呉の本国――美しい飾りがいくつも施された王室。
そこでは2人の女性が互いの意見を衝突させていた。

「何を馬鹿な……ッ! 長曾我部と和平を結ぶなど!」

1人は呉が誇る優秀な軍師である周喩――
彼女の表情はこれ以上ない程の怒りに満ちていた。

「お前の言いたい事は分かる。しかし……」

もう1人は呉王である孫権――
周喩に睨まれながらも、その断固たる態度は崩さずにいる。

「それならばすぐにでも戦支度を整え、長曾我部との決戦に臨むべきでしょう! 魏を倒して浮かれている今こそ、又とない絶好の機会です!」

周喩は王座に座る孫権に詰め寄り、今にも掴み掛からん程の勢いで言い放った。
孫権は眼の前に居る周喩の瞳を見つめ、口を開く。

「お前の言っている事は正しいと思う。しかし長曾我部が魏を倒したのは事実だ。最後に私達が援軍に向かったとは言え、な。大国を吸収した長曾我部に我々が絶対に勝てると言う根拠は何処にも無い」

しかし孫権は怯む事なく、長曾我部軍との和平の案を推し進める。
だがその態度が余計に周喩を苛立たせた。

「ならばあの時……援軍など出さず、攻めていれば良かったのです! そうすれば互いに消耗した曹操と長曾我部を同時に討ち取れたと言うのに……貴方は!」

孫権は眼を細め、周喩を見つめた。

「前にお前が提案した事だな……」

孫権は思い出していた。
魏との決戦に臨む長曾我部軍に援軍を出そうとした時、周喩が進言した事を。

『ここは援軍を出さず、機会を待つのです。そうすれば互いに消耗した両軍を必ず討ち取れる事でしょう』

斥候からの情報により、その時の両軍の状況は分かっていた。
戦のために酷く兵を消耗し、多くの武将達も著しく体力を消耗していた事も。
確かに攻めれば両軍を討ち取り、呉が一気に三国を支配する絶好の機会だっただろう。
しかし孫権は周喩の提案を一切受け入れず、同盟を結んだ長曾我部に援軍を送った。
魏との戦が続く限り、何度も何度も――

「だが周喩、それは同盟を結んだ相手の信頼を裏切る事になる。それは武人として恥だとは思わないか?」
「何を甘い事を……! 今は戦乱、群雄割拠の世です! 裏切り等、何処でも起こっています。それに私は武人である前に軍師です。どんな手を使っても呉に勝利をもたらすのが私の使命です!!」

孫権は首をゆっくりと横に振る。

「それは違う周喩。誇りを捨てて得た勝利など、誰も喜ばない。喜びはしない」
「いいえ、必ず喜びます。貴方の姉君であり、覇道を極めようとした孫策様は絶対に」
「――――ッ!」

孫策と言う言葉が出た瞬間、孫権の顔が苦しむように歪んだ。
孫策――かつての呉王であり、孫権の実姉である(周喩は以前、彼女に仕えていた)。
彼女も三国統一を目指していたが、志半ばで病魔に倒れ、皆に見守られながら他界した。
その後の呉王の地位をすぐに継いだのが、実妹の孫権である。

「姉は……姉様は、誰よりも優しかった姉様は喜ばない……!」
「そうでしょうか? 孫策様の血を受け継ぐ貴方なら、分かっているのではないですか?」
「――――ッ!!」

