「まき絵ー…朝練?」

「んーんー、自主トレ。」

 

 早朝の麻帆良学園の女子寮の一角。

 登校の準備を始めるには早すぎる時間に起き、ジャージに着替えた佐々木まき絵を、同室の和泉亜子が寝ぼけ眼を擦りながら見咎めた。

 

「…泣いてた?まき絵。」

「泣いてないよっ!!」

 

 寝起きの割には妙に勘の鋭いルームメイトから逃げ出すように部屋を出て、朝もやのかかる学園内を走りこむ。

 

「はぁ…。」

 

 柔軟やランニングを普段通りにこなしていくまき絵だったが、その面持ちは暗い。

 まき絵は5歳の頃から新体操を続けている。勉強は苦手な彼女であるが、大好きな新体操だけは誰にも負けない、という自負を持っていた。

 ―――そう、持って『いた』。

 ちょうど昨日、顧問の先生の話が聞こえてしまったのだ。

 曰く、まき絵の演技は悪く言うと子供っぽく、イマイチ壁を突き抜けきれていない。だから今度の大会の参加は難しい、と。

 自分の能力に自信を持ち、次の大会への参加を目標に練習に励んでいたまき絵にとっては、天地が引っくり返らんばかりの大ショックだった。

 

(子供っぽい、かぁ…。私、何が足りないんだろ…。)

 

 まき絵の新体操にかける熱意、練習量は、顧問の先生もちゃんと評価していた。だからこそ、まき絵がもう一皮剥けることを、先生は望んでいる。だがどうすればよいのかが分からない。

 一体今の自分に足りない物は何なのか。どうすれば、先生の語る子供っぽさが抜けるのか。

 考えても考えても答えは出てこず、心は迷ってばかり。このままでは大好きな新体操を好きになれなくなってしまいそうで、それが朝目覚めて涙を堪えきれないほどに、まき絵の心に陰を刺していた。

 

 と、その時だった。

 少し遠く、ちょうど世界樹の丘の方から、不思議な音色が聞こえてきた。綺麗で清澄だが、どことなく哀しげで、悼むような響き。まるでまき絵の心を見透かしたかのように、全身に沁み渡っていった。

 気づけばまき絵は、その音のする方角へ駆け出していた。

 やがて世界樹の丘に辿り着くと、そこには、彼方に片鱗を見せ始めた太陽の光を反射し、朝もやの中で煌めく、見慣れたクラスメイトの姿があった。

 

「あ…。」

 

 その荘厳な雰囲気に呑まれ、声がかけられなかった。

 すでにこの場は一人の少女のコンサートホールであり、まき絵はたった一人の観客だった。立ち尽くしたまま、その音色に聞き惚れる。

 やがてメロディーが小さくなっていき、小さな演奏会は終わった。

 まき絵が思わず感嘆の息を吐く。それに合わせたかのように、演奏者がまき絵の方を向いた。

 

「おはよう、佐々木。」

「あ、うん、おはよう、長谷川さん。」

 

 いつも教室で交すように、互いに気軽に挨拶し合う。

 先ほどまでの暗く沈んだ面持ちと心は、綺麗さっぱり消え去っていた。

 

#31 ゆるぎないものひとつ

 

「ハイこれ、スポーツドリンク。」

「うん、ありがとう長谷川さん。」

 

 世界樹の前で会ってから30分後、二人は寮の近くまで戻って来ていた。

 千雨も朝のトレーニングの最中だったので、せっかくだから一緒にやるか、という流れになったのだ。まき絵は千雨が毎朝体力作りを中心とした練習に励んでいることを知り、少々驚いたようだったが、千雨は当然と言わんばかりに答えた。

 

「音楽はただ音を出せばいいってもんじゃない。身体も楽器の一部なんだ。姿勢、所作、技術、情念、一つ一つを洗練させて、一つの曲に注ぎこむことで、より綺麗な音を生み出せるんだよ。私の場合、こういう朝練の時は基本的に、肺活量を増加させることに重きを置いてるんだ。」

 

 走りながらそう語っていた千雨は、確かに全く呼吸がぶれていなかった。自販機の前でスポーツドリンクを飲んでいる今も、まるでランニング直後とは思えない程に自然な呼吸をしている。

