戦場に広がる紅い海――そこに血を流して倒れる男、長曾我部元親。
愛紗は青竜刀を投げ捨て、涙を流しながら彼に駆け寄った。

最早彼女の眼にはすぐ前に敵が居る事は見えていなかった。
ただ早く、血の海に倒れている元親の元へ向かいたかった。

「ご主人様!!」

元親の元に駆け寄った愛紗はうつ伏せに倒れている身体を抱き起こし、顔を自分に向ける。
彼の瞳は無情にも閉じられ、額はおろか、身体の至る所から出血を起こしていた。
それを見た愛紗の顔がますます青ざめ、涙が止めどなく瞳から零れ落ちる。

「ご主人様……! ご主人様……!! ご主人様……!!!」

必死に声を掛けるが、反応は無い。
彼が自分を呼ぶ声が聞けなかった。

「嫌です……! 嫌です……!! 嫌ですご主人様!! 死なないで、死なないで下さい!!」

元親の身体から出る鮮血が、愛紗の身体を紅く染めていく。
愛紗はそんなことを気にも留めず、狂ったように声を掛け続けた。

「うわぁぁぁぁぁ!? 兄貴ぃぃぃ!?」
「テメェェェ!!」

主が血塗れで倒れている姿が眼の前で晒され、長曾我部方の兵士達は涙を流しながら怒り狂った。

それは兵士達だけに限らず、将達も例外では無い。
鈴々も、星も、翠も、紫苑も、水簾も、恋も激しい怒りを露わにしていた。
瞳からは涙が零れているが、彼女達の怒りは兵士達何十人分の怒りを遙かに超えていた。

「おっほっほっほっほ! 無様な姿ですこと。いつもの威勢は消えましたわね」
「ふふふふ……我が策に掛かれば、奴をああして殺す事など容易い」

袁紹と元就の勝ち誇った声が戦場に響く。
だがその言葉が、長曾我部軍に居るもう1人の鬼を目覚めさせた。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!?!?」
「「「「――――ッ!?」」」」

長曾我部の軍勢から憎悪に満ちた雄叫びが上がる。
その雄叫びの主は、水簾のすぐ隣に立っていた。

「れ、恋……!」

水簾が驚愕の表情を浮かべる。
自分の隣に居た恋が涙を流しながら武器を構えている。
但し、涙を流す彼女の瞳には一切の光が無かった。

元親達が初めて会った時の恋――最強の武人の血が彼女を支配していた。
憎悪に己の身を任せた恋が、戦場へ1人で飛び出そうとする。

「…………殺す!! あいつ等を殺す!!」
「よ、止せ恋!!」

そんな恋を水簾が背後から組み付いて止めた。
しかし恋は止まらず、自分を掴む水簾を振り払おうとして暴れる。

「あああああ!! 離せ!! 離せ!!」
「駄目だ! 今飛び出したらお前も殺されるぞ!!」
「恋は死なない! あいつ等を全員殺すまでは死なない!!」
「そんな保証が何処にある! お前も怪我を負ったら、ご主人様が悲しむんだぞ!!」
「あいつ等はご主人様を傷付けた!! だからご主人様の仇を取る!! あいつ等を殺す!!」

怒りに身を任せた力と言うのは恐ろしい物だった。
今は何とか止めているが、水簾が振り払われるのも時間の問題だ。
星は現在の長曾我部軍の状況を見て、かなり不味いと思っていた。

軍内部では主がやられたと言う事実が大規模な混乱と怒りを招いている。
実際に飛び出しそうなのは恋だけでなく、鈴々も翠も怒りに任せて飛び出しそうだ。
星も本音を言えば、元親を嵌めた奴等全員をこの手で仕留めてやりたいと思った。
だが今そのように暴走してしまえば、助けられるかもしれない元親が助けられなくなってしまう。

(ここは朱里に頼るしかない……!)

