第24話



「ソ連とは、奇妙な国家でしてね」

 鎧衣は、観光旅行の感想を語るかのような気安さで、ソ連の内実を語る。ソフト帽をかぶったまま、座布団の上に座る壮年男性というのは、少し異様な感があった。

「ソ連共産党書記長は、公には一党首にすぎないわけで、国家元首でもなければ、政府の首班というわけでもない。国家元首は最高会議幹部会議長、政府首班は閣僚会議議長で、後者を首相と呼ぶ人も多いです。でも、代々、ソ連の実権を握ってきたのは、党の人事権を握っているソ連共産党書記長なんです。首相は、経済政策や社会政策上の細々とした問題を一手に引き受けています。最高会議幹部会議長は、単なる名誉職で、今ではお飾りみたいなものですな」

「ソ連の実態については、後で報告書を頼みます、鎧衣。それよりも、問題は能力者の読心にどう対応すればいいかでしょう」

 女中から差し出された茶を口に含みながら、悠陽は話題を転じる。
「今晩訪れるかもしれないというそのオルタネイティヴ計画の少女、本当にEPS能力が使えないのですか? 手許に読心能力者がいたら、普通の政治家はそれを情報収集のために用いるのではなくて?」
「や、この茶菓子は美味しいですな」
 と鎧衣は満足そうな顔をしながら、

「まず間違いなく、能力はほとんどないでしょう。先方が私を罠に陥れようとした可能性もありますが、こちらもその点については、抜かりなく調査しております」
 と続ける。

「そんなに茶菓子が気に入ったのでしたら、お帰りになるときにお渡ししますよ、鎧衣」
 と悠陽は口元に笑みを浮かべた。慣れると、鎧衣とのこうした雑談も、決して苦というわけではない。

「おお、それはありがたい。うちには、息子のような娘がおりましてな。いや、娘のような息子だったかな。あれに是非とも菓子を食べさせてやりたいのです」
「ふふ……。では、少し多めに準備させますね」
「有り難いことです」
「それにしても、問題は……ソ連に赴いた場合、確実に読心されるということですね。第三計画の子たちを会談部屋の隣に控えさせておく、ぐらいのことは先方とてやるでしょう」

「ソ連で国際会議がほとんどないのも、それが一因ですからな」
「ソ連の申し出は、帝国にとっても利益があるものですが……さすがに、国家機密を丸ごと察知されるというのは、好ましくはありません」

――いや、その心配はないだろう。
 ハマーンが、割って入る。最近では、悠陽の行動を見守ることが多く、あまり表立って助言してこなかっただけに、悠陽には少し意外な気がした。
――何か腹案があるのですね?

――腹案というほどのものでもない。リーディング能力のメカニズムを詳しく知っているわけではないが、能力によって読み取れる思考など高が知れているだろう。大体、人一人の心を理解しきるなど、当人ですら出来ないことだ。おそらく、表面的な感情の起伏や表層意識を読み取るだけであろう。

――その点は間違いないかと。バッフワイト素子があれば話は簡単なのですが、あれもBETA由来の特殊元素ですから、現状では入手できません。

――そんなものがなくとも、どうとでもなる。私たちは、そもそも二人だ。表層意識どころか、深層意識まで並列して存在すると言っていい。ならば、私が表に出て攪乱し、お前が奥で思考すればいい。それだけで、リーディングをほぼ完全に程度防げるだろう。

 ハマーンの言に、悠陽はハッとする。
――確かに。それならば、能力者がいても問題になりませんね。

――まあ、私の存在が気取られるかもしれないが……。仮に私の思考を少々読まれたとしても、問題はあるまい。まず間違いなく、対リーディング攪乱のために、突拍子もない空想をでっち上げているだけだ、と分析されるだろうよ。
 ハマーンが、くつくつと笑い声を上げる。

「こちらの情報が筒抜けになるのを防ぐには、悠陽様にも対能力者訓練を受けていただくか、書記長との会談を電話で行うか」
 ここからが本題とばかりに、鎧衣は真剣な表情だ。それを遮るように、悠陽は、
「いえ、大丈夫でしょう。対能力者訓練について、後ほど詳しく説明してもらいますが、まず能力者のことは心配しなくてもいいと思います」
 と告げる。

