1.

 これも異常気象か、カラ梅雨が続いていた昨今。
 霧雨。久しぶりに梅雨らしいムシ暑くうっとうしい夜。
 月も星もない、そんな夜の闇の底に男はいた。
 中肉中背、うす汚れた外観。そして濁った目。どうやら泥酔している様だ。
 公園のベンチにだらりと身を投げ出したその様子は、どこか儚い。
 そうしていると、このまま男は夜の、霧雨の闇の中に溶け込んでしまうかに見える。
 それはまるで、敗残者としてこの世から消え去っていくが如く。
 不意に。
 男の視線に力が宿り、同時に”気配”へと向けられた。
 それは、男の見てくれに似つかわしくない、機敏で的確な動きだった。
「女豹?」
 そんな呟きを漏らす。
 違った。
 現れた人影は、少女だった。
 彼同様にうす汚れ、加えて疲れきっているようだ。
 うつむきかげんで、その眼差しは空ろ。
 とぼとぼと歩いてきて、ベンチの反対側の端に崩れる様に腰掛けた。
 そして、かぼそい声で何か、いった。
 繰り返した。
「おなかがすいた」
「腹、へってんのか」
 びくり、と少女は肩を震わせ、声がした方に向かってゆっくりと顔を動かした。
 初めて男の存在に気がついたらしい。男を見、目を見開き、弾かれた様にベンチから立ち上がる。
 その勢いのままこちらに向けられた背に向かって男は言葉を投げた。
「食わせてやるよ。何でもよければ、な」
 少女はその言葉に反応した。ぎこちなく振り返る。
 男は小さくうなずいた。
 ゆっくり立ち上がり、大きく一つ伸びをすると、そのままのんびりと歩きはじめた。
 少女は辺りを見回し、それから小走りになって後に続いた。
 背に少女の息遣いを感じながら少し歩いて、男は別の”気配”を感じた。
 感じたときにはもう包囲されていた。
 闇がそのまま立ち上がったかの如く、5人の人影が二人の行く手を遮った。
「話を……」
 女豹が、跳ねた。しなやかで力強いその動きは、正に女豹の呼称が相応しい、一種流麗ですらあった。
 まるで映画のワイヤーアクションのワンシーンであるかの様に、少女の身体は空中で舞い、踊り、5つの人影をハネ回った。その全員が地面に叩き伏せられるまで僅か数秒。
 最後の一人が倒れるのと同時に少女は地面に降り立ち、そして少しの間の後再び呟いた。
「おなかがすいた」
 ぷっ。
 男は吹き出した。
 くくく。
 笑い出した。
 くわっはっはっは。
 爆笑した。
「女豹か。違いない」
 少女は男をけげんな目つきで見ている。
 男がようやく笑いを納めると、二人は再び歩きはじめた。
 二人が姿を消し、しばらくして、5人の中で一番体格のいい男がまず初めに気付き、うめき声と共に立ち上がると、まだ倒れたままの仲間たちに活を入れて廻った。
 男3人、女2人の混成チームだった。
 チームは、全員が”プロフェッショナル”だった。意識が跳んでも身体が自分で受身を取れるくらいの錬度ではあった。アスファルトに打ち据えられたものの、一応、全員が軽症で済んでいた。
 メンバー全員が覚醒すると中でも小柄な男が周辺を見て廻っていたが、ここはジャングルでもコンクリートジャングル。二人の行方を指す、追跡に役立つ様な情報を得ることは出来ず、体格のいい男に向かって残念そうに首を振ってみせた。
 どうやらその男がチームのリーダーでもある様だ。
「仕方ない。一時撤収する」
 リーダーが宣言すると、もうそのチームは夜闇の中に溶け込んでいた。
 それからさらにしばらくして、少し離れた場所に小集団が現れた。
 特徴として、どことなし、みな目つきが悪い。いわゆるカタギの反対側に属するのだろうか。
 加えて、ほぼ全員が何かしら手傷を負っている様に見える。明らかに動作が不自由だったりしている。
 あのアマだの見つけたらブっ殺すとおだやかならぬ剣幕で士気だけは軒昂だがどうか。
 そのままうろうろと辺りを練り歩き、通りかかったアベックを威嚇するなど、恐らく自分たちも何を目的に行動しているのか理解出来ていないだろうままに、そのままいずれかへと歩み去っていった。

 2.

 そのさりげない鈍色のワゴンは、日中ではいかなる光景であっても自然に背景として、そして夜間ではむろん闇夜に、溶け込む様に、という目的を持ち、綿密に考慮され塗装されていた。
 今、7人の男女が乗り合わせた車内に醸し出されている空気は険悪だった。
 先の5人と、バックアップの2人を合わせたチームだった。全員が不機嫌な互いの顔を見合っている。
「時間です」
 スタッフの一人が告げた。定時連絡の刻限だった。
 チームリーダーは一つため息をもらすと、回線を開いた。
「チームアルファ、定時連絡」
「チームアルファ、定時連絡、了解」
 オペレータの確認、微かな空雑音。
「状況は」
 常に変わらず、前置きなしの統制官の声だった。
「それが・・・申し訳ありません。目標との接触に失敗しました」
 気まずい沈黙。
「失礼だが。貴官はネゴを始めてどのくらい経つのだったかな」
 ネゴ、ネゴシエイター。交渉(代理)人。
「今年で15年になります」
 明らかな揶揄。しかし今は甘んじて承るしかない立場だった。
「そうか。次回は朗報であることを期待する。以上」
 はあああっ。チームリーダーは深い吐息をもらす。
 ところ変わって。そこは会社の、中小企業のオフィスに似た空間だったが、額縁入りの仁義、の二文字がその他の演出総てを台無しにしている。
 10人ほどの人数を前に、男が一人、怒鳴り散らしていた。
「申し訳ねっす」
 とぎれた言葉に押し込んだ侘びの台詞は、しかし何の役にも立たなかった。
「そりゃあもうしわけねぇわなぁ。これだけのガン首そろえて出ていって娘っコ一人相手できんで取り逃がしてりゃぁよぉ」
 ぱん、と、集団から少し離れて立っていた男が手を鳴らし、いい放った。
「ハイ、そこまで」
「ですがかしら……」
 怒鳴り散らしていた男が遠慮がちに続けようとするが。
「終わったことを弄り回していても建設的ではないでしょう、それに」
 一度言葉を切り。
「”アレ”をキメてるときは、かなりハジけてみせるそうじゃないですか。別のアプローチも必要かもしれませんね」
「あぷろーち、ですかい」
 場所は戻って。知らず間に雨は上がり、うすく月明かりが差し込んできていた。
 食事もそうだが思えば、人と話すこと自体が久振りであるかもしれない。
「すみません、あの、名前、きいてもいいですか」
「……ジーマだ」
 どこから見ても日本人以外には見えない男は、テントから持ち出してきたナベを突き出しながら言葉も押し出した。男には男の事情がある様だが、それを無遠慮に詮索するマネはもちろん、しない。
「あ、すみません。私は、安藤美由紀です。安いに藤に、美しい理由の、世紀の紀です」
 ナベを受け取りながら、名乗った。
 ナベの中身はいわゆるごった煮というか、いろいろな食材をただ突っ込み、少量の水を加え煮込んだだけの、雑炊の様なものだった。味は、醤油で少し調えたくらいのもので、何にせよ料理と呼べる様なものではない。何でもよければ、というジーマが先に口にした言葉にウソは無かったということだ。
 美由紀はしかし、文句ひとつ言わずにナベの中身をきっちり半分胃に収め。
「ごちそうさまでした」
 深々と頭を下げ、ジーマにナベを返した。
 返して、もじもじする美由紀に。
「泊まってけ。どうせアテもないんだろ」
 ジーマが機先を制して言った。
「……えーと」
「いいから。とりあえず寝たらどうだ」
 男と女。
 理由はないが、何となくジーマには安心出来るものがあった。
 それに事実、急速に睡魔が這いよって来てもいる。
 テントに潜り込むと、毛布とシェラフがあったが、どちらも必要がない暑さだった。
「すみませんおやすみなさい」
 安心して寝込むのも久しぶりだった。夢を見るほどに。

 3.

 某日某、都内公立中学校、調理部部活動、調理実習室にて。
 それ、創作料理と名付けられたそれは。
「くぁwせdrftgyふじこlp;」
 興奮の余り言語になっていない。
「バカやろう!何てものをまた作りやがって?!」
 同じく、日本語としておかしい。
「そうか?あんがいイケると思うんだが」
 調理部の黒2点の一つで問題児の、騒動の原因である楚亀智英、本人は平然としている。
「副部長も何とか言ってやって下さいよ〜」
 黒2点のもう一方の部長は、副部長で、智英の責任者と目されている、幼馴染でもある美由紀に嘆き掛けたが、今、彼女はそれどころではなかった。

 ずぐん

 頭の芯からの、痺れる様な、割れる様な痛み。
 死ぬ、私死ぬの?。
 そう、死を予感させる程の、初めての、痛み以上に異常な感覚だった。
「え」
 全員が見守る中、頭を抱えながらその場へ壊れる様に倒れこんだ。
「おいおいいくらなんでも」
 智英は笑いかけたが直ぐに顔を引き締めた。
「安藤?おい安藤」
 駆け寄り、呼びかける。
「きゃああ美由紀?!」
 騒然となった。
「ばかやろう!遂に犠牲者が」
「かんけーねえって!マンガじゃあるまいし。貧血か何かだろ」
「きゅ、救急車?119番??」
「いや取り敢えず保険室へ」
 男二人でそっと担ぎ上げる。念の為頭は動かさないように慎重に。
 一階、中庭に面した保健室まで移送。幸い、先生は居た。
「どうしたの?」
「突然、倒れたんです」
 と智英。
 聴診器を当て脈を計り、ふんふんと一通り診察し。
「何か、食べ物とか関係は」
 と部長。
「それはないわね。特に異状はないみたい。貧血かしら」
 そらみろ、と智英。そーかなーと部長。

