あぁ、滅茶苦茶に怒られた。星野から『御めぇが先頭に立って靖国逝ったら周り全員どうなると思っていやがるんだ!』と言われたし浦上閣下からも『石鎚候補生は部下に任せる器量を身に付けるべきである。』と言われた。鉄拳が飛ばなかったのは士官候補生としては妥当な判断だった……と言うだけにすぎないんだろうな。


 「で……一個中隊で連隊を潰した我等が若殿はこれからどうなるんで?」

 「それを言うなら助けに来た挙句。テッサロニキ市に付くまでに戦車全部御釈迦にしたエリート大尉殿はどうなるんだ?」


 星野が笑い、俺も顔が綻ぶ。双方脇腹に拳を押しつけて軽くド突く。振り向くと……やってきたな。軍人ばかりの施設に場違いなフロックコートや背広の集団。浦上中佐殿の『戦はまだ終わっておらん。乃木閣下の如く最後まで戦を終わらせてみよ!』、その言葉通り御国や外国人記者の前で英雄のフリをする。それを以って俺は己の初陣を終わらせる事が出来るのだ。






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蒼き鋼のアルペジオSS 榛の瞳のリコンストラクト
 

第四章 第9話









 一個中隊で一個連隊相当を撃破! たいしたものだ。それもこのトラキアに来たばかりの士官学校生がやり遂げたというのだから驚かされる。なんでも日本帝国陸軍にはかつてのショーグンの時代から続くサムライの血を連綿と受け継ぐ士官が多いとも聞いた。サヴォイア王家の近衛騎士が近代国家の識見とかつての貴種の誇りを併せ持ってイタリア王国将軍になるようなものだろうか? 我々記者(ブンや)が彼等に向かって駆け足で近づく――日本帝国では軍営においては民間人すら軍人と同じ規範に従う事が求められるそうだ。もちろん我等は従軍記者という扱いだから軍属、家鴨の子の様に先導者に求めるまま行動し質問せねばならない。
 理不尽? あぁ確かに理不尽だがそんなことはいつものことだ! そこからどうやって相手の本心を引き出し、記事にするかこそが記者の醍醐味ってヤツ。決められた質問なら相手の答えに連動するように再質問する。解っていながら習俗や常識の齟齬を盾にする。相手の感情を揺さぶり本音を推測する。日本帝国軍の担当参謀が『士官学校を出たばかりの新米故お手柔らかに。』と釘を刺してきたがそこで鉾を丸めては記者の恥というものだ。新米故に荒っぽい歓迎を受けるのは軍であろうと民間であろうと変わらない。
 崩れかけた農地の境の石垣に二人の青年が座っている。此方を見てすぐに表情を正したが、気づく前に楽しげに談笑していたことから同期の親友というヤツかもしれないな。片方は折り目正しく軍服を着こみ軍刀を肩にかけている。恐らくかれが連隊を撃破した英雄、そして隣の軍服をラフに着こなし軍帽の代わりに防塵眼鏡を額で釣っているのがその英雄を戦車隊で救出したアメリカ流騎兵隊長なのだろう?
 我々が近づく前にさらに隣の物影から一人現れた。思わず舌打ち、なんでこんな場所にイタリア王国軍士官がいるんだ! それも軍服から見て明らかに我等が祖国一の鼻摘み者軍警察(カラビニエリ)だぞ。こりゃしまったな……前の取材でジェネラーレに気に居られて調子に乗り、ここの司令官に一線を越えた発言をしてしまったのが響いているらしい。同国人だと温情など考えるだけ無駄だ。イタリア人、外に出れば笑って互いに蹴り落とし合う間柄だ。ノレガード編集長が拾ってくれて助かった。あのヘマでアヴァンティから追い出されて彼の大元、英デイリー・メールの日雇記者として拾ってもらったのだからな。
 誰よりの前に彼の前に立ちいつものポーズで発言する。突撃記者の勇名だけは捨ててたまるか!


