|| prologue ||

 

「お父さん!お母さん!ママ!おはよう!」
 マドカは目を覚ますなり、すぐにリビングに降りてきてくつろいでいる3人に朝一番の挨拶をした。
「おはよう、マドカ」
 3人がそれぞれ挨拶を返す。テンカワ・マドカ、ただいま近所の幼稚園に通う年少さんの4歳児。
「ほら、早く着替えちゃいなさい」
 ユリカの母親業もすっかり板に付いてきた。
 当初、ユリカはある程度子育ても手が離れたら、仕事に復帰するのではないかと思われていた。だが、彼女もまたナデシコ艦隊解散時に宇宙軍を退役している。
 勿体ない、という声は当初から聞かれていたが、軍へ復帰する意思は全く無かった。
 プリンス・オブ・ダークネスの経緯を知っている者は、彼女を軍に復帰させようとは思わない。ユリカにしてみれば、もう戦い事はウンザリと正直に語った。そこがナデシコだったら、まだ戻っても良いかなという気持ちもあったが、ナデシコのメンバーがいない今の軍には何も魅力を感じない。
 どれほど使命感があろうとも、結局仕事というのは人と人の間で行われるものだ。その人という環境に魅力を感じなければ、その職場に長くとどまるのは難しいことは軍に限らない。やむを得ず現職に甘んじるケースは決して少なくは無いが、ユリカには幸いなことに経済的な余裕があった。
 アキトとルリの二人からもたらされる収入は一家を支えるのには十分だった。二人ともそれなりの専門職であるということもまた、家計にとってはプラスになっている。
 そんな事情もあって、ユリカは安心して主婦業に精を出せる。
 一家4人の家事を担うとなると、それはそれで楽な仕事ではない。食事の支度、掃除、洗濯、マドカの面倒。
 マドカが散らかす玩具をみて、「ああ、もう!」と怒ることは度々あるが、それを綺麗に片付け(そして時にマドカに片付けさせ)、快適な空間を維持し続けることに最近は喜びを感じるようになってきた。それをアキトとルリの二人がくつろいでいる時に見せてくれる笑顔は、彼女にとって報酬と言えた。
 料理を作ることにも同じ事が言える。
「今日もおいしいです」
 と、律儀に毎日感想を言ってくれるのはルリだけだが、アキトやマドカがその料理をどう思っているのかは、食事中の二人の笑顔を見れば言葉は要らないと思っている。そして、4人一緒に食卓を囲めることもまた、日常のささいな幸せの一コマだった。
「ユリカさん」
 味噌汁を一口すすったルリはユリカの方を見る。
「お味噌、変えました?」
「え、変えてないよ。もしかして美味しくなかった?昨日と同じように作ったんだけど」
「そうですか。ちょっと味が変わった気がしたんです」
 そう言われてアキトも味噌汁に口を付けるが、彼には昨日と全く同じ味に感じる。
「お母さん、おかわり!」
 ほっぺたにご飯粒を付けながら、マドカが茶碗をユリカに差し出した。
「朝から良く食べるわね」
 ユリカはやや苦笑気味に笑う。

 

 同日、仕事を終えて帰ってきたルリ。
「おかえり!ママ!」
「ただいま、マドカ」
 そういって娘の髪をなでる。
「こんどね、おゆうぎかいがあるの!」
「そう、マドカはなにをやるの?」
「おうまさん!ママも見に来てね!」
 そうねとマドカの髪をなで続けながらルリは答えた。
「ねぇ、ルリちゃん」
「なんですか?」
 ルリがユリカに対して敬語で話すのは変わらない。本人も特に意識して敬語で喋っているつもりはなくて、これが彼女のスタンダードなのだ。結婚当初こそ「もう敬語でなくていいのに」とユリカは言ったが、ルリは自身が放つ敬語以外の喋り方に違和感しか感じず、アキトやユリカも特に直すほどの何かでもないと判断して、直させようとはしなかった。
「さっきね、マドカを迎えに行くついでに買ってみたの」
 といって、ある物が手渡された。
 妊娠検査薬だった。
「え?」
「朝さ、ルリちゃん、お味噌汁の味が変わったように感じたって言ってたからもしかして、と思ったの。私にもその経験あったから」
 はぁ、と言いながら受け取り、早速調べてみることにした。
 10分後、検査結果の表示が浮かび上がるのを二人で見た。
 結果は陽性だった。

 

affection series, episode #7
Martian Successor Nadesico : the oath, 2209 A.D.
- flowers -
 
約束の形
 
Written by f(x)

 

|| scene.1 : honey honey ||

 

