「はぁ…。」

 

 

 麻帆良学園都市の一角にある、千雨行き付けの楽器屋で、親父の深い溜め息が店中に響き渡った。

 千雨が店を訪れなくなってはや一週間。彼女がこれ程長い事顔を出さなかったのは初めての事であり、大々的に報道されたあの悲惨な修学旅行から帰ってきて以来、何となく様子がおかしかったのだ。

 修学旅行の何らかに関わっているのでは、という悪い予想は、思い浮かぶ度に振り払ってきた。だが彼女のサックスを製作し、その潜在能力をよく知っている身としては、どうしてもその考えを拭えない。

 

 いつか千雨が、取り返しのつかない大怪我を負うんじゃないか。

 危険な事に巻き込まれた末、無惨な死に方をしてしまうんじゃないか。

 

 一度その考えに至ってしまえば、そんな予想ばかりが頭を駆け巡るようになる。仕事の手も進まず、今日はもう閉店にしてしまおうかと思っていたその矢先に、ドアベルが鳴り来客を告げた。

 

 

「らっしゃ―――」

 

 

 客を迎えるにしては機嫌の悪さが滲み出過ぎている声が、驚きと共に途切れる。

 入ってきたのは十数名の女生徒たち。制服は千雨と同じ、麻帆良女子中等部の物だ。いずれもおっかなびっくりといった感じで、楽器屋の天井から床の隅まで落ち着かなさそうに眺め回している。

 

 

「あー、えーと…。何か入り用かね?」

 

 

 一度に何十人もの人間が来店する事が初めてだったので、思わず物腰が低くなってしまう。

 女生徒たちの視線が一斉に親父の方を向く。応じたのは、先頭切って店に入ってきた金髪の背の高い女生徒だった。

 

 

「すみません、店長さん。こちらでサックスを販売していると聞いて伺ったのですが―――」

 

 

 

 

 

#41 ハッピー・マテリアル

 

 

 

side 千雨

 

 

 

 目を覚ましてまず目に移ったのは、ログハウスのような木組みの屋根と夜の暗さ。

 耳を澄ませば、波のさざめきが鼓膜を震わし、仄かな潮の匂いが鼻をくすぐる。

 

 覚えがある。ここは確か、エヴァが楓の特訓場所として紹介してくれた『別荘』の中だ。という事は、外部とは経過時間が大分違ってくるはずだ。一体今は何日の何時位なのだろう。そう考えながら、起き上がろうとして身体に力を込める。

 

 が、込められなかった。不協和音のような不快さと違和感が全身を奔り、血管を針が通っているかのような鋭い痛みと痺れを感じた。

 ―――というか、そうだ。私はあの時間違いなく、首から下を無惨に潰された。あの傷が治るはずがない。

 では今、私の首の下に繋がるこの身体は何なのか。

 

 そんな私の思考は、顔見知りの足音が近付いてきた事で中断された。

 身体を起こす事は諦め、枕に頭を埋めて来るのを待つ。開けっ放しのドアを律儀に叩き、彼女が入ってきた。手の中の一輪の花が揺れる音が聞こえる。

 

 

「…おはよう、綾瀬。」

 

 

 綾瀬が驚きに体勢を崩し、真横の棚によろけてぶつかる。手の中の花も床に落ちた。

 

 

「は、せ、がわ…さん?」

 

「ああ、長谷川千雨だよ。お前が居るって事は、少なくとも地獄じゃなさそうだな。」

 

 

 軽く茶化したつもりだったのだが、綾瀬は見る見るうちに瞳に涙を溜めこみ、ベッドに横になったままの私に抱き着いてきた。

 

 

「長谷川さんっ!!良かった…。目を、覚まじでぐれて、本当に゛、よ゛がっ、だ…。私、本当に゛馬鹿な事じで、長谷川ざん゛に、酷い事、一杯…。」

 

 

 後は言葉にならず、私の胸元に顔を埋めて延々と嗚咽をこぼし続ける。よく見ると綾瀬の目元にはくっきりと隈が出来ている。今日以前にも泣き晴らしていたのだろう。

 私の服も雰囲気も、あっという間に湿っぽくなってしまう中、新たな人物の足音が聞こえてきた。

 

 

「―――おや、目を覚まされたようですね。」

 

 

 気取った調子の台詞が入った途端に聞こえてきた。

 ばっと顔を上げた綾瀬の視線の先にはアルビレオが居た。心なしかいつもよりも微笑みが深いように見える。

 

 

