Muv-Luv Alternative The end of the idle


【小話】


〜 雲上の思惑 〜






―― 西暦一九九六年四月一日 帝都・二条城 ――



 月初めの元枢府での定例会議を終えた煌武院悠陽は、控えていた月詠真耶を伴い、城内より退出すべく長い廊下を歩いていた。

 ジッと前を見据えながら黙々と歩く悠陽。
 幼いながらも凛とした美貌には、淡い愁いの色が滲んでいた。

『大陸の戦況は、ますます悪化の一途を辿っていますか……』

 大陸中央部に配された帝国の大陸派遣軍自体は善戦していると言える。

 ハード的にはMD社から大量購入し派遣軍に優先配備したアップデートシステムによる主力戦術機『撃震』の性能向上と遠田がライセンス生産している93式自在戦闘装甲騎(ナイトメアフレーム)鬼葦毛(Mk-1J)』の導入による機甲戦力の向上というアドバンテージを持ち、ソフト面でも彩峰中将主導の下、活発に行われている大陸の情報収集と分析及びそれに基づく帝国独自の戦略策定、そしてそれらを生かすべく榊首相自身による首脳外交により限定的ながら確保し続けている自由裁量権――等々の手札を上手く活かし、統一中華戦線よりはかなり優位な戦況を保っていた。

 BETAの物量に押されながらも遅滞戦術で時間を稼ぎ、住民と資産を長江下流域へと脱出させる事に成功した上、自身の損害もこれまでのところかなり抑えている。
 武漢を放棄した後、後退し戦力の再編を行った派遣軍は南京に本営を置くと共に、合肥・杭州を中心に防衛拠点を構築し、甲16号目標・重慶ハイヴから溢れ出して来るBETA群が上海へと流れ込むのを阻止する体勢を整えつつあった。

 彼ら元枢府の面々に戦況の説明を行った帝国軍の参謀も、最低でも五年、上手くすれば十年程度は上海陥落までの時間が稼げると見積もっており、それ単体なら壁役の踏ん張りに期待している元枢府の者達にとっても良い知らせと言えなくも無い。

 だがしかし――

『……問題は南と北……』

 派遣軍の善戦も、あくまでも一戦線における奮闘でしかなく、それが大陸東方全体の戦況を覆すまでには至らないという苦い現実が、悠陽の美貌に暗い影を落とす。

 派遣軍にしても守備範囲外である大陸南部へのBETAの浸透を押し留める事は難しく、数年以内には華南地方を経由して大陸東岸にBETA進出が有る得る事を参謀本部も予測していた。
 その後、連中の矛先が向かうのが北か南かにより、帝国の命運も大きく動くであろう事は誰の眼からも明らかであり、説明を受けた元枢府の誰もが渋い表情を隠せない中、更に悲観的な報告が、それに拍車を掛ける。

 現在、北部域における戦況は悪化の一途を辿っており、東進を続けるBETA群により共産中華首都・北京は既に陥落。
 事前に上海へと疎開していた共産中華政府は、残された全軍に対して徹底抗戦の檄を飛ばすも、反攻へと至る事は無く、ジリジリとBETA支配領域の拡大を招いている。
 既に彼の異星起源種の毒牙は、半島へも伸びつつあり、帝国軍も神経をピリピリと尖らせていた。

 やや血色の悪くなった可憐な唇から、微かな溜息が零れ落ちる。

『大陸派遣軍を引き戻し、半島への侵攻を抑えるべきなのでしょうが……』

 半島を抜かれれば、その先は帝国となる。
 河南・長江流域の失陥よりも尚悪い直接的な危機の到来だ。
 軍や政府内部でも、大陸からの撤兵と半島防衛論が声高に唱えられる様になっているが、共産中華――否、統一中華は安保理理事の立場をフル活用して、大陸派遣軍の足抜けを阻止する構えを崩していない。

 彼等にしても必死な事は理解出来た。
 ここで帝国が一抜けすれば、長期の防衛戦で弱体化した統一中華軍単体での暫定首都・上海の防衛が不可能となるのは一目瞭然であり、それを思えば形振り構わず派遣軍の足止めを図るのは、当たり前と言えば当たり前の事ではある。

