誰もが、目の前の現実を信じられないでいた。

 

 突き刺さる石柱。砕け散る石畳。降り注ぐ雨音。

 そして、血に染まり横たわる少女。真っ赤な血の池に、粉々になったサックスの破片が鈍く煌めいている。

 

 

「嘘…!?長谷川…?長谷川ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!」

 

 

 明日菜の絶叫が、全員の意識を現実に引き戻した。

 ある者は歓喜。ある者は絶望。それらの感情がごたまぜになり、狂乱へと姿を変えていく。

 

 

 まだ何も、終わってはいない。

 まだ何も、始まってはいない。

 

 

 

 

#36 奈落の花

 

 

 

 

 「ヒャハハハハハハッ!ようやくくたばりやがったぜ、このクソアマ!友達を庇って死ぬたぁ、英雄的(ヒロイック)で格好いいじゃねぇか!」

 

 

 ウェルダンの喝采が響き渡ると共に、残る男たちが歓声をあげた。その傍らの水球の中から、まき絵たちが届かない叫びを千雨に送り続けている。

 

 

「いやあ助かったぜデコチビ嬢ちゃん!テメエと同じで俺たちも手ェ焼いてたんだよ!散々仕事の邪魔してくれて、この通り仲間もたっくさん殺されちまった!いい囮になってくれたぜェ、ヒャハハハハハハッ!お礼と言っちゃあ何だが、五体満足で売り飛ばしてやるよォ!それが俺たちのお仕事だからなぁ!」

 

「う、売り飛ばす…!?まさか…!」

 

 

 明日菜と夕映が顔を青ざめさせ、まき絵たちの方を見る。まき絵が泣きながら頷くのを見て、体が崩れ落ちるような絶望感に襲われた。

 

 

「そんな…なんで、なんで…?アイツは、クラスメイトのことなんて、何とも思ってないはずなんじゃ…?」

 

 

 動揺し切った夕映が震える唇で呟く。明日菜も同じ気持ちだ。自分たちのせいで、事態を最悪の方向に導いてしまったのだから。

 

 

 

「あああああああああああっっっっっ!!」

 

 

 

 だが、その直後に響き渡ったネギの咆哮が、二人の意識を現実に引き戻した。

 

 

「ネギ先生っ!ソイツの事は後回しにして、速く明石さんたちをっ!!」

 

「ネギっ!!」

 

「正気に戻ってくれ兄貴ィ!」

 

 

 二人とカモの叫ぶが、暴走状態のネギは一向に止まる気配はない。ヘルマンを攻め立てる事に囚われ、全く周りが見えなくなってしまっている。

 それを苦々しく思っているのはヘルマンも同じだ。確かに襲撃した村の生き残りの少年がどのような成長を遂げたかには大いに興味があるし、それを摘み取りたいとも思う。

 

 だが、こんな形で決着をつける事は甚だ不本意だ。いっそここでネギを正気に戻してやれたらどんなに良い事だろうか。そんな簡単な事さえ許されない今の己の境遇が、歯がゆくてしょうがない。

 

 

 

 ―――だが、その思索にふけっていた一瞬が、思わぬ失態をもたらした。

 

 

 

「―――っダメですヘルマンさん!それ以上下がったら―――!」

 

 

 夕映の声で初めて気付く。

 自身の後ろは石柱群。すなわち、未だ千雨が横たわる地面だ。

 避けねば致命傷確実の一撃をもらうことになる。だが避ければ、千雨の体は粉々だ。

 別に千雨が粉砕されることは構わない。だがそれを実行するのはネギなのだ。もしネギがその手で千雨を原型なき姿にしたとあっては、その現実を認識した時、ネギが再起不能な心の傷を負うであろうことは想像に難くない。そうなっては最早、楽しみも何も無いのだ。

 

 舌打ちと共に、ヘルマンは老紳士の皮を脱ぎ捨て、禍々しい悪魔の姿に戻る。その口には眩く妖しい光が溜まっていく。

 

 

「不服ではあるが、致し方ない。これも運命だ―――己の非力を嘆きながら消えるがいい。ネギ君。」

 

 

 ヘルマンの口に集う光は、今や太陽と見紛わん程だ。

 対するネギは重装歩兵の如く全速力で突っ込んでくる。

 

 

「ダメェ―――――――ッ!!」

 

 

 明日菜の絶叫と、ヘルマンが光線を放つのは同時だった。

 爆音と土煙が二人の姿を隠す。明日菜も、夕映も、裕奈たちも、男たちも、沈黙を保ったまま爆心地を見つめる。

 

 土煙はすぐに晴れた。その中から現れたのは、3人分の人影。

 

 

 

 

 褐色の少女が二人の間に割って入り、互いの顔面を掴んでいた。

 

 

 

 

「ザジさん!?」

 

 

 明日菜が叫ぶ。見間違いようなどあるはずもない。だが、クラスの中でもあまり関わりのない寡黙な少女が、その細腕で猛獣と呼んで差し支えない二人を完全に抑えつけている光景は、一見しただけでは信じ難かった。

 

 

「ザジ…ザジ・レイニーデイ!?貴様ほどの高位の魔族が、何故ここに…?」

 

「…お久しぶり、ヘルマン卿。私の知らない間に、随分と墜ちたものね?見違えるようだわ。まるで車に轢かれた老犬のよう。」

 

 

 皮肉たっぷりにヘルマンをあしらう。その傍らで、ネギが自分を掴む手を振り解こうともがいている。

 レインはヘルマンから視線を外し、腕の先でもがくネギに冷たい視線を送る。

 

 

「けどまずは―――こっちが先。」

 

 

 レインがネギを掴む手を離すと同時に、その腹に強烈な蹴りを見舞った。

 蹴り飛ばされたネギの矮躯は、水たまりの上を跳ねながら明日菜と夕映の元へと戻っていく。

 

 

「ネギ!」

 

 

 明日菜が石畳の上を転がるネギの体を受け止め、呼びかける。

 

 

「――――っ、ゲホッ、ゲホゲホ!」

 

 

