6話 言葉と翼と黄昏の姫



「……そんなガキまで担ぎ出すこたぁねえ。ま、後は俺に任せときな」

 塔に背を向け、風にローブと髪を靡かせながら、巨兵を倒した男は塔へと声をかける。背を向けている為にその表情を見ることはできないが、背格好からしておそらく十代半ばか後半と言ったところか。
 塔に向けられたその声には、自分が負ける筈がないと言う絶対の自信が感じられる。
 彼が浮いている遥か下方には、先程両断された巨兵が倒れ伏している。

「な……その赤毛、それに異常なまでに自信有り気なその言葉! 貴様まさか、紅き翼の……」
「そう! ナギ・スプリングフィールド! 人呼んでサウザンドマスターとは他でも無い、オレの事だ!!」

 ドーン! と言う効果音が聞こえてきそうな自己紹介に、仲間だろう眼鏡の剣士が「自分で言ってるよ、コイツ……」と、心底呆れた様な溜息を漏らす。すぐ傍に居るもう一人のローブも、クスクスと笑い声を漏らしている。

「安心しな、俺達が全て終わらせてやるからよ」

 そんな二人の声など聞こえていないのか、それとも聞こえていて無視しているのか。巨兵を両断した赤毛の男――ナギ・スプリングフィールドは二人に対して目を少し向けてすぐに視線を塔へと戻した。中から装飾のあるローブを纏った人間と、鎖に繋がれた十歳程度の茜色の髪の少女が見ている。
 しかし赤毛の男の言葉に、茫然としていたローブの誰かが噛みついた。

「な……ば、馬鹿を言うな! 敵の数が分からないのか!? 如何に強いとは言え、これ程の数をお前達にどうにかできる訳が……」
「あーあーあーあー、ごちゃごちゃうっせーよ。それに俺を誰だと思ってんだジジィ」
「ジッ!? わ、私はまだジジィと呼ばれる様な年齢ではないぞ貴様!?」

 ジジイと呼ばれた事に憤ったローブがナギに文句を言うが、彼はどこ吹く風と言う感じでそれを聞き流した。真面目に取り合う気ゼロである。

「つーかよ、気に入らねえよ。戦場に、んなちっこい嬢ちゃん引っぱり出して来てよ。それにその子王族だろ? それを鎖につないで、男としてのプライドがねーのかテメーら」

 ローブの男性の声を聞き流し、不機嫌そうにナギは言う。自分よりずっと歳下に見える子供が戦場に居ることが気に入らないらしい。いやこの場合、少女が戦場に居ることでは無く鎖に繋がれているのが気に入らないのか。
 その言葉にローブの男性が反論しようとするが、その前にナギと共に現れた白いローブの人が言う。

「まあまあ、ナギ、そう言う物ではありませんよ。ウェスペルタティアは世界最古の歴史と伝統が売りと言って良い小国です。国を守る為なら、他に手は無いのでしょう。戦争ですからね」
「アル。でもよ、あんなちっこい子なんだぜ? それを……」
「少し冷静になれナギ、いつも以上にやかましいぞ」
「なんだそりゃ詠春! 俺がいつも騒がしいみてーじゃねえか! 俺はいつも冷静だっつーの!」
「冷静? ハッ、貴様が常に冷静な訳ないだろうが。それに今はそんな事を言っている状況じゃないだろう」
「あん?」

 フードを目深に被ったローブの人――アルの言葉に文句を言うナギに、長大な刀を持った眼鏡の男――詠春がそう声をかける。それにナギは「自分は冷静だ」と噛みつくが、鼻で笑われた。
 それに対しナギはさらに文句を言おうとするが、詠春の言葉に目を向けると巨兵や、それよりも遥かに小さい人間大の何かが無数に飛んで来ていた。総数で、およそ100は下らないだろう。僅か三人で相手取るには多すぎる程だ。