 ふむ、と鎧衣は怪訝そうな顔をした。
「もしや、悠陽様は、リーディングを遮断するという例の素子でも入手されましたか?」

「似たようなものですよ、鎧衣。一人分しかありませんので、現状、私しか使えませんが」

 鎧衣がかすかに眼を細める。
「あれは、そう簡単に手に入るものではないはずなのですがね。情報省も入手経路を色々と探っているのですが、芳しくありません。一体、どうやって入手されたのですか?」

「そのことは、別の機会にお話しましょう、鎧衣」
 まさか、自分には二人分の人格があるから問題ないのだ、とも言えずに、悠陽は鎧衣の追求を躱す。

「悠陽様、御客人がお見えになりました」
 鎧衣がなおも悠陽を問い詰めようとしたところで、女中が来客を告げる。
「そなたが招いた客人が到着したようですよ、鎧衣。我々も参りましょう」
 悠陽は、座布団からスッと立ち上がって、ふすまを開けた。





 応接間に至る廊下を、白熱電球の暖かい光が照らす。歩を進めるたびに、床板が悠陽の足元で鳴き声を上げる。単身乗り込んできた密使は、一体どんな人物だろう、と悠陽は胸を躍らせる。鎧衣は詳しく知らせてくれなかったが、外見は自分と同年代だろう。能力者は現在、第六世代まで「開発」されており、一般論としては世代を重ねることに能力を向上させている。遺伝子工学の狂気が生み出した、哀れな子どもたち。

 悠陽の知る限り、彼らの多くはスワラージ作戦に参加し、二度と還ってはこなかった。そして、今回のスワラージ作戦でもおそらくは……。

 執事が、応接間の扉を開ける。
 シャンデリアの眩い光が、薄暗い廊下に差し込んでくる。かすかに目を細めながら、悠陽は室内に入る。和風の屋敷には似つかわしくない、19世紀ヨーロッパ風の応接間だ。10人は座れる大きなマホガニー製のテーブルに、純白のテーブルクロスが掛けられており、シャンデリアの光を漂白している。

 そのテーブルに、一人の少女が腰を下ろして、紅茶を飲んでいた。ウェッジウッドのティーカップに口づけするその姿は、西洋絵画から抜け出た妖精のよう。悠陽の到来に気づくと、彼女は静かにカップを置いて、ふわりと重力を感じさせない所作で立ち上がった。

「お初にお目もじつかまつります。わたくしは、トリー・ビャーチェノワ。訳あって父称はございません。煌武院悠陽様におかれましては、このような機会をお与え頂きまして、恐悦至極に存じます」

 そう言うや、トリーは両手でワンピースの裾を掴んで、軽く膝を落として一礼した。

 父称とは、名前と苗字の間に父の名前を挟むというロシア特有の慣習。アレクサンドラ・ヴラディーミロヴナ・リトヴャグならば、アレクサンドラが名前、ヴラディーミロヴナが父称、リトヴャグが姓となる。父称がないということは、すなわち父がいないということ。

 そして、トリーとはロシア語で数字の3を意味する。ビャーチェノワという苗字も、5を意味するロシア語のピャーチをもじったもの。
 第五世代の3番目。
 それが彼女の名であった。

「顔をお上げください、ミス・ビャーチェノワ。煌武院家へようこそお出でくださいました。そなたの来訪を心より歓迎します」

 姿勢を戻したトリーが、悠陽を見つめる。鮮血色の瞳が、シャンデリアの光を吸い込んで一際輝きを放つ。心の奥底まで見透かすような、透明なルビーの光であった。

 「どうぞ、おかけになってください」と告げると、悠陽はトリーの向かい側の席に着く。すぐさま、執事が手慣れた所作で紅茶を運んできた。

 執事が一礼して退室すると、悠陽は口を開いた。
「さて……。そなたのことは、鎧衣から聞いています。何でも、重要な相談事があるとか? 今、この世界に生きる私たちにとって、時間は貴重なもの。早速お話を伺いましょう」