 とはいえ、それはあちら側の都合でしかなく、帝国に言わせれば初めから北部の防衛を帝国に委ねていれば、ここ数年の派遣軍の戦績から見ても、今よりもかなりマシな状態を維持出来ていた筈という不満もあった。
 例え共産中華政府に、首都近郊を含む北部の守備を他国の軍に委ねるという恥を掻かせる事になろうとも……である。

 フゥ――と、いま一度、溜息が洩れた。

『……全ては繰り事。
 現実として北方の守りは破れ、直接的な脅威が帝国にも迫りつつあるという事実は変えようも無い』

 国連における外交の場でも最後まで――首都陥落以後も、頑として帝国の提案を撥ね退けて来たのは相手の非だが、それを崩せなかったのはこちらの失態でもある。
 軍事的には一定の成果を出しながら、外交面で帳消しにしてしまった形だ。
 嫌味の応酬が定例化しつつある国防省と外務省のやり合いも、このところとみに刺々しさを増している。

『この身は未だ無力なれど、座視して良いものでもない』

 五摂家当主として政治的な発言をするのは慎むべきだが、両者の間を取り持つ程度の事はすべきかと思案する。
 幸い国防省側には、自身の師である彩峰という伝手もあった。
 それでは外務省側のとっかかりを、はて誰にすべきかと胸中で首を捻った少女の耳朶を、ややキツ目の声音が打つ。

「悠陽様」
「――これは恭子様、いかがなされました?」

 振り返ったその先には、同じ五摂家の一角を占める崇宰の現当主・崇宰恭子が、少し硬い表情のまま己の近侍を従え立っていた。

 訝しげな表情を一瞬浮かべながらも、半ば反射的に悠陽は品良く挨拶を返す。
 そんな彼女に向けて、どこか意を決した様な雰囲気を纏いつかせた恭子は、再度、口を開いた。

「――悠陽様、少しお時間を頂きたいのですが?」
「時間を、ですか?
 ……構いませんが、どうかされましたか?」

 唐突な申し出に、悠陽の顔に不審の色が濃くなった。
 本来、五摂家の当主同士は余り接触を持たない。
 結託して何か謀議を重ねているのではとの疑いを避ける為だが、その様な配慮からすれば、この恭子の行動は余り褒められたものではなかった。
 だが相手の表情から、それを無視してでも話したい事があるのだと敏感に読み取った悠陽は、やや戸惑いつつも承諾の意を返す。

 恭子の肩から、ホッと力が抜けていった。
 次いで周囲を憚るようにやや声を潜めて告げる。

「ここでは少々……」

 立ち話では拙いと言外に告げる相手に、悠陽も小さく頷いて見せる。
 妙な噂を立てられるのは、彼女としても不本意だ。

「分かりました。
 一時間ほどでよろしいでしょうか?」
「充分です。
 ……それではあちらの方で」

 悠陽の承諾に恭子の顔の強張りも取れる。
 そして恐らくは予め用意させていたであろう城内の一角にある小さな茶室へと彼女達主従を導いた。

 恭子の近侍は、周囲を警戒する様に茶室の外に立ち、それ故、真耶もそれに倣おうとしたが、こちらは恭子自身に止められ、悠陽ともども三畳ばかりの小さな茶室へと迎え入れられる。
 そのまま形ばかりの茶会が開かれ、恭子の点てた茶を礼儀正しく啜ってみせた悠陽は、茶碗の縁を拭ってから畳の上に置くとおもむろに口火を切った。

「……それで恭子様、御用件とは?」

 一体何事かと内心で身構えながら問う悠陽。
 恐らくは崇宰の手の者により入念に『掃除』されているであろうこの部屋でなら、誰憚る事もあるまいと判断しての事だったが、続く恭子の返答は聡明な悠陽にとっても想定外のモノだった。

