その童女に会ったのは秋口にさしかかり、そろそろ虫たちが妙なる音楽を競って奏でる頃であった。
 拝謁、謁見と言う物は楽な行事では無い。相手は相手で本心は見せまいとするし、此方は此方で相手の願う事を先回りして答えねばならない。誰も彼もがエンペラーと言う者は偉大だと驚嘆させねばこの行事は失敗なのだ。だからこそ景色、音、声に至るまで宮は考え抜かれて造営されるし、私は私で侍従・側近から相手が何を求めているか当たり障りのない言葉で聞き出すよう求める。虚飾に満ちた宴、口さがない者はこう言うであろうな。
 それでも、今回拝謁の栄に浴することになる乃木には尋ねたき事が山ほどある。皇軍の要とはいえ、たかが物でしかない連隊旗を奪われたが為に彼は人生を狂わせるほどに悶えたという。
 乃木希典――彼は【もののあはれ】を体現する漢であった。かつて天下と言われた大地(ひのもと)から呆れるばかりに巨大化した世界、誰も彼も利得と打算しか考えれぬほどの生き急がねばならない時代において、彼の行動と思想はこの国そのものだと感じた。だからこそ入れ込んだ。彼は皇軍、いやこの日の本において欠くべくからざる人間だと。
 その乃木がここ数年で人が変わったような行動を始めた。確かに孫まで出来た身からすれば家を大切にするは当然であろう。しかし、この国運を賭けた戦の前後から利得と打算に基づいた行動を取り始めたのだ。
 失望もしたが興味も持った。側近に問い質したところ彼は決して私利私欲に走った訳では無いと言う。何かとてつもないものを相手にしている様な雰囲気だったと言う者、何かを守るため狂信に走ったのかもしれないと震える声で話した者もいた。
 実際、戦は信じ難き勝利の連続だった。その殆んどを乃木が差配したという。彼が何を思い何を求めるのか……そして何を知ったのか問わねばならない。そう考え庭を(そぞ)ろ歩く。

私――いや、朕は問わねばならない。

あの日、那須の山麓――どこにでもあるような静かな村――から出てきて山県に何を話したのかを。あの雪の日の満州――側近は愚か、桂も東郷も大山すら恐懼して口を開かぬ事柄――で何が起こったのかを。
 踵を返し宮に戻ろうとした時、庭の池に(またが)る5尺の小さな石橋、その真ん中にポツンと童女(めわらわ)が腰掛けていることに気づいた。此処は孫宮達の相手や、宮中の礼儀作法心得と称して宮に入る子供が入れる場所では無い。子供らしく橋の下に投げ出している足を動かすわけでもなく、じっと顔を俯かせ水面を見つめている。
 その姿は親とはぐれてしまい、泣くまいと必死で耐え待ち続ける幼子のように見えた。そう、連隊旗という自らの心棒を失い、今世を彷徨(さまよ)うあの漢の姿をその幼子に見たのだ。





◆◇◆◇◆






 どこで間違ったの?

 わたしは考え続けている。あの日、私は死の淵にあった。それまで生き死になど考えたこともない。隣の子の親の受け売りらしい言葉『いまにロシアが攻めてきてこの国はなくなるぞ』と言う言葉にムキになって反拍した。御爺様を【暇人将軍】とまで馬鹿にしたのだ。怒りの余りその子をグーで叩いた。大騒ぎになって先生に怒られ、学校から飛び出してしまったのだ。
 わけもわからず走っている前、わたしは突然踏みしめていた地面が無くなった事に気づいた。――その時にはもう手遅れ――視界が暗転して気がついたら激しい痛みと全身に纏いつく倦怠感、動かない四肢と止まらない血潮に戸惑うばかりだった。
 その時にそれと出会った。死ぬという事実を突きつけられて恐怖し、どんな事をしてでも生きたいと願った。それは私の心を読み驚いたようだった。わたしを生かしてくれるだけでなく、わたしの願いを叶えてくれるとまで言ったのだ。その代価は一定期間それの子分になること。子供だって親分子分といった間柄はある。軽い感覚で頷いたのだ。
 それからはよく解らない。自分の身が自分でなくなったような感覚、御爺様や御父様と話している時すらどこか他人事にように話している自分を遠くから見ているような感覚だった。それが変わったのは御父様の死を聞かされた時、それはあらゆる手立てを行ったが御父様を助けることは出来なかった。
 わたしは怒った、でもそれは『契約に含まれてはいない』そう言ったのだ。そのやり場のない怒りがわたしがわたしであることの証だった。あの時にわたしは自分の体を取り戻していたのだろうと思う。
 そしてあの会見……高野候補生のことは話に聞いていた。それ等が予定する御国の終わりにおけるキーパーソン、今は生かすべき滅びの要、御父様が彼の身代わりになって死んだ!? 再びやり場のない怒りが体中を駆け巡りわたしは倒れた。そして気がついた時、わたしは初めての感情に身を任せ行動を始めたのだ。

