
 五十年以上前、この国の南西方に位置するグラスランドはもともとハルモニアの属国で
あった。しかしあるとき炎の英雄を名乗る男がハルモニアから『真なる火の紋章』を盗み
出す。彼は紋章から得た強大な力を手にグラスランドの民を率い、ハルモニアに抗った。
「ハルモニアは討伐軍を出したが失敗し、敵味方に大きな損害を出して戦乱は終結、五十
年の不可侵条約が結ばれたというわけだ」
「その炎の英雄が八年前、再び現れたのですね」
 ロンベルトは軽くうなずいた。それを機に始まったのが第一次グラスランド征伐だ。
「少し話を逸らすが、真の紋章くらいは知っているな」
「はい、あらゆる紋章の親ですよね」
 その表現が面白かったのか、ロンベルトは薄く笑った。
 真の紋章はこの世の力の根源と言われ、全部で二十七あるとされる。ヘルメスでも知っ
ているのが真の五行の紋章で、それらは地、水、火、風、雷を司るという。
「そなたの表現を借りるなら、我々が魔法などを得るために宿す普通の紋章は、真の紋章
から生まれた子供というわけだ」
 真の紋章は宿主を自らの意思で選ぶとされるが、そのほかの紋章は地中などから封印球
と呼ばれる形で見つかり、それを身に宿すことで魔法などが使えるようになる。ただし、
真の紋章と通常の紋章では、その力の差は歴然としている。
「このハルモニア神聖国で最も尊いお方、神官長ヒクサク様は、真の紋章の一つ『円の紋
章』を宿しておられる」
 神官長という存在はヘルメスの立場からしてみれば雲上人であった。円議庁と隣り合う
円の宮殿で起居しているそうだが、下々に姿を見せることもほとんどないため、口さがな
い者が死亡説を囁くこともある。
「その、真の紋章を巡っての争いだった。第一次グラスランド征伐とは」
 ハルモニア神聖国は真の紋章の収集を国是として掲げている。強大な力を持つ紋章を一
つの国で一括管理することにより世界の平和が保たれるという、遠大な思想である。
「とはいえ本当のところは真の紋章狩りを口実にしたグラスランド侵攻だったわけだ。そ
こへ何の因果か、亡霊が現れおった」
「亡霊、ですか」
「既に亡き者と思われていた炎の英雄の再来だ。五十年前の男とは別のな」
「真なる火の紋章をかつての炎の英雄から受け継いだ、ということですか」
「そうだ。だが継承者がグラスランドの何某だったのか、はっきりしたことがわからん。
なぜならそこから詳細な記録がないからだ」
「それはどうして」
「グラスランドには六部族とゼクセン共和国があり、両者はいがみ合っているはずだった。
しかし奴ら、新しく現れた炎の英雄のもと一つにまとまりおった。そこでハルモニアは戦
略を見直すため、軍のほとんどを呼び戻した。仮面の神官将の部隊を除いて、な」
 その仮面の神官将が、暴走したのだ。
「戦略を練り直す間の、防波堤のはずだった。しかし功を焦りおったのか、仮面の神官将
は独断でグラスランド軍と交戦、更には彼の地に安置されている真の紋章を確保しようと
して、失敗した。何度も言うが、上澄みをなぞるような記録しかない。当時グラスランド
に寝返った、いや、ゆえあって味方したディオスという男を尋問して、これだけのことし
か吐かせられなかった」
「仮面の神官将は、討ち取られたのですよね、グラスランドに」
「そのはずだ。現に真なる風の紋章は……」
 そこでロンベルトは口ごもった。
「何です?」
「いや、とにかく第一次グラスランド征伐はそうして失敗に終わった。次が四年前の第二
次グラスランド征伐だが、これも不首尾に終わった。ゼクセンと部族の奴ら、有事の際は
互いに手を取り合うことを覚えたのだ。もう内乱らしい内乱も起きていないと聞く」
「それにグラスランドに攻め込むとなると、山越えになりますよね。兵站線の確保や、山
道を行軍することによる負担、そして一枚岩となったグラスランド……」
「意外に鋭いな。そうだ、無理がある。二十三年前は同盟を結んでいた南のハイランド王
国が滅亡、第一次、第二次とグラスランド征伐に失敗。第三次征伐をと気炎を吐く者もい
るが、私は正直、ここいらで打ち止めではないかと思っておるよ」
 ヘルメスは少し意外だった。ロンベルトは国是である周辺国の侵略には積極的でないよ
うだった。
「打ち止めなら、それでもいいのではないでしょうか」
 その発言に、ロンベルトの目がわずかに大きくなった。
「ああ、いえ、人にも国家にも、領分というものがあります。この国はそろそろ、今ある
国土をよりよく治めることを考える時機に入ったのではないでしょうか」
 次の瞬間、ロンベルトは目を細め、声を立てて笑った。屈託を忘れたような朗らかな笑
顔だった。
「なかなかいいことを言うではないか、ヘルメス殿。三等市民びいきの子せがれかと思う
ていたが、評価を改めねばなるまい」
「それは、どうも」
「まったく、そなたの言う通りだ。このまま周囲の併呑しか目に入らぬようでは、この国
はやがて足元をすくわれるだろう。攻め込むよりも協調を模索し、国内の治安維持と国防
に努めねばならん」
 自分の意志がようやく通じたと見えてヘルメスは胸のあたりが熱くなった。
「八年前の征伐に失敗した後、私が政治の改革に乗り出したのも、閉塞感を打ち破るため
だった。未だに不満を持つ神官も多いがな」
「地道にやるしかありませんね」
「まあな。それに際して厄介なのが三等市民だな。先日の事件を受けて、ここ水晶雪渓で
は悲憤の声が引きも切らん。さてどうするか」
 すっと胸の熱は引いてしまった。この問題になると見つかりかけた答えが、つかめない
ところに逃げてしまう。三等市民を平等に扱え、と言うだけなら簡単だ。肝心なのはそれ
を成すために、具体的に何をどうするか。
 かつての領地は父が作り上げたものを維持するだけで良かった。しかし国政という大き
な場で、自分はいかに動けばいいのか、まだわからない。
「そう難しい顔をするな。そなたは見所がある」
「そう、ですか」
 苦笑いするしかなかった。



 首都の風景に自分の姿はなじまない。そのことに今さら気づいたアイラは、しくじった
かな、と思った。
 コートを着て肌の露出は極力抑えているが、褐色の顔ばかりは隠せない。隠せばかえっ
て怪しい。すれ違いざまに向けられる視線が気になる。気にしすぎだ、堂々と歩け、と自
分に言って聞かす。
 視界の端で男の背中を捉え、追跡していた。そろそろ一組に尾行を交代する地点だった。
アイラの二組は何もなかったように散ればいい。
 何の前触れもなかった。男が駆け出していた。気付いたか。アイラは地を蹴る。全力で
追いかける。横合いの路地からも一組と思しき者たちが飛び出す。しかし速い。男の背中
は徐々に遠ざかっていく。
 アイラの横を影が駆け抜けた。と思った次の瞬間には、影が男の右腕を掴んでいた。馬
鹿みたいな脚力で追いついたのは同じ組のトウカだった。しかし男は振り向きざま、右の
手袋を脱いだ。甲が光っている。紋章だ。トウカが降参だ、というように両手を上げて後
ずさりする。
「逃げろ!」
 アイラは叫んだ。ここで奴が自爆したら、トウカの命はない。トウカの右手だけが徐々
に下がっている。あの馬鹿、懐の銃を抜くつもりだ。
 アイラはコートのポケットから石ころを取り出す。この距離で当てられるか。男とトウ
カが近すぎて狙いが定まらない。
 万策尽きたのか、と思ったとき、男の身体がすごい勢いで回転しながら倒れた。上がる
血しぶき。何が起きた。
「確保!」
 とりあえず、叫ぶ。「うしゃー!」とトウカが奇態な声をあげて男を取り押さえ、隠し持
っていた縄でぐるぐると縛る。そうするまでもなく男は気絶していた。右腕が肩から千切
れているのだ。