「篁家の当主……より正確に言うなら、その許婚である枢木の嫡子について、少々お話を伺いたい」
「「――?」」

 期せずして煌武院主従の視線がかち合った。
 互いの瞳の中に、答えが無い事を悟った悠陽は、恭子へと向き直ると慎重な口調で尋ねる。

「枢木の……ですか?」
「左様……」

 やや硬い表情のまま恭子が頷いた。
 そして一瞬、躊躇う素振りを見せつつも重い口を開く。

「下世話な質問で恐縮なのですが、悠陽様の近侍である月詠が頻繁に枢木の家に出入りしている件についてです」
「「――っ!?」」

 斬り込む様な声と目線。
 一切の隠し事は認めないと態度で示す相手に対し、煌武院主従の混乱が深まる中、狭い茶室の内に恭子の声だけが響いていく。

「御存じかとは思いますが、篁家は我が崇宰に連なる家柄。
 特に現当主の亡き母は、私自身にも浅からぬ縁のある相手です。
 とはいえ唯依――篁と枢木の縁談については、両家の当主同士の合意の上でもあるので、口出しするつもりはありませんでしたが……」

 そこで一旦言葉を切った恭子の双眸が、スゥッと細くなる。
 鋭さを増した視線が悠陽を通り越し、その後ろに控える真耶へと突き刺さった。

「……許嫁のある身でありながら、他家の娘と懇ろな関係にある――などという良からぬ噂が起つなら話は別というものでしょう」
「お、お待ち下さい!」

 これには真耶も慌てた。
 思わぬ恭子の非難に目を丸くして固まる悠陽を差し置いて絶叫してしまった彼女は、次の瞬間、自身の非礼を自覚し、ガバッとばかりに平伏する。

「あ……御無礼を!」

 五摂家当主同士の話に近侍が割り込むという不作法。
 如何に狼狽したにせよ許されぬ失態に、蒼白になって額を畳に擦りつける真耶の背を冷たい声が打った。

「構わぬ。
 言いたい事があるなら申してみよ」
「ハッ!
 ……わ、私とあの者とは、そういった関係ではございません」

 平伏したまま擦れた声で自身の潔白を主張する真耶。
 実際の所、両者の間にそういった事が無かった以上、真耶としてはそう返す以外に無いのだが、さりとてそれを証明する事も難しい。
 所謂、悪魔の証明――『無かった事』を証明するには、『有った可能性』全てを否定してみせるしかないのだが、それは至難であり、実質不可能だ。

 だからこそ、潔白を主張するしかないのだが、疑惑を抱いている相手を、それだけで納得させる事もまた困難極まりない。

「それを信じろと?」
「ハイッ!
 天地神明に誓って、その様な疚しい事は一切ございません」

 明らかに不信の念をたっぷりと含んだ恭子の問いに、改めて畳に額を擦りつけながら応ずる。
 真摯な思いの籠ったソレに、恭子はわずかに眉を潜めて吟味する様な表情を浮かべるが、やはり完全に疑念を払拭するには至らなかった。
 見下ろす視線の冷たさは、わずかに緩むも、消え去るまでには至らない。
 いきなり針の筵に座らせられた気分を味わいつつ、真耶は冷や汗を掻き続けた。

 自身の行動に批判の眼が向けられていた事は、従姉妹の真那から聞いて承知してはいたもののまさか五摂家の当主から直接詰問される破目になろうとは流石に想像もしていなかった彼女は、この事が煌武院と崇宰の確執の種となる事を心底恐れる。

『……最悪の場合、腹掻っ捌いてでも御館様に御迷惑を掛けぬ様にせねば』

 近侍として自身の不始末のツケを悠陽にまで及ぼさぬ事だけを考える真耶。
 そしてそんな彼女の心底は、長年、付き添われて来た悠陽にも伝わっていた。

 凛然とした少女の声が、茶室内の冷えた空気を震わせる。

「恭子様、よろしいでしょうか?」
「……なにか?」

 真耶へと注がれていた視線が、悠陽へと向かった。
 そこに明らかな怒りを感じながらも、気圧される事無く悠陽は、己が忠臣を弁護する。

「月詠を責めないで下さい。
 この者は私の意を受けて動いただけに過ぎません」
「悠陽様の?」

 悠陽へと向けられる視線に困惑の色が混じった。

 唯依の亡母である栴納との関係から、恭子は彼女を可愛い姪の様に見ていた。
 一門の宗主である崇宰家当主としての立場上、依怙贔屓などは出来ぬ為、表立って優遇等はしていないが、それでも私的には色々と気に掛けてきた娘である。
 何かと悪評の高い枢木との縁談については、言いたい事も多々あったが、それでも故人となった祐唯の遺志を尊重し、五月蠅く囀ろうとした一門を抑えたりもしてきた。