 即ち、御国に戦争を吹っ掛け御父様を殺したロシアという国に対する憎しみと言う感情を叩きつけるべく…………

 その願いは適った。それの計算ではロシア帝国と言う国は二度とこの国に喧嘩を吹っ掛けられないように叩き潰した。軍艦の全滅、兵隊の壊滅、田畑も徹底的に荒らしてやった。これで王様の宮殿も粉々にしてやれば完璧だっただろう。だから、

 御爺様の言った事が理解できなかった! 相手が悪いのに何故そんなに庇うのか!? 御父様を殺した喧嘩相手を叩きのめすことに躊躇する御爺様の考えが解らなかった。


 それでも、


 それでもそれが御爺様を役立たずとして殺そうとしたとき私は無我夢中でそれを阻んだ。それっきりわたしの意識は途切れ気がついた時には全てが終わっていた。
 もう、戻れない。御父様がいなくなったあの家にも、御爺様が住んでいるあの御屋敷にも…………心を押さえつけていなければ泣いてしまいそう。でも御爺様の言葉、『泣きたいときには絶対に泣いてはならぬ。自らの涙は喜びの為だけにとっておけ。』その言葉が邪魔して泣くこともできない。

 ――今も唯、御爺様が参内する(ここにくる)という言葉に釣られてここまで入り込んだだけ――

 でも御爺様にどんな顔をして会えばいいのか……


 「童よ、如何したのか? 役目を怠り上役に知れれば御目玉では済むまいぞ。」


 その“人”をわたしが目にし、声を交わす。それが最初で最後のことだったと気づいたのは、ずっと後の時代になってからだった。

 
祐宮睦仁天皇…………明治大帝が隣に立っていた。





―――――――――――――――――――――――――――――






蒼き鋼のアルペジオSS 榛の瞳のリコンストラクト
 

第二章 外交破戒 第8話










 童女の話を真に受ける私もどうかしたものだと思う。いやこれは話と呼べるものではない……懺悔だ。愚かな童だと言うは簡単、だが皇宮で成長し国の最先端の学校で最高の教育を受けることができた息子や娘、さらにはそこに入るであろう孫達に比べれば市井の童の識見等この程度なのだろう。
 しかし、愚かでは済まされない。正しくこの童女は望むことなくこの世界にやってきた神威(かみ)の代弁者、神祇(じんぎ)省の役人達が言うならば巫女に等しい。そしてその意思と力はこの国はもとよりこの世全てを覆い尽くさんが程の力に満ちている。
 昔、書物を読みふけり臣下に講義までさせた英雄達の話……それ比べればただの面倒な知識に過ぎない神祇に関する知識を頭から掘り起こす。彼女の回顧と懺悔を聞きながら彼女が何を求めているか推察する。
 ふと思いつく。神祇では神を降ろすのに神主、巫女、そして審神者(さにわ)と三人ひと組で祭事が進められたと聞く。神主が巫女に神を降ろし、巫女が神の言葉を語る。しかし、それが己等の望んだ神なのか? そしてその言葉をどう解釈すべきなのか判断しなければ見当違いの託宣や最悪、禍つ者の言葉をそのまま託宣として捉えてしまう場合がある。神に対する十分な知識を持ち、彼らの真意と言葉の真偽を判断するのが審神者の役目だ。
 それという者が神に例えられるならばあの漢が神主、この童女が巫女ということになるだろう。では審神者は? そこまで考えが及んだ時、気がついた。
 そうか、あの漢もこの童女も間違ってはいない。それの意思を捉え違えたが為にこの事態は起こったのだと。つまり審神を行うべきものがいないが為にこの国に降りかかった異様とも言える事態は起こったのだと。