 まき絵は改めて、目の前のクラスメイトを観察した。

 背丈は長身とは呼べないまでも、それなりに高い。スタイルも良く、余分な肉がほとんど付いていないのが分かる。

だが、美少女と呼ぶには、良い意味で違う、と感じていた。普段の振る舞いにしろ、今目の前でドリンクを飲む姿にしろ、その動作一つ一つが様になっている。

一言で言えば、格好良いのだ。特に優雅にサックスを演奏していた先ほどの姿は、まるで同い年とは思えなかった。

 

「あ…。」

 

 そう考えた途端、まき絵の心に光が灯ったように感じられた。

 彼女に、長谷川千雨に話せば、何かつかめるかもしれない。

「あの、長谷川さんに聞いてもらいたいことがあるんだけど、いいかな?」

「ああ、いいよ別に。何でも話してみな。」

 

 千雨の快諾に後押しされ、まき絵は話し始めた。

 先生の想い、自分の想い、新体操への想い、その全てへの不安など、言葉に出すだけでも気が重くなっていく。話し終えた時にはすでに涙交じりで、千雨と顔を合わせる事も出来ず、ただただ地面と向き合っていた。

 

「子供っぽい、ねぇ…。そいつはまた、難しい注文だな。」

 

 それが新体操部の顧問の先生に向けてのものなのか、はたまたそんな難問を投げかけられた自分に向けてのものなのかは分からなかったが、千雨は優しくまき絵の頭をよしよしと撫でて慰めてくれた。その手の温もりに、まき絵も少し心の落ち着きを取り戻した。

 

「まぁ確かに、中三にしては子供っぽいよな、お前。日頃から落ち着きが足りてないというか。それは3−A全体に言えることだけど。」

「うっ…。じゃ、じゃあ、冷静沈着な行動を心掛けていけば―――」

「努力は出来る範囲でする物だと思うが。」

「今さらっと貶されたよね私!?それも三重の意味ぐらいで!?」

 

 あはは、と快活に笑う千雨と、むくれっ面のまき絵。

 だがふと、自分が話し始めた時の暗い雰囲気が払拭されていることに気付いて、怒るに怒れなくなってしまった。

 

「悪かった悪かった、ちょっとからかってみたくなっただけだって。

 ―――けどまぁ、ホントに難しいよな。子供っぽさなんて年齢と経験重ねりゃ自然と薄らいでいくモンだし。無理して身につけようとしたって、そりゃ安いメッキだ。出るとこ出れば剥がれるだけだ。」

「う…。」

 

 焦って身に付けた“大人っぽさ”など、すぐに見抜かれてボロが出るだけだと、千雨は言外にまき絵を窘めていた。まき絵もそれが理解出来たのだろう、項垂れてしょんぼりとしてしまった。

 

「じゃあ…、どうすればいいのかな?今のままじゃ―――」

「だから無理して身に付けようとするなっての。第一、どうすれば大人っぽくなれるかなんて、そんなの分かるわけないだろ?私とお前は違うんだ。お前がどうすれば大人になれるかなんて、お前自身でなくちゃ分からないことなんだから。」

 

 千雨の言葉に、さらに落ち込む。確かに千雨の言っていることは正しい。自分が大人になるための方法など、他人に聞いても意味は無いのだ。あくまでそれは、自分の内側から出るものでなくてはならない。

 けれどまき絵には、どうすればいいのか分からない。

 大人になるとはどういうことなのか。どういう人を大人というのか。そもそも自分が大人になったら、どんな人間になっているのか。

 思い描く姿は霞のようにぼんやりとしていて、何も捉えられない。

 まき絵の思考は暗澹と混乱の極致に達しようとして―――

 

「ひゃっ!!?」

 

 思考の迷路に嵌りかけていたまき絵の頬に、突如冷たさが走る。

 驚いて振り返ると、千雨が苦笑しながら二本目のスポーツドリンクを差し出していた。

 

「考え込み過ぎだよ。ちょっと落ち着け。」

 

 まき絵がおずおずとペットボトルを受け取るのを見ながら、千雨は空を見上げた。つられてまき絵も見上げると、遥か上空を飛ぶ飛行機が、その軌跡に飛行機雲を作り出していた。

 

「参考になるかも分からない例え話なんだけどさ。」

 