 それだけに枢木の嫡子と月詠の娘の噂が耳に入った際には、抑え切れぬ怒りを覚えてしまい、拙いとは承知の上で、この様な状況を産み出してしまったりもした訳である。

 彼女としては噂が事実であるなら、このまま唯依を嫁がせるつもりは無かった。
 例え公私混同と謗られようが、一門の宗主としてこの婚約を破棄させ、唯依には然るべき家の者を婿として娶せる事も考えており、既に候補も数家ほど選定済みである。

 後は主君である悠陽立ち会いの下、月詠の娘を締め上げて事実を確認するだけと勢い込んで来たところでの思わぬ出足払いに、困惑と疑念に目を細めながら悠陽を注視――イヤ、はっきり言うなら睨みつけてしまう恭子。

 その剣呑な視線の圧力に、それでも負けじとばかりに姿勢を正した悠陽は、軽く息を整えると、ゆっくりと口を開く。

「はい。
 良くも悪くも彼の御仁は、大きな影響力を持っています。
 月詠には、彼の家の動向を、それとなく監視して貰っているのです」
「……」
「御納得頂けませんか?」

 返された沈黙に悠陽は愁眉を寄せながらも、何とか恭子を納得させようとするが、それを制する様に当の本人が手を翳し彼女の言葉を遮った。
 悠陽達に向けられる視線から刺々しさは抜けていたが、その分更に鋭さを増し、未だ相手が納得はしていない事を雄弁に物語る。
 わずかに背を伸ばし、姿勢を正した恭子は、改めて悠陽へと尋ねた。

「あの家が武家の範疇から大きくはみ出しているのは、我が方でも承知しています。
 ですが、その動向について煌武院家が目を光らせる理由は無いのでは?」
「それは……」

 突き付けられた正論に思わず口籠る。
 自身が枢木の動向に目を光らせる正当性は薄い事を自覚していた少女が、反論出来なくなってしまうのとは裏腹に恭子の言葉は続いた。

「本来ならソレは、枢木が属する一門の宗主の役目……確か斉御司家でしたか?」
「……ええ、その筈です。
 もっとも何代も前から、殆ど絶縁状態になっているそうですが……」

 あの糸の切れた凧の様な家の動向を、本来監視しておくべき家の事を口に出しつつ、だからこそ筋違いと暗に責めてくる相手に悠陽の表情も曇った。
 それでもと、その監督者との間の縁が殆ど途切れている事を根拠に反論を試みるが、やはりどうしても主張が弱くなるのを避けられない。

「……ああ、そのようですね。
 しかし、幾ら形骸化した関係とはいえ一門は一門。
 それを斉御司を差し置いて、煌武院が動くのは、些か問題があるのでは?」
「それは……」

 やや冷淡さを増した恭子の指摘に、悠陽はまた口籠る。

 武家の慣習として他門の事に口出しするのは礼に反する事。
 如何に一門の宗主である斉御司家から絶縁状を突き付けられているに等しい逸れ者とはいえ、それがそのまま煌武院家が干渉して良い理由とは成り得なかった。
 それを明確に指摘されてしまえば、悠陽としても反論に窮する以外にない。

 そうやって唇を噛み俯く年少の少女に憐れを誘われたのか、いささか憮然とした表情になった恭子は、妥協するかの様な口調で問いを重ねた。

「……それとも、そうするべきと納得できる理由が御有りか?」

 あるかと問われれば無い。
 あえて言うなら、煌武院に連なる紅蓮と枢木の前当主の親交位であるが、それではまだ弱かった。
 紅蓮が以前主張していた様に、ルルーシュを悠陽の近侍として取り立て、正式に枢木を煌武院家の門下に組み入れていれば、誰からも文句を付けられる事も無かったであろうが……