 「童よ、中々面白き(はなし)であった。“私”は英雄譚を好んで読むがこんな話は聞いたことが無い。」


 ムッとして此方を向き上目遣いに童女が睨んでくる。作り話と断ざれ不機嫌なのだろう。側近がいればすっ飛んできて怒り狂い、引き()がすだろうが彼らは庭の外に待たせてある。当然目立たぬ場所に侍従や御親兵もいるが、彼らは朕が求めない限り控えているのみ。


 「しかし、そなたは一つ間違いを犯している。」


キョトンと目を瞬かせ彼女が顎を上げる。表情が豊かだ、本来の子供とはこれほどまでにクルクルと表情が変わるものなのか。彼女が声を上げようとするのを手で制する。
 これは童女の独り言を聞いた“私”が感想を独り()ちただけ。神の巫女とこの国の帝の会話であってはならない。それは双方にとって【身の程知らず】を思い知らされることになるからだ。


 「そなたは御爺様に謝ったのか? 子供とは得てして間違うもの、それを叱り、聡し、庇うのが大人というものだ。そなたが過ちを認めず足掻(あが)けば足掻(あが)くほど御爺様は苦しみ悲しむだろう。そなたが誤ったことを知ったのであれば何をすべきかおのずと答えは見えよう。」


 そっと石橋の欄干に腰かけている童女を抱え立たせる。そして一言だけ。


 「もう行きなさい。今日、貴女と逢えて嬉しく思う。」


 そっと童女の背を押し私は逆向きに歩き始める。私でなく朕に変わりゆく心の中で童女が話したそれという主にしてフネの名前、世界が天下しかない時代の一つの国名を呟いて思い当った。


 「なんということだ……神世の英雄譚、軍神そのものではないか!」


 驚愕の表情を凍りつかせ朕は立ち尽くす。





―――――――――――――――――――――――――――――






 宮殿ともなればその装飾は華美なものであろう。王座はその国の誇りでなければならぬ。そこに座る者の価値を極限にまで高める舞台装置と誰かが言っていた。勿論玉座に座る者がそれに値する価値が無ければ即座に道化の舞台装置に代わる罠もある。
 入ったとたん気陥(けお)とされた。暗赤色の緞帳、柱の装飾、天井から垂れ下がるシャンデリア……凄まじいばかりの威圧感だ。天井の絵模様など人が眺めるために填め込まれた物では無い。参内者を睨みつけるが為にそこにある。

 明治宮正殿――御上の御座所である。

 玉座の緞帳(どんちょう)が上がり御上の姿が垣間見れる。さぁ……儂の終わりを始めよう、復命書を開く。日露戦争の経過と結果を御上に奏上するのが儂の役目、そして死を賜るが儂の目的。淡々と声を発する、しかし心は慙愧(ざんき)の念で一杯だった。唯『史実』と違っていたのは無為に兵を死なせたがためでなく更なる重い咎、『世界を砕いた』故に。




◆◇◆◇◆





 乃木が復命書を読み上げている。表向きこの謁見、拝謁は日露戦争と呼ばれることになるであろう大戦の大まかな流れを朕に報告するものである。あの童女から聞いた限りでは朕の死後、後を追うようにこの漢は殉死したらしい。
 それでは困るのだ。あの英国親書と伝手を縦横に使い拝謁を願った男。この漢が良くも悪くも忠臣ならば、あの男こそ三国志で言う奸雄と呼ぶべきだろう。国政を操り、自らの野心――いや己の美学を現実のものにしようとする。反吐を吐きたくなるのはその男の言葉はこの国にとっても全世界にとっても全く正当かつ正論であることなのだ。
 今、乃木が願っていること、すなわち自裁は世界に対する責任放棄でしかない。復命書の内容だけでも解っている。乃木は己の命は愚か一家一族を対価に国を救おうとしたのを。私利や打算すら命を対価にしてしまえばそれは一種の美学に化ける。私利すら無私となるのだ。この狂信にも近い無私こそ乃木の生き方であり朕が共感する部分なのだ。


「――――――大罪を軍規によって正し、後世の範たりして奉らんのみ。」


 違う……思わず口から息が漏れた。喉を動かしていれば間違いなく言葉になり、乃木にも聞こえただろう。

 
それは違う!