 千雨の言葉に、まき絵が少し居住まいを正す。考えてみれば、千雨とこうして語るのは初めてで、何となく緊張してしまう。

 が、次の千雨の言葉で、その緊張が裏目に出てしまった。

 

「もしあの飛行機が、ここに落ちてきたとする。」

 

 そんな突拍子も無い例えに、言葉を失ってしまった。

 

「そうなったら、間違いなく私たちは死ぬよな。」

「え、あ、うん。」

 

 千雨の意図するところが全く読めず、無駄に緊張してしまっていたこともあって、たどたどしい口調でしか返答できない。先ほどとはまた違う混乱が、まき絵を襲っていた。

 

「ごめん、例えが乱暴だったな。でも、私はこういう考え方しか出来なくてな。」

 

 恥ずかしげに笑う千雨を見て、少し冷静になったまき絵だったが、その途端、千雨の表情に僅かな翳りが見えたような気がした。

 

「人間なんてさ、いつ死ぬか分からない。いつ死んでもおかしくない。だからと言って死にたいとは思わないけど、死ぬ時に悔いは残したくない、っていつも思ってる。」

 

 いつの間にか手にしたサックスを愛おしげに布巾で拭きながら、千雨は語る。

 まるで死を体感したことがあるかのようなその物言いに、まき絵は口を挟むことが出来ず、ただ黙ったまま、憂いを帯びた千雨の横顔を見ていた。

 

「演奏してる時もそうだ。次なんて考えてない。常にこれが人生最後の演奏だと思って奏でてる。『人生最後の演奏を、最高の出来で飾れなくていいのか?』って、いつも自分に問いかけながら演奏してる。例え練習中でもな。」

 

 まき絵も普段の千雨の演奏を思い出して、腑に落ちる物があった。確かに千雨の演奏はいつも、手を抜いている様子など全くない。先ほどの世界樹の丘での、全身の細胞が沸き立つような演奏も、とても手加減して奏でられる音ではない。

 

「私の演奏は、これまで積み重ねてきた人生の全てだ。何年分の練習の成果を、音符一つに注いで燃やし尽くす。自分に恥じることのない、後悔のない演奏こそが、私の音楽だ。

 ―――まあ、そんな重いこと常に考えて吹いてるわけじゃないけどさ。ざっと言うと、私の信条みたいなモンだ。」

 

 千雨の宣誓のような言葉を、まき絵は呆然と聞いていた。

 信条、と千雨は言うが、それを自然に、意識せずに行えるなど、並大抵のことではない。

(ひょっとしたら、これがプロの流儀ってやつなのかな…。)

 

 自分と同じ屋根の下で学んでいる少女を指して“プロ”と呼ぶのもおかしな話だし、その表現が適切な物であるかどうか、まき絵自身も分かっていなかったが、少なくとも千雨の音楽への敬愛の念、音楽への想いの深さは、同年代の子の精神とは隔絶している、と感じた。

 

「何ていうか…すごいね、長谷川さんは。」

「すごくはないよ。それしか知らないだけだし、こんなのは褒められたモンじゃない。」

 

 そう語る千雨の口調は、何故だか自嘲めいた声色を帯びており、表情もさらに翳りを増している。まき絵には、そんな千雨の表情が、まるで泣いているかのように見えた。

 

「…まぁこんな風に、私の考えは乱暴かつ極端だからな。大して参考になりゃしねぇだろ?」

「えっ!?い、いやいや全然、そんなこと無かったよ!?私は、何と言うか、まだまだだなぁって…。」

「…それこそ何でだよ?お前確か、5歳から新体操続けてるんだろ?私がサックス担ぐよりずっと前から続けてるんだ。お前の自負は間違ってないよ。むしろ誇っていい。」

 

 千雨の惜しみない賛辞が、まき絵の心に染み込んでいく。それだけで、不思議と頑張れるような気がしてきた。傍らの千雨も、現金なやつだな、と言わんばかりに苦笑している。

 

「新体操、好きなんだろ?誰にも譲れないんだろ?だったら、私は誰よりも新体操が好きだって、誰よりも愛してるんだって、その想いを叩き付けてみな。それが顧問の先生の言う所の“大人っぽさ”かどうかは分からないけど、“強さ”であることに変わりはない。お前の求める物が掴めないなら、とりあえず、強くなってみたらどうだ?」