 アイラは地面に転がっている右腕を拾い上げた。太い腕に長い矢が貫通している。手の
甲に宿る火の紋章はもう光っておらず、あざのようになっているだけだ。
「弓矢で腕がもげちゃうかよ。やるねえジャックさん」
 トウカが愉快そうに対抗意識を燃やすのは三組のジャックである。大弩による狙撃には
一切の迷いがなく、さすがだ、と思わざるを得ない。
「あんたはまだまだだね。それより早く止血してやりな」
 いつも緊張感のないトウカにアイラはつい厳しい口調を投げる。
 矢の刺さり方からして、高所から撃たれたのは間違いない。高い屋根ならそこら中にあ
るが、どこにもジャックの姿はなかった。
「野次馬は下がってくださーい、こう見えても僕らはハルモニア軍ですー。ほら、記章も
ありますー」
 間延びした声でヤナギが群集を追い払っている。
 一組も三組も引き上げたようだ。捕縛対象者に接触した二組が後始末をしろということ
だ。
「こいつの紋章、魔法を使ったわけでもないのに光ってた」
 男の千切れた腕をためつすがめつしながらアイラは呟いた。
 紋章は主に右手、左手、額に宿す。宿した部位には紋章があざとなって浮かび上がる。
あざは、紋章を使ったとき光るのだ。
「逆式宿しで間違いないかもですね」
 紋章魔法に詳しいココノエが腕をしげしげ眺めながら言った。先祖にエルフ族の血が流
れていたとかで、耳が少し尖っている娘だった。
「体内の魔力が紋章を媒体として魔法になるわけですが……魔法を使ってないのに紋章が
光ってたということは、紋章を経由した魔力を放出せず、内にため込んでいた可能性が高
いですね」
「身体がこらえきれなくなったら、風船みたいにドカン、てわけか」
 トウカが手ぶりで爆発を表現した。
「難しいことは分からないけど、それが逆式宿しというのか」
「そうですアイラさん。でも、どこで誰がこんなふうに宿したんでしょうね。仕組みはわ
かるけど技術がわかりません」
「つーか、紋章をそんなふうに使うとか、いかれてるよな」
 トウカの意見にアイラも頷かざるを得ない。
「ここで何かあったの」
 声に振り向くと、青い衣装の若者がいた。眼帯をしているが威圧感はない。隣には黒髪
の少女。若者の衣装は神官の制服ではないか。アイラは若者に歩み寄り、背筋を正した。
「我々はハルモニア軍所属の者でございます。神官様は何の御用であらせられますでござ
いましょうか」
 ぶっとトウカが吹き出した。「敬語が、うける」などと言っている。
「うるさい、慣れてないんだ」
 顔が熱くなる。
「いいよ、普通の喋り方で。それに私は神官じゃなくて民院議員だ」
 似たような制服を着ているので議員も神官も同じようにアイラには見える。
「もしかして、過激思想者の取り締まり?」
「そっす。グロいんで見ないほうがいっすよ」
「トウカ、そんな言葉遣いがあるか」
 あとで絞めてやろう、とアイラは思う。若者は顔を複雑に曇らせた。
「死んでしまったの、その人」
「気絶してるだけです、ご心配なく」落ち着いた口調でココノエが答えた。「自爆も未然に
防いだので犠牲者はありません。トウカ君、止血終わってる?」
「焼いてふさいだ」
「じゃあ早くお医者さん呼ばないと」
「あと、これを円議庁に届けろ。証拠品として」
 アイラは男の腕を投げ渡した。
「そんじゃ、行ってきます」
 と言うや否や、トウカの姿は消えた、いや消えたように見えた。それだけ走るのが速い。
生まれつき真神行法の紋章なるものが宿っていたそうで、馬鹿みたいに速く走れる。そし
て実際に馬鹿である。
「すごい速さだ。人間とは思えない」
 若者も瞠目している。
「おい、そろそろ行くぞ」
 黒髪の少女が促した。身のこなしに隙が無い。護衛にしては言葉使いが荒かった。
 去り際に若者は真摯な目で言った。
「えっと、君たちの仕事は、とても意義のあることだと思う。また巻き込まれるかもしれ
なかった人々の命を、救ったんだから。君たちが頑張っているのに、私はまだ何もできず
にいる。このままではいけないと、強く思った。ありがとう」
 そして深々と頭を下げたのだ。若者が去った後でヤナギが言った。
「国民議員にもあんな人がいるんだねー」
「まだ初々しかったですね」
 今の志が果たしてこの先も続くのか。アイラはどこか冷めた目で、去りゆく背中を見つ
めていた。
 ふと、妙な違和感を覚える。あの若者、前にどこかで会ったことがないだろうか。どこ
となく物腰が、誰かに似ていた気がする。しかし思い出せない。気のせいか、と心で呟く。
 びゅん、と風の鳴る音を引き連れてトウカが戻ってきた。
「医者を呼んだ」
「この場所はちゃんと伝えたか」
「当たり前、俺の仕事に抜かりなし」
「何でまだ腕を持ってるんだ。円議庁に届けろと言っただろ」
「あ、うっかりしてた。そんじゃ行くか」
 びゅん、と風の鳴る音を残していなくなる。
「速い速いー、新記録出るかもねー」
「何の記録だ」
 アイラは呆れた。あいつはやはり、馬鹿だ。



「彼ら、傭兵かな」
 ヘルメスは呟いた。過激思想者を確保していた者たちは、褐色の女性や黒髪の若者もい
て、正規兵には見えなかった。
「諜報畑の人間かもな。種族を問わないほうがいろんな場所に入り込める」
 エルクの推察が正しいかもしれない。何やら愉快な人たちだった。
「市街で自爆とか、気に入らないな」
 ため息まじりにエルクが言った。掏りを働いた少女を思い出したのかもしれない。
「やるなら堂々とやれ。革命軍みたいに」
 革命軍はいいのか、とヘルメスは思った。わからなくはなかった。
「政治改革も何の意味があったんだか。民院には三等市民以下は加われないんだろ。形骸
じゃないか」
 気ままに生きているように見えて、世の中の動きもよく見えているのだ。
 実際のところ二院制とは名ばかりなのだろうか。民院と将院の意見が対立する様をヘル
メスはまだ経験していない。
「私がもっとしっかり意見できたらいいと、わかってはいるんだ」
「お前は地道にやろうとしてる。今日だって」
 今日のヘルメスは午前中の議会の後、預けられた下級神官たちに指示を出し、市民権向
上委員会とやらに顔を出したらやることがなくなった。この機会に三等市民街を視察しよ
うと思い立ったのだった。
「その、市民権向上委員会だったか。どういう連中なんだ」
「市街の片隅に本部がある。私がもとダアト領主だと知っているから、盛り立ててくれよ
うとしている。ただ……」
 委員会の活動に助言などして、そろそろ本部を辞去しようと思ったとき、委員の一人が
袋を手渡してきた。ずしりと金銭の重みがした。受け取れない、とヘルメスは断った。
「ただ、どうした」
「いや、いいんだ」
 権力と金の臭い。何かがずれているように感じた。
 そこから話が途切れたまま、停車場で馬車に乗った。行き先が三等市民街であることに
御者が嫌な顔をしなかったのは、ヘルメスが青い制服を着ているからに違いない。隣のエ
ルクのことは果たしてどう見えているのだろうか。
「神官政治の頃は見えないことが多すぎた。今は少しくらいましになったと言えるかもな」
 エルクは政治家のヘルメス以上に言いたいことが山積みのようだった。
「だが、まだ不透明だ。水晶雪渓が聞いてあきれる。水晶は透き通ってるもんだろ」
 これから向こう側が見通せる水晶にしていくしかない。ふとロンベルトの顔が思い起こ
された。
 人家がまばらになって、道だけが続き、それからしばらくして三等市民街に着いた。今
日は馬車に待っていてもらおうと思ったが、それはできない、と御者は断った。ここいら
の治安が悪いからだろう。仕方ない。
 日のあるうちに来てもやはり風景は沈んでいる。道端で力なく座っている者は何を思い