 旅順も奉天も乃木の差配が稚拙だったからでは無い。ホーフブルグの驚天動地の講和条約は乃木の見せた現実に全世界の幕閣がついていけない故に起こったのだ。あの童女が言った未来とやらを全ての者が思い浮かべることはできなくとも政を行う者、軍兵を率いる者、金銭を扱う者は己を進めんが為に未来を思い浮かべる。
 思考停止した者に未来は訪れぬ!

 日露は勿論、欧州列強皆思考停止して何が近代国家ぞ!!

 だがこの漢はそんな見も知らぬ人間の不如意まで自らで背負い込み、死のうとしている。己の器から激情という熱水が溢れ出す。このようなことは幼き頃ですら滅多になかったこと、理性は抑えよを声高に叫んでいるが朕の手は全く逆のことを始めていた。朕……いや私は天井から垂れさがり自らの視線と乃木を遮る緞帳を(まくり)りあげた。




◆◇◆◇◆






 仰天した。御上が目の前にいる。自らの神聖と至尊を保つが為に常に緞帳の中で拝謁者の声を聞く御上が自ら緞帳を捲りあげ足音荒く儂の目の前に歩を進めたのだ。慌てて押しとどめようと顔を上げた。――あっては無らぬこと、御上と臣下が同じ壇上にあるとい事は御国の秩序を乱すだけに留まらぬ。――が、できなかった。顔を紅潮させ拳を震わせながらそれでもその瞳に悲しみをたたえた御上が裂帛の御声を発せられたのだ。逆鱗に触れられた龍でもこれほどの声は出さぬだろうという宮全体に広がる詰問。


「乃木いぃィッ!!!!」



 即座に首肯する。いや、即座に首肯せざるを得なかった。それほどまでにその御声は怒りに満ちそして悲しく響いた。


 「卿は自らの所業を否定するのみ! 世の移りを軽視し、かくも惨状を招いたのは国の、世界の、世の未熟故、断じて卿の罪にあらず。それを自らの罪が如きに振舞い自裁にて幕を引くは世を謀る傲慢に他ならぬ。今、それを奏上することこそ大罪ぞ!!」


 解っております。解っておるからこそ、誰かが罪を被らねばならんのです。それはこの戦にて死ぬことが定められた儂こそ最もふさわしい。
 奥とその家族の無惨なまでの最後を見せつけられたが故に儂は思い知らされた。橙子は小噺でこう言った事がある。

 『歴史を変えると言う事はそれに対する世界の反発を生む可能性があります。誰かを助けようとしたことが逆に他の誰かを殺してしまう結果になることもあり得ると思うのです。』

 その言葉が奥の自害の時に頭をよぎったからこそ儂は急いだ。第2、第3の奥を生み出してはならぬと。


 「御旗を奪われ、旅順を墓壕(はかあな)に変え、奉天の惨劇を作り出した粗忽(そこつ)者に弁明の余地などあろうはずもございません。御国にかつて無き苦境と民に意味無き悲嘆を味わわせたのならなおの事! この上は悪しき先例として処断され、御国の名誉と諸国家へのけじめとなされんことを……!!!」


 言い終わる前に御上が儂の胸倉をつかんだ。飾りの勲章がいくつも弾け飛び床に乾いた音を立てて転がる。


 「卿の無私とはそんな小さなものか!? 演習の時の戦場覆い尽くさんが如き威風の根源はその程度のものだったのか! 満州の野で朕の前の如く将兵官民皆、我が前の如く襟を正した乃木はこんなに小さなものであるはずがないッ!」

