|| prologue ||

 

 イネス・フレサンジュは飲みかけたコーヒーカップを机の上に戻した。
 足音というのはあまりに喧しく忙しなく、誰かが走って医務室に向かってくる音を聞いて、それが誰のものかが容易に想像できたからだ。もっともその人物を呼び出したのは彼女自身なのだが。
「イネス!ユリカは無事か?!」
 そのアクションまでもがあまりに想像通りだったものだから、彼女は溜息しか出てこない。
「アキト君、ここ、医務室って判ってる?」
「もちろんわかっ」
「だったら、静かにしなさい」
 決してキツイ調子で言ったわけではない。が、そのイネスの言葉にアキトは自らの行動を省みて、バツの悪そうな表情を浮かべていた。
「すまない」
「いいわ、とりあえずそんなところに突っ立ってないで、こっちに来て」
 イネスの言葉に従い、アキトは医務室の中に進む。消毒用のアルコールの、医務室独特な匂い。
 座って、とイネスに薦められるがまま、アキトは医務室にやってきた患者が座る黒いスツールに腰を下ろす。
「ユリカさんの状態を説明するわ、覚悟してね」
「そんなに酷いのか?」
「いいえ。母子共に健康よ」
 アキトはイネスの言葉に安堵したが、すぐにその言葉に違和感を覚える。
「母子?」
「そうよ。3ヶ月。おめでとう。これであなたも父親になるの。だから産まれてくるまでの間に、覚悟を決めてね」
「覚悟とはどういう意味だ」
「この際だからハッキリ言わせてもらうけど、アキト君、あなたはまだユーチャリス時代の行動が心にしこりとして残っている」
 心を突き刺すような言葉に、アキトは返す言葉を見出すことができない。
「もう、アキト君とも随分長い付き合いだものね。あなたがこの次に考えるであろうことは想像がつくわ。『こんな俺が父親になっていいのか。そんな資格があるのか』ってね」
 言われるまでもなく、今しがたイネスからユリカの妊娠を告げられたときも、そしてこれまでも一人になったときにも自問した言葉。
「でもね、アキト君。そんなことは関係無いの」
「関係ない?」
「そうよ。父親になる資格というのはね、産まれてくる子を愛し、慈しみ、成人するまで育て上げる覚悟のことを言うの。父親のそれまでの善行も悪行も関係ないわ。だから貴方も覚悟を決めなさい」
「……」
「何も今すぐここで覚悟を決めろとは言ってないわよ。たぶん、ある日突然、固まるような類のものでも無いわ。だから、迷った時にはこれから言うことを思い出して。いい?まず、妊娠中のユリカさんの表情を見て。そんなユリカさんを見るルリの表情を見て。産まれてきた子をあやす母親の表情を見て。そして母親に抱かれる幼子の表情を見て」
「言わんとするところはわかる」
「そう?でも頭で理解しているだけではダメよ。心で感じて。自分が何をするべきかをね」
「わかった」
「じゃあユリカさんのところに行ってあげて。もうルリが先に行っているから」
 アキトは頷いて、立ち上がり医務室隣の病室へと移動しようとする。
「イネス」
 出て行く間際でアキトは足を止め、イネスの方に振り返る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 そのイネスの言葉を聴いて、アキトは部屋を出て行った。
 部屋にそのまま残ったイネスは、先ほど置いたコーヒーカップを再び手に取った。口に含んだコーヒーのぬるさが、苦味を過剰に感じさせ少し顔を顰めた。
「未練なんて無いと思ってたけど」
 苦味を強調させたのは、コーヒーのぬるさだけが原因ではなさそうだった。

 

affection series, episode #3
Martian Successor Nadesico : case the end of nadesico period, 2205 A.D.
- songbird -
 
君に捧ぐ歌
 
Written by f(x)

 

|| scene.1 : cherish ||

 

 ユリカが休んでいる病室に足を踏み入れた途端に、その普通の病室とは違う、そしてまかり間違っても戦艦ではまずあり得ない光景に、アキトは目を疑った。
「あ、アキト」
 ベッドの上で休むユリカ、その声に反応して振り返るベッドの隣のスツールに腰掛けていたルリ。
「大丈夫か?」
「うん。ごめんね、いきなりで驚いたよね。私もびっくりしちゃった」
「気分が悪くないなら、いいさ」
「うん。でね、アキト、イネスさんから、聞いた?」
 もっとも、聞いていなくても、この部屋の状況がユリカの身に何が起きたのかを端的に物語っていた。決して広いとは言いがたい個室の病室だが、その部屋一杯にという表現が似合うほどのベビー用品とマタニティ用品であふれかえっていたのだ。
 産まれてくるのはまだ半年以上も先であり、しかもここは腐っていても戦艦であるというのにである。
 というよりも、何時、誰が、何のために、これほどまでのベビー用品をこのナデシコの中に準備していたのかが、アキトには理解できない。しかも男の子、女の子どっちが生まれてもいいようにどちらも用意されているあたりが普通じゃない。
 おそらく理解できるのは、「そろそろよ?」という一言で丸め込まれたチョビ髭メガネと、丸めこんだ金髪のドクターだけであろう。
「ああ、聞いた。3ヶ月だってな」
「うん」
 アキトとユリカのやり取りにお邪魔虫は退散しようとばかりに、腰を浮かせたルリをユリカが捕まえる。
「ユリカさん?」
「どこに行くの?ルリちゃん」
「私はお邪魔かと」
「私とアキトの子は、ルリちゃんの子でもあるんだよ?」
「いいんですか?私、いても」
 自信なさげなルリの声色をユリカは敏感に感じ取ったが、そんな気配を露ほども見せずに、いつもの笑顔でルリを包み込む。
「当然じゃない。私たちは3人で夫婦なんだから」
「はい」
 ユリカの言葉にルリも微笑を取り戻していく。
「私、がんばって元気な子産むからね。健康な子が生まれたら、ルリちゃんでも大丈夫だよ?」
 後半の言葉の意味がわからず、アキトがユリカの言葉を問う。
「どういう意味だ?」
「アキト。妊娠するって、すごくデリケートなんだよ?アキトはいろんな実験されたよね。私もそう。妊娠できなくなってても全く不思議じゃなかったんだよ?それに生まれてくる子が健康に、何の障害も無く生まれてこれるかどうかはまだ判らないよ」
 アキトもルリも、ユリカの言葉に神妙な表情にならざるを得ない。
「でも、もし私が元気な赤ちゃんを産むことができたら、ルリちゃんだって大丈夫。ルリちゃんも、悩んでいたの。アキトの子が産めるのかって」
「私は、先天的に遺伝子を改造されましたから」
「そうだったな」
 そうアキトが言うと沈黙が広がる。
 だがその沈黙の中、ユリカは毛布越しに自分のお腹を優しく撫でる。
「だから、この子には無事に健康に生まれてきて欲しいの」
 ユリカが動かす手の上にそっとルリが手を寄り添う。アキトはルリとベッドの反対側に立ち、ユリカとルリの手の上に自分の掌を重ねる。
 その時、病室を控えめにノックする音が2回。
「ど〜ぞ〜」
 しまりの無いユリカの声に、病室の扉が開く。
「ユリカ大丈夫?って、うわぁなにこれ」
 病室にやってきたのはラピスとハーリーの二人であった。先に病室に入ったラピスは、その病室らしからぬモノで埋め尽くされた病室に驚きを隠さない。
「ラピスちゃん、ハーリー君、いらっしゃい」
 とニッコリと返されては、ラピスもハーリーも毒気を抜かれたように溜息をついて肩を落とす。
「どしたの?」
「『どしたの?』じゃないですよ、もう。ユリカさん、突然うずくまって、その、吐かれてしまって、医務室に運ばれて」
「みんなすごく心配してるんだよ!」
 ラピスのプンスカした表情に、ユリカは頭かきながら笑うしかなかった。
「ごめんごめん。でも、大丈夫。三ヶ月だって。ぶい!」
 ユリカがVを出す。ルリも出す。アキトも出す。
「三ヶ月?」
 きょとんとするラピスだが、ハーリーはすぐに意味がわかった。
「え、本当ですか?!あの、おめでとうございます」
「ありがとう、ハーリー君!」
 すぐに理解したハーリーとは対称的に、ラピスは頭上にクエスチョンマークを浮かべたままだった。
「あーっと、つまりだな、ユリカが妊娠三ヶ月目だということだ」
 アキトが助け舟を出す。
「赤ちゃんができたの?」
「うん!」もう1回V
「うわぁ!ねぇねぇ赤ちゃん男の子女の子?お腹触ってもいい?」
 ぱぁっと笑みが広がり矢継ぎ早に言葉を繋ぐラピスに、アキトが笑い、その笑いが他の者にへと連鎖していく。
「ありがとう、ラピスちゃん。触ってもいいけど、まだわからないよ」
「うん、いいの。おまじないだから。ナデシコの皆が、待ってるよっていうおまじない。あ、ハリは触っちゃダメだからね」
 そう言われて顔を赤くする初心な少年には、触れといわれる方がたぶん恥ずかしいだろう。
 顔を真っ赤にして目をそらしたハーリーの視線の端に、ぽたりと垂れた水滴。
 目線をまっすぐに上に向けると、アキトの泣き笑いの顔があった。
「アキトさん……」
「すまない」
 そう言って手で目を伏せ、ベッドから離れて、若干身体を屈めながら静かに泣くアキトに皆の目が注がれた。
「アキトさん、大丈夫ですか?」
 ルリがベッドの隣を離れ、アキトの元に寄り添う。
「ああ、大丈夫だ」
 鼻声になりながら、アキトは言う。
「ユリカがいて、ルリがいて、ラピスがいて。もちろんハーリー君も。あの頃、こんな幸せな日常は夢だと思っていた。違う世界ではこんな日常があり得るかもしれないなんて、幻想を抱いた日もあった。」
 あの頃、それがユーチャリスに乗った、プリンス・オブ・ダークネスの頃のことを指しているのは、もはやこの部屋にいる者たちには指摘するまでも無いことだった。
「いろんなことがあったよね。許せないこともあったし、許されないこともした。でも私たちはここにいるんだよ」
 そういうユリカに、アキトは言葉を探す。行き当たるのは、先ほどイネスに“心のしこり”と評された、あの想いだ。
「俺たちが幸せになる、それは許されることなのだろうか」
「アキトさん、それはもう言わないって約束したじゃないですか」
 心配そうにルリがアキトの背中をさする。
「ああ、わかってる。だが、やっぱり消えないんだよ」
 言わないでいただけで、消えたわけではないのだ。その“しこり”は。
「その答えは」
 ユリカの笑みは静かに慈しみを湛え、優しくお腹を撫でる。
「きっと、この子が教えてくれるよ」