 ネギが胃液を吐きださんばかりの勢いで咳き込む。遠慮なしの苦痛を身に受けて、逆に頭が冷えたようだった。纏っていた紫電も魔力もかなり凪いでいる。

 ―――だが、つかつかと早足で寄って来たレインが、地面に向かって咳き込むネギの頭を無理矢理あげ、ある一点に視線を向けさせる。

 

 血まみれで地面に横たわる、千雨の方へと。

 

 

「あ、ぁ―――」

 

「…ホントは今すぐ、貴方を殺したい。貴方だけじゃなく、綾瀬夕映、貴方も。あそこで囚われてる佐々木たちだって憎らしいくらい。」

 

 

 夕映の体がビクンと跳ねる。明日菜が二人を庇おうと動くが、レインの眼差しを受けて、膝立ちのまま硬直してしまった。

 

 

「貴方たちは、どれだけ千雨が貴方たちのために戦っていたか、命を賭けていたかも知らないで、私怨と思いこみだけで千雨の邪魔をして―――千雨をあんな目に遭わせた。」

 

 

 レインの歯軋りが、少し離れた明日菜たちの耳まで届く。だが全員その事に気付かず、レインの言葉の意味を、千雨が自分たちのために戦っていたという言葉の意味に、意識を奪われていた。

 故に、レインの眦に涙が溜まっていることにも、気付けなかった。

 

 

「何にも…何にも知らないくせに…!ネギ先生を利用した計画のことも、皆を守るために武器を取ったことも、そのために京都で自分の手を汚して戦ってたことも!千雨だけじゃない、宮崎が千雨の、皆のために傷ついたことも!千雨がその事でどれだけ胸を痛めたかも!何も知らずにのうのうと過ごしてきたくせにっ!!」

 

 

 レインが涙声で叫ぶ。絶句するクラスメイトたちを、滲んだ視界の向こうに睨み続けた。

 これが八つ当たりであることは自覚している。自覚してなお、叫ばずにはいられなかった。罵りたかった。何も知らない彼女たちを。全ての元凶たる(ネギ)を。そして誰より、最後の最後まで事態を静観し続けていただけの自分を。

 

 

「ザジさんは…全部知ってるの…?長谷川のこととか、色々…?」

 

 

 息を荒げるレインに、明日菜が震える声で問いかける。

 

 

「ええ知ってる。全部知ってる。だから―――アイツ等全員殺してから、全部話してあげる。手伝わなくていいよ。手伝ってもらいたくない。」

 

 

 レインが瞼をこすりながら、身を翻す。

 視線の先には、再度老紳士の姿に戻ったヘルマン。さらにその向こうに、水球に閉じ込められたままの裕奈たちと、新たな乱入者の存在にあからさまに苛々しているウェルダンたちの姿がある。

 

 

「…私と戦うつもりかね、ザジ・レイニーデイ?見た所今の君は、魔力を封じられているようだが。その状態で戦った所で、ネギ君にも劣る実力しか発揮できまい?」

 

 

 ヘルマンが油断なく構えながら、レインとの実力差を明確に把握する。

 明日菜たちは目を見開いてレインを見つめるが、当のレインは何処吹く風だ。

 

 

「それがどうしたの?私の魔力が封じられていようと手足が捥がれていようと、それが貴方の勝因になることは無いわよ、ヘルマン卿?」

 

 

 それが度を超えた強がりである事は、誰の目にも明らかだった。先ほど二人を止めれたのは、不意打ちだったからに過ぎない。

 

 

 

「―――ゴメンね千雨、私は結局、何もかもが遅すぎた。結局私は、貴方を、クラスメイトを、見殺しにし続けてきた。それでも…、そんな私を、友達だと言ってくれるなら―――――」

 

 

 レインの瞳孔が見開かれる。

 その瞳は揺るぎなく、濁りなく。

 

 

 

「長谷川千雨、我が親友よ。最上位魔族が一人、ザジ・レイニーデイ。貴方のためにこの身を全うする事を誓う―――!!」

 

 

 

 

 

 

 ―――それは3年前の春休み。

 ザジ・レイニーデイは、憂鬱な気分を胸一杯に湛えながら、夜の麻帆良学園を闊歩していた。

 

 彼女がこの学園に来た理由は、姉であるポヨ・レイニーデイに指示されたからだ。内容は『神木・蟠桃及びネギ・スプリングフィールドの調査』である。

 数か月前、サウザンドマスターの息子の所属するメルディアナ魔法学校と、日本の麻帆良学園との間で密談が交わされた、という情報が入った。それによると、近いうちにネギ・スプリングフィールドを日本に留学させ、英雄としての修行をつけさせるそうだ。

 

 サウザンドマスターを始めとする「紅き翼(アラルブラ)」の面々と日本との関わりは深いため、ネギを英雄候補として育て上げるつもりならば、情報の信憑性は高いといえた。そのため彼女に、妙な魔力の溜まり方を示す蟠桃の調査と同時に、ネギ・スプリングフィールドへの接触と、日本国内を中心としたスパイ活動を任されたのだ。

 

 だがそれにあたって、怪しまれるのを防ぐために、魔力封印を施された。

 

 もし魔族だとバレれば、学園外追放処分も充分有り得る。そのため、常時人間の姿で固定し、微弱な魔力しか持たない普通の少女を装うことになったのだ。レインもその処置は適切だと思っていたし、不満は無かった。

 

 だが今日、自分が所属することになる女子中等部のクラス分けを見て、愕然とした。

 

 レインのクラスはA組。それだけなら何も驚くことは無かったが、クラスメイトが問題だった。事前に調査していた要注意人物―――近衛木乃香、超鈴音、エヴァンジェリンに加え、長瀬楓や古菲、桜咲刹那、龍宮真名など、武道に優れた人物が軒を連ねていた。それ以外のクラスメイトも、揃いもそろって一芸に秀でた人物ばかりであり、事前情報を鑑みれば、ネギ・スプリングフィールドの仮契約の糧となる人材の宝庫であることは、疑いようがなかった。

 何が最悪かといえば、自分の名前もその中に入っていることだ。すなわち、自分もネギの糧となる人材と見なされた、ということであり、自分が魔族であることを見抜かれている、という証左でもある。

