がんばれ、ご舎弟さま



そのさんの表






 ――紺碧の海、抜けるような青い空。

 燦々と降り注ぐ陽光が肌を焼くのはいただけませんが、洋上を渡る風がボートの上の暑さを和らげてくれます。

 海になど来たのは私としても久しぶり。
 まあ、毎年正月に修練と称しては、兄上に真冬の海に叩き込まれていた事を考えれば、正に極楽とでも言うべき状況でしょう。

「何かご用でしょうか?」

 ……チラ見した私に、仏頂面のまま木で鼻を括った様な口調で返すブリッジス少尉が同乗者でなければですが。

 相変わらず親の仇でも見るような眼で睨み付けられてます。
 昨今では、理由についても大まか見当はついていますが、居なくなった父親と私を重ね合わせるのは止めて欲しいものです。

 内心でそう愚痴りつつ、飾り気の無い軍用のライフジャケットを軽く上下させながら溜息を吐く私。
 そんな私の態度が癇に障ったのか、ブリッジス少尉の視線が更にきつくなりました。

 ですが、一応は上官という意識があるのか、それ以上は突っ込んできません。
 不機嫌そうな顔のまま首を戻すと、手にしたオールを荒々しく動かすだけでした。

 私も、休んでいると嫌味を言われかねないので、同じくオールを動かします。
 波を切り進むボートの速度が一割ほど増しましたね。

 そう、こんな不毛な事は、とっとと終わらせるのが吉です。
 ブリッジス少尉にとっても、そして私自身にとっても……

 そんな事を考えつつ、私に背を向けボートを漕ぐブリッジス少尉の背中を眺めます。

 ……念の為に言っておきますが、そういう趣味では無いですよ?

 美人でスタイルも良い許嫁も居るんですし、そんな非生産的な趣味に走る謂われは無いのですから。
 ただ単に、ちょっとだけ気になっただけです。

「……何か?」

 またまた首だけ回して此方を睨むブリッジス少尉。
 中々、他人の視線に敏感な様です。
 ハーフとして迫害されてきた事で身に着いたスキルなのかもしれません。

 正直、同情はしますが、それを私が口にする事はありませんでした。
 本質的な意味で、私にはブリッジス少尉が味わってきた苦悩は理解できないでしょう。
 となれば、何を言ったところで上っ面の綺麗事としか捉えては貰えない筈。
 何より彼自身が、私に同情される事を、屈辱と感じるであろう事も容易く想像が付きます。

 ですので、私の口をつくのは、ごく当たり障りの無い一言。

「……何故、ライフジャケットを着ないのかと思ってな」

 単なる興味というか、疑問に過ぎません。
 曖昧となった前世の記憶から、この手のマリン・スポーツでは着用するのが当然の筈と思っていたのですが、どうやら彼の認識ではそうでなかった様です。

 フンッとばかりに鼻を鳴らし、見下す視線を向けてきました。
 微妙にカチンと来た私の頬が微かに痙攣すると同時に、呆れたと言わんばかりの口調で吐き捨ててくれやがりました。

「この程度のお遊びで、そんな大仰な格好をする方がおかしいと思いますがね?」

 そう言って再び鼻を鳴らすブリッジス少尉。
 臆病者めと言外に蔑む目線が、とってもムカつきました。

 そのまま暫し睨み合った私達ですが、背後へと振り返ったままの姿勢でいるのに疲れたのか、ブリッジス少尉は最後に一睨みした後、元の姿勢に戻り、不毛な時間は終わりました。



 ――嗚呼、紺碧の海、抜けるような青い空。

 周囲の自然は、とても心地良いというのに、たった一人の同乗者の所為で、ボートの上の雰囲気は最低最悪です。

『……本当に、どうしてこんな事になったのやら?』

 胸中で、そう嘆息しつつ、私は、この不本意極まりない状況へと至った経緯に思いを馳せるのでした。





■□■□■□■□■□■□





「イヤだ、イヤだ、イヤだ、やだよぉぉぉっ!」

 砂浜に生えた木にしがみ付き泣き叫ぶロリな水着美少女が一人。
 そしてその脇でオロオロとしている巨乳な水着美女が一人。

 耐環境試験のスケジュールも本日はオフなので、久方ぶりに釣りでも楽しもうかと浜辺に出て来た私の眼に飛び込んできたのがソレでした。

 以前、唯依を探していた際に見かけた銀髪の少女――驚いた事に、ソ連の開発部隊の腕利き衛士『紅の姉妹(スカーレットツイン)』の片割れが、火が点いた様な勢いで泣き叫び、その傍では狼狽した様子のもう一人の『紅の姉妹(スカーレットツイン)』――クリスカ・ビャーチェノワ少尉が声を掛けあぐねていたのです。

 ――何事ですか、これは?

 そうやって思わず首を捻った私は、周囲を囲む人だかりの中に、唯依を見出し声を掛けました。

「これは何事だ、篁中尉?」
「あっ……い、斑鳩少佐?」

 いきなり声を掛けられ、反射的に名前を呼びそうになった唯依でしたが、鉄の自制心でそれを飲み込み私の方へと振り向きました。

 なんというか、本当に生真面目な娘です。
 こちらの方が、負い目を感じてしまいますね。

 私は胸中で嘆息しつつ、目線で答えを促します。
 唯依の視線が、一回だけ当事者と質問者(私です)の間を行き来した後、歯切れの悪い口調で語り出しました。

 何でも、昨晩のレセプションでのアルゴス小隊とイーダル小隊の諍いを水に流す為、両小隊共同のレクリエーションを行おうとしていてこうなったのだとか。

 この件については、一応、アルゴス側の責任者である私のところにも、広報部から許可を求められていたので知ってはいましたが、それが何故、こんな騒ぎに?

 思わず首を捻る私に、唯依が細かな事情を補足してくれました。
 どうも、ビーチバレー組とボートレース組に分かれてレクリエーションをする事になった様ですが、ボートレース組に振り分けられたイーニァ・シェスチナ少尉が、異様に海を怖がった結果、こうなってしまったのだそうです。

 ……正直、リアクションに困りますよ。

 海如きを恐れてどうする――とか、精神主義な方なら言いそうですが、誰にでも苦手な物はあるでしょう。 私が兄上が苦手な様に。

 まあ見る限り、こちらも精神的外傷(トラウマ)の域に達している様ですしね。

 ――何はともあれ、一応、責任ある立場としては、声ぐらいは掛けるべきか?