「ちっ、弱えぇ癖に数ばっかごちゃごちゃと出て来やがる……さっさと終わらせるぞ」
「! ま、待てお前達! たった三人であの数に挑むつもりか!? いくらお前達でも無茶だ、死ぬぞ!」

 しかしそれを見て焦った様子は無く、むしろやって来る敵の数を見て呆れた様な声を出すナギに、塔の内部に居る装飾の付いたローブの男は言う。
 ローブの男の様子からナギ達三人は相当の実力者なのだろうが、普通に考えて三対百では分が悪いどころの話しではない。自分から死にに行く様な物だ。

「あ? 何言ってんだジジィ。言ったろ、俺達が全て終わらせてやるってよ。それに……」
「き、貴様まだ言うか! ジジイと呼ばれるような歳ではないと……!」
「あーうっせ! うっせーよ!」

 だがナギはその言葉を聞いても欠片も焦らず、むしろ呆れた声をローブの男に向ける。そして先程も言った言葉を投げ、自分の懐から小さな本の様な物――手帳を取り出し開いた。

「俺は、最強の魔法使いだ! 魔法学校は中退だがな、こんな雑魚共相手にやられる訳ねえだろうが!!」
「相手が雑魚云々はともかく、中退の部分は自慢するべきことではないだろう」
「うっせーよ詠春!」

 大きな声でそう叫び、ナギは手帳に書かれている物を読みだした。すると、彼の体から何か「力」の様な物が大量に溢れ、手に持つ杖から電撃が迸りはじめる。

「契約に従い我に従え高殿の王。来れ巨神を滅ぼす燃ゆる立つ雷霆。百重千重と重なりて、走れよ稲妻――」

 ナギが言葉を詩文の様に連ねる。韻を踏んで、一言一言に「魔力」と呼ばれる力を込め、詠う様に唱えられるそれは詠唱と呼ばれる、魔法使いにとっては当たり前の物。
 詠唱が進むに従って彼の体から溢れる魔力も、杖から奔る電撃もその激しさと規模を増していく。それは光、闇、火、水、風、地、雷、氷と言う魔法使いに認識されている8つの属性の中の一つ。雷に属する魔法であり、同時に電撃系最大の攻撃範囲と威力を誇る大呪文。
 バチッ、バチリと音を立てて稲妻が杖から、ナギの手から、そして体全体から迸る。そして、魔力の滾りと稲妻の規模が彼の体を覆う程になった途端、彼はそれを解き放った。

「行くぜオラァッ!! 千の雷!!」

 詠唱を終え、ナギは術の名前を叫び、腕を振り下ろした。
 直後、彼の体を覆っていた電撃が全て、ナギが腕を振り下ろした先――数体の巨兵が居る地点に極大の雷撃となって轟音を響かせながら降り注いだ。
 それは正しく雷の爆撃。ナギによって引き起こされた極大の雷撃は巨兵や地面に関係なく、着弾と同時に爆裂し、さらに四方に巨大な電撃を迸らせ攻撃範囲内の全てを無差別に破壊する。
 数秒の後、雷撃は治まり爆裂と同時に巻き起こった粉塵が風に流されていくと、巨兵が居た場所にはその姿は見当たらず、それどころかその一帯だけ森が禿げた様になっていた。森林と言う場所での副次効果か、雷撃の余波によって周囲の木が炎上している。
 無数の敵が居た空間に一箇所だけ、何も居ない空間が創り上げられた。

「あー、っと? まぁ、ざっとこんなもんか?」
「おぉ……まさか、本当にやってしまうとは……」
「だぁから言ったろ? 俺は、最強の魔法使いだ、ってな」

 余りの破壊規模と威力を目の当たりにしたローブの魔法使いの呟きに、それを引き起こした張本人であるナギは笑みを浮かべて再度同じ事を言う。あれだけの規模の魔法を使ったと言うのに疲労は欠片も見られない。
 そんな彼の様子を見ると、彼が名乗っている『最強』の名もあながち嘘ではないのかも知れない。威風堂々とした姿を見せる彼には、そう思わせる何かがあった。