 

 クラス編成を決めたのは学園長―――近衛近右衛門に違いないだろうが、さすがに自分たちの組織―――『完全なる世界』の事まで知られているとは考えにくい。もしそうならすでに自分の両手は後ろに回っている。だがここで慌てて逃げ出せば、疚しい所があったと自白するような物だ。顔写真を押さえられている今、軽挙妄動は慎みたい。

 

 しかも先ほど、自分が陥った状況をポヨに連絡し判断を仰いだ所返って来たのは、『静観』の一言。

 すなわち、誰がネギと仮契約しようと、どんな厄介事が襲おうとも、自分たちに直接害が及ぶような事態でなければ、余計な手出しはするな、ということだ。そしてその仮契約相手には、自分も含まれている。むしろネギを傍から見張れるのだから好都合だろう。そう考えれば考えるほど、気落ちしていった。

 

 そんな訳で、二進も三進も行かなくなってしまったレインは、クラスが決まってはしゃいでいる学生たちを尻目に、どんよりとした気分で今が満開の桜通りの並木道を歩いていたのだった。

 

 

「私、ここに何しに来たんだろ…。」

 

 

 スパイ活動も出来ない、魔力も使えない、そんな状態で、伏魔殿のようなこの地で3年もの時を過ごさねばならないという事実が、今のレインには重くてしょうがなかった。

 

 

「…仕方ない。寮に行くか。どうせ使うつもりは無いけど、同じクラスなんだし顔合わせだけでもしとかないと…。」

 

 

 溜め息交じりに寮への道を急ぐ。今日だけ軽く話して、後は3年間無口で通そう。そんな風にキャラ付けを決定して、夜桜の下を早足で駆け抜けていった。

 

 その音に気付いたのは、ドアノブに手をかけた時だった。

 ドアの先から優しく、弾むようなメロディが聞こえる。その旋律は不思議と心に沁みていき、ささくれ立ったレインの心を鎮めていった。

 ドアノブを握ったまま硬直していた時間が数十秒。その後開けていいかどうかに迷うので、さらに数十秒。合計で2分近く悩んだ末、恐る恐るドアを開けた。曲は2分前からずっと響き続けている。まるでレインを導くかのように。

 まるでハーメルンの笛吹きみたいだ、と感じながら、その音に魅かれリビングへと歩いていく。

 

 リビングには、サックスを吹き鳴らす一人の少女が居た。

 こちらには目もくれない。サックスを奏でることに意識を集中させている。

 黄金のサックスが煌めく。部屋中を音が飛び交う。まるで部屋の中にもう一つの太陽があって、音楽に合わせて踊っているかのように。

 

 気付かぬ内に、レインは釘付けになっていた。足どころか魂ごと固定されたかのように不動の姿勢で、全身の力という力を、この小さな演奏会を目に焼き付けることに注ぎ尽くしていた。

 

 

「―――…っと、ふぅ、こんなモンかな。それで、あなたがザジ・レイニーデイさん?ルームメイトの長谷川千雨だ。一応歓待の気持ちを表してみたんだけど…どうだったかな?」

 

 

 千雨が演奏を終え、レインに微笑みかける。

 だが、レインはウンともスンとも言わなかった。演奏が終わったことにも気付かないほど静聴し、感動していたのだが、さすがに集中し過ぎだった。何せ口から涎が溢れだしていることにすら気付いていないのだから。

 

 

「あ、あの…えっと?お、おーい?…って涎!涎拭けよ!床に垂れてるぞオイ!」

 

「え?え、え、えっと―――って、あああ!?ごごごご、ゴメンナサイ!」

 

 

 千雨の慌てる声にようやく意識を取り戻し、千雨以上に慌てて床を拭く。が、口元をまだ拭いていなかったため、さらに涎が零れた。

 最早半パニック状態に陥ったレインが、真っ先に目に付いた布巾を素早く手に取り、勢い任せに拭き上げる。良かった、という顔でレインが千雨を見上げると、呆然とした表情で、レインの手に持つ布巾を指差した。

 

 

「…それ、私のサックス拭き…。」

 

 

 あほー、とレインの頭の中でカラスが鳴いた気がした。

 もうヤダ死にたい、と嘆きながら、顔を真っ赤にして俯く。

 

 が、次の瞬間。

 

 

「…ぷっ。あはははははははははははは!!」

 

 

 堪え切れなくなった千雨が腹を捩じらせて大爆笑し始めた。

 一瞬呆けた顔になるレインだったが、すぐに自分も吹きだしてしまった。

 

 

「…あはっ、あははははははっ!!イヤゴメン、必死で頑張ってくれてたのに笑っちゃって、でもさ、でも、あはっ、あはははははははははは!!」

 

「いーよいーよもう!!笑っちゃお!あはははははははははははははは!!ホンット馬鹿だな私!あははははははははははははは!!」

 

 

 二人で床をバンバン叩きながら、転げ回って大笑いする。

 横隔膜が攣る直前まで笑った後、ようやく自己紹介し合った。

 

 

「じゃあ改めまして、長谷川千雨だ。趣味はサックス。好きな音楽はジャズ。」

 

「ザジ・レイニーデイ。サーカス団所属。趣味は音楽鑑賞。好きな音楽はジャズ。」

 

 

 

「「これから3年間よろしく!」」

 

 

 

 すでにレインに、先ほどまでの憂鬱な気持ちや無口キャラのことなど、脳の片隅にも置かれていない。ただ、友達と過ごす3年間を楽しみたい、もっと彼女の奏でる音楽を聴きたい。その気持ちだけだ。

 互いに楽しい気分のままハイタッチを交わし、二人の共同生活はスタートした。

 

 

 

 

 

 

 だがその日の夜。つい先ほど聞いた千雨の演奏が心に残り続けていたせいか、寝付けずにいたレインが、ココアでも淹れようと台所に向かう途中、千雨の部屋から確かに苦しげな呻き声が聞こえた。

 慌てて部屋に飛び込む。暗い部屋の中を、千雨の荒い息と、熱病に浮かされるような呻き声が満たしていた。

 