巡らしているのだろう。
「いつ来ても酷いもんだな。これが同化政策の成れの果てか……」
 ハルモニアに侵略された民はその文化や価値観を否定され、ハルモニアに従属すること
を強いられた。従属しても権利はなく、戦で死に兵として扱われた時期もあったという。
 この首都における有様はとりわけ酷い。自ずとヘルメスの眉間に力が入る。生かすこと
もなく、殺すこともなく、そのため餓死者や病死の危険も高い。このままじわじわと、三
等市民街の首を絞め、いずれなくしてしまうことが、この国の本望なのかもしれなかった。
「どいてくれ!」
 と声がして、担架に乗せられた男が運ばれていった。様子をうかがうように軒から顔を
出す住民がいる。その一人にヘルメスは歩み寄った。棒のように痩せた女性はヘルメスを
じろじろと眺める。
「今のは何があったんですか」
「病人だろ。数日前から苦しんでた。ここらにはまともな医者もないからね」
 それだけ言うと家の中に引っ込んでしまった。家とは名ばかりで玄関扉もついていない。
「あの」
 とヘルメスは呼びかけた。面倒そうに女性が戻ってくる。
「何か困っていることはありませんか。足りない物とか……」
「さあ。何が足りないのかもわからないね」
 力なくそう言って、女性は奥に引っ込んだ。湿った風が吹き抜けた。
「ここを、どうすればいいんだ」
 知らず呟いていた。あのときの、ずしりとした袋の重みを思い出す。あの金を本当はど
う使うべきだったか、少なくとも彼らは心得ていないようだった。
「こんな生活を強いられているのに、戦では死に兵として駆り出される」
 エルクの言葉にますます気が重くなった。
「これ以上奥に行っても、仕方がないな。同じ風景が続くだけだ」
 エルクは周辺を警戒している。悪い気配というものを、誰よりも敏感に察知することが
できた。さっきから重い空気に肺が圧迫されるように感じるのは気のせいばかりでもない
のだろう。少なくとも青い衣装で訪れるべき場所ではなかったのだ。
「馬車、待っててもらえばよかったね」
 まさかこれほどすぐ引き返すことになるとは思ってもいなかった。
 だが、これでいい。歩いて帰るべきなのだ。中心市街までの距離を、この足で踏みしめ
るべきだ。ヘルメスは地面を凝視しながら歩いた。エルクは前だけを見据えていた。
 それから四日後だった。三等市民街に火が放たれたのは。

 思えばエドワード・アキナスの軍が反乱軍に敗れたのがそもそもの発端だった。
「敗れたのではない、戦略的撤退である」
 議会の場でエドワードは声を太くして言い張った。
「それを、敗れたというのだ」
 ロンベルトはにべもない。
 聞けば、水晶雪渓から馬で三日ほど離れた森に反乱軍がいるとの報せを受けて、夜更け
を狙って奇襲をかけたが、返り討ちにされたのだという。
「反乱軍がいるとの情報は向こうからの誘い。のこのこ出向いて同士討ちをしたのでは話
にならん」
 反乱軍はそのいくらかがハルモニア軍の鎧に身を固めていた。闇の中では自軍の鎧と見
紛うほどには精巧だった、とエドワードは弁明した。それ故に同士討ちとなり、混乱を極
めたので早々に退却したのだ。
「おかしいではないかエドワード卿。反乱軍は仲間の同士討ちを防ぐため鎧に何か目印く
らい付けていたはず。落ち着いて対処すれば見極められたのではないか」
「それは……」
 冷静さを欠いていたということだろう。
「夜の蝶には気をつけたほうがよろしい。ははは!」
 ルス・クル神官将が破顔する。
「私を愚弄しているのかルス卿。自慢の亜人部隊に鎧が見分けられるとでも」
「コボルトやモールは鼻が利く。臭いでわかりましょうぞ、はは!」
 エドワードの顔が怒りに歪んだが、しかし反撃の言葉は出ない。
「二人ともやめぬか。見苦しい」
 ロンベルトがため息を吐く。険悪な雰囲気のなか、ノエルが淡々と尋ねた。
「エドワード卿、聞いた話では、魔法による追い討ちを受けたとか」
「ああ、地の魔法です。地面が隆起しましてな、馬が足を滑らせた。しかし妙だ」
「何がでしょうか」
「あれだけの規模の魔法が展開したというのに、大勢の術師がいたという気配はなかった」
 数多の紋章が光ったようではなかった、ということだろう。
「あえて言わせてもらいますがな、あれだけの魔法で追撃されて大きな被害を出さずに済
んだのは、わが軍が精強であったからこそ」
 それはもうわかっている、というふうにロンベルトは無言でうなずいた。エドワードの
心はそれでも静まることはなく、三等市民め、と忌々しげに吐き捨てた。
「土の紋章使い……少し気になる要素です」
 ノエルが思案顔になる。
「あのう……」民院の一人が遠慮がちに手をあげた。「軍事に関して不勉強なのでわかりか
ねるのですが、馬で三日とは、この首都から近いのか遠いのか……」
 首都に危険はないのか、と言いたいのだろう。エドワードが答えた。
「近い、と言っても語弊はない。ただし、此度の撤退は、さして食い下がる理由もないと
判断して、早々に兵を引き揚げただけ」
「わざわざ罠の渦中で踏ん張ってまで、叩き潰すほどの価値もないということだよ、反乱
軍とは」
 ルス・クルが言葉の尻を引き継ぐ。
「脅威ではない、と」
「そうですロンベルト様。戦ってみて分かったが、兵の練度も規模も、到底、ハルモニア
軍に敵うものではありません。小細工を弄したのも、向こうが殊勝にも非力を自覚してい
たからに過ぎませぬ」
「獅子は一頭の鹿ならば全力で追うが、いつでも叩き潰せる蟻には見向きもせんものだよ」
 ルス・クルが訓話を引き合いに出してエドワードの言葉を補った。仲がいいのか悪いの
か。ともかく、それなら安心だ、と民院の間からため息が漏れた。
「しかし、どうも、これでは……示しがつかぬな」
 呟くようにロンベルトが言った。
「サドラム将軍」
 名を呼ばれて顔を上げた男がいた。反応しなければ空気に埋もれて見えなかったかもし
れない。
「は、何でしょうか、ロンベルト様」
 小さな虫の羽ばたきよりもかすかな声だった。顔が青黒く、体に芯が通っていないみた
いに肩が揺らいでいる。
「あとで話がある。残ってもらえるか」
「はあ、わかりました」
 サドラムという名は、どこかで聞いた覚えがあった。しかしヘルメスは思い出せない。
議場から退出するとき、国民議員たちの囁き合う声が聞こえた。
「何をやらせるつもりでしょうな」
「さあ。あの方も落ちぶれたものだ」
「まるで飢えた犬が餌を貰っているかのようですな」
 少し嫌な気分になり、ヘルメスは足を速めた。
 その日の晩のことだ。共同住宅の自室で眠っていたヘルメスは、窓が叩かれる音で目を
覚ました。三階である。鳥でもぶつかったのか。開けて外を確かめるが、闇夜に沈んで見
通しが効かない。
「ヘルメス、下りてこい」
 下方の街路からエルクの声がした。小石を投げて窓にぶつけていたのだろう。何事だろ
うと思い、上着をひっかけて階段を下り、通用口から外に出た。
「どうしたの」
 暗くてもそこにいるのは確かにエルクだった。
「あれを見ろ」
 エルクが指差した先に視線を向けると、夜空の底が赤く染まっているではないか。
「あれは……」
「三等市民街が、燃えているんだ」
 一瞬、耳を疑った。
「火災……なのか? 首都警備隊はちゃんと出動してるのか」
「違う、あれは火をかけられたんだ」
「放火ということ?」
「違う!」
 エルクが苛立たしげに片足で地面を踏み鳴らした。
「軍が三等市民街に火をかけたと言ってるんだ!」
 張り上げた声が鼓膜を震わした後、凍り付くような静けさに襲われた。全身の毛が逆立
つ感覚、舌を抜かれたように言葉が出ない。