 逡巡し、沈黙する悠陽を前に、恭子は困った様な顔をすると一つ溜息を吐く。

「納得出来る理由をお聞かせ願えないなら、私としてもやりたくも無い真似をやらねばならなくなりましょう」

 故人の遺志を無視する事は、彼女としても不本意ではある。
 だがどうにも歯切れの悪い悠陽の反応を見る限り、要らぬ火の粉を篁家が被る危険性を、どうしても思い浮かべてしまうのだ。

 やはり大鉈を振るうべきか――と腹の中で決断しかける恭子。
 そんな彼女の耳朶を、凛とした強い意思を感じさせる悠陽の声が震わせた。

「――あれは、降る様な星空の下での事でした」

 その一言を皮切りに、少女は静かに語り出す。

 ――星降る夜の出来事。一期一会の邂逅を。

 自身が何故、彼の家に、否、彼に執着するかを滔々と吐露する悠陽。
 その言葉の真贋を見極めようとでも言うのか、恭子はただ黙して耳を傾ける。

 そして、ただ一度の交差、だが今の自身を形作る契機となった出来事を、短くも真摯に語り終えた少女は、最後に恭子を真正面から見詰めながら結びの一言を告げた。

「――私は、あの方を心の師として尊敬しております。
 そしていつの日にか、同じ高みに到って、もう一度向かい合いたいと願っています」

 ――だからこそ。

 言葉にならぬ言葉で、そう結んだ悠陽を前にし、一つ深い吐息を漏らした恭子は、自身でそれを補い、問い掛ける。

「……だからこそ、彼の家の事を気に掛けてしまうと?」
「はい……その為に、恭子様の御心を乱してしまった事は申し訳なく思います。
 ですが、先程も月詠が申し上げた通り、決して邪まな気持ちによるものでは無いという事だけは明言させて頂きます」

 そうやって、きっぱりと言い切りながら深々と頭を下げる少女。
 そしてそれに倣う様に、背後の真耶もまた畳に額を付けて平伏する。

 暫し沈黙の帳が落ち、そして――

「……分かりました。
 悠陽様の御言葉を信じましょう」

 静かな口調で告げる恭子。
 上げられた主従の視線と彼女のそれが一瞬交差し、悠陽の瞳が微かに揺れた。

 それを知ってか知らずか、改めて姿勢を正した恭子は、最後に一本だけ釘を刺す。

「ですが、悪い噂が立っているのも事実。
 今後はその点にも御配慮頂きたいと思います」

 悠陽の心情は兎も角、少なくとも今の様な噂が蔓延するのは困る。

 唯依や篁家が、好奇や嘲笑の対象となる事を、恭子としては認められない以上、当然の要求であり、それは悠陽も呑まざるを得ない。
 少なくとも噂をこれ以上広がらせない対応――具体的には煌武院として枢木と距離を取る事を彼女も了承した。

「承知致しました。
 以後、この件で恭子様の御心を煩わす様な真似は決して――」

 そう誓う悠陽を見詰めていた恭子の視線が、彼女の背後――真耶へと向けられた。
 与えられた一瞥の意味を、瞬時に理解したのか、彼女もまた無言のまま再度平伏する。

 恭子の唇から、ようやく安堵の吐息が零れ落ちていった。



―― 西暦一九九六年四月一日 帝都・二条城 ――



 城内の最奥にある広い室内に、筆を走らす音と判を捺す音が交互に響く。
 歴代の政威大将軍が愛用してきた執務机の上で、積まれた書類にサインを入れ、承認印を捺しているのは、今代の将軍である斉御司経盛その人であった。

「…………」

 半ば機械的に書類を斜め読みし、署名しては将軍の印を捺す。
 無言のまま、その行為を繰り返す男の顔は能面の様に無表情であったが、その胸中は表面上の凪いだ状態の対極にあった。

『……下らん』

 胸中で吐き捨てながら、己の手の届かぬ所で決定された事を追認するだけの行為を、政務と称して繰り返す事に深い鬱憤を溜めこんでいく斉御司。
 政威大将軍という制度が興った時より、時代の将軍と共にあった机の上で執務を行っている事が、更に彼の苛立ちに拍車を掛ける。