 んー。っと、ラピスは大きくのびをした。
 風が澄んでいるようで、それでいてちょっと新緑の匂いも感じたりする5月。
「気持ちいいね!」
 ラピスの言葉にハーリーはそうだね、と言葉短く頷いた。
 特に何かをしようとしたわけでは無い。この年で会社勤めをしているせいか、ティーンエイジャー特有の思い出をあまり持っていないことを意識したラピスは、休日に予定が無ければ、よくハーリーを外に連れ出した。と言っても何か目的があっての事では無い。食事、買い物、おしゃべり。時々遊ぶ。ただそれだけの事だったが、日頃の気晴らしも兼ねて、休日はこういったことのためにハーリーを外に連れ出すことを好んだ。
「今日はどうしようか?」
「俺、ちょっと行ってみたい店があるんだよね」
 最近、ハーリーの主語が僕から俺に変わった。その変化はごく自然な雰囲気で起こったもので、口に出すハーリー自身はともかく、ラピスも特に違和感は感じなかった。
「どこ?」
「ポートシティに新しくできたカフェ」
「あ、『ピート』!」
 すぐに閃いて、伸ばした人差し指をハーリーに向ける。
「なんだ、ラピスも情報をキャッチアップしてたか」
「あったり前でしょ」
 当然のことを言わないでと得意顔をしてみせるラピス。
「そして、ピートと言えば?」
「ハニトー!」
「イエース」
 そう言ってハーリーは笑う。お目当てのものは同じ。というよりも、それをハーリーはラピスに食べさせてみたかったのだ。それは美味しいハニートーストを出す事で若い子の評判を集めているカフェだった。オープン当初から評判となっている。メディアの取材もあったという話もある。
 きっとラピスはそのハニートーストを食べたら喜ぶだろう、と思っていた。
「じゃあ!早く行こ!」
「うん」
 ハーリーの言葉を合図に二人は腕を組んで歩き出す。
「ハニートーストなんて、前に食べたのいつだったかな」
 目を輝かせるラピスをみて、ハーリーは女の子は本当に甘いものに目が無いなと思う。
 女の子と一括りにしているが、ラピスはたぶん女の子の中でも特にこういったスイーツに目が無い方だとハーリーは思っている。
 それを悪いことだとは思わない。
 こんなに幸せそうな期待感に満ちあふれた女の子の表情は、それだけで男も幸せにしてくれる。
 摂取後のカロリーを気にするかもしれないが、まぁ、そこは、がんばって。
「それよりさ、ハリ。前からちょっと思ってたことがあるんだよね」
「ん?」
 一緒に腕を組んで、ピートまでの道を歩きながらラピスがハーリーに話を続けた。
「髪型」
「え、変?」
「ううん、私、そっちの方が好き」
 そっち、とは普段のような整髪料でセットしていないナチュラルなままの髪型を指した。
 本当はかなり前から、ハーリーの髪型についてはちょっと意識があり、こうして欲しいと思ってはいた。
 でもそれを言うと、かつてラピスがハーリーを意識しだした切っ掛けである、「アキトに似てるから」と感じた過去を思い出させてしまうのではないかという躊躇があった。今となってはもうそんなことは全く無いのだが、まだアキトの事を気にしているのかなと誤解されたくないという気持ちが、その話題を何となく言わないで来ていたのだ。
「そう?じゃぁ、もう普段もセットするの止めようかな」
 ハーリーはラピスの躊躇には特に頓着しなかった。自分なりに格好付けていたつもりでいたが、ラピスの好みに合わせるのは全然やぶさかではない。というよりもむしろ、ラピスにこういった注文が出てくることがちょっと嬉しくもある。それはもっと自分好みの男になってくれというアピールなのだから、そこはやはり応えたい。
「うん、これで私もハリの髪食べられるね」
「食べる?!」
 嬉しそうに言うラピスとは対照的に、何を言い出すんだこいつは、という顔でラピスを見る。
「うん、もさもさと」
「いやいや、食べないでしょ、普通」
「じゃぁ、試しに私の髪食べてみてよ」
「え……」
 マジで言ってんのか?という言葉がありありとわかる表情をしていた。
 ハーリーはラピスの細くて長い髪の先端を一部掴む。
 そして、先っぽよりも少し上の部分を横一文字にはむ。
 鼻をくすぐるラピスがいつも纏っている香り。
「どう?」
「ラピスの匂いがする」
 そう言われて、ちょっと恥ずかしそうにふふと笑う。
「私も同じ事したいなー」
「別に、男の髪なんて美味しくも良い匂いもしないよ。頭皮に近い分だけ、かえって汗臭いだけじゃない?」
「いいから」
 そうラピスは言うと、組んでいた腕をほどきハーリーの後ろから抱きつき、その後頭部にほんのちょっと背伸びをして自分の顔を近づける。密着度合いが高く、ラピスの胸が背中に当たる。正面から抱き合うよりも、後ろから抱きつかれる方がラピスの身体のラインを強く感じることができる。
 ラピスの両腕がハーリーの前で交差し、抱きしめられる。こうなってはハーリーは身動きが取れなくなる。
 くんくん。
「うわ、これスゴイ恥ずかしい」
 往来の目が気になり出す。
 午前中から何やってるんだ、こいつら。という周囲の目がハーリーにグサグサ刺さる。
「汗臭いでしょ」
「そんなこと無い。今朝、ちゃんとシャワー浴びたんだなってわかる。私この匂い、すき」
 くんくん。
 ラピスはハーリーを解放してくれそうにない。
「ラピス、そろそろ」
 いい加減、周囲の目に耐えきれなくなってきた。
「このまま、ピートへGO!」
「ウソでしょ?!」

 

|| scene.2 : really think ||

 

 タキガワとアカツキは、ハーリーとラピスが向かったピートとは異なる喫茶店でコーヒーを嗜んでいた。そこはアカツキがプライベートで良く通うお気に入りの店でもあった。アキトから連絡を貰って、この店を待ち合わせの場に指定したのはアカツキ。
「この店のコーヒー、いつもほっとするね」
 と、アカツキが下すのはコーヒーとこの店に対する評価。
「意外だな」
「何がだい?」
「お前さんが、ブレンドコーヒーを美味そうに飲むのが。普段、ブルーマウンテンとか飲むのかと思ってたぜ」
 そういうのを偏見って言うんだよと、アカツキは困ったように苦笑した。
「ブルーマウンテンは生産量が少ないから高級豆というイメージが強いけど、個人的にはモカの香りの方が好みだね」
「そういうものかねぇ?」
「そういうもの。ところで、イネス博士は元気?」
「普段通り」
「そうか……いやぁ、恋は女性を美しくさせるっていうけどさ、元々の美人があそこまで磨きがかかっちゃうんだから驚きだよ」
 普段の人をからかうときのアカツキの表情をしている。
「よく言うよ」
「結婚する気は無いのかい?」
 というアカツキの言葉にタキガワはスッと視線を外した。
「一応、考えてはいる」
「それは何より」
 周囲がどんどん自分たちの足元を固めて行っている。皆が幸せになっていくのは結構なことだ、とアカツキは思う。
 その時、二人の隣にアキトがやってきた。
「悪いな、呼び出した本人が遅くなったりして」
 そう良いながらアキトはアカツキの隣に腰掛け、メニューも見ずに水を持ってきたウェイトレスにブレンドコーヒーを注文した。
「休日にわざわざ僕たちを呼び出すなんて、どうしたんだい?」
「んー、一応報告しておこうと思ってな」
「報告?」
「あぁ。その、ルリが妊娠した」
 そのアキトの言葉に二人は驚きを示した。
「いやぁ、めでたいね!」
 ニコニコ顔のアカツキ。
「そこまで喜んでくれるとは思わなかったぞ」
「だってさ、ルリ君ともう何年のつきあいになる?10年以上だよ?あの子のいろんな顔を見てきたよ。最初の頃は『バカばっか』とかいって澄ましてたのに、いつの間にかすっかりテンカワ君にメロメロになっちゃって」
「……メロメロねぇ」
「その後の、火星の後継者事件の事もね」
 と言うアカツキの言葉に、アキトは言葉を見失う。何となく責められているような気がするのは何故だろうか。
「もうあんな顔はさせない」
「頼むよ」
 とアカツキの言葉で、瞬間会話が止まったタイミングをタキガワが狙っていた。
「なぁ、テンカワ。それをアカツキに報告するのはわかるが、なんで俺まで呼ばれたんだ?」
「あんたにも一応、言っておかなきゃなって思ったんだよ」
「そうか、ちょっと気を使いすぎだ」
 そう言ってタキガワはほんの僅かに笑みを浮かべてコーヒーカップを傾ける。
「気分を悪くさせたらすまない」
「だから、気ぃ使いすぎだって」
 タキガワの微笑は苦笑に変わる。
「まぁ、ユウちゃんには今はイネス博士がいるしな」
 と、にやけ顔でアカツキが暴露。それを聞いたタキガワは、ぶっとコーヒーをちょっと吹いた。
「あんた、イネスとそういう関係なのか?」
「ま、まぁな」
 タキガワは慌ててテーブルのペーパーナプキンを数枚取り出すと、自分が吹き出したコーヒーを拭き取った。
「いやぁ、ユウちゃんがいてくれて助かったよ」
「そうか?」
「そうだよ。だって、イネス博士はさ俺達の間の影の功労者なのに、あの人に巡り会うパートナーがいないなんて可哀想だろ?」
 アカツキは手を組みながら言う。
「そういうお前がイネスの相手をしてやれば良かっただろ」
「僕?無理無理、そういう器じゃないね」
 アキトの言葉に苦笑しながらアカツキは答える。
「そういうお前は最近どうなんだよ、元スケコマシ」
「別に何も?」
「エリナとの間には何も無いのか?」
「どういう誤解だよ、それ。元々、エリナ君との間にそういう関係は無いよ」
 ちょっと苦笑気味に眉をひそめる。エリナ君が狙ってたのは本当は君だよ、とは言わないでいた。この男のことだからたぶん気付いていないのかもしれない。
「そうだったのか。まぁ、お前のことだから女には困らないんだろうけど」
「だから、それも誤解」
 というアカツキの言葉にアキトは腕組みをして考える。
「そういやナデシコ時代から、お前あんまり浮いた話が無かったな」
 だろ?とアカツキは肯定した。
「その割に、周囲に女っ気は多かった気がするが」
「僕に寄ってくる女のほとんどは、僕じゃなくて金目当てだよ」
 そのアカツキの言葉に、思わずアキトとタキガワは視線を合わせた。
「周囲を見ていなかったガキの頃はチヤホヤされてるで良かった。でもいざ会社を継いでみるとわかっちゃうんだよ。何を求められてるかをね」
「お前、それでいいのか?」
 タキガワが少し怪訝そうな表情を見せる。他人の幸せを喜んでいられる状況か、と。
「まぁ、良くは無いね」
 ふーむ、とアカツキは腕組みをして考える。
「いざとなったらマドカちゃんを嫁に貰うよ」
「15年後、お前いくつだよ」
 アキトが呆れ表情MAXでアカツキを睨んだ。