そう思った星の行動は素早かった。
怒り狂う兵士達の間を颯爽と駆け抜け、部隊の中心に居る朱里の元へと辿り着く。
今この状況で元親の命を最優先する作戦が提案出来るのは軍師である彼女だけだ。

だが――

「ご主人様が……血塗れで……血塗れで倒れて……そんな……酷い……ご主人様は何も……何も悪い事を……」
「朱里……!!」

星が思わず悲痛な声を出す。
朱里は耳を両手で押さえ、ブツブツと言葉を呟いていた。
まるで人格が崩壊した人間の如く、朱里の瞳には光が無い。

「朱里! しっかりしろ!! 軍師であるお前がそんな状態でどうするのだ!!」
「ご主人様……! ご主人様が……!! 血塗れで……! 血塗れで……!!」

星が肩を掴んで必死に言葉を掛けるも、朱里は変わらなかった。
それどころか朱里は涙を流し、状態が段々と酷くなっていく。
この際手を出してでもと、星が身構えた瞬間――

「諸葛亮殿、御免!」

星の代わりに頬を打つ音が静かに響いた。
驚いた星が自身の横を見てみると、そこには夏候淵の姿があった。

「あ……あ……!」
「諸葛亮殿、貴方は私達に言った。長曾我部殿を信じて裏切られた事は無いと。ならば長曾我部殿はまだ生きていると信じろ。貴方の出す指示が長曾我部殿を救うんだ!」

思わぬ説得者に感謝しつつ、星は再び朱里と向き合った。
朱里の瞳は先程とは違い、光が宿っている。

「私……私……!」
「朱里、夏候淵殿の言う通りだ。お前の出す指示が主を救うんだ。今は主の生命力を信じ、落ち着いて状況を見極めろ」

朱里はゆっくりと頷き、現在の状況を見つめ始めた。

両軍が対峙する間には愛紗と元親の2人。
この2人の救出を最優先とし、なるべく戦闘は行わないようにするべき。
特に元親は重傷を負っている為、すぐさま手当てを行う必要がある。

敵方――魏軍を完璧に支配している元就は現時点で向かってくる気配は無い。
元親をまんまと自分の策に嵌めてやったと言う余韻に浸っているのだろう。
しかし何時指示を出し、こちらに攻め入るかは分からない。

混乱していた頭を必死に整理した朱里は――震えながらも――声を出す。
星と夏候淵が傍で見守る中、彼女は必死の思いだった。

「皆さん!! ご主人様の命を最優先とし、ここから撤退します!! 悔しいとは思いますが、ご主人様が死んでしまっては元も子もありません!! ですから……ですから……皆さん、協力して下さい!!」

朱里の震える声は奇跡的に長曾我部軍全域に行き渡っていた。
星と夏候淵が互いに見つめ合い、微笑を浮かべる。
その声を聞いた者全員が朱里の方を向き、彼女の顔を見つめた。

「諸葛亮ちゃん……」
「ち、ちくしょう……! ちくしょう……!!」
「悔しいけど……諸葛亮ちゃんの言う通りだ!」
「兄貴が一番大事なんだ。兄貴が死んじゃ駄目なんだ……!」

各々の兵士が想いを口にし、唇を噛み締める。
また――これは兵士達だけでは無かった。

「朱里……朱里だって辛い筈なのに……!」
「あたし達……何やってたんだよ……」
「私も……まだまだね……」

飛び出そうとしていた鈴々と翠が止まり、紫苑が自嘲気味に呟く。
恋を止めていた水簾も彼女にこの言葉を必死に聞かせ、留まらせる。

「皆さん! まずはご主人様と愛紗さんを助けます!! 戦う事は出来るだけ避け、撤退を優先して下さい!!」
「「「「オオオオオオオ!! 兄貴達を助けるんだぁぁぁ!!!」」」」

1度はバラバラに成り掛けた長曾我部軍が再び1つに纏まった。
夏候惇も、荀ケも、許緒も、これには驚きを隠せなかった。

また、そんな状況を悠長に見過ごす元就ではなかった。
再び纏まった長曾我部軍を鼻で笑い飛ばし、人形と化した魏の兵士達に指示を出す。

「皆の者! 所詮奴等は雑魚の群れよ。軽く蹴散らしてやるが良い!!」
「元就様は貴方達に期待していますわ。さっさとやっておしまいなさい!」
「「「「オオオオオオオ!!」」」」