「あんちょこ見ながら呪文の詠唱をしていると説得力が微塵も有りませんね。暗唱出来ればまた話は別なのですが」
「う、うるせーよアル! だから中退だっつってんだろーが!」
「フフフ、中退云々は記憶力には関係ありませんよ、ナギ」

 しかしその雰囲気はアルの一言でぶち壊された。それに対し、ナギはやはり文句を言うがあっさりと切り返されて黙り込む。

「それにナギ、如何にあなたの力が他に類を見ない程に強大でもそれは所詮、個人の力。世界を変えるにはとても……」
「るっせーっての、アル。前にも言っただろ、俺は俺のやりたいようにやってるだけだってーの……ん?」

 アルの言葉にナギはそう返すが途中で言葉を切り、見晴らし台の様になっている塔の広間の中央に目を向けた。ローブを纏っている魔法使いとは別の視線を感じたからだ。
 目を向けた先、広間の中央に居たのは一人の少女だった。燃えるように鮮やかな茜色の長い髪をツインテールにした、虹彩異色の目を持つ十歳程度の外見の少女だ。彼女は鎖に繋がれ口から一筋血を流し、虚ろな目でナギを見ている。

「よぉ嬢ちゃん、名前は?」
「……ナ、マエ……?」
「おう、名前だ。あるだろ? ああ、聞いてたかも知んねーが俺はナギだ」
「……ナ、マ、エ……」

 その少女に近付き、ナギは口から流れる血を拭ってやり名前を尋ねる。ついでに鎖も破壊した。

「……アス、ナ。……アスナ・ウェスペリーナ……テオタナシア・エンテオフュシア」
「……なげーな、アスナでいいか。でもま、いい名前だな」

 少女――アスナのフルネームの長さから、全てを覚えることを早くも諦めナギはファーストネームのみを覚えた。

「んじゃアスナ。ちっと待ってろな。すぐに終わらせてくっから」

 そう言い、ナギはアスナから離れ広間の端に歩いて行く。其処から外に出る為だ。

「よっしゃ、行くぜアル! 詠春! 雑魚ばっかだから行動不能にでもすりゃ充分だろ!」
「お前な、いくら雑魚ばかりとは言え洒落にならん数だぞ?」
「何だ、詠春。倒せる自信がねーのか?」
「馬鹿を言え。数が面倒だと言っただけだ。京都神鳴流に倒せない物は無い」
「フフ、なんだかんだであなたもノリノリですね、詠春」

 まるでピクニックにでも行く様なノリでそんな事を言いながら、三人は広間を歩いて外を目指す。
 そんな三人をアスナはぼんやりと見ているだけだった。

「……ん? な、何だあれは!?」

 が、三人が外に出る前に魔法使いの一人が何かを見つけ、慌てた声を出す。彼が見ているのはナギ達が向かおうとしていた方向ではなかった。
 それが気になったか、三人は歩みを止めてその方向を見る。宵闇に紛れて、しかし艶やかな黒が飛んで来ていた。遠目だが、結構な大きさと分かる。

「あん? なんだありゃ?」
「見た感じ、鳥……いえ、竜の様ですが。おかしいですね、この近辺にあんな竜はいない筈ですが……」
「……なあ、あの竜、此処を目指してないか?」

 飛んで来ているそれを見ていると詠春がそんな事を言った。実際竜の進行方向を見てみれば、詠春が言った様に現在彼等が居る塔を目指している様にも見える。どうも結構な速度で飛んでいる様で、その影はどんどんと大きくなっていく。
 それに気付いたらしい敵の魔法使いや悪魔の様な存在が無数の光球を放つが、それらは竜に届く前に消滅した。次いで悪魔の様な存在が手に持った槍を構え突っ込んで行くが、先程の光球同様に竜の体に届く前に砕けて消えた。