 万力のように締め上げられる。儂も奏上の前に初めて聞いたが、御上は宮城から離れることこそ少ないものの根っからの武人だ。幼少のころあの大西郷から薫陶(くんとう)を受け彼子飼いとも言える質実剛健の武士達に囲まれて暮したのだ。相撲で投げ飛ばす投げ飛ばされるは当然の事、今でも鍛錬を欠かしてはおられぬのだろう。
 抵抗する気等無いのだが、まさしくこの体は厄介だ。あくまで私の体が危地にあると考え勝手な行動をとる。御上の腕を掴み、足を払い、柔術の技のように払い落そうとする。しかしそんな事は先刻承知とばかり御上は逆に儂を投げ飛ばそうとし、二人はもんどりうって床に叩きつけられた。
 床が大音響を立てる。流石に侍従と御親兵が飛び出してきた。こちらに駆け寄ろうとする彼らに儂の上に馬乗りになった御上が顔を向け一瞥する。

睥睨(へいげい)


 まさにその言葉こそ相応しい。圧倒的な眼力が一閃され侍従も御親兵も凍りついた。その後の御上のよく通る呟き、『何ヵ?』 その一言に彼らは一糸乱れぬ行動をとったのだ。侍従はその場で直立不動の姿勢を保ち首肯する。御親兵は全員最敬礼の後、軍における捧げ筒の姿勢をとり動かなくなる。まるで床が西洋将棋(チェス)の盤上と化したようにここには御上と儂しか存在しない事になってしまったのだ。
 顔を向け直した御上がばつが悪そうに締め上げていた手を放し玉座に戻る。儂も襟を正し落ちた復命書を拾い上げ首肯する。一時の沈黙の後、玉座から御声が発せられた。


 「乃木、朕は卿がいたずらに死を望んでいるように見えてならぬ。それこそ軽挙妄動の類である。真に憂国の士と言う者は天下万民への罪であってもそれを贖い続け、名もなき溝に身を埋め、息絶えたとしても国に尽くすものと言う。故、朕は卿のいかなる死も許さず。迷い往く国(ていこく)新たなる国(トラキア)の灯火となるこそ忠臣である証也。朕はそれを願うもの也。」


 拝謁は終わった、最敬礼し拝辞する。やや前屈みのまま後ろ向きに後ずさると。再び御声がかかった。不審に思い顔を上げると少し柔らかな声で言葉が続いた。

 「乃木、孫と(いさか)いがあったと聞く。子の過ちを正し庇うのが親の務めぞ。まして父親はこの戦で命落としたという、さぞ寂しい思いをしておろう。労わるよう。」




◆◇◆◇◆






 労わる……か。私は自嘲気味に思った。あの童女に物を与えても一顧だにしないだろう。私の前で我が国の銀貨を手品のように作り出して見せたのだ。必要な物なら全て手に入る、そんな神に愛された巫女に何を与えても無駄の一言、
 ふと思った。物でなければよいのではないか? そもそも物を贈るを言う行為は真心を贈るという事でもある。ならば、
 女官を召出し用事を言いつける。その内容に女官は勿論、侍従長まで耳を疑ったようだが何も云わず支度に取り掛かった。捧呈された盆の中、国の職人たちが精魂こめて作り上げた飾り紐が燦然と輝きを放っている。娘達……内親王に贈り物をするより深刻な顔をして選ぶ私を彼らはどう見ているのだろうか。送り先が乃木勝典なら尚更だ。

 やれやれ、私もずいぶん打算的になったじゃないか。




◆◇◆◇◆





 正殿を拝辞し小さな渡り廊下を侍従の先導で進む儂、前の侍従が止まったことを訝しげに思い前を覗くと前の角に子供が、いや橙子がいた。儂は怪訝な顔をしている侍従の前に出ると橙子は俯き下を向く。
 意地っ張りなのは変わらんな。結局橙子は“橙子”だったか。あの時の悪魔の形相は微塵も感じられない。戦に狂ったのは橙子も同じなのだ。だから…………