 

|| scene.2 : preparation ||

 

「そう、分かったよ。じゃあ、こちらの方も準備を進めるよ。実はすでに書類だけは作ってあってね。ある程度、形が整った段階でまた報告するよ。……うん、そうだね。それじゃ」
 ネルガル会長、アカツキ・ナガレが自分しかいない会長室での暗号化通信を終えた時、まるでそのタイミングを見計らっていたとでも言うように、重く厚い扉をノックする音が部屋に響く。
 アカツキは端末の画面が消えていることを確認して、扉の向こうにいる相手に声をかける。
「どうぞ」
 入ってきたのは、長年彼の秘書を務めてきたエリナ・キンジョウ・ウォンである。
「失礼します」
「お疲れ様」
 かつてのように、エリナがアカツキに噛み付くように畳み掛ける光景はここ数年、めっきり見ることが少なくなった。それはエリナの性格が丸くなったのか、アカツキがより積極的に会長としての職務をこなすようになったのか。それはおそらく、その両方が当てはまっているのだろう。
「会長、これがグループ全体の先月分の会計報告です」
 そういって渡される紙の束。
 電子データも勿論転送されているが、重要なのはそれが直接的に秘書を通じて、会長の下に届けられたという事実である。それが分かっているから、アカツキも黙って受け取り、最初の数ページに軽く目を通す。
「この数値、整合済みだよね?」
「はい」
「オーケー。ありがとう」
「それでは、失礼します」
「あ、エリナ君」
「はい?」
「君、まだ秘書続けたい?」
 その言われようにカチンと来たのか、久しく見せなかった厳しい表情をアカツキに向ける。
「行き遅れはとっととクビにして、若い子を入れたいと?」
「あ、いや、違うよ。言い方が悪かった。これを見て欲しい」
 そういって、アカツキは自分の前にウインドウを表示し、それを反転させてエリナが正面になるように表示させる。
「これは……Nergal Artificial Intelligent System Co.,Ltd.?随分長ったらしい社名ですこと。新しい子会社を設立されるわけですか?私はそこへお払い箱?」
「確かに君には、ここに転籍してもらいたいんだが、お払い箱というのは違う」
「どう違うっていうのよ!」
「まず、社長は僕が兼任する」
「ふーん」
「エリナ君には、副社長兼開発統括部長になってもらいたい」
「ふーん」
 5秒ほど間。
「な、何を言ってるのよ?からかってるの?そうよ、からかってるのね?!」
「ちょ、エリナ君」
「バカにするにも程があるわ!確かに野心ばっかりで、秘書らしさに欠けてるわよ!でも形だけの肩書きで左遷させられるほど無能だなん」
 そこまでエリナが捲くし立てたとき、アカツキは力任せに拳を机に叩きつけ、その音のあまりの大きさにエリナは驚き、反射的に身体を跳ね一歩後退りした。
 そしてアカツキの目を見たとき、エリナは感情的になった自分を恥じる。
「落ち着いてくれたかい?」
「は、はい。申し訳ありません」
「この新会社は、将来的にネルガルの新たな柱に育て上げるつもりだ。決して閑職でも左遷でもない。そして、このポストは君以外に任せるつもりも無い。受けてもらえなかったときは、開発部長はともかく副社長は置かないつもりだ」
 もう10年以上もアカツキの秘書をしてきた彼女には分かる。
 それが本気であるということを。
「何故、私なのですか?」
「それはこれを見てもらえば分かると思うよ」
 そう言うとアカツキは新しいウインドウを開く。
「その新会社へスカウトする予定の人材リストだ」
 リストを見てエリナは驚く。
 テンカワ・ルリ、ホシノ・ハリ、ラピス・ラズリとIFS強化体質者3人に加えて、サブロウタやミナト、ユキナの名もそこにはあった。
「・・・何よこれ、ナデシコ艦隊の主要人物をゴッソリ引き抜こうっていうの?できるわけないでしょ?」
「いや、できるさ」
「随分、自信あるのね。でも、連合軍が手放すかしら?」
「大丈夫だと思うよ。根拠も無く言っているわけじゃない。これはプロス君経由で極秘に入手した資料だ」
 そういって、さらに追加で現れる2枚のウインドウ。そこには、連合軍、宇宙軍を含めた包括的な軍縮計画資料。そして、[TOP SECRET][CONFIDENTIAL][EYES ONLY] のハンコにさらに、丸秘印の赤いハンコまで押された資料。
 テンカワ・ルリ暗殺の計画立案資料だった。
「なんだってルリの暗殺計画なんかがあるのよ!」
「政府は軍縮を進めたがっていて、軍部もその世論に抵抗できない。軍縮は必然とも言える。しかしそうなればなったで、ナデシコ艦隊の戦略的優位性は相対的に跳ね上がる。軍幹部が脅威とすでに感じている証拠がこれさ。上層部はナデシコとルリ君が居れば、世界征服が実現できると思っている」
「あの子がそんなことをするはず無いでしょう」
「ルリ君がするか、しないかはこの際関係ない。できるか、否かだ。そして軍は可能であると判断し、そうなる前に芽を潰そうということだ」
「ルリに危害が加われば、プリンス・オブ・ダークネスが復活するわね」
「それだけは絶対に避けたい」
「……それは、アキト君が親友だから?」
 ふとエリナが緩めた空気を察して、アカツキは肩を竦める。
「ビジネス的に不利益が生じるからさ」
 アカツキの返答にエリナは声を出して笑う。
「ま、いいわ。そういうことにして置いてあげるわ」
「で、まぁ、話を元に戻すと、軍縮を機にナデシコ艦隊解散、主要メンバーは軍を退役して、その身柄をうちで確保しようということさ」
「なるほどねぇ。いいわ、その話、乗るわ」
「ありがとう」
「アカツキ君のことだから、もうある程度は話進んでるんでしょ?」
「ルリ君とミスマル元帥とはすでに話を合わせてあるよ」
「そう、あの元帥が話に噛んでるなら、軍部への対応に心配はあまり無いわね」
 エリナは一人納得する。
「で、この新会社はいつごろ操業を始めるつもりなの?」
「本当は水面下で進めたかったから、あと1年くらいかける算段でいたんだけどね、どうやら遅くとも半年以内にはスタートしていないとマズイね」
 あまりに性急なその計画に、エリナは眉を顰める。
「時間が無さ過ぎるわね。それだけルリの身に危険が迫ってるのね」
 アカツキは、まぁ普通はそう考えるだろうなと思いながら、少し意地の悪い笑みを浮かべた。
「実はそうじゃないんだ」
「じゃあ、何なの?」
「ユリカ君が妊娠した」
 10秒ほど間。
「は?」
 絶句の後にたどり着いたエリナの返事がこれだった。
「だから、ユリカ君がテンカワ君の子を妊娠して、今3ヶ月らしいということだ」
「それと新会社の話がどう繋がるわけ?」
「あの親バカ元帥が、愛しい娘夫婦と初孫を放っておくと思うかい?」
 エリナ再び沈黙。
 だが、今度はアカツキはエリナの復帰を待たない。
「まぁ、そんなわけで、準備よろしくね」
 そんなアカツキの言葉に、エリナはこれでもかと言わんばかりの盛大な溜息をついた。
「やってらんないわね」
「そう言わないでくれよ。ここを足掛かりにして、いずれは君を本社の役員に迎え入れるためのステップなんだから」
「随分と余裕ね。私にその席追い出されても、まだ余裕でいられるのかしらね」
「会長のポストが欲しければ、そのうちあげるよ。でも今はまだ駄目だ」
「まだやりたいことがおありかしら?」
「いや、君に後ろ盾が無さ過ぎるからだ。役員に信任のない会長なんて、飾りでしかない。君に必要なのは経験であり、実績だ。実力に不安は持っていない」
「随分と買ってくれるのね」
「伊達に僕の傍に10年以上も置いてなかったってことさ。後は器の問題。期待してるよ、エリナ君」
「いいわよ、やってやろうじゃないの」
 そのエリナの言葉にアカツキは笑った。
「それでこそエリナ君だよ」
「じゃあ早速」
「あ、その前に」
 退出しようと振り向きかけたエリナをアカツキは止めた。
 
