……何だ、これは?
一週間くらい前からだけど、周りの音も、声も、ほとんど耳に入ってこない。
なのに私の奥底から、私の中に堆積する闇の中から漏れ出してくるその不気味な声だけは、
耳に、そして頭にやかましい程に木霊していて………。
私の精神が……意識が………、そして心が………。
その声に、黒く塗りつぶされていく………。
私が……「ちっぽけ」で「空っぽ」な私が……、まるで私の中に蠢く別の何者かに
支配されて……蹂躙されて……消えていく………?

嫌だ………嫌だ…………。
怖い……………怖いぃ……………。
助けて………誰か……………………。

教官……教官………私を……助けて、下さい………。
私はまだ、消えたくない………。
貴女のように………なるまで、は…………。
貴女のような………自分の全てを使って………誰かのために戦えるような人間になるまでは……。
………私の生に、意味があると………思えるように、なるまで、は…………。
































「アスカ君っ!?本当にアスカ君なのっ!?千冬様から少なくとも三ヶ月は
 入院だって聞いてたけど、もう動いて大丈夫なの!?」

「な、何か目の下に物凄いクマができてるけど………って、うわっ!?
 ア、アスカ君今少しふらつかなかった!?
 とても退院できるくらいに回復したとは思えないんだけど!?」

「お兄様、お兄様ぁぁぁぁ………。マユは………マユは……ずっとこの日を
 お待ちしていました……。お兄様がまた、その優しい笑顔をマユに向けて
 くれるその時を……。
 う………うぅぅ………うううぅぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」


……誰でもいいから、俺の周りを取り囲む彼女らをどかしてくれないだろうか?
このままじゃあ自分の席にすら座れない。
SHRまでに席についておかないと、何が起こるか知ってるだろう?
言うまでもなく、織斑先生による血の制裁だ。
それだけは、何が何でも回避しなければならない。
病み上がりの死に体でそれを受けたら、確実に死んでしまう。

それから秋之桜さん。
俺の無事を喜んでくれるのは非常に嬉しいんだけど………、俺の腰に手を回して
下半身にしがみつくの、そろそろやめてもらえないだろうか?
何故こんなおかしな格好になってるのかというと、もちろん理由がある。
俺が教室に入ったと同時にそれを見た秋之桜さんは目に涙を溜めてペタリとその場に
へたりこんで。
それがあまりに唐突で、心配になって近づいたらその体勢のままガバッと…………うあっ!?
あ、秋之桜さん顔をあんまり擦り付けてくるんじゃない!?
そんなことされたら……ぐっ……ある一部分が、変に刺激されて…………グゥゥゥゥ………!


「な、何を破廉恥なことをしているのだ秋之桜さんっ!?
 早くアスカから離れろ!アスカが困ってるだろうが!」

「きゃっ………!し、篠ノ之さん何をするんですかっ!?
 私は別にお兄様に破廉恥なことなんか………………………あ?
 ……………あぅ……………………」


肩を強く掴んで俺から引き剥がそうとする篠ノ之に強く抵抗していた秋之桜さんは、
自分が今どこに擦り寄っていたのかようやく気付いたらしく、トマトのように顔を
真っ赤にして、へなへなとへたりこんだ。
……どうやらそのあまりに際どい状況について察してくれたようだな。
やれやれ、ちょっと篠ノ之の態度は強引だったけれど、でもやっとこの束縛から
解放されて………………………って。


「………………秋之桜さん。いい加減、放してほしいんだけど………」

「ひゃっ!?あ………ご、ごめんなさいお兄様!な、何だか離れがたくって………」


そんなよく分からないことをゴニョゴニョ呟いていた秋之桜さんは、何故か名残惜しそうに
手を放してくれた。
……まあ、放してくれさえすれば、どうだっていいんだけどさ。

それによって宇宙へだって飛び出せる無限の行動力を取り戻した俺は、さっそく目の前に
広がる女の子の大海原へ漕ぎ出して、やっとのことで席についた。
……ゆうに一ヶ月半ぶりに自分の席に座ったからか、とても感慨深いものがあって。
目を瞑って少しの間それに耽っていると、側に誰かの気配を感じて、目を開ける。
そこにはいつの間に近づいたのか一夏がいて、とても爽やかな笑みを向けてくる。
そんな一夏を見て、俺も知らず、笑みがこぼれた。


「ようやっとここに戻ってきたな、シン。ったく、散々心配させやがって……。
 ………でも、嬉しいよ。お帰り、シン」

「……ああ、ただいま、一夏」


たったそれだけの会話が、俺にはとても嬉しかった。
俺には一夏の、俺に対する深い労わりと喜びが。
一夏には俺の今までの感謝の念が、それぞれしっかり伝わっていたし、伝わったに違いない。
以心伝心ってわけじゃないけど、その見えない繋がりが、とても暖かくて、
かけがえのないものに感じる。

しばし俺と一夏は無言で互いを見つめ合っていたけど、それも廊下から聞こえてくる
ドドドドドッっていう騒音によって打ち切られてしまう。
教室の前からキキーーーーッという車が急ブレーキをかけたような音がして、
少し遅れて、教室の扉がドカンと開かれた。
そこにいたのは俺の友達のツインテール中華娘。
肩で息をしていた彼女は俺の姿を見つけると、足早に近づいてきて、早速噛み付いてきた。


「やっぱりここにいたぁ!!ちょっ、シン!あんたねぇ、私が病院まで迎えに行って
 あげたってのに先に学校行ってるってどういうことなのよ!?
 病室がもぬけの殻で、思わず呆然としちゃったわよ!」

「ええっ?な、何だよいきなり……。いや、それは入れ違いになったことは悪かったけど、
 でも凰、お前今日迎えに来るなんて、一言も言ってなかったじゃないかよ?」

「うっ………。そ、そりゃあそうだけど………。
 でも…わ、私のせいでアンタ怪我しちゃったわけだし、退院のお迎えは
 私がしなくちゃと思ったの!察しなさいよっ!」


そ、そんなことで逆切れされても………。
でもその思いやり自体はとても嬉しいし、病室で入れ違いになったのは、本当に申し訳ない限りだ。
しかし凰の奴、「私のせいで」なんて、まだ俺の怪我のこと気にしてるのか。
凰は一ヶ月前俺が目覚めて以降、毎日見舞いに来てくれた。
病室への泊り込みは「私の方が慣れている」という理由で篠ノ之が頑としてそれを
譲らなかったので、それはなかったけど………。

とにかく凰は俺に対する自責の念に駆られて、そこまでしてくれたらしい。
俺が凰を庇ったせいで、俺が大怪我したんだと。
もちろん俺は凰にそれは違うって、口が酸っぱくなるくらいに言い聞かせた。
俺が怪我をしたのは結果論でしかないんだし、それを凰が苦にしているのを見るのは、
とても辛かったから。
だから今もそれに囚われているらしい凰にそれは違うと言おうとしたんだけど、それより先に
凰に声がかけられる。
今まで聞いたこともないほどに黒く濁った、彼女の声が。


「凰さん、さっきから見ていましたけど、ちょっと自分勝手が過ぎませんか?
 見てください、お兄様もとても困っています。
 ……そもそも凰さんはお隣の教室なのです。お兄様に迷惑をかけてまで
 ここに乗り込んでくる意味が分かりません。
 …もしよろしかったら、出入り口まで私がご案内しますが?」

「え…………。あ、あの………でも………………」


え…………え?
な、何だこの状況は?
秋之桜さんが凰にさっきまでのことをやんわりと注意している、はずなんだけど。
凰は何故かやけに怯えているし、秋之桜さんに至っては能面の上に貼り付けたような
笑みを浮かべて、虚無の如き寒々とした言葉を淡々と凰に浴びせ続ける。

ど、どういうことだ?
マ………秋之桜さん、こんなに『悪意』のある言葉を誰かに口にするような人だったか?
今まで俺が見てきた彼女と今目の前にいる彼女はあまりにも違いすぎて。
俺はそんな二人をただ見ているだけしかできなかった。
教室の皆も、そんなのっぴきならない雰囲気の二人を、ただ遠巻きに見つめるのみ。
しかし凰の奴もびびり過ぎじゃないのか?
確かに今の秋之桜さんは怖いけど、凰ならそれを物ともせず言い返しそうなものだけど……。