 などと殊勝な事を考えつつ、私は一歩、泣き叫ぶシェスチナ少尉へと近づきました。

 近づいたのですが……

「――ッ!?」

 ビクンッと少尉の身体が震え、同時に、それまでの泣き声がピタリと止みます。
 何事かと、周囲の空気が硬直する中、恐る恐る上げられた視線が、私に向けられ固まりました。

 なんなんでしょ?
 この化け物でも見るような恐怖に満ち満ちた眼は。

 訳も分らず固まる私の眼の前で、再び、シェスチナ少尉が泣き出します。

「怖いよ! 怖いよぉ! 怖いよぉぉぉっ!」

 先程に倍する勢いで泣き喚く美少女。
 そして怒りも露わに、私に喰ってかかる水着美女。

「貴様、イーニァに何をしたっ!」

 何というか非常に誤解を受けそうなセリフです。
 まるで私が、いたいけな幼女にイタズラでもしたかの様に聞こえかねませんよ。

 身に覚えの無い身としては、流石にムッと来ました。

 私にしては、珍しく表情が変わるのが自覚出来ます。
 ですが、反論が私の口をつくよりも先に、白い一閃が掴みかかっていたビャーチェノワ少尉の腕をはね退けました。

「貴様こそ何をするビャーチェノワ少尉!
 それが上官に対する態度かっ!!」

 そう叫びながら、私とビャーチェノワ少尉の間に唯依が割って入りました。
 そのまま怒りの色を露わにした唯依と、こちらも何やら憤激した状態のビャーチェノワ少尉が睨み合いになります。

 本当に何なんでしょう。
 何故にこんな展開に?

 思いも寄らぬ状況に、私の思考もフリーズしかかりました。ですが……

「見えないよぉ! 真っ暗だよぉっ! 怖いよぉぉ!」
「――っ!?」

 睨み合う二人の水着美女を他所に、未だ泣き叫び続けるシェスチナ少尉の叫びが、私の頭に冷や水を掛けます。
 木にしがみ付いて泣き喚くシェスチナ少尉と、それを庇う様に唯依と睨み合うビャーチェノワ少尉を、交互に視界に収めた私は、大まかな事情を理解し、小さく首肯しました。

『成る程……以前、鎧衣が言っていた魔女の手駒の同類ですか……』

 帝国内において悪名高き『横浜の魔女』こと香月夕呼。
 彼女の下には、他人の思考を『画』として、感情を『色』として読み取る力を備えた異能の少女が居ると小耳に挟んだ経験が、『彼女達』の正体を推察させてくれました。

 話に聞いたその少女は、それは見事な銀髪の持ち主だそうです。
 そう、今、私の目の前に居る『彼女達』の様に。

 オルタネイティヴ第三計画の残滓――『彼女達』が、そうであるというなら、この反応もある程度理解できます。
 まあ何故に、『真っ暗』で『見えない』のかは、私にも理解しかねますが。

 ……前世の記憶持ちという変なオマケが影響してるのかもしれませんね。
 何の役にも立たないと思っていたオマケが、思わぬ処で影響したものです。

 そんな風に私が納得している傍で、唯依とビャーチェノワ少尉が激しく言い争っていました。

 ビャーチェノワ少尉の態度を、私に対する侮辱として捉え憤る唯依。
 対して、ビャーチェノワ少尉は、組織の違いから私は上官ではないと反論しています。

 正直、微妙な問題ではありますが、長引かせても意味がありません。
 そう判断した私は、強引にケリを着けるべく行動を開始しました。

「双方、鎮まれっ!」
「「――っ!?」」

 再びの怒りの兄上モード。
 押し殺した怒りを込めて、両者を叱責します。

 突然の私の乱入に驚いたのか、唯依もビャーチェノワ少尉も、ビクンと身体を波打たせ、驚愕の表情を貼り付けたまま私へと振り向きました。

 南国の熱い日差しの下、凍りついたような空気が充満していく中、周囲の視線が集中するのを感じます。

 ……やはり慣れませんね。こういうのは。

 胸中で溜息をつきつつ、それでも事を収めるべく私は言葉を繋ぎました。

「ビャーチェノワ少尉。
 所属は違えど、貴官の言動は明らかに礼を失している。
 それとも、ソ連軍では、それが当たり前の態度なのか?」
「くっ!」

 悔しそうに睨まれました。
 美人に睨まれるのは、心臓に良くないですが、ケジメは付けねばなりません。

「この件については、後ほど、正式に抗議させて貰う」

 この一件を、正式に問題化するとの宣言。
 周囲から注がれる視線が、やや変わり、そこまでしなくてもといった感じになります。

 ですが私も帝国の看板を背負ってここに居る身、些細な事であれ舐められる訳にはいかないのです。
 特にソ連の様な居直り強盗上等な国相手には、わずかな隙も見せられません。

 ビャーチェノワ少尉の白い美貌が、青白く染まっていくのを見ながら、私は更に続けます。

「……とはいえ、双方に不幸な誤解があったのも事実。
 その事も、必ず付け加えておく事は約束しよう」

 張り詰めていた空気が、僅かに緩みました。
 言外に、問題を必要以上に大きくする気は無いと告げた事が、皆にも分ったのでしょう。

 こちらの抗議に対して、ビャーチェノワ少尉が叱責を受けて謝罪する。
 それでこの一件は、終わりになる筈です。

 私の前で、ビャーチェノワ少尉と対峙していた唯依の肩からも、力が抜けていくのが分りました。
 唯依自身としても、事を荒立てたくは無かったのでしょう。
 私も同感ですしね。

 本当に、メンツとは面倒くさい物ですよ。まったく。
 さて、それではとっとと幕引きといきましょうか。

 事態を傍観していた元凶――広報部のオルソン大尉へと視線を移します。
 ついでとばかりに、ちょっとだけ睨みを入れながら。

「オルソン大尉、状況を見る限り、シェスチナ少尉は海に対して苦手意識が強い様だ。
 その彼女に海での競技を強要するのは、アルゴス・イーダル両小隊の親睦を図るという本来の目的に反すると思うが?」
「はっ!
 ……少佐の言われる通りかと」

 見事なまでの脂汗です。
 ダラダラと流れる汗を見ながら、私はもう少しばかり眼光を鋭くします。

 おや、マナンダル少尉、そこに居たのですか?
 ……まあ、水着ですから、構わないですよね。

 大尉の斜め後ろで要らぬ被害を広げてしまった事に、不本意さを感じつつ、私は止めの一言を放ちます。

「取り合えず、シェスチナ少尉は陸上での競技に参加する前提で、もう一度組み分けし直してはどうだろうか?」
「……はっ、同感であります」

 うな垂れる様に首を縦に振るオルソン大尉。
 その全身が小刻みに震えていますが、まあ自業自得でしょう。
 シェスチナ少尉が泣き出したところで、主催者として事態の収拾を図らなかった訳ですしね。

『まあこれで、一件落着』

 そう思って、踵を返そうとした私の腕が捕えられ――

 ……ムニュ。

 ――と、何やらひどく柔らかいモノが押しつけられました。

 思わず振り返った私の視界に、右腕を豊満な胸の谷間に捕えて微笑むブレーメル少尉の姿が映ります。
 彫刻の様なと形容される硬質の美貌に、どこか悪戯っぽい笑みが浮かびました。