「長谷川さんへの説明は私が済ませておきますので、貴方は他の皆さんを呼んできていただけますか?」

 

「はっ、ハイッ!もちろんです!」

 

 

 涙を拭いながら勢いよく叫んで、綾瀬は駆け出していった。アルビレオはそれを見届けてから、ベッド横の丸椅子に腰掛け、林檎とナイフを取り出した。

 

 

「…今日は、いつだ?」

 

「ほう、最初にそれを聞くとは、さすがに状況判断が早いですね。今日は貴方が負傷してから数えて76日目―――『別荘』内換算ですので、外部の時間では4日目になりますね。貴方が倒れた後すぐにこの『別荘』内に運び込んだのですよ。」

 

 

 シャリシャリ、と林檎を剥く様子が何処となく楽しげだ。

 それにしても2ヶ月半、か。『別荘』の中とはいえ、かなり長く眠っていたようだ。綾瀬も心配して泣き晴らすはずだ。そして、それ程長く眠りこんでしまう理由は、間違いなくこの違和感ありまくりの体にあるのだろう。

 皿の上にウサギ型にカットした林檎が置かれた。

 

 

「やはり自分の身体の事となると、勘付くのも早いですね。少し長い説明になりますので、林檎でも食べながらお聞きください。…おっと、身体はまだ馴染み切っていなかったですね。では、私が食べさせて差し上げましょう。」

 

 

 そんな台詞を吐かれ、思わず鳥肌が立ってしまったが、丁寧に口元まで運ばれた林檎は、時期外れな代物のはずなのに、驚くほど瑞々しかった。眠りっぱなしですっかり乾いていた喉が潤う感覚を味わいつつ、アルビレオの説明に耳を傾ける。

 

 しかし説明を受けた途端に、林檎の味も喉の潤いも、綺麗さっぱり失せてしまった。

 

 

「…つまり、今私の首の下に繋がってるこの身体は、近衛の胴体だった、って事…なんだな?」

 

「ええ。二人の傷口…というか接合部分を合わせるのに、結構苦労なさっていたようですけどね。刃物だと傷口がまばらになってしまいますし、レーザーだと傷口を焼いてしまうので。」

 

 

 あまりの非常識さに瞑目する。これに比べたら私の聴力や出自なんてママゴト同然だ。確かにノーマンズランドでは、首から下が木端微塵にされようが生き残れるタフな連中は多かったが、それは改造に改造を重ねたサイボーグであるからこその芸当だ。完全生身を自負とする私にとっては、とてつもないショックである。

 ついでに、さっき身体に感じた違和感の正体も分かった。今アルビレオが口にした通り、この身体はまだ完全に馴染んでいる訳ではない。おそらく相当長い時間をリハビリに費やさなければ、元の身体に戻るどころか、これまで通りサックスを吹くことすら覚束ないに違いない。

 とはいえこうして生きているのだから、文句を言える筋合いではない。少しだけ憮然としながらアルビレオを見据える。

 

 

「…で、それだけじゃねえだろ?何か他に、言わなきゃいけないことあるんじゃねえのか?」

 

「…やれやれ、せっかちな方だ。これから話そうと思っていたのですよ。」

 

 

 いかにも困り果てたと言わんばかりの表情だが、間違いなく心の奥底では、何かを面白がっている。悪態にも動じず、にこやかな笑みを崩さないコイツは、本当に嫌らしい性格をしてると感じるのは、私だけではあるまい。

 

 

「まず一つ。残念ながら貴方の指名手配は解除されていません。元老院直属の部隊が偽物であり、彼らが貴方の身柄を拘束するという名目で学園に侵入、生徒と教員を傷つけたという事実は立証されていますが、貴方の罪目を覆すには至りませんでした。明石教授とネギ先生も、必死に努力はなさっていたのですが。」

 

 

 まぁそれはしょうがない事だろう。尽力してくれた二人には申し訳ないが、それで何かを覆せる程甘くはあるまい。

 が、アルビレオはそんな私の心中を見透かしたかのように、ニコリと笑って言葉を続けた。

 

 

「しかしネギ先生も関西呪術協会も、貴方の関与を完全否定しています。罪状の半分が本人たちによって否定されたため、現在貴方の手配を一時停止する処分が下されています。少なくとも手配額は大幅に減額される事でしょう。」

 

 

 ふぅん、とまるで他人事のように適当な相槌を打ちながら、林檎を頬張る。正直懸賞金の有無なんざどうでもいい。そしてアルビレオも、何よりもそれを伝えたかったという訳ではないのは明白だ。なので、じっと次の言葉を待つことにした。