『先達の方々に比べ、なんと我が身は無力で惨めな事か……』

 ――開国し、弱肉強食な帝国主義の荒波に呑み込まれまいと奮闘した将軍も、この机を使っていた。
 ――帝国を遥かに超える大国との戦端を開いた将軍もまた、この机の上で開戦の詔書を記していた。
 ――国家の生き残りを掛けて米国に挑んだ時の将軍も、同じくこの机の前に座し、決断を下した。

 帝国の、否、歴代の政威大将軍の歩みを、その栄光も、挫折も、全てを見届けて来た机を前にして、自身がやっている事の卑小さに、彼の自尊心は絶え間なく悲鳴を上げている。

『こんな筈では無かった……』

 悔いる思いが胸中に満ちる。
 先代より政威大将軍の地位を受け継いだ時には、自身が帝国を背負い、そしてより良く変えていけると言う自負も野心もあった。

 否、自負も野心も、今も変わらず存在する。

 だが――

『――敗戦により科せられた枷は、想像以上に強靭で複雑であった』

 帝国の執政者から権威者へ、悪く言えば御飾へと変えられてしまった現在の政威大将軍には、実権というものは余り残されていなかった。
 更には長引く対BETA戦が、それに拍車を掛けており、軍部にとって都合の良い拡大解釈が為され、残されていた権限も大きく制限を受ける始末。

 何かを為そうにも、それを為す為の力も無く、雁字搦めに縛り上げられたまま、子供でも出来る様な書類の決裁を強いられる日々は、自身の才覚に相応の自負を抱いていた男の精神を疲弊させ、年齢以上の老いを感じさせるようになっていたが、それでも尚、消え去らぬ想いが心が折れるのを押し留めていた。

『まだだ……まだ終わらんよ。終わってたまるものか!』

 ――帝国をより良く変えたい。護りたい。

 その想いは真実。
 だからこそ、その理想を現実に変える為にも、形振り構うつもりはなかった。

『力が足らぬ?
 ……ならば、ある所から持ってくれば良いだけの事だ』

 現実を変換する為の実効的な力――人、物、金。

 それら全てが今の斉御司には、否、五摂家のいずれにも不足しているのは事実。
 城内省の役人は語るに足らず、信頼できる手足は斯衛軍のみな上、それも将軍たる自身の号令一下動かせると言うものでもなかった。

 紅蓮や月詠は煌武院に従うであろうし、鳳辺りは崇宰を優先するだろう。
 その他の武家も、最終的には自家の属する一門の宗主の意向を伺うのは確実で、これでは到底、実力を以って帝国の改革など出来よう筈も無かった。

 己を、政威大将軍を縛る軛の全てを断ち切り、大きく飛翔するには、強大な武力と巨大な財力、そしてそれらに依って裏打ちされる絶対的な権力が必要――経盛の脳裏に、数年前に見た白い巨影が一瞬過り、無表情に鎧われた口元から、ギリリッと歯軋りの音が漏れた。

『……彼の家を動かせれば、或いは……』

 数代前の斉御司家当主の勘気を買い、出入り禁止の絶縁状を叩きつけられた武家。
 本来ならそのまま没落し、泡沫の様に消えていく筈だったものが、何故かしぶとく生き残り、零落れるどころか今や飛ぶ鳥を落とす勢いの隆盛を極めているという理解に苦しむ一族。

 だが、良くも悪くもその力は本物だった。

 財力に関しては、もはや帝国国内はおろか世界でも指折りと言って良く、武力に関しても正規軍に匹敵する強力な民間軍事会社(PMSCs)を従えている。
 その影響力は帝国内でも深く浸透し、財界や城内省、果ては軍部の一部から強烈な敵意と反感を買いながら、排除したくても出来ない程に強靭な根を張り巡らせていた。