そんなこんなで多分俺のせいでこう着状態になってしまった二人を見かねて
間に入ろうとするけど、それより早くこの沈んだ雰囲気を切り裂くような、
清涼な声が教室内に響き渡る。


「ちょっと秋之桜さん?先ほどから私も貴女を見ていましたが、貴女も少し
 自分の考えを押し付け過ぎではありませんか?
 鈴さんはシンさんを心配してこの場にやって来たのです。
 であればシンさんを取り巻く他の方となんら変わらない、苦言を呈するような
 ことではありませんわ。
 それにまだSHRは始まっていませんし、隣の教室で、すぐに戻ることができる
 彼女がいても、全く問題はありませんわね」

「………しかし、彼女の奔放過ぎる行動・言動に、お兄様は困っています。
 そこだけは断固として譲るわけには………」

「い、いや!俺は別に困ってなんかいないよ!少し驚きはしたけど、凰が俺の迎えに
 来てくれようとしたのは、本当に嬉しかったんだからさ。
 だから秋之桜さんも、それくらいにしてやってくれよ………な?」


セシリアの言葉に対してさらに重苦しいプレッシャーを強めて静かに言い返す彼女に、
俺は即座に割り込んでそう言った。
何かそうでも言わないと収拾がつきそうになかったから………ただの自意識過剰かも
しれないけれど。
でも俺がそう言うと彼女の瞳には光が戻り、顔には赤みが差していって。
そして再びいつもの花のような可憐な笑顔がパァッと咲き誇った。


「お、お兄様がそう言うなら、少しくらいの不満なんて………。
 それに……ふふっ、お兄様が私にお願い事をして下さるなんてとても
 嬉しいですし。マユがそれを断るわけ、ないじゃないですか。
 ……うっ……あんまり嬉しくて、動悸が………!
 ち、ちょっとお薬を飲んできますね?また来ます、お兄様……」


顔を上気させ胸を押さえながらヨタヨタと歩いていく彼女の姿は俺が日頃から
見慣れていたもので、さっきまでの彼女は別人だったんじゃないかとまで思えて。
俺はその突然の豹変ぶりに、しばしの間沈黙してしまっていた。
そんな情けない俺の横で、セシリアが凰に何やら話しかけている。


「鈴さん、全く貴女ときたら……。いつもの貴女ならあそこまで好き放題言われたら、
 真正面からパツッと言い返していたでしょうに……。
 今日はただ小さくなってしょげるだけで……情けないにも程がありますわよ」

「セシリア……で、でも私は…………」

「……彼女の言い分はあまりにも一方的ですし、今も、そしてあの試合でも、
 貴女は何も悪いことはしてなかったんですのよ。
 ……こういう時にはふてぶてしいくらいに笑ってみせるのが、凰鈴音という
 女だと、私は認識していましたが?」


セシリアの声色にはとても優しい響きが含まれていて。
顔を伏せてしょんぼりとしていた凰の表情が、少しずつ柔らかいものに戻っていく。
その女同士の友情とでもいうのだろうか?
それが、とても美しくて。見ている者に二人の間の、確かな絆を感じさせた。
……でも、俺にとって一番気になったのはそこじゃない。


(この二人、いつの間にこんなに仲良くなったんだ………?)


一ヶ月半前は互いに毛嫌いし合って、口汚く罵り合っていたのに……。
俺が入院していた間に、何かあったのか?
と、セシリアは俺の視線に気付いたらしく、その豊かな金髪をフワッとかき上げて、
こちらに顔を向ける。
その際シャンプーのいい匂いがして、思わず胸が高鳴った。


「どうしましたのシンさん?そんな呆けたような顔をなさって。
 もしかしてご自分の席から久しぶりに私を見たので、感動で
 放心してらっしゃったとか?」

「え?あ、いや確かにお前が横で座っているのを見るのは久しぶりで嬉しいけどさ。
 それとは別に……お前いつの間にか凰と仲良くなったんだな。
 秋之桜さんの様子がおかしかったことといい、びっくりしたぜ」

「……ええ、まあ。シンさんが昏睡状態だった時や入院している間に、
 色々あったんですのよ。まあそれはまた話すとして……。
 私も、この席に座りながらシンさんとこんな他愛ない話をするのは
 久しぶりで、とても嬉しいのですよ。
 ……もうあの時のような無茶はしないで下さいませ。
 心配で心配で、たまりませんので…………」


セシリアはそう言って、薄く微笑む。
でも……何だ?
その笑みも俺の目には心なしか歪んでいるように見える………とても悲しそうに。
それに疑問を覚えて首を傾げていると、ふと俺の頭の中にある言葉が浮かび上がった。



― 死なないで下さい………。私は、近しい人の死に目に会うのは、もう嫌ですわ…… ―



……あれ?何だったんだ今のは?
いきなり記憶の海から浮かんできた、この悲痛な声は………。
今の言葉、どこかで聞いたことはあると思うんだけど、さっぱり思い出せない。
セシリアによく似た声だったけど………う〜〜ん?
やけに気になるな、もう少し頭を絞れば、思い出せる気が………。


「し、シンさんっ!?」

「あ?」


ハッとして思考の海から顔を出すと、いきなり目の前にセシリアの顔があって。
その透き通るような蒼色の瞳に、思わず吸い込まれそうになる。
俺は火を噴出しそうになる顔を見られたくなくてセシリアから逸らそうとして、気付く。
俺の頭はセシリアの白魚のような細い手に支えられていて、体も左手で抱えられていて。
セシリアの表情もとても心配そうに歪んでいて。
ふとゆっくり周りを見てみると、いつの間にか一夏、篠ノ之、凰、秋之桜さん、そして
教室の皆が俺の周りに集まっている。
な、何だ?
皆いつの間に俺の周りに……?
というか、何で皆そんな心配そうに俺を見るんだ………?


「ど、どうしたんだよセシリア。一夏や篠ノ之たちも………。
 というか、何で俺、お前に支えられてるんだ?」

「な、何を暢気なことを言っていますの!?
 シンさん今しがた座ったまま倒れそうになってたから、私が慌てて支えましたのよ!?
 ……まさか、気付いてなかったんですの?」


た、倒れそうになっていた?俺が?
……ヤバいなぁ、全然気が付かなかった。
で、それに気付いたセシリアが俺を支えてくれて、皆も俺を心配して集まってくれたのか。
………申し訳ないことをしたな、穴があったら入りたいとは、まさにこのことか。
現状を理解して、俺はセシリアの腕を掴ませてもらって、ゆっくりと体を起こす。
ほんの少し眩暈がしたけど、普通に起き上がることができた。


「……ふう、悪い。知らないうちに迷惑かけてたみたいで。
 でも軽く眩暈がしただけだから、もう何ともないよ。
 ありがとな、セシリア」

「眩暈がしただけって……。本当に大丈夫ですの?
 やはり医務室に行かれたほうが………」

「そうだぞアスカ。無意識に倒れそうになったのに「何ともない」ことなどない。
 私が付き添うから、一緒に医務室に………」

「だから大丈夫だって!本当に大したことないし、今はもう何ともないんだからっ!
 ほら見てみろよ!腕を大きく広げて……いっちに!さんしっ!ってな!」


足も曲げて上下にスクワットしてみせる俺。
こんな、退院初日から教室中の皆に心配されるなんて、洒落にもなってない。
これくらい激しく動いてみせれば、皆も安心して………うっ!?
ま、不味い………。
今の上下運動のせいで、吐き気が………うぷっ。


「……やっぱりまだまだ本調子ではありませんのね。
 できるなら何とかして差し上げたいのですが、私は医師ではありませんし……。
 ……………………………………(ピコーン)!!
 そうですわっ!私にもできることといえば…………!」


俺なんかを心配して色々と思案していたセシリアは、瞬間目をキラキラと輝かせる。
何か良い事でも思いついたのだろうか?
子供っぽくはしゃぐセシリアを見るのは初めてで、でもだからこそとても魅力的に見えて。
思わずその顔に見とれていると、セシリアが俺の目前まで顔をズイッと近づけてきて、
心臓が早鐘を打つ。……それに何か甘い匂いがする。


