Muv-Luv Alternative 赤き竜の紋章


【黎明の章】


第一話 〜契約〜






「……唯依ちゃん……」

 やや薄暗い人工の光の下、無造作に置かれた融け崩れた金属の塊。
 辛うじて人の手に似た形状を残すソレを、呆然と見据えながら巌谷は呟いた。

 奇跡的に融け残った残ったごく僅かな塗料の色だけが、本来の機体の色合いを物語っている。
 塗料の色は山吹、残骸は残された判別可能な部分から、斯衛軍専用として開発中の量産試作戦術機の物――端的に言うなら実験小隊『ホワイトファングス』隊長である篁唯依少尉の乗機である事が、つい先ほど断定されたばかりだった。

 多摩川沿いに設営された野戦陣地内の仮設ハンガーに、すすり泣く嗚咽の声が広がる。 巌谷が振り返ると、包帯姿も痛々しい斯衛の制服を着た女性衛士が二人、互いに互いを支えながら声を押し殺して泣いていた。

 巌谷も良く知っている少女達である。
 親友から託された愛娘である唯依の部下であり、本作戦において善戦空しくベイルアウトし、負傷して後方に下がっていた筈の娘達だった。

 一歩、少女等へと踏み出すが、二歩目で止められる。
 振り返れば唯依と二機連携(エレメント)を組んでいた雨宮少尉が、そっと巌谷の肩を押さえ黙って首を振って見せた。
 それだけで意図が通じたのか、巌谷も黙って頷くと踵を返し、ハンガーの外へと歩き出す。
 外に出て、更にしばらくすると、背後より少女達の号泣が聞こえてきた。

 その声を聞こえぬフリでもするかのように、暗い空を見上げ見えない星を探す巌谷の背後から、常のそれとは異なる沈んだ声が掛けられる。

「ありがとうございます。
 中佐ご自身も、お辛い時に……」
「……なに気にするな、大人の見栄ってヤツだ」

 苦笑混じりに返された応えに、泣き腫らしたのだろう赤い目をした雨宮もまた、応ずるように儚げな笑みを返す。

 巌谷は懐から、今では貴重品となったタバコを取り出し、吸っていいかとジェスチャーで示した。
 頷き返す雨宮に、軽く礼を返すと咥えたタバコに火を点ける。
 夜風に乗ってゆっくりと紫煙と匂いが散っていった。

「……使われたのは恐らくレーザー」
「中佐?」

 脈絡もなく話し出した巌谷に、困惑の表情を雨宮は浮かべた。
 だが、そんな少女の様子に構う事無く、まるで独り言でも呟く様に巌谷は喋り続ける。
「出力は最低でも重光線級の数倍から十数倍。
 戦艦の装甲ですら一瞬で融解させる熱量で、戦術機程度なら完全に蒸発しただろう――だとさ!」

 吐き捨てる言葉と共に地に落ちたタバコを踏み躙った。
 ソレを明言された際のどうしようもない喪失感と怒りを思い出しながら。
 雨宮の顔が蒼白になり、その唇が微かに震える。

「……スマン。無様をさらした」
「いえ……」

 憤りを吐き出し、冷静さを取り戻した男は詫びの言葉を口にする。
 返すべき言葉を持たない少女は、言葉少なく応えるだけで精一杯だった。
 彼女自身も信頼する上官であり、生命を預け合う仲でもあった唯依の喪失に強いショックを受けていた以上、これでも上出来と言うべきだろう。

 そんな少女の肩に、更に重荷を載せねばならぬ事に罪悪感を感じつつ、巌谷は軍人の顔を取り戻し雨宮へと向き合う。
 巌谷の表情から何事かを読み取ったのか、雨宮の顔にも緊張が走った。

「篁唯依少尉は、本日1900をもってKIA認定された。
 同じく同時刻をもって、君のホワイトファングス小隊隊長への就任が決定となった」
「そ、そんなっ!」

 行方不明(MIA)ではなく行き成り死亡認定(KIA)された事に、雨宮は狼狽して叫ぶ。

 ――まだ死んだと決まった訳ではない。
 ――ベイルアウトした際、負傷してどこかで動けなくなっているだけの可能性も有る。

 そう必死に抗議する雨宮の姿に、数十分前の自身を重ねながら、巌谷は首を横に振り続けた。
 唯依の死を認めたくない思いは、彼にしても同じ事。
 いや、亡き親友から託されて後、実の娘同様にその成長を見守ってきた巌谷にしてみれば、その思いはより強かっただろう。
 だがそれでも今の帝国軍には、たとえ斯衛所属とはいえ一衛士を探す為だけに裂く人手の余裕など、逆さに振っても無いという現実が分かってしまうだけに、歯を食い縛って堪える事しか出来なかったのだ。

 やがてそんな巌谷の心情が伝わったのか、いや、彼女自身も本当は分かっていたのだろう。

 雨宮の肢体が力なく崩れ落ちた。
 膝を突いた少女の指先が、堅い大地へとめり込んでいく。

 背を向け再び空を見上げた巌谷の背を、激しい慟哭の叫びが打ち据えた。





■□■□■□■□■□





 スクリーンに映る虚空を睨む双眸に強い憤りが浮かぶ。

 太陽系を離れる事、およそ一光年。
 そこには何も無く、そして同時に全てを阻む『ナニか』があった。

 時間と空間が歪んだ果てに産まれたあらゆる事象を阻む絶対の壁――

「――時空障壁。
 ……全く何の冗談だ」

 吐き捨てるようなその言葉に、状況を告げる老いた声が重なった。

遺物(レリック)共及び奴等の拠点を、彼の地にて確認しております。
 どうやら不本意ながら、我々は第二のアイオーン事件に巻き込まれた様です。
 ――いや、時系列的には、こちらが先ですかな?』

 などと笑えぬ冗談を付け足す老魔術師(マーリン)を、青年――アルトリウス・ペンドラゴンは射殺すような眼差しで睨みつける。

 ――アイオーン事件。

 人類が光を超える術を得て、母なる星より飛び立った後、とある星で出会った鬱陶しいだけの遺物(レリック)――人類外先史文明の遺物にまつわる忌まわしい事件である。

 既に滅んだと目される珪素系生命体による先史文明が、全宇宙へと撒き散らした傍迷惑な存在――遺物(レリック)
 自己増殖する有機機械であり、降着した惑星や衛星の資源を根こそぎ収奪し、創造主たる珪素系生命体へと送り続ける為だけに存在する資源採掘マシーン。

 初めて接触した際は、人類とは異なる社会性を持つ人類外知的生命体と誤認され、それ故に友好的接触を図ろうとした人類は、問答無用の攻撃を受け多大な被害を被った事が記録に残されている。
 とはいえ、その当時の人類は、殴られたまま黙っている程、お人よしでもなかった。

 失われた犠牲に哀悼の意を表し、一頻り涙を流した後、これらを敵性生物――『害獣』と断定するや、徹底的なまでの殲滅戦を開始する。
 そして既に自力で恒星間航行にまで到った人類にとって、これらの『害獣』は難敵ではあっても脅威と呼ぶには足りず、最初の接触より三年後には駆逐が完了したのだった。

 その後、残された拠点より収集・解析された情報により、これらの『害獣』共が、生命ですらない単なる有機機械に過ぎない事を掴んだ人類は、以後、見敵必殺(サーチアンドデストロイ)をセオリーとして、広がり続ける自領域から容赦なく駆逐していったのだが、この過程で一つの悲劇が起きたのである。

 『害獣』、否、この時点で既に先史文明の遺物として『レリック』との呼び方が定着していた資源採掘マシーン達の拠点より発見された人類にとっては未知の物質。
 遺物(レリック)の頭文字から、一般にはR元素と呼ばれていたそれ等を研究する為に、アイオーン星系に置かれた遺物(レリック)研究機関にて、ある日大事故が起きた。
 R元素解析中に起きたこの事故により、保管されていた他のR元素も連鎖反応を開始。
 暴走を起こしたその挙句の果てに、アイオーンを中心とした半径二光年に及ぶ範囲が、通常宇宙から切り離されてしまったのである。
 以後、外部からの干渉を完全に阻む未知の障壁に囲まれた中の様子は完全に不明となり、そのまま二十年以上の歳月が流れ、人々の記憶からアイオーンの名が薄れた頃、何故か唐突に世界を隔てる障壁が消えたのだった。

 最初に、障壁の消失を確認した軍の監視部隊は、すぐさまアイオーンへと進出するも、そこで驚くべき光景を眼にする事になる。
 二十年間閉鎖されていた筈の世界が、二十年前と何ら変わる事なき姿のまま彼らの前へと姿を現したのだ。

 驚愕する軍人達を前に、不思議そうに首を傾げるアイオーンの研究者達。
 その後の調査により、内部の人間にとっては事件発生から三週間しか経過していない事が明らかとなり、現代版の浦島太郎事件として巷には知れ渡る事となるのだが、実際には更に厄介な事態が起きていたのだ。

 本当は、三週間しか経過していないのではなく『同じ七ヶ月間を繰り返して』いた事が、当時の碩学達による詳細な調査の結果明らかにされたのである。
 あの未知の障壁――後に時空の歪みそのものと解析された――により区切られた世界の時空に深刻な亀裂が生じ、時の流れを歪ませた結果、内部の者達は際限なく『同じ七ヶ月』繰り返していた訳だ。

 ――閉ざされたメビウスの輪の中で、永遠に同じ時間を繰り返す。

 その事実を知った時、真実を突き止めた時の碩学と政治家達は、揃って怖気をふるった。
 そして彼らは即日、R元素に関する全ての研究成果を破棄、以後の研究も法により厳重に禁じる道を選ぶ。
 またR元素そのものは、遺物(レリック)を駆逐する際の副産物として入手する破目になるのだが、これらも回収次第、ブラックホールに投棄し、事象の地平の彼方へと葬り去る事が定められた。
 この決定は、後継国家となった『帝国』にも受け継がれ、現代においても尚、厳格に遵守されている。

 これが銀河の歴史に、『アイオーン事件』の名で刻まれる忌まわしい事件の顛末だった。

 ある意味、禁忌に近いソレの焼き直しに、自身が巻き込まれようとは……

 青年は、己の不運に深い深い溜息を吐く事しか出来なかった。

 だが、そんな彼の傍らでは、眼鏡を掛けた年嵩の青年が、我関せずの態度のまま端末片手に何かを確認している。
 第三艦隊参謀長にして、アルトリウスの右腕と目される彼、ケイ・トウゴウ少将は艦内にある物資・装備・設備を細大漏らさず再確認し、それらの活用法と共に今後の方策を練っていたのだ。

 不幸中の幸いと言うべきか、叛乱鎮定後、最寄の補給基地で物資の補給と艦の修理及び整備は済ませている。
 凱旋する艦隊が無様をさらさぬ配慮であったが、思いもよらぬこの状況下では、彼らにとっての命綱とも言える『プリトウェン』が、ほぼ万全な状態である事は僥倖という他なかった。
 とりあえず、この艦と共にある限り、彼らの身の安全は保証されるのだから。