「な、何だあの竜は!?」

 竜は悠々と塔に向かって飛行して来る。ある程度近付いた所で魔法使い達も、ナギ達も同じ様に光球を竜に向かって放つが、止まることなく突き進む。

「なあアル。さっきもそうだったけどよ、見間違いじゃ無けりゃ魔法の射手(サギタ・マギカ)が届く前に消えてねえか?」
「消えてますねぇ。しかし、魔法無効化(マジックキャンセル)ではない様に見えます。……どう言う事でしょうか? 竜種にそんな能力を持っている個体は居なかった筈ですが」
「冷静に観察している場合か! 来るぞ!」

 詠春がそう言った直後、竜がその甲殻の艶やかさや角の鋭さ等がハッキリと分かる程にまで飛んできた。かなり大きく、その大きさから来る威圧感に魔法使いの一人がヒィ、と悲鳴を上げる。
 しかし竜はそのまま塔に突っ込む様な事はせず、広間の端からほんの数m離れた空中に滞空して動かない。攻撃の意図は無い様だ。

「やれやれ、一応防御を発動しておいて正解でしたね。通っただけで、有無を言わさず攻撃してくるのですから」

 警戒していると、竜からそんな言葉が聞こえた。何事と思い、まさか竜が喋ったのかと見るが、しかしそんな感じは竜からは感じられない。が、竜の背に誰かが立っているのが目に入った。
 男だ。竜の体色と同じ闇に紛れる黒の服と黒い服、そして炎を結晶化した様な真紅の瞳が印象的な若い男だった。手には2mはあろう槍を持っている。
 彼は槍を竜の背に置いて、トン、と軽い音を立てて竜の背を蹴り、広間へと降り立った。

「お取り込み中のところ、失礼しますよ。少々気になる事がありました物で……」
「き、貴様! 何者だ! 帝国の人間か!?」

 魔法使いの一人が叫ぶ様に突然竜に乗ってやってきた男に問いかける。敵ではないかと明らかに警戒している。

「は? 帝国? 何を言っているのか、今一つよく分かりませんが……あぁ、自己紹介がまだでしたね。私は昴、緋乃宮昴と申します。街を目指して旅をしていて、気になる事が出来たので戦場に入ってきた馬鹿な男です」

 自分で自分を貶すと言う奇妙な自己紹介を昴はした。そんな奇妙な自己紹介を聞いて魔法使い達もナギ達も、何か妙な物を見る目で昴を見ている。

「……あの、その視線は何でしょうか。と言いますか、名乗ったのですからそちらの名前も教えて頂きたいのですが」

 何も喋らず、ただ自分を見る周囲の視線に居心地が悪くなったのか昴はそう言う。すると姿を晒している三人組――約一名、フードで顔を隠しているのも居るが――が釣られるように自己紹介した。

「む・・・青山詠春と言う」
「私はアルビレオ・イマです」
「俺はナギ・スプリングフィールド。最強の魔法使いだ!」
「青山詠春に、アルビレオ・イマ。それにナギ・スプリングフィールドですね。……はい、覚えました」

 三人の名を幾度か口の中で呟き、昴はその名を記憶する。

「ですが、えぇと……ナギ、とお呼びしても?」
「おう、別にいいぜ」
「ではその様に。……失礼ですが、自分で最強の、と言うのは恥ずかしくないですか?」
「んなっ!」

 昴が控えめにそう言うと、ナギは顔をやや赤くして呻いた。側に立つ詠春は「あーあ、やっぱり言われたな」と言ってナギを見ている。アルビレオは口元を抑えて笑いを堪えていた。

「て、てめぇケンカ売ってんのか!? 勝負しろこの野郎!!」

 昴の失礼な言葉にナギが怒鳴る。まあ、初対面の人間にいきなり「恥ずかしくないのか」と聞かれれば怒鳴りたくもなるだろう。
 ……いきなり勝負だなんだと言うのになるのはいささか、理解できない物があるが。