 「橙子、先ずは言うべきことがあるのではないかな?」


 父親の勝典はもとより儂も静子も甘えさせても甘やかしたつもりはない。心棒の通った一人にすべくびしばしと鍛え上げたのだ。橙子には儂の言葉が叱責に聞こえている筈だ。


 「……んなさい。」

 「声が小さい。もう一度!」  


 叱咤で少し橙子の声が大きくなる。


 「ごめんなさい。」

 「俯いて謝る者が居るか! 顔を上げよ、相手の眼を見据えよ!!」


顔を上げた橙子の顔は涙で既にくしゃくしゃだった。それでも必死に顔を上げ言葉を紡ぐ。


 「ごめんなさい。ごめんなさい!」


 そっと床に膝をつき手を差し出してやる。もはや涙と汗で目も当てられない形相の橙子が飛び込んできた。【ごめんなさい】と泣き声が混ぜこぜになった声と共に飛び込んできた。
 腕の中で必死に自らの孤独と恐怖を埋め合わせるように泣く橙子の頭を撫でてやりながら、儂はこの時日露戦争が終わったことを感じていた。そしてこの時より儂と橙子の闘いが始まることも感じていた。






―――――――――――――――――――――――――――――







 ある秋の日、私たち兄弟がこうやって釣り糸を垂れるのは何年ぶりだったか……此処は伊予松山、伊予湊の沖。


 「何年ぶり? 初めての間違いじゃろ!」

 「そうですかね? 信兄さん。」

 二人で屈託なく笑う。そうこの歳になってまで私達は走りに走り続けてきた。それがどうしてこんな事になってしまったのだろう? 休暇の後、私は自らの身代である海軍を潰す。山本閣下からそう依頼を受けた。今思えば日露の幕閣に連なる諸先輩方が何故これほどまでに先の見据えた戦いをしてこられたのか、閣下から直接伝えられたのだ。

 
『橙子の史実』


 未来が見える、いや見えなくとも想定でき、それを実行できる力があれば戦などどう足掻いても勝負は見えている。私達が一代の大戦と覚悟した日露戦争、上の方にとっては唯の出来レースに過ぎなかったわけだ。自分の人生は何だったのかと考えるだけ馬鹿らしくなる事実……しかし、


 「我等は最後の最後で間違った。彼女の正体を見誤り、列強の本性を見誤った。それがホーフブルグ講和条約の結果だ。」


 山本閣下の言葉が突き刺さっている。この国は安全と引き換えに未来を失ったのだと。


 「淳五? 糸曳いてるぞ。」


 我に返り慌てて釣りあげようとするがもはや手遅れ、餌を魚に持って行かれ針だけになった仕掛けを目にして口を半開きにした。しっかりせい! ボケる歳ではなかろう!! と信兄さんに弩突かれてしまう。溜め息をつき再び仕掛けを海に垂らす。それがいけなかったのだろう。信兄……家の外では誰もが英雄と呼ぶ【秋山好古】が尋ねてきた。


 「…………やはり家を出るつもりか?」

 「はい、信兄さん。やはり秋山の家が海軍を潰したとなれば世間は大荒れです。兄さんが陸軍少将なら尚更、恐らく一族全員に類が及びます。」

「何故そこまでする、主が言うのは40年も先の話だろう? 40年後は子や孫に任せられないのか??」


 冷たく笑う、自嘲を混ぜて。それが出来れば…………


 「海軍も陸軍も平時は軍人でなく役人に過ぎません。そしてこの国の役人は兎角、己の権勢を拡大しようとする。今凹ませなければ際限なく軍組織は肥大し、敵を求めて右往左往するようになるでしょう。その先は世界全てを相手にした戦争の挙句、国家亡滅です。」


 閣下から聞いたあらまし、断片的でも解る。おそらくあの乃木閣下の御孫嬢は『その時代』を知っている。そして御国がこのまま破滅の坂を転がり落ちていくのだと。


 「まさか松山22連隊が城山に立てこもるとは思わなかったからな。佐幕と倒幕、眉唾物の話とは思ったがまさか御国がこんなことで割れるとは思ってもみなかった。」

 兄さんの苦い顔は説得に当った時の彼らの血を吐くような叫びだろう。『乃木閣下の御親兵』とまで揶揄された第11機動尖兵師団、その中でも最大の功績を立てた松山尖兵22連隊は功労者どころか『佐幕の虐殺者』の汚名を着せられたのだ。連隊長自ら檄を飛ばし城山に連隊主力が立てこもったのを同師団の善通寺、丸亀、徳島、高知の部隊が取り囲み皇軍相討つ戦になりかけた。兄さんが割って入らなければ最強師団が松山で市街戦を行うという御国史上最悪の事態になっていただろう。