 とはいえである。

 空間制御技術により産みだされた異相空間に、大量の補給物資を溜め込んでいるとはいえ、所詮、物資は有限だ。

 使えば減る。
 そしていつか必ず尽きるのだ。

 残念ながら、戦艦であるこの船には、それらの物資を再生産する設備は無い以上、なんらかの方策を立てねばならない。
 眼鏡の後ろにある怜悧な瞳に、とある人物の影が浮かぶ。
 そしてそれを見越した様に、三人目の人物が、菫色の瞳を細めて告げた。

「アル君、どうやら眠り姫が眼を覚ましたみたい」

 ケイの瞳がスッと細まり、アルトリウスの肩が微かに震えた。





■□■□■□■□■□





 白一色で統一された清潔な空間。
 壁面の一角には、唯依も知らぬ清楚な花が花瓶に入れて飾られており、微かに香る匂いが心地良い。

「此処は一体……」

 寝心地の良い上質なベッドから身を起こした少女は、戸惑いながらも周囲を見渡し情報を手に入れようと試みた。

 和室に換算するならザッと十畳程度だろう。
 広めの室内の中央には彼女が寝かされていたベッドが置かれ、その周りには作りつけのテーブルを含め、いくつかの家具が備え付けられていた。

 自身以外には誰も居ない室内。
 状況がまるで掴めぬ唯依は、ベッドから降りると置かれていたスリッパを履き、この部屋の唯一の出口と思われるドアへと歩み寄った。

「ん?
 ……自動ドアか?」

 引き手もノブも無いドアの前に立った唯依は、数瞬、戸惑ったものの思い切ってドアに手を触れ押してみる。
 だが、ピクリとも動かぬソレに、形良い眉がわずかにひそまった。
 次いで手を触れたまま、横へとズラそうと試みるが、やはりビクともしない。

 明らかにロックされている事に気付いた唯依は、鍵を求めて周囲を見回すがソレらしい物は見当たらなかった。
 意図してか、あるいは単なる偶然かはともかく、自身がこの部屋の中に閉じ込められている事を悟った少女は、はしたなくも軽く舌打ちするとベッドに戻り端へと腰掛ける。
 柔らかな弾力が、まろやか尻を受け止める感触を感じながら、両手もベッドへと置きその身を支えた唯依は、やや難しい顔をして考えを纏め始めた。

『帝国軍内の病院?
 いや、それにしては……』

 無意識の内に、手に力が篭る。
 軽く沈み込む感覚と共に、柔らかな反発が感じられた。
 かなり上質なベッドである事が分かる。
 到底、普通の病院に置かれているような代物ではない事は、彼女にも簡単に判別がついた。
 如何に斯衛、そして譜代武家の当主とはいえ、これ程の厚遇を受ける謂れは無い以上、ここが帝国内の病院という可能性は余り高くない。

「―――っ!?」

 そこまで思考を進めたところで、不意にある事に気付き、少女の頬が青褪める。
 反射的に動いた右手が、ソッと下腹部に添えられた。
 恐れる様に、何かを確かめる様に白い手が暫し動き、やがてホッとした表情になった少女は安堵の溜息を漏らす。

 どこの何者とも知れぬ輩の手の内に落ち、尚且つ、意識の無い状態で着替えまでさせられていた少女は、自身の貞操が傷付けられたのではないかと疑ったのだが、どうやら杞憂であった様だった。
 世慣れた副官から吹き込まれた猥談の様に、下腹部に妙な鈍痛や粘液めいた触感が無い以上、恐らくはその心配は無いのだろう――と安堵する。

 そうやって、自身が未だ清らかな身のままである事を確信した唯依は、再び思考を巡らし始めた。

『帝国軍ではない……となると米軍か?』

 筆で刷いた様な柳眉が、不快気に顰められた。
 唯依にとって、つい先ほど見たばかりの光景は、到底、忘れえるものではない。
 あの惨劇を生み出した米軍に、例え助けられたのだとしても、好意的な態度を取る事など出来そうも無かった。

『とにかく、一刻も早く帝国軍に連絡を入れて貰わなくては……』

 そうすれば不本意な現状を脱せられる。
 それに何より、巌谷や雨宮の事も気になった。

『あの後、一体、どうなった――っ!?』

 そこまで思考を進めた唯依は、不意にある事に気付いた。
 慌てて周囲を見回す視線が、天井に向いたところで固定される。

『照明が無い!
 いや、天井自体が発光しているのか?』

 半ば唖然として、天井を見上げる唯依の目に、淡く発光し室内を照らす天井そのものが見えた。
 自身の知識には無い照明に、わずかに幼さを残す美貌が、険しい表情によって損なわれる。

『米国の最新式?
 いや、そんな物は聞いた事も無い。
 何より本国ならともかく、戦地である日本にそんな物を持ち込む筈が無い』

 少女の胸中に強い疑念が生じた。
 自身の居るこの部屋が、本当に米軍の病院なのかと。

 そう疑ってみれば、先ほど触れたドアの感触も、この場から見渡せる周囲の壁も、自身の知識には無い素材であるように思えた。
 如何に米国に余裕があろうと、彼女の知識に全くない新素材・新技術で固めた病室を備えた病院を、半ばBETAに侵された日本に建てる筈も無い。

 白い頬を一筋の汗が流れ、ほっそりとした首筋を伝って、豊かな胸の谷間へと落ちていった。

『ここは本当に米軍の……いや、人類の病院なのか?』

 少女の全身に悪寒が走る。
 淡い空色の浴衣に包まれただけの裸身がブルリと震えた。

 彼女の脳裏に、意識を失う瞬間に垣間見た白い巨体の残像が蘇る。

 もしかして此処は――

「――っ!?」

 戦士として鍛え抜かれた鋭敏な感覚が微かな音を捉えた。
 慌ててドアに走り寄り、見知らぬ素材で出来たソレに耳を当てる。

 恐ろしく聞き取り難いが、確かに聞こえる音。
 複数の足音と思しきソレが近づいて来る。

 反射的に、唯依は室内を物色した。
 だが、得物になりそうな物は無い。

 テーブルはおろか、椅子や花瓶ですら固定されていたのだ。
 失望の色を一瞬浮かべつつも、素早く意識を切り替えた彼女は、ドアの直ぐ横の壁へとその身を張り付けるや、前が肌蹴るのも構わず浴衣の帯を解き、両手でその端を握って息を殺す。

 聞こえる足音は、もう間近。
 自身の気配を断ち、その瞬間に意識を凝らす。
 足音が、部屋の外で止まった。

「……?」

 止まったまま動かぬ気配に、唯依はわずかに眉を寄せる。

 ――気付かれたのか?

 少女の鼓動が微かに早まり、殺していた息が僅かに漏れた。
 と、同時にドアが横滑りして開く。
 室内に流れ込む空気と共に、一つの影が無造作に入って来た。

 空色の風が動く。
 藍色の帯が、顎となって得物の首に喰らいつ―――かなかった。

 必殺のタイミングで仕掛けながら、空しく過ぎった両手の感覚に、一瞬、唯依の思考が白一色に染まる。
 そしてそれは、余りにも致命的な隙を生んだ。

 視界が回る。

 自身が苦も無く投げ飛ばされた事を、唯依が自覚したのは床に叩きつけられた瞬間だ。 強烈な衝撃に息が詰まる。
 全身の感覚が一瞬麻痺し、それが戻った時、彼女は自身が完全に押さえ込まれている事に気付いた。

 マウントポジションを取られ、更には両腕をがっちりと押さえ込まれている。
 もはや身動きする事すら困難な有様となった少女は、これだけは自由なままの首を動かし、自身の上に圧し掛かる相手を睨みつけた。

「「―――っ!?」」

 息が触れ合うほどの至近で、紫と黄の視線がぶつかった。
 共に剄烈な光を宿した双眸が、互いを映し、そして互いに息を呑む。

 呼吸が止まり、刻も止まった。
 一瞬が限りなく長く永く引き延ばされる中、少女は青年のみを見上げ、青年は少女のみを見下ろす。

 そんな二人だけの世界。
 それが不満だとでも言うかの様に、どこか面白がる声が両者の間に割って入る。

「ねぇねぇアル君。
 いつまでお見合いしてるのかな?」

 弾かれた様に、二対の視線が動く。
 振り仰げば、白衣を纏ったモデル体系の美女が、鼠を見つけた猫の眼で彼等を見下ろしていた。
 薄くルージュの曳かれた唇が、ニヤリとばかりに歪む。

「正直、その格好と体勢だと、どうみてもアル君が、その娘を襲おうとしている様にしか見えないんだけどねぇ〜」

 そう言って含み笑いを漏らす美女。
 唯依の頭上で、青年の頬に朱が射した。

 視界の端、彼女の目に映るギリギリの処で、白いナニかがフルリと揺れる。
 ドアから流れ込んでくる微かな風が、少女の『素肌』を撫ぜた。

 恐る恐る俯けた視線に、完全に肌蹴けた浴衣が絡みついただけの扇情的な白い裸身が映る。
 ……彼女自身の裸が、だ。

「…い……」

 まだ幼さを残す美貌が、一瞬青くなり、そして次の瞬間、真っ赤に染まる。

「……い…ぁ……?」

 ――見られた。
 ――見られた。
 ――見られた。

 ただソレだけが、唯依の脳内に木霊する。
 全身の血が沸騰し、男に組み敷かれた白い肢体が薔薇色に染まった。

 そして……

「いやぁぁぁぁぁぁあぁっ!!」

 羞恥に塗れた乙女の絶叫が、室内に響き渡った。





■□■□■□■□■□





 ――杜の都 仙台――

 横浜ハイヴと間近に接する新帝都『東京』の陥落を懸念し、現在、第二帝都として整備中のこの街の一角。
 軍人や政治家に忌避されつつも、本州島奪還作戦『明星作戦』を主導した『魔女』は、本作戦の終了を受け、現在その成果をセッセと評価していた。

 横浜・白稜基地陥落後、臨時に居を構えた仙台基地の一角、自身の子飼いであるA-01連隊が受けた深刻な損害をも、ただの数字として評価していた夕呼は、ひとしきり結果を取り纏め終えると、ホッと一息つきながらボソリと呟く。

「横浜ハイヴが陥ちたか……」

 犠牲は少なく――否、多大であったが、当初の目的の最低ラインは確保出来た事になる。
 だが、彼女はそれで良しとする程、無欲ではなかった。

「これで反応炉とBETA由来技術が手に入る訳だけど……ねぇ」

 結果として、ハイヴ攻略の切り札となったのは、G弾という事実が残されてしまったのが痛い。
 今頃、こちらを出し抜いたと浮かれ騒いでいるであろう連中を想像すると、胸糞が悪くなった。