「湿布薬って、どこにあるか知ってる?」
 さっき机に拳を叩きつけた手を、反対の手でさすりながら、そう尋ねた。

 

|| scene.3 : withdraw ||

 

 連合軍参謀総長アルバート・クライスは、数ページにまとめられた資料に一通り目を通すと、その資料を机の上にパサリと投げた。
「これは、どういうことだね?」
「ご覧になられた通りです」
 宇宙軍元帥ミスマル・コウイチロウは直立の姿勢のまま、しれっと言い切った。
「宇宙軍の要とも言えるナデシコ艦隊を解散させるとは、随分思い切った軍縮計画だな」
「ナデシコは本来、対木連を目的として作られた艦です。その木連とはすでに和平が成立している。存在する意味はありますまい。必要最低限の哨戒任務に必要な兵力で十分」
「ナデシコを残して、ほかを解体するという選択肢の方が現実的だと思うが、何故ナデシコの方を解散させるのかね」
 クライスの言葉に、コウイチロウは一瞬眉をピクリと動かした。そして、両手をクライスの机の上に置き、ぐっと顔をクライスに近づけた。
「テンカワ・ルリ暗殺計画立案資料の存在、知らぬとは言わせませんぞ」
「何だね、それは」
 こちらも白を切る。
「御存知ないと?」
「知らぬな」
「そうですか、ならばあの資料に書かれていた、参謀総長殿の否決の署名は偽物であり、やはり連合軍内部には、テンカワ・ルリ中佐暗殺計画がどこかで燻っているというわけですな」
 そこまで見られていたのかと、クライスは内心舌打ちをした。
「君には、言い逃れは通用せんな」
「小官が申し上げたいのは、テンカワ・ルリ中佐らIFS強化体質者とナデシコ艦隊の戦力を危惧される必要はまったく無いということです。宇宙軍には、無闇に戦力を保持したいという意思はありません」
「つまり、連合軍に恭順すると考えてよいのだな?」
「その通りです。ただし、IFS強化体質者への危害が及ばなければ、という条件付きでですが」
「だが、あの力を見せ付けられては、はいそうですかと納得できんものもいるのではないか」
「ですから、先ほどの資料になるのです」
 コウイチロウが指摘するその資料とは、まさに先ほどクライスが机に放りだしたその資料である。そこに書かれていたことは、ナデシコ艦隊の解散、ナデシコ艦隊所属クルーの9割以上に相当する人員の宇宙軍退役、そしてナデシコ艦隊に搭載されていた艦載AIシステム「オモイカネ」の削除が含まれている。
 それは、ナデシコ艦隊とそれに関わったすべての人と物を、軍から抹消することに他ならない。
 連合軍は、ルリらIFS強化体質者とナデシコの組み合わせを脅威と捉えていた。
 どうやってこの両者を切り離すかを思案する過程で生まれた、強攻策の一つであったテンカワ・ルリ暗殺計画。クライスはこれを許可しなかった。
 宇宙軍内部にとどまらず、一般市民にまで広く認知されているルリである。このような計画が連合軍に存在したということが知られるだけでも、市民や世間からの連合軍に対する悪影響は計り知れない。
 ましてや実行など、許可できるはずが無かった。
 最悪、ルリ一人を殺すことで、宇宙軍全軍とさらには世論をも敵に回すことになりかねず、自殺行為以外の何物でもないからだ。
 だがそんな苦労をせずとも、策などを弄せずとも、宇宙軍は自らの行動でナデシコとルリという二つを切り分けて見せた。それどころかナデシコ艦隊を解体し、ルリらIFS強化体質者もいっせいに野に下るという。
 軍事力を放棄し、軍における階級すら捨て去ってしまえば、IFS強化体質者といえども一人の市民に過ぎない。コウイチロウの軍縮計画は、他に対してそうアピールすることで、ルリやハーリー、ラピスらの身の安全を確保しようとしているのである。
 彼らはそもそも未成年であるということに加え、IFS強化体質として産み落とされた経緯もある。軍人になるべく生み出された存在であるとはいえ、本人の意思が軍人として在りたいかどうかが介在していない。徴兵制ではなく、志願制を取っている現在の宇宙軍と連合軍にあっては、彼らが軍属であることそのものが矛盾しているのだ。
「戦争が終わったいま、彼らが軍にいる意味はありません。テンカワ・ルリ中佐暗殺計画に代表されるような、要らぬ疑いを持たれるだけです」
「宇宙軍の見解は了解した。だが、それを納得させ得る迅速な行動が求められるな」
「その通りではありますが、さすがに3ヶ月は猶予を戴きたい」
 さすがに今度ばかりは、クライスも驚愕を表情に浮かべ腰を浮かせた。
「3ヶ月だと?!年単位ではないのか?」
「本来は3ヶ月でも危険なのです。彼女らの身の安全を考えれば。あのような暗殺計画などという愚策を却下して下さった参謀総長殿を信頼しております。ですが、部下が暴発する危険性が消えたわけではありません」
「ふぅむ」
 クライスは浮かせた腰を再びチェアに沈み落とす。
「ミスマル元帥」
「は」
「貴官は何故、そこまでしてテンカワ・ルリを守ろうとするのかね」
「娘の身の危険を良しとする親など居りますまい」
 そのコウイチロウの言葉に、クライスは沈黙する。彼自身、先の戦争で息子夫婦と孫娘を失っているのだ。そして、コウイチロウはそのことを知っている。知った上で、卑怯な手段であることも承知の上で、一枚の写真を取り出した。
「これをご覧ください」
 すっと机の上に置かれた写真。
 そこに写るのは、宴会好きのコウイチロウが昨年も開催した、花見の宴。その席に集うナデシコのクルーたちの写真。その写真の中央に、ルリらと共にハーリーとラピスの姿があった。
 そしてクライスの視線は、自然にそこへと注がれた。
 よく似ている。クライスの第一印象はそれだった。
 実際、瓜二つとまでは行かないものの、ラピスとクライスの孫娘は目の色も髪の色もまったく違うとはいえ、くりっとした大きな目とまっすぐに伸びるストレートのロングヘアが、よく似ているという印象を与えたのだ。
 それはコウイチロウも、そのことを知った上でその写真を見せた。
 クライスもそのコウイチロウの見え透いた魂胆など容易く見破っていた。
 それでもその写真から目が離せないでいた。
「一度、お会いしては下さいませんか?」
 コウイチロウの口調の変化もさることながら、その言葉の意味を図りかねた。
「この娘、ラピス・ラズリは生き残った3人のIFS体質者の中でも最も過酷な過去を持っております。我々が身柄を確保したときには、笑うことはおろか、感情を表に出すことさえ出来ぬ娘でありました」
 クライスは写真から目を逸らさずに、黙って話を聞く。
「施された実験や経歴を聞いたときには、そのあまりに非人道的な内容に、軍に身を置く小官でさえ眉を顰めました」
 だが写真に写る少女は、とても愛らしい表情で綺麗な笑顔を湛えている。
「この娘に『おじ様』と初めて呼ばれたときなど、嬉しさのあまり涙が出たほどです。クルーは皆、この子たちと自分の家族のように接します。姉代わりがいて、兄代わりがいる。父親代わりは小官が引き受けました」
 羨ましい、素直にそうクライスは思った。
「クライス殿」
 肩書きではなく、名前で呼ばれる。
「この子に、貴方のことを『御爺様』と呼ばせてやってはくれませんか?」
 クライスはコウイチロウの出方を予測していた。
 実際ほぼ予測どおりではあった。
 ただし、「呼ばれたくはありませんか?」ではなく、「呼ばせてやってくれ」と言われたとき、心は動いた。
 ほんの些細な。
 意味するところはほとんど同じなのに、ほんの僅かな、心の持ち方の差。
 クライスはそこでようやく、顔を上げた。
 そしてコウイチロウの表情を見たときに、クライスはこの男を理解した。
「ミスマル君」
「は」
 苦笑いにも似た笑いが一つ。
「君は宇宙一の親バカだな」

 

 

|| intermission : articles from IBR (International Business Report) ||

 

[トーキョー 3日 IBR] 3日、ネルガル<24881.T>は同社の軍事兵器生産部門を、アスカ・インダストリー<26129.T>に譲渡すると発表した。これによりネルガルは事実上軍事産業から撤退することとなる。

 

[トーキョー 12日 IBR] 12日付のジャパン・ビジネス・ジャーナル紙によると、ネルガル<24881.T>は同社の100%子会社として、ネルガル・アーティフィシャル・インテリジェント・システム社を設立すると報じている。同社取締役には、ネルガル社会長アカツキ・ナガレ氏が兼任するとの見方が有力である。