 

「千雨っ!!」

 

 

 レインが駆け寄り、千雨を揺り起こす。千雨の顔は青を通り越して真っ白で、今にも胃液をぶちまけそうな様子だった。

 

 

「…ああ、悪い。大丈夫だ。ちょっと夢見が悪かったらしい…。迷惑かけた。」

 

 

 が、すぐに状況を把握して、荒い息のまま再度横になる。それっきり、全く口を開こうとしない。聞くな、ということなのだろう。何を聞いても口論になる未来しか見えず、レインは引き下がるしか無かった。

 当然、その後はさらに眠れなくなってしまった。

 

 

 それから数日経ち。偶然昼時に寮に帰れたレインが、ただいま、と玄関先から声をかけるが返事がない。嫌な予感がしてリビングを覗くと、またしても千雨がソファの上で魘されていた。

 また起こそうかと考えるが、突如妙案が思い浮かんだ。

 

 

「そうだ、悪夢の原因を、根本から消し去れば…!」

 

 

 今千雨を苦しめているのは、千雨の見ている悪夢が現実を侵食しているためだ。ここで無理やり起こしたとしても、また今後襲い来る悪夢に悩まされる可能性は高い。

 ならば元から絶てばいい。千雨の無意識下に潜り、精神障壁を張って、千雨を苛む悪夢をシャットアウトするのだ。魔力を封じられている現状のレインだが、元が魔族なだけあって、人間の精神に潜り込むのは得意だ。おそらく魔法陣と詠唱があればいけるだろう。それでも、緊急時用に残しておいた残存魔力は根こそぎ持って行かれることは間違いない。

 

 だが、千雨を―――友達を助けるためにその程度の代償で済むなら、安いものだ。

 直ちに魔法陣を用意し、魔族(じぶん)の血を数滴垂らす。魔法陣が妖しく発光し始めるのに合わせて、詠唱を紡ぐ。

 

 

夢の妖精 女王メイヴよ(ニュンファ・ソムニー・レーギーナ・メイヴ)扉を開けて 夢へと誘え(ポルターム・アペリエンス・アド・セー・ノース・アリキアット)!」

 

 

 手の平を脂汗が滲む千雨の額に乗せる。

 今助けるから、と口には出さずに呼びかけ、空いている方の手で千雨の手を握った。

 

 そして、吸い込まれるような感触と共に、レインの意識が呑まれていき―――

 

 

 

 

 ―――――死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死―――――

 

 

 ―――一瞬で思考を鮮血色で塗り潰された。

 

 

 殺す殺してやる殺される殺してくれ銃声が悲鳴が怒号が罵声が断末魔が狂気が爆音が怨嗟が脳が心臓が胃が腸が肝臓が腎臓が目玉が鼓膜が血が肉が骨が爪が指が手首が腕が足がどこにもないここにある痛いそこにないそれは違う助けて許さない弱いのが人間なんて恐怖が頭が無いそれがそうだ何かお腹空いた怖くて痛い命がお前のせいで血飛沫が泥沼串刺して復讐をゴメンなさい痛いもうダメだ刳り抜いて不吉不穏不和不興バラバラに助けて圧殺抹殺滅殺暗殺瞬殺惨殺もう誰も略奪強奪剥奪皆殺しにして暗闇が地獄は屍さっさと擦り潰して所詮骨も残らずパニック銃殺屠殺死刑人質深淵混沌暗澹隷属纏戮壊滅爆殺絶望虚無漆黒煉獄襲撃憎悪錯乱暴虐贖罪残酷蟲毒破滅斬首惨劇慟哭恐怖切断罵倒熔解嫌悪殺戮痛覚違う私と私の私を私が私で私に私へ私は――――――――――――――――――

 

 

 悲鳴すら出せない。あまりにも真っ黒な、悪夢と呼ぶのも生易しい、おぞましい何か。

 レインの足元が沈み込む。何百本もの青白い手が這い寄り、レインの体をコールタールのような漆黒に引きずり込んでいた。抵抗など出来るはずもなく、呆気なく飲み込まれた深層意識(そこなしぬま)の中で、新たな映像が浮かび上がる。

 

 一面の砂漠。

 銃声と悲鳴。

 死屍累々たる惨状。

 響く拍手。

 底知れぬ恐怖。

 切り刻まれる仲間。

 狂人の群れ。

 赤い大災厄

 穿たれた月。

 馬鹿げたルールの死のゲーム。

 鉄球と蟲。

 十字架。

 青い髪。

 そして―――――――――――――

 

 

「っ―――――――――――――!!」

 

 

 意識が現実へ引き戻される。いや、強制的に引き戻されたのだ。レインの自我が耐えられなくなる直前で、無意識に魔法を解除したのだ。

 千雨から手を離した瞬間、その場に胃の内容物を全てぶちまけた。吐いた所であの光景が忘れられるわけでもなく、むしろより鮮明になってレインの精神をずたずたに引き裂く。

 

 悪夢を見た、ただそれだけの事で、レインは数十回も数百回も死に続け、殺され続けた。それが現実か錯覚かも分からない。今自分が生きているかどうかすら定かでない。訳の分からない恐怖に身を震わす。

 

 

「ホーン、フリーク…。」

 

 

 悪夢という名の地獄から拾ってきた、数少ない情報。長谷川千雨の過去の名。…だが、一体あれは何処だったのだろう。

 それを考えようとした、次の瞬間。真正面から首根っこを掴まれ、床に押し倒された。

 肺の中の空気と胃液の残りを吐きだしながらレインが見たのは、真っ青に染まりながらも鬼気迫る表情の千雨だった。

 

 

「オイ…やっぱりお前、“ビースト”なのか?」

 

 

 首を絞めたまま、脂汗をレインの鼻の上に垂らして問いかける。誰がどう見ても、まともな状態ではない。

 千雨の手に力がかかる。呼吸が止まる前に頸骨を折られそうだった。必死で首を振り、千雨を押し返そうと両肩を掴む。

 

 

「っ、は…はははっ…。はははははっ…。」

 

 