 

「あのっ」
 アカツキが3人分の会計をまとめて支払おうとして、財布に手を伸ばした時に、レジを扱うウェイトレスの女の子に声をかけられた。
 ん?とアカツキが顔を上げると、ちょっともじもじした表情が見えた。
「よかったらまた来て下さい」
「うん、いつもありがとう」
 そんなまんざらでも無いアカツキとウェイトレスの女の子のやりとりをみて、アキトはアカツキの脇腹を肘で突いた。

 

|| scene.3 : I promise you “forever” ||

 

 ハーリーはハニートーストを完食後、さすがにぐったりしていた。
(まさか、一斤出てくるとは思わなかった)
 二人で食べ分けたが、かなりの分量でこの分だとこれが昼食を兼ねそうな勢いである。
 ただ、そこはやはり人気店。味の方は満足のいくものだった。
 焼きたての熱々トーストの上に、たっぷりとかけられたメープルシロップと山盛りのアイスクリーム。
 トーストとアイスクリームってこんなに相性良いんだなということを実感させられる。
 人気店だから混んでいるだろうとは最初から覚悟していた。
 だが、まさか入店するまで1時間待ちの行列ができているとは思ってもいなかった。
 しかし最初からピートのハニートーストに狙いを定めていたので、並んでいるから止めようという話にはならなかったのである。一人で行ったのであればともかく、ラピスに食べさせたいというのがそもそもの動機であり、ラピスは比較的こういう待ち時間を苦にしない性格をしている。
 二人でお喋りしているうちに少しずつ列は前に進み、ハーリーとラピスはテラス席に通された。テラス席は天候によっては当たり外れがあるが、今日は大当たり。絶好の晴天と、ちょうどいい風の通り具合。文句の付けようが無かった。
「私、コーヒーもう1杯もらうけど、ハリどうする?」
「あ、俺も欲しい」
「注文してくる。何飲む?」
 と言いながらラピスは席を立ち上がる。
「カプチーノがいいな」
 気分で答えた。
「おっけー」
 ラピスがカウンターに向かう。席で待っている間にハーリーは、自分が着ているパーカーのポケットに手を突っ込む。
 中に入っていることを感触だけで確認すると、手を戻した。
 数分後、カップを二つ持ってきたラピスが戻ってくる。
「はい」
「サンキュー」
 口を付けたカプチーノはまだ熱く、あちっと思わず言いながらすぐに口を離した。
 何となく周囲を見渡してみると、思ったよりもカップルより女の子友達集団が多い。ほとんどの子たちが、ハニートースト目当てのようだ。
「そういやさ」
 ハーリーが何かを思いついたように口を開いた。
「ん?」
「ヒメとヒロト君の件って、その後どうなの?」
「結構うまく行ってるみたい。ウリバタケさんに説明するのは大変だったみたいだけどね」
 それはわかるような気がするとハーリーはこぼした。
「最近、ヒメがツインテールにしなくなったのも、やっぱヒロト君の影響かな?」
「それはどちらかというとヒメの気持ち。子供っぽく見られたくないんだって」
 ヒメの開発に携わって早3年。ハーリーのところにこういったヒメからの相談事はほとんど回ってこない。だが、時折、「男の子ってこういう時どうなんですか?」という質問を投げかけてくることがあり、そういう時は自分の場合はこうだということを説明することにしている。そこら辺はヒロトと年が近いせいもあるのか、サブロウタよりもハーリーの方が頼られている。
 しっかり女の子なんだなぁと思うことが度々ある。
 ヒロトとヒメの交際によって、《ヒメ》のエモーション・ユニットの開発の複雑さは格段にあがった。開発する側が教えることだけではなく、ヒメ自身が感じ考えたことがどんどん広がり、より感情というものを豊かにしていく。
 今日は頬に手がふれた。今日は髪を褒めて貰った。今日はキスしてくれた。
 そんな日常に起こる二人の些細な1コマを大事なことに捉え、喜びや興奮や羞恥などの複数の感情に強弱をつけながら結びつき記憶の中に蓄えられていく。
「まぁ、でもラピスの言った通りになったね」
「何が?」
「好きだっていう気持ちがあれば、何とかなるもんなんだなって」
「でしょ」
 といってラピスが微笑みを浮かべる。
 残る問題は山積している。第三世代型AI開発のゴールは明確では無いし、今のところ稼働しているのは《ヒメ》だけである。今後、新たな仮想人格がインプリメントされた別の機体も順次ロールアウトされていくだろう。そこに辿り着くまでに、何年かかるだろう。十年?いや数十年?
 きっとこれが自分たちのライフワークなんだな、とハーリーは感じる。
 でもそれは単なるシステム開発とは違う。
 最初はただの人形でしかなかったアバターが、様々な表情をつくるようになってきた。
 アカツキはかつて会社設立時においてこう言った。「人類は新たなパートナーを得る」と。その時は大げさなアジテーションだと半ば思っていたが、実際にヒロトとヒメという恋愛感情を伴ったパートナーシップが、システム開発開始からわずか3年で形成され始めているというのは驚くべき事だと思う。
 ハーリーの頭の中では、ヒメのようなボディをもったAIが量産されていく未来はちょっと思い浮かばない。
 それはまだ研究開発段階だからかもしれない。まだしばらくは、あるいはずっと、パートナーを得ることができるAIは極限られたものだけになるだろうし、そもそもボディを持つ事が許されるAIがほんのごく僅かだろうと思う。
 それは単に作ればそれで良いというものではない。
 自己がアイデンティティを持ち、自我と呼べるものをはっきりと持つとなった場合、彼らAIに果たして人権は認められるだろうか。そういった法整備が整わなければ、人間にとって都合の良い奴隷が生み出されることになりかねない。ロボットが欲しいならそれを作れば良い。しかし自我を持つとなると、それがたとえ人工知性体であったとしても話はガラリと変わってしまう。気持ちの次に乗り越えなければならない課題はここだ。