「シンさんこの一ヶ月の間ずっと病院食ばかりで、まともな食事を摂ってらっしゃい
 ませんでしたでしょう!?
 ですから明日のお昼、私が手製のサンドイッチを作ってきて差し上げますわ!
 …そうですわ!皆さんの分も一緒に作りましょう!きっと楽しいランチになりますわ!
 そうやって美味しいランチを食べればシンさんもたちまち元気に!」

「「「「「ストーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーップ!!!!!!」」」」」


俺とセシリアと一夏を除く、教室にいる全ての人間から待ったの声がかかる。
セシリアも俺も、訳が分からずに目をパチパチと瞬かせるのみ。
と、そんな中最初に声を発したのは凰。
さっきまでのしおらしい態度はどこへやら。
いつものような荒ぶるそれで、セシリアに食ってかかる。


「セシリアっ!あ、あんた………あんたねぇ!!そんな天使みたいな笑顔で何つー
 爆弾発言を………!微笑みの爆弾も真っ青の破壊力よ!
 あんた、ただでさえ体調不良のシンに、とどめ刺す気なのっ!?
 つか『皆さんの分も』ってどういうことよっ!?
 まさかあんた、私たちまで毒物テロの標的に………!?
 何て恐ろしい女なの、あんたは………!!」

「ど、毒物テロ……!?鈴さん、いくら何でも失礼な」

「何が失礼かっ!あんなものを食べさせてアスカの身に何かあったら、お前にその
 責任が取れるのかセシリア!!
 認められんっ!承服できるかっ!そんな悪魔の所業が………!!」

「ほ、箒さんまで………そこまで言うなんて、あんまりですわ………」


さっきの凰ではないが、しょぼんと目を潤ませて項垂れてしまったセシリア。
俺もいつもの皆からは想像もできない暴言の数々に、思わず唖然としたけれど。
しかし皆は、それが悪いことだとは微塵も思ってないようで。
……そんなにヤバい代物なのか?セシリアのサンドイッチは?
でも、皆は必死にそんな事言ってるけど、それを食べたことのない俺の正直な気持ちは……。


「…………食べてみたいな、セシリアのサンドイッチ」

「「「「「えっ!!!!!?????」」」」」

「えっ(嬉しそうに)」


ボソッと呟いただけなのに、今までやかましく騒いでいた皆は、それを止めて
一斉に俺を見る……信じられないといった面持ちで。
……そんな顔しなくても。
だって、「手料理」だろ?心が躍るじゃないか。
ずっと前にこの世界に来たばかりで右往左往するだけで精一杯だった俺に、
厳さんが食べさせてくれたあの野菜炒めは本当に美味しくて。
何より、暖かかった。
まるで凍てついた、寒々とした心がゆっくりと解凍されていくような感覚。
それは俺が今、多分何より欲しているものだったのかもしれない。
だからこそ俺は、セシリアのサンドイッチを純粋に心から食べたいと思った。


「じ、じゃあ明日のお昼休みに屋上で一緒に食べましょう!中の具は何が
 よろしくて!?リクエストは何でも言って下さいな!
 それに購買で飲み物も用意しておきますわ!何がよろしいです!?」

「俺は雑食だから、具は何でもいいよ。飲み物だって俺が購買で………………?
 おい篠ノ之、秋之桜さんも。
 何で俺の服を掴む?皆も、そんな顔してどうしたんだよ………?」


何だ二人とも?
俺の服の裾を引っ張りながら、涙目でただ首を横に振るだけ。
声には出さずに目だけで懇願してくる。
……「止めてくれ」と、「死ぬから」と。
………そんなになのか?セシリアの手料理は?

後他の皆が死地に赴く仲間を見送る時のような顔を向けてくるんだが、
「不吉だからやめろ」と、そろそろ言うべきなのだろうか?
と、女の子たちに道を譲ってもらって一夏がやってくる。
そして俺の肩にポンと手を置いて、力強く言ってくる。


「シン、お前の心意気、見せてもらったぜ!ここまで言っておいて後に引くのは
 男じゃないよな!精一杯食べて来い!
 …大丈夫、本当にヤバそうだったら止めてやるからさ」


親指をグッと立てて、最後の方は俺にしか聞こえないくらいのボリュームで呟いて。
……何でだろう?一夏のその言葉が、俺には死刑宣告にしか聞こえない。
と、その時扉がガラッと開いて、皆一斉にそっちを見ると、織斑先生と山田さんが立っていて。
……織斑先生が自分の肩を出席簿でポンポンと叩いていて。
極寒の視線でもって、俺たちを見回す。


「……もうとっくにSHRの時間は過ぎてるのだが、お前らはその時間に、一体何を
 話してるんだ?私にも聞かせてくれないか、ん?」

「「「「「な、何でもありませ~〜〜〜〜〜んっ!!!!!」」」」」


蜘蛛の子を散らすとでも言うのだろうか?
彼女の姿を見たとたん、皆慌ててそれぞれ自分の教室へ、席へと戻っていく。
篠ノ之も秋之桜さんも何か言いたそうにはしていたが、結局それぞれの席に戻っていく。
教室がひとまず平静を取り戻したのを確認してから、先生は大きく溜息。


「…全く、今日からISを使った実戦訓練が始まるから気を引き締めるように言おうと
 思っていたんだが、それ以前の問題だったか?
 ……まあいい。今日は重要な事項もあるし、この辺にしておこう。山田先生……」

「織斑先生まだ顔怖いです。全然『この辺』で終わらせてないで痛いっ!!?
 すいませんすいませんっ!もう言いませんから出席簿をしまって下さいっ!!
 ……ううっ、痛い………。ぐすっ……えと、ですね………。
 今日からこの教室に新しい仲間が加わります、それも二人もっ!」

「「「「えぇ〜〜〜〜〜〜〜!!??」」」」


先ほどのテンション大復活。
皆席を立たんばかりに顔を上げて、互いを見回しペチャクチャと話し出す。
確かに、この半端な時期に転入生、しかも二人ってのは珍しいことは分かる。
…まあその内の一人は多分、アイツだろうな。
同じ教室になるなんてな、偶然って恐ろしい……。

でももう一人転入生がいたなんてな。どんな奴だろう?
そんな事を考えていると扉が開いて、転入生が入ってくる。
その内の一人は予想通りデュノアだったが、もう一人は思いがけない奴だった。


「アイツ、今朝の………」


床まで伸びてそうな豊かな銀髪は、まるで寝起きのようにグシャグシャで、
目の下には大きなクマができていて。
まるで目の焦点が合ってないようにフラフラとしている眼帯をつけた彼女は、
俺が今朝学園内でぶつかったあの娘だった。
容姿も雰囲気も、多分性別も違う二人を前に、教室の皆は、ただポカンと口を開けるだけだった。































「シャルル・デュノアと言います。一応、フランスの代表候補生です。
 これからよろしくお願いします」


ピシッとした姿勢で丁寧にお辞儀を一つ。
しかしその表情、雰囲気はとても柔らかくて。近づき難い感じは一切ない。
その物腰柔らかな貴族然としたデュノアを見て、教室の女の子たち(一部除く)の
顔が上気していく。
誰かがデュノアを指差して、震える声で、尋ねる。


「あ、あの山田先生。彼……いや彼女?シャルル……君?それとも……」

「僕は男ですよ。だから皆も僕を『シャルル君』って呼んでくれると嬉しいです。
 それにこのクラスには二人も僕と同じ男性の操縦者がいるみたいだから、
 とても安心でき…………うわぁ!?」


『男』、その単語が出たとたん皆ガタッと身を起こし、デュノアの台詞が終わると同時に
立ち上がって、黄色い絶叫を上げる。「ウワァーーーーーーー」てな感じの。
一夏は新たに現れた男性操縦者の存在に、キラキラした目でガッツポーズしているし。
篠ノ之、セシリア、秋之桜さんも、流石に目を丸くして驚いている。

……やっぱり皆、デュノアが男に見えるのか。
俺にはどう見ても「可愛い女の子」にしか見えないんだけど、俺の目がどうにかなって
しまったのだろうか?
昨日初めて会った時から、下着云々を抜きにしても、俺にはデュノアが女の子にしか
見えなかった。
本人は男だと言い張るし、制服も男物を着ていたからそれ以上の追及はできなかったけど。
確かに中性的な顔立ちではあるんだけど、それでもあれを男と思うのはどうなんだ?
……いや、もちろん俺の目がおかしいという可能性も否定はできないんだけど。