「感冒が出たらしい、三等市民街で。だから、感染拡大を防ぐため、町ごと焼きはらって
いるんだ」
「感冒だって……?」
 あのとき担架で運ばれていった人物が、そうだったのだろうか。
「住民は、隔離した後なのか」
「落ち着いて聞け、ヘルメス。事前の通告をせずに火は放たれた。住民もろとも焼いてい
るってことだ」
 人らしい暮らしも許されず、今まさに火炎に焼かれている人々を思うと理性が飛んだ。
「そんなことが許されるのか!」
「文句を言う奴はいないさ。少なくとも、私とお前以外は」
 吐き捨てるように言ってエルクは俯いた。隔離の手間を惜しんだのだ。むしろ三等市民
街を潰すのにいい口実ができたと思ったのかもしれない。いつかの掏摸が脳裏をよぎった。 
熱さに泣き叫ぶ人々の悲鳴が聞こえてくるような気がした。
 居ても立ってもいられずヘルメスは歩き出す。
「待て、どこへ行く」
 エルクに腕を強くつかまれた。
「決まっている、三等市民街へ」
 力任せに振り払おうとしたが、ヘルメスの細腕ではびくともしない。
「落ち着けヘルメス」
「黙って見てろっていうのか!」
 頬を強く叩かれた。乾いた音が響いた。空を覆う雲から束の間、月が覗いた。ぼんやり
浮かび上がったエルクの顔は、何かに驚いているような感じだった。
「すまん……だが、行ったところで何もできない。それに……お前にまで何かあったら…
…」
 月が隠れた。町は再び影に沈んだ。頬が熱かった。燃え盛る炎はなおも遠くの空を赤い
舌で舐めている。それをただ、見ていることしかできなかった。

「まことに遺憾なことである」
 翌朝の議会でロンベルトが言った。その声はいかにも重々しい。しかし声の残響が消え
た後では空虚さだけが胸に残る。
「だが人に伝染る病だ。罹患した三等市民を医師団にも診せていたが、お手上げだった。
適切な治療法もなく、苦しみぬいて確実に死ぬ感冒だ。よって此度の措置は致し方ないこ
とであった」
 三等市民街は病とそれを持つ人々もろとも、跡形なく焼き払われた。首都近郊の三等市
民は事実上、一掃されたのだ。最終決定を下したのはロンベルトなのだろう。あるいは神
官長ヒクサクかもしれないが、雲上人が政に携わっているという印象はあまりなかった。
「病は根絶されたのですよね。よもや我々にまで危害が及ぶようなことは……」
 国民議員の一人が言い、ロンベルトは穏やかな口調で答えた。
「現段階ではなんとも言えんが、できるだけのことはした。三等市民と我々の接触は少な
い。被害は最小限に食い止められたと思いたいところだ」
「安心はできませんな」
「薄汚い三等市民のせいで……」
 死んでまで、そんなことを言われなければならないのか。ヘルメスはとうとう我慢の糸
が切れ、弾かれたように立ち上がった。言葉が奔流となって迸った。
「ロンベルト様にお尋ねします。もし一等市民と二等市民の間で発病者が出たら、どうな
さるおつもりか。三等市民街と同じく、この水晶雪渓を火炎で満たすのでしょうか。ある
いは感染が拡大しないように病人を刃にかけるのか」
「ヘルメス殿」
 いさめるようにノエルが名を呼んだ。発言を取り消すつもりは無く、ヘルメスはロンベ
ルトを強くにらみつけた。ロンベルトはため息を吐き、そして言った。
「本来なら隔離、および症状の緩和といった措置を取るべき事案だ。しかし三等市民はこ
の国で暮らすにあたって税を納めておらん。国としても正当な措置を取ってやる義務はな
かった。これ以上の説明が必要か」
「三等市民は人として認めぬと、そう仰っているのですね」
「国民としての義務を全うせぬ者たちを、国民の血税で助けろと言うのか。山賊が狼藉を
働かなくても済むように、衣食を与えてやれと言うのと同じではないのか、それは」
「暴論です」
「どこがどう暴論だ。そうか、そなたは衣食住を奴らに与えてやれと、そう言いたいのか。
ではそのために具体的に何をする。さあ、申してみよ」
 ヘルメスは言葉に詰まる。ロンベルトは机を指で叩いた。
「私は何もそなたを叱責しているわけではない。遺憾ながら私の頭には、三等市民に権利
を与える道筋が浮かばぬ。ゆえに問うているのだ、さあ、申してみよ」
 圧力に負けじと思考を巡らせた。三等市民を隔離し、そのうえで感冒の源たる三等市民
街を焼く。そして彼らに首都で新たな住まいと仕事を与える。しかし、いったいどこに。
三等市民が正当な家賃を払って、十分な食事をして、安定した暮らしをするための器が、
この首都にはない。国が支援すればいいのではないのか。しかしその金はどこから出る、
いつまで支援する。
「早く申せ」
 現状を見ろ。三等市民を首都で受け入れると決めて、果たして一等、二等市民が肯んず
るか。必ず反発が出る。鍵穴にまったく違う鍵を無理やり差し込んで回すようなもので、
そんなことでは決して人心は開かない。歪みが生じる。首都で暮らせればそれでいいとい
う話ではない。三等市民の生活が向上しなければ意味がない。
「そうして悩んでいる間にな、感冒は広がって手に負えなくなるのだ」
 ロンベルトはそれで話を打ち切った。ヘルメスは脱力しながら腰を下ろすしかなかった。
 それから感冒予防への対策や、今回の件を受けて今後の三等市民への対応をどうするか、
ということが話し合われた。ヘルメスは議論に加われなかった。何を言っても誰にも届か
ない気がした。
 夕刻、市民権向上委員会に顔を出した。責任者のアイザックという男は一通り悲嘆の気
持ちを述べた後、テーブルの上に大きな袋を置いた。例によって、金が入っていた。
「十万ポッチ(ポッチは通貨単位)あります。お納めください。三等市民街の復興に何卒、
お役立てを」
「いただけません。それに、復興は無理があります。住む人間がもういないのですから」
「ああ、そうでしたな。しかし二度とこのようなことが起こらぬよう、三等市民が健康に
暮らせる社会のために、御尽力をいただけたらと。これはそのための資金と思っていただ
ければ」
「いただけません。集めた寄付金はあなたたちの手で運用するべきだ。私はあくまで国政
の場からあなたたちを支援します」
 アイザックはどこか卑屈な笑いを浮かべた。
「金がなければ何もできませんよ。寄付金で買ったパンが時折、三等市民の口に入る。余
った金は、こうしてかき集めましてね、お役人の方々に役立ててもらうのです。我々の活
動に、まあ、協力していただくために。そうやって金は回っているのですよ、ぐるぐると」
 ヘルメスはいい加減、疲れていた。アイザックの言葉に潜む欺瞞に気付き、つい声を荒
らげた。
「パンはいくら買っても足りないはずだ。金が余るなどということがあるものか。役人に
渡した金は具体的にどう役立つんだ。そして、ぐるぐる回る金の中から、一体いくらがお
前たちの懐に入るんだ」
「お、落ち着いてくださいよヘルメス殿」
「とにかく金は受け取れない。失礼する」
 ヘルメスは勢いよく立ち上がり、その場を後にした。街路を早足で歩く。この目で三等
市民街の惨状を見て来ようと思った。見て何ができるわけでもない。それでも行くのだ。
「よう、青いの」
 聞き覚えのある声がして立ち止まる。いつかの掏摸がいた。世の中を恨んだような目で
こちらを見ている。その姿は首都の華やかさにはいかにも場違いだった。
「青いのとは、私のことか」
「そうだよ、服も青いし、ケツも青い。青二才だ」
「君が無事で幸いだった。しかし私は疲れているんだ」
「みんな死んじまったよ」
「ああ、その、此度のことは、不幸だった」
「不幸?」掏摸の目が鋭くなった。「不幸だって?」
 我ながら空虚なことを言ったものだ。不幸とは。しかし他にどう言えばいい。
「感冒は、誰にも予想はできなかった。確かに不衛生ではあったのだろうが……」