「ここまで関わられたのです。
 当然、少佐も参加されますよね?」

 そう言って小悪魔めいた微笑みを浮かべながら、更に強く双丘を押しつけてきます。
 圧倒的なボリュームを誇る女の肉の圧力に、私の腕がギュウギュウと悲鳴を上げ、わずかに頬が赤らみました。
 赤らんだのですが……

 ……嗚呼、唯依。
 そんな目くじら立てないで下さい。
 これは私の意思ではないのですから。

 混乱する思考の中、目を三角にして私達を睨む許嫁の視線に怯えつつ、私は思わぬ展開に胸中で溜息を吐いたのでした。





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「……少佐! 斑鳩少佐っ!」
「――ッ!?」

 唐突に私を呼ぶ声が、私を回想の世界から、こちら側へと引き戻しました。
 一瞬、自身の現状を把握し損ねた私の眼に、ひどく真剣な顔をしたブリッジス少尉が映ります。

 む……これは、回想に浸っている内に手が止まっていたのでしょうか?

 ……いや、今もキチンと漕いでますね。
 流石、マルチタスクな私。

 等と、内心で自画自賛していると、苛立たしげな様子でブリッジス少尉が詰め寄ってきます。

「なに呆けてるんですか!?
 寝ぼけてるんですかっ!」

 ……何気に失敬な事をポンポンと。
 まあ、確かに考え事をしていて気もそぞろになっていたのは事実ですが、もうちょっと言い方というモノが……

「とにかく、アッチを見て下さい!」

 えらい勢いで双眼鏡を握らせると、後方に居るもう一つのボート――確か、チームの組み直しでブレーメル少尉とビャーチェノワ少尉が乗っている筈――を指差しました。
 尋常ではないブリッジス少尉の様子に、どうもトラブルが起きたらしい事を察した私も、やや慌て気味に双眼鏡を覗き込みます。

 ――ボートの上には、ブレーメル少尉しか見えず、ボート自体も波間に漂うのみ。

 明らかに異常事態が発生しているのが、双眼鏡越しでも分りました。
 何らかの対処をすべく、脳内に幾つかの案が浮かんでは消えていきます。
 そんな中、ブリッジス少尉がいきなり海へと飛び込みました。

「少佐は基地に戻って、この状況を知らせて下さい。
 オレは向こうの様子を見てきます」

 一度振り返って、そう告げると、こちらの返事すら聞かずに泳ぎ出そうとしました。 まったく……

 ――ゴンッ!

「グゥッ!?」

 予備のオールで、ブリッジス少尉の頭を叩きました。
 一瞬、海面下に沈んだ後、もの凄い勢いで浮かび上がってきたブリッジス少尉が、怒りに燃える眼差しで私を睨みつけます。

 放っておけば、上官侮辱罪になりそうな罵声を躊躇う事無く喚き出しそうでしたが、彼が口を開くよりも早く私が機先を制しました。

「落ち着け馬鹿者。
 基地に戻るまでどれだけ掛かると思っている?
 そんな事をする位なら、このままボートで向かい、二人を回収して引き返した方が余程早く済む」

 基地は既に水平線の彼方。
 対して女性陣の乗るボートは、まだ見える範囲です。

 どんなに急いで基地に戻ったとしても、それから救援を派遣させていたのでは手遅れになる事も考えられるでしょう。
 それ位なら、このままこちらのボートを寄せてブレーメル少尉らを回収した後、まっしぐらに基地に戻った方が余程マシな筈です。

 そう言って、頭を押さえつつこちらを睨むブリッジス少尉に言い聞かせました。
 最初は不満気でありましたが、最後には私の主張が正論であると納得出来たのでしょう。
 不承不承ではありますが同意すると、ボートに這い上がり投げ出したオールを再び手に取ります。
 それを横目で確認した私も、自分のオールを再び握り締めました。
 後はもう、一直線にブレーメル少尉らのボートに向かうだけです。

 一応、体力勝負上等な現役衛士、それも男の二人組。
 二人掛かりで全力で漕げば、チャチな発動機には後れを取らぬくらいのスピードは出せます。

 更に不幸中の幸いというべきか、風や海流の邪魔もなく、結果、私達のボートは、ものの十数分で目標との距離を詰める事に成功したのでした。

 近づいてみると、珍しく慌てた様子のブレーメル少尉が、ボートの中で力無く横たわるビャーチェノワ少尉に必死になって声を掛けています。
 垣間見えるビャーチェノワ少尉の顔色は真っ青で、呼吸もかなり荒くなっているのが分りました。

 かなり切迫した状況の様です。
 流石に私も動揺しましたが、それでも鉄面皮を崩す事無くブレーメル少尉に声を掛けました。

「どうしたブレーメル少尉?」
「少佐!?」

 びっくりした様子で振り返る少尉。
 どうやら動転していて、私達が近づいてきた事にも気づいていなかった様です。
 いつもの大人の女性の余裕もどこへやら、しばらく絶句した後に、しどろもどろといった風情で口を開きました。

「……それがその……急に倒れてしまって。
 沖に出てから顔色がどんどん悪くなっていって……
 何度か大丈夫か確認したんですが、『任務は完遂せねばならない』の一点張りで……」

 そこで困惑気味に言葉を濁したブレーメル少尉は、やや苦い表情で先を続けます。

「……申し訳ありません少佐。
 私がもっと強く言えば、いえ、無理にでも引き返していればこんな事には……」

 彫刻の様な硬質の美貌に、苦悩と悔恨の色が滲んでいました。

 元々、折り合いの悪かったブレーメル少尉とビャーチェノワ少尉です。
 意地を張る彼女に対して、ブレーメル少尉の方も含むモノがあったのでしょう。
 そしてその事を、今では後悔している様子でした。

 深く沈んだ表情で説明を終えたブレーメル少尉を一瞥しながら、そう判断した私は、その件については特に咎め立てはしません。
 問題が無い訳でもないですが、少尉自身が深く反省している以上、この件について更に突く意味も無いでしょう。
 体調の悪さを押してまで、無理に続けようとしたビャーチェノワ少尉の方にも非がある訳ですしね。

 何より正直なところ、そんな瑣事に構っていられる状況では無くなりつつあったからですが。

 ビャーチェノワ少尉の容態もそうですが、それ以上に問題なのは……

「取り合えず、細かな事については後ほど聞こう。
 今は、一刻も早く基地に戻るべきだろう……」

 そう言いながら私は空を見上げます。
 先程までの晴天が、まるで嘘の様な黒い雲が急速に広がりつつある空を。





 しかし思うのですが、もし先程、ブリッジス少尉の提案に従って基地へと戻っていた場合、間違いなく私も荒天に遭遇していたんじゃないでしょうか?