「第五の連中が調子に乗るのはマズイわね」

 第五計画が勢いを増せば、それだけ自身が主導する第四計画が危うくなるのだ。
 である以上、早急な巻き返しは急務であったが、一朝一夕で結果が出せる筈もない。

 だが、纏めた資料を読み返す夕呼の表情には、明らかな余裕の色が滲んでいた。

 白く細く形の良い指が、一枚の写真を挟み、彼女の目線の高さまで上げる。

「とはいえ、連中も能天気にG弾の威力を喜んでばかりは居られないか」

 辛うじて撮影に成功した貴重な一枚――空に浮く白亜の巨体を興味深そうに見つめる。

 ――コードネーム『白鯨』

 明星作戦最終局面に突如として現れ、G弾の効果領域を無効化し、更には迎撃として撃たれた無数の砲弾やミサイルを、重金属雲をモノともせずに綺麗さっぱり射ち落とすという光線級も真っ青な離れ業をやってのけた謎の存在。

 今や各国の情報部が血眼になってその正体を追っているが、当然の如く、その尻尾の先すら掴めてはいなかった。

「……エイハブ船長を呼んで来いとでも言いたいのかしらね」

 妙に文学的なコードネームを付けた軍部の人間を揶揄しながら、手にした写真をしげしげと見つめる夕呼。
 鯨と称するにはややシャープさが勝るフォルムを見つめながら、その脳内では、物凄い勢いで情報の取捨選択が行われ、無数の推論が組み立てられては棄てられていた。

 出現後、人類側の必死の迎撃を軽々といなした『白鯨』。
 彼の未確認飛翔体(アンノウン)は、そのまま決死の覚悟で追撃へと移った戦術機達を、いともアッサリと振り切るや、そのまま単独で大気圏、引力圏を突破。
 横浜上空に居た再突入駆逐艦さえ置き去りにし、わずか十分後には月軌道を越え、人類の探知圏外へと姿を消してしまった。

 余りにも圧倒的な性能差。
 しかも、それが全力であるなどと夕呼は思わない。
 一連の行動を推測するに、人類の攻撃に脅威を感じて『必死に逃げた』訳などではなく、ただ単に鬱陶しいだけの羽虫から『ちょっとだけ』距離を取った程度の感覚であろうと、彼女は踏んでいた。

 何故、そんな代物があの場所に――しかもG弾の効果領域などから出現したのか?

 幾つかの推論は立つが、あくまでも推論でしかない。
 なにより、今回の場合、重要な事はその点ではないのだ。

 手にした写真を、デスクの上に放り投げた夕呼は、そのまま行儀悪く椅子の背もたれにもたれ掛かる。
 ギシリと軋む音と感触を感じながら、天井を見上げた美女は、冷徹な科学者の顔で呟いた。

「これを造った連中は、明らかに人類に酷似した精神構造(メンタリティ)の持ち主の筈」

 造詣から読み取れる設計者の思考が、BETAとは異なり人類にも理解できた。
 それは、この『白鯨』を建造した存在が、人類に似た感性や思考を持っていると推測する材料足り得る。
 また何ら情報を与えず、ただ写真のみを見せられた彼女の指揮下にある技術者・研究者達も、皆が皆、これが宇宙船もしくはソレに類する物であると判断した事が、彼女の推論を補強していた。

 とはいえである。

 似た思考を持つから友好的に接触出来る筈――などと言うお花畑的思考は、彼女にとって最も縁遠いものだ。
 もしその理屈が成り立つなら、人類間での戦争など起こる筈が無い。
 故に、この存在と人類との間で何らかの協力、いや、現実的に見れば助力を得られるかは未知数と言えた。
 場合によっては相手の逆鱗に触れ、BETAより先に、『彼等』の手で人類が滅ぼされるという笑えない結末すら有り得るだろう。
 だが同時に、賽の目が逆になるなら、BETAと人類の置かれる位置が逆転する可能性も充分ありえた。

 それら一切合財を考慮に入れた上で、天才・香月夕呼は思考する。
 無数の分岐、選択、可能性が産まれては消え、消えては産まれ、やがて一つへと収斂していった。

「……こいつ等と接触出来れば、或いは……」

 メリット・デメリット、そしてリスクを計算しても、余りにも魅力的過ぎる存在である事は否定しようもなかった。
 火中の栗を拾う覚悟を決めても、やるだけの価値はある。
 例え伸ばした手が焼け爛れ、消し炭となろうが、手に入れる事が叶うならきっと――

「人類は救われる。
 いえ、滅びを回避するだけでなく、大きく飛翔する事すら夢じゃない」

 そう結論付けた夕呼は、自身の考えを取り纏め、国連へと上げる報告書を書き上げるべくデスクへと向かい直る。

 その日、彼女の執務室から。キーを叩く音が途切れる事は無かったのだった。





■□■□■□■□■□





 ブリッジの巨大なスクリーンに映し出される宇宙を、半ば圧倒されるように見つめていた少女の喉から、掠れを帯びた呟きが漏れる。

「貴官等は、宇宙人……だと言うのか?」

 両頬に真っ赤な紅葉――乙女の柔肌を見、触れた代償――を付けた黒髪の青年は、ガックリと肩を落としながら、呆れた口調で訂正を入れる。

「違う。 未来の並行世界人だ」

 透き通った紫の双眸に困惑の色が滲む。
 言葉の意味が理解出来ていない事を悟ったアルトリウスは、ふと思いついた事を問い掛けた。

「SFとかは知らんのか?」
「……娯楽小説の類は、読んだ事が無い」

 数瞬、口篭った後、唯依は、ぶっきらぼうな口調で答えた。

 態度とは裏腹に、目線がわずかに泳ぎ、耳翼が少しだけ色づいている。
 任務と修練に明け暮れていた少女は、自身が世間の一般常識に疎い面がある事を自覚し、同時に、その事に気恥ずかしさを感じていたのだ。

 そんな少女の恥じらい振りを、興味深そうに観察していた先程の白衣の女性、『プリトウェン』の軍医を務めるサーヤ・カタギリ軍医少佐は、軽い笑みを浮かべると唯依へと助け舟?を出してやる。

「まあ、宇宙人って言い方も、間違ってはいないわよね」

 宇宙に居るから宇宙人。
 宇宙から来たから宇宙人。
 ほら、どちらも自分達に当て嵌まる。
 
 ――と笑いながら付け足してくる年上の幼馴染に、アルトリウスの頬が微かに引き攣った。

「サーヤ、頼むから話を混乱させないでくれ」

 横目で、頭を捻っている唯依を、チラリと見つつ苦言を呈する。
 かえって混乱してしまった少女を気遣う様に、年上の美女は、クスリと笑った。

 思わず頭を抱え込みたくなる青年。
 可愛いモノが大好きで、気に入ったモノは弄りたくて仕方なくなる幼馴染の心の琴線に、救助した機動兵器(と思われる物)のパイロットである少女が、ガッチリと触れた事を悟ったのだ。

 今後の騒動を想像し、眉間に皺を寄せたアルトリウスの鼓膜を、今度は別の声が震わせる。

「我等は確かに宇宙を版図とする者。
 そういう意味では、宇宙人という評価も間違いではないでしょう」

 ――貴様もかっ!

 どこぞの独裁者まがいのセリフを胸中で叫びながら、裏切り者である参謀長へと視線を走らせる。
 圧力だけで心臓を止められそうな壮絶な睨みを、真正面から受け止めたケイ・トウゴウ参謀長は、謹厳実直の仮面を崩す事無く、サラリと先を続けた。

「ですが、より正確に言うなら、この時代より凡そ千年後の未来、宇宙に進出した地球人と考えて頂きたい」

 今度は、彼女にも理解できる説明に、唯依の緊張も弛む。
 どこかホッとした表情になった少女は、頬に彼女が刻んだ紅葉を付けたままの青年へと向き直った。

「……つまり未来の地球人……という事か?」
「大体、それで合っている。
 厳密に言うなら、この世界の未来ではないのだがな」

 恐る恐るといった風情で重ねられた確認に、わずかに首を傾げつつも、まあ良いかと割り切ったアルトリウスは、一応の補足はつけつつも、唯依の理解が大まか正しい事を肯定した。
 清楚な美貌に安堵の笑みが浮かび、青年の鼓動が一瞬だけ上がるが、それに気付く事無く唯依は、浮かんだ疑問を口にする。

「概ね理解した。
 だが何故、その未来の地球人がこの時代に居るのだ?」
「分かり易く言うなら事故だ。
 来たくて来た訳ではない」

 青年の顔に、苦い色が滲む。
 本心から、そう言っていると理解した唯依は、胸中でホッと安堵の吐息を漏らした。

 ごく一部、ホンの一部、差し障りの無い箇所だけ見せてもらえたが、それだけでもこの艦を造った文明の凄さが、漠然とではあるが感じ取れる。
 圧倒的という表現すら生温い程の差が、彼等と自分達の間には有るのだ。
 これで、この世界を征服しに来ましたとか言われたら、敵わぬ事は分かっていても吶喊しなければならなかっただろう。
 思わず無意識に動いた手が、豊かな胸元へと置かれた。
 先ほどの浴衣とは異なるキッチリとした丈夫な布の感覚が手の平に広がる。
 借りたばかりの女性士官用の軍服は、想像以上に着心地も良く、この辺りからも双方の差を感じながら、唯依は安堵と共に質問を続けた。

「……そうか。
 それで貴官等は、これからどうする気なのだ?」

 ――事故で来たと言うなら、行く当てなどあるまい。

 言外に、そう疑問を投げてくる唯依。
 だがこれ有るを予期していたアルトリウスは、余裕を持って少女の質問に応じる。

「心配は無用だ。
 この艦がある限り、特に不自由は無い」

 帝国技術の粋を凝らしたこの『プリトウェン』が有る限り、自分達の身に問題が生じること等有り得ない。
 そう自信を持って返された返答に、少女は重ねて疑問を呈した。

「そうは言っても、物資とて無限ではあるまい。
 例えば食料が無くなったらどうするつもりだ?」

 幾ら、この艦が強大であれ、操る者が居る限り食料の問題は発生する筈。
 周囲で各々のコンソールに付き、作業に勤しんでいるクルーらを見ながら、彼等の食い扶持をどうする気なのだと目線で問い掛けた。

 ――浮かびそうになった微妙な表情を、必死で押さえ付ける三人に気付く事は無く。

 あくまでも彼女は戦闘時の救助者。
 要するにただの部外者に過ぎない唯依に、己の手の内を全て明かす程、アルトリウスらもお人好しではない。
 忙しく立ち働くクルー達が、高度AIを備えた擬体である事も当然明かしてはおらず、更に言うなら、艦自体を統御している『マーリン』にも、当面、唯依の前では姿を見せぬようにと指示が出されていた。
 無論、悪意があっての事ではない。
 軍人として自身の手札を、敵味方の区別が付かない相手に対し伏せていただけの事。
 とはいえ、それを知らず振る舞い、気を揉む少女には、どうしても後ろめたさを抱いてしまう。

 結果、無表情という名の仮面を被った一同に対し、唯依は、自身が懸念していた点についても釘を刺してきた。

「念の為、言っておくが略奪など許さんぞ」

 鋭い光が、紫の双眸に宿った。
 帝国の守護を、自身の責務と信じる少女は、如何に強大な相手であれ無法は許さぬと啖呵を切ってみせる。
 無表情を装っていた青年の瞳に、好戦的な光が宿った。

