闇夜の中、孫が用意した十機余りの2型大艇に続々と人々が乗り込んでいく。桟橋から大艇に人が移るたび鰹節の異名の元である波消し装置から泡が漏れ、其の音のみが微かに響く。ようやく全員が乗り込むと発動機が点火され轟音と共に桟橋から列機が離れていく、最後の機体、儂等の機体が桟橋から離れる時、孫は隣の席に話しかけた。

 「真瑠璃ちゃん、いおりちゃん本当にいいの? わたしはどうにでもなるけど下手すれば学院を退校させられちゃうんだよ?」

 「大丈夫、もう父様も母様もいないから。丁度山県家のお手伝いで椿山荘にいて……。」

 「ご……ごめんね、私が。」

 「いいのよ。橙子ちゃんはしっかり前を見て、私が後ろは見ていてあげるから。」

 「私を忘れてない? 湿気た門出じゃみんな悲しむよ。ほら外見てみんな手を振ってる答えてあげなきゃ。」

 「心配なのはいおりちゃんも一緒! 学院飛びだしたら御父様や御母様に迷惑が。」

 「とともかかも言ってた。お前が何をすべきか自分の目で確かめてこいって。顧問官先生がいう世界に通用する人間を見て来いって。……だから後悔しない。自分の目で世界を見たいんだ。それにね……橙子ちゃんも真瑠璃ちゃんも狡いんだぞ! 何度も何度も欧州に行けて私だって見てみたいよ!!」

 「「もう!!」」


 本来“第二次大戦型の飛行艇”では着くことすらない【室内灯】をつけ孫達が手を振っている。桟橋で手を振る複数の黒い影に答えているのだろう。彼女達にとっては新たな門出、儂にとっては今生の別れか。
 発動機の回転が上がる。24トンもの巨体が“原形機”の形をしながらそれを遥かに凌ぐ3000馬力もの発動機4基に牽引され凪の海を疾駆し始める。そして離昇、眼下の昏い東京湾を旋回する。未だ日は昇らず御国は闇のまどろみの中、今の御国とトラキア、闇が深くなる夜明けの前に儂は何を行い、何を遺すべきなのか?……考え続ける。





―――――――――――――――――――――――――――――



蒼き鋼のアルペジオSS 榛の瞳のリコンストラクト
 

第四章 第8話







 操縦席と客室の間、僅か10尺に満たない小部屋で孫と密談する。僅かに2つの隣り合う座席が在るだけだが、儂等にはこれで十分だ。電脳空間が儂等の榛の瞳に映し出されありとあらゆる情報が開示される。こんな小部屋が陸軍参謀本部すら凌ぐ指揮中枢と化すのだ。もちろん対象は虎騎亜、今世の第一次バルカン戦争――いやすでにバルカン大戦と化した戦場を映し出している。
 窓の一つは陸軍戦力対応表。勿論空中4000米の寒気を遮る断熱ガラスの窓では無く、儂の瞳の中に作られた情報開示の為の窓のひとつ。字も絵図もあり己の視線で文字まで記入できる。未来こんなものが平気で使われるのならば筆も硯も帳面も屑籠行きだろう。それに視線を移す。
 トラキア、征京に旅団が4つ、連隊・大隊規模の傭兵隊が4つ、テッサロニキ総督府に機械化連隊と工兵隊、ストリモン河上流からテッサロニキへ駆けもどってくる機械化連隊、そして各地に分散して警備大隊8つ。合計三万五千――シンガポール沖の遣欧軍第一陣五万や、さらに後ろ呉や佐世保の第二陣五万はまだ考えるべきではないだろう。――これが欧州領の全兵力になる。
 隣の窓枠にあるのは友邦トルコ軍の状態だ。イスタンブールに皇帝師団が3つ、ブルガリアとの最前線エディルネに青年トルコ党の義勇旅団が1つ、その他有象無象の総督の兵力が散らばっている。総数六万、オスマントルコ全体を見れば兵力だけでその10倍にはなろうが今回のバルカン大戦で使える兵力はこれだけだろう。
 対する窓に視線を移せばそれが今度は拡大される。セルビア・ギリシャ・ブルガリアのバルカン同盟軍の陣容。此方の方が遥かに陣容は重厚だ。総数70万とも言えるがこれは後方で補給や運送を行う軍属も含めての話。戦闘部隊だけなら40万程度に下がる。
 先ずはセルビア、ラドミール・プトニック総参謀長直率のセルビア第一軍、第三軍で6個師団、マンネルハイム傭兵将軍率いるイバル河沿いをスコピエに向かって駆け降りてくる師団規模の先鋒部隊、その他含めて総数15万となる。
 次にギリシャ、個々の部隊は戦争における戦術単位【師団】に及ばぬ旅団や連隊ばかりだが数が多い。ギリシャの地勢は複雑故、小さな部隊を在る時は分散させ、またある時は合流させる。分進合撃を行いながらテッサロニキに向かい北上してくるようだ。総兵力は8万
 最後にブルガリア、国土中部にあるプロヴティブという街に集結しつつある兵力はなんと10個師団20万、他にもトラキアの西端ストリモン河沿いに南下した1個師団があるがこれは中途で部隊マークにバツ印が付けられている。軍の状態表で部隊に斜線が引かれていれば全滅判定と言う進撃不能状態、さらに逆の斜線が引かれバツ印になれば壊滅判定という戦力外状態と言う意味だ。