「ありがとうございます、ミス煌武院。話というのは、他でもない、日本帝国を我々ソ連に支援させて欲しいのです。聞くところによれば、日本帝国はボパール・ハイヴ攻略に本腰を入れて取り組むとか。スワラージ作戦を主導するインドなどは、ハイヴ攻略を諦めているようですが、日本帝国は違う。コルニエンコ書記長も、日本の英雄的な企図に強く共鳴いたしております。ソ連と日本帝国が手を組めば、きっとハイヴを攻略できましょうし、無体な要求を繰り返す米国を撥ね除けることもできましょう」
 銀色のヴェールのような髪が、トリーの肩でさらりと波打つ。

「ほう……。貴国がかくも日本帝国の命運に関心をお持ちとは、この煌武院悠陽、寡聞にして存じ上げませんでした。帝国がボパール・ハイヴ攻略に力を入れているとのお話ですが、さてどこからそのような話を耳にされたのやら。もちろん、アジアの一国として、帝国としてもスワラージ作戦成功にできる限りの支援をする予定のようですが……。私は、このとおり飾り物の稚児にすぎませんから、詳しくは存じませんよ、ミス・ビャーチェノワ。そもそも、私の理解が正しければ、スワラージ作戦を主導するのは、インドではなくてソ連ではないですか?」
 と悠陽は、ことさらに冷たい笑みを浮かべながら、切り返す。

「どこからそのような話を耳にされましたやら。国連の公式発表でも、インドが中核を担う作戦とされているはずですが……。もちろん、ソ連としても、友好国インドの危機に手を拱いているわけには参りませんから、できる限りの支援はいたしますが」
 と薄紅色の唇に、トリーは笑みを貼り付ける。

「でしたら、お互いにBETAに対する同盟国ということになりますね。結構なことではありませんか。日ソがイデオロギーを脇に置いて、共同でインドの作戦を支援する。何も問題はありません」
 話は終わりとばかりに、悠陽は話を打ち切る所作を見せる。これで少し慌ててくれれば可愛げもあろうが、この美しい少女は平然と切り返してくるだろう、と予期しながら。

「まあ、そう話を急がないでください、ミス煌武院」
 トリーは艶然と微笑む。花の蜜に吸い寄せられる蜂のごとく、自然とその笑顔に惹きつけられる。それだけの魅力を、トリーの微笑みは持っていた。

「帝国は、機体の整備などが遅れて、スワラージ作戦開始までに準備が整いそうにないご様子。聞くところによれば、作戦の延期をインドに提案されたとか。一刻も早い作戦開始を望むインド政府は、当然そのような提案を受け入れはしないでしょう。国連加盟諸国も、概ねインド政府の主張に理解を示すでしょう。ソ連としても、インド政府の主張は正当だと判断いたしております。ですが、帝国の機体整備が完了することで、作戦成功率が僅かでも上がるのであれば、帝国の案も検討するに値すると考えております」

「これはこれは。帝国がそのような提案をしているなど、耳にしたこともございません。ミス・ビャーチェノワは何か勘違いをされておられるのではないですか? ですが、仮定の話としては興味深いですね。歴史上のイフを語り合う知的遊戯の一環としてお付き合いいたしますと、そのような場合、帝国は自説を撤回するのではないかと思います。何と言っても、当事国たるインドの主張を最優先すべきですから」

 ソ連は、悠陽の企図をどこまで掴んでいるのか。それを探ろうとして、悠陽は敢えてとぼけた答えをしてみせる。相変わらず、顔には作り物の笑みを貼り付けたまま。

「ええ、そういう考え方もあるかもしれませんね、ミス煌武院。ですが、私の考えは少し違います。聞くところによれば、日本帝国は、米国にスワラージ作戦参加を持ちかけ、その代償として、食糧プラント技術や戦術機関連技術の提供に同意したとか。かの国らしいやり口です。わずかばかりの部隊提供と引き替えに、日本帝国の武器である科学技術を奪おうとするなど……。独占資本の帝国主義的策謀に断固として反対するソ連政府といたしましては、米国に搾取されている日本帝国に是非とも支援の手をさしのべさせていただきたいのです。日本帝国が万全の体勢でスワラージ作戦に参加することで、作戦成功率が上がるのが確実であれば、ソ連といたしましては、インド政府を説得することに吝かではありません。説得に成功すれば、米国に煩わされることなく、ボパール・ハイヴ攻略に乗り出すことができますわ」