 乾いた笑い声が響く。感情のこもらない、何処となく嘲笑めいた声だ。

 だが、千雨の両目からは、滂沱の涙が溢れだしていた。ボロボロと零れ出す涙が、レインの頬に滴っていく。誰がどう見ても、まともな精神状態とは言い難かった。

 

 やがて、千雨の手から力が抜け、千雨自身も倒れるようにソファに体を寄せた。咳き込み、恨みがましい顔でレインは千雨を睨むが、当の千雨は自殺しかねない雰囲気だ。

 

 

「…謝って許されることだとは思わないけど、それでもゴメン。」

 

 

 千雨が徐に口を開いた。レインは小さく息を吐いて、立ち上がった。その足で台所へ向かい、インスタントコーヒーを淹れて千雨に差し出す。千雨はきょとんとした顔でマグカップを眺めていたが、やがてゆっくりと飲み始めた。

 

 そしてぽつぽつと自分の過去を話し始めた。砂の星のこと。人殺しを生業にしていた事。その末に天罰のような死を迎えた事。気付けばこの世界で生きていた事。そしてそれが何より苦しい事。

 

 

「…正直さ、何で自分が生きてるのか分からないんだ。理由も分からないまま全く環境の違う世界で生きていくことになって、あれだけ苦しい思いして生きてたのが馬鹿みたいで、結局何が真実(ホント)で何が嘘なのか、何一つ分からないままずっと安穏と生き続けてることが、苦しくてたまらないんだ。」

 

 

 珈琲を飲み終え、サックスを撫でながら独白する。

 千雨が自らの過去を正確に認識出来るようになったのは、つい数年前のこと。そして年を重ねれば重ねるほどに、ぶつけようのない複雑な感情が、千雨の心を侵食していった。

 

 

「私は、一体、誰なんだろうね…?」

 

 

 サックスを撫でる手を止め、何処か遠い目で掌を見つめる。きっとその手の中に、無限に湧き出る血の泉を幻視しているのだろう、とレインは思った。

 

 ―――そしてあの深層意識の闇も、同じ血で出来ている。

 生き延びるために踏み躙り続けた命の残骸、負の感情の沈殿だ。

 

 

「―――――じゃあ、どっちで居たいの?」

 

 

 自分でも気付かぬ内に、レインはそう問いかけていた。

 千雨が驚いている。しかし、驚いているのはレインも同じだ。

 

 もし姉のポヨだったら、そしていつもの自分だったら、躊躇いなく千雨を殺している。彼女はあまりにも危険だ。今は千雨の意思が行動に絡まっていないからいいものの、それさえあれば最上級魔族すら蹴散らせる程の人材だ。

 

 だというのに、自分は一体何をしているのか。

 

 分かってはいても、口は止まらず動き続けた。

 

 

「貴方は、どっちで居たいの?殺戮を愛する“ミッドバレイ・ザ・ホーンフリーク”?平穏を愛する“長谷川千雨”?貴方は、“誰”でありたいの?」

 

 

 レインは内心の動揺を抑えつつ、千雨の目をじっと見つめ、答えを待った。千雨は一瞬言い淀んだが、口を開く。

 

 

「…ここで、“ミッドバレイ・ザ・ホーンフリーク”は必要とされてない。だったら、“長谷川千雨”として生きるのが当然だ。…私も、出来ればそうしたい。そうなりたい。平凡な一人間として、人生を過ごしたい。この世界で―――この優しい世界で、生きていきたい。」

 

 

 千雨が決意を込めた瞳で、レインを見つめる。

 そうだ、理由なんてない。理由なんて要らない。使命だとか、主義主張だとか、そんなものはどうでもいい。

 

 

「分かった。それがあなたの答えなら。」

 

 

 レインは千雨の両手を包むように握り、優しく、力強い瞳で千雨を真正面から見据えた。

 ただ、守りたいだけだ。支えたいだけだ。自分に悩み、自分の過去に苦しみ、自身さえ定かではなく、生きる理由に揺らぎ続ける彼女を。

この麻帆良でたった一人の、大切な友達を。

 

 

「私はあなたのこと、千雨って呼ぶ。だからあなたは、長谷川千雨で居て。あなたが長谷川千雨である限り、私があなたの平穏を崩させやしない。あなたをホーンフリークになんか、戻させやしない。」

 

 

 “長谷川千雨”を“ミッドバレイ・ザ・ホーンフリーク”にしないこと。それは、千雨を魔法に一切関わらせないということだ。

 もし戦いに巻き込まれれば、千雨は否応なくホーンフリークとしての力を発揮することになる。殺人も辞さない、殺人鬼としての戦い方を。だがこのままいけば、千雨はネギ・ズプリングフィールドを中心とした魔法と戦いの渦中に巻き込まれていくことになるだろう。

 

 それだけは、決してさせない。

 友達を絶望に陥れさせはしない。

 

 千雨を、苦しみ戦い抜き、それでも生き続ける親友を、これ以上苦しめることだけは許さない。

 

 

「…ありがとう。ありがとう、レイン…。私っ…!」

 

 

 零れ落ちそうな涙を堪えながら俯く千雨の頭を、そっと撫でる。

 

 

「当然だよ。友達なんだから。」

 

 

 それが、入学数日前の春休みの顛末。

 2年後の4月まで続いた、二人の平和な日々の始まり。

 

 

 

 

 

 

Side 千雨

 

 

「…またずいぶんと、懐かしい夢みたなぁ…。」

 

 

 深い深い闇の中で見た昔の思い出は、まるで今の自分を責め立てているようだった。

 

 2年前、クラスメイトとの約束。

 結局私は約束を破った。後悔はしていなくとも、その時のレインの悲しみは、きっと測り知れないものだっただろう。挙句こんな死に様では、恨まれてもしょうがない。そう考えながら、自分の体に意識を巡らす。

 

 指一本動かせず、身を裂くような痛みに喘ぎながらも、意識だけはハッキリとしていた。とはいっても一面の闇の中で、目を開けているのか閉じているのかも分からなくなる。

 

 

