艨艟2019


酔っ払いの戯言だ、気にすんな。

我、いずくより至りていずくへ征く者ぞ。

物心着いてより抱きし。

桜。

二本の邦花。

咲いて散りましょ邦の為。

もし。

桜が多年草。

粘り強く咲き誇る食物であったなら。

桜は二本の国花足り得たろうか?。

潔く散る事は二本民族の特性でもある、が。

為政者にとって便利遣いされ易くもある。

桜が多年草であったなら?。

二本の国花は、桜より散り易く、

一度だけ華やかに咲く花であったろう(ここ笑い処)。

てな前置きからこの駄文は始めようかなと。


0.

銀河団、銀河群、オリオン椀、太陽系、第三惑星、地球、亜細亜圏。

弧状列島。

近畿?関ケ原は近畿?。

この細やかな物語は此処から始まる。

人類滅亡回避という余りに、

その因業。

自ら滅ぼした種。

傲岸不遜。

沌。

頓。

そして…とん。

…貪。

貪(とん)とは、パーリ語およびサンスクリット語のローバ(lobha)、ラーガ(rāga)に由来する仏教用語であり、仏教が教える煩悩のひとつ。別名を貪欲(とんよく[1])、我愛といい五欲の対象である万の物を必要以上に求める心である。[2]。

このような心は、我(近代哲学でいう自我に近い)を実体的なものとして把握してしまう誤りから起こる。

大乗仏教における三毒とのひとつ。怒りの心である瞋、真理に対する無知を意味する癡(痴)とあわせて、仏教で最も克服されるべき対象(人間の諸悪・苦しみの根源)とされる。
上座部仏教における三不善根のひとつ。
大乗仏教アビダルマにおける六根本煩悩のひとつ。
上座部仏教アビダルマにおける不善心所のひとつ。(ウィキペディアへようこそ
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数多の種族を滅尽しながら自らは滅亡したくないよーW。

自らが存在し得た。

宇宙様の無私無給の営み。

神の自費に依り(此処も笑い処。神自らサビ残だよ!完全無欠なのに不完全を体験した勝ったんだYO!頓にして貪だYO!無限大の欲望だYO!humanityの本質は無限大の欲望だYO!人類勝利だYO!humanityこそ神の本質にして美点だよ!でもテオーシス前は三次元のマゾゲーだからちょっち我慢しような!我慢もやな言葉だけど、頑張るも限界超えて発揮せよていう神域だけど!)

この細やかな物語は、初まる。

1.

関ケ原。

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる[4]。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある[注釈 1][5]。

主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。

人類滅亡回避の起点である。

2.

恒久平和。

安寧。

涅槃。

だったら苦労、苦はねーW。

完全から不完全に落とされて帰還するにヌルゲーだったら意味も価値も勝ちもねーW。

と、全知前納なる我らが在りて在る者が考えたか?全知成らざる我らが汁芳も無し。

我らが苦難は此処依り始まる(ネイティブ日本語圏の皆様サーセンWまあカルマの為せる業という事で陳謝)。

まー兎に角関ケ原だ!。

「金吾めが」

主君、東軍総大将たる三州公の独語は、存外に重く、大きく、幕下に響いた。

無理も無い。

金吾中納言、小早川 秀秋の、事前の約定通りに。

寝返りが、呼応無くば。

東軍は。

我が軍は。

徳川は。

否。

人類は…滅亡する!。

3.

往時の家康の心境を嗤うのは現代であれば容易であろう。

が。

当事者にしか判らぬ、我ら三次元人の事情もある。

ここは、万難を排して寛恕願いたい。

4.

SKYOKOMATHU THUTHUIYASUTAKA TAKKUKENZAINARIYA FURUNERUSON YAMAZAKI 霊長類南へ 小川一水 店名の導 あー一発変換せなんだご免。えTC。

「放て」

は?近侍は。

「金吾に向け!放て!!」

それは…。

窮したか。

近侍は恐れ惑う。

恐れ多くも、東軍の敗北。

否。

壊走。

ひいては滅亡は目に見えていた。

それ程無能では無い。

否。

この時点で、無能が。

約束された天下人。

徳川家康公の近侍で居られる訳もないお!。

物理的に不可能だお!宇宙が赦さない、神が赦しても我、家康が赦さん!。

5.