 「英デイリーメール記者、ベニート・ムソリーニです!、此度の戦勝おめでとうございます!! 若き英雄に神の栄光あれ!!!」


 思いっきり軍警察士官――なんと彼らより上級の大尉――が顔を顰める。何と大袈裟なと呆れ返っているのだろう? 日本の若者に古代ローマ軍人への敬意の表し方等解るものか! とすら思う筈だ。2人はオリエンタルスマイルを浮かべそれぞれ自己紹介した。

 「トウヨウ・N・イシヅチです。」

 「トシモト・ホシノです。宜しくお願いします。」





◆◇◆◇◆







 随分大袈裟言葉を放ってきた新聞記者、要注意と一戸閣下からも言われている。だからと言って最初から排除するのは論外、公平を欠いた報道は新聞記者(ブンや)だけでなく新聞社、ひいてはそれが属する国家まで敵に回しかねない。温度差を持って接しるのが精々と思う。流石にこんな型破りな男に先鋒を任せる気などないのだろう。落ち着いた物腰の記者が前に立ち代表して質問を始めた。

 「先ずお答え願いたいのですが、どうして士官学校実習生が最前線で指揮をとることになったのでしょうか? そして対した軍勢はセルビアの精鋭との情報を我々も得ています。相対した感想もお答え願いたいです。」


 現状把握か、これはありきたりな答えで返す。


 「そうですね、今日本帝国ではどこの部隊も士官が足りません。先の戦争(にちろせんそう)で沢山の士官が靖国に逝きましたからね。今続々と若手士官達が学業から実戦部隊に配属されつつあります。僕等は其の第一陣、でもまさか訓練がいきなり実戦になるとは思いませんでした。セルビア王国軍は……軍機でもありますのでお答えいたしかねますが、ひとつだけ。彼等は決して愚将弱卒の群れではない。寧ろ良将強兵と感じました。ですが強いなら強いなりに戦い様があります。我が国の柔道の様に柔良く剛を制すれば良いのです。」


 通訳の言葉で記者達が驚き、顔突き合わせて頷き合うのを見て複雑な感情が駆け巡る。この会見自体、殆ど八百長と言っていい。既に隣にいるイタリア人憲兵士官であるロドルフォ大尉殿から何を質問され、どんな答え方をすべきか?きっちり教導されている。


 『記者が望む答えを用意しましょう。それを現場で推測できるようになったら一人前です。』


 いい加減な物腰の癖にそれが演技じゃないか? と思うくらい鋭い。先ほど記者達が見た光景も説得力になる。格闘訓練で大柄な外国人レスラーの腕をかいくぐり小柄な日本人柔道家が次々と彼等を投げ飛ばす。武器など無くとも日本人は身体強健な欧米人を地に這わせる事が出来る。当然大尉殿が用意した手妻だ。


 『日本人に欧州の常識等通用しない。この光景こそが諸外国に日本帝国と戦えば痛い目を見る……という抑止力に繋がるのです。軍人で在っても戦など無い方が喜ばしい。なにより平時は煌びやかな軍服を纏って、旨い物を食い、女にもてる!


 最後は余計だ! と思ったが、そこから俺は先程の最初の言葉を紡ぎ出した。今は士官が足りない。これは記者達も知っているであろう事実、しかしこれから日本列島から続々と俺のような士官がやってくる。当然兵士も……即ち若手の優秀な士官に率いられた強力な大軍がやってくると記者達に仄めかしたのだ。
 新米士官が口を滑らせたと記者達が思ってくれるなら好都合、新聞にでも俺の言葉が乗ればバルカン同盟軍の第五列(スパイ)は各々の国に御注進に上がるだろう? そうすれば彼等の軍中央は混乱する。先んじて攻撃かそれとも持久か?? 少なくとも意思統一の為、同盟軍内で会議を開く必要があるはずだ。その分時間が稼げる!
 本来軍の機密を嗅ぎまわる新聞記者すら味方に付け、利用してしまえ! 明石教官殿に候補生全員嫌という程叩き込まれたからな。多数決で毎日の便所当番を決められるから士官学校生全員が全員を敵として実地(がっこう)で情報戦やる破目になった。なんでも姉貴の話じゃ教官殿は日露戦争の折ロシアで情報戦をやっていたのだそうだ。今のロシアの惨状をみれば解るだろう。日本をひとひねり出来るはずの大巨人――ロシア帝国――が情報士官一人で国を潰されてしまったようなものなのだ。