 ……考えない方が幸せになれそうですから、止めておきますか。





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「くぉおおおおぉっ!」

 私の喉から魂の絶叫が迸ります。
 気合いを込めて高鳴りうねる荒波を強引に越えると、次なる波が、この身を飲み込みました。

「ブハッ!」

 ライフジャケットの浮力が私を海面に押し上げるのと同時に、潮水混じりの荒い呼気を噴き出します。
 海水が眼に沁みましたが、そんな事を気にしている余裕すらありませんでした。

 現在、絶賛、嵐の海を遠泳中。
 文字通り死に物狂いで波を掻き分けながら、波間から見える島影へと必死で向かう私。

 腕を止めれば死。
 脚を休ませれば死。

 一瞬たりとも気を抜けば、そのまま海の藻屑と化すであろう現状に、怒りの炎を燃やしつつ、それを原動力としてうねる波濤を乗り越えていきます。

 もうどれだけこうしているのでしょうか?

 一時間、二時間、あるいはホンの数分なのか……

 嵐の中、私達の乗ったボートが荒波に跳ね上げられた際、意識を失っていたビャーチェノワ少尉が海に落ちるのを防いだ代償に、自分がボートの外に放り出されてから、既にどれほどの時間がたったのかすら分りませんでした。

 もはや時間感覚を喪失した私は、ただただ霞む視界に映る島影に向かって泳ぎ続けます。

『このイベントを計画した阿呆共!
 生きて帰ったら絶対に気絶するまで殴り倒すっ!』

 胸中で八つ当たり気味な報復を誓いつつ、痺れて来た手足を必死に動かします。
 強制的に逸れる破目になったブリッジス少尉らの事を、気にする余裕もありませんでした。

 まあ、あちらは一応ボートの上。
 対してこちらは、ライフジャケット一枚が頼りというこの状況。
 私が心配すべき義務も余裕も無いのは当たり前と切り捨てて、自身の持つ全知全能を生き残る為にのみ振り絞ります。

 更に気の遠くなるような――比喩ではナシに、何回か意識が飛んだ――時間を、生死を掛けた遠泳に費やし続けた私。

 その視界の中で、波間に霞んでいた筈の島影が、くっきりとその姿を見せ始めました。
 寄せる波にその身を任せ、引く波に抗いながら、徐々に距離を詰めていきます。

 やがて海底に脚が着きました。
 引き波が足元の砂を削るのに耐え、打ち寄せる波に従い、ゆっくりと、そして確実に海岸へと近寄っていくと、いつしか私の足に波が打ち寄せる事は無くなっていたのです。

「……ゼッ……はぁ……た…助かった……のか?」

 思わず疑問符付きの呟きが漏れました。
 そのままその場に、へたり込んでしまいたい気分でしたが、ここで座ったが最後、もう当分立ち上がれない事は確実です。

 勢いこそ衰えたものの未だに続く風雨が、この身を打ち据えていました。
 満ち潮になれば、ここまで波が打ち寄せる可能性もあるでしょう。
 何より、南洋の海とはいえ、長時間海水に浸かったまま漂流していた身体も冷え切っていました。

 ――まずは、雨風をしのげる場所を。出来れば火を起せる様な。

 疲労で鈍る思考の中、そう結論付けた私は、砂浜と並行して横たわる森をザッと見渡します。
 少し行ったところで砂浜が岩礁に変わり、そこに繋がる形で数十メートル程の崖が森に食い込んでいるのが見えました。

『あの辺りの岩場なら、雨風を凌げるか?』

 大きめの岩陰程度でも、この際は充分。
 森の近くなので焚き火の薪くらいは何とかなりそうです。
 幸いにして、ライフジャケットには簡易なサバイバルツールも付いていますので、雨風さえ遮れれば火を起す事くらいは出来るでしょう。

 そう判断した私は、文字通り最後の力を振り絞って、砂浜沿いにヨタヨタと歩き出しました。

 一歩進む毎に、鉛の如く疲労し切った身体が軋みを上げます。

 ――このまま倒れ込んでしまいたい。

 そんな誘惑が脳裏を過りますが、それをすれば一巻の終わりです。
 明日の朝には間違いなく、冷たくなって砂浜に転がっているか、波にさらわれ魚の餌になっているかでしょう。

 そうして私は、徐々に重さを増す瞼を強引に見開き、震える脚を無理矢理動かしながら、ジリジリと、しかし確実に目標と定めた岩場へと歩み寄っていったのでした。





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 パチパチと小さな音を立てながら燃え上がる炎。
 洞窟内を照らし出し暖めている焚き火を、憮然として見下ろしながら、私は頭痛を堪える様に額に指先を当てます。

 ――なんと言うべきか?
 ――どう反応すべきか?

 風雨を避け、暖の取れそうな場所を探して、岩場へと踏み入った私は、ほぼ望み得る最高の場所を見つける事に成功したのでした。

 ……先住者付きでしたが。

 小さな洞窟の中は、既に起されていた炎に暖められ、冷え切ったこの身には、とても有り難かったのですが……

「う……ぅ〜ん……」

 どことなく艶っぽいというか、なまめかしい声が、私の鼓膜を震わせました。
 同時に微かに香る女性の良い匂いが、私の嗅覚を刺激します。
 自身のこめかみに、ぷっくりと青筋が立つのが、はっきりと感じ取れました。

 ――少し位は、怒っても良いですよねぇ。

 自問自答しつつ、顔を上げた私は、焚き火を挟んだ反対側を、生温かい目でジト見しました。

 ――透明感のある白い肌、女性らしい曲線を描く豊麗な肢体。
 ――それらを覆うのは、ごく僅かな布地のみ。

 そんな蟲惑的な美女が、それも二人、揃って横たわっていました。

 ……間に一人挟んで。

『人が生きるか死ぬかの瀬戸際を必死に乗り越えていた間、何をやってたんですかね?』

 多分に八つ当たりと逆恨みの混じった皮肉を胸中で呟きながら、北欧系美女とロシア美人の間でサンドイッチの具になっている日米ハーフの青年を、ジットリとした眼差しで睨み付ける私。
 対して、そんな私の気も知らず、背後からビャーチェノワ少尉に抱きしめられ、前ではブレーメル少尉の胸に顔を埋めているブリッジス少尉は、ひどく安らいだ表情で熟睡しています。

 ――ギリリッ!