 「ひとたまりも無かっただろうな。」  思わず口にする。

 「ブルガリア・ロドピ軍集団の事ですか?」 


 橙子が儂の視線を察して壊滅した師団を拡大して見せる。壊滅した師団の前面に小さな堡塁のマークとトラキア独立歩兵大隊のマーク、つまり、この師団はその規模で十分の一にもならない歩兵大隊に新聞記者が大袈裟に書き立てる『皆殺し』にされたのだ。


 「隊列を組んで接近すれば機関銃に薙ぎ倒される。砲兵で直接射撃しようとすればパンツアーファウストが山のように飛んでくる。彼等にしては最新技術の間接砲兵射撃すらHe123(さぎ)が急降下爆撃を仕掛け砲列を並べる前に粉々だ。」

 「散兵を作り浸透攻撃まで行ったようですね。所詮ボルトアクション小銃では無意味な足掻きでしか在りませんでしたが。」


 そう、強固な陣地を攻撃する手段は何も正面攻撃とは限らない。少人数で忍び込み歩哨を殺し、陣地の一角だけを占拠、相手に気づかれずにこれを繰り返して陣地と言う堤防を決壊させる。これが“第一次世界大戦”で芽吹き“第二次世界大戦”で電撃戦という理論に結実した浸透攻撃という戦術だ。しかしこれには決定的なまでのハードルがある。

 浸透した歩兵が相手を短期間に制圧できる大火力を持つ事。

 これを鑑みれば何故今世の日露戦争で旅順が陥落し、今戦争の1堡塁に1個師団が返り討ちにされたか解るだろう? 熟練者でも分間8発程度の射撃しかできないボルトアクション小銃を持つ兵が分間700発もの機関銃、最低でも分間30発の機関小銃、10秒たたぬうちに内蔵弾倉を空にしてしまう機関拳銃の前で何をしろと言うのか。
 『橙子の史実』では今回のバルカン戦争に対応する第一次バルカン戦争にて三国同盟軍、オスマントルコ軍の動員兵力は70万対31万、これならトルコ軍が敗北しても致し方が無いだろう? 現在の戦力比は実戦力で45万対10万弱、同盟軍にとって数だけなら史実以上に分が良い。しかし今頃同盟軍、特にブルガリア軍首脳部は頭を抱えている筈だ。戦力比が10倍以上……これでは戦争にならないと。ブルガリアが総力を以って動員した20万の兵力は日本人にとって2万の価値にしかならないと。彼らとて初めから分が悪いぐらいは知っていただろう? しかしここまで分が悪いと兵士達が戦う前から士気阻喪しかねない。しかし兵士を集めて『勝ち目が無いから講和します。』では良くて政変、悪ければ内乱だ。……だから進むも退くもできなくなったブルガリア軍首脳がどんな判断をするのかは手に取るように解る


 「敵側作戦想定図を展開します。」


 各陣営の部隊表が横に並べられ、中央にバルカン地方、それもマケドニア全体の地図が投影される。勿論図面は儂と橙子の瞳の中、外は殺風景な小部屋と窓の外にある雲海だけだ。
 マケドニアを三方から挟み取る様にセルビア、ギリシャ、ブルガリア軍が進撃してくる。トルコに属するマケドニア軍、ヴァルダル軍、トラキア軍は各地で敗走を続け北部の中心都市スコピエをセルビアに、南部の中心都市テッサロニキをギリシャに、
西部の重要都市エディルネをブルガリアに奪われる。勿論トルコ本土アナトリアには50万近い兵がいる。これをエーゲ海を渡海して投入すれば戦局は簡単に逆転するだろう? しかしそれが出来ない。