「昴、と呼んでも?」
「はい、構いません」

 昴が自分にギャースカ喚いて来るナギを見ていると、アルビレオがそう問うて来た。自分もナギにそう聞き許可された手前、構わないと返す。

「では。先程気になる事が出来て戦場にやってきた、と言いましたが、それは一体どのような?」
「それですか。いえ、実は戦場の端のさらに端から戦闘を見ていたのですが、この塔に向けられた攻撃が溶けるように消えるのを目の当たりにしまして。それで、どのような原理でそれを引き起こしたのか気になって……む?」

 アルビレオの問いにそう返していると、何かを感じたか昴が視線を彼から別の方へとずらす。昴が向けた視線の先には、燃えるように鮮やかな茜色の長い髪をツインテールにした、虹彩異色の目を持つ十歳程度の外見の少女――アスナが居た。彼女はナギに向けた視線と同じ、無感動な視線を昴にも向けていた。

「あの子は? 何故手に枷を付けられ、口に血を流した痕があるのです?」
「……知らないのですか?」
「知らない? 何をですか?」

 少女の事を昴が問うと魔法使い達がピクリと反応を示した。それには昴も気が付いたが、今は気にせずアルビレオの説明を待つ。

「いえ……彼女は『黄昏の姫巫女』と言いまして、先程まで此処で防御結界を展開していました」
「防御結界? それは先程の攻撃消滅現象の……?」
「はい。彼女の力で引き起こされた物です」

 その言葉を聞き、昴は少し考える様子を見せた。が、すぐに何かに思い至ったのか表情を顰める。気のせいか、怒気の様な物を感じる。
 鎖に繋がれていた少女と、血の痕。そして先程の防御が彼女の力と言う情報。与えられた情報が少女の力と言うだけだったら分からなかっただろうが、他の二つと合わせればどう言う防御かおおよその予想はついた。

 ――体にかける負担を考えず、無理矢理力を引き出したと言う事実。

 それに思い至った昴の心境は、只管に気に入らないと言う物だった。おそらくはこの都市を守るためなのだろうが、それでも見た目十歳程度の少女の力を無理矢理に引き出し、命を削ってまですることかと思う。
 だが口にはしない。街には其処に住む人々が居て、彼等彼女等を守る為にはそれしか方法が無かったのだろうから。
 しかし理解と納得は別物である。

「……昴? 何を……」

 気付けば、昴は少女に向かって歩きだしていた。足音は立てず、怯えさせない様に。少女はそんな昴を、虚ろな目でじっと見ている。

「今晩は、私は緋乃宮昴と申します。貴女方風に言えばスバル・ヒノミヤですね。貴女の名前はなんですか?」

 自分をじっと見てくる少女の前に昴はしゃがみ、目線を合わせて出来る限り優しい声で名前を聞いた。

「ス、バ……ル……?」
「はい、スバルです。貴女は?」
「……アス、ナ。……アスナ・ウェスペリーナ……テオタナシア・エンテオフュシア」

 昴の問いに、アスナは所々で言葉を切りながらも名を教えた。それを聞き、昴は微笑みを浮かべて「いい名前ですね」と言い、頭を撫でた。サラサラとした髪は手触りが良かった。
 ナギにも言われた言葉と昴の行動に、アスナは僅かに首を傾げる。

「ではアスナちゃん、今から貴女の体を癒します。少しの間、じっとしていて下さいね」
「ナオ……ス?」
「はい」
 
 アスナの言葉にそう返し、昴は自分の力を引き出す。イメージするのはこの二年間である意味最も馴染んだ癒しの真言。ありとあらゆる傷や病を癒す柔らかな光。ただし対象とするのは自分ではなく、目の前に居る少女だ。
 