「では、どうしろと?」

 少女の考えを問う。

 とはいえ、これはある程度予想の付く話でもあった。
 そして残念ながら、唯依のソレは、彼の予想を超える事は無かったのである。

「……帝国に身を寄せる気は無いか?
 貴官等が希望するなら、私が仲立ちをしてもいい」

 生真面目な少女としては、不幸な事故にあった漂流者達への配慮もあっただろう。
 だが、それ以外の物――所謂、打算が無かったかといえば、彼女自身も否定し切れなかった筈だ。

 この艦の力、いや技術の一端なりと有れば、人類は盛り返せると。

 そして当然の如く、それは相手の予想の内でも有ったのだ。

 青年の口元が、皮肉げに歪む。
 何故か感じた微かな失望と共に、辛辣な答えを彼は返した。

「そして貴国の傭兵となって、遺物(レリック)共と戦い、磨り潰されろと?」

 白い頬に羞恥の赤が浮かび、その瞳には困惑の色が過ぎった。
 唯依は、自身の浅ましい考えを読まれた事に羞恥の念を覚えつつ、聞き慣れぬ言葉をオウム返し呟いてしまう。

遺物(レリック)だと?」

 対して、予想と異なる反応に、アルトリウスの方の思考が一瞬だけ止まる。

 怒るか否定するか、或いは詫びの言葉を口にするか。

 その辺りだろうと当たりを付けていた彼であったが、唯依の反応から肝心要の事を伝えていなかった事に気付いた。
 何となく肩透かしを食らった気分を味わいつつ、アルトリウスが一つ指を鳴らす。

「……こいつらの事だ」

 呼応するように投影されたウィンドウ内に映る異形共の姿を見た瞬間、ほっそりとした少女の肢体から強烈な殺気が迸った。

「BETA!」

 偽りの一片も無い憎悪と憤怒の叫び。
 それを聞いた一同は、この世界にとって、コレらがどのような存在であるかを理解する。

 理解はしたが、それでも……

「ほう、そう呼んでいるのか。
 まあいい……要するにこいつ等との戦いに、この艦の戦力を利用したいのだろ?」

 冷徹を装った声が、怒りに燃える少女に氷水となって襲い掛かる。

「……あ……ぅ…」

 一転して言葉に詰まり青褪める唯依。
 どの様に言い繕おうと、美辞麗句で飾り立てようとも、その意図が無かったとは彼女にも言えなかった。
 ただただ、薄桜色の唇を微かに震わせ、拳を握り締めて、胸中から湧き出るモノを必死で堪える事しか彼女には出来ない。

 そんな不器用で健気な娘の姿に、痛ましさを覚えながらも、青年は、この艦の責任者としての立場を貫くしかなかった。
 共に義務と責務を背負い、それを当然とする二人の男女は、真っ直ぐに相対する。

「ギブ・アンド・テイクを否定するつもりは無い。
 但し、それらは互いの提供するものが、釣り合うならの話だ」

 長い睫毛が震え、視線が落とされる。
 小刻みに震える細い肩は、今にも壊れてしまいそうに儚げだ。

 口中に滲む苦い唾を、アルトリウスは音も無く飲み下す。
 問わねばならぬ問いを投げかける為に。

「レ……いや、BETAだったか?
 アレの排除に手を貸したとして、貴国は我々に何を提供してくれるのだ?」
「……そ…それは……」

 真っ直ぐな問い掛けに唯依は口篭る。
 青年に掛けられた問いに、答える術を彼女は持たなかったからだ。

 食料の提供程度で、これほどの存在の助力を得ようなど浅ましいにも程がある。
 少なくとも唯依自身が、そう感じていた。
 そしてそれを肯定する様に、俯く事しかできない彼女に向けて、青年は冷然と言い捨てる。

「分かっていると思うが、食料程度では話にもならんぞ。
 その程度なら、略奪などせずとも適当に金庫から貴金属でも出してきて、売り飛ばせば済む話だ」

 少女の肩が、ガクリと落ちた。
 無いに等しい交渉の手札が、零であると明言されたからだけではない。
 無様を曝すだけ曝し、折角、手の内に飛び込んできた青い鳥を、無為に取り逃がしただけの自身の愚かさに絶望したが故だった。

 そうやって悄然とする唯依の姿を前に、胸の奥で軋む物を感じた青年は、ここまでとばかりに話を打ち切る。

「話にならんな。
 代価も無しに欲しい物が手に入るものか」

 一度だけ、力なく少女の肩が震える。
 濡羽烏の髪が、微かに揺れた。

「望み通り、明日には国に帰してやる。
 我等の事を忘れてもらうが、それは生命の代価と思って貰おう」

 そう言い捨てて青年が背を向ける。
 面目の欠片さえも無くした少女は、顔を上げる事さえ出来ずに、ただ床を歩く青年の足元を見る事しか出来なかった。

 そして、だからこそ、彼女は気付かなかった。

 足早に歩み去る軍服の背が、微かに震えている事に。
 脇に伸ばされている手が、きつく固く握り締められていた事に。

 ブリッジのドアを潜る直前、振り返る事無く青年は、最後の言葉を投げる。

「サーヤ、後は任せた」
「ハイハ〜イ、任されましたぁ」

 感情の無い声に、感情の有り過ぎる声が答えた。
 開かれた扉の向こうにアルトリウスの姿が消える。
 再び閉ざされるドアの音をBGMに、今度はサーヤが唯依へと向き直った。

「さてと、それじゃ忘れて貰おうかしら」

 余りにもあっさりと言われた一言に、唯依も思わず顔を上げる。
 蒼白になりながらも尚、損なわれていない美貌には、拒絶の色が濃く強く漂っていた。

「あらあら……嫌なの?
 う〜ん、でも忘れてもらえないと帰せないのよ」
「……それは……困る」

 表情を読み、むずかる子供をあやす様な口調で、何気に脅し文句を織り込んでくる女医に対し、唯依は力なく首を振りつつも、はっきりと否定の意志を示した。

 何故そうしたのかは、彼女にも分からない。
 帰らねばならぬのに、戻らねばならぬのに、それでも記憶を失う事を彼女は拒絶したのだ。

 友人達からは、『ただ一点を除き見た目だけは完璧な美女』と称される女医は、その賞賛に相応しい艶やかな笑みを浮かべる。
 そしてサーヤは、少女の内心を、彼女より正確に垣間見ながら、そこに触れる事は無く、唯依にとって好ましい理由を掲げて見せた。

「ふむ……つまり貴女は、え〜と……べ、ベータだっけ?
 とにかくアレを倒す為に、私達の協力が欲しい。
 でも協力に見合う対価が出せない。
 だけど、それでも何とか協力が欲しいので忘れたくない――OK?」

 ――そうなのだろうか?
 ――そうなのだろう。
 ――きっとその筈。

 自身の内で生じた呟きに引き摺られ、唯依は小さく頷く。

「……ああ、その通りだ。
 何とかならないだろうか?」

 与えられた理由に沿って懇願する少女に対し、女医は少しだけ考えるフリをしてみせる。

「う〜ん、でもねぇ。
 一応、艦長のアル君がダメ出ししている以上、軍医でしかない私じゃ口出し出来ないわ」
「……ぁ……」

 返されたのはオブラートに包まれた否定の一言。
 落胆に染まる少女の表情を存分に堪能しつつ、意地悪な女医殿は、希望の糸を垂らしてみせる。

「……だから、貴女の望みを叶えるには、アル君の首を縦に振らすしかないのよ」
「しかし、代償が……」

 結局、元へと戻った話に唯依の落胆が深くなる。
 正攻法で出来るなら、当の昔にやっていると叫びたくなるが、全身を蝕む無力感に、それを為す元気すら出て来なかった。

 そんな無気力少女と化した唯依に向けていたサーヤの美貌に、魔女めいた笑みが浮かぶ。

「あら、有るじゃない?
 こ〜んな立派なモノが!」
「#★◎☆@@ッ!?」

 ギュムッともムニュッとも定かではない『ナニ』かを絞り上げる音と共に、唯依の喉から奇声ですらない奇音が迸った。
 突然、胸に走った激痛に、思わず胸元を見た唯依は、そのまま数瞬フリーズする。

 借り物の軍服を、これでもかとばかりに押し上げていた豊満な双丘が、唐突に添えられた女医の両手に握り締められ、そのままグニュグニュと粘土細工のように捏ね回されていた。
 どこか怨念めいた表情で、美少女の胸を持て遊ぶ美女の手の平の内で、加えられる力のままにボリュームのある柔肉が、フニュリ、グニュリと淫靡に形を変える。

「な、ナニをするっ!?
 私には、そんな趣味は無いぞ」

 絶叫と共に、サーヤの手を振り払い思わず飛びのく唯依。
 羞恥の余り、真っ赤に染まったままの顔で、不埒な真似を仕出かした女医を、きつく睨みつける。

 戦況の悪化と共に、性の乱れが囁かれる昨今。
 そういった趣味の持ち主の噂も、チラホラと耳にする事もあるが、絶望的な戦局の中、一時の安らぎを求めてと思えば、互いの合意がある限り、見て見ぬフリぐらいは出来るつもりでもいた。

 とはいえ、自身がそういった対象に見られるのは心外極まりない。
 この先いかなる時代となろうと、この身を許すのは契りを交わした夫のみ。

 そう堅苦しいまでの貞操観念の下、固く誓っていた唯依にとって、この女医の行為は許し難い罪業でしかなかった。
 もし愛刀が、この場に有れば、問答無用で一刀両断していただろう。

 それ程の怒りと共に、サーヤへと敵意を叩き付けた唯依だったが、睨みつけた瞬間、こんどは呆ける様に、その動きが止まった。

 睨みつけたその先には、唯依の怒りなど歯牙にも掛けず、というよりもまるで眼中に無い様子で、ブツブツと何事かを呟く女医が居たからである。

 ドス黒いオーラを撒き散らしつつ、先ほど狼藉を働いたばかりの両手の平を、ワキワキと握り締めては開き、開いては握り締めを繰り返すサーヤ。
 その艶めかしい唇からは、呪詛にも似た響きを持つ呟きが、陰々と零れ落ちていく。

 ――大きさ、形、張り、触り心地までも極上品。
 ――嗚呼、嫉ましい、呪わしい、巨乳など皆滅んでしまえ。

 唯依の頬を、温く粘つく汗が伝った。
 思わず動いた視線が、サーヤの胸へと注がれる。

 『ただ一点を除き見た目だけは完璧な美女』――それは賞賛であり、同時に、辛辣過ぎる程的確な批評でもあったのだ。

 注ぐ視線に、思わず憐れみの念が混じる。
 その瞬間、弾かれた様に上げられた双眸が、唯依の心臓を射抜いた。

「ひっ!」

 勇猛果敢な斯衛の女衛士が、か弱い小娘の様な悲鳴を漏らし、思わず動いた両腕が胸を庇う様に重ねられる。
 たわわに実った膨らみが、抱き締める腕の圧力に負け、零れ落ちんばかりに膨れ上がった。
 サーヤの瞳に、一瞬だけ殺意めいた色が浮かび、そして消える。
 そのまま一つ息をつき、体内に巣食った黒めの空気を吐き出した美女は、にこやかな笑みを浮かべると、トンでもないアイディアを少女に吹き込んでのけた。