 「しかし部隊後方に敵の浸透を許したとの話も在りますな。大分危険だったのではありませんか? 勿論秀英たる英雄達の前にはひとひねりだったのでしょうがね!」


 ワハハ、と笑い四角い顎で飄逸さが目立つ記者が割って入る。初めに俺達に挨拶し煽てて見せたムソリーニ氏という記者だ。大尉殿の話じゃ一戸閣下に厄介な質問を浴びせ閉口させた程の敏腕記者らしい。彼が狙ったのはこれか。己は煽てに徹し記者達の前で質問(ほんね)を言わざるを得ない状況に追い込む。煽てるのも透かすのも作戦の内か……すこし考えて安易な答えで済まそうと口を開きかけると先に星野が口を出した。


 「悔しい話ですよ。あそこで同期が一人、白木の箱になりましてね。橙洋が一番アイツに期待してたんです。軍大学に行ける秀才だと。アイツ前線勤務じゃないから慌てたんじゃないかと思うんです。無茶しやがって、さっさと逃げればこんなことには。」

 「よせ、富永を詰っても何も変わらん。逃げたくても逃げれなかったのかもしれないし、少なくともアイツは御国への忠義を果たした。それでいいじゃないか?」


 大尉殿の通訳を受けて周囲の記者達が沈黙する。ムソリーニ氏が背後から誰かに小突かれた気配がした。名を挙げた英雄とその陰で消えた秀才、悲嘆のあまり詰る親友とそれでも庇おうとする彼、同期の友人達を襲った運命の明暗、記事のネタには十分だろう?
 しかし、富永……お前は本当に戦死だったのか? 確かに仏は見た。喉笛を鋭利な刃物で掻き切られ一瞬にして絶命したに違いない。しかし姉貴は富永を外せと言った。そしてあの女も……膨れ上がる疑惑を尻目に別の記者が質問する。


 「そういえばトウヨウ閣下、ミドルネームのNとはどういう意味でしょう? 日本にミドルネームをつける風習は無かったと聞き及んでおりますが。」


 思わず顔が強張ったのを感じる。星野が俺の腕を掴んだのを感じた。解ってる! 激高なんてするもんか。と握られた腕で軽く腿を叩きながら俺は答える。


 「Nとは乃木(ノギ)の意です。あぁ、驚かなくてもいいですよ。姉貴が乃木家の養女になっているだけで俺はそのおこぼれに預かっている身ですから。なにかと家が五月蠅いのでつけざるを得ないんですよ。」


 事実だが疑惑を消せない俺はそれを言うのがやっとだった。





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 前弩級高速戦艦【三笠】の後ろをのろのろとギリシャ国籍の商船が付いてくる。これが今回の獲物だった。北スポラデス諸島を潜り抜けテッサロニキ市を湾奥に抱え込むテルマイコス湾に入りこむ予定だったのだがそうはいかない。高速で展開した砲艦が前方を塞ぎ、三笠から陸戦隊が乗り込む。向こうの船員が並べ立てる盛大な口での抵抗と僅かばかりの物理抵抗(ぼうりょく)を排除した結果、船底に在ったのは連隊をそのまま賄える程の数の武器弾薬だった。結末はギリシャ海軍徴用艦艇と判断し拿捕、国際海事法ですら文句のつけようがないだろう。
 離れていく砲艦【橋立】を眺めながら。副長である駒城少佐は間延びした謡いを上げた。

 「日清の殊勲艦、日露で巡洋艦、トラキア来てみりゃ只の砲艦♪」

 「聞こえとるぞ、駒城少佐。」


 私の苛立った声音に彼は右往左往するが内務長の米内君からなにか耳打ちされると真っ青になって弁解を始めた。


 「し! 失礼いたしました!! まさか千早艦長が海軍軍縮の立役者で在ったとは気付かず…………」


 艦橋の全員が爆笑する中、先程の声音を作った喉を元に戻して私は言う。


 「まぁ、そんなところだ。私が何故海軍中から嫌われ、トラキアまで飛ばされたのかが解るだろう? ただ、皆も心してくれ。行き過ぎた軍拡は破滅しか呼ばない。無理して連合艦隊を揃え、結果自らの親兄弟を飢え死にさせたなどあってはならないことだ。勿論、その軍備と己の矜持如きを維持するために他国に攻め入る等論外!