孫権が周喩をキッと睨みつけた。
彼女の瞳には溢れんばかりの動揺が広がっている。
周喩が詰め寄った分の距離を取り、呆れたような表情を浮かべた。

「孫策様は嘆き悲しんでいる事でしょう。今の呉王が非情に徹しきれないのですから。更にそれが実の妹なら尚更です」
「貴様ッ!!」

周喩が溜め息と共に言葉を吐き出した時、柱の陰から1つの人影が飛び出した。
正体は今まで2人の様子を見守っていた、孫権の護衛人である甘寧である。

「呉王で在らせられる孫権様に向かって、あまりにも無礼が過ぎるぞ!」
「甘寧――――ッ!」

甘寧は短刀を抜き、怒りの表情と共に鋭い刃を周喩に向ける。
しかし周喩は向けられた短刀に動じること無く、言葉を続けた。

「良い護衛ですね。自分に不利な事が言われれば、力でそれを消そうとするのですから」

周喩は微笑を浮かべ、嘲るような言葉を言い放つ。
彼女の言葉に、甘寧の短刀を持つ手が激しい怒りで震えた。

「貴様……いい加減に――」
「もう止めろ! 甘寧、刀を納めろ……」

甘寧が躊躇うような表情を浮かべ、背後の孫権の方へ振り向く。
彼女は首を無言のまま縦に振り、甘寧に対して意思を示した。

「くっ……!」

甘寧は悔しさに唇を噛み締めつつ、短刀を腰の鞘に納めた。
孫権は1度眼を閉じ、荒れた心を落ち着かせた後、周喩を見据える。

「周喩……姉様が悲しんでいるかどうかは誰にも分からない。だが私は長曾我部と和平を結ぶ考えは変えない」
「――――ッ! これだけ言っても、まだ貴方はそんな事を……! それでは兵も、民も納得しません!!」

周喩は孫権に対し、憎悪にも近い感情を剥き出しにした。
それを向けられた孫権は身体を震わしながらも、言葉を続ける。

「私は……私は……負ける戦いはしたくない。無駄な犠牲は出したくない」

孫権が絞り出した言葉を聞いた周喩は、失望した表情を浮かべた。
乾いた笑いを出し、周喩はゆっくりと王室を後にする。

「貴方の考えはよく分かりました。言っても無駄だと言う事が……」
「周喩……!」
「もう好きになさって下さい。私は今後2度と……口を挟みません」

周喩が扉をゆっくりと開け、バタンと乱暴に閉めた。
彼女が出ていくまで、無機質な音が王室内に響いた。
そうして周喩が部屋を去った後、孫権は頭をゆっくりと抱える。

「甘寧……」
「孫権……蓮華様、今は私と貴方の2人だけです。真名で呼んで下さい」

甘寧は孫権を真名――蓮華と呼び、ゆっくりと傍に寄る。
孫権は暫く黙った後、静かに甘寧を真名の“思春”と呼び直した。

「思春……私は間違っているの? 私の考えは間違っているの?」

孫権の瞳から言葉と共に、涙がいくつも零れ落ちた。
呉王と言う仮面を外せば、彼女はまだ1人の少女。
王になるにはまだ若く、王になるには優しすぎた。

そして少女が仮面を外せるのは、心を許せる相手と居る時のみ。
少女は苦しいと思いながらも、王として心の弱さは見せられなかった。

「いいえ、蓮華様。私にとってそんな事は重要ではありません」
「…………?」

だからこそ甘寧は護衛の役を立派に果たそうとしていた。
この優しい呉王の少女を、どんなことがあっても守ってみせると。
仮面を外した時、心に溜まった悲しみや不満を一身に引き受けてあげようと。

「私は貴方を決して裏切りません。どんな事があっても貴方に付いていきます」
「思春……!」
「ですから御自分の考えに迷わないで下さい。兵も民もきっと納得してくれます」

甘寧は微笑と共に跪き、改めて孫権に忠誠を誓う。
孫権は流していた涙を拭い、甘寧に向けて笑みを浮かべた。

「ありがとう……思春」
「……礼などいりませんよ」

 

 

 

 

屋敷の通路――周喩は吐き出す場所の無い怒りを抱えながら歩いていた。
昔の呉はこんなにも弱い国ではなかった――周喩は以前の王の孫策をフッと思う。

孫権に顔立ちは似ているが、本質的な物は全く違っていた。
時には優しく、時には誰よりも非情になる。
三国統一の為にはしょうがないと割り切っていた。

孫策に仕える以前から周喩は、彼女に崇拝に近い感情を抱いていた。
そして呉の軍師になった後、命を捨てる覚悟でいくつもの戦に臨んだ。
全ては崇拝する孫策に勝利を捧げる為――その為に汚い役は全て被った。

そしてある時、周喩は孫策から夜伽に呼ばれたのである。
自分の働きを認めての事だろうか、理由は何であろうと、周喩は嬉しかった。

女同士での契り――今の世では同性での伽など、決して珍しくはない。
呉王と1人の軍師と言う関係を超え、2人は激しく互いを求め合った。
そして行為の最中に互いの真名を教え合い、また互いの身体を求め合う。

『愛しているわ……』
『私も……私も愛してる』

愛を囁き、ゆっくりと唇を重ねる。
その時の口付けはどんな果実よりも甘美な味がした。

初めて身体を重ねた次の日には、2人は恋人同士になっていた。
周喩は今までに無い、これ以上の無い幸せを感じた。
全てが充実していた――最愛の彼女が病魔に倒れるまでは。