「違うぜ、病気じゃない」
「何を言っている」
「俺はあそこに住んでいたから知ってんだ。伝染る病を持ってる奴なんていなかった。一
人もだ。しかし火は放たれた。なぜだと思う」
 ヘルメスの背中が汗でじっとり冷たくなった。この者は何か、途方もなく重要なことを
言おうとしている。
「火が放たれたのは、感冒が原因ではなかったと……」
「だから、そう言ってんだろ。この前、エドワードなんちゃらの部隊が革命軍に負けたよ
な。その腹いせだ。俺はそう思うね」
「まさか……」
「他に理由があるか。いもしない病人をでっちあげて、町を焼き払う理由が、他にあるっ
てのか」
 本当に、感冒でなかったとするなら、あの議論は何だったのだ。ロンベルトの言葉は、
すべて偽りだったというのか。
「火をかけたのはサドラムとかいう奴の部隊だぜ。兵士がそう呼んでるのを、俺はこの耳
で聞いたんだ。あいつら、燃え上がる街から逃げ出そうとする人たちを片端から斬り殺し
てた。俺はなんとか見つからずに逃げ延びたってわけさ」
 罪人であるはずの掏摸の言葉には、しかし説得力があった。嘘を吐く理由もなかった。
三等市民街は焼き討ちされ、そして人々は一方的に虐殺された。それが真実なのか。
「サドラム神官将だったんだな、本当に」
「俺を疑うのかい」
 それはヘルメスを試すようでもあった。何も答えず、ただ踵を返した。円議庁へ向かう
のだ。「へっ、これだからお役人は」という掏摸の言葉を背中で聞いた。

 円議庁の、サドラムの執務室を訪ねた。部屋の前には警備の者が立っていた。
「私は国民議員のヘルメス・ダアトです。サドラム将軍と少し話したいのですが」
 警備の者は目をすがめる。圧倒されそうな大男である。
「私は円議庁近衛隊総隊長ヴァスケス。ロンベルト様の命により、誰も通すわけにはいき
ませぬ」
「総隊長殿が直々に、なぜサドラム将軍を」
「知らぬ。そして知る必要がありませぬ。この円議庁の秩序を保つことが我らの任務。ロ
ンベルト様の命令は絶対なのです」
「許可がいるということですか」
 ヴァスケスはぺこりと頭を下げた。
「申し訳ないが、そういうことです。ところで、ダアト殿と言いましたな。もしやダアト
領主にゆかりの者でありますか」
「私がそのダアト領主だった、ついこの間まで。それが何か」
「そうでありますか。実は私、任務でダアト領に赴いたことがあります。そのときジグラ
ット・ダアト殿に恩を受けました。御子息でありますか」
「いかにも、ジグラットは私の父です」
「そうでありますか……。かつての恩に報いるため、融通を効かせたいのはやまやまなの
ですが、どうやらサドラム将軍は、お体の具合が悪いようで……」
「体調が?」
 そのとき、くぐもった絶叫が空気を鈍く震わせた。執務室の中からのようだ。ヴァスケ
スがはっとなって扉を開け放ち、中に飛び込んだ。
「いかがなさいましたか、サドラム様!」
 ヘルメスは執務室を覗き込んだ。サドラムが床にはいつくばって、頭を抱えている。
「私はやりたくなかった! やりたくなかったのだ!」
 半狂乱になって、何度も床に頭を打ち付ける。
「私が悪かった、私が悪かった!」
「サドラム様、お気を確かに!」
 ヴァスケスはサドラムを抱きかかえるようにして動きを封じる。騒ぎを聞きつけて廊下
を巡回していた近衛隊員が三人、駆け付けてきた。暴れるサドラムを力づくで押さえつけ、
運び出そうとする。
「医務室へ、早く」
 しかしサドラムの膂力は思いのほか強いのか、近衛隊員が苦戦している。
「何の騒ぎだ、これは」
 厳しい声に振り向くと、ロンベルトがいた。
「おお、ロンベルト様。サドラム将軍がいきなり、正気を失われて……」
「下がっておれヴァスケス。他の者も下がれ」
 近衛隊員たちが手を放すと、サドラムは血走った眼を見開き、獣のように歯をむき出し
た。そしてロンベルトを見据えると、歯の隙間から耳をふさぎたくなるような唸り声を漏
らした。
「ふん、これではもう、神官将は務まらぬな」
 吐き捨てるように言うと、ロンベルトは右手を掲げた。手の甲で風の紋章が光る。する
と空気の流れが変わり、サドラムが苦しそうに喘ぎ始めた。がくりと膝をつき、両手で喉
を押さえ、何かを求めるように口をぱくぱくさせる。やがて白目をむいて倒れ伏し、ぴく
りとも動かなくなった。
「医務室へ運べ」
 ロンベルトに言われてヴァスケスが我に返ったようになる。サドラムは運ばれていった。
 あたりに静けさが戻る。
「さて、ヘルメス殿。こんなところで何をしている。まさかサドラム将軍に用でも」
 ロンベルトは横目でヘルメスを見ている。
「三等市民街を焼き払ったのは、サドラム将軍だと聞きました」
「あの男も肝が小さい。不遜さをデュナンにでも置き忘れてきたか」
「本当に感冒はあったのですか」
 その言葉にロンベルトはかすかに反応した。眼光が鋭くなったのだ。
「意味がわからぬな」
「あれは焼き討ちだったのでは、ありませんか」
「ヘルメス殿。どうやらそなたもお疲れのようだ」
「はぐらかさないでください。本当に感冒があったのなら、町が焼かれたのはやむを得な
いこと。サドラム将軍があそこまで取り乱すでしょうか」
 ロンベルトの口の端が、わずかに持ち上がった。
「ヘルメス殿、その話、誰から聞いた。それとも思い付きか」
 ヘルメスは何も言わず、ただロンベルトを見据えた。
「まあ良い。ヘルメス殿、この間そなたと話したな。この国は今ある地面を固める時期に
来ていると。地面を固めるにはな、まず水を掃かねばならん。長い歴史の中で溜まりに溜
まった汚水を除かねばならん。汚水を溜めたのは私ではないから、まったく迷惑な話だ。
しかも問題なのは、その汚水が掃き出されるのを嫌う輩がいることだ。こちらが地面を固
めようとしているところへ、まさしく水を差す。奴らは平和を嫌い、乱を起こしながら、
あまつさえ己が正義だとうそぶく。これをどう思う」
 暗に焼き討ちを認めている、と見ていいのか。ロンベルトに一つも悪びれた様子のない
ことが不気味だった。
「私は成すべきことをしているのだ。道筋が描けず、歩き出すこともできない者に、私を
咎める権利などないのだよ」
 ロンベルトはそう言い残すと、背を向けて立ち去った。ヘルメスはしばらく動けなかっ
た。

 その日の夜、共同住宅をエルクが訪ねてきた。ヘルメスは部屋に通し、そして今日あっ
たことをすべて話した。
「それが本当だとすると、とんでもないことだぞ」
 エルクは眉を顰めてそう言った。
「ああ、許されることじゃない。ただ、確かな証拠がないから」
「ここに来て焼き討ちという暴挙に出たのは、やはり敗戦の報復なのか」
 正確には、報復にはなっていない。感冒でやむなくということにされているのだから。
「もしもだよ。革命軍が今以上に大きくなったとき、内部に三等市民を抱えていたら、厄
介なことになるだろ」
「そうだな、革命軍と刃を交えているときに、首都内部で三等市民が呼応しないとも限ら
ない」
「その憂いを取り去っておきたかったのかもしれない。そして」
 ヘルメスは少し考えてから、続けた。
「町を焼くには正当な理由が必要だった。理由もなく焼き討ちをすれば、かえって革命軍
の闘志に火がついてしまうからね」
「なるほど。感冒がなかったという確かな証拠があれば……」
 おそらくそんなものは見つからない。神官医師団を取りまとめるリューグ師の診断書も
確かなものだった。
 リューグ師は紋章魔法では治せないあらゆる病を真摯に研究している人物と聞く。彼の
おかげで国内では長く生きられる者が増えた。そんな人物が己の信念を曲げて偽りの診断
を下すだろうか。