 部下達が一様に静まりかえる。此処にいる全員大英帝国やドイツ帝国といった列強国の工業地帯を見聞した経験がある。御国の八幡や釜石が玩具のようにしか見えない地域全体が工場という代物、ここまでやれて初めて御国が手にした三笠が作れたのだ。そして現在各国で就役しつつある弩級戦艦……ここまでくればそれに最先端の軍事技術が加味される。御国が国産の戦艦を作ってなお、大英帝国に金剛級超弩級巡洋戦艦を発注せねばならなかったかが良く解る。


 「真似てしまえば良いだけでは? 日本人の得意技でしょう??」


 橙子御嬢さんはそう放言したが事はそう簡単に運ばない。其の真似を外面だけ繰り返し、本質たる科学技術を軽視したが故に“第二次世界大戦”という未来で日本は負けたとも言えるのだ。恐らく乃木総督閣下は其の性根ごと日本を叩き直すつもりなのだろう。茨の道になるだろう、橙子御嬢さんがどれほど力があろうとも列強は其の力すら己に取り込みさらに上を行く。植民地住民の儚き抵抗を恐怖と絶望に塗り潰している装甲車、機関小銃、機関拳銃、航空機……全て日露戦争で総督閣下と御嬢さんが皇軍に持ち込んだものだ。


 「しかし腹立たしいものです。ドイツ帝国め、トラキアの鉱産を独占できぬと知りまさかギリシャに武器援助等と!」


 米内君が憤懣やる仕方が無い声に艦橋内の大半が同調する。そう、ギリシャ商船から押収された武器で最も多いのはモーゼルG98小銃とその実包、その他殆どがドイツ帝国製の武器弾薬だったのだ。
 困ったものだな。『海軍士官たる者、外地に在っては外交官で在れ』というのに彼等は敵か味方でしか相手を考えられない。橙子御嬢さんの話では“米内君は国際派”であり視野狭窄と言う訳でもないのだがな。逆の意味での喩え話でもして見るか。


 「米内君、では我が国が列強各国に特許を売り、部品も提供している装甲車や飛行機の発動機が英領香港や仏領インドシナで我等と同じ肌の色の民を苦しめていることをどう思うかね? 虐げられている人々が虐げている白人支配者に武器を平気で売る同じ肌の日本人をどう思うか解るかね?」

 「そ……それは…………。」


 口にしたいのだろう。我等は関係ないと。だがそれは人間として絶対に口に出してはならない事だ。己が犬畜生と同列であることを自ら認めてしまう事になる。


 「昔から世界は交易によって作れぬ物を補い、知らぬものを知り、相互に発展してきた。良きものも、悪しきものも関係なくな。御国は幸か不幸か世界の中心と思われることなく、己の欲する良きものを自由に取捨選択できたのだ。だが、これからはそうはいかない。乃木総督の言う汎経済圏主義の中に世界中が取り込まれ、トラキアは其の中心。ならば悪しきものは水際で食い止めなければならない。これが海の防人たる海軍の本分である。これから御国の海軍はそんな組織になる。お前達もそんな海軍軍人になって欲しい。」


 艦隊決戦? そんなものは状況に合わせた偶然の産物、日露の戦がむしろ異常だ! あの時はあの時、今は今。それを考えなかったからこそ橙子御嬢さんの世界では御国は滅びた。繰り返させるものか!! 伝令が艦橋に入ってくる。電文を流し読みしてこれは使えると考えた。