 ――彼の家を、枢木を、何とか元の鞘に戻す事が出来れば、現状を大きく改善する事も叶う筈。

 そんな考えが、足掻き続ける男の胸中で徐々に膨らんでいくのだった。



―― 西暦一九九六年四月一日 帝都・斑鳩邸 ――



 気鬱さが増すだけの昨今の元枢府における定例会議を終えた斑鳩当主・斑鳩崇継は、屋敷に戻ると気晴らしも兼ねて腹心を相手に一局打ち始めた。
 パチリ、パチリと駒が盤を打つ音と共に、手酌で酒を酌み交わしつつ、昨今の帝国の趨勢について世間話の様に会話を交わす中、名目上の皇帝陛下の代理人たる方へと話題が移る。

「殿下は決して無能でもなければ、悪人でもない」

 軽く杯を傾け、中身を飲み干した斑鳩が、独り言の様に呟いた。
 他の者が言えば不敬の謗りは免れない将軍への批評も、流石に五摂家の当主となればサラリと口に出来るのか、何の気負いも無しに呟かれたその一言に対面に座す腹心は黙って耳を傾ける。

「……あの方は、ただ足掻いているだけよ。
 歪められてしまった政威大将軍という存在を正そうとしてな」

 理想を持ち、才能も有り、己の才覚に対する自負も持っている。
 そんな人物にしてみれば、現在の政威大将軍という存在の有り様が甚だ不本意であろう事は、斑鳩も重々承知していた。

 彼もまた、有り余る才能故に、疎んじられる身。
 それも含めて政治的には、どちらかと言えば対立する立場ではあるが、それでもある種の共感めいたモノを現将軍殿下に感じながら、その心情を忖度する彼に腹心の青年は揺らぎの欠片も見せぬ声で応じて見せた。

「ですがそれは叶いますまい。
 あの方の手足となって動かねばならぬ筈の城内省自体が、殿下の枷となって将軍家という存在を歪めているのですから」

 彼の見る処、城内省の官僚達には、将軍殿下に殉じる気概の持ち主は居ない。
 あくまでも官僚としての立場から仕えているだけであり、その程度の関係では到底、今の帝国の有り様をどうこうするなど夢のまた夢でしかなかった。
 もし万が一、将軍殿下が政威大将軍という存在を、本来あるべき状態へと戻そうとしたとしても、彼等が積極的に協力する可能性は低い、否、逆に抵抗する可能性すらあるだろう。
 良くも悪くも、先例や慣例に倣いたがるのが、城内省のみならず官僚機構全体の習性であり、だからこそ現状を改変しようとすれば、反射的に一致団結してブレーキを掛けてくる可能性が高かった。

 斑鳩の視線が、屋敷内の明かりに照らし出され、朧に浮かぶ庭へと向けられる。
 いつの間にやら降りだした雨に濡れた草木の葉が、微かに濡れ光るのを眺めながらゆっくりと口を開いた。

「雨か……今の帝国の澱みを洗い流すには、普通の雨では到底足りまい」

 長年に渡り帝国内に降り積もった塵は、今や随所で凝り固まり、帝国そのものの動きを鈍らせていた。
 これを全て濯ごうとすれば、降り注ぐ血の驟雨が激流となって全てを押し流す程の騒動が必要となるだろう。

 彼自身ですら躊躇う程の騒乱、それ無くしては帝国の再建は覚束無いという事実に、胸中で深い憂慮を覚えながら、それでも『その時』が来る事を何処かで予感していた斑鳩は静かにひとりごちた。

「とはいえ帝国を憂える者も少なくない。
 いずれ誰かが起つやもしれぬし、或いは……」
「或いは?」

 途切れた言の葉の先を求める腹心の合いの手。
 貴公子然とした端正な容貌に、皮肉気な表情が浮かんだ。

「……或いは、我等の様な柵に囚われぬ者が、思いもよらぬ形で全てを変えてしまうかもしれぬしな」
「閣下?」

 僅かな自嘲を含んだ答えに腹心の眉が寄った。
 彼にしてみれば、自身の主である斑鳩こそが、帝国中興の祖と呼ばれるに相応しいとの思いがあったが、それが言葉となるよりも早く、当の主が何処か面白そうな笑みを浮かべながら言い放つ。

「所詮、我とて五摂家という鎖に縛られる身。
 それを引き千切ってまで動くのは、ちと辛い」

 どういったところで、自身もまた現体制に属する身。
 それ故に様々な柵に縛られている以上、現時点で思い切った手を打つ事は難しい。
 それ程までに日本帝国を縛る鎖は、複雑怪奇に随所で絡み合っており、その内側から解くのは容易な事では無かった。

 斑鳩としては、それを承知の上で帝国再建に向けて動くつもりであったが、そんな彼の思惑の外側から急速に台頭しつつある存在の出現が、その動きを暫し押し留めている。

 ――あの男(・・・)が、今後、どう動くのか?