「その医者も、グルなんじゃないのか」
「それは考えられないよ、エルク。医師団を巻き込んで嘘をつけば、それは何かのはずみ
で簡単にばれてしまいかねない」
「すると、真実を知っていそうなのは、ロンベルトとサドラムだけなのか」
 エルクは水差しから椀に注いだ水をうまそうに飲んだ。そして言った。
「サドラムっていうと、あれだろ。何年か前に、中央の指示を仰がずにデュナンで乱を起
こした」
「そうなのか」
 ハルモニア神聖国の南に位置するデュナン共和国は、かつてハルモニアと同盟を結んで
いたハイランド王国を、ジョウストン都市同盟が打ち倒してできた国だ。
「サドラムって奴はもともとハルモニア辺境軍を統率していた男で、デュナン共和国の混
乱に乗じて、中央の判断を仰がず独断で軍を動かしたんだ。ハイイースト県、つまりもと
ハイランドの領土回復を狙ってのことだったが、戦功を立てた見返りにその領土を貰うつ
もりだったのかもしれん」
 しかし、うまくいかなかった。
「煮え切らない戦いがだらだら続いていたらしい。そこへ中央からサドラムを諫める声が
届いてな、奴は兵を引いた。それからは事実上の閑職に回されたと聞く」
 いろいろなことが腑に落ちる気がした。サドラムの人生に実際どのような波があったの
かは、想像するしかないが。
「それにしても、エルクは私よりもいろいろなことを知ってるな」
「そりゃあ、私は薬の行商であっちに行ったりこっちに行ったり……」
「エルクはさ、普通の女の子みたいに暮らしたいって、思ったことはないの」
 そう尋ねてみると、エルクはきょとんとした顔になった。そして呆れたように笑う。
「馬鹿だなお前、私がいるのは今、この場所だよ。他のどこでもない」
 それを聞いてヘルメスは妙に安堵した。
「そうか、そうだね」
 エルクと一緒に過ごしていると、自分もただの議員ではない、特別な場所にいられる気
がした。
「なんか、すっきりしないな。どうも雲行きが怪しくなりそうな気がしてきた」
 エルクの勘は昔からよく当たる。雨が降りそうだとか、父の雷が落ちそうだとか。
「私はてっきり、三等市民街で病の種が蔓延していて、だから焼かれたのだとばかり思っ
ていた。しかしそうじゃないとなると……」
 エルクは少し怖い顔で考え込む。やがて顔をあげ、言った。
「もしかすると……お前、気をつけたほうがいいぞ、ヘルメス。下手を打てばサドラムの
二の舞だ」





  第二章 円神祭




 今年の円神祭は始まる前から人々の話題をさらっている。水晶雪渓における最大の祭り
であり、しかも今年は神官長ヒクサクが姿を見せるとの正式発表を円議庁が出したのだ。
 反乱軍が国に影を落としている今だからこそ、何か特別な催しを設けたい、という意見
が民院から出たためだった。
「まったく、能天気な者どもよ」
 円の宮殿へ足を速めながらロンベルトは呟いていた。宮殿の敷地内に円議庁が併設され
ているという形なので行き来は容易である。ヒクサクの起居する場所であるほか、神官将
の就任式などの儀式に際しても宮殿は使われる。
 円神祭で下々に姿を見せることを、ヒクサクは了承した。反乱軍の増長、三等市民街焼
失と、ここのところ不穏を呼び込みそうな事柄が続いている。そこに来て円神祭である。
しかもヒクサクが姿を見せるとなれば、祭りの警備に例年以上の力を割かねばならない。
「こちらの苦労も考えろよ、老いぼれめ」
 口の中で呟いたため、自分にしか聞こえない。
 更に悪いことには、円議庁に脅迫状が届いた。革命軍を名乗り、円神祭にてヒクサクの
首を取る、という不遜なものだった。
 さすがに見合わせたほうがいいと思ったのだが、これしきのことで尻尾を巻くのか、と
ヒクサクが挑発するようなことを言ってきたため、ロンベルトも意地になって、画期的な
警備計画で身の安全を保障すると豪語してしまった。そのための知恵を借りようと、ある
男と連絡を取っておいたのだ。
 男は宮殿の前で待っていた。一目見た瞬間、ロンベルトの心に嫌悪感が湧き上がる。
「そなたが、ジェイソン殿か」
 その男の顔は醜悪だった。顔の左半分が醜く焼けただれていて、露出した赤黒い肉は今
にも溶けだしそうだ。
「私は神託長ロンベルト。聖円議会を取りまとめヒクサク様に上奏する役目を担っている」
 なんとか、嫌悪を表に出さずに挨拶できただろうか。ロンベルトには自信がない。
「お察しの通り私はジェイソンです。お見苦しい姿をお見せして申し訳ない。普段は包帯
を巻いているのですが、少し見てみたかったもので」
「見るとは何を」
「あなたの反応を」
 ジェイソンはにこりともしない。頬が引きつって笑うこともできないのかもしれぬ。
「それしきのことで心を乱す私ではないよ」
 ロンベルトは無理をして笑った。内心では、何様のつもりだ、と吐き捨てる。
「それを聞いて安心しました。姿に囚われる者は実際を見誤る。試すようなことをして申
し訳ない」
 ジェイソンは懐から取り出した包帯を顔にぐるぐると巻き付け始めた。
「ルブラン領における反乱の鎮圧に力を貸したそうだな」
「ええ、肩慣らしにもなりませんでしたが」
 このジェイソンという男はルブランの三等市民が暴動を起こした際、領主に策を授け、
あっという間に鎮圧させたという。三等市民をほとんど傷つけることなくだ。その噂がロ
ンベルトの耳に入り、一度会って話してみようと思った。
「軍学を学ばれていたとか。誰かに師事は」
「師はおりません。独学であれど軍師としての才は他を凌駕すると自負しております」
 どこか癇に障る男だ、とロンベルトは思った。
 こんな男を宮殿に入れるというのもおそらく例のないことであろう。警備計画の説明を
するためヒクサクの居室にも通すのだ。伝言でいいのではないかと思ったが、ヒクサクが
是非に会いたいと言ったのだから仕方ない。
 宮殿に入った。すべて水晶で造られた景観にジェイソンは驚くのではないか、と思って
いたが、淡々と歩を進めている様がどうも憎たらしい。
 幾重もの手続きを経て廊下をひたすら進み、ようやくヒクサクの居室にたどり着いた。
 普段ここに入ることができるのは、侍従とロンベルトくらいのものである。
 しかも居室とはいえ、部屋の真ん中は高い水晶の壁で仕切られており、ヒクサクはその
向こうにいるため姿は見られないのだ。
「ヒクサク様、ロンベルトにございます。円神祭における警備計画の説明に参りました」
 しばらくして、うむ、という声が返ってくる。威厳があるが、しかし若々しい声だ。
「過激思想者や反乱軍が騒ぎを起こさないとも限りません。例年以上の警戒が必要となり
ます。そのため外部から軍師を招きました」
 ジェイソンは黙り込んでいる。挨拶くらいしろ、とロンベルトは苛々する。そこへ朗々
とヒクサクの声が上がった。
「おお、おぬしがそうか。名前は……ジェイソンで良かったか」
 なぜわかる、といつものことながらロンベルトは気味が悪い。ヒクサクは俗世から水晶
の壁で隔てられていながら、あらゆることを知悉している。それとも過去に面識でもあっ
たのか。
「ジェイソンと申します。ヒクサク様の膝下に招いていただき、光栄の至り」
 相手に見えるはずもないのにジェイソンは恭しく頭を下げた。
「さっそく説明させていただきます」ロンベルトは言った。「警備の基本的な部分は近衛隊
に一任しております。重要となってくるのは、ヒクサク様が輿で街路を行くときとなりま
す」
 輿に乗ったヒクサクが街路を練り歩く、最高潮の場面である。御尊顔を一目見ようと、
街路は人で溢れ返るはずだ。過激派がそこを狙って自爆でもしたら目も当てられないこと
になる。
「私に上がってきた報告によれば、紋章の逆式宿しとやらによる自爆とのこと」