 

|| scene.4 : unity ||

 

 ラピスは一人、無人のブリッジに立っていた。
 ナデシコはすでにその任務を終え、サセボのドックに入港している。マスターキーは抜かれ、最低限度の電源のみが供給されている。コンピュータシステムは削除され、すでにここにオモイカネは居ない。
 役目を終えたブリッジの一つ一つを目に焼き付けようと、シートやデスクを一つ一つ撫でながら、ゆっくりとブリッジの中を歩き回る。
 そして彼女の、自分自身のシートに腰掛ける。
 隣にハーリーのシートもある。だが、そこに温もりは無い。
 2年にも満たない時間。
 それでも今や、ナデシコで過ごした2年は彼女の中では宝物だった。
 それはユーチャリスでアキトとすごした時間をも凌駕する。
 この先、彼女に何が待っているのだろう。新しい生活に心躍らせる気分もある。だが今の彼女には、このナデシコという彼女の中の一つの時代の終わりへの寂寥感に、心は苦しく締め付けられていた。
「ラピラピ、ここにいたんだ」
 振り返るとミナトが居た。ラピスが気づかないうちにブリッジに来ていたのだろう。
「うん」
「どうしたの?」
 ミナトには、ラピスがどういった心境で居るのか凡その見当はついている。彼女自身、ナデシコに再びに乗り込む前の3年間は教員でもあったのだ。毎年、桜の季節にちょうど今のラピスと同じような表情をした子供たちを見て来たのだから。
「ナデシコとももうお別れなんだね」
 声を震わせるラピスの後ろから、優しく抱きとめてあげる。
「寂しい?」
 ミナトの問いにラピスは静かに頷く。
「そうだよね、私も同じよ」
 ラピスは彼女の胸元で交差するミナトの腕に自らの手を添える。
「人はね、こうやって別れと、新しい出会いを繰り返すの。過ぎ去った時間は戻らない。もしかしたら、もう二度と出会わないクルーもいるかもしれない。でもね、ナデシコですごした時間は、同じナデシコのクルーみんなで共有する思い出になるの。こうやっていくつもの思い出が、人をどんどん成長させるのよ。忘れないで。この船で一緒にすごした時間はラピラピにとっても、私にとっても宝物だから」
 ミナトの腕に添えられたラピスの手に少しばかり力が入る。
「うん、忘れない。絶対に忘れない」
 そういうラピスも、終いには涙が零れた。
「ねえ、ミナト」
「なあに?」
「ありがとう」
 そういうラピスの髪を撫でた後、ミナトは頬をラピスの頭に寄せる。

 

「そろそろ行こうか?」
 しばし無言の抱擁を続けた後で、気分を切り替えるように明るい声でミナトが告げる。
「うん」
 ラピスも気持ちの切り替えができたように答える。
 この後、ユリカ発案のお別れパーティーが近くのホテルの会場を借りて行われることになっている。こういうイベントを発案するあたり、お祭り好きの父親のDNAを受け継いでいるのは確かなようだ。
 ドックを出て、官舎を過ぎ、歩いて僅か数分という場所にそのホテルはあった。
 実は初代ナデシコ出港の際のバッタの襲撃で、軍事施設でもあったネルガルのドックを除けば、純民間施設で最も被害を受けたのは実はこのホテルである。だが、ホテルの経営者からナデシコを非難するような言葉は、当時も、そして今も聞かれない。もしあの時、ナデシコがバッタを掃討しなければ、人的被害は勿論のこと、ホテルの存続が危ぶまれるほどの被害が出たに違い無いのだ。
 多少の建物へのダメージと怪我人は出たものの、それは十分に補修の可能な領域であり、かつ死者も無かったことは、むしろ「ナデシコのおかげ」という認識をホテルの関係者らに植え付けていた。
 そのようなことは、ユリカもルリも当時のナデシコクルーの知る由も無かった話ではあったが、今回のユリカのパーティー発案の話をどこから聞きつけたのか、「ぜひ我々のホテルで」と支配人直々の営業活動が、今回のパーティー開催に結ばれた。
 そしてそのエピソードは、パーティの乾杯の前の挨拶にぜひ言わせて欲しいという、支配人のたっての依頼で、晴れてナデシコクルーの耳に入ることとなった。
 今回のパーティは、現在はナデシコから下船していたかつてのクルーも呼ばれている。そして会場の角には、初代提督のフクベ、そして初代副提督のムネタケの遺影も置かれていた。両者にどのような思いを抱くかはクルーの個々人によるが、それでも彼らがナデシコの初代提督、副提督であったことに変わりは無い。
 
「やっほー」
 ラピスとハーリー、ミナトにユキナにサブロウタという輪の中に、一人入ってきた女性がいた。メグミである。
「あら、メグミちゃん。お久しぶり〜」
「お久しぶり、ミナトさん」
「どう元気にしてる?」
 そんな挨拶と世間話をして、メグミが話を振る。
「ところで、ラピスちゃんて、どの子?」
「え?ああ、この子よ」
 ミナトはすぐ近くにいたラピスを呼び寄せる。
「こんにちは、ラピスちゃん」
「えと、こんにちは」
 ラピスは見覚えがあるのに記憶に無い人物の登場に戸惑っている。
「ルリちゃんの妹って聞いてたから、ぜひ一度会ってみたくて」
 そういいながら握手をする二人。
「ラピラピ、彼女はね、初代ナデシコの通信士だったのよ」
「あ、なるほどー。道理できれいな声」
「ありがとう」
 ふふふと笑いながら。その仕草は、まだ少女っぽさを残したナデシコ時代に比べるとだいぶ艶っぽさを増しながらも、それでいて無垢な少女を思わせる。それこそがタレントとしてのメグミ・レイナードの魅力でもあるわけだが。
「ラピラピ、メグミちゃんの声がいいのは、ただ通信士だったというだけじゃないのよ?」
「まぁ、一応、これでも歌手としても食べて行ってるしね」
 その一言が、ラピスの頭の中で、見覚えのある人から、元ナデシコクルーを経て、人気タレント、メグミ・レイナードへと一気に繋がった。
 そしてその繋がった瞬間は、ミナトにもメグミにも分かるほどハッキリと顔に表れた。
「あ・・・あの、メグミ・レイナード?」
「ぴんぽーん」
 口をあんぐりあけるラピス。まさかあの有名人がこんなところにいるとは思っていなかっただけに驚いたのもあるが、テレビで見るよりも、わりとどこにでもいる女性の一人にしか見えなかったことも驚きの要素の一つであった。
 ナデシコに来てからのラピスは、こういった世俗的な話題、同年代の女の子が共通して持つような話題にもアンテナを向けることを覚えた。それはただ単にアンテナを向けただけではなく、ユキナやミナトといった話題を共有できる身近な女性の存在に恵まれたためでもある。この点、アキトべったりだった頃や、そういった話題には比較的興味の薄いであろうエリナやイネスだけでは適わなかった部分でもある。
「うわぁ!ねぇ!ハリ、ハリ!こっち来て!」
 どたどたどたとハーリーの元に行き、サブロウタたちと話をしていたハーリーの片腕を抱きこむような体制のまま、ハーリーにとっては逆向きに引っ張られていく。
「ちょ、ちょっと、なんだよ、どうしたのさ」
 この後、ハーリーもまた意外な有名人の登場に口をあんぐり開けることになるのだが。
「あ、君がハーリー君でしょう」
 先にそうメグミから言われたハーリーは、さらに目を白黒させる。
「ルリちゃんのメールに書いてあったから、すぐに分かったよ」
「は、はい。はじめまして。ホシノ・ハリです」
 そういってチョコンと頭を下げる。
「よろしく」
 握手をしたハーリーを顔を赤くする。
 ちょっとそれが面白くないラピスは握手をしていた右手と反対側の左腕に、自分の両腕を絡みつけて自己主張。
「仲いいのねー」
 どこで覚えたのか、再びふふふと笑う。
「仲がいいだけじゃないわよー」
 ミナトがつなぐ。
「ラピラピが襲われた時、ハーリー君が身を挺して庇ったりしたんだから」
 それで重傷を負ったとか障害を負ったといったことには、さすがに触れない。
「うわぁいいなぁ。もうまさしく、ラピスちゃんにとっての王子様だね!」
 顔を茹蛸の如く真っ赤に染める二人。その初々しさもまた、ミナトとメグミには好ましく映っていた。
「そういえば、初代ナデシコの王子様たちはどうしたの?」
「ここにいるが?」
 そう言ってすぐ近くでサブロウタたちと談笑していたアキトが声をかける。
「なんだ、あんた自分が王子様っていう自覚があったんじゃん」
 サブロウタの茶化しに、アキトはサブロウタの腹に肘鉄を食らわす。
 だが、メグミの方は、声は確かにアキトなのだが、目の前の人物がアキトに結びついていかない。仕方の無いことだろう、ナノマシン治療の後遺症で髪の毛は真っ白になり、髪型はかつてのものと違い、瞳の色を隠すためにサングラスまでしているのだ。
「え?」
「ほら」
 そういって、アキトはサングラスをはずす。
「あ……アキトさん?いったいどうしちゃったの?」
 サングラスで隠されていた目を見たメグミは、驚きのあまり、今度は彼女が口をあんぐり開ける番となった。
「ボロボロになった身体の後遺症みたいなものだ」
 メグミはプリンス・オブ・ダークネスの話の詳しい話を知らない。ただ、火星の後継者に誘拐されたこと、実は生きていたこと、誘拐された間に人体実験をされたこと、そして彼らと戦いユリカを取り返したという話は聞いていた。
 だが、その人体実験がこんなにアキトを変えているとは想像だにしていなかった。
「そう暗い顔をしないでくれ。イネスのおかげで健康も取り戻せたし。なによりせっかくのパーティなんだからさ」
「う、うん。そうだね」
 そういった優しさはかつてのまま、というところを見出してどうにか心を落ち着けることができた。
「ユリカさんも、ルリちゃんも、ラピスちゃんも、ここまでして自分を守ってくれる人がいるなんて羨ましいなぁ。私にもどこかに王子様はいないのかなぁ」
 そんなメグミの罪な呟きに、目をぎらつかせる周囲の男たち。だが、その程度でいちいちぎらつかせるようでは、彼らが王子様になれる日は来ないだろう。たぶん。
「あー、メグちゃん、来てたんだぁー」
 メグミの背後にやってきたのはユリカとルリの二人である。
「あ、ユリカさんにルリちゃん。お久しぶりー」
「お久しぶりです」
「うわぁ、ユリカさん、お腹大きくなってきたねー。今どのくらい?」
「今7ヶ月。あともう少ししたら子供の性別も分かるって」
「どう?お腹の中の赤ちゃんが蹴ったりとかするの?」
「するするー。もう毎日元気いっぱい、ポコポコ蹴ってくるんだよ」
「ユリカの子だからな」
 静かに言うアキトの一言で周囲は笑いに包まれた。
 そんな笑いの中、ラピスはユリカの隣にやってきた。
 そのラピスの目が撫でてもいいかとたずねていて、ユリカは何も言わずに頷いた。
 そしてラピスはゆっくりとユリカのお腹を撫でる。優しく。ゆっくりと。
 それまでのメグミを中心にした笑い声がすっと引いてゆき、自然とラピスに目線が集まる。だが、ラピスは気づいていない。気づかないまま、ラピスはユリカのお腹を撫でる。
「前に『ナデシコの皆が待ってる』って言ったの覚えてる?ごめんね、ナデシコはもう無くなっちゃった……」
 ラピスの静かに語りかける声に、みんなの視線だけでなく耳も注意を引く。
「でもね、皆が待っていることは変わらないからね」
 そういって撫でたラピスの掌に、ピクリとした動きを感じた。
「あ」
「うん、今、赤ちゃんが蹴ったね」
 ラピスが顔を上げたときに、ユリカの優しい笑顔があった。
「赤ちゃんにラピスちゃんの声届いたよ、今、赤ちゃんの方もわかったよって返事したんだよ」
 ラピスは嬉しそうに何度も頷いた。