 そうではなかった。
 その時、美由紀の身体ではある作用が進行していた。

 しばらくして目覚めた美由紀の視界に最初に飛び込んで来たものは。
「いやーっつ!?」
 必死の形相で唇を近づけてくる智英のどアップだった。
 ばしーん。
 渾身の力で平手打ちを見舞う。
「おほーいってーケチ」
 メガネ。誰が外したのだかメガネがない。慌てて枕元をまさぐる。あった。素早く掛ける。
 素顔見られた寝顔見られた。
 黒縁ぐりぐりメガネを外した美由紀はまず充分の美少女で、周辺からはコンタクト着用の要望の声が大きいが彼女は頑なにメガネを愛用している。
「ななななんてコトするのよ!」
「いやそこは定番ってコトで。減るモンでもなし」
「何が定番だ減ってたまるかー!!」
 そもそもあんたのせいで……。
 続けようした言葉を美由紀は途中で呑み込んだ。
 あなたのせいで私は。
 判ったし。
 今も、判る。
 過剰な、それこそ生命すら脅かす舌からの情報を受けた脳が適切な防衛反応を行い所謂”火事場のクソヂカラ”的身体機能の緊急アップデートを行い、しかし脳を基幹としたアクションは恒常状態として引き継がれ。
 判る。
 過去、触れた知識の範囲内の理解ではあるものの、そうした用語、タームやモデルが頭の中をびゅんびゅん飛び交い、理解に近づく。我と我が身に起きたこの変化が。
 美由紀はベッドから起き上がった。
「あ、おい、もういいのかよ」
「ええ、もういいのよ」
 先ほどまでのやりとりを完全に無視し、浮き立つ様に美由紀は答えた。
 本当に浮き立っていた。
 偶発的にモノにしたこの効果を、一般化出来れば。実用化出来れば。
 素晴らしい世界が開けるだろう。
 我知らず、美由紀は軽いスキップを踏みながら移動していた。
 それから美由紀の秘かな活動が始まった。
 自分自身を検体とする一方、親しく、かつ口が堅い、と評価した親友を選別して、実験につきあって貰った。
「これそうなの、ぶ・・・まず・・・」
「ダメ!、吐き出さないで!飲み込んで!」
「うええうう・・・死ぬかと思った・・・ほんとに効くの〜」
「だから実験するのよ」
「ひどー」
 発現した ”効果”は実に様々だった。
 何の成果も出ないこともあれば、飛躍的に身体機能が向上する例、記憶力や思考能力が著しく増進する例・・・。
 効果は服用直後に瞬間的にピークに達し、個人差はあるものの約1週間から10日で徐々に減退し消滅する。
 しかし。
 美由紀も直観したように、向上した身体機能は、これも個人差はあるがそれでも僅かではあるにせよ恒常的に底上げされる。
 これは、驚くべき事実だった。そう確信するに至り、美由紀は同じ検体に対し”再実験”を行うことは、厳重禁止事項とした。中には強く”再実験”を希望する親友も現れたが、それも断固拒否し突っぱねて退けた。
 そして、人の口に戸は立てられぬもの。ウワサを聞きつけ親交のないクラスメートなどから実験の志願者が現れる様になると、美由紀は完全に校内での実験は中断する、と決意するに至った。
 それで、終わりなはずだった。ひとまずは。
 高校に移ってからは、学校内で実験を再開する気にはなれなかった。
 大学に入るまで封印しよう、という気になっていた。
 それが、まさか・・・家庭内から漏洩するとは。
 美由紀の父は、とある製薬会社の研究員だった。
 その父に、研究のことを知られたのだ。
 もちろん、表だって公然と問われたのではない、ないが父以外には考えられなかった。
 美由紀の家は美由紀と両親の3人家族。だった。
 迂闊といえばこれほど迂闊なことは無かった。
 美由紀は部屋にカギを掛ける趣味はない。娘の部屋に散乱する亀のコや試薬のタブレットに、父はいつでも近づくことが出来た。
 一体何が起こったのか。美由紀も推測しか出来ないが、結果、家を焼かれ、両親を失い。
 そして彼女は、何者かの追跡を振り切って逃亡生活を送っている。
  どうしていま、彼女のことを思い出したのか。智英は自分をいぶかしんだ。
 夜中にトイレに起きて来て、ふと、いまどうしているだろう、と思ったのだ。
 本当に、彼女とは家が近所の幼馴染み、結局、それ以上の関係には発展しなかった。
 それが、彼女が中3のときに近所は近所でも少し遠くに引っ越したのを機に気持ち疎遠になり、高校が別になって完全に縁が切れた様だった。
 あの”事件”以来だ。
 そう、彼女が部活中に倒れて、それを保健室に運んでから。
 何でもない、といって起き上がってから。
 何がどうとは言えないが、しかし彼女は確実に変った。
 まず明確に変った変化はあのメガネを取ったことだ。
 智英は知っていた。何故かは判らないが彼女には自分の素顔へのコンプレックスがあった。
 それが、メガネを取った後は、自信に溢れ、怖いくらいに美しい、正に美少女に変った。
 女子は妬ましげな視線を送り、男子は突撃しては端から撃墜されていったが、彼女自身はそういう周囲の雑音を全く意に介していない様子だった。眼が良くなったから、もう要らないの。それだけだった。
 それ以外に特に変った変化は無かった。成績も相変わらず中の下辺り。
 しかし。巧く言えないが彼女は変った。はずだ。
 そう、目付きだ。
 ときおり、自分たちクラスメートを見るときのあの目付き。あるとき智英はそれに気付いてぞっとしたのを思い出した。あれは、親友を見る目じゃなかった、あれは、実験室でマウスを見る研究者が。
 ちょうど、あんな眼で見るんじゃないのか。
 そう、変ったのだ。
 あのとき、おれも。
 何が原因かは判らないが、それから智英はときおり頭痛の様なそうでない様な症状に悩まされる様になった。
 それこそ何というか只の頭痛じゃない頭の芯脳みその裏側が引きつる様な違う脳みそが脳みそ目覚める何かが弾ける外れるこの感覚は覚醒そう脳みそが新たに覚醒する感覚眠りから目覚める覚醒する。
 彼女はどうしているのだろう。
 また、思った。
 智英は昔の彼女の方が好きだった。いま会ったらどんな顔をすればいいだろう。
 この、同じ空の下に彼女がいることが、何故か不思議だった。
 そういえば、とふとまた思い出した。
 近所で火事があったんだった。ニュースではやらなかったんで印象が薄かった。
 確か、彼女の家の近くだった様な。今度、見て来るか。
 そして、理由の判らない胸騒ぎを覚えた。
 しかし。何とも不思議な晩だが部活、サッカー部の朝練で明日も早い。もういい、寝よねよ。

 4.

 喫煙室には他の誰も居なかった。
 否、誰か居たとしても、彼に対して疑念を抱くことはなかっただろう。無論、その時にはその時の行動を取るだろうから、だが。
 ヤニの一服がてら、プライベートにケータイを一本。
 そのプライベートの内実が問題だった。
「同志ツツイ、それは本当なのか。心身機能を飛躍的に向上させる合法ドラッグ、だと」
 相手の声は、スクランブラーを通しての機能上に留まらない、疑念を含んで歪んでいた。
 合法ドラッグ。通例の麻薬と違い、常習性や心身を破壊しない市販されている安全な”クスリ”を指す。
「本当です同志。現に日本軍はその開発者であるミユキ・アンドウを保護すべく然るべき手順を発動させており、陸上自衛隊の特殊1コ班が任務に就いています。現在は行方不明ですが、最新情報は常に私の手にあります」
 相手の声が詰まった。回線の不調ではないようだった。
「同志ツツイ。ミユキ・アンドウの確保を命じる。日本軍に先駆け必ず確保するのだ。必要な支援は与える」
「了解です、同志」
 通信、終了。
 男は独りほくそ笑んだ。ふだんの彼の周囲の人間は余り見ない表情だった。
 そして、更にもう一本を悠然と灰にしてから彼の職場である執務室に戻った。
 席に着くなり報告があった。
「課長、アルファから定時連絡です。まだ発見できておらず接触もなし。以上です」
 彼はそれを、いつもの表情、つまり人生に面白いことなどあるものかという、彼独特の、世間一般でいう苦虫を噛み潰した様な表情で受け、軽く頷いた。それが彼一流のポーカーフェイスだった。
 そう、ここに勤務する誰も、全く何も疑っていなかった。
 この、筒井純敬課長、二佐が、中国情報部とのダブル・スパイであることなど、だ。
 ジーマと美由紀の奇妙な共同生活はまだ続いていた。
 ジーマは、殆ど美由紀に対して興味がないようだったが、かといって邪険に扱うこともなかった。
 当初、共同生活、というより美由紀の一方的な寄生状態だったが、あるときたまりかねて自ら調理役を名乗り出てからは、以降、完全に炊事係りとして定着した。ジーマも好き好んで”人間という家畜のエサ”のような食事をしていたワケではなかったらしい。絶賛するような調理でも無かったが、それでも毎回律儀に旨い、と賞賛しつつ食べている。
 美由紀の目から見ても、ジーマには少なからぬナゾ、があった。
 何よりこうして、美由紀を居つかせて平然としているのがそもそも最大の不可思議だった。
 冷静に公平に考えて、ホームレスが更に無産者を抱えることの負担について、美由紀でも容易に想像出来る。そしてジーマは、美由紀に対して、その、カラダを要求してくるようなこともなければ、男という野獣の視線で美由紀の貌や身体をなぶってくるようなこともなかった。不能とも思えなかったが。
 だが無論、美由紀からそれを問いただすことも出来なかった。
 もし気が変わって。
「そうか、じゃ、出てけ」
 などということになったらヤブ蛇どころの騒ぎではない。それこそカラダでも売って食いつないでいくしかない生活に転落するかもしれない。故あってのホームレス生活だが、当たり前だが美由紀には何のスキルもなかった。つい、先日までは、フツーに高校に通うただの女子高生だったのだ。うちに帰ればゴハンが食べられて、小遣いも過不足なくあって、国内の多くの同輩同様、日々、何の不自由もなく暮らしてきたのだ。それが家を焼かれ、家族も失い、何者かの追跡を受け、こうして逃亡生活を送っている。まるで、ドラマかマンガの様だと美由紀は苦笑するが、これは紛れもない現実だった。
 が、そうこうするうち、美由紀は薄々、ジーマの正体が判ってきた気がした。
 なんと、ジーマは軽自動車まで持っていた。
 ぼろぼろだが、自動車を一台持っているのだ。
「そろそろ移動するかー」
 といって、その軽に乗って現れたときには心底、驚いた。
 立ち尽くしている美由紀をほっておいて、ジーマはテントを畳み、その他いっさいがっさいを軽に積み込み、おい、置いてくぞ美由紀に声を掛け、だらだらと低速で移動すると突然、車を止め、荷物を降ろすと走りさり、再びぶらぶらと現れるとテントを張り直し、何の説明も無かった。
 だから、判った、たぶん。
 ジーマは、仮面ホームレス、というか、”趣味のホームレス”なのだ、と。
 何故に、というナゾはまだ残るが、そうなら、と美由紀は一気に気がラクになった。
 ホームレスが趣味なら、自分を保護しているのも趣味、なのだろう、と。
 いつまでなのかは判らないが、こうしている間はそれでいいのだと。
 
 5.
 