 そこに自らの意思があるのなら、それは尊重されるようにならなければならないだろう。
 そういった環境が整わない限り人間とAIの関係は対等なパートナーにはなり得ない。
 人間にとってだけ都合の良い主従関係を作り出したら、それはパートナーと呼べるだろうか。そこに自我は必要だろうか。
 あるいは不満を鬱積させたAIたちによる反乱とか戦争とか、そんなのマンガの世界だろと思い込んでいたことがひょっとするとこの先現実のものになるかもしれない。
 ハーリーはそういう未来を望んでいない。争うためにAIに命を吹き込んでいるわけじゃない。
「ハリ、また難しそうなこと考えている」
 とラピスに突っ込まれてハッとした。ラピスのことも忘れて、一瞬物思いに耽ってしまった。
「ごめん」
 さすがに考えに浸りすぎたと思ったのだろう。ハーリーはものすごくすまなさそうな顔をした。
 それをラピスはふふふと笑って流した。
「でも私、ハリがそうやって何か考え事しているときの顔、結構好きかな」
 両腕の肘をテーブルでつき、その両手に顎をのせながらラピスは微笑んだ。
「え?」
「気付いてないと思うけど、結構クセが出てるんだよ。左手を握り拳にしたりして顎や口を乗せて、まっすぐにどこかに狙いを定めているような目をして」
「マジでそんなになってる?」
 普段意識していないだけに、そこを指摘されると焦ってしまう。
「うん。たぶん私しか知らないハリの顔。それを見るといつも思うんだよね、あなたは何年先の未来を見ているの?って」
 ラピスは口には出して言わなかったものの、それを凜々しいと感じてる。だからそういう顔をして考え込んでいるハーリーの邪魔を極力しないように、ただその顔を見つめているのが好きだった。

 

 その後、もう1杯コーヒーを注文してお腹が落ち着いてきたところでカフェを出て二人は海岸沿いの公園へと歩いて行く。
「ほんと、今日は気持ちいいなぁ」
 あともう少しすれば梅雨の季節なのだが、まぁそれは今は考えないでおこう。
 海岸線をバックに、歩道になっている道の柵にハーリーは背中を預け、ラピスは海を眺めている。
 何となく二人の会話が途切れる。
 ハーリーはもっと緊張するのかと思っていたが、意外とおちついている気分を不思議に感じていた。
 それは恐らく確信に近いものがあったからだと思う。
 きっと僕たちは、この先もこうやってずっと一緒にいるんだろう。いや、そう望んでいるのだ。
 そして、ここで何か一つの足跡を残しておきたいと思って密かに準備を始めたのは2週間前。
「ラピス」
「なぁに?」
 ラピスは海岸線から視線を逸らさずに返事をした。
「初めてデートした日のこと、覚えてる?」
 ん?という顔がハーリーに向けられた。
「食事しようとしたらさ、近くにいた女の子たちに指さされて笑われて、ラピスあの時泣きながらすごい怒ってたじゃん」
「そんなことあったね」
「あれ、すごい嬉しかったんだよな」
 ハーリーは笑いながら言った。
「あれが?」
「うん。俺のために泣いてくれる女の子なんて、きっとこの子しかいないって思った」
「その前にもハリには泣かされた気がするけど」
「あはは、まぁ、ね」
 そこでハーリーは一度、空を見上げた。
 どうしたの?とラピスは言いかけてやめた。ハーリーが何か遠くを見るような目をしていたからだ。
「俺は、来月18歳になる」
 その言葉の意味するところ、それを意識した瞬間にラピスの鼓動は激しく高まる。
 見つめるラピスの視線にハーリーも気付いた。
 そして、ニッコリ笑う。
「だから、これ、受け取って欲しい」
 そう言ってパーカーのポケットからラッピングの施されていない小さな化粧箱を取り出して、ラピスに手渡す。
「これ……開けていいのよね?」
「もちろん」
 そこに納められていたのは、小さなダイヤモンドがあしらわれた一つの指輪。婚約指輪エンゲージリング
 ラピスは思わず手が震え出す。
「これって……」
 期待していいのだろうか。
 言ってくれるのだろうか。
 様々な思いが心の中を飛び交う。
 それは5年前、ハーリーとラピスが交際を始めて間もないころ、ハーリーの親権がミスマル・コウイチロウに移った時に、ハーリーが付けた条件。ホシノ姓を名乗ること。そのことでラピスの気分を損ねるんじゃないかという心配を持ったが、ラピスはそれを特に気にしなかった。彼なりにルリへの想いを整理するために必要なことなんだろうと思ったからだ。
 その際に、ハーリーが不意に口にした言葉。
 それを今でも忘れはしない。
「ムード無くてゴメン。でも、今ここで、もう一度言うよ」
 笑顔の中にまっすぐな気持ちが見て取れる。
「ホシノ・ラピス・ラズリになってください」
 ラピスは受け取った指輪が納められた化粧箱を両手で包み、そして逃がすまいと胸に抱く。
「はいっ」
 言えた。
 言ってくれた。
 この日のために僕たちは歩いてきた。
 何か言わなきゃ。何か伝えなきゃ。
 ラピスはそうやって言葉を探しているうちに、言葉より先に出てきたのは涙だった。
「ずっと待ってた」
 それでも最短でここに辿り着いたのだ。
「ハリがそう言ってくれるのを楽しみに待ってた」
 涙は拭っても拭ってもあふれ出してくる。
「もっと笑顔で『はい』って言うつもりだったのに。私、泣いてばっかりだね」
 苦しみや悲しみで流す涙は1秒たりともさせたくはないが、喜びの上に浮かぶ泣き顔は愛おしくてしょうがない。
 ラピスは自分の頭をハーリーの胸に預ける。
 それを受けてハーリーはラピスの背中に片手を回す。
 なんて言おう。ラピスは考える。
 ずっと一緒だよ?そんなの当たり前。
 それとも、浮気は許さないから?そんなことする人じゃないのも知ってる。
 どれも違う気がする。
「大好き」
 一番陳腐だけど、それが今は一番当てはまってる気がした。