 

|| scene.5 : changed and unchanged ||

 

 扉の向こうでユキナがラピスを待っている。
「ラピィ、準備できた?」
「うん、できた。今あけるね」
 場所は、ネルガルが新たに用意した独身寮である。寮といっても、体裁は普通の単身者向けのマンションで、1階には数年前にネルガルを退職した初老の男とその妻が、ここの管理人を請け負っている。
 3階建てとむしろこじんまりとしたマンションだが、そこにはラピスやユキナ、ハリといった旧ナデシコからネルガルへと転職を果たしたものが、数日前からここに居を構えていた。
 あくまでも単身者用のマンションなので、まもなく子供も生まれてくるというアキト、ユリカ、ルリの3人は言うに及ばず、入籍予定のサブロウタとミナトの二人もここにはいない。
 とはいえ、その二人も同じところへ勤務することになっているため、二人の住むマンションへは徒歩数分という距離しか離れていない。
「じゃーん」
 そう言って、扉を開けた先にいたのは薄いアイスブルーのスーツを身に纏い、ストレートロングの薄桃色の髪をアップで束ねたラピスであった。
「おお、かわいいかわいい」
 ニコニコしながらパチパチと手を叩くユキナもまた、淡いグレーのスーツ姿である。
 実は、この日は、ラピスとユキナとハリ、その他諸々、ネルガルの新会社の記念すべき第一日目をこれから迎えるのである。
「さ、じゃあ、ハーリー君と合流して向かいますか」
「うん」
 二人は各々自分の部屋のロックを確認した後に、階段で3階から1階に降りる。
 降りてみれば既にハーリーは、管理人の初老の男性と話をしていた。
 どうみても、初仕事に向かう孫と、それを励ます祖父といった図である。
「おっはようー、ハーリー君」
「あ、おはようございます。ユキナさん。ラピス」
「おはよ」
 ラピスは、今まで見たことのないハーリーの姿に新鮮さを感じていた。今まで見たことのある服装といえば、変な軍服と、ラフでカジュアルな服くらいなもので、ネクタイを締めスーツを纏うハーリーの姿を見るのは、実はこれがはじめてだった。
「ん?なんか変なのついてる?」
 ラピスの視線を感じて、ハーリーは自分のスーツのチェックを始める。
「ううん、違う。初めてハリのスーツ姿見たなって」
「そういうラピスもね」
「かわいいでしょ?」
「うん」
「はいはい、オノロケはその辺にして、会社行くよー」
「ははは、行きましょう」
「行ってらっしゃい」
 管理人が声をかけ、挨拶と共に3人は建物を出てゆく。
 そんな道すがら、ラピスはチラ見になり過ぎないように気をつけながら、ハーリーの姿を見ていた。そして彼女は、ちょっとだけ制服フェチの気持ちの一端を理解した気がしたのである。
 本物の制服フェチは、今三人が出て行ったマンションの玄関を箒で掃除しながら、本来であればまだ学校の制服を着ているはずの年代の二人の少年少女に思いを馳せ……というか、ラピスのセーラー服姿を頭の中で妄想していた。

 

「それじゃ行ってきますね」
 玄関先でパンプスを履きながら、ルリはユリカにそう告げる。アキトは既に外で待っている。
「うん、行ってらっしゃい」
 ユリカの方はというと、ちゃっかり産休モードに入っている。実際の出産まではまだ3ヶ月ほど時間があるが、気分はちょっとした長期休暇である。
「ユリカさん、あんまり無理しないで下さいね」
「うん、分かってるよ。ルリちゃんも気をつけてね。あと皆によろしくね」
「はい。それじゃ行ってきます」
「いってらっしゃーい」
 小さく手を振りながらルリを見送る。
「あーん、いいなー。私、今、奥さんしてるー」
 ユリカのくねくねした動きに、まるで突っ込みを入れるようにお腹の中の子にボコっと蹴られ、今のはちょっと痛かったぞ、と呟きながらユリカは部屋に戻っていった。
「お待たせしました」
 そういいながらルリは車の助手席に乗り込む。運転手はアキトである。
「忘れ物は無いかい?」
「はい」
「じゃあ、行くか」
 車はゆっくりとスタートした。
 実はアキトが持つ運転免許は、まだ初心者を示すグリーンラインカードである。火星にいた時のIFS用の免許は地球では使えない。かといって軍人でもなかったため、ナデシコにいる間は免許を取れなかった。実際は、ユーチャリスを降りた後になってようやく取得したものである。そんな事情から、アキトの地球での車の運転経験はまだ非常に少なく、ハンドル捌きもどこかぎこちない。
「アキトさんの運転する車の助手席にいるって、なんか新鮮ですね」
「そうかい?」
「はい、エステ搭乗の時とは全然雰囲気違います」
「ははは、そりゃぁ、運転感覚も全然違うしね」
「そんなに違いますか?」
「ああ。エステはイメージングの反映が早いけど、車はドライバーが認識してから実際の制動までに1秒近いラグがあるからね。地球の車も全部IFS車にすれば、もっと事故減るのにな」
 そんな話をしながら、アキトの運転する車は法定速度よりも少しだけ速い速度で、サセボの町並みを走っている。
「しかし、ラピスやハーリー君は進学じゃなくて問題なかったのかな」
「問題、ですか?」
「年齢的にはまだ中学生だしね、あの二人」
「それも今更な気がしますけど」
「まぁ、そうなんだけどな」
「私ほど直接的ではないでしょうが、ラピスもハーリー君も、軍事的な利用価値という観点から、使うにせよ消すにせよ命を狙われる身の上です。安心して学園生活を送れるとは思えません」
 ルリの言葉にアキトは黙り込む。
「……アキトさん?怒りました?」
「いや、そうじゃない。ただ、普通の年齢相応の生活をさせてあげたかったんだがな」
「ですから」
「?」
「私たちは、私たちの子供たちが、普通の子供たちと一緒に笑って暮らせるための道を作りましょう」
 そんなルリの言葉を背景にしてアキトの運転する車は、とあるビルの地下駐車場への入口へと滑り込んで行った。

 