ファイナル一縷の望み、金吾中納言小早川秀秋の寝返りに総てを賭けているのに!。

それに向けて天唾とか!!。

何処迄舐めプなんだこの殿は!。

6.

なればこそ。

確信する。

この戦、勝てる!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!。

光の迅さで号令が発し東軍全力射撃。

山上、小早川秀秋が布陣する、松尾山に向け。


まーこれも現代では俗説の類、フォークロアらしいが、無窮無限の時間軸の一つにこれが在ったと思いねいW!。

7.

 光成は奇異を覚えた。
 
 この期に及んで種子島。
 
 指向さるは松尾山。
 
 だが、遠い。
 
 あれでは中納言は無傷であろう?。
 
 窮したか、家康が。

8.

「家康が」

 主君の独語に近侍は訝る。

「否…三州めが!!」

 主君の怒気は紛れもない。

「この、中納言に弓弾くか!天晴!」

 近侍は主君をそっと仰ぎ見る。
 その顔色は…怒気の血色を過ぎ蒼白に在った。
 
「者共続け!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

「応!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

「目指すは家康の首一つ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

「応!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 人為の土石流、いや山崩れ。
 
 溜めに貯め滾りに満ちた壱満伍壱〇〇〇の人馬が怒涛する。

9.

 首、盗るど。
 
 は?と近侍。
 
「いえやすんが!くび!おいがとらんで!!!!!!!!!!!!!!!!」

 豊久、吶喊。

10.

 何故だ。
 
 我は、滅びるのか。
 
 人類は、滅びるのか。
 
 家康はしかし。
 
 我が人生に一片の悔い、無し。
 
 
 
11.

 平賀源与は目覚めた。
 すっかり爆睡していた。
 んーと伸びをする。
 
 気付けば未済書類の山。
 
 否。
 
 竹簡でない事を此処は感謝すべきだと源与は想い鎮める。
 パピルスに、エジプトの先代の叡智に気力の総てを投じて陳謝し源与は再び指を奔らせる。 
 
 たいぷらいたー。
 
 南蛮の珍物の一品に彼女は目を付けた。
 これぞ!天祐と。
 
 以後、平賀機関の生産性は爆発的に向上した。
 と、想いたい。
 
 眠い。
 
 源与は寝落ちした。

12.

 平賀源与は目覚めた。
 すっかり爆睡していた。
 んーと伸びをする。
 
 気付けば未済書類の山。
 
 見なかった事にして彼女はととんと階下に。
 
「おっはー」

「おっはー」

 おしん、悪心、御忍、はそっとため息。
 暮(く)れ六つにおっはー、"とは"。
 
 对不起 - 我也帮忙!。
 
 何か。
 
 小鳥の囀りの様な音声と共に。
 
 源与はおしんの隣にそっと寄り添う。
 
「ごめんねーゆうげの支度遅れて御免ねー」

 はっ、と、おしんは我が身我が手を振り返る。

「欠食児童共を攻略!いざ尋常に勝負!!」

 ガガガ!源与の鍛えられた双椀が唸る。
 


 ぴんぽんぱんぽ〜ん。
 
 夕食の準備が整いました。
 
 食堂にレッツラゴーCYEKIRA!!。


 うんめー。
 谷甲州が唸る。
 
 谷甲州。
 浮田清兵衛、二代目。
 
 滑空自然飛行を極めた初代に続き、人類初の動力、人為飛行を目指す、否。
 
 俺が人類を救う!。
 人が空を飛ぶ!。
 ありえん、無理無謀、がめおべあはぁ、とんち?、がー!!!。
 
 不可能を可能にする!俺が!。
 那破烈翁がなんぼのもんじゃーあ奴は所詮冬将軍以下じゃねーか!。
 だから人類滅亡は回避、出来る!!。
 出来るんじゃないかな?。
 まちょと滅亡も覚悟はして於け。
 