『傷も痛みも苦しみも、全ては夢幻と消える』
 
 昴が真言を紡ぐとアスナの体を一瞬だけ光が包んだ。それだけで、何も変わっていない様に見える。しかし良く見てみると、ほんの僅かにだがあった傷も、ナギに拭われた血の痕も無くなっていた。
 
「……はい、治療完了です。頑張りましたね」
 
 そう言って昴はもう一度頭を撫で、立ち上がり外で滞空している竜の元に歩いて行こうとする。
 
「待て貴様! 姫巫女に何をした!?」
 
 しかし、魔法使いの一人にそう問われ足を止め、その方を向く。何故か、目を向けられた魔法使いは数歩下がった。
 
「何を、と言われましても。癒しただけですが、それが何か?」
「そんなこと信じられるか! いったい何が目的だ!!」
「目的ですか……強いて言えば、先程の結界がどう言う原理で発動したのかを知ることでしたね。もう知る事は出来たので、別の場所に行こうかと」
 
 そう言い、もはや話す事は全て話したと言わんばかりに昴は踵を返し、竜の元に歩みを進める。
 しかし魔法使いはそれを信じず、引け腰ながらに問い詰める。
 
「ま、待て貴様! 話はまだ……」
「五月蝿いですねぇ、目的も何も話したでしょうに。『少し黙って、ついでに止まっていてもらえます?』」
 
 それを鬱陶しいと思ったか、昴は顔を顰めて問答無用とばかりに真言を発動した。停止と行動を限定される真言を使われ、問い詰めていた魔法使いは呼吸以外の全ての動きを止められ、さらに喋る事も出来なくなった。
 
「っ! ・・・!? ・・・っ!!」
「私が100m以上ここから離れれば自然と解除されます。『意思ある所に道は開け、我が歩みは道となる』」
 
 声を出せず、動く事も出来なくなった魔法使いに目を向けつつそう言い、昴は滞空している黒竜に向かって広間を、そして空中を(・・・)歩いて行った。そして竜の背に乗り、槍を手にして広間に向き直る。
 
「それでは、またいつか」
「待てテメェ! 俺と勝負しろこの野郎!!」

 竜の背に腰を下ろし、去ろうとする昴にナギが雷を矢の様に複数形成して打ち出した。詠唱も無く発動したそれは雷属性の魔法の射手。それらは一直線に昴に向かい――彼に届く前に、氷結し、何かに切り裂かれた様に砕け散って消えた。
 
「何だと!?」
「いきなり攻撃とは……礼儀がなっていませんね。ノワール、行きましょう」
 
 突然の事にナギも、彼の仲間達も驚き動きを止めた。昴はそんなナギ達にそう言い、ノワールは身を翻し、翼をはばたかせて塔から離れて行った。
 
「な……逃がすかっつーの! 待ちやがれ、この!」
「ま、待てナギ!」
 
 昴達を追おうとナギも広間を走り、飛び出し、飛行しようとした。詠春が静止の言葉をかけるが、無視して飛び出そうとする。かなりの速度だ。
 
歩くような早さで(アンダンテ)
 
 しかしそれをチラリと見た昴が再度真言を発動した。途端にナギの、否、戦場全体に存在する全ての速度が急激に下がった。それは先の言葉の通り、人間が歩く程度の速さ。昴は真言で、彼ら以外の全ての速度を徒歩と同じ程度に引き下げたのだ。
 当然、そんな速さで空飛ぶ竜に追い付ける筈も無く、悠々と昴達は戦場を離れて行った。彼等の姿が見えなくなるとほぼ同時に、引き下げられた速度が戻る。

「逃がすかよ!」
「ナギ、待てと言っているだろう! ここを離れたら都市が堕ちるぞ! 救う為に来たんじゃないのか!?」
「っ、ああくそっ! あんにゃろ今度会ったら覚えてろよ!!」

 詠春の言葉にガシガシと頭を掻き、ナギは昴を追う事を諦め戦場に飛び出て、彼を追ってアルビレオと詠春も空中に躍り出て敵に向かって行った。



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