 「だからこそ誰かが悪者にならねばならないのです。乃木閣下しかり、私しかり。家族の事も考えましたがこの国と比較にはできません。命は絶対に獲らせんよと閣下も言われましたし。」

「どれぐらい減らすのだ?」

「戦艦4隻、一等巡洋艦4隻、総数30隻以内、他は全て廃棄です、いわば広告塔海軍ですね。陸軍は9個師団以外はすべて解体、この中には近衛も入っています。」


 ここまでは最低限ですね。と言葉を添える。


 「だから家を出るか……海軍の半分、陸軍の三分の一、俺に刺されても文句が言えんな。」


微笑む信兄さん・秋山好古に私は答える。


 「勘弁ですよ。しかし周りに敵がいない、いや敵として扱える国家がいない事を考えればこれでも多過ぎです。だから山本閣下は逃げ道を用意してくださった。家門断絶した千早男爵家を継いで欲しいと。」


 己に確認するよう私は言葉を発した。


 「だから私は千早真之になるのです。」


 私達が夢見た雲は坂の上に無かった。あるのは断崖絶壁と山上を朧げに霞ませている、その上に雲はあるのか? そう思う。それでも松山の空は何処までも高く青かった。






 あとがきと言う名の作品ツッコミ対談




 「あーあーあーあー…………やっちまった。この作者とうとうやっちまった。」


 どうしたとーこ? ども、作者です。とーこが8話来てからあんな調子なので挨拶は私からさせていただきます。


 「そうじゃなくてどうすんのよコレ!! 本当に橙子とあの陛下を絡めちゃうなんて。実際SSは愚か商用作品でも陛下持ち出したとしても背景扱いとか徹底してぼかすのにこんなにガチに組んじゃって! それも視点まで与えて!! 大帝陛下研究している人はいくらでもいるんだから袋叩き確実よ!!! どうしようどうしよう(オロオロ)


 でも最終的に入れないとじーちゃまの性格再構築は不可能という結論になった。状況的にも読者を納得させるためにもね。大立ち回りについてはかなりできるかどうか前後の状況を推敲して誘導したし陛下の視点では本気で4冊くらいハードカバー本を読んだ。それでもまだ自己採点で60点位だね。


 「でもさー最後の贈り物についてはワケ解らないよ。なんで橙子宛てでもじーちゃま宛てでもなくなんでパパ宛てなの?大帝ホ○じゃある、アィタッ!なぜ拳固で? 痛いイタイッ!!(制裁が行われております。しばらくお待ちください)」



◆◇◆◇◆




 ども再会します。まったくウチのとーこが某ドイツ誌並みのアホを露呈しましてお見苦しいところをお見せいたしました。(土下座)


 「だってぇ……文章見ただけじゃそうとしか取れないよ。いったいどうなっているのかちゃんと解説してよ。」


 全くちゃんと権威と言うものを勉強しておけよ? そもそも乃木橙子の社会的立場はなんだ?


 「えっと……公的な立場の事だから霧の事はオフレコになるよね? そうなるとじーちゃまの孫娘(ただし養孫)日本陸軍のとある事情で日露戦争に従軍した記録あり。くらい?乃木家としてはこのころ伯爵号を得ているから華族なんだけど大日本帝国の華族制度で女性の叙爵は論外だから基本結婚までは令嬢扱いてな感じ?


 でも父親が死んでいるからその点で系脈が一時的途絶しているよね?つまりは元華族程度の平民として扱われる。そんな一個人に陛下から御下賜があったらどうなるよ?