…まあ、それは確認しようのないことだし。
デュノアがこの教室に受け入れられたようで、とりあえずは良かった。
昨日のあの酷い状態よりかは、少しは元気になったようだし。

それより……気になるのはもう一人の方。
今も真っ青な表情で顔を少し俯かせている彼女だ。
今朝会った時も、それはそれは酷い顔をしていたが、今はその時よりもさらに酷い。
まるで生気を感じない、半死人みたいだ。
……何故だ?その姿にやけにデジャヴを感じる。


「では次はラウラさん……ラウラさん?あの、大丈夫ですか?
 やっぱり医務室で休んでいたほうが……。今もすっごいフラフラしてますし……」

「………いや、それには及ばない…………………………」

「……ラウラ、そこまで言ったのだから名前だけでも言ってしまえ。
 自己紹介はそれだけで構わん」

「教官………分かりました。…………ラウラ・ボーデヴィッヒ…………」


それから、無言。
本当に名前だけ言って終わりやがった。
でも、それも仕方ないと思えるほど、ラウラと名乗った彼女は消耗していた。
……こんな状態でISなんて扱えるのか、彼女?
というか日常生活すら危うい気がするが………。
そんなこんなで二人の自己紹介が終わり、それぞれが空いた席に向かう。
でも皆の視線はデュノアよりもボーデヴィッヒの方に注がれている。
だって彼女はまるで夢遊病患者のようにフラフラとおぼつかなく歩いているから。
見ているこっちがハラハラしてしまうほどで……。
と、ボーデヴィッヒが席に向かう途中、一夏と目が合った。


「お前、は…………………?」

「え?ああ、俺は織斑一夏。ラウラ、だっけ?よろしくな。
 というかお前、大丈夫か?まるでシンみたいにヨロヨロだけど……」

「………織斑、一夏……………?」


一夏は初対面のボーデヴィッヒのことを心配してそう語りかけるけど
ボーデヴィッヒは一夏の名前を聞いたとたん、曖昧に宙に彷徨わせていた視線を、
一夏にぐるんと向ける。
そこで俺の体に、稲妻のような電流が走った。

この、感じ………!?
ボーデヴィッヒから突如放たれたそれは、紛れもなく殺気だった。
しかも、何だこの荒々しい殺気は!?
ただただ真っ黒で狂気に満ちた殺気。
こんな禍々しい殺気、俺も久々に感じる!こんな殺気を、彼女が出してるっていうのか!?
それに気が付いたのはどうやら織斑先生、山田さん、一夏、セシリア、そして篠ノ之と秋之桜さん。
皆一斉にボーデヴィッヒを見て、固まる。
俺もボーデヴィッヒを見て……いや、実際にはその目を見て、息を呑む。
彼女のその真紅の瞳は色を失っていて、その奥に真っ黒な何かが鈍く光っている。
それは俺が元の世界でよく見ていたものだった。
狂気に染まり、我を忘れた人間の目……殺人者の目。


「オリムラ………イチカァァァァァァーーーーーーーー!!!!!」

「な、何だとっ!?」


ボーデヴィッヒは突如その右手に真っ黒な剣を呼び出す。
ISは展開させず、剣のみを。
それを雄叫びを上げながら、一夏に向かって振り上げた。
一夏も慌ててISを展開しようとするが、突然だったこともあり反応が遅れている……間に合わない!

俺はボーデヴィッヒの狂気に染まった紅い瞳を見た瞬間に、既に飛び出していた。
走りながら高速で脳をフル回転させる。
くそっ!このままじゃタッチの差で間に合わない!?
しかしここでISを展開したら、他も皆にも被害が出てしまうかも……!
どうしたら……………!?



― …………大丈夫………… ―



……ん?
何だ、今のは?



― ………右手、出して………? ―



右手?右手がどうした…………って?
ひ、光ってる?
これは、ISの武器を展開する時の光?
しかし、俺はまだISは装着していないし、武器を展開しようとも思っていなかった。
なのに、どうして………?



― ……受け止めて?そこに、ずっといるから、シン…… ―



受け止めてって………。
と、その光は一瞬で収まって。
俺の手にはいつの間にか『蒼い絆』が握り締められていた。
な、何でいきなりコイツが………。
それを驚愕の目で見ていると、その刀身の中で揺らめく青い光が、俺に語りかけてきた……気がした。



― ……行こう?シン、ずっと一緒に……… ―



その声はそれを最後に途切れてしまって。
俺はその声について深く考える暇もなく、『蒼い絆』を前に向かって目一杯伸ばした。
ガキィン!!と俺の『蒼い絆』がボーデヴィッヒの黒刀をギリギリで受け止める。
ま、間に合ったか!でも、凄い威力だ。
こんな攻撃が人間に当たったら、もはやそいつは原型を留めてはいないだろう。
ボーデヴィッヒの奴、本気で一夏のことを殺そうとしやがったのか!?
しかし、よくこんな攻撃を下手な体勢で伸ばした『蒼い絆』で止められたな。
と、今更気付いたが『蒼い絆』を支えるようにしてもう一本、ISの近接ブレードが展開されていて。
それがボーデヴィッヒの剣と俺の『蒼い絆』、二本分の衝撃を受けきってくれたらしい。
それを振るっていたのは、織斑先生。
いつの間にここまで移動したのかわからないが、彼女は尚も黒刀を押し留めながら、
ボーデヴィッヒを睨みつけた。


「……ラウラ、これはどういうことだ?
 許可なく武装を展開し、無抵抗な一夏へそれを使用しての攻撃……とても許されることではない。
 事と次第によっては、いくらお前といえど………………」


そこで、織斑先生の追及の手が止まる。
疑問に思って先生を見ると、先生の視線はボーデヴィッヒの顔に注がれている。
俺は訝しげに思いながらボーデヴィッヒを見て、同じく固まる。


「あ……………あれ?わ、私いつの間に剣を……………?
 ………あ、あぁぁ………、私、また…………………………?」


ボーデヴィッヒの目には弱弱しくも光が戻っていて。
それが彷徨うようにユラユラと揺れていて。
彼女は自分の手に握られている黒刀を見てカタカタと震えだし、即座に解除。
そしてガクッと膝を折ってその場にへたり込んで。
両手でギュッと自分の両肩を抱きしめて、体をフルフルと震わせて嗚咽を漏らし始めた。
その揺れる瞳はまるで迷子になった子供のようで、それを見ていたらボーデヴィッヒを
糾弾する言葉もいつの間にか忘れていて。
織斑先生はじっとボーデヴィッヒを見つめていて、ついっと視線を一夏へと向ける。


「………一夏、大丈夫か?」

「俺は大丈夫だけど、ラウラ、どうしちまったんだ?
 酷く憔悴してるようだけど………」


今しがた殺されかけたばかりだというのに、ボーデヴィッヒの姿を見たとたん
心から心配しているように声をかける一夏に、唖然としてしまう。
ここまでくると、尊敬までしてしまう。
俺だったら絶対「アンタは一体何なんだぁ!?」とか言いそうだし。
と、織斑先生はボーデヴィッヒに肩を貸して立ち上がらせる。
ボーデヴィッヒはそれにされるがままで、未だに顔を俯かせている。


「私はラウラを部屋に運んで、落ち着かせる。山田先生、後を頼む。
 お前たちも一限目は早速ISの起動練習だ。各自ISスーツに着替えて、第二グラウンドに集合しろ。
 ………それからアスカ」

「はい?」

「お前は医務室へ行け。……気付いてないようだが、左腕、血が垂れてきているぞ」


何っ!?
俺はギョッとして左腕を見る。
すると確かに左腕は真っ赤に染まっていて、ポタポタと床に血が滴っていた。
それを認識すると同時に、じわじわと痛みが広がってくる。
チッ!さっきボーデヴィッヒの攻撃を止めた時、衝撃で傷口が開いたのか!
そりゃISも装着せずにボーデヴィッヒの攻撃を止めたんだから、こうなるか。
織斑先生が一緒になって止めてくれなかったら、俺の腕は今頃根元から
ポキリだったかもしれない。
というか、制服が!下ろしたばかりだったのに!