「ああ、だから代償よ」

 ごくごく普通の口調。
 軽い挨拶でも交わすかの様な風情で語りながら、ツイッと上げられた指先が唯依を指した。

「貴女は女」

 再び動く白い指先。
 先ほど青年が出て行ったドアへ向けた処で、その動きが止まる。

「で、アル君は男……分かるでしょう?」

 紫の双眸が、一度だけ瞬きする。
 言われた事が理解出来なかったのだ。
 いや、正確には理解が追いつかなかったと言うべきか。

 その証拠に、次の瞬間、唯依の美貌が真っ赤に染まった。
 首筋から耳翼の先まで、朱一色で染め上げた美少女は、まるで酸素不足の金魚の様にパクパクと口を動かす事しかできない。

 サーヤの口元が、赤く染まった耳元へと寄せられた。

「明日の朝まで待ってあげる。
 それまでに、どうするか決めて行動しなさい」

 甘く苦い言葉の毒が、唯依の耳へと注がれた。

 ――選べ、と。

 毒でもあり、薬でもあるソレが、唯依の鼓動を鎮める。
 ゆっくりと赤みが引いていく唯依の顔を確かめたサーヤは、軽くウィンク一つ残すと彼女に背を向けた。

 そのまま呆れながら様子を伺っていたケイの腕を掴み去っていく。
 白衣と軍服の後姿を呑み込んだドアを、しばし凝視していた唯依は、一度だけ瞑目すると深く深く息をした。

 胸中に残る動揺と戸惑い。
 それら全てを、呼気と共に吐き出した少女は、スッと目を開く。

 透き通る様な紫の瞳には、強い決意の色が浮かんでいた。





■□■□■□■□■□





 ――さて、これで何杯目か?

 そんな事を漫然と考えつつ、青年は空になったグラスにワインを注ぐ。

 代謝機能も常人の比ではない太祖の恩寵篤き者(ハイランダー)は、多少の酒では酔わぬとはいえ流石に飲み過ぎたらしい。
 卓の横を見れば、既に空になったボトルが、二ダースほど転がっていた。

 ふぅ…っと酒精に満ちた溜息が零れる。

「……女の涙は、嫌いなのだがな」

 投げ付けられた言葉の刃に、唇を噛み締めて耐える少女の顔が脳裏に浮かぶ。
 後悔の念が、彼の胸中を過ぎった。

 青年は、左手でペンダントを転がしつつ、右手に持ったグラスを一気に呷る。

 ――もう少し、言い様を考えてやるべきだったか?
 ――或いは、実害の無い程度の技術なら、分けてやっても良かったのでは?

 そんな思いが、アルコール漬けとなった脳内をグルグルと回っていく。

 指揮官の判断としては、間違っていない筈だった。
 無用な戦に巻き込まれ、消耗している余裕も時間も、今の自分等には存在しない。

 何としても、帰らねばならないのだ。
 誓いを果たす為にも、そして帝国を救う為にも。

『それを考えれば、アレは当然の対応なのだ』

 そう胸中で一人強弁するが、胸の奥でジクジクと疼く痛みは消えなかった。

 苛立たしげに伸ばされた手が、最後のボトルを掴む。
 無造作に封を切りかけたところで、その手が止まった。
 来客を告げるウィンドウが、中空に浮かび上がる。

 酔眼が、不審げに細められた。
 壁の時計に眼をやれば、もうすぐ日付が替わろうとしている。

 訪ねて来る者など二人しかいない艦内。
 いかに親しい間柄とはいえ、少々非礼ではと思いつつも、一方でどこかホッとしている自身にアルトリウスは気付いた。

 正直、愚痴なり弱気なりを、吐き出したい気分だったのだ。
 或いは、そんな自身の心情を、慮ってくれたのかもしれない。

 そうやって青年は、幼馴染への感謝の念を新たにしつつ、居室のドアを開いて来客を招き入れかけ、その場でピキリと固まった。

 空気が重く固くなる。
 身動ぎするにも苦労しそうな雰囲気の中、ぎこちない笑みを浮かべた少女――篁 唯依は、恐る恐るといった風情で口を開いた。

「あ……その……中に入っても良いだろうか?」

 口調が堅い。
 声の語尾が微かに震えていた。

 それが青年の硬直を緩める。

「ああ……構わない」

 そう答えるだけで精一杯の彼の前で、唯依がホッとした仕草を見せる。
 一瞬、浮かんだ淡い笑みが、アルトリウスを別の意味で硬直させた。

「済まない。
 ……失礼する」

 律儀にそう断ってから人型の像の前を、空色の人影が通り抜けて行く。
 巻き起こる微風に、ソープの香りと少女の匂いが入り混じり、青年の鼻腔をくすぐった。

 数歩入った処で、唯依が立ち止まる。
 どこか心細げな眼差しが、アルトリウスを惹き付けた。

 釣られる様に後に続く部屋の主に、一瞬、困ったように首を傾げた唯依であったが、自身の内で折り合いを付けたのか、そのまま部屋の奥へと進む。
 静々と進むその歩みが、とある場所にて不意に止まった。
 何事かと、肩越しに覗き込んだ青年の顔色が、微妙に悪くなる。

 ややキツめの眼差しが、散乱する空いた酒瓶を睨んでいた。
 振り返った唯依が、咎めるように青年を見る。
 アルトリウスの目線が、あらぬ方へと泳いだ。
 暫し、非難の眼差しで見上げていた唯依も、やがて諦めた様に肩の力を抜く。

 やや温度の下がった美声が、それでも心地よく青年の耳翼をくすぐった。

「取り合えず、座っても良いだろうか?」
「ん……ああ、そちらへ頼む」

 軽く頭を振り、酒精を飛ばしていた青年が、自身が先ほどまで座っていた椅子の向かいを指す。

「……失礼する」

 促されるままに椅子に腰を下ろす唯依。
 それと向かい合う形で、アルトリウスも先ほどまでの場所へと戻った。

 真正面から相対する形となった両者の間で、しばし会話が途切れる。
 少女は何処か緊張の色を宿し、青年は、そんな彼女を訝しげに見るだけだ。

 とはいえ、注視する事も憚られるのか、チラリチラリと見る程度だが。

 何せ唯依は、昼間の軍服姿では無かったのである。
 どうにも締まりの付かないファーストコンタクト、その際に纏っていた空色の浴衣に着替えていたのだ。
 薄手の布が、少女の肢体に纏いつき、柔らかな女の曲線を描き出しているのが、手に取る様に分かる。
 アルコールで理性が麻痺しかかっている今の自分には、少々刺激が強すぎると思いながら、わずかに視線を逸らしていた彼に、何かを決意した眼差しで唯依が話し掛けて来る。

「夜分遅くに申し訳ない。
 非礼とは思ったが、もう私には時間が無かった」

 どこか堅苦しい軍人口調で話す少女。
 見た目と語調のギャップに、わずかに頬緩めた青年は、軽く手を振って謝罪を受け入れた。

「構わない。
 どうせ後は寝るだけだ」

 そう告げると、目に見えて安堵する唯依に、今度はアルトリウスから話しかける。

「まだ記憶は消されていないようだが?」

 サーヤの奴が、何か企んだのかと思いつつ尋ねる。
 この予想は完全に正しかったのだが、企み自体が、完全に彼の予想を越えていた事は、この時点での青年の思惑の埒外だった。

 ――後で、こってり絞ってやろう。

 そう秘かに心に誓う彼の面前で、白い喉がヒクリと震えた。

「ん?」

 不意に生じたピリピリとする様な緊張が、彼にも伝わってきた。
 思わず眉を潜めた青年は、発生源である少女を注視する。
 空色の浴衣に包まれた少女の肢体が、小刻みに震えていた。
 これから自分が為す事に対し、世慣れぬ処女らしい怯えと躊躇いを抱きながら、それでも意志の力でソレ等を抑え込んだ唯依は、ゆっくりと俯いていた面を上げる。
 緊張の余り血の気を失った唇が、震える様に動き出した。

「……代償を支払う。
 だから……だから、力を貸してくれ!」

 心の内に渦巻く有りっ丈の思いと共に唯依が叫ぶ。
 思いも寄らぬ彼女の言葉に、アルトリウスの思考も一瞬停止する中、反射にも近い反応で青年の喉が言葉を発した。

「代償…って……」

 唯依の瞳に戸惑いと怯え、そして羞恥の色が過ぎる。
 それら全てを押し隠す様に瞼を閉じた少女は、そのままスッと立ち上がった。

 光度が落とされた照明の中、淡い空色の浴衣が白く朧に光る。
 月光の下、凛然と咲く一輪の白百合のイメージが、青年の脳裏に浮かんだ。
 静かに開かれた紫の瞳が、彼の視線と交差し、それを絡め取る。

 そのまま静々とした歩調で卓を回り、少女が自身の傍らに立つまで、青年はその姿を魅入られた様に見つめる事しかできなかった。

「……代償を払う。
 だからこそ、異界の御方、どうか我等に助力を」

 祈りにも似た唯依の言葉が、アルトリウスの胸を刺す。
 真摯であり、必死でもあるそれは、彼自身が抱く願いと何ら変わる事は無かった。

 ――コレを自身の都合だけで、切り捨てようとしたのか?