 食堂ウラのゴミ箱を漁っているときに声を掛けられた。
「ああきみ、ちょっといいかな」
 無視して移動しようとするとしつこく追いすがってきて、一枚の写真をかざしながらいった。
「失礼。この顔に見覚えはないだろうか」
 確かめるまでもなかった。美由紀だった。今は捨てさせた、汚れてぼろぼろになる前の制服を来て、こちらに向かって微かに笑い掛けていた。
「知りません。急いでるんでこれで」
 無愛想な無関心のままそう言い捨て突っ切った。
 だが、相手は執拗だった。おそらくはカンだろう。そのまま尾行に張り付いた。
 ジーマは不意に駆け出した。そのまま自ら行き止まりの路地に駆け込む。
 慌てて追いすがって来たまず一人目、掌底を顔面、鼻の位置にもろに叩き込む。陥没した鼻から脳漿を流しながら相手は倒れ込む。
 二人目、袖口から抜き出した小刀で相手の喉を切り裂く。
 三人目、耳から指を突き入れ、そのまま脳髄をえぐる。
 そして呆然と立ちすくむ4人目をそのまま羽交い絞めにする。
 相手はこれ程の抵抗、というか逆撃は全く想定していないようだった。完全な奇襲。無力化に成功した。
「で、なんの用だって?」
 残った一人はそれでも必死に。
「こ、この少女を保護するのだ、だから」
「・・・妙なことをいう」
 ジーマは本当に不思議そうな顔をした。
「な、なにを」
「だってお前ら、日本人じゃないじゃん」
 そのまま頚椎をへし折った。
 男達の所持物を改めたが、さすがに身分を明かすものはない。
 だが、中国のエージェントであることだけは間違いなく確信出来た。
「めんどうなことになったかなー」
 貰えるものだけ貰って、ジーマは素早く現場を後にした。
 チーム・アルファは不遇だった。
 そもそも今回の作戦は初動から大きく出遅れていた。
 過去の「調理部案件」では、学校に通学中の段階で保護に成功するのが通例だった。なればこそ、編成されるチームについても、「都市ゲリラ対策班」であっても、代替的な任務の遂行にそれ程の支障はなかった。
 それが今回は、目標の失踪後に要因として「調理部案件」が浮上し、完全に泥縄状態でのスタートだった。
 しかも、どういう巡り会わせか、保護者までが付いているという。
 目標を捜索し、処分するだけであればこれほどの手間は掛かっていない。こちらの存在を秘匿しつつ目標を捜索発見同定し、無事に保護するというのは・・・。
 最後に接触を断った現場から捜索範囲を広げると、直ぐにホームレスが立ち去った跡地を幾つか発見した。
 だが、そこまでだった。
 安藤美由紀の足取りは完全に断たれていた。
 最終接触ポイントを基点にどれだけ捜索範囲を広げてもヒットしなかった。
 そのとき、チーム内での特に追跡について見識が深い女性隊員が提案した。
 あのとき同行していた男の側を追ってみたらどうか。
 ヒットした。
 ジーマは”業界”内でも謎の有名人だった。
 ”仮装ホームレス”だろうとの噂だったが、気前がよく、なかなかの人気者だった。
 そのジーマが、軽自動車を所有していて、気ままに都内を移動し、根城を移っているという。
 それには、ある法則性があって、基本的には大きな公園の一角、であると。
 チーム・アルファはすぐに行動を開始した。
 ジーマに接触を取れれば、少なくともなんらかの追跡の為の情報、手がかりは得られるはずだ。
 幸運だった。
 保護対象はまだジーマに同行しているらしい。
 が、それからが不遇の連続だった。
 同定を終え、さあこれから接触を取るぞというとき、いつも対象がジーマと共に移動を開始してしまうのだ。
 慌ててバックアップユニット、ワゴンに追跡を命じても、軽快な軽自動車を鈍重ではないにせよ(それは十分な改装がなされている)ワゴンが、対象にその存在を秘匿したまま1台で追跡をしろというのは、これはムリな話だ。
 それが3回以上続けば、これは偶然では在り得なかった。
 「どこかで情報が漏れている可能性があります」
 チームリーダーはやっと実に不穏当なそれを進言する気になった。
 「そうだな」
 統制官である筒井二佐も不機嫌な顔で同意した。尤も、彼の場合いつもの表情と変らなかったが。細かいが常に不機嫌な顔をしてみせているのも戦術の一つだ。
 実際に彼は不機嫌だった。
 実は、中国の下、オペレーション、作戦を行うのは今回が初めてだった。
 中国の遣り方は杜撰の極みだった。何を考えているのか判らないが、無用な損耗も著しかった。
 目標に随伴するホームレスが、何らかの背景を持った男であり唯の宿無しなどではないことはもはや明白であり、むしろ目標確保の前段階として周到にこれを”排除”する様にと、筒井はこれを徹底するべく中国側の現地、国内工作員に指示を出していたのだが、中国側は真剣に受けとろうとしなかった。
 工作員の質も問題だった。
 その多くはチャイニーズマフィア崩れで、正規の、人民解放軍広範囲作戦部隊に所属する者、或いはその出身者は安全な大使館か作戦拠点に篭ったまま現場に出ようとしなかった。
 そして、工作員はコントローラーを、日本人である筒井を侮蔑していた。
 当然だった。内応者に浴びせられる視線は古今東西変わりない。
 筒井は馬鹿らしくなった。やめやめ、つまらない、”ゲーム”はここまでだ。
 筒井は手早く種類をまとめ。
「ちょっと外す」
 部屋を出た。
 そしてそのまま直属上官の部屋を訪れた。
「失礼します」
 上官はパットの練習中だった。いつものこととて顔には出さないものの心では失笑する。
「少し、宜しいでしょうか」
 相手の返事を待たず。
「私は、つい先刻まで中国情報部に内通しておりました。これがその証拠です」
 パターが床に落ち、乾いた響きを立てた。

 6.

 近く、ではなかった。そのものだった。
 家一軒が焼け落ちた現場だった。
「安藤・・・?」
 智英は呆然と呟いていた。乗ってきた自転車が傍らでひっくりかえる。
 近くを通りかかったオバさんを思わず捕まえていた。
「す、すみません!、ここんち、どうしちゃったんですか?!」
 おばさんは特に迷惑がらずに素直に話に乗ってくれた
「あら、お知り合い?」
「は、はい。昔の幼馴染みで」
 それがねー とオバさん。
「御両親とも亡くなったそうなのよー。ここから遺体で見つかったんですってー」
 亡くなった?両親が?!。
「そ、それで美由紀は?!」
 それがねー とオバさん。
「美由紀ちゃん、行方不明なんだそうなのよー」
「行方不明・・・」
 再び呆然と呟く。
 気がついたとき、智英はあてどなく自転車を走らせていた。
 我に返って停車した。
「安藤……」
 自転車を止めた直後だった。背後でハデにタイヤが鳴る音がした。
 慌てて振り返ると、黒塗りのセダンが止まっていた。
「あ、すみま・・・」
 言葉が途中で凍りついた。
 車のドアが開いて、目付きの悪い男たちが降りて来た。
 後悔する間もなかった。智英は取り囲まれた。
「えと、その」
 チラリとセダンに眼を走らせる。傷付けてはいない様だが。
 男たちが口にしたのは意外な言葉だった。
「キミ」
 と、恐らくリーダー格らしい男が意外に優しい声で訊ねてきた。
「安藤美由紀ってコ、知ってるよな」
「し、知りません」
 リーダーはうんうんと頷き、他の男たちもうなずいた。
「キミ、ウソは良くないよ。さっき近所のオバさんと話してたろう?もう忘れたのかい」
 あ、と智英は声を上げた。
「すこーしお時間いいかな。ちょっと一緒に来て貰おうか」
 抵抗する余裕も間も無かった。そのままセダンの後部座席に押し込められた。
 自転車もトランクに積み込まれた様だった。
 ぱかぱかとトランクの扉がセダンの揺れに合わせて揺れている。
 智英の今の心情を代弁するかの様にだ。
 安藤、おまえ何に巻き込まれちまったんだよ。そう心の中でぼやくのだった。
 いつになく険しい顔付きのジーマを美由紀は出迎えた。
「お帰りなさい」
 あなた、と言ってしまいそうになる。
 内助の功ではないが、食材の確保等の”外回り”を一切しない代わりに、テント内の整理や清掃、洗濯も美由紀の仕事だった。ここ一週間ほどで、美由紀はすっかりホームレスづいていた。これもジーマが探して来た男物だがその古服を身につけ、肩まであった髪もばっさり落とし、垢じみた風体はもうどこから見てもホームレス以外の何モノでもなくなっていた。
「移動するぞ。急げ」
 いつもの”転居”と様子が違った。それでも辺りを片付けようとした美由紀を。
「そんな”ガラクタ”はいい!来るんだ」
 美由紀は一瞬ワケが判らなかったが、すぐに気付いた。
 これだ。
 これがジーマの正体だ。
 ずんずん前をいくジーマの後を早足で追いつつ、軽の駐車場所まで移動した。
 駐車してある軽を見るのは初めてだった。驚いたことに軽はちゃんとコインパーキングに収まっていた。
 ジーマは素早く軽に収まると車内から手招く。
「何してる、早く乗れ」
 美由紀がナビシートにつくとジーマは直ぐに軽を車線に乗り入れる。
 そして軽はまず山手線の外側に出た。
「私の本名は矢嶋孝雄だ」
 突然、ジーマ、いや矢嶋が語りだした。
「人を殺したことはあるか」
 唐突な質問。
「ないよな」
 回答を期待してのものでは無かったらしい。
「私はある。何度も。ついさっきも4人殺してきた」
 トイレをすましてきた、とでもいう様な口ぶりで矢嶋は言った。
 ウインカーをしっかり出し、車線変更。出発は慌しかったが、今は普通に法定速度+10キロくらいを維持したままで軽を動かしている。
「最初に殺したのはちょうど君と同じ高校1年のときだった」
 男が押し入って来た。強盗だった。たまたま外灯を付け忘れていて、無人と勘違いした様だった。
 空き巣の前科持ちの男だったが、それは裁判の法廷で判ったことだった。
 居直り強盗だった。
 それを、当時野球部員だった矢嶋が、バットで叩き殺した。
 頭蓋骨骨折。脳挫傷、即死だった。
 遺族が納得いかず、法廷が持たれたが、矢嶋の正等防衛は動かなった。
 だが。
 法廷とは別の事実を、矢嶋とその両親は知っていた。
 命請いする犯人を、矢嶋は冷静に撲殺したのだった。
「社会のゴミを除去するいい機会だと思った」
 たんたんと、どこまでも平静な矢嶋の言葉。
「怖くは、なかったの」
 美由紀は思い切って声を出した。
「もちろん怖かったさ。自分が、ね」
 殺人不感症。
「何も無ければそのまま一生、気付かないですむ”病”だ。だが私は気付いてしまった」
 今から思えば、若いうちでよかった。
 このままでは、いつか、殺人者として裁かれることになる。必ず。
 その機会は幾らでもある。
 虫を潰すほどにも感情が動かないのだ。
 マナー違反、絡んで来た泥酔者、或いは地廻りのちょっとした因縁。
 全て、契機に為りかねない。
「両親も怯えていた。その日から私を見る眼が明らかに、変った」
 孤児院からの引き取り、養子、善意の発露、しかし。
「家にはいられなかった」
 高校の卒業を待たずに飛び出し、漂泊した。
 当然の様にチンピラに誘われ、鉄砲玉になり、数人を”かたわ”にしてのけたが。
「何か、違った」
 軽は荒川を渡り、埼玉に入った。
 そしてまた当然の様に日本を飛び出し。流れ着いた先は。
「フランス外人部隊。知ってるだろ」
「ええ、有名ね」
 殺人を生業とする道に、遂に足を踏み入れた。
「兵士が、どんな有能な兵士でもやがて壊れていく。理由は判るか」
 美由紀は少し考え。
「戦い疲れて?」
 だいぶ暗くなってきた。矢嶋はライトを灯す。
 もしかしたら実はこの軽は車検も通るんじゃないか、と美由紀は思った。
「大きく分けてみっつだ。まず加齢、次に物理的に壊れる場合」
 そして、精神的に壊れる場合。
「人間はそれほど丈夫に出来ていない、いやむしろ実に脆弱な構造だ。だから簡単に死ぬし、壊れる。死者の亡霊を見るようになったらもうダメだ。ドラッグに溺れるか病院にいくか。なんにせよリタイアだ」
 その点矢嶋は、どれだけ殺しても磨耗しない。
 殺すこと自体を躊躇わない。
「トリガーには、相手の命と自分の、兵士としての寿命が掛けられている。普通はそうだ」
 矢嶋がその”業界”で頭角を現すまでの時間は短かった。
 矢嶋、ジーマは戦友としても、仕事人としても、信頼され、信用されるようになった。
「まさか日本政府から依頼が来るとは思わなかった。それこそフィクションの中だけのハナシだと」
 人間の盾、知ってるか。矢嶋の問いに美由紀は大きく頷いた。
「知ってるわよ。大騒ぎだったじゃない」
「それはイラク戦争だろ」
 イラク戦争以外で?えーと。パパ・ブッシュの方だ、と諦め声で、矢嶋が言う。
「湾岸戦争でも在った。あまりメディアには露出しなかったがな」
 その中に。
「日本の、政府高官の、御令嬢が混じってたってワケだ」
 軽は17号に沿ったまま高崎を越えて、まだ北上する気配だ。
「発覚したらスキャンダルだ。極秘作戦が展開されることになった」
 目標の”救出”ないし”抹殺”。但し抹殺の場合は後金なし。
「それほど難しいミッションじゃなかった。作戦自体は」
 バグダット近郊の目標が寝起きする住居に侵入。スタンさせ身柄を拘束してそのまま撤収、ピックアップポイントへ直行。目標は非武装で特段の戦闘能力もなし。一人道案内がいればそれ程の難易度の作戦ではない。
「計算違いは」
 突然、ハンドルを殴りつけた。ハンドルは眼に見えて歪む。
「作戦の途中に、その高官とやらが別件で失脚したことだ」
 事なかれに、全てをなかったことに。余りにもお約束な展開で、泣けた。
 ピックアップポイントに到着したのは輸送ヘリではなく武装ヘリだった。
 相応の気構えと装備があればどうとでも対応出来る標的だが、そのときチームにはどちらの用意もなかった。
 殿を勤めていたことで予定時刻に遅れたが為に、矢嶋は難を逃れた。
 軽は山中に分け入った。矢嶋は途中からライトを消していた。
 やがて、この軽に似つかわしい、みすぼらしい掘っ立て小屋の前で、軽を止めた。
 その小屋の地階が、本館だった。
 目の前の光景に美由紀は思わず息を呑んだ。
 AK47、RPG7、名前の判らないライフル、そして弾薬、弾薬!、弾薬!!。
「本気で復讐を考えていた時期もあった。もう遠い昔の話だ」
 美由紀はまるでそれ自体殺意を発散しているかの、凶器の群れを前に身をすくめた。
 そして、聞いた。
「どうして」
 矢嶋は怪訝な顔をした。この少女は何を言い出そうとしているのか。
「こんなに、親切にしてくれるの」
 あっけにとられた。そういえば、なぜだろう。
 初めて自問した。
 少女の外観は。まあ確かに美少女、それも今は凄みを帯びた美少女。
 でも、あまり関係ないような。
 境遇か。孤独に漂白を続ける者、同士の。
 文学的で少し宜しいが、違う気もする。
 逆に尋ねてみた。
「聞いて、どうする」
 今度は少女が驚いた顔をした。
 そう、ヤブ蛇以外ではない、自ら封じていた言葉。それをなぜ今更。
 少しして。
「わかんない」
 そうすると、年相応の幼い顔が覗く。
 余り賢いやり口ではないねそれは、と矢嶋は揶揄しつつも。
「私も余り賢い方ではないんでね。よく判らん」
 それにしては貧相な宿無しの仮面を脱ぎ捨て、人生の深淵を見知った、哲学者的な風貌に変った矢嶋は言う。
 二人は何とはなしに顔を見合わせ。
 どちらともなく、失笑した。