 

 ラピスはその指輪を左手の薬指にはめる。
 サイズはぴったりだった。ちゃんとラピスの指のサイズをハーリーが把握していたことも、彼女の喜びを深くした。
「これ、高かったんじゃない?」
 給料3ヶ月分という表現はかなりオーバーだが、1ヶ月分以上は余裕で持って行かれた。
 喜んでくれるなら安いものさ、などと気障な台詞は出てこない。でもそれは紛う事なき男の本音だ。
 永遠を誓うことへの約束、その意志の現れの一つの形。それなりのものは用意したいというプライドがある。それを18歳という用意された最短の時間で準備できたことは、自分自身を褒めていいとハーリーは思う。ラピスが待っていてくれていることはわかっていた。だからこそ、少しでも早くその笑顔が見たかった。
 それでラピスが喜んでくれるなら、嬉しそうにしてくれるなら、大事に思ってくれるなら、頑張った甲斐はあると言える。
 今日だけはとにかく余計なことを全部忘れて、幸せな気分に浸っていたいとラピスは思う。
 明日になればいろんなことをこれからしなくてはならない、ということを二人ともわかっていた。
 入籍の手続き。職場への報告。知人への連絡。結婚式の手配。新居の契約。新婚旅行の予約。
 慌ただしい1年になりそうな予感がする。
 でも、二人でならたぶん何とかなる。これまでもそうだったし、きっとこれからもそうだ。
「ユキナより先に結婚すること、きっといろいろ言われるんだろうなぁ」
 とラピスがちょっとぼやくのを見て、ハーリーは大笑いした。

 

|| scene.4 : remember your color ||

 

 妊娠10週。ルリの悪阻つわりはユリカのときより酷かった。
 嘔吐もたびたびあり1回だけ点滴を打って貰ったこともある。それでも、待ち望んだ赤ちゃんを身ごもったという事実と、あともう半月もすれば悪阻はおさまるということがわかっていたこともあって頑張れた。
 ユリカがいてくれるというのも大きい。アキトだけでも精神的に支えて貰うことは十分できただろうが、それを実際に身をもって先に体験してくれる家族というのはありがたかった。何が辛くて、何をして欲しいのか。そして何をして欲しくないのか。個人差があるのでユリカの時と100%一致するわけではないが、そうしたことに細やかなフォローがあったのだ。
 愛されているという実感が湧く。
 そんな中、ハーリーとラピスがテンカワ家を訪れた。ハーリーとラピスはその時、ルリの懐妊を知らされた。
 目を丸くするハーリーと、自分のことのように喜ぶラピス。
「どんな子が生まれてくるのかな」
 ぽんやりとラピスも顔を上気させる。
「それで、今日は二人ともどうしたの?」
 と、リビングに二人を通したユリカがお茶を出しながら尋ねる。
 ハーリーとラピスは一瞬、互いに目配せをする。そしてハーリーから切り出した。
「俺達、結婚します」
 その言葉に今度はユリカとルリとアキトの三人が目を丸くした。
 結婚報告は、職場よりも真っ先にこの家族にしたかった。
 それを受けてアキトとユリカとルリの間に、いろんな想いが混ざり合う。特にアキトのラピスに対する感慨は大きい。
 ユーチャリスに乗り込んでいる間、アキトを支えたこと。
 ナデシコでお嫁さんになりたいと告白されたこと。
 そして、それを受け入れられなかったこと。
 これ以上無いくらい傷つけてしまったからこそ、ラピスの幸せを誰よりも望んでいた。それは三人に共通する思いだった。
 あの日、ラピスを拒んでしまった日、号泣したラピスを忘れることはできない。そのラピスが今、新たに掴んで育んだ幸せを一つの形にしようとしていた。
「ハーリー君、俺にこんな事を言う資格はないことはわかってるが、それでも言わせてくれ。どうかラピスを幸せにしてやってくれ」
 アキトはハーリーに対して頭を下げた。
「もちろんです」
 と、ハーリーは笑顔で答えた。
 そしてそのハーリーの笑顔は、ルリの心にも響くものがあった。
 宇宙軍復帰以降、ハーリーは何かとルリのまわりにいた。
 艦長、艦長、とついて回るのは、時に鬱陶しくもあったが、それでも自分を慕ってくれる子はやっぱり可愛い。それが異性の子なら尚更だ。
 最初は尊敬から始まっていたとしても、やがてそれは憧憬から思慕へと姿を変えていることにルリは気がついていた。
 アキトが戻ってきていなければ、自分の隣にいたのはひょっとしたらハーリーだったかもしれない、と今更にして思う。
「ハリ、おめでとう」
 笑顔と共にルリの口から、はじめて本名を呼び捨てで呼ばれた。
 口に出される言葉というのは不思議なもので、声になった途端にそれが明確な意思を持つ。
 その瞬間、自分はこの子の姉なのだということを強く意識した。先に「ルリの弟」という立場を明言していたハーリーに比べれば随分と遅いとも言えるかもしれない。口では姉弟と言ってきたことは何度もあったが、ここまで強烈な自覚を持つのは初めてだった。
「ありがとう、姉さん」
 くすぐったそうにハーリーが笑う。
 ひょっとしたら交錯していたかもしれないアキトとラピス、そしてルリとハーリーというそれぞれの位置関係は、今明確な想いを伴ってそれぞれが選んだ道へ、それぞれが選んだ相手の手を取り合って分岐していた。
 それを感慨深げに眺めているのはユリカも同じであった。
「ルリちゃん、生魚、今食べられる?」
 ユリカの言葉は唐突でもあった。
「ええ、たぶん大丈夫です」
 でもなんで生魚?という戸惑いを含んだ声。
「おめでたい時にはやっぱりお寿司よね!」
 と、両手を合わせてニッコリ笑うユリカ。
 やはりこの人はつかみ所がない、とハーリーは思う。
「おすし?」
 それまで一人で遊んでいたマドカが、母親の言葉に反応した。
「そうよ」
「マドカ、いくらが食べたい!」
「はいはい」
 そんなマドカを眺めながらラピスが呟いた。
「私もマドカみたいな子が欲しいな」
 生まれたてのマドカを抱っこしたときに、私たちも子供を作ろうとラピスに言われたことをハーリーは思い返す。そこまでまだ具体的な未来像は描けていないが、「子供が欲しい」というラピスの言葉は、それが急に「家庭を作る」ということを意識させはじめていた。