 琥珀の瞳に、痛みにも似た色が浮かんだ。

 反射的に零れ落ちかけた制止の声。
 だが、それが音になる事はなかった。

 ささやかな衣擦れの音と共に、空色の布が滑り落ちる。
 淡い光の中、一糸纏わぬ白い裸身が露になり、彼の動きの全てを止めた。

 軍人とは到底思えぬほっそりとした肩が露になり、その直ぐ下では、まろやかな双丘が重たげにフルフルと震えていた。
 細く括れた腰から、悩ましく豊かなラインが産まれ、それが足元へと向かうほどに細く引き締まっていく奇蹟の様な造形美。
 羞恥の紅が白い肌を犯し、たおやかな乙女の肢体を薄い薔薇色で染め上げいく。

 清楚と淫靡、可憐と蟲惑――相反する要素を、矛盾と共に内包した極上の美姫が、熱に浮かされつつも、これだけは変わらぬ真摯な眼差しで彼を見た。

「この身も、この心も、全て。
 私が支払える全てを、代価として捧げましょう。 だから……」

 謳う様に、祈る様に、願う様に、少女が告げる。
 白く柔らかな裸身が、ふわりと青年の上に重なった。
 重ねられた肌の熱さが、薄い部屋着越しに伝わってくる。

「この世界を……救って下さい……」

 甘く熱く蕩けるような、それでいて何処か悲しげな声が、彼の耳朶に注ぎ込まれた。
 呼応する様に熱さを増す血潮と、急激に激しさを増す鼓動に青年は思わず狼狽する。

『ま、まずい』

 アルトリウスの脳裏で、切羽詰った呻きが上がった。
 白い蛇の様に絡みつく乙女の裸身が、彼の自由を奪い、その精神を侵していく。

『くっ……女を知らぬ童貞(ガキ)でもあるまいにっ!』

 この程度の誘惑に屈しようとしている自身の不甲斐なさに、わずかに残った青年の理性が呆れ果てる。

 上が乱れ狂っているのだ。
 帝国の風紀、ことに性に関するソレは年々悪化の一途を辿っており、火遊びに溺れた貴婦人や令嬢の誘惑を受けた経験など、数えるのも馬鹿馬鹿しい数に上る。
 中には彼の失脚を狙い、或いは将来の后妃の座を求めて、ハニートラップ紛いの真似をした者も居た。
 だが、それらの者達が、青年の褥に侍った事など一度も無い。
 利を求め、欲に溺れ、或いは、悪意を持って近づく女など、彼にして見れば嫌悪の対象でしかなかったのだ。

 若さゆえの欲望、戦における昂揚、それらは全て家令であるエクトルがお膳立てした王侯貴族専門の高級娼婦で発散し、宮廷に咲き乱れる花々には食指を動かした事など一度も無い。
 彼にとっては、人としての欲すらも、コントロールすべきものであり、コントロール出来るものであった筈なのだ。

 そんなアルトリウスが、今、かつて無い程の動揺と揺らぎを覚え、自身の感情をまるで制御出来ない事に戸惑っている。

 目の前の少女のやろうとしている事は、愚かと嗤ってきた淑女らと大差ない筈なのに、それを鼻先でせせら嗤ってやる事が出来なかった。
 たかが身体を許す程度で、己を利用しようなどという輩は、不敬と断じて切り捨てて来た筈の自分が、どうしようも無いほどの乾きと共に、目の前の柔らかな肉に喰らい付きたくて仕方が無い。

 ただ無私である事。
 たったそれだけの違い。
 ただそれだけの差が、彼を彼女へと惹き付けていた。

 薄明かりの中、微かに光る黒髪と透き通った紫の瞳が、記憶の中の面影と重なり、青年の庇護欲を大いに刺激する。

 これに上乗せして更に拙い事には、多量のアルコール摂取により、理性の大半が麻痺している事だ。
 抗おうというわずかな意思が、ガリガリと削られていくのを、はっきりと感じる最中、彼の上で身じろぐ様に唯依が動く。

 サラリと揺れた癖の無い黒髪から立ち上る甘く爽やかな乙女の匂い。
 それが、青年の理性に止めを刺した。

「―――っ!」

 判別不能な呻きと共に垂らされていた両腕が、薄明かりの中、淡く光る唯依の裸身を抱き締めた。
 甘い果肉がタップリと詰まった双子の果実が、彼の胸板の上でグニュッと潰れる。
 豹変した青年の動きに、吐息に紛れた微かな悲鳴が漏れたが、抱き締める腕の力は緩むどころか更に力を増すだけだ。

 青年は、わずかに汗ばむ滑らかな肌の張りと感触を両手の平で堪能し、同時に伝わるその熱さに酔い痴れていく。
 対して彼の肩へと載せられた少女の美貌に、安堵と羞恥、そして諦観の入り混じった複雑な表情が滲んで消えるが、死角であり、何より脳が煮えかけた青年には気付く余裕も無かった。
 そのまま絡み合う二人の身体が、ゆっくりと椅子から床へと滑り落ちて行く。

 フワリと広がる濡れた烏色の乱れ髪が、床の上に黒い敷物の様に広がった。
 その中心、まるで捧げられた供物の様に全てを受け入れた表情で、ただ静かに瞑目したまま唯依は、その時を待つ。

 抗う事も、拒む事も無く、自身が誓った通り、全てを差し出す為に――
 ――ただその為だけに唯依は、零れそうになる悲鳴を噛み殺し、無意識の拒絶に強張りかける身体から必死で力を抜き続けた。

 生来の生真面目な気質と厳格な教育により培われた強固な貞操観念を持つ少女にとって、殆ど何も知らぬ相手に、己の身を売り渡すに等しいこの行いは、難行苦行以外の何物でも無い。
 ましてや自ら進んで肌をさらし、娼婦の如くその身を摺り寄せ男を誘うなど、ホンの一日前の自分なら、夢想しただけで憤死しかねない淫らな所業だ。
 今、この瞬間の出来事は、男の手すら握った事も無かった初心な少女にしてみれば、悪夢と言う以外に形容のしようもない。

 もし――もし許されるなら、操を奪われるその前に、舌を噛み切って死んでしまいたかった。

 それ程までの苦渋と恥辱。
 だがそれは、決して許されない選択でもあった。

 全ては、皇帝陛下の為、将軍殿下の為、そして何より今この瞬間も、BETAに脅かされ続けている無辜の民草の為。

 たかが己の純潔一つで、それら全てを救えるというなら、天秤に掛ける事すら愚かしい―――

 そう自身に言い聞かせながら、少女はきつく眼を瞑り、自身を蹂躙する嵐の襲来に備える。

 抗う事は出来ない。
 拒む事も出来ない。
 逃げ出すなど論外。

 むしろ自分の方から動くべき、いや、動かねばならなかったのだが、それは到底望むべくも無かった。
 無論、この期に及んで、何かを躊躇うつもりなどない。
 どれほど淫らがましい行為であれ、口にするのも憚られる破廉恥な要求であれ、従容と受け入れる覚悟は、当の昔に出来ていた。
 だが、如何に覚悟が整っていようとも、それを為す知識や技能が無ければ何も出来はしないという事を、事ここに至って唯依は痛感する。

『ああ……こんな事なら、雨宮の猥談を咎めず、キチンと聞いておけば良かった』

 羞恥と恐怖を燃料に半ば煮え立った意識の中で、彼女にとって唯一無二といって良いその手の情報源を思い浮かべながら、唯依は内心で臍を噛む。

『娼婦ですら嫌がるような恥辱に満ちた行為であれ、今の自分なら出来る、いや、やらねばならないというのに……』

 知らない事が出来る筈もなかった。
 それどころか、下手な真似をして相手の不興を買うなど愚かしいだけである。

 そうなってしまえば、世慣れぬ少女に出来る事など、もはや殆ど無かった。
 ただただ、相手の言うがまま、望むがままに、その身を差し出し、一方的に蹂躙され、男の欲望を受け止める事しか出来ない。

 そんな自身の無様さと惨めさを噛み締めながら、それでも必死で己を押し殺し続ける中、唯依は不意に違和感を感じた。

『……?』

 至近に感じられる吐息。
 肌に感じる他人の重み。

 それらは、一瞬前と何も変わらない。
 変わらない筈なのに、何かが変わったような気がした。

 眼を開くべきか否か。
 逡巡し掛けた少女の肢体が、前触れもなく持ち上げられた。

『――ッ!?』

 思わず迸りかけた悲鳴を、唯依は必死で押し殺す。
 意思の制御を超えて強張り、或いは反射的に抗おうとする四肢を、身体を、必死で抑えながら、混乱し切った少女は、それでも目を瞑り続けた。

 開いたが最後、もう我慢できなくなる事が判っていたから……
 自身を押さえ込む最後の壁が、その瞬間、崩れ落ちると悟っていた唯依は、『見えない』という恐怖を噛み殺しながら必死に耐え続ける。

 そして、そんな彼女の苦行は、始まりと同じく唐突に終わりを告げた。

 自身を軽々と抱えていた力強い感触が不意に失せ、同時に数瞬の浮揚感に襲われた少女は、そのままポスンと柔らかいモノの上に落下する。
 落ちた瞬間の感触と落ちた後の触感、それらが今、自身が置かれた場所が何処であるかを、唯依に悟らせた。

『これは……ベッドか?』

 上質のベッドに敷かれた肌触りの良い高級なシーツ。
 一矢纏わぬ己の裸身が、そこに無造作に放り出されたと知った少女は、一の安堵と三の羞恥そして六の自嘲が、複雑に入り混じった想いと共に胸中で呟く。

『……まあ……床の上よりはマシか』

 大事に守り抜いてきた己の純潔を、獣の如く床の上で喰い散らかされるよりは、せめて人間らしく褥の中で奪われる方がまだマシ。
 そんな投げやりな気分になりかけながらも、今度こそ襲い来るであろうモノを受け止めるべく、白く柔らかな肢体から力を抜きかけた彼女の上に、いきなりナニかが覆い被さって来た。

「――ッ!?」

 今度は耐え切れなかった。
 微かに血の気が退いた唇から小さな悲鳴が迸る。
 堪え切れなくなり、思わず開かれた乙女の瞳に映ったのは――

「……毛布?」

 ――だった。

 ベッドやシーツに位負けしないであろう程度に上等な毛布が、女らしい曲線美を誇っていた自身の裸身を覆い隠している光景に、唯依は思わず唖然として固まる。

 何がどうなったのかが判らない。
 どうしてこう為ったかが理解できない。

 混乱と狼狽と困惑。
 頭の全てを、それらに占められグチャグチャになった思考の中、唯依の耳に呆れた様な声が届いた。

「阿呆」
「なっ!?」

 弾かれた様に動く視線。
 声の主へと向けられたソレに、別の毛布を小脇に抱えた黒髪の青年が映る。
 どこか憮然とした様子で自身を見るその眼は、冷ややかでありながらも、どこか愁いを秘めていた。
 そこに篭められた感情に、思わず気圧された少女は、わずかに目線を逸らして俯く。

 何故か、頬が赤く熱くなった。
 先ほどとは異なる類の羞恥を感じ、俯く彼女の耳朶を咎める声が叩く。

「堪えきれずに泣きたくなるほど嫌なら、初めからするな」
「――っ?」

 ハッとして頬に添えられた掌が、汗とは異なる湿り気の名残を感じ取る。
 堪えに堪えた筈の涙が、自身の意思を裏切って、一筋だけ流れた事を唯依はようやく知った。
 そして同時に、それが青年を翻意させた事をも少女は悟る。

 対して、一つ溜息を吐いたアルトリウスは、鋭い眼差しを少女へと向けた。

「軍人などやっている以上、綺麗事を言う気はない。
 だが、涙を流して嫌がる女に手を出す程、腐った覚えもない」

 告げる言葉に、口調に、非難と憤りが滲むが、それはある意味仕方ない事。
 少なくとも、彼――アルトリウス・ペンドラゴンの生い立ちを知る者なら、確実に同意する筈だ。

 ――嫌がる女を、力ずくで蹂躙する。

 青年にとって、ソレは、もはや禁忌に近い。

 涙に濡れた白い頬。
 遠い記憶に残る面影と、眼前の少女の美貌が重なった瞬間、彼の脳を煮融かしていた劣情と熱情が、いともアッサリと消え失せた程だ。

 だがそれは、あくまでも彼の側の事情。
 それを知らぬ唯依にしてみれば、何故、これ程までに強烈に非難されるのかすら判る筈もなかった。

 何より――

「……か…な事…い……」

 ――思いが溢れる。 言葉となって。

「ん?」

 囁きにも似た少女の声に、眉をひそめた青年を、見上げる少女の眼差しが射抜いた。
 紫の双眸のその奥では、溶鉱炉の中で煮え滾る鋼を想起させる灼熱の怒りが渦巻いている。
 その豊かな胸を突き破らんばかりの憤怒と共に、唯依は心の底から迸る魂の叫びを上げた。