 ギリシャ海軍

 『橙子の史実』による“大日本帝国海軍”やそれを破滅させた“亜米利加太平洋艦隊”の威容に比べれば屁のような規模でしかない。それでもまともな艦艇を持たぬトルコ海軍にとっては最悪の海魔(リヴァイアサン)だ。現に図面に表示されエーゲ海を渡ろうとするトルコの輸送船が次々とギリシャの戦闘艦に襲われ沈められる。日付がめくられるたびにアナトリアを出港する輸送船は減り続け最後1913年5月30日、ロンドン講和条約が結ばれる。トルコはバルカン半島の九割もの領土を三国に奪われると言う惨澹たる敗北である。これが『橙子の史実』で言う現実だ。
 現在は史実で言うなら開戦1ヶ月後といったところ。おおむね想定通りの戦況は動いている。史実で二度にわたり祖国防衛戦を勝利に導いた防衛戦の名手マンネルハイム将軍の急進撃には驚かされた儂だがそれだけだ。まだバルカン同盟軍の主力は自国で集結中、逆に欧州領軍とトルコの主力軍は臨戦態勢に入っている。これだけでも我等の優位なのに、海の上では欧州領所属の海軍が宣戦布告を受け活発に動いているのだ。確かに我が欧州領海軍は少ない、戦艦三笠に巡洋艦が3隻、吹雪級という大型駆逐艦が4隻に水雷艇と砲艦が10隻足らず。先だって欧州領入りした移民船団に付いて来た増援を合わせてもこれだけしかない。今度の増援に混ざっている薩摩級二隻を欧州領の人々か心待ちにしているくらいだ。だがこの僅かな戦力、その全てが牧羊犬すら噛み殺し家畜を手当たりしだい襲う餓狼だ。既にギリシャ海軍の巡洋艦1隻、商船を改造した仮装巡洋艦4隻を沈めギリシャ輸送船や貨客船を10隻余りを拿捕している。御蔭で今世のギリシャ護衛艦艇はどの船が狙われるのかと東奔西走の挙句、疲れ果てたところを三笠に襲われる羽目になる。三笠にコアユニットの一人が遥かな高み(うちゅう)から逐次エーゲ海全域の情報を送っているのだ。海軍最高の作戦参謀としては詰まらぬ戦にしか思えぬだろう。向こうは此方を知ることが出来ず、此方は向こうの全てを知ることが出来る。いや彼には今だけと釘を刺しているからギリシャ海軍の決戦兵器(サラミス)への対策を練っているかもしれんな。


 「概ね想定通り。しかしどういうことだ? このマークは。」


 エーゲ海に浮かぶ一隻の艦艇を凝視する。イタリア王立海軍所属アマルフィ(にっしん)


 「個人的信条により大日本帝国欧州軍に参陣する、とのことです。欧州軍司令部としてもイタリアまで敵に回す等考えられなかったようでエーゲ海で警戒任務に付いてもらうよう取り計らったとか。」


 何とも呆れたものだ。既に列強は弩級戦艦の建造を進めているとはいえ第一線で使える主力艦を個人名義に書き換えて御国の戦国の世である『勝手働き』を始めるとは。当然彼等の衣食住、それにアマルフィの維持は欧州領が行わねばならない。いったい彼等は何のつもりで、と思い当たることに気づいた。


 「彼らの目的は政治的宣伝か。」

 「?」


 今それをした今儂と状況と情報を交換する橙子だけでなく孫の“橙子”も同じように首を傾げただろうな。ここに小村君がいたらまた『御嬢ちゃん』と叱責が飛ぶだろう。ニヤリと口を歪め続きを吐きだす。