「あ、ルリ姉さん」
 一同が集められた、少し広めの会議室の前方中央付近にハーリーやラピス、ユキナらの姿を見つけ、そして同様にルリの姿を見つけたハーリーに声をかけられ、ルリもそこに近づいていった。
「おっはよー、ルリルリ」
「おはようございます」
 ユキナに言葉を返しながら、ルリは周囲を見渡す。
 そこにいる全員が先日まで皆ナデシコのクルーだった。この人たちとまた一緒に仕事ができる。そのことに喜びとささやかな感謝の気持ちを感じていた。
「なんだか、いつものメンバーなのに、服装と場所が変わるだけで随分雰囲気も違って見えますね」
「そうだよね」
 ラピスが相槌を打ったときに、ちょうどアカツキとエリナが会議室に入ってきた。それを合図に皆が席に座り、場は徐々に静かになっていく。
「やー、みんな。元気?」
「アカツキさん、相変わらずだな」
 壇上に立ったアカツキのいきなりな挨拶に、ナデシコAの頃から面識のある元クルーの突っ込みがみんなの笑い声を呼び起こす。
「えー。まずは、皆さん。ネルガルへようこそ。自己紹介は今更だから省略するよ?」
 そこでまた笑い声。
「今日、我々は新会社ネルガル・アーティフィシャル・インテリジェント・システム社を立ち上げる。名前の通り君たちには、AI開発をしてもらいたい。……と、ここで、ちょっと話を脱線させるわけだが、じゃあ社員を代表してツインテールも良かったけど、そのストレートヘアも素敵なルリ君」
 アカツキに突然名指しされ、僅かに驚きを見せるものの、少しばかり首を傾げてアカツキに先を促した。
「ネルガルはこれまで兵器部門を通して、軍事兵器を開発、製造し、軍へ供給してきた。何故だか分かるかい?」
「利益を得るためではないのですか?」
「半分は正解だが、満点はあげられないな。利益を得る。これは企業体である以上は言うまでも無く当然だ。だけど、軍事開発をするのは軍事兵器で利益を得るためだけではない」
「民需ですか?」
「その通り。軍事技術は、一般民間人向けにその技術が転用できなければ意味が無い。少なくとも僕たちのような企業組織の場合はね。そして、いよいよ、ネルガルがナデシコ級戦艦の艦載AIシステム《オモイカネ》を、民間転用のために研究する段階に来たというわけさ」
 アカツキが言い切ると、周囲に僅かなどよめきが広がっていく。
「そこで、当社の社長である私が君たちに課す、まず最初の大きなミッションは2つ。1つ目は、《オモイカネ》ベースのAIを搭載した、家電製品を研究、開発すること。実現可能で、なおかつ量産可能なら対象は限定しない。端末用のソフトウェアでも、ゲーム機でも、システムキッチンでも何でもいい。我々にしか作りえないAIという付加価値を携えたオンリーワン商品を、世に送り出すこと」
 ざわめきは一端ここでやむ。
 各自の頭の中で、いったい何にAIを組み込める製品が存在するのだろうかと考えている。
「そして2つ目のミッション。これはかなり難易度が高い。おそらく研究だけでも相当な時間を要するはずだが、これに成功すれば、まさに『第3世代AI』とも言える画期的なものになるだろうね」
「まさか」
 ラピスが何かに気がついたのか、ふと紡いだ言葉がアカツキに届く。
「なんだと思う?」
「エモーション・ユニット」
 ラピスの答えに、アカツキは言葉でではなく、大きく頷くことで満点の採点を下した。
「《オモイカネ》は君たちナデシコのみんなのおかげで、人智に劣らない思考力を手に入れている。それに感情を理解させ、表現をする術を学習させることに成功した時、人類は新たなパートナーを得る、そう思わないかい?」

 

 一般的なランチタイムから1時間ほど後ろに送れた昼下がり。会社の近くの蕎麦屋の座敷にルリたちの姿はあった。
 ルリ、ハーリー、ラピス、ユキナにミナト、サブロウタの6人が思い思いに注文し、昼食を取っていた。
「それにしても、アカツキさんの2つ目のミッションの内容、ラピぃよくわかったね」
「あ、あれね、昔、アキトたちが話してたことがあるんだ。あの時私たちが使っていたAIはオモイカネのコピーだったけど、その一歩先に行くAIを作りたいという話してたんだ」
「それが、なんだっけエモーション・ユニット?」
「実際は構想だけで作れなかったけどね」
「何で?」
「私があんなだったもん」
 そういって苦笑するラピス、皆の脳裏には白いドレスのような服とマントをまとった、人形の方がもう少し可愛らしい顔といえるほど、表情の無いラピスを思い返していた。確かにあそこまで感情を表現できないラピスが、AIに感情を教え込むなど無理だろう。
 そんなことを考えてしまったことが一瞬の沈黙を生む。その沈黙の中、ハーリーは箸を置き、机の下で隣のラピスの手を握る。それに気づいたラピスは、はにかむ様な笑顔を浮かべる。
「今度は作れるよ。みんなもいるし、何より私も成長したよ?」
 両手を腰にあて、最近自己主張の度合いが大きくなってきた胸を反らす。
「ラピちゃんやハーリーがいるのはわかるけどさ、俺は研究開発部で何をしろというんだろな。てっきり商品開発部か営業やるもんだと思ってたよ」
 人事辞令に戸惑いを感じたのはサブロウタも、であった。
 実のところ、研究開発部と呼んでいるグループはこの6人だけだった。
「あ、サブロウタはマネージャーよ?」
 さらりとミナトが言う。
「マネージャー?」
「わかりやすく言えば、課長」
「いきなり中間管理職かよぉ」
 手を額にあてながら、天を仰ぐ。
「ゴチになります!」
「おごんねぇよ」
 茶化すハーリーに、すかさず突っ込むサブロウタ。それは先の一瞬の沈黙を消してしまおうとする心の現われでもあった。
「バカばっか」
「ルリルリのそれ、久々に聞いたなぁ」

 

|| scene.6 : blessed you ||

 

 ネルガル・アーティフィシャル・インテリジェント・システム社の操業開始から1ヶ月がたった。社員の間では、長い自社名の頭文字を取ってNAIS(ナイス)と呼ぶのが定着してきた。
 商品開発をしている部屋の一角に、他とは違う雰囲気を持つ場所があった。
 それがサブロウタ率いる研究開発部である。
 商品開発部が、個人パーティーションで自分の作業場所を区切られているのに対して、研究開発部は机をコの字型に並べ、振り向けばすぐに誰かと相談しやすいようにという意図で机が配置されていた。
 そんな彼らがやっているのは、《オモイカネ》の再構築である。それも将来的なエモーション・ユニットの搭載を見越した、新たなオモイカネの構築である。
「《オモイカネ》って、感情があるようにも見えたんだけど」
「あれは、感情と呼べるほどはっきりとしたものではないのです。基礎的な喜怒哀楽のベースになるものはありますけど、それは私たち人間の側に合わせるための擬似的なもので、《オモイカネ》自身がそういった感情を持っているわけではありません」
「なるほど」
 ルリの説明にサブロウタは、そういうものかという考えで納得する。
「ねぇ、ルリ」
「なんですか?」
「前、ナデシコとユーチャリスにいた《オモイカネ》って、男の子だった?」
「どうでしょう、私としては性別を意識して初期プログラミングをしたわけじゃないですけど、どちらかといえば男の子のようだったかもしれません」
「だったらさ、今度は女の子にしてみない?」
「構いませんけど、何故ですか?」
「特別な理由があるわけじゃないんだけど、前が男の子っぽかったから、今度は女の子もいいかな、って。女の子らしさなら教えられる人も多いし」
 そんなラピスの言葉に、一瞬ルリは呆気に取られるが、すぐに笑みが零れる。
「それもいいかもしれませんね。他の皆さんはどう思います?」
 反対するものは居ない。
「だとしたら、名前を考え直すか」
 サブロウタの言葉に、ラピスが首を傾げる。
「名前?」
「女の子なのに《オモイカネ》は無いかなってね」
「それもそうね」
 サブロウタの意見に、ミナトが同意する。
「じゃあ、どんな名前にするの?」
 ユキナが言った瞬間、皆が腕組みしながら首を捻る。
「オモイカネみたいに、神事由来で考える?」
「全部なんとかのヒメになっちゃうんじゃない?」
「じゃあ《ヒメ》で」
 あまりにもあっけなくサブロウタの下した結論に、ユキナとミナトがガックリと肩を落とす。
「あれ?ダメ?」
「いや、ダメじゃないけど、もうちょっとちゃんと考えようよ」
 ユキナが抗議の声を挙げるが、意外なところからサブロウタ案賛同の声が上がった。
「私、《ヒメ》って良いと思いますけど」
 ルリだった。
「それはルリぃが姫様だったから?」
「いえ、それは……そういえば、私、昔ピースランド王女でしたね。すっかり忘れてました」
「忘れちゃうもんなの?」
「王位継承権放棄しましたし、遺伝上両親というだけですから」
「それでも、両親は両親だよ」
 そのセリフを言ったのがラピスだったことが、思わぬ沈黙を呼んだ。
 ラピスは自分の両親の元となった人物を知らないからだ。知っていても生きているかどうかはわからないし、生きていても会えるかとなると別問題だろう。たとえ遺伝上の問題だけだとしても、自分の両親がハッキリしているのに、それを蔑ろにするようなルリの発言にラピスは僅かに怒りを覚えたのだ。
「ごめんなさい。軽率でしたね」
「ううん、でもちょっと羨ましい」
「今度紹介しますよ」
「私を?」
「ええ、自慢の妹ですから」
「僕も《ヒメ》でいい気がしてきた」
「ハーリー。お前はルリさんがイイといえばなんでもいいんだろ?」
「違いますよ」
 顔を少し赤らめて、怒ったような表情で否定する。顔を赤らめたのは、サブロウタが言ったようなことも全く無いわけではなかったからである。
「オモイカネと同様、古い神の名前を由来にしていて、呼びやすく親しみやすく、かつ女の子らしい名前じゃないですか。これ以上の名前を思いつけって言われても、難しいですよ」
 そのハーリーの一言が決め手になり、「名前を決めよう」から10分もかからずに、新しいAIの名前は《ヒメ》に決まった。
 じゃあ、とばかりに新たな名前に基づいた再構築作業が再開された。
「《ヒメ》、聞こえますか?」
【はい、ルリ】
「今日から、あなたは《オモイカネ》の妹、《ヒメ》です」
【はい。今日から私は《ヒメ》です。どうして女性名なのですか?】
「あなたには、これから女の子としての仮想人格と感情をインプリメントしていきます。ですから、あなたは《オモイカネ》の妹なのです」
【わかりました】
「《ヒメ》から、何か希望はありますか?」
【一つ、あります】
 このリアクションに、ルリは表に出さなかったが、驚きを内心で感じていた。まだ《オモイカネ》から分化したばかりの、カスタマイズがあまりなされていないシステムである。この状態で、自分の要望を持ち、それをオペレーターに提示してくるとは思っていなかったからである。
「教えてください。でも、希望に沿えなかったらごめんなさい」
【はい。せっかく名前を頂き、女性としての擬似人格が今後作られていくということですが、私の外見も作って下さい。《オモイカネ》の鐘の絵では、女の子とはいえません】
 そうきましたか、とルリは感心した。
「わかりました、あなた自身を表現するための仮想外見(アバター)を作りましょう」
【はい、ルリ。ありがとうございます】
「あ、《ヒメ》」
 ラピスが割り込んだ。
【なんでしょう、ラピス】
「今、どう思った?」
【私の希望を受け入れて下さったことを感謝しています】
「じゃあ、その感謝の気持ちを記号1文字で表してみて」
 というラピスの言葉に《ヒメ》は5秒間沈黙したあと、
 