「勝手な事を言うなと言った!
 私が望んであんな真似をしたとでも言いたいのか!?
 あんな……あんな……娼婦のような破廉恥な真似を、誰が好き好んでするものかっ!!」

 憤怒と羞恥に震える声が、寝室内に木霊した。

 幼き日より架して来た精神修養の成果も、今の少女の猛りを抑え切る事は出来ない。
 激情のまま、溜め込んでいたモノ全てを吐き出した唯依の美貌が、そのままクシャリと歪んだ。
 悔しさと惨めさに涙が滲む。

「誰が、だれが……あんな真似を……」

 全ては護るべき者達の為。
 その想いだけを支えに、必死で堪え続けていた筈の涙が、堰を切った様にポロポロと零れ落ちていく。

「……わた…しが……何の……た……」

 何もかもが無駄になった。
 これまでの全てが、苦悩が、忍耐が、苦渋が、恥辱が――それら全てが、意味を無くしてしまった事を少女は悲嘆する。

 悔しくて、辛くて、悲しくて。
 そして何より、救える筈だったモノ全てを、その手の平から零してしまった自身が情けなく惨め過ぎた。

 最愛の父を亡くした日から、篁家当主として必死に形作ってきた鎧が脆くも崩れ落ち、後には剥き出しとなった少女の姿が露呈する。

「……とうさま……父さまぁ……」

 心身共に全てを剥ぎ取られ、生まれたままの姿となった唯依は、最後に縋る者の名を呟きながら、ただひたすらに涙を流す。

 救いを求めながら、許しを請いながら……

 紫の双眸から、止め処なく涙が溢れ続ける。
 弱く無力であった幼き日の様に。

 だが昔日の時の様に、その涙を拭ってくれる者は居ない。
 ……居ない筈だった。

「――っ?」

 無骨な手が白い頬撫でる。
 溢れ続けていた涙を、その指先が拭いとった。

 少女の瞳が大きく見開かれる中、広がる視界に映る光の加減で金色に見える双眸が、深々と彼女の中のナニかを射抜く。
 鼓動が微かに高まり、呼吸がわずかに早まった。

「代償を受け取ろう。 異界の娘よ」

 信じられぬモノを見た表情のまま、思考を止めた唯依の耳朶を、侵し難い威厳を孕んだ王者の声が震わせる。

「これは契約。
 その身、その心、それら全てを対価に、我はそなたの力となろう」

 頬撫でていた手が、形良い曲線を描く唯依の頤を捕らえる。
 未だ誰も触れた事の無かった乙女の唇に、青年のソレが重なった。

「――っ!?」

 思わず零れかけた悲鳴。
 その間隙を縫う様に、白い歯列の防壁をすり抜けた青年の舌先が、悲鳴もろとも唯依のソレを絡め取り蹂躙する。

「――っ? ――ッ!」

 重ねられた唇の隙間から、微かな音が漏れる。
 惑乱と狼狽の極みに達した少女は、先ほどまでの決意も忘れ、無意識に不埒な侵略者を押し返そうとした。
 だが逞しい両腕に、重ねられた毛布ごと囚われた優美な裸身は、身じろぐ事すら出来ず、必死に外そうとする顔も、大きな手の平に押さえられビクリとも動かせない。

「――ッっ!? ――っっ!!」

 切羽詰った声が、乙女の口腔を侵略し、征服する舌先に切り裂かれ霧散する。
 余りにも荒々しく、猛々しく、それでいて巧みな舌使いに翻弄され、唯依の意識は朦朧とし始めた。
 絡め取られていた舌が、いつしかオズオズと絡まり返し、重なる唇の間から漏れる吐息が甘く熱く蕩けていく。

「……ふ…ぅ……ん……」

 合わせられた口の端から、一筋の雫が零れ落ちた。
 それを切っ掛けに、青年の唇が外される。
 未だ絡み合っていた互いの舌が、ゆっくりと解れ離れていく中、名残を惜しむ様に繋がった一筋の透明な糸が途切れた。

 混乱と熱情に、とろりと潤んだ女の瞳が、同じく熱情を浮かべながらも怜悧さを失わぬ男の眼を見る。

 何かを求める様に。
 何かを確かめる様に。
 何かを願う様に。

 見上げる紫の双眸に宿るモノに、穏やかさと力強さを感じさせる声が応える。

「契約は成された。
 そなたは我のモノ、故に、我が力はそなたのモノ」

 唯依の身体から、ふっと力が抜けた。
 安堵の吐息が、紅潮し切った喉奥より漏れる。

 うまれて初めて交わした口づけ。
 その深さと激しさに完全に呑まれてしまった少女は、青年の腕が離れるやいなや、そのままぐったりとベッドに崩れ落ちた。

 荒い呼吸の中、全身を羞恥の色で染め上げ、激しく喘ぐ唯依。
 体奥で燻る熱に朦朧とする意識の中、不思議なほど明瞭なアルトリウスの声が響く。

「今夜はここで休むが良い。
 詳細は、朝になってから改めて話そう」

 労わりに満ちた声に導かれ、熱く重い肢体を唯依は必死に持ち上げた。
 ノロノロと半身を上げた少女の視界の先、リビングへと通ずるであろうドアを抜ける後ろ姿だけが、何故か彼女の意識の中に切り取った様に残る。
 次の瞬間、心身ともに消耗し切った唯依の意識は、そのままプツリと途切れ堕ちた。





■□■□■□■□■□





「まったく……なんであんな事を吹き込んだ?」

 常夜灯へと切り替えられた室内に、不機嫌そうな男の声が響いた。
 向けられた先は己の隣、同じベッドを共有する婚約者に、甘さの欠片も無い声で問い質す。

 薄闇の中、菫色の瞳が微かに細まった。

「あんな事?
 ああ、身体で篭絡しちゃえってやつ」

 何処かとぼけた声で返された答え。
 微妙に論点を逸らしたソレに、青年――ケイ・トウゴウの眼光がわずかに険しさを増した。
 幾つになっても悪戯好きな恋人の困った癖に顔を顰めつつ、窘める口調で彼の考えを告げる。

「そうだ。下手な反感や疑念、或いは敵意などは持たれたくない。
 ……不本意ではあるが、現状、帰還の目処が立たない以上、この地における協力者は必要だ」

 感情を排した理性的な判断。
 無駄に諍いを起こすよりも、適当に友好関係を結んで利用するべきと説くケイの眼に、ふくれっ面して不満を露にする恋人――サーヤ・カタギリが映った。

 反射的に漏れかかった舌打ちを噛み殺したケイの耳に、涼やかでありながら、どこか稚気を含んだ女の声が届く。

「ふぅ〜ん……ケイは、あの娘が適任だと?」
「少なくとも誠実ではありそうだった。
 それに『武家』だったか?
 貴族とは少し異なる様だが、社会的地位が高いのも悪くない」

 どこか試す様な物言いに、ムッとした表情を浮かべつつも、青年は自身の判断理由を口にする。

 短い間ではあるが、話した限りの印象、受け応え、そこから読み取れる堅苦しい程に生真面目な性格などを鑑みても、『篁 唯依』という名の少女は、現地協力者としては優良物件だ。
 あの性格からして、こちらを裏切る事は無い――等という甘い予測を立てている訳ではない。
 重要なのは、裏切るかどうかではなく、裏切る前にそれをキャッチ出来るかだ。
 そういう意味では、あの手のタイプは非常に読み易く、だからこそ現地協力者としては適任とも言える。

 そんな恋人の思わぬ高評価(?)に、菫色の瞳をした美女は面白そうに笑い声を上げた。

「あらら〜毒舌家のケイがねぇ。
 珍しいと言うべきかしら?」

 ――根性悪で、陰険で、相手のプライドを言葉の刃で切り裂くのが大好きな変質者等々

 言いたい放題の物言いに、ケイの青い瞳が白目に近くなる。

「茶化すな」

 鋭く短い一声に、強い怒りが篭められた。
 以前なら、その一言で顔を青くする者が続出したであろう『毒舌家』の叱咤である。
 だがそれを、アッサリと聞き流したサーヤは、軽い含み笑いと共に、今度は彼女の考えを告げた。

「う〜ん……でも大丈夫よ。
 アル君なら悪いようにはしないでしょ?」

 色々あって少し悪ぶってるけど、本当はとても優しい子だから――と言い添えて嫣然と笑う。

 弟を慈しむ姉の顔で笑う恋人の姿に、ケイの顔には渋い表情が浮かんだ。
 何処か苦く、そして何処か遠くに想いを馳せる表情のまま、青年は溜息混じりに吐き捨てる。

「そんな事は分かっている。
 私が気にしているのは別の事だ」
「……何となく似てるわよねぇ」

 打てば響く様に応ずる声。
 男と女の間に、沈黙の帳が落ちた。

 誰にとは言わない。
 誰にとも問わない。

 両者の脳裏には、既に喪われた儚げな佳人の面影が浮かんでいた。

 彼らにとっての大事な主君にして、可愛い弟分でもあるアルの母上。
 今は亡きその人と、あの篁 唯依という少女を、そっと脳裏で並べてみる。

 漆黒の髪、紫の瞳は同じ色だが、顔立ちそのものはさほど似ている訳でもなかった。
 どちらかと言えば、息子のアルの方が良く似ていると言えただろう。
 だが、細かいパーツの違いではなく全体としての印象が、どこか相似形を描いているのを、双方を知る者達には理解できた。

 そしてそれは、アルにしても同じ筈。
 だからこそ、ケイは懸念する。

「我等は所詮、異邦人(エトランゼ)
 殿下には、妙なしがらみを持って欲しくはないのだ」

 ギブ・アンド・テイクだけの関係では、収まらなくなってしまう事を青年は危惧していた。
 だが、そんな恋人の老婆心を、サーヤはコロコロと笑い飛ばす。

「相変わらず心配性ね。
 貴方が気を揉んだところで、どうしようもないでしょ?」
「そんな事は無い!」

 どこか揶揄する色の濃い物言いに、思わずムッとして言い返すが、それをすら包み込む様にサーヤが妖しく笑った。

「既に、二人は出会ってしまった。
 少なくともアル君は、表面上はともかく、本心ではあの娘を無視出来ないわ」
「うっ……」

 もう手遅れだと告げる恋人に、ケイが思わず鼻白む。
 それは彼自身が、どこかで理解していた事だった。

 ――会わせなければ良かったか?
 ――それとも助けず見捨てておけば?