 「考えてもみよ。儂は26日にオーストリア・ハンガリー帝国がドイツ領シュレージェン地方に侵攻すると判断した。普墺戦争の意趣返しとすればその対象はプロイセン王国を受け継ぐドイツ帝国に返すのが筋だろう。それが何故かオーストリアは普墺戦争で負けなかったにも関わらす奪われた現イタリア領ヴェネト州に攻め込んだ。しかもオーストリアは本来抑える筈のセルビア王国を放置している。イタリア王国の狙いは我が大日本帝国欧州領に媚を売って儂を動かし、バルカン同盟軍撃退の折にはセルビア側とアドリア海沿いに御国の軍や艦隊を動かさせオーストリアに圧力を掛けさせるつもりだろう。そして内面かつ当座の対価としてタソス島から一層の武器援助……しかも無償供与というカードを引き出そうと考える筈だ。」


 驚愕したように橙子が榛の瞳を見開く。そうこの戦争は故意か偶然か欧州中の領土争いと連動している。オーストリアがイタリアを攻め、其のイタリアがフランスを攻め、さらにそのフランスがドイツを攻め、そのドイツはロシア難民を力づくで排除しようとする……アメリカすら苦境に立つドイツに援助と言う名の参戦という秋波を送っている。勿論ドイツ植民地に軍艦を派遣すると言う恫喝を含めてだ。更にはオランダがベルギーにフランデルン地方の帰属をめぐって軍を動かし。デンマークは同じ北欧のスウェーデンのしかも本土に300年前の因縁をつけ軍を集める有様、もはや領土争いという名前すら生ぬるい。

 
欧州戦国時代
     

 
御国の軍記物ではないが其の方がしっくりくる。


 その中で最低年間12個師団の陸軍兵器を生産するトラキア――いや、橙子の兵器生産能力を無視はできない。イタリアは攻め込んできたオーストリアにヴェネト州で優位に立っているもののフランス・ニース地方への侵攻は芳しくない。海上をフランスに抑えられ、アルプス沿いの困難な陸軍移動によって五倍差もの兵力を投入しながら国境から数キロメートル前進しただけという情けない状態なのだ。少しばかりの外交的優遇で数個師団分の兵器が得られると考えるならば安い取引とイタリア政府が考えるのも無理は無かろう。いざと言うときは派遣した部隊は見殺しでも構わないとすら思っているはずだ。喩えアマルフィの乗組員が本当に義挙や親日本で起ったとしてもだ。


 「人間はそこまで戦争にのめり込むモノなのですか?」


 儂の推論を聞き“橙子”ではなく橙子の思念が伝わってくる。自己の存在すら、いや自己の集合体である国家ですら切り離しゲーム盤に乗せてしまう。彼等コアユニットの人間評は『有限のモノ』に過ぎない。自己保存本能すら度外視してたかが概念にのめり込む人間に不気味さすら覚えるのかもしれんな。


 「戦争は人間の最も優れた芸術と吼ざいた莫迦がいたそうだ。それは在る意味正しい。強者と言う人間が最も価値ある存在にならんとありとあらゆるモノを戦神の天秤に乗せる……そして勝者も敗者すら気づくわけだ『自分は何を得たかったのか?』とな。其処に不満が生まれ再び戦争と言う愚行に走る。救い難いと思うか?」

 「…………それでも人間は戦争のたびに一歩を……そうですか、やっと次期総旗艦が言った意味が理解できました。『限界を持つ不自由なものだからこそ、それを克服するために思考し、至高へと達する。』」


 ほぅ、彼等の上役、其のさらに上の存在はそんな人類評をしていたのか。今の言葉から推測するに橙子の上役はそれに懐疑的だったと見るべきだろうな。


 「儂等人間がやっている事は愚行に愚行を積み重ねているに過ぎぬ。しかし戦に()んだごく一部の人間達は平和という御題目を唱え始める。それ自体は何を変えるという事は無いが、世の政府は彼等に押されてより犠牲の少ない戦争、より効率的な戦争を心掛けるようになる。故、戦争は極小化し人死には減り、経済・政治・科学で争う事を始める。」


 
「そして人類のステップは次の段階に移行する。故に我等は現出する。」



 唐突に代った口調、橙子の真の主の言葉に瞑目する。我と呼んだ【統括記憶艦】がいた世界は恐らく彼の眷属達によって滅せられたのだろう。人類が霧を知らなかった故に。霧が人類を短絡に捉えたが故に。双方の失態による人類滅亡という悲劇、繰り返してはならぬ。それはさらに言葉を紡ぐ、


 「乃木希典、貴官は知っておくべきだろう。この世界の霧は既に己の統合体系を分割競合させることを策定した。既にこの時点で二つに分割されている。一つはこの世界に存在していた知性体監視機構【人類評定】が中核になる。そしてもう一つは…………。」