「何を唸ってるんだアスカ!?早く医務室へ行くぞ!この出血量、普通じゃ……!」


血相を変えて飛んできた篠ノ之が俺の右手を掴んで引っ張る。
……って、おい!
右手にはまだ『蒼い絆』が!あんまり近づくと………って、あれ?
何か右手から重みがなくなっていくので不思議に思い、視線を向ける。
と、「消えろ」と念じてもいないのに、『蒼い絆』がひとりでに光の粒子となって消えていく。



― ……シン、また、明日ね…… ―



……何だろう、消えていく『蒼い絆』が、俺にそう囁いた気がした。
そして、もう一つ。
篠ノ之と一緒に教室を出る際、ボーデヴィッヒとすれ違ったんだが。


「……………………すまない………………………」


弱弱しい、泣きそうな、それでいて乾いた声でボーデヴィッヒが呟いたのが、
妙に耳に残って、離れなかった。






























あれから医務室で包帯を交換してもらって。
血で染まった制服は医務室で預かってもらって。
俺は女医さんに頭を下げて、医務室の扉を閉める。
篠ノ之は授業があるから着替えに教室に戻っていった。
……その前に俺に付き添っておくと随分渋っていたが、俺は一人で大丈夫だからと、
強引に教室に向かわせた。

……やれやれ、ようやっと医務室から解放されたぜ。
篠ノ之も、ただ少し出血が多かったくらいで騒ぎ過ぎなんだよ。
……せっかく一夏と同室になったんだ。
そろそろ俺なんかを気にかけるのは止めてほしいんだけどな。
今朝のあれだって………一体何だったんだよ………。



― ……ヒヒヒヒヒ……。本当にそう思ってるのかよ、ご主人様よぉ………?
  体は……いや、心は正直だぜ?俺様の力がズンズンと増してるからなぁ…。
  テメェ、やはり本心ではあの篠ノ之とかいう女に介抱してもらいたいんじゃ…… ―



うるさい黙れ耳障りだ。
また何の脈絡もなく聞こえてきたその声を、頭を振って掻き消す。
でもその粘ついた笑い声がいつまで経っても消えなくて。
俺は激しい頭痛に耐え切れず、廊下で膝をついてしまう。

グググ………ちくしょう………。
いつもいつも、一ヶ月前からずっと、絶妙のタイミングで人の心を抉るようなこと
ばかり言ってきやがって………。
お蔭でこっちは常時耳鳴りと頭痛がするようになっちまったんだぞ。
と、歯を噛み締めながら何とか立ち上がろうと手に力を込めようとして、ふと気付く。
俺のすぐ側に茶色がかった布が落ちていることに。
そしてそれに見覚えがあった俺は、それを拾って、確信する。


「これ………デュノアの…………」


やはり、間違いない。これはデュノアのハンカチ。
昨日あいつの荷物を拾った時に見た。
でも、何でこんなところに…………ああ。
そういや一限目は第二グラウンドでISの起動練習だったっけ。
さてはデュノアの奴、更衣室に行く途中で落としたな?
多分そこに行くまでに、興味本位で集まった女子たちにもみくちゃにされただろうし。

俺は一息ついて、ゆっくりと起き上がった。もうあの声は、聞こえなかった。
……持って行ってやるか。どうせ授業は見学するつもりだったし。
俺は何気なしにそのハンカチを眺めていて、気付く。
そのハンカチの端に、何か文字が………。
よく見ると、そこには「シャルロット」と刺繍が施されていた。
……シャルロット?誰の名前だ?
何でデュノアの奴、他人のハンカチを………?

まあ、考えたって分かるわけもなく。
俺はハンカチを右手に握り締めて、第二アリーナへ向かった。
男子はISスーツに着替える場所が限られてるし、多分一夏がデュノアを案内している
はずだから、それなら俺たちがよく利用する第二アリーナの更衣室へ行くはずだ。
なので俺は少し遠いけれど、第二アリーナへ足を向けた。

……ふう、あそこへは一旦校舎を出なくちゃいけないから面倒なんだよな。
もしこれでアリーナの更衣室に二人がいなかったら、馬鹿みたいだな俺。
いや、多分二人ともデュノア見たさに詰め掛けた女子の肉の壁の突破に苦戦したはず
だから、まだ着替えている可能性は高い。
それに、あのISスーツ所々にひっかかって着辛いから、より時間はかかるだろう。

ふうふうと汗だくになりながら、俺はようやっと更衣室に辿り着く。
くっそ……、やっぱり体力は全然戻ってないな。
たったこれだけの距離を歩いただけなのに、肺がなんかおかしい。
汗をぐいっと拭って、大きく一つ息を吐いて、扉に近づく。
するとプシュッと音がして扉がスライドして開き、デュノアとばっちり目が合った。


「っ!!!!!!???????」

「あ……………………」


俺はポカンと口を馬鹿みたいに開けて、フリーズ。
デュノアは俺の姿を確認して目を見開き、次第にその瞳を潤ませて、顔を真っ赤にする。
デュノアはISスーツに着替えていた最中だったらしく、下のスパッツのようなそれは
既に穿いていたが、問題は上のほうだった。
後はそれを下に下ろしてジッパーを上げれば着替えは完了ってところだったみたいで、
その………おっぱい………いや、胸が、完全に露出していた。
二つのマシュマロのような山脈が、デュノアが息をするごとにプルプルとまるで
別の生き物のように上下に揺れている。

う、おあああ!す、すげぇ………!
何て圧倒的な存在感なんだよ………!
そんなに大ぶりじゃないはずなのに、この色気!
半端じゃない………!

…って、何を男の胸を凝視して興奮してるんだよシン・アスカ!
アイツは男!男なんだ………って、いやいやいや。
あの妙に食欲を誘うマシュマロおっぱいが男の胸なわけ、ないよなぁ。
と、デュノアはさっとスーツを下ろし、ジャッとジッパーを上げる。
この間二秒もかかっていない。……すげぇ早業。


「シャルル?お、おお………。着替えるの超早いな。何かコツでも……あれ?
 シン、何でここに?もう手当ての方はいいのか?」


デュノアとは反対方向を向いていた一夏が振り返り、俺に気付く。
というか何でデュノアを男と思っているであろう一夏が、デュノアに背を向けて
着替えてるんだ?……分からん。


「ああ、ただの止血だけだったから手間はかからなかったよ。
 じゃあな一夏、デュノア。
 俺は何も見てないし、何も気付いてないから」

「は?一体何のこと………。お、おいシン?」


俺は早口でそれだけ言うと、回れ右して更衣室を出る。
一夏が困惑したように俺を呼び止めていたが、それも無視してさっさと歩きだした。
無意識にそうしてしまうほど、俺も混乱していたんだな。


(……すごいもの見ちゃったな。やっぱり女だったんだ、デュノアの奴)


しかし国家に属する機関であるIS学園に性別を偽って入学するなんてこと、本当にできるのか?
いくらIS学園には他国が干渉できないほどの特別な自治が認められてるからって……。
よほどのコネがないとできないし、何よりバレた時のリスクが高すぎる。
そんな危険を冒してまでこの学園に入学する意味が、何かあるのか?

……とまあ、そんなこと考えたって答えなんか分かるはずもなく。
俺にとってやはり一番重要なことは「デュノアは女だった」、これに尽きるわけで。
……これは俺の胸だけにそっとしまっておくか。
俺は国家間の問題なんて戦争にさえ発展しなければ興味はないし。
何よりデュノアが自分は男ということで通してるんだ。
俺がわざわざそれをバラしてやる必要なんかないからな。
目下考えなければならないことは、渡し損ねたこのハンカチ、いつ渡すかということだ。
……流石にすぐは気まずいからな。
最悪、デュノアの机に無断で押し込んでおくか………うぉ!?