「あくまでも仮定の話ですが、それは日本帝国政府にとっては一助となるでしょう。ですが、別段日本は米国に搾取されているわけではありませんよ、ミス・ビャーチェノワ。仮に技術供与合意が成立したとしても、それは同盟国間の自然な取り決めです」

「これはこれは……。聡明なミス煌武院のお言葉とも思えません。米国が、不当にも日本を属国として扱い、米国製品購入を強要し、日本帝国内に無数の基地を建設し、不当な価格で帝国の固有技術を略取していること、知らぬ者はございませんわ。ソ連政府としましては、そのような米国の植民地主義的政策から、日本帝国が脱するのをお助けしたいのです。日ソが団結すれば、米国の介入なしにスワラージ作戦を遂行することができるでしょう。また、日ソ共同で戦術機や食糧プラント技術開発に乗り出せます。技術を高額で他国に売りつけて暴利を貪る米国とは異なり、これは人類全体の利益になるのではないでしょうか?」

 あまりにも予想通りすぎて、逆に悠陽は警戒する。何かとんでもない隠し球を持っているのではないか、そういう予感がうなじを這い上がってくる。

 日米を離間によって切り離し、日本を抱き込んでスワラージ作戦の成功率を上げ、日ソ技術協力によって日本から技術を得る。ソ連にとって損のない、魅力的な取引だ。BETAと交信するというオルタネイティヴ3本来の目標は果たせないだろうが、人類初のハイヴ攻略という名誉は、それを補って余りある。

 一方の悠陽にとっても、一点を除いて損はない。技術供与自体は外交取引の材料にすぎない。安く買い叩かれるのは問題だが、商人のように最高値で売ることを目指す必要はないのだ。日米離間策も、立ち回り次第では、米ソの間で日本帝国が外交上の地位を向上させるチャンスにもつながる。スワラージ作戦で名声を勝ち得れば、中国大陸でも日本帝国の主張が反映される公算が高くなり、中国戦線での不要な犠牲を減らすことができるかもしれない。

 だが、悠陽にとって致命的な問題も存在した。それは、オルタネイティヴ3が成功したと見なされることである。オルタネイティヴ3本来の目的が達成されなくとも、ソ連はハイヴ攻略をオルタネイティヴ3の成果だと主張するかもしれない。オルタネイティヴ3の内容を見れば、それが全くの嘘だということは明らかだが、オルタネイティヴ3をめぐるゴタゴタでオルタネイティヴ4の始動が遅れるのは好ましくない。

 いずれにせよ即断できる内容ではない、と悠陽は息を吐く。

「知的遊戯としては、面白い内容でした、ミス・ビャーチェノワ。夜も更けて参りましたし、今日のところはここまでにしておきましょうか」
 と悠陽が会話を打ち切ろうとしたところで、急ぎ足で廊下を歩く音が二人の少女の耳に飛び込んでくる。煌武院家の者にしては珍しい。何か相当な大事でもあったのだろうか、と悠陽が後ろを振り返ろうとしたとき、扉が軋みを立てて開いた。

 執事が、悠陽に小さな紙片を差し出す。


 はじめの一行を目にした瞬間、悠陽は大地が音を立てて崩れ去るような衝撃を受けた。
 全く予期していなかったと言えば嘘になる。でも、信じたくはない。心が千々に乱れた。
 まさかと思い、執事のほうを振り向くと、
「参謀本部の東条中佐よりの緊急電にございます」
 と執事が耳元で囁いた。
 参謀本部でこの情報を入手した東条が、わざわざ知らせてくれたのだ。