 7.

 それは想定外に軽い処分だった。
 本日より減俸半年間。現職据え置き。
 ”勝算”はないではなかったが、さすがに面食らった、呆気に取られた。身内に甘いにしてもいくらなんでもこれはない、程度があるだろうに。喜んで然るべきだが素直に喜べなかった。
 だが、筒井二佐が反面、大きな成果をもたらしたのもまた事実だった。
 成果は莫大なものだった。日本本土に進出していた中国軍・情報部の拠点の多くを押さえていた。
 特に都内と関東近郊に関しての情報は綿密で、これだけの規模の情報では、或いは関東圏内の中国側の拠点は全て網羅しているのではないかとの評価を受けたくらいだった。厚顔なモノなら、内通の誘いに乗ったフリをして中国側に浸透していたのだ、と言い切れる程の赫々たる成果ではあった。
 それは事実だった。
 筒井は中国系の二世だった。父祖は台湾系だったが流れている血は大陸のそれだった。
 中国からのスカウトは早期からで、入隊、自衛隊に入る前からのものだった。
 スカウトはなかなか執拗だった。筒井は始め拒絶の態度を示し、約1年を経た後に了承した。
 中国側は筒井の経歴を丹念に”消毒”し、そこから大陸の匂いを拭い去った。
 やがて筒井は情報畑に配属され、大陸側からの支援もあり、確実な成果を挙げるようになっていた。
 だが、筒井の側でも”ゲーム”を仕掛けていたのだった。
 大陸は血の信義を重視する。
 だが、筒井は、DNA的に大陸の血を半分受け継いでいても、中身は完全に現代日本人だった。しかし、大陸側は完全に過信していた。或いは瞞着されていた。
 筒井が示す、絶対的な忠誠の態度と行動、という筒井の仕掛けたゲームに完全に出し抜かれたのだった。
 筒井は、自覚的に二つの祖国を共に裏切る、淫靡な快感を提供するゲームを愉しんでいた。
 そう、愉しんでいたのだ。
 つまらなくなったから止めた。それだけだった。
 その日、大陸に衝撃が奔った。
「同志!!大変です!!」
 東京の筒井純敬< <あとで中国語読みのルビ振りたいです> >と連絡が取れない。
 筒井が現職のまま兼任することになったのは、中国側拠点を掃討する作戦の責任者だった。
 指揮官、である。
 日本側としては”踏み絵”くらいの心持ちであったのだろうが筒井からすれば笑止の一語だった。
 祖国を一つに選び直したときも、そして今も。何の痛痒もなかった。そもそも感情とは無縁な人間だった。
 筒井はかつての盟友を冷静に、徹底的に破滅へと追いやった。
 手法は簡単だった。各拠点を監視下に置きながら、つまらないものを次々に送りつけただけだ。
 それは、陸海空3自衛隊への入隊を促す、ダイレクトメールだった。
 日本国の情報機関は、ここが貴方方が日本本土に構築した拠点であることを良く存じあげておりますよ。
 所在が敵に筒抜けの、敵国本土にある情報拠点に何の意味があるか。
 何も無い。それが許されるのは大使館だけだ。
 本来であればそのまま活動を継続させそれを観察する手法が理想ではあったのだが、余りに多数であったので優劣も付けずに、大規模なものから小さなセーフハウスまで端から虱潰しに叩いたのだった。
 人員も機材も無駄に損耗させない、筒井らしい実にスマートなやり口ではあった。
 対して、大陸側からすれば。
 大損害だった。大失態だった。
 機材も人員も無事であれば、拠点の再構築は容易そうに見えるがそうではない。戦地で陣地を築城するのとは違う。それは例えれば、敵意に満ちた相手国の本土に、密かにネジ一本から工場を作り、更には物流を確保するのに似ている。昨日までそこには情報という貨物が、貪欲に生産されては整然と流通していたのだ。
 この密かに、というのが重要だ。
 徹底的な攻撃。
 徹底的に過ぎた。
 完全に追い込まれ、窮地に立たされた相手がどういう行動に出るか。
 窮鼠、ネコを……ではなく。日本人であれば経験的に知っているハズであった。

 そう、特攻である。

 そして、大陸にそうした文化が無いかといえば、そんなことは無い。
 自国民でさえ混乱に任せて千万単位でなで殺せる人種である。
 自国の都合で他国民をアレすることに躊躇するだろうか。
 しない。全くしない。
 大陸側は、形を変えた特攻に向けて突撃していった。
 日本領海近海。日本海の海面を割って、巨大な船体が姿を現した。
 そう、潜水艦である。
 潜水艦にとって、浮上とは即ち死を意味する。特に作戦行動中のそれはほぼ投降に等しい。
 しかもそれは原子力潜水艦、原潜だった。ますます浮上する意味はない。
 しばらくして更に異常な事態が起こった。
 船体のやや後部に位置する司令塔。その前の広大な甲板のうち、司令塔の近くに四角い穴が開いた。
 エレベータだった。
 エレベータは昇降を繰り返し、甲板上に都合三つの航空機を吐き出した。
 改・タイフーン級。艦名はおろか艦番号すら付与されていない。
 旧・ソ連が崩壊した際、外貨獲得手段として海外に叩き売られた有象無象の一つだった。
 それは、旧・大日本帝国海軍のもの以来の、潜水空母だった。
 タイフーン級が持つ豊富なキャパシティにものをいわせ、戦略核の代わりに航空機を積載したのだ。
 といっても、搭載3機予備1機ではほとんど何の役にも立たない。
 ジェーン年鑑にも載っていない超、秘密兵器ではあるが、結局、練習艦名義で動かしているに過ぎない。
 予算も少なく、錬度も無いに等しい。こうして非常の用に供され、出撃運用出来ているのは行幸にも近い。
 まず航空機の1機は飛行船だった。グレーの無地のペイントで所属を示すモノは何もない。
 続いて、飛行船の護衛だろうか。見慣れぬ機体が二機。甲板を割って出現したカタパルトを使って射出された。
 こちらは一応、ジェーン年鑑にもある兵器だった。
 西側のVTOL、垂直離着陸型戦闘機、ハリアーに対抗して開発された東側のYak-38・フォージャー。その後継を期待されていた、Yak-141・フリースタイルがそれだった。
 3機の機体は急速に遠ざかり、梅雨前線が活発な曇天に呑まれると、もう姿が見えない。
 一方、新潟港で水揚げされた荷物を積んだコンボイが、産業物産展での出展を名目にひっそりと旅立っていったが、この動きに注目した者は誰もいなかった。

 8.