「おぉぉ!?………って、おい。デュノア、何で俺の服を掴んでるんだ?」


いきなり服の裾を引っ張られたのでびっくりして見てみたら、デュノアが顔をトマトのように
真っ赤にしながら、震えながら、顔を伏せてそこにたたずんでいた。
い、いつの間に後ろに!?
気配を全く感じなかったぞ!?怖いなぁ………。
と、少しの間黙っていたデュノアが、声を震わせながら聞いてきた。


「み…………見た?」

「何を?」

「だ、だからぁ…………。ぼ、僕の………お、おっぱ………」

「知らないけど?」


即答。
もちろん知らぬ存ぜぬを貫き通す構えだ。
だって、考えてみてくれ。
仮に俺がここで「ああ、見たぜ?お前のおっぱい、随分でかくて柔らかそうだったな。
びっくりしたぜ」などと言ってみたとする。
その時点で俺は正真正銘のセクハラ野郎に成り下がる。
セクハラ「紛い」じゃない真性のそれに堕ちてしまうのだ。それだけは嫌だ。


「ほ、本当に?シン君、本当に見てないの………?」

「だから何のことかさっぱりだって。でも、こうしてお前から来てくれたのは助かったよ。
 ……ほら、これ。デュノアのだろ?これを届けに来たんだよ」

「え?……あ、これ。僕のハンカチ………」


巧みに話を逸らしつつ、懸念事項だったハンカチを、ごく自然に差し出す。
俺が差し出したハンカチを驚いた様子で見ていたデュノアは、俺の手からそれをそっと
受け取ると、大事そうに握り締める。
……相当大事な物だったらしいな。
こんなに愛おしそうな顔をしているデュノアを、初めて見た。
…昨日とはまるで別人のような聖母のそれの如き表情。
これを見てデュノアを男だと思う奴がいたら、そいつは生粋のアレなのだろう。

と、ハンカチをじっと見ていたデュノアは突然ハッとしたように顔を上げる。
ん?どうしたんだデュノアの奴、顔が真っ青だけど。
デュノアはすごい冷や汗を流しながら、歯をカチカチと鳴らして、聞いてくる。


「し、シン君……あの、ね?その………は、ハンカチの名前、見た………?」

「名前?そんなのあったのか、見てないけど?というかどんな名前なんだ?
 気になるなぁ、ちょっと見せてくれよ」

「だ、駄目っ!み、見てなかったらいいんだっ!あは、あははは……………」


デュノアはハンカチを握ったまま後ずさり。そのまま愛想笑いで逃げに転じる。
……ふう、どうやらうやむやにできたみたいだ。
ハハハハハっ!見たかよ俺のスルースキルを!
多分デュノアの反応からして触れて欲しくなさそうな案件だったみたいだから、
咄嗟にああ答えたけど、予想以上に上手くいったぜ!
相手の深い部分には安易に立ち入らない。
紳士の嗜みだ。と、



バシンッ!!!



「ぎゃあっ!!?」

「うわぁ!?」

「……何をドヤ顔で悦ってるのだ、馬鹿者」


背後にいきなり織斑先生登場。
い、いつの間に!?
デュノアといい先生といい、少しは気配を察知させてほしい。怖いから。
……というか、何で先生がここに?
ボーデヴィッヒを部屋で落ち着かせた後は、第二グラウンドへ向かうとか言ってた
はずなんだけど。


「デュノアがここで着替えてると聞いたのでな。ちょっと伝達事項があったから
 来たんだが……。お前も一緒とは手間が省けた」


…………?
つまり織斑先生がデュノアにしようとしていた話は、俺にも関係あるってことだよな?
しかし、一体何だ?全く心当たりが………。


「デュノア、お前がこれから寝泊りする寮の同室相手だが、アスカに決まった。
 お前の荷物はアスカの部屋に運ぶように手配しておく」

「えっ!?」

「はぁ!!!???」


俺もデュノアも、目を剥いて驚く。
だけど多分、俺の方がデュノアのそれよりも強いはずだ。
だって俺は驚きと同じくらい、怒りを感じていたんだから。
織斑先生は知っているはずだろう!?
俺が毎晩うなされていることを!
そして、俺が篠ノ之との同室を何故解除してもらったのか、その理由を!
俺は激情のままに先生の手を掴んで、デュノアから離れたところまで連れて行く。
でも先生は、何故か何の抵抗もしなかった。
まるで俺がこうするだろうことを、事前に予測していたかのようで。
そして手近な物陰に先生を連れ込んでから、勢い込んでまくし立てる。


「どういうことですか織斑先生!俺とデュノアが同室って……!?」

「どうもこうも、言った通りだ。デュノアは「男」だし、織斑は篠ノ之と同室だ。
 であれば必然的にもう一人の男であるお前と同室になるのは自然の流れだろう。
 それにこれは、既に決定事項だ。今更変更などない」

「なっ………ふざけてるのかよっ!?俺が夜うなされるのは先生も知ってるだろ!?
 デュノアを万年睡眠不足にするつもりかよ!?
 篠ノ之のことだって、あれ以上俺のことなんかで負担をかけたくないから頼んだんだ!
 それくらい、先生なら察してくれてるはずじゃなかったのか!?
 それなのにこんな……、元の木阿弥じゃないかよ!!」


俺は敬語を使うのも忘れて、先生に噛み付いた。
だって当然だろう?
俺は夜うなされるのを自分でコントロールできるわけじゃないし、デュノアにかかる
負担は計り知れない。
もしデュノアがそれを苦にノイローゼにでもなったりしたら………。
俺は自分を許すことができないだろう。
だから俺は猛然と抗議したわけなんだけど………。
織斑先生はそんな俺の罵声をただ真正面から黙って聞いていて。
そして俺の抗議の手が止まったのを確認して、ようやく口を開いた。


「……お前がそういうだろうことは予想していたが、まずは落ち着け。
 私はデュノアのことは良く知っている。
 あれはとても優しい。献身的と言えるくらいにな。
 お前が苦しんでいるのを見ても、嫌な顔はしないだろう。
 むしろお前のことを心配して、一生懸命に尽くしてくれるはずだ」

「はぁ!?それが駄目だって言ってるんじゃないかよ!
 俺のことなんかでこれ以上心配する人間を出したくないから……!」


俺は織斑先生の言葉に納得できず、また噛み付く。
デュノアが優しいのはいいさ。だが問題はそこじゃない。
もしデュノアが俺と同室になったら、確実にデュノアは俺がうなされていることに気付く。
そんな情けない俺を転校してきたばかりのデュノアが気にして……その心労がどれほどに
なるか、想像もできないじゃないか。
でも、織斑先生はそんな俺をじっと見て、僅かに目を伏せる。
そして、突き放すように言った。


「……さっきも言ったが、これは決定事項だ。
 お前が何を言おうが、今回ばかりは覆ることはない。
 ……諦めて、第二グラウンドへ向かえ。
 そんなに怒鳴ってばかりだと、また傷口が開くぞ」

「織斑先生っ……………!!」

「……お前は自分の今の状態を軽視しすぎだ。いや、意図してそうしているのだろうが。
 …少しは周りの者に助けを求めてみろ。デュノアとの同室は、その第一歩だ。
 それにこれはお前のためだけではない。デュノアのためでもある。
 ………二人で生活して、色々と考えてみろ。そうしなければ、見えてこないものがある」


最後は諭すようにそう言って、織斑先生は去っていった。
俺は叫びすぎて枯れてしまったのでゲヘゲヘと咳き込んでしまい。
今日のこれからのことをどうしようか、それだけを考えていた。

……気のせいだろうけど、物陰に篠ノ之のようなシルエットが見えた気がした。
まあ篠ノ之がここにいる意味が分からないし、やっぱり気のせいだろう。


































……ここが、「1025号室」。シン君が、寝泊りしている部屋。
どうしよう、僕男の子の部屋に入るの初めてだから、緊張するな……。

時刻は夜の六時。
僕は今朝方織斑先生に言われた通り、シン君の部屋まで来ていた。
鍵は既に山田先生から渡されてるし、荷物もここに運び込まれたらしいし。
……それに、僕がここに来た目的は、彼のISデータを盗むのが目的だし……。
それから考えたら、これはまさに上々の首尾なんだろうけど……。

…でも、それに反して僕の気持ちはとても重い。
元々僕は彼のISデータを盗むなんて絶対やりたくないし、やろうとも思わない。
それに……、織斑先生が僕とシン君に同室の話をした時、シン君は織斑先生を
引っ張っていって、猛烈に抗議していた。
当然僕にもそれは聞こえていて。
詳しい内容までは分からなかったけど、とりあえずシン君が僕との同室を嫌がってる
のだけは、察することができた。