【♪】
 
 と返した。
「そう、それが『嬉しい』という感情だよ」
【これが『嬉しい』という感情なのですね、わかりました、ラピス】
「うん。じゃあ、その嬉しいという感情を込めて、《ヒメ》の今の気持ちを表してみて」
【ありがとうございます♪】
「よくできました!」
「まるで幼稚園の先生だな」
 とサブロウタは言う。だが、言われたラピスもルリも悪い気はしない。
「まだ、《ヒメ》は真っ白な状態ですから。この程度の感情表現は、《オモイカネ》にもできますが、《オモイカネ》は表現するだけです。エモーション・ユニットには程遠いですが、基礎的な喜怒哀楽を教えていく作業は、小さい子の躾けに似ているかもしれません」
【ルリ、イネス・フレサンジュ博士から通信が入っています】
「はい、つないでください」
 ルリがそういうと、ウインドウが開いてイネスが姿を現した。
『ごめんなさいね、ルリ。忙しいところ悪いのだけど、緊急なの』
「どうしたましたか?」
『ユリカさんが、さっき検診にきたのだけど・・・』
 言葉を切るイネスの表情とユリカの名前が出てきた頃から、ルリの心の中に急速に嫌な予感が広がっていく。
「ユリカさんに、何かあったのですか?」
 姿勢は前のめりになり、口調が普段よりも早口になるあたり、ルリ自身もまた自分が冷静でいないことを自覚し、そしてそれは周囲の仲間たちにも伝わった。
『検診でお腹の子を調べててわかったの。予定より1ヶ月早いけど、帝王切開でお腹の子を出さないと、危険な状態にあるわ』
「え!一体何があったんです?!」
『逆子な上に臍の緒が首に巻き付いてるのよ。このまま分娩すると、子供がかなり危険なの。ユリカさんにはもう説明をしてあるんだけど、やっぱり少しショックみたいで。ルリ、あなたとアキト君に至急、こっちに来て欲しいの』
「わかりました。サブロウタさん、そういうわけなので」
「こっちのことは心配御無用。ユリカさんと赤ちゃんを心配してあげて」
「はい」
 そういうと、普段のルリらしくなく脱兎の如くオフィスを駆け抜けていった。
【ラピス】
「何、《ヒメ》?」
【いま、ルリがとても動揺していました】
「そうだね。私も、少し動揺してる」
 そう《ヒメ》に話かけるラピスの隣でハーリーが、彼女の肩に手を置いた。
【何故ですか?】
「赤ちゃんが、危険な状態だってイネスが言ってたね。みんな元気な赤ちゃんが生まれるのを待ってるの。その中でも一番待っているのが、ユリカとルリとアキトの三人なんだよ」
【ルリの不安を、私はどう感じ取ればいいのかわかりません】
「《ヒメ》は優しいね。でも、無理しないで。これから少しずつわかっていけばいいから。ゆっくりでいいの。わからないことは悪いことではないよ、感じ取りたいと考えたことが大切だから、それを忘れないで」
【はい、ラピス】
「あ、それと、もし赤ちゃんが無事だったら、ルリは嬉しいはずだから、『おめでとう』って言ってあげて」
【はい、ラピス。赤ちゃんが無事でルリが戻ってきたら、そういいます】
「うん、《ヒメ》は素直ないい子だね」
「なんか、ラピスと《ヒメ》の会話を聞いていると、まるで姉妹っていう感じがするね」
 と、ユキナが評した。ユキナには、ナデシコに来たばかりの頃のラピスと、そんなラピスを優しく包み込むミナトの関係を思い出させた。ラピスの口調さえ、ミナトに似てきたなと思わせるに十分だったのだ。
「そうかな。でも《ヒメ》が妹だったら、嬉しいかな」
【私も嬉しいです、ラピス】
「もっと嬉しさを表に出さなきゃ」
 ユキナの悪戯心は、彼女の予想の斜め上の反応を《ヒメ》が返す結果を生んだ。
【私も嬉しいよ♪ラピスお姉ちゃん♪】
 お姉ちゃんと呼ばれたことの無いラピスは、《ヒメ》の反応に顔を真っ赤にして撃沈した。
「なぁ、ハーリー」
 サブロウタが小声で声をかけた。
「なんですか?」
「なんか、俺たち、禁断の領域に踏み込んじゃったりしてねぇ?」
「いや……どうでしょう」
 顔を真っ赤にして湯気を立ちのぼらせるラピスの反応を見て、男二人、自分の萌え要素でAIに攻め落とされる心配をし始めていた。

 

 病室をノックする音が2回。
「どうぞ」
 ルリとアキトは、ドアの向こうからのユリカの声の元気の無さに、思わず二人顔を見合わせた。一瞬の目配せのあと、ルリからユリカの病室に入っていった。
「あ、ルリちゃん、アキト」
「起きないで下さい」
 起き上がろうとするユリカをルリが慌てて止めさせた。さっきまで、帝王切開の手術をしていて、自由に動き回るにはまだ時間がかかるはずなのだ。
「ごめんね」
 そういいながらユリカはポロポロと涙をこぼしていた。
「ユリカさん……」
「私、元気な赤ちゃん産むって言ったのに」
「大丈夫です。赤ちゃんは元気ですよ。予定より早かったから今は保育器の中ですけど、健康だって先生から聞いてます」
「うん……本当は生まれてすぐに、私とルリちゃんとアキトの3人で抱いてあげたかったんだ」
「数日後ろにずれただけだ。気にするな。それよりもむしろ今まで良くがんばった。肝心な時にそばにいてやれなくてゴメンな」
 アキトはそういいながら、ユリカの前髪に優しく触れた。
「えへへ、ほめられた」
 涙が止まらないのか、ポロポロと流しながらも、笑顔で言った。

 