 

|| scene.5 : white aisle ||

 

 10月。
 挙式の準備と並行する形で、ハーリーとラピスの新居への引っ越しが行われた。
 その引っ越しには、アキト、サブロウタ、アカツキ、ウリバタケ、ヒロト、コウイチロウ、ヒメ、ミナト、ユキナ、ユリカ、ルリが駆けつけてくれたおかげで人手には困らなかった。
 とは言え、さすがにお腹が目立ってきたルリには仕事は一切させない。ちょこまかと動き回るマドカの見張り番と言ったところだ。力仕事は男性陣に任せ、女性は主に掃除や収納まわり、食事の準備などを担った。
 あらかたの搬入が終わり、昼食を取ろうということで皆が集まってきたタイミング。
「しっかし、いい部屋見つけたな」
 とサブロウタが呟く。
 職場まで徒歩10分、14階建てマンションの7階、南西向き角部屋。間取りは2LDK、二人暮らしには十分な広さだ。
 これだけあれば子供1人くらいいても何とかなる。
「ラピスが見つけたんですよ」
 と、ハーリー。ラピスはIFS強化体質の持つポテンシャルの最大限を駆使して、最良の空室を最高の条件で探し当てた。人はそれを才能の無駄遣いという。
「ここ結構高いんじゃない?」
 お家賃が。と、ユキナが心配するのはもっともだろう。
「いや、そうでもないんです。ここ、ちょっと高台の上にあるでしょ?だから何をするにもちょっと不便なんですよ」
 買い物に行くにも、駅に向かうバス停の前に出るにも、徒歩にして10分は歩かないといけない。自転車を使う手もあるが、その場合帰り道はかならず坂道を登らなくてはならない。毎日となると意外としんどい。だが二人にとって、その10分という距離に職場があったのは決め手になった。
「そろそろ、二人とも車の免許取ってもいいかもね」
 ミナトに言われて、車を運転する自分自身を思い浮かべてみるラピス。ちょっと大人になった気がしてワクワクする。
「あーあ、これで独り身なのは私だけかぁ」
 ぼやくユキナの隣で、俺もそうなんだけど?という顔をするアカツキのことに気がついていない。
「さっさとジュン君に貰ってもらいなさいよ」
「ねぇ、ミナト。ジュン君、私のことお嫁さんにしてくれるのかな」
 ちょっとぐずっとなる。
「そこ、今更心配するところ?」
「だってさぁ」
 ユキナのぼやきが続く。人それぞれのペースで未来に進んでいる。
「ヒロトさん、はい、どうぞ」
「ありがとう」
 ヒメがヒロトに対して、おにぎりと唐揚げと卵焼きの乗った紙皿を渡し、それを笑顔で受け取る。
 子どもたちがちゃんと大人に向かっていっていることに、コウイチロウはそれを笑顔でみつめていた。

 

 ハーリーとラピスの結婚式を執り行うにあたって、誰がラピスのエスコートをするか、という話はちょっとだけ揉めた。言うまでも無いことだが、ラピスに両親はいない。
 誰もが父親の代理として、アキトがその役を担うものと思っていた。
 俺がやることになるのかな、と思う一方で、自分は相応しくないと思う一面があったのも確かだ。そしてその心情を吐露した。
 二人を複雑な気分にさせてしまうのではないかと。
「アカツキの方が良くないか?」
「僕が?!」
 まさしく青天の霹靂という顔をして言った。
「どう考えたって、これはテンカワ君の役目だろ」
 そう言われてアキトは腕組みをして考える。
「お前、ラピスのことをどう思っている?」
「そりゃぁ好きに決まってるさ」
「お前がラピスに対して抱いている感情はもっと特別だろ」
 アキトの脳裏に過ぎるのは、ラピスが誘拐されるという目にあった一昨年の事件のこと。
 あの時、アカツキが言い放った「どんな手段を使ってでもラピス・ラズリを奪還しろ」と言ったときの表情が頭から離れない。
 明確に浮かんでいたものは、愛する者を奪おうとするものに対するこれ以上ないほどの怒り。
 アカツキの場合、怒りを爆発させるのではなく、鋭利な刃物のような鋭さをもって斬るタイプだと、その時アキトは認識した。
「じゃあここはミスマル元帥に」
「アカツキ。逃げんな」
 さすがにアカツキも押し黙るしか無い。
 アキトを木連の手から救出した際に、副次的にもたらされたラピス・ラズリという少女の存在。
 恋愛感情とは微妙に異なるものだが、その時点から、人形のようなラピスのことを何とかしたいと思っていたのはアカツキもまた同様だったのだ。
 なんでみんなテンカワ君にばかりなびくんだろうな、とちょっとひがんでみたりしたこともある。
「普段は鈍感なくせして、なんでこういうときだけは鋭いんだろうね」
 と言ってアカツキは肩をすくめた。

 

 そのことを二人に同意を求める必要があったが、ハーリーは「それはラピスが決めることです」といって基本的に不干渉の立場を取った。二人ともアキトだろうと思っていたから、アカツキが推挙されたときは少々驚いた。
 実のところは、アキトが考えた複雑な気分にさせてしまうのではないか、という心配自体が要らぬ心配で、まさに気を使いすぎだったのだが、アカツキであればエスコート役として不満は何も無い。

 