 

 

 

「そして、もう一つ。―――ネギ先生が、魔法関係の事実を3−Aの全員に公表しました。さらに、3−Aを巻き込んだ学園の計画の一部始終についても。」

 

 

 

 

 ―――――身体が芯から冷えていくのを感じる。

 思考は完全に真っ白になり、手から林檎が滑り落ちる。言葉どころか呼吸まで止まってしまったかのように感じた。

 

 

「お―――オイ、それって―――」

 

 

 やっとの思いで絞り出せた言葉がそれだった。その間ずっと沈黙を保っていたアルビレオビレオは、微笑みを消したままの顔で頷いた。

 

 

「ええ。全て、です。綾瀬さんと神楽坂さんにクラスの方々をこの『別荘』内に集めていただいて、ネギ先生の口から全て告白していただいた後、私やザジさん、長瀬さん等、事情を知る方々の口から、3−Aを取り巻く状況の全てについてお教えいたしました。ちょうど貴方の枕元でね。

 ―――同時に、貴方の事情、そして過去の映像もお見せしました。」

 

 

 

 ―――――何気なく付け足されたその言葉の意味を把握するのに、たっぷり数十秒はかかった。

 

 

 

「――――――――………………は?」

 

 

 何とか絞り出せた言葉がそれだった。アルビレオは私の間抜け面を見ながら、大袈裟に肩を竦めながら返答する。

 

 

「ええ。ザジ・レイニーデイさんと宮崎のどかさんが、私に頼んできましてね。3−Aの皆様方に、貴方の過去をお見せしました。貴方が何故戦いを選んだか、何故彼女たちを護りたいと思ったのか、それを伝えるために必要だということでした。」

 

「だからって…!」

 

 

 強い口調で反論しようとしたが、起き上がろうとした身体に粘着質な痛みが奔り、バランスを取る事もままならずに、強制的にベッドに横たわる事になった。

 

 

「ほら、まだ新しい身体に慣れ切っていないんですから、無理はいけませんよ?自分でも分かっているでしょうに。」

 

 

 五月蠅い、黙れ、と口を動かしたかったが、粘つく痛みと混乱のせいで呂律が回らない。狂ったようにグルグルと廻る思考の中で、鼓膜が新たな来訪者の存在を告げる。

 

 

「理由がお知りになりたいのなら、直接聞くのがよいでしょう。ちょうど皆様いらしたようですし―――」

 

 

 入れないでくれ、と叫ぼうとしたが、やはり喉は動いてくれなかった。

 ドタドタと、慌ただしい足音が何人分も重なって響く。

 

 

『長谷川さんっ!!』

 

 

 ドアを吹き飛ばさんばかりの勢いで、我が愛すべきクラスメイトたちが雪崩れ込んできた。

 先頭に居たのはのどかとレインだ。ベッドの上でそっと目を開ける私を見た途端、その瞼にみるみる涙が溜まっていった。

 

 

「…おはよう、みんな。」

 

 

 出来る限り平静を装ったその挨拶で、全員の感情の腺が完全に振り切れたらしい。私が新しい身体に慣れていない事も忘れて、先ほどの綾瀬同様、泣きながら身体に飛びついてきた。

 

 

「よかった…!千雨さん、助かって、よかったぁ…!」

 

「千雨…!」

 

 

 二人が嗚咽交じりの声で、私の回復を喜ぶ。あっという間に私のベッドの周りにクラスメイトたちが群がり、次々と私の手を取る。

 

 

「長谷川、もう怪我は大丈夫なの?」

 

 

 のどかたちの背後から顔を覗かせてきたのは大河内だ。その脇から佐々木や和泉も心配そうにこちらを見ている。

 

 

「ああ、怪我した身体ごと取り替えられたらしいからな。結構違和感残ってるし、まだ上手く動かせないけどな。」

 

 

 そう言うと大河内たちは心底ほっとしたように、瞼に浮かんだ涙を指で拭った。

 すると彼女たちの後ろから割って入ってくる人物が居た。

 

 

「…長谷川さん、回復してくださって良かったですわ。」

 

「…おはよう、いいんちょ。…えっと…、ネギ先生と神楽坂は?」

 

 

 皆と同じく瞳を潤ませながらも、どこか厳しさを含んだ雪広の眼差しから逃れるように、その場に居ない二人の話題を持ち出す。

 

 