 ロンベルトは十三部隊と呼ばれる諜報機関を配下に置いていた。過激派について密かに
探らせているが、あまり多くのことは分かっていない。
「ロンベルト殿、私はその逆式宿しとやらを知りません。具体的にどう対処すればいいと
お考えか、まず貴方の意見を聞かせていただきたい」
「手の甲に宿した紋章が、魔法を使ってもいないのに光り続けるらしい。これはすなわち、
魔術に変換されかけた魔力を放出せず、内にため込んでいるということ」
「それを可能にするのが、逆式宿しなのですね」
「そうだ、体内に押さえつけられた魔力は外に出ようとする。それに体が耐え切れなくな
ったら、暴発するというわけだ」
「して対策は」
 とヒクサク。
「群衆の右手に注目するしかありません。右手が光っている者を見つけたら、速やかにそ
の場から引き離します」
 そのときジェイソンがため息を吐いた。そしておもむろにコートのポケットから銀色の
球を取り出す。
「ロンベルト殿、しばしこの球にご注目を」
 そう言って球を宙に放り投げたかと思うと、腕を交差させるようにして掴み取った。
「さて、今の球、どちらの手に入っていると思われますか」
「そんなもの、五分だろう、何の真似だジェイソン殿」
「どちらと、思われますか」
 仕方なく、右手を指さした。しかし開かれた手に球はない。続けて左手も開かれるがし
かし、そこにも球はなかった。
「本当は、ここに」
 球はいつの間にか、ジェイソンのポケットに戻っていた。
「さて」とジェイソンは語りだす。「私なら群衆の右手を注視するなどという不確実なやり
方でヒクサク様のお命を危険にさらしたりはしません。いっそのこと、輿には別の者を乗
せます」
「替え玉ということか」
「ヒクサク様が姿を見せるという触れ込みではありますが、まあ致し方ありません。今年
は状況が状況ですから」
 民を落胆させるわけにもいかないから、替え玉を使う。どうせヒクサクの顔を知る者な
ど市井にいるはずもないのだ。
「出たかったな、残念だ」
 ヒクサクがぼそりと言った。
「また、いつでも機会はございます。国内が落ち着きを取り戻せば」
 内心、安堵していた。ジェイソンも難色を示したことで、ヒクサクはようやく祭りの参
加に諦めがついたようだ。
「ただしこの場合、反乱軍が輿を狙うことに変わりはありません」
 ジェイソンが重々しい口調で続ける。
「群衆の真ん中で紋章が暴発すれば、どれだけの混乱が起きるか、あまり考えたくはあり
ませんね。そこで、もう一つの囮を使います。馬車にヒクサク様の影武者を乗せて、ルブ
ラン領を目指していただくのです。ヒクサク様を反乱軍の凶行から遠ざけるため、安全な
場所へ護送していると見せかけるのです」
「反乱軍はそちらを本命と見る、ということか」
「かなり高い確率でそうなります。いずれにしても輿と馬車、どちらを狙っても反乱軍は
外れを引くのです、先ほどのあなたのように」
 一言多いのだ、とロンベルトは苦り切る。
「良い策だ。そう思わぬかロンベルト。うまく行けば、外れを引いた反乱軍を一網打尽に
できるかもしれぬのだ」
「そうでございますねヒクサク様」
「私の影武者は誰にする。適任がおらぬならあれを使ってもいいが……」
 ロンベルトはにやりと笑い、そして言った。
「それには考えがあります」



 二頭立ての馬車のあまりの絢爛さにヘルメスは気後れした。
 今日は円神祭の初日である。円神祭は永久の繁栄を国の象徴たる円の紋章に願う伝統的
な祭りで、三日にわたって行われる。建国記念も兼ねており、大々的には首都たる水晶雪
渓で行われるほか、国中が祝賀の雰囲気に包まれるのだ。
「しかし水を差す者が現れた。貴殿も知っておろう。反乱軍からの脅迫状を」
 ロンベルトに言われたことを思い出す。
「万が一に備えて、ヒクサク様を密かにルブラン領へ護送する。円神祭の間、ヒクサク様
にはルブラン領の別荘地で過ごしていただくのだ。貴殿にはその道のりの露払いをしても
らいたい」
 露払いとはどういうことか。
「街道沿いに賊や魔物が出ないとも限らん。街道の安全を確保するため、貴殿には兵を連
れてルブラン領に向かってもらう。道々の脅威を取り除きながらな。明くる朝、ヒクサク
様を乗せた馬車も出発する」
 なぜ自分なのか。
「他に手の空いている者がいないというだけだ。しかしこれは重要なお役目だぞ。貴殿は
国が保有する別邸にてヒクサク様を万全の態勢でお出迎えするのだ」
 露払いのための兵士たちを監督する役目が必要で、ヘルメスはそのために選ばれたとい
うことだった。しかしこの馬車はどうだ。繊細な細工が施され、貴人が乗るものであるこ
とが一目でわかる。ヒクサクを護るということは、これほど名誉あることなのだ。
 ルブラン領の別邸まで馬車で二日といったところか。ヒクサクが明日ここを発つという
ことは、円神祭の三日目に輿で登場するというのは影武者か何かなのだろう。他言は無用
に、とロンベルトも言っていた。
 馬車の前でしばらくまごついた。本当に乗っていいのか。周りを見る。物々しい数の騎
兵が綺麗に整列している。神官たちの姿もある。
 自分だけぬくぬくと馬車に乗っているだけでいいのか。
「ヘルメス殿、お早くお願いします」
 神官に言われ、意を決して馬車に乗り込む。馬に鞭を入れる音がして、動き出した。
 街道は平和なものだった。賊どころか魔物の気配もない。たまに、もさもさと呼ばれる
毛玉みたいな生き物が出てくるが、あえなく矛で駆除される。やがて森に入った。広大な
森で、街道を迂回させるわけにはいかなかったらしい。森は平原に比べて危険が大きい。
意思を宿した柊の化け物や、凶暴化した猪などもうろついている。しかしハルモニア兵の
敵ではなく、その精強さにヘルメスは安堵のため息を吐くばかりだ。
 森の道を行くうちにただでさえ鬱蒼とした森がより暗くなり、平原へ抜ける前に日が暮
れてしまった。馬車から降りたヘルメスは周囲を確認する。
「どうなさいますかヘルメス殿。野営は森を抜けてからが良いと私は考えますが」
 この場の兵を束ねる部隊長がそう言った。行程にかかる時間を計算しなかったのはヘル
メスの落ち度だった。
「そうだな、先へ進もう。森では何が出るかわからない」
 ここまでの安全は確認できた。さほど凶暴な魔物はいないし、出くわせば倒しながら進
んで来たので、好んで人を襲うようなことはしばらくあるまい。もし襲ってきたとしても、
ヒクサクの護送隊であれば難なくあしらえるはずだ。
「森には蛇もいますからね。わかりました、先へ進みましょう」
 蛇と聞いてヘルメスはエルクの顔を思い出す。エルクは蛇が嫌いだった。あんなにかわ
いいのに、とヘルメスは不思議になる。
「私はしばらく歩くよ。馬車に乗っているのも疲れた」
 御者にそう告げた。馬に鞭が入った、そのとき。甲高い笛の音があたりに鳴り響いた。
「何だ」
 茂みの鳴る音。急に露わになった、大勢の人の気配。そう思ったときすでに、ヘルメス
たちは包囲されていた。
「何者だ!」
「我々は革命軍である! ヒクサクの首、頂く!」
 朗々と声をあげたのは、この世ならざる生き物を思わせるような、奇妙な仮面をつけた
痩躯の男。
「仮面の神官将?」
 なぜ反乱軍が。ヒクサクの首と言ったか。彼らは勘違いをしている。自分はヒクサクで
はない。
 護送の計画が漏れていたのか。
 しばしの睨みあい、そして。
「応戦せよ、馬車と貴人は守らなくていい」
 部隊長の号令を皮切りに、森は戦場と化した。
 包囲された状況にありながら、ハルモニア兵は統率された動きで反乱軍の攻勢に耐える。
並んで前に出した矛が敵の接近を阻んでいた。