……まあ、そうだよね。
昨日出会ったばかりの僕と、しかも女装趣味があるらしい(もちろん嘘だけど)僕と
同室になるなんて、シン君でなくても嫌だよね。
それは分かってるはずなのに、どうしてこんなに落ち込んじゃったんだろう。
昨日シン君が僕に見せてくれた優しさ……。
あれがとても僕にとっては心地良くて、もっと仲良くなりたいって勝手に思ってたから。
だから、こんなに気落ちしてるんだろうね。
でも、それは彼には関係ないこと。僕が勝手に期待して、勝手に落胆しただけなんだから。

……そう思うと、この扉に鍵を差し込むことすら、抵抗を感じる。
…僕って、こんなにくよくよした人間だったっけ?
何か自己嫌悪すらしてくるよ………。


「どうしたんだよデュノア。こんな所で突っ立って。入らないのか」

「ひぃ…!?し、シン君!?あ、いや別に、ただちょっと考え事を………」

「…そうなのか?とりあえず、入ろうぜ。いつまでもここにいると、野次馬たちが
 ぞろぞろと集まってきそうだし。俺も久々にこの部屋に来たから、ちょっと
 どきどきしてるんだ」


言って、シン君は僕の横から手を伸ばして、鍵穴に鍵を差し込む。
シン君の顔が僕のすぐ真近くにあって、一瞬ドキッとしてしまう。
お、男の子にこんな近くに来られたのも初めてだから、心臓がバクバクいっちゃうよ。
ガチャッと扉が開いて、シン君が先に部屋の中に入っていく。
僕も続いて部屋に入って……そこで立ち止まった。


「ふぁ……………………」


部屋に一歩立ち入った瞬間、そこに充満する匂いに鼻腔をくすぐられ、包まれて、
思わずぼうっと蕩けてしまう。
う、うぁぁぁぁ…………。な、何なのこの匂い……。
ちょっと酸っぱいような、でも何か甘いような………。
それが男の子の、シン君の匂いだと気付くまでそんなにかからなかった。
部屋に染み込んだシン君の匂いが、僕の全身を瞬く間に包み込んで、離さない。
あ、頭がクラクラしてくる………。
体が、ふわふわして、でも、とても切ない気分になってくる……。
ま、不味いよ。こんな匂いに一晩中包まれてたら、僕………。


「……?おい、デュノア。そんなところで突っ立ってないで、さっさと来いよ。
 扉も閉めてくれよ、誰が見てるか分からないから」

「ふぇっ!?は、はい!分かりました!」

「へ?何でいきなり敬語なんだ?」


し、仕方ないじゃないか!こんな変な気分になったのなんて初めてなんだから!
シン君が悪いんだ!シン君の、せいなんだから………。


「ああ、ちょうどお前の荷物が部屋の奥にまとめて置かれてるな。
 じゃあデュノア、お前そっちの奥のベッドを使えよ。
 俺は今まで通り、手前のベッドを使うからさ」


確かに僕のキャリーバッグが部屋の奥に置かれていて、その横に大きなベッドが………?
あれ?この部屋って、もともと二人用だったの?
ベッドが二つあるってことはそういうことなんだろうし……。
シン君、今まで一人でこの部屋使ってたのかな?
少し疑問に思いながら、とりあえず僕は奥のベッドに腰を下ろして、凄まじい衝撃を受ける。


(え………?このベッドの匂い、この部屋のそれと違う………。
 これって、女の子の匂い………?)


えっ?シン君、もしかして今まで誰か女の子と一緒に生活してたってこと?
でも、そうじゃないとベッドに匂いが染み付くわけがないし……。
だからどうしたって話なんだけど、僕は何故かそれが気になって仕方がなくって。
いてもたってもいられなくなって、シン君に問いかけていた。


「ねえ、シン君。もしかして今まで………」

「そうだデュノア。これから同室になるんだから、『シン君』なんて堅苦しい呼び方は
 やめてくれよ。俺のことはシンでいいからさ」

「へっ?あ、ああうん。いいの?それなら僕はそう呼ばせてもらうけど………。
 じゃあ僕のことも、『デュノア』じゃなくて『シャルル』って呼んでよ。
 その方が打ち解けられそうだし」

「………いや、俺は『デュノア』でいいよ。その方が呼びやすいしさ」


……何か、話を上手くはぐらかされた感じがする。
でも、し、シンって呼び捨てにしていいって言われたのは純粋に嬉しい。
僕、嫌われてたんじゃないの………?もし僕を嫌ってるのなら呼び捨てを許してくれる
はずはないし………。
なのに彼は僕のことを今まで通り『デュノア』呼ばわりするって言ってるし。
そりゃあ僕は『シャルル』って呼ばれるのは嫌なんだけど……僕の名前じゃないから。
だけど、彼はそれを知らないはずだし、どうして………?
それはとても疑問に思うけど、彼は昨日見せてくれたような優しい、労わるような視線を
僕に向けてくれていて。
それを見るだけで、そんな疑問なんてどうでもいいやって思えてしまう僕は、何なんだろうね。


「シャワールームの使用時間は、どうする?俺はどっちでもいいんだけど。
 もしお前が俺の後に入る方がいいっていうのなら、それでいいぜ」

「え………。それは、シャワールームについては後のほうがいいって言うつもりだったけど。
 どうしてシンく………シンは、それが分かったの………?」

「…………………ただの勘だよ、勘。俺って結構、勘が鋭いんだぜ?
 戦闘でも、それが反映されてだな………」


なんて延々と話してるけど、最初にあれだけ黙ってたんだから、言い訳してるって
バレバレなんだよね。
でも、どうして…………?
と、僕はハッとして顔を手で覆う。
だってそれに気付いた途端顔が物凄く熱くなってきて。
た、多分僕今凄く顔が赤いと思うんだけど、恥ずかしい………。

今日僕は更衣室で着替えてる時シンに………お、おっぱいを、見られてしまった。
シンはすっとぼけてたけど、もしかしたらその時、僕が女だってばれちゃってて……!
あ、有り得る。だってシン、僕のおっぱい穴が開くほど見てたし、いくらなんでも
それを見て僕を男とは思わないだろうし……!

で、でももしそうだとしても、何でシンはそれについて僕に言ってこないの?
シャワールームの件についても僕が女だってバレたくないからシンが
シャワーを使った後に、いないタイミングを見計らって入ろうと思ってたのを
見透かしてたみたいだし、何でそれについて………。
……もしかしてシン、やっぱり僕が女だって気付いてて、それを知った上で
意地悪してる………?
は、恥ずかしい…………どうしよう……………。

と、頭をぶんぶか振っていると、何かゴソゴソという音が聞こえてきて、気付く。
シンはベッドとベッドの間に大きな布を設置して区切ろうとしていた。
な、何してるの!?唐突過ぎて意味が分からないよ!?


「あ、これか?実は俺、随分寝相が悪くてさ。そんな見苦しいもの、友達には
 見せたくないんだよ。だからこれでちょいと区切ろうと思ってさ。
 それから、これ」

「……これって、耳栓?」

「ああ、俺夜寝る時に凄いいびきをかくらしくてさ。
 それ対策に。今日から早速つけてくれよ。じゃないと五月蝿くて寝られないぞ?」


悪戯っぽくそう言って笑うシンに、何故だか分からないけど、ほんの少し違和感を覚えた。
……何だろう?やけに必死っぽいっていうか。
冗談っぽく言ってたけど、シンの目は笑ってなかった。絶対耳栓をつけろって、僕に
強制してるようにさえ感じたんだ。
それが少し気になったけど、ふと時計に目をやって、止まる。


「六時半………。もうそんな時間なんだ………。シン、一緒にご飯行こうよ。
 ここの食堂広そうだったし、どんな食事が出るか、ちょっと楽しみなんだ」

「ん?ああ、もうそんな時間か………。じゃあ、行くか。
 それと、忘れずに耳栓はしてくれよ?用意するのに苦労したんだから」


耳栓についてまた念押ししてくるのでやっぱり気になったけど、それについては
また後で聞けばいいか。
決まった時間に食事をとらないと食べられないらしいし、今日は色々あったから
お腹空いてるからね。
僕はシンと一緒に部屋を出て、食堂へ向かう。
その日の夜、あんなことが待ってるなんて、その時の僕は知らなかったんだ………。






