 一行目は、素っ気ないほどに簡潔であった。


「ストックホルム陥落ス」


 微かに手が震えるのを、悠陽は抑えることができなかった。ロンメルは、基地の者たちは無事だろうか、と不安が脳裏を駆け巡る。

 ほんの少し前までは、悠陽自身ストックホルムにいたのだ。滞在時期が少しずれていたら、北欧戦線崩壊に呑み込まれて、悠陽自身どうなっていたか分からない。

「どうされました、ミス煌武院? 随分とお顔が優れないご様子ですが……」
 心配そうな表情で、トリーが尋ねる。

 悠陽は、呆然としたまま、
「ストックホルム基地が陥落したそうです」
 とだけ答えた。

 東条のメモには、戦闘経緯も記されていた。
 三個の梯団からなるBETAの大群を前に、ロンメルは光線級排除を最優先にした前進防御で対応しようとしたらしい。だが、母艦級による大規模な別働隊が基地を強襲する危険性を計算して、迎撃地点はストックホルム基地から数十キロしか離れていない場所であった。

 そして、ロンメルの懸念は的中した。
 最悪の形で。

「それは……。あの名将の誉れ高いロンメル将軍です。無策のままやられたりはしないはずです。BETAはそれほどまでに大群だったということですか?」
 悠陽を気遣うような、それでいて落ち着いた声でトリーが尋ねた。

「そうですね。たしかにBETAの規模も、三個軍団程度と多かったようです。ですが、問題なのはそこではありません。BETAは母艦級を戦術的に用いたようです」
 絞り出すような声で、悠陽が応じた。

「と言うと?」
「光線級吶喊支援のために遅滞防御にあたった戦術機部隊の直下に母艦級が出現し、防衛線を突破。それと同時に、砲兵陣地や防御陣地にも、母艦級による地中からの集中打撃が加えられ、この時点で防衛線は各所で寸断されたようです。そして、第一波を構成する突撃級が基地に突進すると同時に、最後の母艦級群が地下から基地を食い破り、北欧軍を半壊に追いやったようです」

「地中からの近接支援ということですか……」
「そういうことになります。母艦級がこのような形で投入されることは、戦理に適っていること。もし私がBETAを指揮するのなら、このような母艦級の運用法を考えるかもしれません。ですが、母艦級をこれほどまでに集中的に運用するとは……」
「問題は、BETAがそのような合理的な運用法に気づいたということ、ですね」

 トリーは声に溢れんばかりの思い遣りを滲ませる。まるで、シェイクスピアの悲劇を演じる名優のように。


 そうですね、と視線をトリーに戻したとき、悠陽はトリーが微かに表情を崩しているのに気がついた。
 普通ならば気づかなかった、本当に微かな表情筋の変化。悠陽が目撃したのは、偶然の産物であったと言って良い。



 トリーは。
 声を立てずに、表情もほとんど変えずに。
 瞳には優しさを湛えたまま。

 嗤っていた。

 その意味を理解するにつれて、悠陽は背筋が凍るような戦慄を覚えた。

「BETAがこのような新たな戦術を取ってくるとは……。人類としても総力を挙げて次の作戦を成功させなければなりません。そう思いませんか、ミス煌武院?」
 銀鈴を転がしたかのようなトリーの声が、全てを語っていた。


 ストックホルム基地壊滅の報こそが、トリーが切った最強の手札。
 
 おそらく、この情報をKGB経由でいち早く入手したトリーは、悠陽のもとにこの情報が届くタイミングを見計らって、煌武院邸を訪れたのだろう。悠陽は、そのことに何の疑いも持たなかった。

 突然の情報で悠陽に不意打ちを与え、交渉を自分のペースで進めようとする、高度な外交術。

 悠陽とて、ストックホルム基地がもう持たないということは、冷静に認識していたし、いずれ北欧は落ちるだろうと予想していた。
 だがそれでも、ストックホルム陥落の情報は衝撃的であった。

 もはやBETAを前にして、人類同士で駆け引きに興じている時間はない。その思いは、抑えがたいほどに強くなっていた。

 ソ連の提案それ自体は、米国のスワラージ作戦参加、日米関係の取り扱い、オルタネイティヴ4への影響という点をクリアできれば、さほど問題ない。いや、突き詰めれば、オルタネイティヴ3を終わらせる目途さえ立つならば、それで充分。