 と、歯軋りの音が、私の口中で響きます。
 この洞窟を見つけた際の驚きが、再び、脳裏に蘇ってきました。





 何とか風雨を凌げる場所を――と、岩場まで移動した私でしたが、闇の中、微かな明かりを見出せたのは僥倖だったのか、それとも……

 とにかく、その明かりを頼りに、この洞窟に辿り着いてみれば、かくの如き有様。
 揺らめく焚き火が照らし出す光景を見た際は、本気で暫く固まってしまいましたよ。
 疲労の余り、幻覚でも見ているのかと疑い、思わず自分の頬を抓ってしまった程です。

 ――まあ、部下のプライベートに口出しする気は無いのですが、やはり複数同時とかは色々と問題があると思うのですよ。
 ――決して、羨ましいとか、妬ましいとかいう了見の狭い考えでは無いのですからね。

 等と自己弁護しつつ、ブレーメル少尉の巨乳に顔をサンドイッチされたまま眠りこけているブリッジス少尉を、無意識に睨んでしまったのは内緒という事で。

「……うん……あっ……」

 眠りながらもブリッジス少尉が身じろぐ度に、同じく眠っているブレーメル少尉の朱唇から艶めかしい声が零れます。
 正直、色々な意味で、精神に堪えるものがありました。

 ――いっそ叩き起こしてしまおうか?

 そんな考えが脳裏を過りますが、それはそれで躊躇するモノがありました。
 このシチュエーションで、眼が覚めたら目の前に、海に投げ出されて死んだ筈の上官とか居たら、パニックを起しても不思議じゃないですし。
 私自身としても、バツが悪いです……

『さて、どうしたものか……』と、胸中で呟きながら、火勢が衰えて来た焚き火に、ブリッジス少尉達が集めておいたであろう枯れ枝を何本か放り込みました。

 ――パチンッ!

 まだ水分を含んでいたのか、一際、大きな音が弾けます。
 団子になっていた三人の内、ブレーメル少尉の身体が、ピクリと波打ちました。

 どうやら、悩んでいる時間は終わりの様です。
 再び鉄面皮を整えた私と、夢現といった眼差しで、こちらへと振り返るブレーメル少尉と視線が合ってしまいましたからね。

「おはようブレーメル少尉。
 互いに無事でなによりだ」

 一拍の無反応。
 キョトンとした表情が、常のクールな大人の女性といったイメージと反して妙に可愛らしいですね。

 寝ぼけ眼に、理性の光がゆっくりと満ちていきました。

「……少…佐?………少佐っ!?」

 慌てて半身を起すブレーメル少尉と反射的に視線を逸らす私。

 いや……だって……ねぇ。

「……取り合えず胸を仕舞ってくれ」
「――ッ!?」

 ブレーメル少尉の豊か過ぎる胸が、その……所謂、ポロリ状態でして。
 如何に強化装備姿を見慣れているとはいえ、やはり生乳を直視するのは拙いでしょう
 唯依に知られでもしたら、とても厄介な事になりそうな気もします。
 あの娘は、何気に妬きもち焼きですからね。

 そんな私の内心を他所に、逸らした視界の外側で、慌てふためく空気が動き、そして――

「……もう、こちらを向いて貰っても大丈夫です」

 掛けられた声に従って振り返ると、わずかに頬を赤くしたブレーメル少尉が、それでも服装――まあ水着だけですが――を、整え終えて、こちらを見据えていました。

「改めて、互いに無事で何よりだ」
「……少佐こそ、よくご無事で。
 正直、もう駄目だと思っていました」

 まあ、普通はそうですよね。
 私自身、よくもまあ、助かったものだと思ってますし。

 ……ですが、あまり潤んだ眼で見ないで頂きたい。
 変な気分になってしまいますし、何より私は、部下の恋人にちょっかい掛ける様な不謹慎な男ではないのですよ。

 どうも妙な空気に成りかかったので、場の雰囲気を変えるべく私は口を開きました。

「……しかし、ブリッジス少尉とビャーチェノワ少尉は大丈夫なのか?
 まるで眼を覚まさない様だが……」

 余程、疲れていたのでしょう。
 すぐ隣で跳ね起きたブレーメル少尉にすら気づく事無く、どちらも眠ったままです。

 ……まあ、嵐の海を乗り越えた後、三人でとなると、やはり疲れたんでしょうね?
 特に二対一のハンディキャップマッチになったであろうブリッジス少尉は。

 とても妬ましい気分を感じつつ、未だ昏々と眠り続ける二人へと、私は視線を向けました。
 釣られる様にブレーメル少尉も、自身の傍らで眠る男女へと視線を移します。

 ……え〜……何と言うべきでしょう?
 慈母の様な優しい眼差しで、ブリッジス少尉らを見るブレーメル少尉。

 もしかして彼は、俗に言うところの母性本能を擽るタイプというやつなのでしょうか?
 子供の頃から鉄面皮で、年上のお姉さんに可愛がられた経験などない私にしてみれば、正直、羨ましい限りです。

 しかし、どうしたものでしょう?
 ここで妙な茶々を入れるのも、上官としての鼎の軽重を問われそうですし、さりとてこのままでは場が持ちそうにありません。

 本当に、どうしたものかと内心で首を捻ったところで、柔らかな声音が洞窟内に反響します。

「……二人とも、薬が効いているのでしょう。
 サバイバルキットに入っていたのは、かなり強いタイプでしたから……」

 そう言いながら、私に向けて微笑んで見せます。

 うむ、やはり美人さんは、どんな表情でも絵になりますね。
 眼福、眼福と胸中で呟きながら、私は相も変わらぬ鉄面皮のまま黙って頷きました。

 しかし、流石にサバイバルキットに強壮剤とかは入っていないと思うのですが、それに近い効能のある物とかが有ったのでしょうか?
 怪我とか急病になった時用のスタミナドリンクとか。
 正直、本道に反した使い方をしたのは良くない事とは思いますが、極限状況に置かれた結果、精神安定を図ろうとしたという事にしておきましょう。

 ……しかし、ブリッジス少尉。
 若い身空で薬に頼るのは感心しませんよ?
 その上、頑張り過ぎた挙句、ノックアウトされてしまうとは、男として恥を知るべきだと思います。
 全くもって嘆かわしい事です。

 ……それとも、経験豊富なお姉様の方が、一枚上手だったという事でしょうか?