「うん…うんっ!!」

 

 大きく、快活に頷くまき絵の姿に、千雨の表情からも先ほどまでの憂い気が消え去り、明るい笑みを見せていた。

 

「あ、じゃあ長谷川さんにとっての誰にも譲れないことって?やっぱりサックス?」

 

 ふと思いついた問いを投げかけてみる。

 まき絵はこの短い時間の話で、自分の専門分野に高い意識を以て臨んでいる千雨を、尊敬するようになっていた。そしてその高い意識を少しでも学びたい、心に刻みたいと思い、千雨の言葉を待ったのだ。

 だが、一瞬だけ言い淀んだ後、千雨の口から放たれたのは、予想外の言葉だった。

 

「…いや、今は、違うかな。」

 

 思いもよらぬ答えに、驚いて千雨の横顔を見る。その顔がまた泣きそうになっていることを、まき絵は今度こそ、ハッキリと感じ取った。

 まき絵は意を決し、一歩踏み込んでみる。

 

「…その、さ。それって…辛いことなの?」

 

 返事はない。だからこそ余計に、千雨にとって重く圧し掛かる程に辛いことなのだと理解出来た。

 

「それって、本当に譲れないことなの?わ、私は新体操が大好きだから、譲れないっていう気持ちがあるけど、す、好きでもないなら、無理しなくたって…。」

 

 まき絵の口調は尻すぼみになっていく。千雨は翳りを帯びた表情のまま、苦笑を顔に張り付けて首を横に振った。

 

「好き嫌いじゃなくてさ、私のはやらなくちゃいけないこと。私が果たさなくちゃいけないことさ。私は最後までやり通すと誓った。この誓いを譲っちまったら―――多分、私は死ぬんだと思う。」

「だっ――――――」

 

 そこまで聞いた瞬間、まき絵は弾け飛ぶように立ち上がった。スポーツドリンクがこぼれるのも構わず、千雨の両肩を掴む。

 

「ダメだよ死ぬなんて言っちゃ!死なないでよ長谷川さん!私、長谷川さんの音楽もっと聞きたいよ!?私だけじゃなくて、みんな聞きたいはずだもん!アキラなんて、こっそり録音して編集してCDに焼いて聞いてるんだよ!?長谷川さん居なくなったらみんな悲しむよ!それに、えっと、わ、私の死んだお爺ちゃんがね!?か、簡単に死んだらいかんって言ってた、ような―――」

「お、落ち着け佐々木!別に死にたいとか死にに行くとかってわけじゃねえんだから!」

 

 涙目かつ半錯乱状態でまくしたてる佐々木の両肩を掴み返しながら、必死で宥める。早朝だから良いようなものの、こんな様子を人に見られてはたまったものじゃない。

 

「え…で、でも…、今、死ぬと思う、って…。」

「誰が死にに行こうなんて思うか。その誓いを果たすまでは、死んでも死にきれないってことだ。私は自分から死にたいなんて絶対に考えねえよ。…ま、誤解されるような言い方して悪かったな。」

「あ、う、ううん、こっちこそゴメンね、取り乱しちゃって…。」

 

 まき絵はそうは言いつつも、やはり千雨の顔にかかる翳りが気になった。その表情を見る度に、彼女が自分たちの手の届かない場所に行ってしまう幻が見える。まき絵には、それが例え様もなく不安で、焦燥感を掻き立てられた。

 千雨が、そんなまき絵の不安を見抜いたかのように、ぐしゃぐしゃと、少し乱暴にまき絵の頭を撫でる。

 

「佐々木が新体操を愛してるように、私にも大切な想いがあるんだ。それこそ、人生全てをかけても良いほどに、な。私にとっては、これだけは絶対に譲れないって、私はきっとそのために生まれてきたんだって信じたくなるほどに、運命的なものだった。」

 

 遠くに語りかけるような、懐かしむような声。その声がまき絵の鼓膜を震わす度、目の前の級友が、一回りも年上のように錯覚する。

 だが―――これは本当に錯覚なのだろうか?