 おそらく、相当な技術支援を要請されることは間違いないだろう、と悠陽は嘆息する。

 そして、日本政府を説得し、米国の反発を宥めるために、米国にも更なる技術を供与せざるをえなくなる。

――その気になれば、装甲駆逐艦向けの新技術などいくらでもある。それを融通すればいい。何なら、ムサイ級のデータを丸ごと、動力炉やミノフスキー粒子関連を除いた上で提供してもいい。それで、オルタネイティヴ5派を黙らせることはできるだろう。宇宙船開発に弾みがつくのだからな。
 ハマーンの言葉は、悠陽にとって何よりの救いだ。
――そう……そうですね。もはや、迷っている時ではありません。

 今のところは、トリーに勝ちを譲ろう。苦い思いを噛みつぶしながら、悠陽は動揺を押さえつける。
 応接間の中央に端然として座るトリー。
 その美貌も、その笑みも、今となっては、人形師の生み出した仮初めの仮面にしか感じられない。

「どうやら、ミス煌武院はお疲れのご様子。また後日にでも、話し合いましょう」
 医師が患者を観察するような、感情を感じさせない眼差しを悠陽に向けたまま、トリーは立ち去ろうとする。

「そうですね。お話の件については、少し考えてみましょう」
 と悠陽は椅子から立ち上がりながら、応じた。



 トリーを送り出した悠陽が、東条からストックホルム陥落に関する詳細な情報を聞き出している頃。

 帝都の中心部に位置するソ連大使館に戻ったトリーは、揉み手をせんばかりに出迎えた駐日大使に冷たい一瞥をくれたのち、大使専用のクレムリン直通電話の受話器をとった。

「書記長閣下、トリー・ビャーチェノワです」
「ああ、君か。煌武院嬢との接触はどうだった?」
 深い知性を感じさせる声が、受話器から零れ出る。

「はい、まずは成功かと。細かい条件で相応の譲歩は必要になるかもしれませんが、大筋では想定の範囲内です」
「それは重畳。いい加減、米国以外の超大国が存在することを、人類は思い出すときがきたということだ」
「然様にございます」
 満足そうなコルニエンコ書記長の様子に、トリーはそっと胸をなで下ろす。

 研究所の冷たいリノリウムの床。
 暖かみの全くない銀色の蛍光灯。
 無機物を見るかのような研究者たちの眼差し。

 やがて、失敗作として、研究者たちから完全に無視されて、捨てられた日々。

 あそこでは、時折訪れる内務相の、ナメクジのようにねっとりとした視線すらも、人間味を感じさせた。彼が連れ去る少女が羨ましく思えるほどに、トリーはヒトに飢えていた。

 だからこそ、今の彼女にとって、あの無機質な地獄から連れ出してくれた書記長が、全てであった。
 

「だが、気は抜くなよ、トリー。KGBの報告によれば、どうにも今の日本帝国はきな臭い。煌武院悠陽は、あの年ですでに優れた資質をいかんなく発揮している。当然、それが気にくわない人間もいる。それも、帝国の上層部に、な。だが、君も重々承知していようが、我らにとって煌武院悠陽は実に都合のよい人物だ」

「はい。今回の交渉、一命に代えましても、必ずや成功させてご覧に入れます」
「こちらは、グレチコが遺した置き土産の後始末でしばらくは手一杯だ。そちらのことは頼んだぞ……。六歳にしてアカデミーの研究員を凌いだと言われるその才覚、思うがままに発揮してみせよ」
「はいっ」
 悠陽が見たら瞠目したであろう。
 感情はおろか、髪の毛のほつれに至るまで計算し尽くしているかのような、あのトリー・ビャーチェノワが、かくも弾んだ声を出したことに。

 それは、心から滲み出た歓喜の声に似ていた。



押して頂けると作者の励みになりますm(__)m


<<前話 目次 次話>>

作品を投稿する感想掲示板トップページに戻る

Copyright(c)2004 SILUFENIA All rights reserved.