「……なにか?」

 チラリと見ただけで気付かれました。
 やはり経験豊富なお姉様は、一味も二味も違う様です。
 下手なちょっかいを掛けても、墓穴を掘るだけでしょうから、話題をすり替えるとしますか。

「此処が、どこか分るか?
 或いは、基地に連絡がつけられるかでも良いが……」

 焚き火越しに見えるブレーメル少尉の顔が曇りました。
 それを見るだけで、大体のところは分ります。
 まあ当然かと思いつつ、私は更に質問を重ねました。

「海岸にボートは無かった様だが?」
「……ビャーチェノワ少尉を介抱出来る場所を探している内に、波に浚われてしまったようです……申し訳ありません」

 ――ああ、やっぱり。

 想定とさほど変わらぬ返答に、内心で溜息を吐きつつ、軽く首を振って気にする事は無いと告げました。
 優先順位で見るなら、彼らの行動は間違ってはいないからです。
 ビャーチェノワ少尉に万が一の事があり、アルゴス組だけ助かったとなれば、ソ連が何を言い出すか……

 そういった視点で見れば、最優先はビャーチェノワ少尉の生存である以上、ボートの損失は諦めるべきでしょう。

「一応、全員軍人だ。
 数日のサバイバル程度なら問題は無いだろう。
 位置が分らないとはいえ、基地から数十分以内の範囲の筈。
 救助が来るまで、そう時間が掛かるとは思えないしな」

 そう言って慰めると、ブレーメル少尉は、ホッとした様子で肩の力を抜きました。
 私も、わずかに相好を崩します。

 ……ブレーメル少尉、信じられないモノを見たと言わんばかりの顔をしないで下さい。
 地味に凹んでしまうじゃないですか。
 まあ確かに、彼女にしてみれば、珍しいものかもしれませんけどね。

 胸中で、そう呟きながら、私は頭を切り替えました。

「幸い、緑の多い島の様だ。
 探せば水と食料くらいは何とかなるだろう。
 一週間程度、生き延びる位なら、どうとでもなる筈だ」
「ええ、そうですね」

 私の言葉に軽く相槌を打つ少尉。
 彼女としても、それなりに自信はあるのでしょう。
 頼もしい事です。

 さて、その頼もしさに甘えさせて頂く事にしましょうか。
 流石にそろそろ限界の様ですしね。

「……少々疲れた。
 嵐が止んだら起してくれ」

 そう言い置くと焚き火に背を向け横になります。
 嵐の海を泳ぎ切るという難行苦行は、やはり堪えていたのでしょう。
 瞬く内に睡魔が襲ってきて、意識が薄れていくのを感じます。

 そして、遠ざかる意識の最後の一片が消える瞬間――

「……ゆっくりお休みになって下さい」

 ――そんな声と共に、ひどく良い匂いがした様な気がしました。





■□■□■□■□■□■□





『―――――』

 轟々と風切る音……がどこ……か近くで聞こ…えて………いる様な……
 ……まだ、嵐……が止…んでいないので……しょうか?

 それならまだ、寝ていても……良いという事です……ね。
 何というか……とても柔らか……くすべすべで寝心地の良い枕です……し、もう少し堪能していたい気分……で…す。

『―――――――』

 ……いや……コレは……

『―――――――』

 轟々と鳴るこの音は……エンジン音?
 ……いや、そもそも、何故に枕が?

 まどろみの中、寝ぼけていた私の頭が、徐々に動き出しました。

 重い瞼を強引に押し上げると、薄赤い明かりの中、こんもりと盛り上がった小山が二つ……………小山?

「――っ!?」

 思わず跳ね起きて背後を振り返ると、少しだけ眼を丸くしたブレーメル少尉が居ました。
 こう膝を揃えた女の子座りで。

 ……彼我の位置関係、ブレーメル少尉の姿勢、そして先程まで感じていた『柔らかい枕』の感触。

 それら全てを総合すると、出てくる答えは一つ!!

 ……などと力説する程の事では無いですよね。

「……済まない。 迷惑を掛けた」

 謝罪と感謝の言葉と共に、少尉に対して頭を下げました。
 クスクスと笑う声が、頭の上から降ってきます。

「お気になさらないで下さい。
 こちらが余計な気を回しただけですから」

 そう言いながら立ち上がるブレーメル少尉。
 その白く滑らかな太腿の一部が、赤くなっているのが分りました。

 ……私の頭を載せておいてくれた箇所です。

 まあその……所謂、『膝枕』というヤツをやってくれていた訳です。
 何時間そうしていたのか分りませんが、痕が残っている以上、かなりの時間そうしていてくれたのでしょう。

 正直、面目次第も無い限りです。
 恋人が居る女性に、そんな事をして貰おうとは。

『……ん?』

 そこまで考えた処で、ふと違和感に気付きます。
 そして、ぐるりと周囲を見回すと、その正体を察しました。

「……ブリッジス少尉達は?」

 そう、ブレーメル少尉とビャーチェノワ少尉を、まとめて落としたハーレム王こと、ユウヤ・ブリッジス少尉とビャーチェノワ少尉の姿が見当たらないのです。

 もしや眠っている間に何かあったのかと、思わず顔を顰める私の前で、ブレーメル少尉が楽しそうに微笑みながら、洞窟の入り口を指し示しました。

「……どうやら、お迎えが来た様ですわ」

 そう言いながら、外へ向かって歩き出すブレーメル少尉。
 そしてそれだけで、私にも意味が通じました。

 先程からの轟音が、耳を聾すまでに高まっています。
 ここまで大きくなれば、もはや聞き間違いもありません。

 これまで嫌という程聞き、そしてこれからも嫌になるほど聞くであろう音――戦術機の跳躍ユニットの音だったのですから。

「やれやれ、水やら食料やらの心配をする必要も無かったか……」

 そう独り呟くと、焚き火に土を掛けて消した私は、ブレーメル少尉の後を追い、洞窟の外へと歩き出したのでした。




■□■□■□■□■□■□





「明憲様!!」

 遠間でありながら、尚、明瞭に聞こえる凛とした美声が響きました。

 アルゴス小隊機とイーダル小隊のチェルミナートルが飛び回る空の下、回収して貰う為、砂浜へと出て来た私達に向けて、百メートルほど先に着陸したヘリから飛び出してきた小柄な人影が、真っ直ぐに走り寄って来るのが見えます。

 いや、素晴らしい早さです。

 オリンピックとまでは言いませんが、それなりの大会で良い線に行きそうなスピードで黒髪を靡かせた人影は、そのまま、まっしぐらに――

「明憲様っ!!」
「グホッ!?」

 ――突っ込んできました。私の胸に。

 あまりの勢いと足場の悪さが相俟って、そのまま砂浜に押し倒されてしまった私。
 そして、そんな私の上に乗っているのは、言わずと知れた人。

「明憲様……」

 紫の双眸に珠の様な涙が盛り上がっていきます。
 蒼褪めていた美貌の中で、そこだけは赤い唇が小刻みに震えて、そして……

「……明憲様……」

 私のソレに重ねられました。

 ――いや、これはちょっと……マズイでしょっ!?