 その一事に、強い警戒と、それ以上の興味を抱きながら、斑鳩崇継は莞爾と笑う。

「我が内側から帝国を再生させるのが先か、或いは、彼の者によって外側から叩き壊され創り直されるのが早いか……はてさて、どうなる事やら?」

 そう呟きながら、ある種の高揚を覚えた斑鳩は、胸の猛りを鎮める様に杯を呷ったのだった。



―― 西暦一九九六年四月二日・深夜 帝都・崇宰邸 ――



「……枢木か」

 闇の中、小さな呟きが起きた。
 床に就いた崇宰恭子は、朧にしか見えぬ天井を見上げながら、思索を巡らせていく。

 唯依の為に選定させた婚約者候補については、取り敢えず一旦保留(・・・・)との指示を出していたが、その事が彼女の心中を少なからず露わしていた。

 悠陽の語った言葉に嘘は無いと彼女も確信していたが、だからこそ一抹の不安が拭い切れない。
 そこから垣間見える『彼』の思想・信条は、武家の者としては、やはり異端であると思わせるものであり、それ故に、『彼』に唯依の将来を委ねる事に躊躇いを覚えるのだ。

「危険やもしれぬな……しかし……」

 再び、別の逡巡が恭子を捕えた。

 婚約が調った事を報告に来た際の輝くばかりの笑顔が、彼女の脳裏に蘇り、難しそうに引き結ばれていた口元を綻ばせた。

 あの笑顔を護ってやりたいとも思う。
 もし強引に破談に持ち込む様な真似をすれば、どれ程、あの娘は嘆くだろうと恐れる思いもあった。

「……あやつが、大人しくしていてくれさえすれば、全ては丸く納まる筈」

 いずれ折を見て、枢木にも釘を刺しておこうかと思案する。
 五摂家という旧き権威に全面的に平伏する程、可愛げのある人物とは思えぬが、それでも未だ帝国に止まり、曲がりなりにも武家社会に属しているのだ。
 全く聞く耳を持たぬとは思えぬし、それ程、過大な事を求めるつもりも彼女には無い。

 ――ただ少しばかり、静かにしていてくれればそれで良い。

 その程度の自制は期待しても良いだろうと楽観視した恭子は、ようやく肩の荷が下りた気分になると、途端に睡魔が忍び寄って来るのを感じた。

『……ここの……とこ…ろ……いろ…い……ろ……』

 急速に思考が鈍り、意識が飛び飛びになっていくのを微かに自覚する。
 肉体的にも、精神的にも疲労していたのだろ彼女は、そのまま考える事を止めると眠りの園へと落ちていった。





 こうして様々な思惑が、雲上で交錯する中、それでも時は流れていく。
 そして嵐の時代は、弛む事も、止まる事も無く、刻一刻と近づいていたのだった。







 どうもねむり猫Mk3です。

 やれやれ今回もお待たせしました。

 今回は雲の上の方々の思惑を〜〜〜
 しかし主役は完全に不在……う〜む。

 ちなみに五摂家中、九條を抜いたのはワザとです。
 全く情報が出てきていない(当主は女性?)ので、まあ無難に避けました。

 しかし書いていても、少し楽しくなかったような。
 唯依姫分に餓えておりますので。

 まあ次に行く前に必要なお話でしたので、よろしくお付き合いの程を。

 さて、予定ではもう一本小話を入れるつもりでしたが、そちらは無くても良いので、無い無いします。

 やはり脇や裏ではテンションが上がりませんので、ここは一気に新章突入という事で。
 と言う事で、次は新章『創嵐編』のスタートです!

 なんとか年内には開始しますので、よろしくお願いいたします。





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