「シン、シン!!お、起きてよ!どうしてそんなに苦しんでるのさ!?
 だ、誰か!?シンが、シンが………!」


今は夜の十一時。
僕はベッドの中でもがくようにうなされ続けるシンを前にして、ただ
アタフタすることしかできずにいた。

シンが言った通りに寝る直前に耳栓をして、ベッドに入って。
それから一時間くらい経ってからだろうか。
ふと目を覚まして何気なしにシンのほうを見ると、布越しにシンがやけに
ゴソゴソともがいてるように見えて。
最初は耳栓のせいで何も聞こえないし、ただの寝相かなと思ったんだけど。
それが一向に収まらないし、疑問に思って耳栓をはずしてみたら、シンの
獣のようなうめき声が聞こえてきて。

もう、二十分以上経ってるのに、一向にそれが収まらない。
僕が叫んでも揺らしても起きないし、うなされ方は酷くなる一方だし。
どうすることもできずに混乱してしまった僕は、ただ涙目になりながら
叫ぶことしかできなかった。

な、何で!?
何でこんなにうなされてるの!?
もしかしてシンが耳栓を僕に勧めてきたり布でベッドの間を区切ったのって、
これを知られたくなかったから!?
でも、それが分かったところでどうしたらいいかなんて、混乱した頭じゃ分からなくて。
僕はただただ、シンが起きるように揺さぶることしかできなかったんだけど。
そこで僕を叱責するような、鋭い声が飛んできたんだ。


「何を慌てふためいてるんだ、デュノア!男だろう!そんなに取り乱しては、アスカは
 余計に起きないぞ!?」

「えっ!?し、篠ノ之さん!?何でここに!?扉の鍵は閉めたはずなのに………!?」

「合鍵で入った!とにかく今は、アスカの介抱が先だ!お前はお湯を沸かして、あと
 タオルを何枚か持ってこい!手持ちでは足りないからな!
 それからアスカの荷物の中から着替えを!グズグズするな!」

「あ…………わ、分かったよ……!」


混乱の極致にあっても篠ノ之さんの指示は的確で、僕は夢中でそれに従った。
シンの荷物の中から代わりのシャツとズボンを出して、お湯を沸かして、あと僕の荷物から
タオルを三枚ほど出して。
僕はそれを篠ノ之さんのところまで持っていって、篠ノ之さんと二人でシンを介抱して。
……シンが落ち着いたのは、それから十分後のことだった。


「……ふう、これでとりあえずは大丈夫だ。シャルル、慌てるのは分かるが、それでは
 アスカとこれから同室ではいられないぞ?お前にとっては寝耳に水の話だろうが、
 アスカは毎晩このようにうなされてるのだからな。それに、これ一回きりじゃない。
 後十分もすればまたうなされ出すだろう。……今日はまだマシな方だ」

「そんな………、あんなに酷くうなされてたのに、これだけじゃないって………。
 でも、何で篠ノ之さんは、この部屋の合鍵なんか?
 それに、シンの状態について、やけに詳しいけど………」


篠ノ之さんは、何も言わなかった。
ただ心配そうにシンを見つめて、お湯で絞ったタオルで、シンの汗を拭いてあげている。
僕もタオルを絞って、シンを優しく拭いてあげた。


「でも、何でシンはこんなにうなされてるの……?
 普通じゃないよ、こんなの……。
 寝るまではそんな素振りちっとも見せなかったのに……。
 ……篠ノ之さんは、何か知ってるの?
 シンがこんなにうなされる理由を…………」

「知らない。………知らない、何にも。
 アスカは、自分のことを、全然話してはくれないからな…………」


寂しそうに、悲しそうにそう言う篠ノ之さんを見て、僕はそれ以上何も言えなかった。
彼女がそれを本当に悲しいって感じてるって、分かったから。
彼女のシンを思う気持ちの強さに、すぐに気付いたから。
だから僕は何も言えなかった。
だって僕は、昨日シンと出会ったばかりなんだから。

と、シンの汗を拭いていると、首に綺麗な貝殻のネックレスが下がっているのを見つける。
あれ、確かこれって………。


「……それはアスカのISの待機形態だな。アスカの奴、またはずすのを忘れたな?
 …そこまで意識が朦朧としているのだから、強がらなくていいのにな………。
 ……ん?何だ、ネックレスから、何か……………?」


篠ノ之さんはそう言って、何の気なしにネックレスに手を伸ばす。
僕はそれを見ていて、ふと何かおかしな感覚に包まれた。
……誰かの声が、聞こえた気がしたんだ。



― …………触れて………… ―



……え?何、今の声?
それはそのネックレスから聞こえてきた気がして、無意識にそれを凝視する。
するとまた頭に直接、幼い女の子の声が聞こえてきて……。



― ……触れてあげて?感じてあげて?シンを………シン、心を…………。あっためてあげて…………? ―



懇願するようなその声に導かれて、僕は自然とそのネックレスに手を伸ばしていて。
僕の手と、篠ノ之さんの手が、同時にネックレスに触れて。
そこで、周りの景色が、別のものへと変貌した。



(……うわぁ!?何、これ………!?)

(っ!!!これは………ここは…………!?)



一瞬頭に変な衝撃が走ったと思うと、次に目を開けたら、そこは今までいた部屋の中じゃなくて。
……どこ、ここ!?周りは木で覆われていて………。
それにあれは、湖?
僕は隣にいる篠ノ之さんと目を見合わせる。
僕らは雪がしんしんと降り積もる森に覆われた湖の上空で、そこを見下ろしていたんだ。

理由なんか分からない。
どういった原理かも分からない。
でもそれが気にならないほど、僕と篠ノ之さんの視線と意識は、湖にそびえ立つ、
ここにあるにはあまりにも不自然なものへと注がれていた。



(何だあれは………ロボット?でもあんな大きなロボットなんて、初めて見るぞ……)

(まるでアニメーションに出てくるロボットみたいだ……。一体、あれは………?)



僕と篠ノ之さんは、やけにその人型ロボットが気になって、ゆっくりそこへと降りていって。
そこで、僕らは驚愕して、固まる。
だって、そのロボットの掌の上に、シンが蹲っていたから。

シンは悲しそうに嗚咽を上げながら、腕に抱いた誰かの髪を優しく撫でていて。
それは、まだ幼さを顔に残した女の子。
その子は寝てるのか目を瞑ったままだけど、そのお腹には何故か金属片が突き刺さっていて
血が滲んでいて。
もうその子の命が失われていることは、容易に分かった。



(………あの子は…………)



篠ノ之さんはその子を見て驚愕しているけど、どうしたんだろう?
見覚えのある子なのかな?
と、シンはその子を愛おしそうに見つめていたけど、どういうわけかその子をゆっくりと
湖に浮かべて、そして、静かに手を離した。
僕も篠ノ之さんも、それを見て声も出ないほどに驚いてたけど、その後に聞こえてきた
シンの言葉が……………。



「俺……守るって、言ったのに……………。俺、守るって、言ったのに……!
 ステラ…………ステラ…………ステラァァァァァ……………。
 う、うううぅぅ…………うううううぅぅぅぅぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!」



耳を塞ぎたくなるほどの悲しみを滲ませながら泣きじゃくるシンを見て、
私も、篠ノ之さんも、何も言えなくて。
ただ胸が張り裂けそうになるばかりで……すぐにシンの傍に行って、
抱きしめてあげたくて………。
そう思ってシンの元へ向かおうとした瞬間、また頭に衝撃が走って。
気が付いたら、元の寮の部屋に戻ってきていた。


「えっ………!?な、何で………!?……何だったの、今のは………」

「頭が、痛い………。今のは、現実か……?それとも………」


僕も篠ノ之さんも、混乱しながらもシンを見る。
そこではさっきまで落ち着いていたシンが、また悪夢を見ているかのように
うなされていた。
僕も篠ノ之さんも、訳も分からず、でも酷くうなされるシンがとても痛ましく感じて。
少しの間、シンを見つめて、動くことができなかった。



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