 

「長谷川さんは…その…。ど、どこか遠くに行っちゃったりしないよね?」

 

 気付けば、まき絵の口は勝手に動いていた。

 自分でも何故そんなことを口にしたのか分からないし、当の千雨もきょとんとした目付きでまき絵を見ている。

 が、すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「何だそりゃ?私が黄泉の国に行っちまうとか、そういう事か?」

「だ、だからそうじゃなくて!あ、あれ?そうなのかな?いやでも、やっぱりそうじゃなくて―――」

 

 自分でも理由の分からない混乱に喘ぐ。そんなまき絵の姿を、千雨は微笑みながら見ていた。

 

「―――安心しろって。私はそうそう簡単に何処か行ったりしない。少なくとも、何処か遠くに行く時は、一言ぐらい残していくさ。…それに、お前みたいなそそっかしいやつ、放っておけないからな。」

「もっ、もう!からかってばっかり――――!」

 

 弛緩し切った空気が流れる。遥か上空の飛行機雲はゆっくりと空に溶けていき、東の彼方から昇る太陽が、二人の微笑ましい姿を鮮やかに照らし出していた。

 ―――が、突如、千雨が密かに眉を顰めた。

 まき絵からはその表情を伺うことは出来なかったが、彼女の頭を撫でる手が止まったことで、千雨の変化を感じ取った。

 

「そういえば、もうそろそろ7時15分だな。学校行く支度しないといけないんじゃないか?」

「あ、そうだね。それにシャワーも浴びたいし。じゃあ、帰ろっか?」

 

 確かにシャワーを浴びる時間を換算すると、そろそろ部屋に戻っておいた方がいい。おそらく千雨の変化もそのせいだろうと納得し、ごく自然に帰寮を誘った。だが千雨は、首を横に振って立ち上がった。

 

「ゴメン、ちょっと楽器屋立ち寄る用事があったんだ。朝一で来て構わないって言われてたし、ついでだから今から行くことにするよ。」

 

 サックスケースを背負い、寮とは逆方向を向く。その背中に、まき絵はまたしても、千雨が遠くに行ってしまう光景を幻視して。

 

「はっ、長谷川さんっ!!」

 

 気付けば、どう考えても不必要なほどの大声で叫びかけていた。

 

「は、話してくれてありがとう!私頑張るから!絶対、絶対大会出るから!ゆ、優勝だってしてみせるよ!だから、だから、えっと―――」

 

 考える暇もなく、矢継ぎ早に思いついた言葉を口にしていく。少しでも長く引きとめたいと、唐突な思考に操られるがままに叫び続ける。

 しかし、千雨の呆気に取られたような顔が目に入るのと同時に、言葉に詰まってしまった。何か、何か言わなければと、焦りに焦った結果、自然と口は動いていた。

 

 

「―――また、後で。3−Aの教室で、会おうね?」

 

 

 ―――――たった2時間程後の約束。

 意味も理由もない、誓うまでもない口約束だ。そんな一方的な約束の言葉に、千雨は眼を丸くしてまき絵を見つめている。まき絵自身も何故そんなことを口走ったのか分からず、それ以上喋ることも出来ないまま、羞恥心で顔を赤く染め上げていく。

 

「…ぷっ、あははははははははは!あっはははははははは!何だそりゃ!心配しすぎだって佐々木!あはははははは!」

「もっ、もおぉーーーーっ!そんなに笑うことないでしょーーーーー!」

 

 腹を抱えて笑う千雨と、恥ずかしさを誤魔化すように可愛らしく怒鳴るまき絵。一頻り笑った後、千雨がサックスケースを抱え直し、歩き出そうとし始める。しかしその顔には、見るからに楽しげな笑みが浮かんでいた。

 

「じゃ、また後で、教室で会おうぜ。」

「うん、また後でね!教室でも演奏してねー!」

 

 互いに手を振り合いながら、2時間後の再会を誓って別れる。

 寮に帰る足取りは軽かった。昨日から自分を悩ませていた問いに希望の光が見えたこと、千雨の演奏を自分一人で独占して聞けたこと、クラスメイトの強さと優しさに触れたこと。新鮮で綺麗な空気を浴びているかのような清々しい気持ちが、まき絵の全身を包み込んでいた。

 すると、視線の先にまたも見知った顔が現れた。

 