 混乱する思考の中、絶叫する私。
 対して唯依はといえば、口づけをしたまま私の首に腕を回し、更にしっかりと抱き付いてきます。
 荒い吐息の中、濡れた音が響き、それに覆い被さる様に、周囲からどよめきが湧き起こるのが聞こえました。

 わずかに見える視界の端には、口に手を当てて驚いているブレーメル少尉が、常の攻撃的な表情が消え、代わりに目を丸くしているビャーチェノワ少尉が、そして唖然とした表情のまま硬直しているブリッジス少尉が映っています。

 ――これはもう、言い訳は利かないですね。

 驚愕と困惑の空気が場を満たしていく中、意識の内の冷静な部分でそう思考する私。
 対して、唯依はと言えば、まったく関知せぬとばかりに、唇を重ね続けていました。

 重ねられた唇越しに、微かに響く安堵の嗚咽。
 未だ小刻みに震えながら、しがみ付いているたおやかな肢体。
 それ等が、私の中に有った体面やら何やらを、ゆっくりと押し流していきます。

 ――嗚呼、これは後が大変だ。

 胸中で、そう呟きながらも、微かに頬を緩めた私は、後の事は後の事と割り切って、唯依の背に腕を回し、力の限り抱き締めました。

 今はただ、生還し、そして再会出来た事を、素直に実感する為に。





■□■□■□■□■□■□





 重苦しい空気が、私に宛がわれた上級士官用コテージ内に満ちています。

 とてもとても重いソレの中心。
 どんよりどよどよ〜ん――とでも形容したくなる様な空気を纏ったまま俯くその人に、私は恐る恐る声を掛けました。

「あ〜……唯依?」
「――っ!?」

 声を掛けるやいなや、ソファーの上でビクンッと硬直する我が未来の妻。
 いやもう、重症としか言い様が無いでしょう。 コレは……

 顔は俯いたままですが、その美貌が朱一面となっているのは手に取る様に分ります。
 なにせ艶やかな黒髪から覗く耳は、真っ赤っかに染まっているのですから。

 そこまで恥ずかしがるならとは思わぬ事も無いのですが、それだけ動転し、そして安堵したのだと思うと、私個人としては嬉しい様な面映ゆい様な複雑な気分です。

 それに『覆水盆に返らず』と言います。
 やってしまった事は、もう取り返しが付きませんしね。

 私は正直まだまだですが、唯依自身はアルゴス小隊の面々とも、それなりに親交が出来ている様ですし、もう話してしまっても良い時期だったと割り切るべきでしょう。
 ……まあ、こちらが隠そうとしても、明日には根掘り葉掘り訊かれるでしょうしね。

 そうやって腹を括った私は、その旨を唯依にも伝えます。
 話す度に、ビクン、ビクンと痙攣していたので、少しばかり時間が掛かりましたが、最終的には納得してくれました。

 とはいえ、この状態では、唯依に説明させるのも可哀想です。
 そもそも私が言いだしっぺでもありますし、私の口から皆には説明すると告げると、明らかに唯依の肩から力が抜けました。

「……申し訳ありません。
 私の失態から、とんだご迷惑を……」

 かなり済まなそうな表情と声音で詫びを口にしますが、私は、それに首を振って気にする事は無いと答えました。
 元々、隠し事をさせたのは私ですし、それがバレたなら、私が収拾するのが筋というものでしょう。

 それにまあ……

「……嬉しくなかった訳ではないしな。
 まあ、少し恥ずかしくはあったが……」
「えっ?」

 ……思わず本音が漏れました。

 唯依の顔が、再び真っ赤に染まっていきますが、私自身も同じです。
 見る見る内に顔が熱くなっていくの自覚した私は、目線を明後日の方向に向けながら、場の空気を変えるべく、話題を強引に切り替えました。

「広報部の方から、今回の遭難により発生したスケジュール遅延に対し抗議があった」
「はっ?」

 いきなり変わった話題に、一瞬、呆ける唯依。
 私はそれを無視して、先を続けます。

「抗議はあったが、反論して黙らせた」
「……反論ですか?」

 空気を読んだのか、それとも生来の生真面目さの賜物か。
 唐突に変わった話に、やや眉をひそめつつも、相槌を打ってくれる彼女。

 ――本当に良く出来た娘です。
 ――私の様な変わり者の許嫁には、もったいない女性だと思います。

 などと、胸中で思いつつ、私も先を続けました。

「そうだ。
 そもそもボートレース自体は、広報部が主催したものだ。
 当然、主催者側には、参加者の安全を保障する義務がある」

 これは事実ですし、正論だと確信しています。

 南洋の天気は変わり易いので、天候の急変を予測出来なかったとゴネましたが、そんな言い訳は通用しません。
 天候の急変が予測出来ないなら、それに合わせた対応――コース上に、緊急時の回収艇を配置するなり、各々のボートに無線を配布しておくなりすれば簡単に防げたトラブルです。
 その程度の配慮もせずに、遭難したこちらに非があるとして、ふざけた要求を突き付けるなど勘違いも甚だしいというものでしょう。

 その辺りを徹底的に突いてやったら這う這うの体で逃げ出していきましたしね。
 まあ、あれだけ脅しておけば、妙な真似はしないと思いますが、念の為、唯依にも注意を促してしておきましょう。

「スケジュール遅延を補填すると称して突き付けられた妙な要求も拒絶した。
 無いとは思うが、私を通さずに、この件を盾に広報部から何か要求されても拒否するように」
「ハッ! 了解しました」

 私の警告に、ピシッとした敬礼が返されます。
 私も、それに満足気に頷きました。

 まあ、これで心配は無いでしょう。
 私の眼の届かない範囲で、妙なちょっかいを掛けられたとしても、事前に警告を受けた彼女が、そう易々と騙される事もないでしょうからね。

 そうやって安堵する私の前で、少し眉を寄せた唯依が、言い難そうに口を開きました。

「……一つ、質問しても宜しいでしょうか?」
「ああ、構わない」
「ありがとうございます。
 ……その……妙な要求とは、どのようなモノだったのでしょう?」

 上機嫌で頷いた私に向けられた問い。
 一瞬、どう答えたものかと、思考が止まります。

 なにせ……ねぇ……

「………」
「明憲様?」

 不審げに私の名を呼びます。
 正直、訊かれなければ教えるつもりはなかったのですが……仕方ないですか。

 脳内で、そう結論付けた私は、部屋の隅のテーブルの上に放り出してあった紙袋を取り上げ、それを唯依へと差し出しました。

 あからさまな不審物扱いのソレを手にした彼女は、困惑した表情を浮かべつつ、恐る恐るといった様子で中身を取り出します。

「こ、これはっ!?」

 中身を見て絶句する唯依。
 彼女の美貌が、先程のソレに勝るとも劣らぬ程に、赤く染まっていきました。

 ……そうなりますよね。 やはり……
 ですが、そんな疑惑と羞恥に満ちた眼差しで私を見ないで欲しいのですよ。

「勘違いしない様に。
 それは、オルソン大尉が持って来た物だ」
「………えっ……その……つまり………」

 溜息混じりの私の言葉に、唯依の眼から疑惑の色が消えました。
 ですがまだ、思考力が回復し切っていないのか、どもりながら、手にした山吹色のビキニと私を交互に見やります。