 ユリカの帝王切開の術後の経過も、そして予定より早かったために僅かに未熟児として生まれた赤子も、日に日に良好な経過を辿り、数日後にはユリカの病室で一緒に寝るようになった。
 自らの乳房を咥え、元気に母乳を飲む我が子。その子のまだ無いに等しい頭の産毛を優しく触れながら、この子が満足するまで飲ませてやる。
 そんなユリカと子の様子をルリは甲斐甲斐しく、あれこれと身の回りの世話を焼き、そしてアキトはボーっと眺めていた。ルリが全部やることをやってしまい、アキト自身やることがないのだ。
「アキト、そんなところでボーっとしてるけど、名前決めた?」
「……いま、考えてる」
「もう。この子が生まれてもう5日目だよ?」
「それはわかってるんだが……」
 そこまで言った時に、病室のドアを控えめにノックする音が3回。
「どうぞー」
「え、いや、お前授乳中」
 とアキトが突っ込むものの、控えめに扉が開いてひょこりとラピスが顔を覗かせた。
「入っていい?」
 やってきたのはラピスとハーリーだ。夫婦で3人というこの組み合わせだけでも異例なのに、さらにラピスとハーリーがやってきたことに、病院側はあまり良い顔をしなかった。が、家族だからということで特別に許可をもらったのである。
「いいよ」
「いや、おまえ」
「おっぱいあげてるところを、ラピちゃんとハーリー君にも見て欲しいの」
 そこまで言うのなら、とアキトが折れ二人を中に通す。授乳中の光景に驚き、ハーリーは自分がここにいてもいいのかと、目でアキトやユリカを追うが、ユリカに手招きされてしまっては行かないわけにはいかない。
「ほらほら、赤ちゃんがおっぱい吸ってるところをちゃんと見てて。5年後か、10年後か、ハーリー君とラピスちゃんが、お父さんとお母さんになる日のために」
 赤子が満足したのか、ユリカの乳房から口を離す。ユリカはそんな我が子を起こして背中を数回たたきげっぷを吐かせる。大人がやると汚ささえ感じるげっぷも、この子が今やると、かぷっという可愛らしささえ感じる音になる。
 ルリが新しく取り出した清潔なナプキンで、赤子の口元を拭いてやる。
 ユリカは赤子を左腕を下にして、横にさせながら抱く。軽く揺らしながら、身体を軽く叩く。赤子はふわぁっと欠伸をした後、小さな手をぱたぱたと動かす。
「かわいい」
 ラピスも目じりは緩みっぱなしである。
「抱いてみる?ラピちゃんも、この子が生まれてくるのを待っててくれたんだもんね」
「いいの?」
 というラピスの問いは、ハイと手渡された赤ん坊が答えだった。そしてまるで壊れ物でも扱うように、丁寧に受け取り抱く。
「あ、なんか赤ちゃんのにおいかな、甘いにおいがする」
「たぶん母乳のにおいだよ」
「そうなんだ、お母さんと赤ちゃんのにおいだね」
 そういってラピスが赤ちゃんの顔を笑顔で覗きながら、本能がそうさせるのだろうか、先ほどのユリカと同じように抱いている身体を軽く揺らし、その様子をハーリーが見とれるように見つめている。
「そういえば、この子名前は?」
「それが、アキト、まだ名前決まらないんだよ」
「いや、決めた」
 そういってアキトが立ち上がる。
「決めたというか、いくつか考えていた中の一つなんだが、マドカにしようと思う」
「テンカワ・マドカかぁ。いい名前だけど、その意味は?」
「いま、この光景を見て決心したんだけどな、この子を中心に人が和になるように。円く穏やかな人のつながりの中心にこの子がいるように。だから漢字で“円”と書いて、マドカ」
「うん、私はいいと思う。ルリちゃんは?」
「いい名前です。すぐに気に入りました」
 ラピスの腕の中にいるマドカに向けて、ラピスが声をかける。
「名前はマドカだって」
 そのラピスに呼ばれた声に、今マドカと命名された幼子は笑顔を見せた。
「かわいいー。マドカかわいすぎ〜。ねぇハリ、私たちも子供つくろ。ね?」
 あと5年は待ってくれ、と冷や汗をダラダラ流しながらハーリーは答えた。

 

|| epilogue ||

 

 アキトのたっての希望で、イネスはマドカの身体を調査した。調査といっても、僅かな採血から、調べられる範囲のことだけである。とりわけアキトが気にしていたのは、アキトとユリカの遺伝子治療の影響である。
 そのイネスとアキトは、ネルガルグループ傘下にある研究施設にいた。イネスはネルガルの施設のうち複数、自分の仕事場を持っているが、ここはそんな場所のうちのひとつである。
 アキトは、イネスに向かって固唾を呑んで返事を待っている。
 イネスはと言うと、半ば感心、半ば呆れた目でアキトを見ていた。確かに数ヶ月前、ユリカの妊娠を告げた時に、父親になる覚悟を持てとアキトをけしかけたのは、他でもないイネス自身であった。その時アキトにはまだ迷いと不安があった。
 それに引き換え目の前にいるのは、紛れも無く、生まれたてほやほやの親バカだ。
「結論から言えば、至って正常。遺伝子疾患は兆候さえ含めてゼロ。何の心配もいらないわよ」
 そこまで言われてアキトはほっと息を吐いた。そして顔を上げた時には笑顔になっていた。
「ありがとう、イネス」
「どういたしまして。それにしてもアキト君、変わったわね」
「そうか?」
「そうよ。ユリカさんが倒れて私が診て妊娠がわかったときのアキト君とは、ほとんど別人の顔してるわよ」
 私のアドバイスなんて無くても立派に父親してるわね、というイネスの言葉をアキトは「そんなことは無い」と言った。
「あの時のイネスのアドバイスに従ったからこそ、俺は娘にマドカという名前をつけられたし、マドカという名をつけてから父親の自覚が生まれてきた。それもこれもイネスのおかげだ」
 幸せいっぱいと言わんばかりの笑顔のアキトを見て、人の気もしらないでとイネスは心の中だけでちょっと毒づいた。

 

 そのイネスも、マドカを抱き上げた時、そのかわいさに目尻が緩みっぱなしである。
 出産から1ヵ月後、マドカの「お宮参り」と称するテンカワ家の記念パーティに、ハーリー、ラピス、ユキナ、ジュン、ミナト、サブロウタ、コウイチロウにイネス、アカツキ、エリナ、そしてなんとお忍びでピースランド国王夫妻までやってくるという無茶っぷりである。
 ミスマル家で働くベテランのメイド3人がこの日は家事の一切を取り仕切り、すっかりテンカワ・マドカを愛でる会になっていた。

 

 アキトはふと、部屋の中の喧騒から抜け出すようベランダに出ていた。
 外はもうかなり陽が西に傾き、夕焼けはそろそろ夜へと変わろうとしている中、アキトは月を見上げていた。特別、月を見ていたわけではない。空ならなんでも良かった。
「どうしたんだい?」
 アキトの隣にやってきたのは、コウイチロウだった。
「いえ、たいしたことじゃないんですが。うちの両親にもマドカ抱かせてやりたかったな、って」
 アキトがそう呟いたとき、ピースランド国王も同じくベランダにやってきた。
「ここでなら、タバコを失礼してよいかな?」
「あ、灰皿が無いんですよ、いま持ってきます」
 大丈夫だと、彼は制止のポーズを取り、胸元からタバコと一緒に携帯用吸殻も一緒に取り出した。
「一本、頂いてよろしいですか?」
 とアキトが尋ねた。
「君もタバコ吸うのかね?」
「いえ。全く」
 おやと首を傾げていると、アキトはタバコを咥えて火をつけた。
「どういう心境の変化かね?」
「最初で最後の一本です。親父が好きだったんですよ。線香代わりの一服です」
 線香代わりと言っただけあって、最初火をつけるために咥えただけで、あとは自然に燃えるに任せていた。煙は静かに立ちのぼり、ほとんど風の無い夜空に溶けて消えてゆく。
「次はルリとの子の番かな?」
 少し気が早いのでは?と苦笑しながらも、アキトはそのつもりだと告げた。
「ミスマル殿。お爺ちゃんになった気分はいかがですかな」
「最高ですとも。それに、ユリカの子ということはルリ君の子でもあります。あなたもお爺ちゃんなのですよ」
「そうでしたな」
 そういって恰幅の良い中年二人は笑いあう。その笑い声に反するように、マドカの泣き声が部屋の中から聞こえてくる。
「今日も、テンカワ家の姫君は元気いっぱいだ」
 少し寝不足が見え隠れするアキトのどこか疲れたような声に、祖父になったばかりの二人の男は大笑いして、アキトの背中と肩をバンバンと叩いた。ちょっと痛くもあったが、それはかつての父親であった男から、新しく父親になった男へのバトンのリレーのようなものなのかもしれない。アキトはそんな風に感じていた。

 

fin

Postscript
 最後までお読みいただきありがとうございます。
 前作starlightがアップされてからすぐ取り掛かったのにかかわらず、1年以上かかってしまいました。プライベートが忙しかったのもありますが、この話は随分難産でした。書いては消して、書いては消してを繰り返すうちに、こんなにも時間がかかってしまいました。
 ナデシコの二次創作もいろいろあると思います。
 私はここで、クルーたちを戦いの舞台から降ろさせるという分岐をとることにしました。命のやり取りから開放された、平穏と共にある普通の生活。彼らがそれを送ると、どうなるのかを書いてみたいということから、あえてaffectionシリーズと銘打ちました。
 銘打ちましたが、連載という形を取らずあくまでも単発形式で、一つ作品を考えるごとに時間軸が進むようにしようと思います。今後の展開は、マドカの成長、そして《ヒメ》の成長、そしてそれを取り巻く周囲の成長ということになるでしょう。書き上げることができた時、またepisode #4にてお会いしたいと思います。
 
2008年05月

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