「…死んで辿り着くのがこんな場所ってのも、まぁ、私らしいっちゃらしいのかね。」

 

 

 自虐的な軽口が口から飛び出す。まるで果ての無い漆黒の空間の中で、積み重なった死体の山の上にいるかのような気持ち悪い浮遊感と、生温かく血生臭い空気感が、私の眠気を片っ端から吸い取っていく。

 まるで腐肉の海に漂っているかのような不快感。きっと地獄の掃き溜めか、三途の川の淀みの中に違いない。

 

 

「死ぬなら死ぬで、さっさと黄泉送りにでもしてくれねえかなぁ…。」

 

 

 

『それは困るな。せっかく久しぶりに会えたんだ。話をしようじゃないか、音界の覇者。』

 

 

 

 背筋が粟立つ。この空間をさらにおぞましく染め上げるような、濁りなく揺るぎない、禍々しい声。聞いてるだけで吐き気を催すのは、コイツがコイツであるからに違いない。

 

 

「こっちは何も困らねえよ。さっさと消えろ、レガート・ブルーサマーズ。」

 

 

 声が自然と殺意を帯びたものになる。普通ならここで血みどろの殺し合いだ。だが、そうはならないだろうという確信もあった。

 

 

『まぁ、君が消えろと言うのなら、僕は消えるしかないのだけれどね。何せここは、君の深層心理の中だ。死にゆく君が見る走馬灯みたいなもの。君が見たくないと思えば、拒絶することは他愛ない。』

 

 

 やっぱりか、と安堵する。何せレガートの姿は感じられず、声だけが脳に直接響いてきていたのだ。気付くなという方が無理だろう。

 だが、そうと分かればさっさと消えてもらおう。割かし幸福だった第二の人生の死に際に、コイツに傍にいてもらいたいとは微塵も思わない。

 

 

『せっかく会えた同類(なかま)だ。ゆっくり話したかったんだけど、仕方ない。お暇させてもらおうか―――』

 

「…オイ、ちょっと待てコラ。」

 

 

 ―――だが、消える直前に言い放たれた言葉に、感情が火山のように沸き立つ。

 

 

「この私に聞き違いがあると思うなよ?テメエ今なんつった。私とお前が、何だって?」

 

『同類、と言ったのさ。同胞、兄弟と言ってもいいかな。まさか君が、こんなにも僕等と近しい存在になるとはね。転生し、平穏を謳歌するだけでそうなれるのかい?』

 

 

 皮肉交じりの返答がさらに感情を逆撫でする。全身を覆う不快感よりも、レガートの声を聞く方がずっと気分悪く感じるのは、当然といえば当然のことだろう。

 

 

『…どうやら、本当に気付いていないようだね。なら、教えてあげるよ、“音界の覇者”。』

 

 

 レガートが口調を嘲るような物に変えた。まるであの、ぞっとするような笑顔が脳裏に浮かび上がるようで、全身の筋肉が硬直してしまう。

 

 

 

『―――君は、自分が生きている価値を見出していないのだろう?』

 

 

 

 ―――そんな。私の生存の理由(レゾンデートル)を突き崩すような言葉が。

 私の身を砕いた石柱よりも辛い激痛を、全身に奔らせた。

 

 

Side out

 

 

 

 

 

 

 茶々丸は廃墟と化したエヴァンジェリン邸の玄関前で退屈そうに座っていた。

 正確に言えば、自分ごとこのエヴァンジェリン邸を囲む魔法使いたちを、退屈そうな眼差しで見ていたのである。

 

 

「…よくも飽きないものですね。信用出来ないのは分かりますが、何もここまでピリピリしなくても。」

 

「―――っ、五月蠅い!」

 

 

 からかわれた、と勘違いしたらしい魔法教師の一人が突っかかる。それに呼応して他の魔法教師が杖を構えるのを見て、茶々丸はますます憮然としていく。

 

 

「全くいい迷惑です。これではお茶を淹れることすらままならない。これも長谷川さんのせいですね。ああ腹立たしい腹立たしいホント死ねばいいのにあの女。」

 

 

 すでに見張られ続けて一時間半になる。その間他愛ない一挙手一投足に敵意をもって反応され続ければ、さすがの茶々丸といえど、このように心にもない言葉が飛び出す程度にうんざりし始めていた。

 なお、心にもない、というのは、自分が手を下さない内に勝手に死んでもらっては困るから、という理由である。

 

 

「…しかし貴方に長谷川千雨と個人的友詛がある事は事実でしょう。ならばやはり、貴方を自由にしておくべきでは―――」

 

「友詛?馬鹿な事を言わないで下さい。何であの女と仲良しでなくちゃいけないんですか。」

 

 

 だが葛葉の失言に、茶々丸がこの日一番の怒りをもって返答した。全員戦闘態勢に入っているはずの魔法先生たちであったが、阿修羅を彷彿とさせるその静かな怒りに、思わずたじろいでしまう。

 

 

「私が彼女の近くに居るのは、マスターが彼女と友詛を結んでいるから、そして私自身、未だ彼女の実力に及ばないからです。だからこそ、彼女の近くで彼女との距離を推し量っている。いずれ超える壁を隣に見ているだけです。

 ―――長谷川千雨と私を繋ぐものは、流血のみ。いつか彼女の血で我が身を(うるお)すことこそ、私の望む所です。少なくとも、貴方たちのような小物を倒した所で、何の感慨も湧きません。」

 

 

 茶々丸の迫力に気圧され、一歩、また一歩と、魔法教師たちが後退し始める。

 今度こそハッキリと、茶々丸の背後に阿修羅を見た。牙を剥き、自分たちより遠くの何かを凝視し続けている。その赤く燃える瞳が自分たちに向くことなど、想像したくもない。そう考えれば考えるほど、茶々丸に対する戦意が喪われていく。

 

 作戦隊長である葛葉刀子も戸惑っていた。茶々丸の戦闘力は予想を遥かに超えて高い。魔法教師十数名など、何の問題にもならないに違いない。ここまで彼我の差があるとは思わなかった、と自分の見通しの甘さを痛感する。

 今この場に居ない、エヴァンジェリン邸の裏手に回っている面子はともかく、今こうして茶々丸と向かい合っている面々は、ほぼ心が折られてしまっている。そして当の茶々丸は、千雨に加担する気は無いという。

 

 

(ここは撤退した方が良さそうでしょうか…。分が悪すぎる。このまま睨み合えば睨み合う程、こちらの戦意は削がれていく…。だが、本当に彼女が動かない保証もない…!)