雄叫びを上げ、武器を構えた魏の兵士達が次々と向かってくる。
長曾我部の兵士達も最低限立ち向かおうと、戦場へと駆け出した。

「ちっ……泥沼の戦いになったか」

前線に出ていた夏候惇は思わず舌打ちをした。
今のままでは曹操を助けるどころか、自分達が全滅しかねない。
非常に悔しいが、ここは素直に撤退した方が無難だった。

そう思った夏候惇は傍らに居る許緒の方を向く。

「季衣! お前は桂花を守りながら後退しろ! 出来るな?」

夏候惇に荀ケ(桂花は真名)の護衛を命じられ、思わず身体が固まる許緒(季衣は真名)。
正直自分1人だけで守れるか不安だったが、この状況で頷かない訳にはいかなかった。
許緒は夏候惇の眼を見つめ、ゆっくりと頷く。

「よし……任せた!」
「で、でも……春蘭は何処へ行くのよ……?」
「……戦場のド真ん中で泣いている馬鹿を助けに行く!」

夏候惇は愛用の大刀を抜き、戦場へと向かった。
目的の場所は決まっていた、元親と愛紗の元だ。
夏候惇は戦場で鍛えた脚力を惜しみなく発揮し、敵よりも早く着く事が出来た。

「関羽! 諸葛亮の言葉を聞いただろう! ここから長曾我部殿を連れて撤退するぞ!!」
「ご主人様が……ご主人様が……」
「くっ……聞けッ! この馬鹿!! お前が何時までもそうやっていると、本当に長曾我部殿は死ぬぞ!!」
「――――ッ!?」
「主の身を思うのならば、お前自身が立ち上がれ!!」

夏候惇は愛紗を叱責しつつ、剣を振り上げて向かってきた敵兵1人を斬り倒した。
その後も何人か斬り倒し、向かってくる敵兵を武人特有の気で威嚇する。

「早くッ! 行け!!」
「…………」

愛紗が涙を拭い、元親の身体をしっかりと支える。
元親の全体重を愛紗が力の限り支え、ゆっくりと踏み出す。

「夏候惇……!」
「?」
「…………すまない」

愛紗は背を向けたまま、夏候惇にお礼の言葉を呟く。
当の夏候惇は無言のまま、愛紗に対して返事を返した。
背中に感じる気配で愛紗が遠ざかっていくのを感じつつ、夏候惇は敵兵達を睨みつけた。

「ここから先は誰1人として通さん。通りたくば、身体に宿るたった1つの命を懸けるが良い。この私に差し出す覚悟でな……!!」

 

夏候惇が必死に敵兵の侵攻を防いでくれているのを感謝しつつ、愛紗は元親を支えて撤退する。
途中、仲間達が擦れ違いに温かい言葉を掛けてくれるのが、愛紗にとって大きな励みになった。

「愛紗! お兄ちゃんを頼むのだ!!」

鈴々が――

「愛紗……ここは我等に任せよ!」

星が――

「愛紗! ご主人様を無事に運んでくれよ!」

翠が――

「愛紗ちゃん。ご主人様を頼むわね」

紫苑が――

「関羽殿! 早く向こうに!」

夏候淵が――

「愛紗、私達も護衛に付く!」
「…………恋、2人とも守る」

水簾が、恋が――

「関羽将軍! ここは俺等に任せて下さい!」
「兄貴のこと、頼みましたよ!」
「俺等もちゃんと無事に帰りますから!!」
「兄貴! 生きてるって信じてるぜぇ!!」

兵士1人1人が――
皆が愛紗と元親の身を守ってくれた。
愛紗の眼から止まっていた涙が再び零れ出した。

「ご主人様……聞こえていますか……? 貴方を守る為に、貴方を運ぶ私を守る為に……皆が団結して戦っています。貴方が、貴方が生きていると信じているから戦えるんです。ですから早く眼を開けて……声を聞かせて下さい……ご主人様……!!」

愛紗の言葉が聞こえたのか、元親の身体が痙攣したように一瞬震えた。
驚いた愛紗が元親の顔を見ると、彼の瞳からは涙が一筋零れている。
愛紗の心に希望と言う名の光が差し込んだ――