 「しかし、悪しきものもこうやって水際で食い止めれば良き結果になるぞ。今回押収した武器の査定結果だ。財部君も随分奮発してくれるな。」


 楓執務官や橙子嬢、総督閣下と考えた策だ。御国の海軍士官や海兵が艦隊決戦にばかり拘ったり、それに後ろ髪を引かれる点をどうすべきか? と。対策は実利をつけてしまえばよい。押収した積荷を司令部が査定し金額に戻す。其の幾割かが拿捕した艦の乗組員に報奨として与えられるのだ。海賊流といえばそれまでだが、そもそも海軍の奔りは国家公認の海賊である。御国は今まで海に拘らなかった。ならば拘らせるまで。
 電文を回し読みし拳を握り締める者、満面の笑みを浮かべる者、隣の者と何を買うか雑談に走る者。様々だがこの策は好評の筈だ。私も良く経験したが海軍士官たるもの何かと自腹購入が基本。辛い節制を凌げる一時金(ボーナス)は誰とて欲しい。苦笑する。日露の海軍が今の海軍なら報奨金は本土の信兄さんが全部呑んでしまいそうだな。
 彼等に艦橋を任せ、特別電信室に入る。此処に入れるのは私のみ。先ほどの伝令すら扉の小窓から差しだされる紙片を受け取り艦橋に届けるだけの役目。そうここでギリシャ海軍の全ての動向が白日も下に晒され続けているのだ、彼女によって。これで勝てねば只の馬鹿。しかしこんな詐術が何時までも続く訳が無い。特に彼女は橙子御嬢さんではない。彼女自身が明言した。『お前達流に言うならば我等(・・)は御国や世界の影にいる』なのだと……
 このトラキアに近づきつつある二隻の戦艦を含めた御国の増援部隊。ギリシャ海軍最新鋭戦艦の動向、聞くべき事を纏めながら私はそのドアをノックする。





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 「トート博士、按配は如何ですか?」

 「これは浦上閣下、アンバイ? …………あぁウムシュタント(状況)の意ですね。危うくプフラオメのザワークラウトの事かと。」

 「あぁ、誠相済まん。私の不勉強だった。」

 全く持って鍵島君に『ドイツ語が堪能』と褒められるのが気恥ずかしい有様だ。周囲が日本人だとどうしても外国人にも同じ会話が成り立つと思ってしまう。息子にも娘にもせめて三カ国語は喋るよう躾けているが仏蘭西人教師曰く『どの学生もグラマー(文法)を繰り返せば良いという勘違いの中にいる。』と激怒させた程日本人の語学習熟は酷い物らしい。
 外国語の学業は学級の机ではなく街中や農村の井戸端で行うのが常になっているそうだ。私も未だ単語帳を肌身離せず居る辺り、教師から見れば甲乙で言う丁評価(ろんがい)だろう。私と同じくそれを持っているトート博士が笑いながら答える。


 「コレの御蔭で大分助かっていますよ。ドイツの土木専門用語等、日本人の皆さんには噛み砕かねばなりませんし、用語を英語に訳せるだけでも大助かりです。しかしフランス言語学者が呆れ返っていましたよ。これほどの物……世界を隔てる言語(バベル)の壁を打ち砕く破城鎚を総督府は列強に著作権も無しにばら撒いている。ローマ教皇庁が聖書で食っている逸話を知らないのか!? てね。」


 ほぅ。もしかしたら息子達を叱責している教師の事かもしれないな。確かに総督府では列強新聞社に委託と言う方式で橙子御嬢さんが作った単語帳を出版させているが公文記事博学文物といった文字の羅列でしかない物に著作という利権が出来る物なのか? あぁ、なればこそ……なのか。困惑した表情で想像した乃木閣下の懊悩を口にしてみる。


 「これは表沙汰にしないで欲しいが、実はその単語帳を作ったのは乃木総督閣下の御嬢さんでな、閣下の立場からするとこれ以上の面倒事は増やしたくないらしい。前にモンテネグロのニコラ国王陛下が御嬢さんを孫の嫁にと言い出してな……これ以上騒ぎを大きくしたく無いようだ。」

 「? 妙な話ですね。確かにこの単語帳は編集こそトラキア総督府となっておりますがミス・トーコが書いたのであれば執筆者として彼女も名を乗せるべきです。面倒事や売名と言ってもそれをしなければ自らの生きる権利を他人に売り渡していると同じ事、性善説を説く聖職者より性質の悪い類としか思えません。それとも、もし乃木総督がそれを彼女に強いているのであればこれは家長による孫の人権の一方的侵害です!」


 顔を顰めて博士が言いだす。御国では西洋人ほど個人の権利は取りざたされず。家の体面や親戚筋への配慮に心砕くと言うことが常識だ。それを博士はやり過ぎと考えたようだ。


 「その辺りは強く出んでくれ。いくら変わらざるを得ないと言っても日本人は日本人、生まれ親しんだ常識を簡単には代えられん。……それはそうと陣地の構築はどうなのか? 総督閣下の想定では後1月足らずでここ、テッサロニキ市にセルビアとギリシャ軍が押し寄せる。我々総督府の判断も全く同じだ。」