 「へ? だって今でも園遊会とかで陛下の前に有名人が出るたびに御下賜あるんでしょ? その程度なら…ヤダ! もう殴らないでよ。ちゃんと勉強するから!!」


 まったく……まだ日本国と大日本帝国をごっちゃにしているな? ホーフブルグもそうだけど昔の常識を勘案して答えを出さないと歴史小説の重さは表現できないよ? まぁ隣国がその筆頭だから無理もないか。


「そこはかとなく毒入っているわね。」


 じゃ毒抜きで行こう。現状陛下から橙子宛てで御下賜があったらエライ事になる。いくら幕閣のじーちゃまが居ても息子たるパパではなく直接面識のない橙子に御下賜があったら神祇省(現宮内庁のような官庁)が要らぬ誤解が巻き起こる。何故に特別視? という疑問だね。


「???」


 もっと簡単にいこうか。今橙子宛に御下賜が届いたら陛下はほぼ無関係な橙子を家族として認識していると公言するようなものだ。これの意味するところは?? ついでに言えば御嫡孫たる裕仁親王殿下は橙子の2歳年下だね。


 「ま……まさか…………」


 御婚約おめでとうてな話になるよね? しかもじーちゃまは無二の忠臣にして日露戦争の功労者、父親は戦争で死んだとなれば埋め合わせには十分すぎるほど


 「まってよ! ちょっと待ってよ!! そんな馬鹿な話って無茶苦茶だー!!!」


 糠慌てで安心した?(ニヤリ)そういう事なのさ。日本国と違い大日本帝国の御下賜の意味はそれほどまでに重い。でも陛下としてはこの危なっかしい娘になんとでも枷を付けてヒトとして生きていくよう仕向けなければならないのさ。出来なければ大日本帝国滅亡どころか世界が崩壊する。だからこそ橙子の心を真心によって繋ぎ止めなければならない。その為の御下賜であることを強調したかった。


 「でもそれが何故パパ宛てになるのかすっごく不明??」


 では何故か想定してみようか? これがじーちゃまだと完全に意味不明だよね? ではパパならば? 当然今回乃木勝典の戦死については脚色された上で報道されてる。なにしろ高野君という格好の証言者がいるから必要な処だけ使って「英雄の息子はやはり英雄」という宣伝になってじーちゃまの株も上がる。でも長男を無関係な場所で死なせてしまった海軍の立場は? そしてその責は間接的かつ不可抗力かつ議論外とはいえ陛下にも降りかかる。なにしろ裏の事情を知っている人間から見れば良い政治的攻撃材料だ。陛下としてはこれを何としてでも納める必要もある。だからこそ戦死したパパ宛てに御下賜を行ったのさ。


 「(猛烈に考え中)えーと、表向き御下賜品が何か分からないからパパに与えられたという点だけ見れば功労者たるじーちゃまへの陛下の御見舞となる。でも中身の解るじーちゃまにとっては本当の送り先がパパやじーちゃまではなく橙子であることを自ら悟るようなモノであれば陛下の真意を伝えることができる。それによって橙子の狂気に近い暴性を抑え込む……これで合っている?」


 よくできました。だからこそ女物の飾り紐なのさ。それにこの品には作者としてもう一つの意味を持たせてある。橙子というキャラを構築した作者としての悪戯にして橙子の成長を多角的にみる一つの材料としての事柄に通じるようにね。


 「??? 次話のプロットね。どーせこの作者ロクな考えしてないだろうから作業部屋の資料漁ってみよう。で……まさか最後が坂の上のエンディングですかい。普通に見ればなんのこっちゃ? だけど出ている人物さえ分かればトンデモな事態ね。ファンから叩かれかねないわよ?」


 まぁ仮想戦記でもあるからその点は許していただく。司馬大先生には第4章の題名をリスペクトしていただくことにしているしね。彼ら2人の今の心境こそ原作準拠の仮想戦記である【坂の上】からすら大きく狂ってしまった時代を表現する良い例と思って書き加えたのさ。


 「でも千早ってアルペジオのあの千早??」


 「そ、でも千早家そのものはこれからも復興と断絶を繰り返すことになるからアルペジオの主人公たる千早群像、そのパパたる千早翔像とは別人となる。でも彼らに繋がるものを構築しようと考えているから全く関係のない話じゃないよ。


 「壮大ネェ(呆)さてと此処まで大風呂敷広げたし2部の状況は?」


 うんにゃ、何も書いてないプロットすら材料だけの状態


 「ならその大法螺を初めに何とかしろー(怒)」


 (轟音と悲鳴が交錯)



押して頂けると作者の励みになりますm(__)m


<<前話 目次 次話>>

作品を投稿する感想掲示板トップページに戻る

Copyright(c)2004 SILUFENIA All rights reserved.