「お二人には一つ運んでもらわなければならない物がありましたので、少し遅れて到着する手筈になっていますわ。それよりも―――――」

 

 

 雪広が居住まいを正した瞬間、他の皆の空気も変わる。それを察した途端、心の何処かが軋む音が聞こえた気がした。

 

 

「…私の過去、見たんだって?」

 

「…ええ。」

 

 

 雪広の重々しい頷きに合わせて、私の気持ちも重くなっていく。

 

 

「…幻滅しただろ?」

 

 

 皆の顔を直視出来ない。腕さえ動けば目を隠していただろうが、身体は思うように動かないし、全方位から注がれる視線が目を閉じる事を許さない。

 雪広の沈黙は長かった。一秒ごとに身に釘を刺されるかのような幻痛を覚えながら、じっと返答を待つ。

 

 

「…そうですわね。幻滅しましたわ。…私たち自身に。」

 

 

 覚悟していたはずの言葉は、見事にすかされてしまった。

 声も出せず、驚きに目を見開いて雪広に視線を送ると、雪広の目から静かに涙が伝い落ちているのが分かった。

 

 

「全て見ました。長谷川さんがどんな世界で、どんな思いで生き抜いてきたのか。どんな思いで私たちを見ていて、そして戦っていたのか。…その後、長谷川さんの切除された方の身体も見ました。」

 

 

 ぽたり、ぽたりと、音も無く涙が滴り落ちる。雪広だけではなく、周囲に集う他のクラスメイトの中からも。

 

 

「あんな…酷い傷をいくつも負って、死に瀕してまで、私たちを護って戦い続けていたのに…。私たちは、気付こうともせずに、全てを長谷川さんに押し付けて、のうのうと平穏を謳歌していた。私たちは―――」

 

「止めてくれ。」

 

 

 雪広だけではなく、私を囲む全員に聞こえるように声を出す。

 

 

「私はお前たちを護るために戦った。それで私が傷つこうが死にかけようが、お前たちが平穏無事なら、それだけの甲斐がある事なんだ。…だから、謝らなくたっていい。お前たちのその後悔は筋違いだよ。」

 

 

 今の雪広の懺悔は、クラス全員が共通して抱いた思いなのだろう。私を戦いに引きずり込んだのが、私を平穏無き戦いの渦中へと放り込んだのが自分たちだと考え、心痛めているのだろう。

 だが、それは違う。

 私は私自身の意志で、この道を歩む事を決めたのだ。要因がクラスの皆にあったとしても、傷つき苦しむ道を選び取ったのは、他ならぬ私自身だ。

 だから、お前たちが気に病む事じゃない。お前たちが悪い事なんて、一つもない。

 その思いが伝わったのか、雪広が涙を拭いながら、小さく頷く。

 

 

「そうですわね。長谷川さんが戦う事を選んだのは、あくまで長谷川さん自身の意志です。どんなに血みどろな道であっても、それは千雨さんの望んだ事なのでしょう。」

 

 

 雪広の厳しさと優しさの交じり合った視線が私を射抜く。

 

 

「―――――けれどそれは、長谷川さんが望んだ事ではあっても、私たちが望んだ事ではありませんわ。」

 

 

 雪広がにっこりと、魅惑的な笑みを浮かべる。当の私は言葉の意図が掴めず呆けたままだ。

 

 

「長谷川さんは私たちの平穏を、笑顔を護るために戦っていた。そうですわよね?」

 

 

 当然の大前提に頷くよりも、雪広がその続きを口にする方が速かった。

 

 

 

 

「でもその『私たちの平穏』の中には、長谷川さんが入っていないんです。私たち3−Aの大切な仲間が、必要不可欠な人が抜けているんです。その人の幸せ無しに、私たちの平穏も、笑顔も、決して有り得ませんわ。」

 

 

 

 

 え、と思わず間抜けな声を出してしまった私を、誰が責められようか。

 困惑する私を余所に、眼前の雪広を始めとするクラスメイトたち、そして私の両脇に控えるのどかとレインが、悪戯っぽく微笑んでいる。

 

 

「いつだって長谷川さんの音楽で私たちは心癒され、自然と笑顔になっていました。長谷川さんが居てくれたからこそ、3−Aはこんなにも賑やかで、とても楽しいクラスに成り得たのです。長谷川さんを抜きにして3−Aを語ることなんて、出来っこありませんわ。」

 

 

 雪広が言い切るのに合わせて、そうだそうだと賛同の声が次々とあがる。

 胸の奥で感情が渦を巻いている。暖かくて心地良くて、その過流に身を任せてしまいたく―――

 