 無理矢理話の腰を折らざるを得ず、博士も不承不承私の話に合わせてくれた。部下の赤毛の青年が近づいて説明を始める。開戦直前に建設が完了したロドピ峡谷の堡塁を原形にしてそれを多数テッサロニキ市郊外に建設している。そうかつて我等地獄の獄卒共が攻略した旅順のように市街地全体を取り囲んだ陣地群だ。

 ボックス陣地

…………とはいっても旅順要塞群のように堡塁と堡塁をベトンの胸壁で繋ぎ落とし穴たる壕を張り巡らしそれを数重に配した城郭都市のような馬鹿げた規模の物ではない。空から見ると台形の形をしたちょっとした陣城――戦国時代の臨時拠点――がいくつも郊外に配置されているだけに見える。このいくつものが曲者なのだ。この台形の陣城はそれほど強力な防御拠点ではない。兵士と機関銃を相応に配せば歩兵連隊を一時的に食い止める程度の事は出来るが。数に任せた攻撃や工兵や砲兵の支援での攻撃では直ぐに防御側が耐えられなくなる程脆いのだ。そう、脆くて構わないのだ。相手に出血を強い続けると言う意味では。
 軍隊と言うものは常に最大の攻撃力を発揮できるものではない。弾が無ければ攻撃には出られない、兵が傷つけば周りも怖気づく、もっと単純に飯が無ければ戦争どころではない! 何度も何度も攻撃準備を繰り返させ、ひたすら物資を無駄遣いさせる……例え土地を明け渡してでも!! 
 ギリシャにしろセルビアにしろこのテッサロニキ市街地に兵を入れるには最低11のボックス陣地を占拠せねばならない。そして彼等の主力はあくまで歩兵、騎兵は攻城戦では役に立たず砲兵は砲も弾薬も遥か彼方から陸送――セルビアならベオグラード、ギリシャならアテネ――から延々運ばねばならないのだ。消耗戦、人の消耗すら考えなければ欧州領軍にとってこれほど優位な状況は無い。
 そしてバルカン三国が歩兵と言う人的資源を消耗した時にはもう遅い。御国より彼等を叩きだす皇軍がやってくる。疲れ果て、死傷者多数、武器弾薬も底を尽いた三国に抗う術は無い。青年の説明は済みつつある。全て状況通り、急速南下してきたマンネルハイム将軍率いる師団は損害多数でスコピエで息切れした。後ろから来るセルビア軍本隊と合流する腹だろう。

 「……と、以上です。ですが、正直言いますと無駄としか言いようがありません。たかだか5000人の守備隊に一個軍団が数会戦戦えるだけの武器弾薬等正気を疑います。それも欧州列強ですら最新鋭の代物ばかりですよ! 幾等金持ちと言っても限度があります!!」

 最後の彼の文句を聞き流す。そりゃまともな人間ならそう考えるだろうな。橙子御嬢さんが言うにはタソス島の武器貯蔵庫には数十個師団を完全編制させる程の武器・兵器が蓄えられていると言う。其の情報が表に出ただけで列強全てが今行っている勝手気ままな領土争いを投げ捨ててタソスに上陸、多国間乱取り(バトルロイヤル)必至だろう? 
 数万の軍勢の数会戦分の武器弾薬などいつでも捨て札にできる。御嬢さんの影『御嬢』の力は一端ですらこれほどのものなのだ。日露の勝利など乃木閣下から了解さえ取り付ければ造作もない事と見ていただろう。うーむ、以前の御嬢から閣下に内密の話として聞いた事、御嬢が関わらなかった世界で150年後に起こる破滅、其の発端となった30年後の隠された事件、これを彼には仄めかすべき――いや、忠告すべき――なのだろうか? 彼の名はヨハネス・ガウス。彼と彼のまだ見ぬ息子――エトムント・ガウス――によって“御嬢の原形”が生み出され、世界に災いがもたらされる事を。

 
 「そうだな、君は一度会うべきかもしれんな。橙子御嬢さんに。」

 「? 確か挨拶の折すれ違った娘さんの事ですか? 何故、」

 「その程度で彼女を測れるなら君は天才だよ。彼女はキミが導いたとも取れるのだ。我等の知らない150年後からね。」


 さぞかし私の顔は旅順の獄卒らしくなっているだろう。そう思い私は唇を釣り上げた。



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