 

 

 刀の柄を握る手が、汗でびっしょりと滲む。張り裂けそうな心臓の鼓動が葛葉刀子の気をさらに掻き乱す。

 

 と、その時だった。茶々丸が微かに視線を泳がせた。

 途端に、轟音と震動が森全体を揺さぶった。

 

 

「くっ、な、何をした、絡繰茶々丸!!」

 

「私は何も。…しかしこの魔力、何故彼女が…?」

 

 

 茶々丸は地面を跳ね上げるような揺れを物ともせず、重力に逆らっているかのように姿勢を崩さないまま、視線を後方の空に向けた。

 雨雲の浮かぶ空から、人影が舞い降りる。影はエヴァンジェリン邸の崩れかけた屋根に着地し、屋根を破壊しながら魔法教師たちのもとへ突っ込んで行った。

 

 そして、着地とほぼ同時に、ほぼ全員が四方八方へ吹き飛ばされた。

 茶々丸と葛葉が見たのは、弧を描くように振るわれた、四本の腕。

 

 

「なっ――――!?誰―――」

 

 

 葛葉の驚愕が口から出切らない内に、再度振るわれた腕が、葛葉を含めた残り全員をまとめて叩きのめした。

 誰一人起き上がらない、起き上がれないのを確認してから、突如現れた人影―――近衛木乃香が、艶やかな長い黒髪を靡かせながら、茶々丸の方を向く。

 

 

「やっほー、絡繰さん、元気やったかー?」

 

 

 まるで朝の挨拶をするかのような明るい声。屈託のない笑みを浮かべながら、木すら握り潰してしまいそうな四本の巨腕が茶々丸に向かってひらひらと振られる姿は、なんというか非常にシュールだった。

 

 

「…ど派手な登場、お疲れ様です。近衛さん。いつ麻帆良に?」

 

「今着いたとこやえー。長谷川さんの助けに来たんやけど、何処に居るか分からへんかったから、とりあえず絡繰さんのトコ来たんやけど。」

 

「残念ですが、私も知りません。後、私は千雨さんのために動くつもりはありませんので、悪しからず。」

 

「…むー、ホンマに言うてた通りやな…。しゃーない、鬼神はん、学園一帯に片っ端から魔力索敵かけるえー。」

 

 

 むくれっ面の木乃香が鬼神(じぶん)に話しかけるのを見ながら、茶々丸は怪訝な顔を浮かべた。今の木乃香の発言は、まるで自分の考える事を誰かが予想しており、それを伝え聞いたかのようだったが、一体誰から聞いたというのだろう。

 しかし、それを問い質そうとする茶々丸を、苦しげな呻き声が遮った。

 

 

「ぐ…こ、近衛、木乃香ですって…!?そんな馬鹿な…!今日は、学園長と京都で、会談だったんじゃ…!?」

 

 

 葛葉刀子が、痛む体を支え起こして問いかける。時刻はまだ9時半にもなっていない。学園長との会談が終わって駆け付けた、とするには、あまりにも不自然だ。ふと木乃香の方を見てみると、まるで悪戯が成功したかのような笑みを浮かべていることに気付いた。

 

 

「別にー?単にウチの上司(・・)が代わってくれただけやさかい。お爺ちゃんとは私が会っとくから、ウチは麻帆良で長谷川さん助けー言われてな。絡繰さんの事も教えてもろたんよ?多分絡繰さんは長谷川さん助ける気ぃあらへんよー、って。」

 

「じょ、上司…?」

 

 

 葛葉だけでなく、茶々丸も困惑する。今の関西で、木乃香より上の立場に就ける人間など居るのか。

 刹那は真っ先に除外出来る。協会転覆の犯人一味の一人だし、木乃香の上司になりたがるとは到底思えない。だがそもそも、自分の思考を熟知している時点で、自分と関わりの深い人間に限られる。

 そんな人物が、京都に―――――――

 

 

「………え、イヤ、それは。」

 

 

 思い至った瞬間に全否定した。有り得ない、とうわ言のように繰り返すが、気付けば木乃香が綺麗な笑顔を茶々丸に向けていた。

 まるで、それで合ってるよ、と言わんばかりの。

 

 

「…いやいやいやいや、嘘でしょう?さすがに嘘ですよね?あ―――有り得ませんそんな事。有るはずが―――」

 

 

 完全に狼狽し切った様子の茶々丸を、葛葉が不審げな目で見つめる。そんな茶々丸の様子を満足そうに見つめながら、木乃香は不敵な笑みを浮かべ、葛葉に向き直った。

 

 

「エヴァさん、長瀬さん、絡繰さん、そして長谷川さん―――確かに主要メンバーは軒並み押さえられてもうた。チェックメイト秒読み段階、って考えるやろな。普通は。

 けど、一番大事な人を抜かしとるえー?―――――長谷川・マクダウェル同盟の秘密兵器(ワイルドカード)にして、全ての発端を。」

 

 

 

 

 

『待ち合わせ場所は、京都駅前のビルにある喫茶店』

 

 

 近右衛門は手紙の内容と目の前の喫茶店の看板を見比べ、そこが待ち合わせ場所に相違ないことを確認した。というか、ここまでおおっぴらに魔力と結界の存在を感じさせておいて、間違えるはずもない。おそらく店内は客も店員も皆関西の術者たちなのだろう。

 すると、店内から見知った顔が現れた。彼女は近右衛門を見た瞬間小さく顔を強張らせ、すぐに頭を下げた。

 

 

「ふぉっふぉっふぉ。出迎えかね、刹那君?」

 

「はっ、申し訳ありません。本来ならこちらが店先で待っていなければならなかったのですが―――」

 