「お前、『うんめー』以外の食感ねーのかYO! このボキャ瀕が!」

 混ぜっ返すのは麒麟児。
 

 坂本龍馬。

「あんだよ」
「思わず江戸弁が出ちまった、ぜよ」

「ぜよ」

 口真似をするのは、大石英司。



 大石氏(おおいしし)は、日本の氏族。清和源氏義仲流と称した信濃国大石郷の大石氏は室町時代に関東地方で活躍し、戦国時代には武蔵国の守護代となる。氏族。関東管領上杉氏のもと、四宿老(長尾氏・大石氏・小幡氏・白倉氏)の一人に数えられ[2]、代々武蔵国の守護代を務めた。藤原秀郷の後裔(沼田氏と同族とされる)といい、信濃国佐久郡大石郷に住んでいたことから、大石氏を名乗ったといわれる。また、これらとは別に平安時代初期編纂の『新撰姓氏録』に記される古代氏族にも大石氏はあるが詳しいことは定かではない。 室町時代初期、大石為重は初代関東管領の上杉憲顕に仕えた。彼には男子がなく、1334年(正慶3年)に、縁戚関係にある木曾義仲の後裔と称した大石信重(木曽家教の三男、家村の弟)を婿養子として迎え、実際の藤姓木曾氏の庶家となったという。信重は観応2年(1351年)、挙兵した南朝方の新田義宗との笛吹峠の合戦で先陣を勤めた。その戦功として、1356年(延文元年)武蔵国入間・多摩の両郡に13郷を得て多摩に移住し、二宮(現・あきる野市)に館を構えた。また、「武蔵国目代職」にも任じられた。1384年(至徳元年)、信重は浄福寺城(現・八王子市下恩方町)を築城した。応永年間には叔父(養叔父)の大石能重(為重の弟)が武蔵・上野・伊豆各国守護上杉能憲に仕えて守護代を務めた。1458年(長禄2年)、大石顕重(信重の玄孫)が高月城(現・八王子市高月町)を築城し、二宮から本拠を移した。15世紀末期頃の禅僧・万里集九の著作、漢詩文集『梅花無尽蔵』巻六の「万秀斎詩序」に、武蔵国守護の家臣に、木曾義仲十代の子孫・大石定重がおり、武蔵国20余郡を掌握しているとの記述がある。1521年(大永元年)、定重は高月城の北東1.5kmに滝山城(現・八王子市丹木町)を築城し本拠を移転した。

その後の大石氏

1546年(天文15年)、関東に進出した後北条氏の北条氏康が河越夜戦で大勝する。その結果、扇谷上杉氏は滅亡し、関東管領山内上杉氏は関東から追われ、越後国の長尾景虎を頼る。主家上杉氏の没落により、大石定久は北条氏康の三男・氏照を娘・比佐の婿に迎えて、自らは戸倉に隠居した。領地支配を守護上杉氏に頼りすぎた大石氏はほかの守護代のように領域支配に失敗し、戦国大名への脱却をできなかったといえる。小田原征伐により後北条氏が没落すると、大石定久の実子大石定仲と養子大石定勝は徳川氏に仕えた。八王子千人同心としてその子孫は明治時代を迎えた。一方、大石綱元は、上杉憲政に従い越後国に入り、その後は長尾氏(上杉氏)家臣となる。上杉景勝が会津120万石に移封されると保原城を任される。大石氏は代々上杉家の要職を務め、子孫には米沢藩で名奉行と言われた大石綱豊などがいる。

 英司にぜよ、と揶揄された龍馬は流石に鼻白む。
 甲州には甲州の分があるのか、も。と。
 
14.


 もちろん精魂尽き果てた源与は厨房で爆睡中。

15.


 平賀源与は目覚めた。
 すっかり爆睡していた。
 んーと伸びをする。


 金吾めは何故動かんのだ。
 総司令の独語は意想外に大きく、幕下に響いた。
 臆したか。
 続くは紛れもない怒号であり、罵声であった。
 大殿の焦慮は幕僚、徳川家臣団全員もまた、理解骨髄の易きにあった。
 眼があれば判らぬ道理はない。
 我が軍は、東軍は今、窮地にある。
 金吾中納言、小早川秀秋殿の内応無くば確実、敗北必至である。
 