 

 

その後、長曾我部軍は何とか元就率いる魏の軍団から撤退する事に成功した。
将軍は全員生還、兵士内で重軽傷者は多数、死亡は少数と、ある意味では奇跡のような結果だ。
しかし誰もが決して、これは喜ぶ結果では無いと感じていた――

元親の治療を最優先とすべく、長曾我部軍は急ぎ幽州へと歩を進めた。
その道中、元就がしつこく放ってくる追手を迎撃しつつ、愛紗達は力の限り急ぐ。
彼女達の疲労は酷かったが、元親を助けたいと言う一心がそれを忘れさせていた。

 

幽州へ向かって2日後――
前方と後方に放っておいた斥候から、またも追手が迫っているとの情報を得た。
これは朱里の予想範囲内だったが、その先に待ち構えていた物は予想外であった。

何と“呉”の文字を印した旗を掲げた軍勢が待ち構えていたのだ。
あわや戦かと思われたが、その軍勢は同盟関係である孫権から遣わされたのだと言う。

「失礼だとは思いつつも、間者を通して貴殿等の行動を見させて頂いた。そちらの事情はあらかた知っている。ここは我等に任せ、先を急がれよ」

同盟関係で駆け付けた軍勢の数は六万人。これなら簡単にやられはしないだろう。
愛紗達は深く感謝しつつ、幽州へと急いだ――

 

 

 

 

幽州の街々――
幽州の中では比較的人気のある雑貨屋で、月と詠の2人は買い物をしていた。
目的の品物は湯呑み、割れてしまった元親の新しい湯呑みを買いにきたのである。

「詠ちゃん、これなんかどうかな?」

月が持ってきたのは全体的に黒色で統一された湯呑み。
他よりもかなり大きく、茶が多く入るようになっている。

「うん、良いんじゃない? 月が良いなら私も良いわよ」
「もう……詠ちゃんったら」

詠の言葉に月は照れ笑いを浮かべながらも、品物を店主に向けて差し出す。
対する店主は珍しい衣服を着ながら買い物をする小さな娘2人に癒されていた。

「ありがとね。お譲ちゃん達、これからも良ければ贔屓にしてくれよ」
「はい。是非そうさせてもらいます」
「ほら月、早く屋敷に帰るわよ」

店主の言葉に対し、丁寧に返事を返す月。
彼女らしいと思いつつ、詠は彼女の袖を少し引っ張っていた。

「えへへ。ご主人様、気に入ってくれるかなぁ?」

店主が包んでくれた湯呑みを大事に抱え、月が呟いた。

「月が選んだ物なんだから、絶対に気に入るわ。もし気に入らなかったりしたら、僕が元親をとっちめてやるんだから」
「駄目だよ詠ちゃん。ご主人様に乱暴なことしちゃ」

他愛も無い会話をしながら屋敷へと帰る2人。
しかし――2人の穏やかな空気は一瞬にして消え去る事になる。

「――ッ? あれって……?」
「――へっ?」

月がふと、前方を見入った。
詠もそれに釣られ、前方を見てみる。
そこには切羽詰った表情を浮かべる伯珪と貂蝉の姿がある。
それを見た2人は同時に首を傾げ、一体何事かと思った。

「ど、どうしたんですか? 伯珪さん、貂蝉さん」
「月に詠! お前等こんな所に居たのか!!」

伯珪が2人の肩をいきなり掴む。
2人は驚くが、伯珪の眼が潤んでいるのを見て固まった。

「ど、どうしたのよ一体……!」
「大変なのよ。ご主人様がね……!」
「……あいつがどうかしたの?」

貂蝉の言葉を聞き、詠の胸が激しく波打つ。
突然真っ二つに割れてしまった湯呑みの姿――
前の出来事が彼女の頭に徐々に浮かんできた。

「今しがた、間者から伝えられたんだけど……」
「ご主人様に何があったんですか?」
「元親が……元親が敵の罠に嵌まって……重傷を負ったって……意識が全く無いって……」
「「――――ッ!?」」

刹那、月が先程買った湯呑みを地面に落とした。
湯呑みはバラバラに砕け散り、無残な姿を晒した――




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