 挙式当日。
 控え室にて、ウェディングドレスを着たラピスが鏡で自分自身の姿をチェックしている。
 その姿をミナトは感慨をもって見守っていた。
 ナデシコでラピスの保護者になってから6年近くが過ぎていた。成長を見守ってきたという自負もある。
「本当に綺麗よ」
 娘を嫁に送り出す母親の心境とはきっとこういうものなのだろう、とミナトは思う。
「ねぇ、ミナト」
 ラピスはちょっと笑みを消した表情でミナトに話しかける。
「どうしたの?」
「私、本当にいろんな人に支えてもらったんだなって思った」
 ナデシコ時代、いつも隣にいたのはミナトだった。励ますときも、叱るときも、言うべき時は必ずミナトの言葉があった。
「どうすれば、恩返しができるんだろうって考えちゃって」
 それを恩だと感じることが大切なのではないか。
「笑顔で居ればいいのよ。大切に思っている人の笑顔は、それだけで救われる気持ちになるから」
 そんなミナトの言葉がすんなりとラピスの心の中に入っていく。
「そっか」
 そういってラピスが笑う。
「そうよ」
 と、ミナトも笑う。

 

 いささか緊張した面持ちでヴァージンロードを歩き始めるラピス。ミナトに言われた手前笑顔を浮かべているが、さすがにちょっと引き攣りそう。
 ラピスの数歩前で、天使の羽根を付けさせられたドレス姿のマドカがフラワーガールをつとめ、周囲に花びらを撒きまくっていた。
「ラピス」
 腕を組んでラピスをエスコートするアカツキが小声で囁く。
 それは今まで聞いた中で、一番優しいアカツキの声だった。
 わずかに首を動かし、目でアカツキを追った。
「幸せになれよ」
 小声でうんと答え、組んでいるアカツキの腕を少しきゅっと抱きしめた。
 それまでの緊張が嘘みたいに消えて無くなっていた。

 

 賛美歌が響き、誓約が取り交わされる。
 カリヨンの鐘の音が響く。

 

 チャペルの外でみんなが集まる。ユキナ以外にも、NAISで一緒に仕事をしているラピスと親しい女性社員もまたそわそわと集まってくる。
「私にくれるでしょ?!」
 とユキナはラピスに手を伸ばした。
「ダメだよ、ユキナ。自分でつかみ取って」
 ラピスが言うと、ちぇーっと笑顔でユキナは後ろに下がった。
「それじゃ、みんないくよ!」
 おー!、と女性たちから声が上がる。
 ラピスはみんなに背を向ける。
「せーのっ!」
 ラピスが後ろ向きに伸ばした手から放たれたブーケが、緩やかな放物線を描きながら爽やかな秋空の中に舞い上がった。

 

|| scene.6 : amber ||

 

 12月。
 ルリのお腹の中の子はすくすくと成長を続けているようだが、この日の検診でルリにとってちょっとばかり衝撃的な事実が産婦人科の女医の口から告げられた。
 超音波検査を行って、お腹の中の二人は経過良好そうだという事はわかった。
 そう、お腹の中に二人いたのだ。
 だがルリが衝撃を受けたのはこのことでは無い。すでにお腹の子が双子の男の子であることは、以前の検査でわかっていた。
「テンカワさん、あなた身長どのくらいありますか?」
「149cmです」
 少し医師が考え込んだあとで告げた。
「恐らく、普通分娩はやめておいた方がいいと思います」
「え」
 ということは、ユリカのときと同じように帝王切開。
 145cm以下なら自動的に帝王切開となるらしいが、ルリくらいの身体の大きさが一番判断に悩むという。
 双児の普通分娩はリスクが高く、子供の命を一番に考えるのなら帝王切開にした方が良いと勧められたのだ。
 漠然と普通分娩しか頭に描いていなかったが、さすがに命のリスクを持ち出されると考え込まざるを得ない。

 

 結局、アキト、ユリカを交えての話し合いの結果、帝王切開の手術を選択することにした。

 

 手術当日。
 ユリカの場合は緊急の措置で手術に踏み切ったので付き添うことができなかったアキトも、今回はルリのそばにいることができた。
「そんな心配そうな顔しないで下さい」
 苦笑いのルリに逆に心配された。
「がんばってね、ルリちゃん」
「はい」
 そういって、ユリカ、アキトの順にルリにキスをして送り出した。
 手術が始まって1時間後。
 待合室にいる二人の元に看護婦長がやってきた。
「お父さん、ちょっとこっちに来て下さる?」
 そういってアキトが連れて行かれてさせられたのは、まず緑色の手術衣を着用することだった。
 手術が終わればそのままルリと子供が出てくると思っていたアキトに緊張が走る。
「あの、妻と子供は大丈夫ですか?」
「奥さんは大丈夫です。ただちょっとお子さんが」
 緊張は消えない。
 準備室を通って手術室に入る。既に手術は終わっていて、道具などはあらかた片付けられていた。医師の手術衣に血がついていることから、そこで手術が行われたのだということは嫌でも認識させられる。
 ルリに対して行われた麻酔は部分麻酔だったようで、彼女の意識はハッキリしていた。しかし、それであるが故に、手術室の中で医師と看護師の間に走る緊張した空気が、ルリを不安にさせていた。今こうしてアキトが呼び出されたという事実もまた、その不安に拍車をかけることとなった。
「アキトさん……」
 ルリに浮かぶ不安の表情はアキトが見たことも無い怯えの表情だった。何とかしてルリを安心させてやりたいのだが、今のアキトにはその方法が全くわからない。
 保育器の中に二人の男の子。
 出生時に付着した血はほとんど洗い拭われ、新生児特有の赤い顔をした子供が二人。
 ただ、その二人が全く泣き声をあげていないことがアキトの心の不安を煽る。
 並べられた保育器の片方の子を、医師が抱き上げてアキトのところに連れてきた。
「お父さん、ちょっとこれを」
 といって医師は閉じられている赤子の目を指で軽く開かせた。
「!」
 アキトは思わず息を呑んだ。
「もう一人のお子さんも同じなんです」
 その子供の瞳の色は琥珀色をしていた。

 

 その産婦人科医の手に負えず、イネスが呼び出されることになった。
 ただ救いだったのはイネスを待っている間に調べられる範囲で検査した結果、目以外の外見的な異常は、二人とも見られないということだった。それ以上の検査は子供の成長を伴わないと行えない。
 最初産声を上げなかった二人の赤子は、ルリの母乳を口に含んだ途端に元気な泣き声をあげ始めた。

 