 他方の陣幕は無論対極。
 
 
 殿、この戦、最早。
 
 痴れ者。
 
 西軍総監たる光成は近侍の軽口に大喝を落とす。

 あの家康ぞ、首にするまで笑えんわ。

 しかし語るに落ちている、
 勝利は、確信していた。
 あとは時間の問題、そして。
 
 事、ここに至り西軍総予備の重みすら持った。
 小早川殿がいつ、断を下すか。
 と。
 
 遠方に重い破裂音が木霊した。
 
 種子島、眼を細め光成は奇異に思う。
 
 東軍の本陣から、山上へ射掛けられたらしい、が。
 
 あの距離では、無駄撃ちではないか。
 
 あの家康も窮鼠に堕したか。

 なればこそ、ここはよいよ慎重に刈り取らねばならんな。

 期待を込めその山上を見遣る、正に頃やよしですぞ、中納言殿。


 馬曳けい。
 珍しく、大音声で秀秋は屹立した。
 顔は蒼い、否それは。
 激発した憤怒により退いた血の気であった。
 ぎりりと歯を鳴らす。
 近侍が曳き寄せた愛馬に遅いと浴びせひらりと鞍上に上る。
 家康め、家康め、家康め。
 怒鳴り散らしながら駆け降る。
 無論続くは大兵一万五千。
 常ならぬ、火を吐かんばかりに駆ける殿一騎にすわ遅れじと。
 怒涛は斯くやと山を鳴らして就き従うその勢はこれぞ破竹。
 負け戦を、この秀秋に頼みつつ射掛けるとは。
 此処まで虚仮にされ、武士の一分が立つものか。
 その増上慢、今こそ我が手で討ち果たそうぞ。

「掛かれ者共!目指すは家康の首只一つじゃ!!!!!!!!!!!!!!」

 地を裂かんばかりの号令一下。
 
 応。
 
 溜めに溜め滾り切った万の軍勢が打ち応える。
 鎧袖一触、大勢はここに決した。
 か、に見えた。
 金吾中納言、小早川秀秋公、討ち死に。
 
 西軍に激震が奔る。
 
 嗚呼、勝ち過がれぞ中納言殿。
 
 光成は天を仰ぐが是非もなし。
 
 
 ここが正念場、見せよ者共、
 
 
 宙に浮いた一万五千に戦場は又揺れ戻す、
 なれどこればかりは、東軍の勝ちだけは遂に無かった。
 必勝を期した家康最大の賭け、その戦歴の最期にして絶後の敗北であった。
 
 
 
 そして、歴史が動いた。
 
 らしい。


 或いは自分もおほさかにでも産まれ落ちれば、こうしたやくたいもない傾奇者の道外しとは無縁の安閑な生を過ごしたやもと源与は想う事もある、この江戸の“くうき”が悪いのだと。
 だいたいが三州のせいなのだ。
 あの狸が天下分け目で泥首など晒さずかっきりこの邦を握って居れば、〜西は豊臣、東は佐竹、中を保つは今日(京)も菊〜、などと半端な日ノ下にはならず、三島全て開けたもっと、こう、つまり今のこの邦は、だから手前のような男女も出て来てしまう。往時の片田舎、江戸を立派に拓いたあの手腕があれば、もっと綺麗に開いていた筈なのだ、そうだろうとも。
 と、源与は朝の恒例行事、水を使いつつの尾篭だから止まない骸弄りで憂さを晴らすと、それでもうばさりと気は直し、ととんと軽い足取りで職房へ降りていく。

 落首に云う、『織田がつき、羽柴が食いし天下餅、つまんで旨しはひとり佐竹』だが、史料を当たると当然、どうも事情はそう単純なものでもない。

 「太閤大乱」の戦後処理は混迷を極めた。

 まず東軍総司令官たる徳川家康が最前線である関ケ原で戦死、随行幕僚の家臣団もまた、その尽くが追い腹、主君の死に殉じるか小早川の出し抜けに慌てて続いた島津他が散々に刈り尽くしてしまった。

 SAKURATIRU
 
 凪。

権力の大空白。

二本に於いてフィクサー。
裏方に徹して存続していた今上。

家康にガン張りしていたてんちゃんが焦るの焦らないの。

佐竹が渋々江戸占拠に藁一で誠意対処軍。

佐竹開幕を超光速で勅命。

降って沸いた勅命を捌き切る渋江氏、
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hiz_sibue.html

雪の峠・剣の舞
渋江政光。

と、いう人物が無かりせば。
この列島が邪馬台国以来、暗黒の空白を迎えた事は想像に難くない。

諸々総て捌き切り。

慶長19年11月26日、日本初の過労死認定で逝去。


〜西は豊臣、東は佐竹、中を保つは今日(京)も菊〜。


二本連邦爆誕にして人類滅亡回避ゲームへのログインである。



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