 戦時下にあっては陸海空3自衛隊を統括する、市ヶ谷、防衛省地下に存在する統合作戦司令室。
 その空自ワクである、航空自衛隊総体司令部のブースは騒然としていた。
 日本海上空の空が、局地的な戦場へと変ろうとしていたのだ。
 長機を務めるマグス1は、再度、目標である不明機に視線を走らせた。
 不明機は、梅雨空、曇天を背景にそこへ見事に溶け込むような、ロービジのグレーのペインティングでのっぺりと全身を覆った、全長50メートル程の飛行船だった。
 国籍その他、所属や身分を示すようなものは何も表記されていない。
 現在、航空自衛隊の2機の戦闘機が要撃に上がり、飛行船をぴたりとマークしているところ。
 F15−FX。F15−Jを近代改修し延命を図った機体だ。かつて史上最強のドッグ・ファイターの名を欲しいままにした血統の正統な後継者であり、その戦闘能力は未だ必要にして十分な水準にある。
 「現時点の速度で、領空まであと5分」
 「交戦法規はクリア、繰り返す交戦法規は完全にクリア」
 「針路そのまま。呼びかけには一切応ぜず、か。完全に舐められてるな」
 警告の意味での威嚇射撃を3回、針路変更のコールもし続けている。
 総体司令官は深いため息を漏らすと一気に発令した。
 「日本領空を侵犯した時点での撃墜を許可する。但し呼び掛けは続行せよ」
 『了解!!』
 マグス1は力強く答礼してみせた、が。
 撃墜、は初体験であるはずだった。
 当然だ。航空自衛隊創設より、初の、領空侵犯機の撃墜になるのだ。
 『変えろよ…引き返せよ・・・』
 不明機への継続的なコールではなく、マグス1の祈りにも似た呟きが室内に溢れた。
 誰もそれを叱責出来ない。
 マグス2は先ほどから完全に無言だった。マグス1の行動をただ見守っている。
 「領空侵犯まであと1分」
 『畜生!!』
 振り絞るような絶叫を上げるとマグス1は決意を固めたのか、彼に似つかわしくない粗暴なマニューバで不明機を射界に捉えた。
 デッド・シックス。あとは軽くトリガーを弾くだけ。
 「不明機、領空侵犯!!」
 「マグス1、不明機を撃墜せよ。直ちに撃墜せよ」
 管制官の悲鳴と司令官の指令が交錯する。
 その瞬間だった。
 後に、マグス2はその光景をこう語った。
「何もない、無かった空中に、突然、ミサイルが出現したんです」
 外す距離では無かった。
 『うわあっつ?!』
 突然のアラート、ミサイル接近警報と背後からの衝撃に叩かれながら、それでも辛うじてベイル・アウト、機体からの緊急脱出に成功する。F15は片翼を失っても無事に帰還出来るほど頑丈な機体だ。その強靭性がマグス1を救った。マグス2も直後に同じ運命を辿った。マグス1を見ていたので、アラートの直後に躊躇い無くベイルアウトの手順に入ることが出来た。
『アクティヴ・ステルス?!』
 の一語を残して。
 後に残された司令室は騒然を通りこして雑然に突入していた。
「アクティヴ・ステルスだと?!ばかな、SFでもあるまいに」
 士官の一人が吐き捨てた。
「だが、それなら、いやそれ以外に説明がつかない」
 先任当直士官は冷静に事実を告げた。周辺を索敵哨戒する時間は十分にあった。レーダーからの情報にも、飛行船以外の国籍不明機の存在を告げるものはない。
「あった、ありました!おそらくこれです・・・」
 備え付けのジェーン年鑑を検索していた一人が声を上げた。
「Yak-141・フリースタイル、特殊迷彩実験機だと・・・あれが、なのか」
 一人が、呻く様に言った。
「詮索は後回しだ。問題はこの後どうするか、だ」
 司令官一人を残し、全員が凍り付いたようだった。
「イーグルと搭乗員でボディ・カウントをする愚は避けねばならん。共に国家の大事な財産だ。残念だが後の対応は陸自に委ねるとしよう」
 司令官は断腸の決断を下す。
 その直後だった。
 管制官が声を上げた。
「不明機、飛行船から全波長帯域へ向け発信が行われています」
 先任士官が即座に反応した。
「繋げろ」
 雑音交じりではあるが、流暢な日本語の声でこう伝えていた。
「当機を攻撃してはならない。当機の機体には通常の水素・窒素とは別に、致死性の生物、化学兵器が搭載されている。繰り返す・・・」
「陸自じゃない、海自だ!!。水際で阻止させるんだ!!」
 だが、不明機の航路は巧妙だった。
 海自から直ぐに応答があった。海自が現在保有する全戦力を以ってしても、目標の日本上陸は阻止出来ないという悲痛な叫びだった。陸自も同様だった。飛行船は増速しており、推定以上の快速だった。
 何を以ってしても、今や不明機の日本本土上陸を阻止しえる戦力も手段も無かった。
「テルミット・プラスがあれば・・・」
 誰かがぼやいた。
「ありそうでない便利兵器だよな」
 即座に否定された。

 9.

 智英は何ごともなく直ぐに開放されていた。
 何でヤクザ、いや暴力団が出て来たんだ?。安藤、そうとうな面倒に巻き込まれたみたいだな。
 そういえばここ最近、例の正体不明の頭痛が酷かった。何かが、自分の身体に起きようとしている。
 人間としての理性より、動物としての本能が、智英にそれを告げていた。
 官邸、首相官邸も混乱の余波を大きく受けていた。
 ここ数日、幾つかの会合をキャンセルし、当然、睡眠時間も削って事態の収拾に追われていた。
 中国軍の一部の暴走。北京政府は当事者能力を失っており、これを統御しかねていた。
 まるでところを変えての関東軍の再来だった。
 このままでは両国間の戦争に発展しかねない。
 日本側の深い憂慮と懸念に対しての北京側の回答に日本側は脱力した。
 一部の反動分子の仕業だ。北京政府はこれに関与していない。
 国内でも問題が多発していた。
 不明機、間違いなく中国軍の飛行船が領内に侵入するさい、これを阻止せんとした空自が支払ったコスト。
 そもその経緯、現場で発令された撃墜命令への追認。
 情報本部で行われた大規模作戦の追認。
 (今回の騒動はその余波であるらしいのだが)
 決断の人、のキャッチ・フレーズ通りにデシジョン・メイキングは彼が得意とするところだがこう多重であると、さすがに愚痴の一つも口にしたくなる。
「今度は何かね」
 首相は小さくため息をつく。
「すみません、安藤美由紀の保護についてですが」
 秘書官は、少し切迫した様子だった。なぜこれが今まで上がってこなかったのかと。
「アンドウミユキ?ふむ、可愛いコじゃないか。彼女がどうか?」
「”調理部”案件です」
 秘書官は、更に切迫した調子だったが伝わらなかった。
「ああ、またか!」
 案の定、首相は誤解した。
 そう、この日本で。
 いったい、過去どれだけの調理部で、どれだけの調理が行われ、どれだけの”事故”が発生していたことか。
 既に少し触れたように調理部案件は、調理部を持つ各校に一人、連絡官兼任の教員が配され、速やかに回収されて来たのだ。かつての事例では。
「新型なんです」
 つねに冷静沈着をモットーとする秘書官は僅かに声を高め、訴えた。
「今までのものとは別なんです、劣化しないんです、服用毎にボトムアップするんです」
 首相は眼をぱちくりさせ、暫く考え、そして。
「キミ!それはもしかして大変なモノじゃないのかね?!」
 ようやく通じた、よかった。秘書官は語勢を整え。
「そうです、大変なモノなんです」
 秘書官はその責務を果たした。
「で、それで彼女は今、どこに?!」
 首相は勢い込んで言う。
「現在、行方不明です。通例通り陸自の特殊作戦群から1コ班を充てていますが、戦力不足でして。調理部案件は原則、内閣直轄ですので、現場から増援の許可を求めて来たんです」
 そのとき。
「首相!至急電です」
 連絡員が電文を手に飛び込んで来た。大陸側で暴走している当局からだった。
「ミユキ・アンドウの身柄を渡せだと?!何をふざけたことを!!」
「回答は如何致しましょうか」
「正規の外交ルートを通す様に、だ。相手をする必要はない」
 秘書官に向かっては。
「増援を許可する、いや、投入可能な稼動全力の運用を許可すると伝えろ。美由紀くんを何としても無事、保護するように、とな」
 飛行船の詳細はまだ官邸に届いていない様だった。
 かつての盟友を徹底的に窮地に追い込む。
 その結果の暴発を予見出来ない筒井ではなかった。
 否、その暴発を予見していたからこそ、どう暴発してみせるのか、それを日本はどう食い止めるのか。
 結局は筒井が仕掛けた新たなゲームなのだった。局外で自身はその行方を見守る、一観戦者としてだ。
 朝。
 んーっつと伸びをする。
 地階から掘っ立て小屋に上がり、ぶらりと近所をお散歩。
 もう梅雨もそろそろ空ける。
 山の空気が、とても、清清しい。時々、駆け足。
 うっすらと汗をかいて戻り、ぬるま湯でアサシャン。徐々に熱くしていく。
 上がったら、丹念にドライヤーをかける。ざっくり切ってしまったのでそれほど手間はない。
 今日の朝の当番は矢嶋だった。さてどんな朝食が・・・。
 ふいに、涙が零れ落ちた。
 何でもない、ただの日常が、こんなに嬉しい、素晴らしいものだっただなんて。
 でも・・・いつまでもは続けていられない、それは、判っていた。
「お早うお姫様」
 美由紀は、おはようございます、矢嶋さん、と応えながら、下した決断を伝えた。
「日本を出たい?」
 矢嶋は何度か頷き。
「まあ、それが一番の解決策だろうね。現状では」
 そして、即座に実行。電話を掴み海外局をコールするとブロークンな英語で会話を始める。
 
 10.
 