「しかし、このままでは……」
 押しつぶされるのも時間の問題ではないのか。なによりただ戦況を眺めている仮面の男
の余裕が不気味だ。
 不意に地鳴りのような音と、幾重もの喊声が轟いた。
「何だ」
 何かが巨大な塊のようになって、近づいてきているのだ。
「ラインバッハ様!」
 干戈を交える響きの中、聞き覚えある少女の声がして、ヘルメスははっとなった。
「敵の新手です、森に潜んでいました。我々の襲撃は読まれていたのです!」
 仮面の男に報告しているのは、どう見てもエルクだった。
「このまま包囲されれば、とても耐えきれません。ご決断を!」
 仮面の男の顔がこちらに向いた。虚ろな眼窩の向こう、真実の瞳がきらめくのをヘルメス
は見た。
「カジャ、あの男を捕らえよ。ヒクサクで間違いない」
 仮面の男が言うや否や、滑るような速さで影が迫ってきて、気づいたときには抱えあげ
られていた。
「離せ、何をする!」
 ヘルメスは暴れたが、腹部に衝撃を感じ、意識を失った。

「ヒクサクではないというのか」
 誰かの声が聞こえる。
「こいつはヘルメス・ダアトです、私の無二の友です、人違いなのです」
「しかし同じ顔だ。ヒクサクでないとは、どういうことだ。まさか……」
「兵たちがこの男を守ろうとしませんでした。罠だったのでは」
 混濁した意識が、次第に鮮明さを取り戻す。瞼を開けた。
「あ、気づいたか、ヘルメス」
 エルクの顔があった。
「ここは……」
 星と月が見える。どこかの草原のようだ。
 視界に仮面の男が入ってきて、ヘルメスは跳び起きた。
「身構えるな若造。その狼狽ぶり、お前はヒクサクではないな」
 仮面の男の声音は静かなものだった。身の証を立てるため名乗った。
「私はハルモニア国民議員、ヘルメス・ダアトだ」
「ふむ……」
 仮面に手を当てて考えるような素振りをしてから、男は言った。
「お前、なぜあれだけの兵を連れて、あの森にいた」
 不審な相手に答えていいとは思えない。それに他言無用、と釘を刺されている。
「ヘルメス、正直に話せ」
 エルクが言った。月明かりに照らされたその姿を間違えるはずもなかった。
「エルク、君は……」
「私たちは革命軍だ。お前には言い出せなかった、すまない」
「革命軍……」
 それほど不思議な感じはしなかった。今になって思い返すとエルクと革命軍という二つ
の名は容易に結びつきそうな気がした。薬の行商は表の顔だったか。
「今は、正直に答えてくれ。私を、信じてくれ、ヘルメス」
 エルクを信じてみようと思った。今までだって彼女を疑ったことなどなかった。いつも
苦楽を共にしてきた。彼女には彼女の事情があったのだろう。
「私は、ヒクサク様がルブラン領へ護送されるのに先立って、街道の安全を確保するため
に出動したのだ」
「なるほど、考えられる話だな。しかし妙だ」
 何が妙なのだ。ヘルメスの疑問に答えるように仮面の男は続ける。
「我らが入手した情報によれば、ヒクサクは今日のうちにルブラン領へ発つはずだった。
つまりあの森を通るのはお前ではなくヒクサクのはずだった」
「そんなはずは……」
「お前に任務を与えたのは誰だ」
「ロンベルト様から……」
 ロンベルトか、と仮面の男は忌々しげに呟いた。そして「おい、カジャ」と傍らに控え
ていた黒髪の男を呼んだ。
「あの情報を我が軍にもたらしたのはサクマであったな」
「はい」
「奴は間者だったのか」
 男は何も答えない。答えかねているようだった。カジャと呼ばれたその男は、どうやら
ヘルメスをあのとき気絶させた人物だ。
「懸念材料だな。まだ多くの仲間が合流できていない」
 仮面の男はしばらく黙り込んだ。仮面の向こうから、ヘルメスの顔をじっと見据えてい
る気がした。
「あの、私は、まだ何が起きたのかわからない。いったいこれは……」
「よく聞け若造」仮面の男が遮るように言った。「ロンベルトは我らに偽の情報を掴ませ、
お前を襲わせた。私はお前を見たときヒクサクであると確信したが、それは違ったのだ。
森に潜んでいたハルモニアの伏兵、お前を守ろうとしなかった兵士たち。もうわかるな」
 わからない。いや、わかりたくないのかもしれない。
「つまりお前は利用されたということだ。我らを誘い出すための餌として」
 すべての点が頭の中で一本の線になる。自分はもう、水晶雪渓には戻れない。それどこ
ろか、ハルモニアのどこにも居場所はなくなったのかもしれない。故郷のダアト領でさえ
急に遠くなったように感じられる。
「まんまとしてやられたな。ロンベルトの手のひらの上だったのだ。森のなかで我が同胞
は散り散りとなり、どれだけ損害が出たかもわからない」
 ヘルメスは己をこの地に繋ぎとめていた重石が身体から抜け落ちたのを感じた。風が吹
けば飛んでしまいそうな頼りなさが胸を襲う。
「なぜ……なぜ私をヒクサク様と……」
 やりきれなさと一緒に疑問が口からこぼれた。
「私は国民議員になったばかりの青二才だ。この国を四百年以上統べるヒクサク様と、な
ぜ間違うのだ」
「どうやら真の紋章が不老をもたらすことは知っているようだな。しかし……」
 口ごもってから、仮面の男は続けた。
「よかろう。お前は似ているのだ、ヒクサクと。同じと言い換えてもいいかもしれない。
そして私も……」
 男がおもむろに仮面を外した。その下に現れた素顔は。月明かりにぼんやり浮かび上が
った白い顔は。
「私が……いる……」
 仮面の男の素顔は、ヘルメスと瓜二つだった。片目こそ失っていないが眼鼻や口の形、
その配置、何もかもが同じだった。
「どういうことだ……これは……」
 答えを求めてエルクに視線を転ずると、彼女も口を開けて絶句している。
「私も初めて、顔を見ましたが、しかし……なぜヘルメスと瓜二つなのですか」
 仮面をつけ直してから、男は言った。
「それは後にしよう。事前に決めていた合流地点を目指す。交易街ゴーヤだ。行くぞ」
 仮面の男が歩き出す。カジャが後に続く。
「ヘルメス……黙っていて本当にすまない」
 エルクがヘルメスの手を取った。そのまま引っ張るようにして歩き出す。エルクの指か
ら伝わる力は強く確かな感触がした。



 ロンベルトは笑みが込み上げるのを止められなかった。
 軍事通信用のナセル鳥が吉報をもたらしたのだ。水晶雪渓東方の森で反乱軍と交戦、伏
兵が功を奏して大勝したと。
 円議庁の執務室からは祭りに沸く市街が遠望できる。今のところ何も問題はない。交戦
の最中にヘルメスが反乱軍に連れ去られたというが、あれはもう人質となるための価値も
持たないのだ。いっそ殺されてくれればいい。
 扉を叩く音がして、ジェイソンが入ってきた。
「おお、ジェイソン殿。そなたの策はうまく行ったぞ。これで反乱軍もおとなしくなるだ
ろう。あとは残党を狩るだけよ」
 ジェイソンはむっつりと黙り込んでいる。
「どうした、戦勝を祝そうぞ」
「ヘルメス殿を囮としたのは、彼が三等市民街焼き討ちの真相に迫っていたからですか」
「まあ、それもあるな」
「あの件を知っているのは、私と、あなたと、サドラム卿、そしてヘルメス殿。焼き討ち
を実行した兵たちは、それが感冒のためと信じ込んでやった」
「それがどうした。何が言いたい」
「三等市民街焼き討ちと、そしてヘルメス殿が連れ去られた代償は、いずれ高くつくかも
しれませんぞ」
 それだけ言ってジェイソンは退室した。
「代償だと」
 ロンベルトは唇を歪める。代償も何も、そもそも価値がなくなったのだ。
「むしろ損害の芽を摘んだまでよ……」
 椅子に深く腰掛けてロンベルトは独りごちた。

つづく



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