 思わず目を見開く。そう霧が己の存在を表現した事に。橙子の話では主がこの世界に流れ着いたことで人類評定が『橙子の史実』より早まった事を聞いた。しかしそれはあくまで霧の内部情報でしかない。それを直接話した。そしてそれ以上に今の言葉……


 
「儂等に味方等いない。……そういう事か。」


 
「欲しければ己で創り上げろ、人間。」



 孫の姿形(なり)で此奴は嗤った……そんな気がした。





―――――――――――――――――――――――――――――







 「全車エンジンコンターック! 各小隊長応答せよ!!」

 「第二小隊全車稼働状態! 既に前面に展開しつつあり。先鋒はお任せあれ!!」

 「第三小隊七号車駆動軸連動不調のまま潤滑油漏れが止まっておりません。その他はいけます! オィ七号車長、後で部下全員並べとけ!!」

 「第四小隊、十一号車より先ほど連絡、泥濘より今抜けだしたとの事。十二号車、支援車共に今から追尾するとのことです。」

 「支援小隊より四小隊へ、とっとと支援車を返せ。向こうで負傷兵何人出ているか見当がつかんのだぞ!!」

「五月蠅ェ! この前の借り忘れたわけじゃねぇだろうなァ!?」


 クッソ浦上中佐殿め! 何が『戦車隊を宜しく頼むよ新任中隊長殿』だ!! 橙洋も橙洋だ。戦車隊は戦車隊でもその皮を被った愚連隊じゃないか!!!
 幸運と初めは躍り上がって喜んださ。士官学校生がいきなり御国最精鋭兵科である戦車隊の中隊長だ。中隊長は本来なら大尉が勤め、状況ではその上の少佐が勤めることすらある。実際中隊内での挨拶の時、中隊全員集めて就任の挨拶――臨時だし本当に挨拶と点呼しかやらなかったが――した時は心が躍ったくらいだ。
 だがその数秒後にエリート部隊というイメージは欠片も無い程に吹き飛んだ。先任たる特務少尉の『課業始め』の言葉と共に彼等中隊全員が飛び乗ったのは戦車ではなく……耕運機と土木機だったのだ。
 口をパクパクさせる僕の隣で直属の先任士官、なんでも奉天で橙洋の伯父さんの部下を勤め今このマケドニアに猛然と攻め入ってきているマンネルハイム将軍と戦った事もあるそうだ――口ぶりからして胡散臭いが――その特務少尉が言うには。


 「機械を扱える欧州人なんてそう多いわけじゃないですぜ? だから用水路の建設、民草が耕す畑の拡張、皆我等戦車隊の『課業』です。いわは開拓のエリート! 」


 頭を抱えたくなった。軍務としての訓練なら当然だし、民から依頼されれば警備や山賊の討伐を担う、此れも解る。だがそれら全て放り投げて毎日畑仕事だと!? しかし僕まで強制参加の上、先任に嫌味まで言われながら課業が終わり飯時になると其の理由が解った。
 軍用の献立ではなくここで暮らす農民や牧夫達の心づくしの飯、徴用?と訝る僕に彼等は『用水路を引き、畑を増やしてくれる親衛隊と神に当然の感謝をしているだけ。』と正教会の礼で返された。
 いわば僕達はトラキアにおける平安の御世の悪党、鎌倉武士の奔りなのだ。農民と共に働き、衣食を分け合う。一朝事あらば軍服という鎧を纏い、機関拳銃という刀を帯びて鋼鉄の駿馬(せんしゃ)に飛び乗る。それがこの国にとっての軍人なのだと。
 だから飯を食ってからが本来の意味での課業。農村から離れた演習場で毎日繰り返される猛訓練の嵐。そして泥のように眠って夜が明ければ再び農村にとんぼ返りだ。
そんな毎日を過ごしていた僕にテッサロニキの司令部から伝令が来た。総員出撃の命令に驚いたくらいだ。なにしろ此処はスコピエから数キロしかないギリシャ系の農場。戦争がはじまったとき司令部では『時間を稼ぎつつテッサロニキまで後退、持久戦で応援が来るまで待つ。』と命令が下っていたからだ。それを覆すように浦上閣下から下された命令。『第27独立戦車中隊は只今を以ってサロニカ司令部直隷とし支援部隊を以って北上、友軍を救出せよ。』
 確かに敵方セルビア軍の突撃部隊が急速に南下しているのは聞いた。しかしそれにしたって限度があるだろう。セルビア国境からここまで200キロメートルは在るんだぞ!? 我が欧州軍なら2日の距離だがあの時代遅れなセルビア陸軍歩兵師団じゃ1週間はかかる。