 中国情報部が日本に向け放った刺客、特殊飛行船は一路東京を目指し南下していた。
 無事、日本上陸を果たすと減速し、今度はのろのろと焦らす様な低速航行に移行していた。
 そして、遂に東京都下に向け、都知事の頭越しに非常事態宣言が発令された。
 無断外出禁止、電話も禁止、ネットも禁止。事実上の戒厳令宣言だった。
 無論、東京に隣接する一帯もその対象だった。近県から人員や車両が流入しては意味がない。
 美由紀と矢嶋がそれを知っていたら仰天しただろう。
 しかも、その遠因であり同時に主役でもある事実を知ったならば更に。
 矢嶋の”アジト”にはテレビは無く、ラジオはあったが聞く機会はなかった。
 先ほどの電話で、午後6時には東京湾の目的の埠頭に到着する約定を交わしていた。
 そろそろ出かけないと。
 矢嶋はごそごそと獲物を積み込んでいる様子。
「兵士は最悪想定、これでね」
 検問に引っかかるのを想定はしていないのかしらん、と美由紀。
 一応、ここは矢嶋の戦士のカンを信じることに。
 今日も美由紀は矢嶋から借りた男モノを着込んだ。ショートヘアと相まってかなりワイルドだ。
 そろそろ出るぞという矢嶋の声と共に小屋の奥から姿を表したのは軽では無かった。
 まるで装甲車だ、ホントに戦地に向かうみたいだ。美由紀は心の中で呟いた。
 姿を現したのはハマー。軍用ではハンヴィー、いや逆に本来軍用車両で、その民生品がハマーだった。美由紀が装甲車、との感想を持ったのも故あることだった。
 ハマーは山道に乗り入れ、ゆっくりと降り始めた。
 理由は無かった。直観だった。それが、智英には判った。
 この一連の騒ぎの中心に、安藤がいる。
 東京近県を含め、学校も全て休校だった。テレビもまた全ての放送局が同じ内容を伝えていた。
 非常事態宣言発令、外出禁止、自動車使用禁止、携帯・固定電話使用禁止、ネット使用禁止・・・。
 智英は決然と立ち上がると、家族に宣言した。
「ちょっと、出かけてくる」
 両親と弟はあっけに取られた。
「出かけるって智英、表に出ちゃいけないんだよ?」
 両親の声は、今の智英には届かなかった。
 安藤が、呼んでいる。
「ごめん、キー借りるよ」
「ええっ?!」
 もちろん無免許運転だがAT車なので、遠出の際は家族の公認でステアリングを握る機会も少なくはなかった。
 自分を必死に呼び止める家族の声を振り切って、智英は戦場へと乗り出した。
 もちろん、本人にその自覚は無かったが。

 11.

 八方塞がりだった。
 官邸では今回の一連の事態に対し、緊急対策本部が開設されていた。
 名称が、調理部案件対策室本部となってしまい少々情けなくはあるが、しかしながら対象とすべき、進行している事態はどこまでも深刻だった。
 中国政府は今回の事態に対し、知らぬ存ぜぬを押し通していた。
 それは事実そうではある様なのだが、身内の一部局の暴走を止めるべき、何らかの対処は取って然るべきであるにも関わらず、その兆候すら確認できず、むしろ、今回の事態を”壮挙”として歓迎している節すら見受けられる。だが、それはある意味当然とも言えた。中国からすれば既に敗北必至の第二次冷戦、米中の権力闘争の狭間で、在日米軍こそ撤収させたものの未だ北米連合の中核となって、中国を締め付けて来ている、仇敵、日本。その日本をここまで翻弄して見せたのだ。流石に表立った支援や公認こそ出来ないものの、好意的中立の立場を維持することで、事態をより紛糾させ中国優位の環境を築こうとしているらしかった。
 交渉は無駄だった。時間の浪費でしかないことに気付かされ、チャンネルを開いたままではあるものの、事態打開を目的としての積極的な手段としては放棄された。
 一方、遮るものとてなく不明機、今や正体を暴露した飛行船は悠々と南下を続けていた。
 護衛の、アクティヴ・ステルス機能を持つフリースタイル2機はその光学迷彩を解き、突然空中に現れた機影に地上の観衆が驚きの声を上げている中それをあざ笑うかの様に2、3度バンクを打つと、機首を返し帰還コースに乗った。
 そう、飛行船は日本本土に上陸を果たしていた。
 初動で迎撃を受け持った空自、航空総体司令部内では対処を巡り、短くも烈しい激論が戦わせられた。
「今、撃墜すべきです!。例えどれだけの犠牲を払おうともです」
 先任士官は譲らなかった。
「その為の自衛隊です、醜の御盾です、ここで逡巡してどうするんです!!」
 その通りではあった。しかし。
「風向きはどうなんだ」
 司令官が確認した。
 あ、と先任士官は声を上げた。
 結果は絶望的だった。今の風向きで飛行船を撃墜すれば、風下に位置する1隻の外国船籍貨物船と1隻の梅雨明けの日本海に乗り出した観光客を満載した遊覧船、そして市街地の一部にも被害が及ぶ危険があった。
「BC兵器などブラフに決まって・・・」
 先任士官の声はか細く消え入った。
 ブラフ、恐らくは、いやたぶん。
 だが、事実であったとしたら。
「それでも・・・撃墜すべきです!!本土に上陸させてしまっては事態は今以上に悪化・・・」
 言葉は尻すぼみに空中に溶けた。そんなことは誰でも判っている。
 これ以上の損害を出し、撃墜に成功したとして。
 BC兵器が本当に搭載されていた場合、どうなるのか。
 そのときだった。管制官が飛行船の増速を伝えてきたのは。もう迎撃すら間に合わない。
 飛行船が領空侵犯に成功した時点で、始めから何もかもが手遅れだったのだ。
 日本本土への上陸を果たした飛行船は、頃やよしとしたか発信するメッセージを切り替えた。
 我々は、現在日本から中国へ向けられている、不当な圧力に抗議すべく決起した有志一同である。
 日本は卑劣な米帝の走狗となって、中国に対し不当な圧力を掛け続け、結果として不当な利益を貪っている。
 これは直ちに是正されねばならない。
 その誠意の証として、取り合えずミユキ・アンドウの身柄を中国に引渡すことを我々は要求する。

 支離滅裂な声明だったが、ここに遂に美由紀の名前が出て来たのだった。

 引き渡したくても美由紀の身柄は依然、日本政府の元にはなかった。無論あってもそういう交渉に応じるつもりは無かったが。安藤美由紀は未だその所在が全く不明だった。あるスタッフは既に国内に居ないのではと発言し、いや既に死亡している可能性もと別のスタッフが言う。かもしれないかもしれない。そうしたときだった、新しい情報が入って来たのは。警視庁から出向して来ているスタッフが声を上げた。
「荒川の検問が何者かの手で突破されました。乗用車一台が都内に侵入、車種は不明ですが大型のジープとの報告。現在可能な全、移動に追跡を命じています」
 安藤美由紀と”ジーマ”だ。ほぼ全員が同時に叫び声を発していた。首相は官房長官の顔を見た。彼も深く頷いていた。根拠は無いがそれでも、その他大勢の日本人が従順な家畜の如く、政府の威令に服する中でアクション・・・おそらく間違いはなさそうだった。

 12.

 山を降りきって17号に入ってからしばらく、当初の疑念は深まった。
 交通量が異様に、否異常に少ない・・・。というか、他に走っている車が一台もない。
 あっという間に荒川大橋が見えて来た。
「検問あるじゃない!」
 ビンゴと言わんばかりの美由紀の悲鳴だったが矢嶋は別に気になるコトを感じていた。
 それとは別に検問は問答無用で突破する。いや。
 検問では無くこれは阻止線だ。
「ベルトを締めろ。口も閉じてろ」
「え、まさか・・・」
 矢嶋は応えず、シフトダウンしながらアクセルを踏み込んだ。
 タイヤが鳴り、ハマーが吼えた。
 パトカーはその白黒ツートンカラーが発散する威圧感ほどの物理的剛性は、実は具備していない。日本でのパトカーによる検問や阻止線は、物理的な能力より日本人生来の順法性に訴えるところが大きい。
 なので、問答無用で突破、などという無法には弱い。ましてや軍用車に近い車両から戦意を向けられては。ほとんど阻止線らしい本来の抵抗を示せず、ハマーの突撃を受けたパトカー2台は哀れに弾き飛ばされ、1台は横転しもう一方は無様に腹を見せひっくり返った。
 阻止線であるので当然、荒川大橋の上に他の車両の姿はない。シフトアップしながら引き続きひたすらアクセルを踏み込む。今度は速度で乗り切る。ハマーの行く手を遮ろうとした、また2台のパトカーがあっけなく蹴散らされた。
 背後で複数のサイレンの音。どうやら追跡してくるらしい。
 在り得ない、と思いつつ矢嶋は口を開いた。
「まるでクープでも起きたみたいだ・・・」
 くーぷ、くりーぷ、くれーぷ。呆けたように口先で言葉を弄ぶ美由紀に、ああクーデターねと矢嶋。
 くーでーたー?!。
 矢嶋が、確かにそうした世界の住人であることは、もう知っていた。
 だが、ここは日本の東京ではないのか。
 美由紀は連続した荒事にすっかり血の気を失っていた。一体、何が始まろうとしているのか。
 舌、味覚、大脳生理学、あれやこれや。”実験”に関しての知識、情報については正直、そこらの教授にも負けないぐらいの蓄積を自負出来たが、今、自分の周りで起きようとしている事態に対しては全く無力だった。
 それでも、脳は自律的な機能を見せ、記憶野から検出された一つの単語を彼女に示した。
「ううん、もっと的確な用語があるわ」
 それは、クーデターよりははるかにマシな回答に思えた。まだ現実は日常と繋がっている、と。
「なんだい」
 素直に教えを請う矢嶋に。
「非常事態宣言」
 矢嶋はそれに気付いた。慌ててラジオを付ける。
『・・・自動車使用禁止、携帯・固定電話使用禁止、ネット使用禁止、都民の皆さんは落ち着いて行動して下さい。こちらは内閣府です。非常事態宣言発令、外出禁止・・・』
「ほんとにビンゴだな」
 矢嶋はそれでも呆れた。一体、何が起きたってんだ。
 しばらく山に篭っている間に、世界がひっくり返ってしまったようだ。
 ちらりとバックミラーに視線を走らせる。今は無害だがこの先うざったい。というよりどっちみちハマーの最高速度では振り切れない。
 美由紀は慌ててその手を押さえた。矢嶋は彼女の手を軽く振り払い。
 投擲した。
 爆発音。電信柱がゆっくりと傾きそのまま倒壊する。
 破壊音が連続する。何台かのパトカーは横倒しになっていた。後続する車両は存在しない。
「何てことするのよ?!」
 美由紀は涙目になって抗議した。ここ数日間平穏な時間を過ごして来ただけにまるで夢が砕けていく様で。
 荒川を、阻止線を突破したとき、同時に日常との境をも越えてしまったのだろうか。
「奴らもプロだ。あれくらいで死人は出てない、たぶんな」
 いや、あの夜、矢嶋に出会って、総てが変わってしまっていたのか。
「そ、そういうコトじゃなくて」
 いや・・・あの日の、調理実習室で、私の世界は変わってしまっていた。
 矢嶋はアクセルを緩め、美由紀の顔を覗き込んだ。
「じゃあ、どういうコトなんだ」
 わざと美由紀のクチマネをしながら矢嶋は問質した。
「あ、あんなコト・・・」
 矢嶋さんは、悪くない。
「ムダだ、ダメなんだ」
「え、何が」
 心底不思議そうに美由紀はたずねた。
「これから戦いになる。匂いだ、カン、だ。非論理的だ、判っている。だが私はまだ生きている。私はそれだけを信じる。今なら判る、あの荒川がルビコン川だったんだ。戦うなら先手必勝だ。イニシアティブを握る者が戦場を支配する。勝利の女神は愚鈍なヤツには惚れないもんなんだ」
 そこへ、路地からゴミバケツや雑多なガラクタを弾き出しながら、大小の、真新しい傷跡だらけの一台のセダンが現れそのままハマーの右側に並んだ。
 すかさずハンド・ガンのハンマーを起こした矢嶋を美由紀は今度こそ必死で止める。
 見覚えがある横顔だった。
「待って、今度こそ待って!!知・り・合・い!!ト・モ・ダ・チ!!」
「友達?罠じゃないだろうな?」
 それでも美由紀の懇願でハマーを停めた。
 美由紀はようやく彼の名前を思い出した。
「智英?!何であなたが?!ここに居るの?!」
「安藤、いや美由紀」
「智英?」
 様子が違った。
「判ったんだよ、いや今は判るんだよ、おれも」
 美由紀は息を呑んだ。まさか。
「そのまさか、さ。全く、大した悪食だった」
 智英は語った。
 強引に家を飛び出してから例の頭痛が始まった。
 酷い痛みだった。どんどん悪くなる。いつもの倍、10倍、いや100倍。
 まずいと思ったときは遅かった。あっさり失神した。
 車はそのまま直進を続けていたが、T字路に行き当たりハデにクラッシュし、その衝撃で智英は目覚めた。
 頭痛はウソの様に消えていた。
 代わりに、頭が沸騰した。
 あの日の記憶が蘇った。
 そして、誰も口を付けようとしないあの料理を一人で平らげた記憶も。
「安藤・・・そうだったのか」
 安藤は、寂しかったんだ。
 たった一人、ある日いきなりジーニアスの世界に足を踏み入れてしまい、そして・・・。
 そう、仲間が欲しかったんだ。だから。
 検体を、仲間候補を探していたんだ。実験室でマウスを見ていたんじゃない。
 ただ、疲れて、寂しくて、それでそのとき、少しだけ虚ろな眼差しをしていただけだったんだ。
 それを、いつも間近に見ていたのに、何でおれは。
 安藤、いや、美由紀。
 会いたい、会って、伝えたい。
 この、想いを。
 すると、何かが勝手に頭の中で動き始めた。
 今まで断片的か、或いは一過性で直ぐに忘れてしまっていた情報が、物凄い勢いで整然と組みあがっていく。
 これが・・・、美由紀が見ていた”世界”なのか?!。
 自身の変化に戸惑う間も無かった。
 様々なデータがぶつかりあいながらそれぞれ形を変え或いは位置を変え、頭の中に一つの論証の構造物が自動で製作されていく。日本のこと中国のこと暴力団どもの妄動そして。
 北米が日本に仕掛けるワケがない。今回の事態を仕掛けたのは、中国だ。
 そして、その中心にいるのが、美由紀なんだ。
 理論では無かった、理屈でもない。
 それは、直観、論理をショートカットして真実を探り当てるスキル。
 美由紀。今、いく。
 智英はアクセルを踏み込む。