「構わんよ。ちょいと速く着き過ぎた儂のせいじゃ。もう木乃香は来ておるのかね?」

 

 

 好々爺のように振舞いつつ、刹那の様子を観察する。以前のような危なっかしさは感じられない。修学旅行前にそれに気付いていれば、と内心で悔みつつ、今現在麻帆良を襲う未曽有の危機を思い出し、さらに暗澹とした気分になる。

 先ほど京都駅から麻帆良学園に電話をかけてみたが、何故か繋がらない。おそらく天ヶ崎が何か仕掛けたのだろう。考えれば考えるほど腹立たしい。どうしてあんな女が野放しにされているのか。

 

 

「いえ、本日、木乃香様はいらっしゃいません。」

 

「何?」

 

 

 自分の思考に埋没しかけていた所へ、刹那の声がかかる。驚きに目を見開くと、刹那の勝ち誇ったような表情が映った。

 

 

「本日未明、木乃香様は副会長代行より火急の用事を仰せつかり、外出致しました。ですので本日は代理として、副会長代行殿がいらっしゃっております。」

 

「副会長代行、じゃと…?」

 

 

 近右衛門が眉根を寄せて考えこむが、どうぞ、と店内へ促されたため、刹那の後に続いて中に入っていった。

 予想通り店内には数名の客と店員がおり、その誰もが自然な振舞いを装いながら、近右衛門の一挙一動に警戒していた。謀殺、という事はないだろうが、何らかの企みはあるのだろう。そう考えながら、視線を窓際に移す。

 

 

 

 そして、見た。

 一番窓際の席。紫陽花色の着物を着て座る少女の姿を。

 

 

 

 彼女の姿を己が網膜に映した瞬間、近右衛門は完全に静止した。動きも、思考も、ひょっとしたら心臓まで止まっていたかもしれない。あまりの衝撃に、刹那がまたしても勝ち誇った顔を浮かべたことにすら気付けなかった。

 

 

「副会長代行。近衛近右衛門殿をお連れいたしました。」

 

「ありがとう、近衛様の席を引いて差し上げてから、後ろに控えていてください。」

 

 

 刹那の労をねぎらいながら、彼女が近右衛門の方に視線を向ける。その立ち居振る舞いはまるで芍薬の花。年端もいかぬ少女のはずなのに、妙な色香すら漂わせている。

 

 

「京都までご足労いただき、誠にありがとうございます。どうぞおかけください。」

 

 

 促されるがままに、刹那の引いた席に座る。歩く足にも座る尻にも、何の感覚も感じられない。

 

 

「それでは僭越ながら、自己紹介をさせていただきます。」

 

 

 呆然とする近右衛門の様子など意にもかけず、落ち着き払った嫋やかな声を放つ。

 

 凛とした顔つきで。

 その瞳は揺るぎなく、濁りなく。

 

 

 

 

「新生・関西呪術協会副会長代行、宮崎のどかと申します。若輩の身故、至らぬ所も多いかとは存じますが、本日はどうかよろしくお願いいたします。」

 

 

 

 

 

 

 


(後書き)

( ゚д゚) …

(つд⊂)ゴシゴシ

(;゚д゚) …

(つд⊂)ゴシゴシゴシ
_, ._
(;゚ Д゚)ナニヤッテンスカノドカサン…!?

 

 

 36話です。もうこれでいいでしょ今回のあらすじ。

 

 しかし千雨とレインの過去話が予想以上に長くなってしまいました。これ単体で独立させた方がいいかなーと思ったんですが、そうすると前後の繋がり悪くなっちゃいそうだったので、ひとまとめにしちゃいました。おかげで合計16,000字オーバー。一話分としては過去最長じゃないかなコレ。

 

 ついでに回想で千雨の心情描写がありましたが、これについては終盤でかなり詳しく描写します。今回はさわりだけ。

 

 とりあえずこれでレイン関係の伏線はほぼ回収できたと思います。ホントは3話〜12話辺りのレイン視点での描写も少し入れたかったのですが、それ入れると2万じゃ済まないので。余裕が出来たら外伝とか短編とかで書くかもです。

 

 のどかの件は次回書くので、今回はスルーで。

 

 今回のサブタイは「ひぐらしのなく頃に解」のOP曲「奈落の花」。3月に就活で忙しい合間を縫って、ひぐらし一期のOP映像に使われた小高い丘の展望台に行きました。前々回書いた、高校の頃の友達との旅行で、その友達に誘われて。一面の銀世界が目に眩しかったです。後この他にも神社見に行って全体像や痛絵馬の写真撮り、夜はホテルでAnotherを見る…。ホント何しに行ってんだろ(笑)

 

 

 後全く関係ない話ですが、祝☆キューティクル探偵因幡アニメ化決定!漫画1話の時からずっと追い続けてきた甲斐がありました!ぶっちゃけこれを書く前に、なのはと因幡のクロスオーバーも候補にあったぐらいでして(笑)とりあえず、圭くんの切れ味鋭いツッコミと優太の腹黒っぷり楽しみにしてます!「鉄人だぁっ」と「空気読めなきゃ吸わなきゃいいのに」が速く聞きたい!後ドラマCDであまりのウザさに途中で切りそうになってしまった緒方も。

 

 それと今回、投稿前恒例の感想返しを行っておりません。というのも、前感想スレがちょうど一杯になってしまい、感想返しのためには自分で新しい感想スレを立てなくてはならず、自演乙になってしまいます。さすがにそれは恥知らずだと思うので、申し訳ないですが今回は、どなたかが立てた後に書きこみたいと思います。

 

 次回はのどかのターン!多分ついでに千雨のターン。バイトが本格化してきて忙しくなるので、どれぐらいのペースになるか分かりませんが、頑張ります!それではまた次回!

 

(追記:8月19日)

 感想にて「ヘルマンが千雨を庇う理由が分からない」と言う意見が多かったので、追記しました。頭の中で組み立ては出来てたのですが、文章に起こしていませんでした。相変わらず説明不足でゴメンナサイ。

 …ちなみに最新話、結構執筆ペースが遅いです。夏休み中に3章終われるかなぁ…。

 

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