『ゆ、夢は叶わなかったわ……後を……お願い……』
『いや……いやぁぁぁぁ!?』

孫策が亡くなってすぐ後、実妹の孫権に呉王の地位が継げられた。
周喩は激しい憤りと共に軍師を止めようかと言う考えも浮かんだ。
だがあえて周喩はそのまま軍師を続けた。

きっと何処かで期待していたのかもしれない。
愛する孫策の実妹である孫権ならば、実姉の想いを果たしてくれると。

しかしそれは大きく裏切られてしまった。
今までも、そして今も――

「くうっ…………!!」

周喩はすぐ傍にあった壁に拳を強く打ちつけた。
憎悪の感情に任せた、自分らしくない行動。
ヒリヒリと痛む右拳を見つめ、周喩は自嘲気味に笑った。

「駄目ですよぉ。物に八つ当たりをしちゃあ」
「…………陸遜、か」

周喩は声がした方を一瞥する。
声の主は自身の弟子であり、軍師である陸遜(字は伯言)だった。
陸遜は男なら自然と眼が行ってしまうだろう、豊満な胸を揺らしつつ、周喩に近づく。

「また喧嘩したんですかぁ? 孫権様と」
「…………何故そう思う」
「え〜とですねえ……軍師としての勘です」
「…………ふん。あまり頼りにならん勘だな」

鼻で笑うも、周喩は気分が先程より軽くなっている事に気が付いていた。
この陸遜と言う少女が出す独特な柔らかい雰囲気は、どんな者でも毒気が抜かれてしまう。
事実、周喩は今までに陸遜のお陰で何回も気分が癒されていた。

「陸遜……1つ訊いて良いか?」
「はい、何でも訊いて良いですよぉ」

どうも調子が狂う、そう思いながら周喩は陸遜に問い掛けた。

「お前は孫権様をどう思っている?」
「はぁ? 孫権様ですか?」
「ああ、甘いとは思わないか? あの人の姿勢を」

周喩は王室で孫権と話した事を全て陸遜に話した。
話を聞いた陸遜は顎に手を添え、考える仕草を見せる。
周喩は答えが出るまでジッと彼女を見つめた。

「…………私は特に何も思いませんねえ。孫権様が優しいのは良い事ですよ」
「…………まるで幼い子供を褒めるような言い方だな」
「そうですかぁ? でも私は……」

陸遜の表情がのんびりした物から、真面目な物に変わった。
彼女の突然の変わりように、周喩は少し戸惑う。

「優しい孫権様が好きで、優しい孫権様に仕えたいと思っているだけです」

周喩は腕を組んだ。

「だが優しいと言う感情だけで三国統一など出来はしないぞ。ましてや長曾我部と和平など……」
「う〜ん……孫権様も深く考えて決めた事でしょうし、私は咎めたりしません。孫権様に付いていくだけです」

陸遜の言葉を聞き、周喩は深い溜め息を吐く。
その溜め息の意味は何なのか、陸遜には感じ取れなかった。

「時間を取らせてすまなかった。私は部屋に戻る」
「はい。それと少し横になれば、悪い気分も収まるとおもいますよ」
「…………素直に忠告を受け取っておこう」

周喩は陸遜に背を向け、その場を立ち去ろうとする。
陸遜はその後ろ姿を見送ろうとした。

「……そう言えば陸孫」
「は、はい?」

不意にこちらを振り向いた周喩に対し、陸遜は首を少し傾げて返事を返す。

「孫尚香様はどうした? いつもお前の傍にくっ付いていた筈だが……?」
「あ、はい。孫尚香様は街に出掛けていますよ。屋敷は暗くて嫌だって言って」

周喩は「そうか」と一言だけ言うと、この場を後にした。
陸遜は少し複雑そうな表情浮かべながら、彼女の後ろ姿を見送った。

 

 

 

 

(やはり策を実行に移すべきか……)

自身の部屋の前に付いた周喩は扉に手を掛けながら考えていた。
いざと言う時の為に今まで練ってきた策を実行に移すべきか――
周喩は決意の表情を浮かべ、扉を開けた。

「大喬、小喬、貴方達に頼みたい事があるわ」

自分を出迎えてくれた侍女である双子の少女に対し、周喩は厳しい視線を向ける。
開けられた扉が自然と閉まっていった――

 

この日から数日後――元親が治める幽州へ向けて、孫権が率いる一軍が向かっていった。
目的は和平を結ぶ為――しかし、その一軍の中には周喩の侍女である双子の少女の姿もあった。
またも幽州に1つの嵐が吹き荒れようとしていた。





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