 13.

「矢嶋さんの見立ては正しいとおれも思う。今の美由紀の位置はニュートラルだけれど、そこから動こうとしたら必然的にどこかとぶつかることになる。こういう時に国家は言葉は使わない、より確実な武力に頼ろうとする。複数の思惑が絡んでいるなら尚更だ。絶対に衝突は回避出来ない」
 それは正にジーニアスなコミュニケーションだった。傍らの矢嶋にはさっぱりどころか全く、二人の会話が理解出来なかった。身振り手振りも交えながら、あのだのそのだと何を指すのか全く意味不明の指示代名詞と”切っ掛け”だけでその会話は構成されていた。以心伝心の具象そのものだった。
 美由紀は少し涙ぐんでいた。智英もそれは同じだった。
 矢嶋は理由の判らない居心地の悪さを覚えていた。思わず、感動の再開中申し訳ないんだが、と半畳を入れそうなったがその隙すら無かった。時間が貴重であるのは二人とも知悉していた。会話を続けながら智英は助手席に、美由紀は後部座席に乗り込んだ。矢島は苦笑した。白馬の王子様のご登場ってワケか。
 ようやく矢嶋を加えた会話の、智英の第一声がそれだった。
 美由紀は情けなさそうな顔ででも、と言い掛けそのまま口ごもった。
「判ってるだろ?そう、不毛な感情論だ」
「でも」と美由紀はそれでも言い募った。
「せめて、政府の保護を・・・」
「君たちの理想は言葉じゃなく何となく理解出来た、気がする」
 矢嶋は初めて口を挟んだ。
「政府はそれを阻害するなうん、間違いない」
「政府高官の玩具が関の山だね」
 智英も同意する。
「血路を開いて、一時、日本から離れるしか、ない」
「これは、素晴らしいものなのに」
 美由紀は諦めきれなかった。
「皆、幸せになれるのに」
「その、前提も疑問符だよ」
 と智英。
 え、何が、と言い掛けた美由紀の前で、タブレットを一つ口に放り込み、おえっと吐き出してみせる。
「何するのよ!!もったいない」
 フリ、だった。智英はタブレットを指先で弄びつつ。
「一般的シミュレーションさ。美由紀たちもそうだったろう?」
「あ・・・」
 かつて自分たちが智英の創作料理にどう反応していたか。言われて見れば当然だった。
「そんなにヒドイのか」
 ひょいと矢嶋がそれを手にした。
 一瞬の出来事だった。そのまま口に放り込む。
 舌先を、否、口中を衝撃が突き抜けた。手榴弾を口の中で爆発させた方がまだマシと思えるほどの。
 不味い、などというのん気なものでは無かった。舌に備わる感覚器官全てを同時に破壊せんとする悪意。
 この世に存在する全ての悪意と不都合を味覚に置き換え、タブレットに凝縮したかの。
 舌先をなぶるその”威力”に耐え切れず自動的に吐き出しそうになるがしかし予感があった。
 意志の力で捻じ伏せ、噛み砕き、嚥下する。
 それは直ぐに到来した。
 
 ずぐん
 
 頭の中、脳の中枢で何かが弾ける感触。
 その時だった。
 破壊音というより破裂音を発して、防弾仕様のフロントグラスが砕け散る。
 一撃で。
 対物ライフルか。おれを標的に狙って来たか。
 邪魔なのか、そうだろうな。
 一瞬だった。思考がほとばしる。
 自分で自分に驚く間も無かった。
 空中に、丸い円が見える。
 銃弾だった。徐々に大きくなる。もちろん接近して来ているのだ。
 自身、身をかわしながら後席の智英も弾き飛ばす。
 銃弾はヘッドレストを貫通し、智英の過去位置を通過し後席をも貫通、車体にメリ込む。
 狙撃者の驚愕が伝わってくる。バカな、在り得ない、と。
 アクセルを踏み込む。
 そしてこちら側からも応射。後席に伸ばした手に智英がライフルを渡す。レミントンM700、ボルトアクションライフルの代名詞とされ、ナム戦から現代にまで伝わる名銃だ。
 二発目の弾の”見え方”から狙撃位置の見当はもう付いていた。
 両手をハンドルから離し、手放しでハマーを進めながらそのビルの屋上にスコープを向ける。
 発見。明らかに動揺している。
 1射目で弾道計算、2射目で相手の肩を射抜く、3射目で相手のライフルを、破壊。
 流れる様な見事な狙撃を行い、傍らにM700を置き、再びハマーのハンドルを握る。
 矢嶋自身が一番驚いていた。スナイパーの経験は無かった。だが、判ったのだ。
 なるほどこれは、凄い、大したシロモノだ。為政者がこぞって欲しがるワケだ。
「もう2、3粒、もらうぞ」
 さすがは戦士、と二人はその点でも驚いていた。フツーの人間の殆どは二度とタブレットを口にしようとしない。殆どの人間はその苦痛に耐え切れない。粉末状にして吸引する等を試みるがそれではまず、効果はない。舌で味わうことに意味と理由があるからだ。しかし矢嶋は再びその”荒行”を平然とこなしてみせた。
 二人は更に驚いた。矢嶋の身体にみるみる”張り”が出てきたからだ。元々戦士らしい筋肉質の身体だったが、今の矢嶋は現代戦の戦士ではなく闘士、コロッセウムに佇む剣闘士の様な肉体だった。着込んだ戦闘服の上からでもそれが見て取れた。矢嶋の緊張感に反応しての”脳”からの指令により、その身体が対処している様だった。

 14.