「あ、オーイ、明日菜ー!おっはよー!」

「あ、まき絵ー。おはよー。」

 

 ちょうど新聞配達のバイトを終え、自分と同じく寮に戻ろうとしている神楽坂明日菜だった。明日菜もまき絵を見つけ、まき絵と同じように元気よく手を振る。

 

「まき絵、こんな朝早くからどうしたの?朝練?」

「ううん、自主トレ。今終わったところだけど。」

 

 連れ立って寮への帰り道を行く。通りには朝練に向かうと思しき学生たちがちらほら見受けられた。

 

「あ、そういえばね!さっきまで、長谷川さんと一緒にランニングしてたんだよ!音楽やってる人でも走ったり鍛えたりするのは普通なんだって!えっと、何だっけ、確か、身体も楽器の一部だとか―――」

 

 まき絵が明日菜の表情を盗み見た瞬間、口を閉ざした。

 彼女らしくない、苦虫を噛み潰したような表情。そわそわと落ち着きがなく、まるで何かに怯えているかのように、せわしなく視線を泳がせている。

 

「明日菜、どうかしたの?」

「えっ!?あ、いや、ううん、何でもないわよ!?えっと…長谷川さんとどんなこと話したの?」

「えーっと、音楽は身体と技術を一体にして奏でる物だとか、譲れない物があるとか。今まであんまり話したこと無かったけど、何て言うか、格好良かった!」

 

 楽しげに話すまき絵とは裏腹に、明日菜の顔はますます濁っていく。

 

「…良い人、なのかな。」

 

 明日菜のポツリとこぼす。

 まき絵は一瞬戸惑ったが、すぐに明るい声で返した。

 

「うん!絶対良い人だよ!」

「…うん、そうだよね。きっとそう。」

 

 明日菜の少し無理をしているような笑みに、まき絵も底知れぬ不安感を覚える。どう考えてもいつもの明日菜らしくなく、同時にそれが、先ほど千雨が見せた翳とも重なって見えた。

(…何も起こらないといいけど…。)

 ここ最近は麻帆良の周囲で怖い事件が多くなっている。ただでさえすでにクラスメイトが一人巻き込まれているのだ。

 これ以上何もないように、と願わずにはいられない。今のまき絵には、大会と同じくらい不安な事であった。

 

 

 

 まき絵が去った後、誰も居なくなった自販機前。溜め息を吐きながら現れたのは、楽器屋に向かったはずの千雨だった。

 

「…行ったか。佐々木には悪いことしちまったな…。」

 

 呟きながら、先ほどと同じように自販機に凭れかかる。

 明日菜の接近に気付いて、バレバレの嘘を吐いて逃げ出した。今はまき絵と共に寮への帰り道を歩いている。まき絵には悪いとは思ったが、それ以上に、今明日菜と会いたくなかった。

 そして明日菜も、千雨に会いたくないに違いない。

 

 ポケットから携帯を取り出し、メール受信欄を見る。

 昨日の夜、晩御飯後に来た、一通のメール。

 差出人の名は、神楽坂明日菜。

 

 

 

『京都の件で話したいことがあります。明日の放課後、図書館島前で綾瀬さんと待ってます。絶対に来てください。』

 

 

 


(後書き)

第31話。ヤマなしオチなし意味深長回。略してヤオイ。殺らな…もとい、やらないか。

今回は導入に徹しました。色々説明を期待していたであろう皆様には申し訳ないです。

が、その裏で今話には結構色々散りばめてみたり。3章は起承転結で言うところの「転」にあたる、この作品でも最重要部分ですので、しっかり書いていきたいと思ってます。

今回のサブタイはご存知B'zの名曲「ゆるぎないものひとつ」です。何故かウチの千雨がコレを歌ってる…というかシャウトしてる姿が鮮明に思い浮かびました。別にテーマソングってわけじゃないんですが。

そしてこれを書き上げる直前に本屋に行って、ぱれっとの今月号読んだら、氷室の天地でホーンフリークのネタが!磨伸先生ありがとうございます!何かモチベーション上がりました!そんな吹奏楽部無いから!イェーイ!

次回は千雨VS明日菜&夕映…にはなりません。多分。それと、短編でニコ兄inISも挙げましたんで、そちらの方もお一つよろしく。

それではまた!

 

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