 イネスが病院に通される。
 ルリは既に病室に戻り安静を指示されており、そばにユリカが付き添っている。
 イネスが新生児室でふたりの赤子を軽く調べている様子を、アキトは新生児室の外からガラス張りになっている中を見守っていた。
 その後イネスは医師らに軽く頭を下げ、新生児室から出てきた。
「イネス……」
 アキトは何と言葉を続けて良いのかわからなかった。
「アキトくん、そう悲観そうな顔しないで」
 イネスにまで苦笑された。
「どうなっているんだ?」
「最初は虹彩異色症の一種かと思ったんだけど……」
「けど?」
「ルリもアキト君も、遺伝子治療や遺伝子操作の結果、虹彩が変質して今のような色をしているんだけど、あなたたちがかなり金属的な色をしているのに対して、あの子たちの色はもっと澄んだ鉱石みたいな色なのよね」
「それは何か問題なのか?」
「もしかしたら異常な事では無いのかも」
 異常が一回りして異常じゃなくなってしまった。
「……すまん、イネス。全然わからないんだが」
「あまり心配しなくてもいいっていうことよ」

 

 後日、検査によって二人の子供の視覚に異常がないことが判明したことで、3人は胸をなで下ろすことができた。

 

 出産から2週間後、ルリは二人の子を伴って自宅に戻ってきた。
 今回は予め性別も双子であることもわかっていたため、アキトは事前に子供の名前を考えていた。
 長男 カズト、次男 ハルト。
 マドカは、ただひたすら寝てるだけの二人の弟をニコニコしながらずっと眺めていた。
「カズくん、ハルくん」
 もちろん返事はまだ無い。ただ呼びたかっただけなのだ。名前を呼ぶと弟ができたことを実感できるから。

 

 数日後、またハーリーとラピスの二人が遊びにきた。
 手にはラピスの手作りケーキと、ダンボール一箱分の男の子用の紙おむつを抱えながら。
「いらっしゃい」
 ユリカは二人をリビングへ通す。
 そこにパジャマの上に白いカーディガンを羽織ったルリが起き上がってきた。
「ルリ、もう起きてて平気なの?」
「ええ、大丈夫。あまり寝たきりなのも良くないから」
 そう言いながらルリの腕の中にカズトが、アキトの腕の中にハルトがいた。
「本当に双子なんだね」
 ラピスは感慨深そうに言った。
「こっちがハルくんで、こっちがカズくんなんだよ」
 とマドカが解説してくれる。
「そうなんだ、全然見分けつかないよ」
「マドカ、わかるもん!」
 えっへんと得意げに。
「ラピちゃん、ハーリー君、ちょっと見ててね」
 といってユリカはルリの腕の中にいるカズトの閉じられた目を、ちょっと覗かせる。
 そしてその瞳の色を見た瞬間、二人とも出産直後のアキトと似たように息を呑む反応を示した。
 ラピスの顔に不安を含んだ、どういうこと?と言葉にならない表情が浮かぶ。
「綺麗でしょ。これ、異常じゃないんだって」
「そうなの?」
「カズトだけじゃなくて、ハルトも同じ目をしてるの」
 異常では無いという言葉を聞いて安心する。
 ほっとしたら、急に愛情が湧いてきた。
 ラピスがカズトの頬をぷにぷに突く。カズトはお構いなしに眠っているが、ラピスにはそれがたまらなく楽しいらしい。
「かわいい。やっぱ、かわいいよー、かわいいよぉー」
 空いてる左手が隣にいるハーリーの肩をバシバシ叩く。
 それを見てマドカもハーリーの反対側の腰をバシバシ叩いておもしろがって遊ぶ。

 

|| epilogue ||

 

 アカツキがいつものいきつけの喫茶店でコーヒーを頼む。
 今日は客もまばらだ。
「何か良いことありました?」
 コーヒーを持ってきたウェイトレスがアカツキに話しかけてきた。
「え?」
「なんだか、嬉しそうな顔をしてらっしゃいます」
 顔に出てたか、と思いちょっと恥ずかしそうに頬を人差し指でかく。
「妹のように思っていた女の子がこないだ式をあげたんだ。その時のことを思い出してた」
「大切な方だったんですね」
「そうだね……たぶん、そうだと思う」
「本当はご自身が幸せにしてあげたかったのでしょう」
 アカツキから苦笑が漏れる。
「見抜かれてるなぁ。まぁ、でも、相手の男の子がこれまたいい奴で、僕の入る余地は全く無かったな」
「なんででしょうか、嬉しそうなのに、私にはあなたが泣いているようにも見えるんです」
 ちょっと驚きを持ってアカツキはそのウェイトレスの女の子を見た。
「僕は人を好きになることに臆病になった。そして後で遅かったことを後悔することの繰り返しだよ」
 アカツキは視線をその子から外しながら言った。自分でもなんでこんなに本音がスラスラを出てくるのかわからない。
「どうして臆病になったんですか?」
「僕が能無しだからさ」
「…申し訳ありません」
「なんで君が謝るの?」
「いえ、なんか言いたくないことを言わせてしまったみたいで」
「そうでもないよ」
「本当ですか?」
「何故だろう、君と話をしてると普段言えないようなことが自然に言える。って、こんな無駄話してると、マスターに怒られるんじゃない?」
「それなら大丈夫です。このお店のマスターは私です」
「へ?」
 ニコっと微笑まれる。
「ごめん、すごく失礼なことを聞いてもいい?」
「なんでしょう」
「君、いくつ?」
「いくつくらいに見えます?」
 男が答えにくい質問きたこれ。
「高校生か大学生でしょ?20くらい?」
「1.5倍してください」
「うそぉ?!」
 アカツキ・ナガレの人生を変える出会いがここに始まった。

 

fin

Postscript
 最後までお読みいただきありがとうございます。
 とりあえず、ハリラピの二人は末永く爆発してください。
 そしてscene.6の産婦人科での描写はところどころ本当のことと体験したことを交えつつ、大概はデタラメなので鵜呑みにしないで下さいw
 ということで、episode.7をお届け致します。
 前回の後書きで次はマドカかなと書いたんですけど、ストーリーのタイムラインを練っている途中で気付きました。
 これ絶対に外せないじゃんというイベントが、このタイミングで待っているということに。
 10月は時間があったのでひとまず書きたいところまで突っ走ってみました。
 今回一番苦労したのは、実は双子ちゃんの名前でした。つくづくネーミングセンスの無さを感じます。
 次こそはマドカを主軸に置いた話を考えられたらなぁと思っております。寄り道するかもしれませんがw
 機会がありましたら次回お目にかかりましょう!
 
2014年10月

押して頂けると作者の励みになりますm(__)m


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