 官邸では非情の決断がなされていた。
 侠雑物であるジーマを排除すること、そして安藤美由紀を日本政府の手で保護すること。
 瞬間にして大量発生した警視庁の負傷者の山に、直ぐに警察は戦力として除外する決断が下った。
 警察の仕事は戦争ではない。
 荒川検問の突破から少し経って、また検問破りが発生した。
 今度は大規模だった。複数のトレーラー、コンボイの一団が侵入して来たというのだ。
 同時に、歌舞伎町方面でも動きがあった。複数の人員とそれに車両も動き始めているという。
 奴らだ。誰かが呟いた。
 これも、間違いないようだった。拠点を潰された中国が、強引に地上戦力を展開して来たのに違いない。
 これはもう既に、テロに名を借りた戦争以外の何者でも無かった。
 中国政府に問い合わせても、例によって知らぬ存ぜぬだった。
 首相は決断を下した。実力を以って、排除する。
 陸自の投入が即座に決定された。名目は治安の回復。
「ここはRCVに働いてもらうか」
 中隊長は独り言のようにつぶやいたあとで、隷下部隊に発令した。
「第2偵察班は狙撃1班と協同し歌舞伎町の敵を制圧する。武器使用は自由」
 命令を受けたRCV、87式偵察警戒車2両とLAV、軽装甲機動車2両は、既にこれあるを予期して現場周辺に展開を終了していた。
 歌舞伎町界隈から靖国通りへ雪崩れ打って現れた車両群のアタマを2両のRCVが抑え、すこし離れてLAVが停車する。
 セダンにハコ乗りしたチャイニーズマフィアが罵声を張り上げ、一斉にクラクションを叩き鳴らしたが何の効果も無かった。
 チャイニーズマフィア側の誰かが発砲した。散発的だった銃火は炎が燃え立つ様に一気に広まった。
 豪雨に叩かれる様な車内の中で、1号車の車長が声を張った。
「撃チ方ハジメ」
 2両のRCVは、2門のエリコン・25ミリ機関砲で猛然と射撃を開始。
 セダンの群れは爆発し、弾け飛び、たちまちミンチを詰めたスクラップの山に変わっていく。
 散漫だった火線がRCVに集中した隙をついて、LAVから展開した狙撃班も射撃を開始する。
 慌ただしく方向転換を図ろうとしていた車列最後尾をまず射止め、未だ応射してきている射手、火点を一つずつ的確に潰してゆく。
「撃チ方止メ」
 戦闘開始から約1分で部隊は戦闘目的を達成した。
 完璧に一方的な勝利だった。動く目標は無かった。
 コンボイに対しての阻止作戦は更に戦争以外の何物でもなかった。
 当てられたのは対戦車ヘリ2機、ロングボウ・アパッチだった。
 打ち上げられて来た対空ミサイルをフレアにより難なく回避すると、ホバリングで空中に占位しつつ20mmチェーンガンにより銃撃、攻撃を開始した。
 1機が足止めに占位する一方、もう1機はぐるりと包囲するようにコンボイを周回しつつ銃撃を浴びせる。
 展開する暇も与えず、これも一方的な殺戮となったが相手がそもそも自殺攻撃の部隊であるからにはやむ終えなかった。
 戦闘終結後、ガナーの一人は思わず吐き気を覚えた。文字通りの血の池がそこに出来上がっていた。
 矢嶋はボヤいてみせた。
「マジかよ。遂に陸自で阻止線張ってきやがった」
 ダメよ!!ダメだからね?!と美由紀。
「ああ全くダメだよ。装甲車とじゃ勝負にならん」
 その場でスピンターン。一通の交通標識を当然、無視して路地裏に逃げる。
「ピックアップポイントはどこなの?」
 と智英。
「晴海方面なんだが・・・これはムリだな」
「逃し屋と連絡は取れないの」
「今は海上だから。無線機でもないと」
 無線機か・・・と智英。
「奪うしかないな。そして逃し屋と連絡する。会同点の変更だ」
 再びスピーンターン、ハマーは今来た経路を逆行する。そして急ブレーキ。矢嶋はハマーを停めて、先ほどのM700を片手に路上に立つ。
「どこへ行くの?!」
 美由紀の叫びに。
「決まってる。さっきの阻止線を強襲する」
 再び口を開いた美由紀に。
「大丈夫だ、優しくやるよ」
 言い置いて矢嶋は駆け出した。
 本当に身が軽い。M700をぶら下げていてもまるで羽毛の様だった。
 見当を付け、路地裏の狙撃ポイントに着いた。狙撃開始。自動小銃の様な射撃速度が可能な事に自分で驚く。
 自衛隊員が肩や足を撃たれ叫びを上げながら次々と路上に転がった。
 錬度の高い部隊だ。直ぐに矢嶋の射撃陣地を看破した様だ。
 応射が始まる前に気配でそれが判った。狙撃を切り上げ次の射撃ポイントに向け移動する。矢嶋の過去位置が銃弾で耕され、路地に積まれた雑貨や古新聞などが空中へ舞い散る。
 その時にはもう矢嶋は次の射撃を開始していた。再び殺すことなく慎重に部隊を無力化していく。
 移動と攻撃を3セット程繰り返したところで、部隊が恐慌状態に陥った気配を感じる。所謂モラルブレイクだ。それに気付いたのは、元々の経験とセンスだが更に磨かれて精度が上がっているのを感じる。負傷者を搬送しながら部隊は素早く撤収を始めた。やはり錬度の高い部隊だ、引き際を心得ている。装甲車、87式偵察警戒車が殿を勤めたがそれも直ぐに走り去った。助かった。歩兵を下げて装甲車が居座り、メクラ撃ちでもされたら厄介なコトになるところだ。ここ東京、自国の首都であるので手控えてくれたのだろう。
 十分距離を置いたのを確認して、矢嶋は路地から現れた。様々な備品が転がっていた。もちろん無線機も。
 そのハンディタイプの無線機を手に悠然と戻った矢嶋に比べ、二人は極度に緊張して見えた。如何に頭が廻ろうが、それなりに身体が動こうが、荒事とは無縁だ。戦闘に要求されるメンタルでの要素は大きい。トリガーを引く、相手を確実に傷つける。これを平静に行えるのは訓練による日常化だ。少々の身体能力でどうこう出来るものではない。一つ間違えれば相手を、否、基本的に兵士は相手を殺す為にトリガーを引く。その際要求されるコストは既述の通り。
 先ほどの戦場音楽ですっかりびびってしまったらしい。
 今さらながらに自分たちが”武力衝突”などというコトバ遊びと無縁のリアルな実戦の中にいることを。
 矢嶋はそれを平然と無視した。新兵のビビリでその度に立ち止まっていては作戦の完遂は当然不可能だ。
 例によってのブロークン・イングリッシュで会話を始めた矢嶋に、まず智英が、次いで美由紀が少しずつ血色を取り戻した、そして今さらながらに矢嶋を仰ぎ見た。
 矢島は、或いは凶獣、かもしれない。
 だが、今、自分たちは彼の庇護下にある。
 それは心から、有り難いことだった。
 智英は密かに自分を恥じた。先ほどの発言でこう心の中で付け加えていたのだ。
(でも矢嶋さん、あなたの存在自体が各勢力との衝突を誘発している事実も否めません)と。
 もし二人とも矢嶋の庇護下になかったら・・・美由紀は野垂れ死にしていたかもしれないし、とっくに中国に拉致されていたかもしれない、最善でも既に政府の保護下に。
 そして、おれは、こうして美由紀と再会することも。
 有難う、矢嶋さん。智英は心の中で彼に手を合わせた。
「話はついた」
 矢嶋が日本語に戻って言った。
「明日の午後、静岡に変更して貰った。このまま突破して神奈川に出るぞ」
 そう宣言したときだった。沈黙していたラジオが再び喋り始めたのは。

 15.
 
 そういえば、いつの間にか非常事態宣言の垂れ流しは止まっていた。
 その付けっぱなしだったラジオから何かが流れ始めたのだった。
 始めは、ノイズだった。それが少し続いた、後の内容に流石に全員があ然とした。
「……こちらは”日中格差を是正する有志の会”だ。我々は10キロトンの戦術核弾頭ロケット弾を保有している。我々は今、皇居を射程に納めた。我々の要求は米帝の走狗となり、中国を不当に苦しめている日帝の所業を悔い改めさせ、誠意ある態度を求めることにある。その証として、ミユキ・アンドウの身柄を引き渡すことを要求するものである……」
 途中のゴタクはどうでも良かったが戦術核と美由紀がどう繋がるのかが完全に意味不明だった。
 それでも放っておくことは出来なかった。
 戦術核をどうするというのか。
 撃つのか?!皇居へ?!。
「矢嶋さん!!これどう使うの?!」
 美由紀は必死の形相で無線機を取り上げた。
 矢嶋はまだ少し呆然としながら美由紀から無線機を受け取り上の空で操作した。
 再び矢嶋から無線機を受け取る。どうやら無線機の所属する原隊をコールした様だった。
 相手が話し出す前に美由紀はそれにおっ被せて叫んだ。
「私がその安藤美由紀です!!誰でもいいから偉い人に代わって!!」
 向こう側で少し混乱の気配の後、雑音交じりの声がした。
「私でいいだろうか」
 TVでさんざん聞いた、深みのある声。総理大臣だった。
「安藤美由紀です!!この度はお騒がせしましてすみません!!」
 そうではなかった、もっと言いたいことはたくさんあった。
 だが、それこそ正に非常事態だった。些事には関わっていられない。
「私は、どうすればいいのでしょう?!」
 相手は、首相は沈黙した。やがて、聞き取り辛い細い声でいった。
「相手はテロリストだ。要求に屈するワケにはいかん。今回の件は歴史の良い教訓となるだろう」
 美由紀は何か言おうとして言えなかった。
 国の為に犠牲になってくれと言われた方が、素直に反発出来るだけまだラクだった。
 頭が真っ白になっていく。
 こんな時こそ、何か、何か素晴らしい妙案が、自動で。
 ムリだった。ムダだった。0に何を掛けても0だった。
 直観はエラーを吐き出し続けている。
 何も手はない。

 いや。

 矢嶋は自分を信じると言った。
 私は何を信じる?
 出来る?

 智英は止めようとして、自分も一緒に”走った”。
 ざらざらざらざらばきくしゃめきごくり。
 タブレットの残りの全部を、二人で仲良くはんぶんこして、飲んだ。

 ぞごん

 それは、訪れた。
 

 16.

 何とかしなきゃ。何か、いい知恵は。
 想いはそれだけだった。
 それだけで。

 二人は、空を飛んでいた。
 誰かがそれを見て指差し、声を張り上げた。
 
 そのまま何故か”その”飛行船に近づき、平行して飛行した。この飛行船が今回の騒動の主役?さっきの声明の主?。そうであるらしかった。
 飛行船の乗員も気付いた。声を上げている。
 突然、撃たれた。機関短銃の一連射をまともに浴びる。
 だが、弾丸は身体に吸い込まれて無くなった。何ともなかった。
 飛行船の船室で動揺が起こっているのが伝わって来る。
 飛行船の船体が何か禍々しいものに覆われているのが判った。
 美由紀はそれに気付いて、まずそれを、その分子構造を解きほぐすことから始めた。
 あやとりをしている様な感触だった。みるみる飛行船は綺麗になってゆく。
 そうしていたら、遂にロケットが発射された。
 智英が美由紀の手伝いを止め、ロケットを追いかけて飛んだ。
 
 いや、飛行ではなかった。瞬間移動だった。
 そのままロケットに馬乗りになり、弾頭を引き抜き、両手で潰した。
 ダンボールの空き箱を潰すほどの手応えもなかった。潰れたあと、それは手の中でさらさらと角砂糖が溶ける様に消えた。残ったブースターは蹴り飛ばした。皇居のお堀に落ちて、派手な水柱が上がる。
 飛行船は針路を変え、遁走に入った。だが、周辺の空域を哨戒していたF15−FXが目ざとくそれを見つけピタリとその前後を押さえた。すると、乗組員は次々と空中へ身を投げた。末路だった。

 それは、人間の最終進化の一つの到達点だった。
 現人神となった二人は、現人神がおわします住居の上を飛行しながら、どちらとも無く笑い合った。

 そして、二人は徐々に気付いた。
 地上から浴びせられる視線を。
 そう。
 街角に、そこ、ここに。
 神は、立っていた、或いは座禅を組んで瞑想していた。
 神々が集う国、日本。
 まさしく、”八百萬の神々”が棲まう国、日本の姿がここにあった。

 危機は去った。
 手段であり目的でもあった少女と、その親友による究極の自己解決であった。
 中国はその手駒の総てを完全に失い敗退。
 日本政府も、もはや現人神となりおおせた、その”標的”にこれ以上どういう方法手段を以ってしても、干渉すら許されないはずだった。

 二人は仰ぎ見る矢嶋の元に降り立った。
 ふいに、美由紀が言った。
「ああ、おなっかが、すいたっ!!」
 二人は爆笑した。
「よーし、何でもおごってやるぞ!!中華街で食ってくか?」
 矢嶋が請け負った
「じゃあ、ラーメン!塩ラーメン食べたい!!」
「お安い御用ですよ、女神様」 
 

 その後、同人誌界で空前のヒット作品が登場する。
 その名は「美味しい御飯の創り方」
 内容は、家庭で誰でも出来る、
 食べると美味しくて、元気が出て、
 体の奥底から知恵と勇気と希望が湧き出してくる……。

 ”究極のレシピ”だった。


 FIN




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