 いやまぁ……多分、こうなるだろうとは、思っていたのですけどね。
 だから、話さずに済ますつもりだったのですが……

 そうして、再び、軽い溜息を吐いた私は、事の次第を簡潔に告げました。

「それを着て、広報素材用の写真撮影に参加させろと要求された」
「わ、私がですかぁっ!?」

 絶句し、手にしたビキニを握り締める唯依。
 更に赤くなりながら、羞恥のあまりワナワナと震えだします。

 なんと言うか布地少ないですからねぇ。
 はっきり言って、今の我が国では余り見かけないレベルですよ。

 そんな代物を着て、写真を撮られる自身を想像したのか、もう今にも茹りそうな感じです。

 やはり突っぱねて正解だったと、胸中で安堵しながら、私は話を続けます。

「もう断ったと言った。
 唯依が、そんな真似をする必要は無い」

 そう告げた途端、彼女の身体から一気に力が抜けました。
 安堵のあまり脱力し、ソファに力無く沈みこみます。

 どうやら私の予想以上に、嫌だった様です。
 もし受けていたなら、どうなっていた事やら……

 と、そこまで考えた処で、不意に私の耳元で悪魔が囁きました。
 なんと言うか、つい苛めてみたいというか、弄ってみたいというか、そんな気分に襲われた私は、つい冗談混じりで口を滑らしてしまいます。

「まあ個人的には、それを着た処を見てみたかった気もするがな」
「――っ!?」

 再び、ビクンとばかりに硬直する彼女。
 信じられないと言わんばかりの眼差しが、中々に痛いです。
 これには私も少しだけ慌てて、前言を翻しました。

「……冗談だ。
 それは後で捨てておこう」
「………」

 いやその、無言のまま俯かれると怖いのですが……
 ……冗談です。 本当に軽い冗談だったのですよ?

 ですからその……

「……唯依?」

 本当に、恐る恐るといった風情で、私は俯き震える唯依に声を掛けます。
 再び、ピクッと彼女の肩が震え、そして……

「……ご…ご……」

 何やらブツブツと言い始めた彼女。
 顔を寄せ、耳を澄ます私の耳朶に、途切れ途切れな言葉の羅列が飛び込んできます。

「……ご覧に……なりたい………ですか?」

 ……えっ?

 思わず絶句する私の面前で、伏せられていた美貌が、ガバッとばかりに上げられます。

「あ、あ、明憲様が……その……の、望まれるなら……あの……」

 稀なる程に整った容貌は、朱一色に染まっていました。
 恥じらいと躊躇いに揺れる双眸が、ウルウルと潤んでいます。
 形良く柔らかそうな唇が、震えながらも必死に言葉を紡いでいきました。

 何なんでしょう?
 この可愛らしい生き物は。

 思わず頷いてしまいましたよ。
 頷いて、そして自分が、何をしたかを理解した瞬間、再び、顔面に血が昇っていくのを自覚する私。

 そんな私から、恥ずかしそうに視線を逸らした唯依は、楚々とした仕草で立ち上がると私に背を向けます。

「……着替えてきます。
 バスルームを、お借りします」

 そう言い残すと、コテージに備えられたバスルームへと消えて行く優美な後ろ姿。
 唖然としてソレを見送った私の耳に、微かな衣擦れの音が届きます。

 ――何なんですか、この安普請は!?

 などと見当違いの怒りの雄叫びを上げつつも、無意識に耳を澄ましてしまった私の聴覚は、きっちりしっかりと、その音を捉えてしまいます。

 パサリ、スルリと微かな音が響く毎に、私の鼓動が速くなり、全身の熱が上がっていきます。
 あまりにも甘美過ぎる拷問に、脳が茹ってしまいそうでした。

 ですが、それもいつしか終わりの時を迎えます。
 そして、シンと静まり返った室内に、ドアの軋む音が響きました。

「……ど……ど、どうで……しょう……」
「………」
「……あ…明憲様?」
「……ああ…良く似合っている……」

 恥ずかしさと心細さに揺れる唯依の声に、ようやく応じる私。

 正直見惚れてしまいました。
 強化装備姿は何度も眼にした事がありますが、やはりアレとは別物のインパクトです。

「そ、そうですか……」

 私の答えに、唯依の貌に安堵の色が滲み、蕾が綻ぶような微笑みが浮かぶ。
 水着のトップとショーツを恥ずかしそうに覆っていた腕が、ゆっくりと離されます。

 ……私の呼吸が少しだけ楽になりました。

 唯依自身は、隠していたつもりでしょうが、両腕で水着の箇所を覆っていた分、逆にその……何も付けていない様にも見えていたからです。
 取り合えず、最低限は衣類で隠されているのを実感できた私は、改めて彼女を見つめます。

 山吹色の小さな水着に覆われた胸と尻は、ふっくらと豊かで、そしてそれらを強調するかのように腰はキュッと括れています。
 手も足もほっそりと形良く、透き通る様に滑らかな肌は、今は羞恥の色に染まっていました。

 どれもこれも、なにもかもが、美しく愛おしい。
 私だけの為に、水着のモデルを演じてくれている彼女。

 それに魅了された私は、無意識の内にフラフラと立ち上がり、唯依へと歩み寄っていきます。

 彼女の目線が、恥ずかしそうに伏せられました。
 ですが、唯依が、その場から動く事はありません。
 数歩進んだだけで、この手が彼女に届きます。

 ――嗚呼、ダメです。
 ――全く自制が利きません。

 私の意識の中に、わずかに残った冷静さが、そう呟いて消えました。

 指し延ばした両腕が、たおやかな肢体を抱き寄せ、抱き締めます。
 密着する肌、滑々の触感が両腕に広がり、燃える様な熱さが伝わってきました。
 ドキドキと高鳴る互いの鼓動が、ゼロ距離で感じ取れます。

 私の腕の中、見上げる紫の双眸と私の目線が絡み合いました。
 強い強い思慕に濡れ光る彼女の瞳が、真っ直ぐに私を見つめています。

 本当に彼女らしい。
 どこまでも真っ直ぐで生真面目で。

 私の頬が微かに緩み、少しだけムッとした表情が唯依の貌に浮かびます。

 白い腕が私の首に回されました。
 その細さからは、信じられないような力で私を引き寄せます。

 重ねられた唇。
 柔らかく熱く、そして蕩ける様な快感を齎すソレに、私はゆっくりと溺れていったのでした。











 後書き

 ご舎弟さまシリーズそのさんの表でした。

 今回も甘さ全開!
 ……のつもりですが、どんなもんでしょ?
 ご堪能頂けたなら幸いです

 さて今回は、無人島漂流の回 。
 ですが、ご期待を裏切って唯依姫は漂流メンバーに非ず!……です。

 まあ「そのに」でイーニァと絡まなかったので、私が代わりにと言い出す事も無いだろうという事で、この様な展開になりました。
 ご不満のある方も居られるでしょうが、ご容赦を。

 それでは次は、裏の方で。
 誰の視点になるかはお楽しみに。





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