 「中隊長殿? 硬くなるのは良いですが頭まで石頭は勘弁願いますぜ。同期の死に怒るのは当然ですがアレはそうなっても仕方ねぇ。」

 「解っている。軍紀に照らしても兵棋に照らしてもあいつはドジを踏んだのは事実だ。だが問題はアイツのせいで橙洋が死地に居るってことだ!」


 僕と彼、そして増強中隊まで拡大した部隊が先ほどの村で絶句した光景。丸焦げになった避難民支援施設、破壊された軍用車両、泣き叫ぶ女子供と僕達に怒りの矛先を向けた男達。掻い摘めば敵の浸透を許し、支援施設内で暴れられた。この時点で気付いた筈だ。浸透突破で最大の効果を上げるには敵指揮官を殺害または捕虜にし指揮系統を破壊することだと。恥も外聞もなく逃げるべきだったのだ! 
 しかし奴はそれが出来なかった。後方に回されたことで鬱憤が溜まったのかもしれないし、民草相手に支援任務など軍人のすることではないと矜持が先に出たのかもしれない。もっと単純に同期に逃げた等と言われたくなかっただけかもしれない。

 故に奴、富永恭二士官候補生は戦った……民衆を巻き添えにして!!
 
 しかも、あっさり殺された。生き残った兵から聞いた話では仏の首がナイフで掻き切られていたそうだ。夜戦であるのに周囲を警戒しない人間の末路のひとつ。橙洋は気に入っていたし士官としては優秀だったが……根本的に戦が殺し合いの延長である事を知らなかった故だ。戦場に出してはいけない人間の典型。そいつがトラキアにおいて生きていないと困る人間、石鎚橙洋士官候補生を窮地に追いやっている。ますます顔が頑強(こお)ばるのを見とがめたのか先任が言いだした。


 「怒ってどうなるもんでもないですぜ。それに言っちゃなんですが石鎚候補生は使える莫迦です。引き際くらい知ってるでしょう? チラ見でしたがありゃ確実に乃木閣下の血ですな。あぁ、親子じゃなくて軍隊における筋ってやつなんで。」

 「そいつを橙洋に言ってみるんだな。半年は口を訊いてくれんぞ。」

 「そいつぁ勘弁!」

 土煙が丘の向こう側から上がっている。始まっている! 橙洋率いる警備中隊が遅滞戦闘を行っているんだ! 其の10キロメートル程先に連隊規模のセルビア戦闘団が居ると連絡にあったのだから少なくとも増強中隊規模で大隊級またはそれ以上の敵を相手にしてるってことだ。時速30キロメートルの一号戦車甲の戦闘速力が恨めしい。例えそれが列強屈指の速力であってもだ!!


 「トラキア臨時司令部所属観測隊より27中隊、そちらより2km北西にて欧州軍とセルビア陸軍の交戦を確認、セルビア陸軍は歩兵2個大隊、騎兵砲兵を中隊規模で伴う。欧州軍は前衛に2個中隊相当を薄く展開し直属部隊を温存している模様。」

 「オイ、観測だかなんだかの部隊! 橙洋はまだ生きているのか、返事しろこの野郎!!」


 時折通信機に割り込んできている声だ。女の声から謀略とも疑いたくもなるが浦上閣下より通信機が勝手に女の声を受信したらその言葉は真実と受け止めてくれ。と言われている。だからここまで来れたし、あの村の惨状も放置して急行したんだ。
 低い丘を戦車が昇り終え、眼下に戦場が見渡せる。薄く鶴翼に展開し崩されかけながらも奮戦する友軍。中央で屍山血河を築き壊乱しかけている敵歩兵部隊、右翼でこればた四分五裂で逃げ出している敵騎兵に敵歩兵に向かって逆襲している一群……

逆襲!?
 

 瞬時に頭で戦況を確認、命令を怒鳴る。


 
「中隊全車、逆襲部隊に合流、援護せよ! 戦車前へ(パンツァー・フォー)!!」




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