 等々、此処に到るを回避する術を考えて、青年は延々と煩悶する。

 対して、そんなケイの姿を面白そうに観察していたサーヤであったが、やがてそれにも飽きたのか、ふと何処か遠くを見るような眼差しで静かに呟いた。

「そう……出会ってしまった。
 なら後は、なるようにしかならないわ」

 どこか予言めいたその呟きに、ハッと我に返った青年が隠しようの無い渋面を浮かべる。
 そんな恋人の姿に、サーヤは今一度だけ、軽やかな笑い声を上げた。





■□■□■□■□■□





 薄明かりの中、微かに軋む音と共に、一つの影が現れた。

 ソロリソロリと足音を殺して進む白い人影。
 踏み出す毎に、微かに揺れて纏いつく白い布が、その歩みを遅々とした物とさせていたが、それにめげる事無く影は進み、やがてとある場所で止まった。

「有った……」

 安堵と共に、可憐な少女の声が零れ落ちた。
 刹那、自身の声を押さえる様に、白い手の平が自身の唇に重ねられる。

 思わず息を殺し、周囲を伺う少女。
 特にその意識の大半は、今の彼女の位置から二メートルほど離れたソファの上、そこに転がっている毛布製の蓑虫へと集中していた。
 薄闇の中、微かに聞こえる規則的な寝息。
 そこに乱れも、演技も感じ取れない事を確認した少女――篁 唯依は、豊かに実った胸をホッと撫で下ろした。

『さて、どうしたものか?』

 言葉には出さず自問する唯依。
 その澄んだ紫の瞳は、足元の床に散乱している布切れ――つい二時間前まで、自身が身に付けていた浴衣と帯を睨んでいた。

 柔らかな曲線を描く裸身を覆う巻きつけただけのシーツが、ずり落ちない様に気を配りながら、唯依は軽く考え込む。

 流石に裸のままというのは頂けなく、成り行き上、脱ぎ散らかす形となった浴衣を回収に来た彼女であったが、目的の物を見つけた時点で、少し困った事に気付いてしまった。
 ここまで来る為の仮初の衣装として、女らしい裸身にベッドから略奪したシーツを巻きつけてきたのだが、これが存外に厄介な選択だったのである。
 上質なシーツの布は肌に優しく滑らかで、引っ掛かるという事自体がないのだ。
 留める物も無く、ただ巻きつけただけのシーツは、ここまで来るだけのわずかな道中で、何度と無く解け、ずり落ちかけ、その都度、彼女を赤面させている。

『片手が塞がるのはマズイか……』

 白い頬が、渋面を形作り引き攣る。
 ベッドルームに戻るまでの間、何度ストリップ紛いの真似をする破目になるかを考えゲンナリとした少女は、不意に何かを思いついた顔になるや、今一度、チラリとソファを見た。

 変わる事無く、身動ぎもせず、ダラリと横になっている。
 微かに上下動する動きも、規則正しい物であることを確認した唯依は、片手で浴衣と帯を拾い上げると、覚悟を決めるべく深い息を吐いた。

 シーツを押さえていた手が外れるや、染み一つ無い白い布が、それに劣らず白く滑らかな肌の上を滑っていく。
 常夜灯の淡い光の中、白く輝く裸身が一瞬だけ覗き、次の瞬間、翻る空色の浴衣に隠されていた。

 そのまま帯を締め、ホッと安堵の表情を浮かべる唯依。
 極度の緊張から解き放たれ、ようやく人心地ついた少女の背を、微かな音が打った。

『――っ!?』

 迸りかけた悲鳴を、意思の力で噛み殺す。
 バクバクと高鳴る鼓動が、外にも聞こえるのではと疑いながら、ギシギシと擬音が付きそうな程ぎこちない動きで、少女は音源へと振り返った。

 掛けられていた筈の毛布が、半ば床に落ちているのを見た瞬間、心臓が喉から飛び出しそうな程、驚いた少女であったが、眠る青年の姿に目を覚ました様子が無い事に気付き、ホッと胸を撫で下ろす。
 恐らくは、身じろいだ時にでも落ちたのだろう毛布の端を持ち上げ、アルトリウスへと掛け直してやった唯依は、念の為とばかりに、もう一度だけ青年の様子を伺った。

 規則正しく動く胸と重なる寝息。
 精緻な彫刻の様に整った容貌は、どこかあどけなく穏やかな寝息を立てていた。
 先ほどの威厳も、猛々しさも、まるで嘘のような静けさ。

 ほんの少しだけ、ただ眠っている事を確認するだけだった筈の唯依は、いつしか惹き込まれる様に、静かに眠る青年の麗貌を見つめていた。

『私は……』

 少女の脳裏に思い浮かぶ記憶。
 短く、激しく、そして甘美な記憶。

 その身を抱き締めた力強い腕の感触が蘇り、白い頬を朱で染め上げる。

『だぁぁぁ!
 ナニを、何を考えている!』

 薄闇の中、真っ赤になった唯依は、自身の内に巣食ったソレを追い散らす様に頭を振った。

 濡羽烏の髪が、闇の中で踊る。
 微風が巻き起こり、舞い上がる風が、眼下で眠る青年の匂いを少女の鼻腔へと届けた。
 その瞬間、羞恥に悶える乙女の動きが、ピタリと静止する。

 力強く抱き締められた感触が、胸一杯に吸い込んだ男の匂いが、少女の記憶をより鮮明な物へと変えていった。

『……私は……』

 受け入れた事を、受け入れていた事を、唯依は自覚する。
 契約などではなく、取引などでもなく、ただ単純に……

『――っ!!』

 狼狽と羞恥が、少女の中で渦を巻く。
 辿り着きかけたソレを、唯依の理性が、常識が、義務感が、必死に否定した。

『わ、私は帝国斯衛にして、た、た、篁家当主!
 そのような、み、み、淫らな女ではない!』

 胸中で、そう己を断じ、そして否定する。

 ――全ては契約。
 ――全ては斯衛としての義務。
 ――全ては皇帝陛下の為、将軍殿下の為、そして無辜なる民草の為。

 そう胸中で、呪文の様に呟き続けながら、唯依は自身の心の平衡を取ろうと足掻く。

 だが、そんな少女の意思を裏切るモノが居た。
 無意識に動いた白い指先が、つややかな唇に当てられる。
 重ねられた感触に、濡れ光り淡く色づく朱唇から、熱く甘い吐息が零れ落ちた。

『……私は……一体……』

 ――これから、どうなるのか?

 言葉にすら成らぬ不安……そして■□。
 荒々しく刻まれる自身の鼓動を感じながら、自らの行く末を少女は想う。
 たおやかな乙女の肢体が、何事かを予感した様にブルリと震えた。





■□■□■□■□■□





 廃墟の瓦礫を噛み砕き、疾走していた軍用車が、ゆっくりと速度を落とす。
 やがて静止した車内から、一組の男女が降りて来た。
 年の頃は、凡そ親子ほども違うと思しき彼等は、共に帝国陸軍の制服にその身を包んでいる。

 降りて後、ひとしきり周囲を見回していた男は、ここが目的地である事を確信し、胸中を吹き抜ける隙間風を隠す様に、同行者へと声を掛けた。

「どうやらここで間違い無い様だ。
 いくつか見覚えのある建物も残っている」
「……そうですか」

 ――建物?
 ――瓦礫の山の間違いでは。

 そう喉元までせり上がってきた悪罵を、苦い表情で噛み殺し、言葉少なく答えた女――いや、少女の姿に、男――巌谷 榮二は自嘲の笑みを浮かべる。

 なんの事は無い。
 彼自身が、そう思ったからだ。

 こんな場所が、こんな地が、あの娘の終焉の地などとは、余りにも――

「――悲し過ぎるだろう」
「中佐?」

 溜息混じりの呟きが零れ、少女こと雨宮少尉の注意を引きつけた。
 不審げに形良い眉を顰める雨宮に、巌谷は何でもないといった風情で手を振ってみせる。

 どこか他人を拒絶している様にすら見える男の仕草に、雨宮も表情を曇らせた。
 途切れてしまった会話を、繋ぎ直す勇気は何れにもなく、彼等は此処へ来た目的を果たすべく無言のまま動き出す。

 適当な、本当に適当な場所の瓦礫を墓標に見立て、持参した花を捧げた。
 今のご時勢、観賞用の花など文字通り高嶺の花であるが、それでも彼等と此処には来れなかった二人の少女が、必死に伝手を辿って掻き集めた品である。
 正直、みすぼらしい限りであったが、それでも篭められた気持ちは、何物にも勝るだろう最高の葬列の花だった。

 線香に火が点けられ、独特の香りと共に煙が立ち上る。
 手を合わせた巌谷の横手から、雨宮が一歩前に出た。

「少尉?」

 尋ねる声を背に、線香の脇へと小さめな器を置く。
 蓋が取られ、甘い匂いがフワリと広がった。

「……それは?」
「満月庵の餡蜜です。
 隊長も、お好きでしたから……」

 わざわざ店主に頼み込み、早朝から用意して貰った品だ。
 鼻腔を擽る甘く悲しい匂いに、微かに目を潤ませる雨宮の姿を視界から外したまま巌谷は心遣いの礼を言う。

「そうか……すまないな」

 雨宮の首が僅かに振られた。
 唯依に劣らぬほど、長く美しい黒髪がサラリと揺れる。

「あの戦が終わったら、これを食べ放題で奢って貰う筈だったんですけどね」

 ――逃げられてしまいました。

 そう寂しげな笑みを浮かべて呟く少女に、巌谷の目頭が熱くなった。
 砕けそうな涙腺の堤防を死守すべく、再び視線を逸らした男は、空元気を振り絞って陽気な声を出す。

「なら、その約束は俺が果たそう。
 あの娘らも一緒に、心ゆくまで堪能してくれ」

 振り返る事無くそう宣言する。
 ある意味、気遣いに長けた娘は、巌谷の意図を正確に読み取って、おどけた喜びの声を上げ掛け――固まった。

 美しい瞳が限界まで見開かれ、唇がわなわなと震える。
 白い頬を、一筋の涙が伝っていった。

 そんな彼女の異変は、当然、巌谷にも伝わる。
 不審げに振り返った男の眼に、歓喜の表情のまま涙を流し続ける雨宮が映った。

 その視線の先、少女が凝視する方向へと視線を転じた巌谷の心臓が、一瞬だけ鼓動を止める。

 積み重なり、林立する瓦礫の山。
 それをすり抜けながら、一つの人影がこちらへと歩いて来る。

 巌谷の厳つい頬にも、一筋の涙が流れた。

 山吹色の強化装備をつけたその姿は、彼等の記憶の中、そのままだった。
 未だ距離がありながらも、それを確信した両者は、どちらからともなく人影に向けて走り出す。

「隊長!」
「唯依ちゃんっ!」

 ――歓喜に満ちた叫びが、瓦礫の山並みに木霊していった。






 後書き

とりあえず、唯依姫生還の巻!

まあ色々と。
本当に色々と突っ込んだ感もありますが、
これにて物語は、本当に始まり始まりです。

ではでは。





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