 

「―――――でも、私は人殺しだ。」

 

 

 雪広の言葉を遮るように大声を出す。

 駄目だ、その言葉に、その優しさに縋っちゃ駄目なんだと、自分でも上手く説明出来ない感情が、必死に耳を塞ぎ、仲間達の暖かさに解された身体に冷風を吹き込もうとする。

 

 雪広が少し呆れたように、再度口を開こうとした、その時だった。

 『別荘』内部の端が歪み、その中心点から高速で突っ走る何かが、このログハウスに向けて飛来してくるのが聞こえた。

 

 

「オイ龍宮、ハカセ!ドアから離れろ!何か―――じゃないな、ネギ先生と神楽坂だ!杖に乗ってこっちに突っ込んでくる!」

 

 

 私の呼びかけとほぼ同時に、龍宮がハカセの手を引いてドアから数歩分離れる。

 そしてものの数秒もしない内に、見慣れた杖に跨ったネギ先生と神楽坂が、慌ただしく駆け込んできた。

 

 

「ゴメンっ!思ったより重かったせいでちょっと遅れちゃった!」

 

「もう、アスナさん!いきなり飛び込んできたら危ないでしょうに!それに、私じゃなくて長谷川さんに真っ先に声をかけたらどうなんですの!?」

 

 

 やって来て早々に喧嘩をする所がコイツららしい。周りの皆も、生暖かい目で二人の幼い口喧嘩を見守っている。

 

 ―――けれど、私は二人に視点を合わせるどころではなかった。

 

 神楽坂が抱える、背丈ほどもある黒い直方体のケース。

 口喧嘩の反響が、ケースの中身を事細かに伝えてくれる。

 

 それが何かなど、今更考えるまでもない。

 

 

「長谷川さんっ!」

 

 

 呆然と、胸を満たしていく感情をまるで他人事のように客観的に見つめる私を、ネギ先生が涙交じりに呼びかける。

 だが、私のすぐ傍まで来たはいいが、途端に何を話すべきか分からなくなってしまったようで、あの、その、とどもりながら、必死に言葉を探していた。

 

 

「ほーら、何言い淀んでんのよ、ネギ。だったらコレ、アンタから渡してあげなさい。」

 

 

 うろたえるネギの背中を、いつの間にか口論を終えた神楽坂が少し強めに叩きつつ、抱えていた黒いケースをネギに渡す。その重さに姿勢を崩しかけたネギだったが、神楽坂に支えられながら、何とか私の目の前まで運ぶ事が出来た。

 

 

「…どうぞ、長谷川さん。」

 

 

 ネギが促すと同時に、のどかとレインが上半身を持ち上げてくれた。支えられるがままに、ケースを手に取り、ベルトを外す。

 中身は分かっている。周りを囲む皆も知っているはずだ。それでも、私を含めた全員が、固唾を飲んでケースを見つめていた。

 

 ケースの扉が開く。中から、黄金の光が漏れる。

 シャボン玉のような手付きで、僅かな光を反射して輝く楽器に触れようとして。

 

 ―――その奥にある物の存在に気付いた途端。

 胸の奥に渦巻いていた感情が、一気に涙腺まで押し寄せてきた。

 

 

「皆でお金を出し合って、このサックスを買ったんです。長谷川さん行き付けの店で。親父さんからの伝言です。『サックスも自分の身体も大切にしろよ。』だそうです。」

 

 

 ネギ先生の言葉も、親父からの伝言も、ろくに耳に入らない。視界は一点に集中したまま動かず、溢れ出しそうな涙を堪えるのに必死だった。

 のどかとレインの手を借りながら、サックスを取り出し、抱きしめる。

 

 残されたケースの内側。

 中にびっしりと書き込まれた、私へのメッセージ。

 

 

“長谷川さん、いつもありがとう!”

 

“早く良くなって、またクラスで演奏してね!”

 

“頑張れ長谷川!負けるな長谷川!いつも見守っててくれてありがとう!”

 

“私たちのために戦い続けてくれてありがとう。でも、あんまり無理し過ぎないでね。”

 

“長谷川のサックスが聞きたーい!だから早く治ってくれー!”

 

 

 それは、寄せ書きだった。

 縦横関係なく無秩序に綴られた、3−A全員の私への想い。快復の祈り。

 

 そして―――感謝の言葉。

 

 

「もちろんそれは、長谷川さんの過去を見てから、各々書いた物ですわよ?」

 

 

 私の潤んだ視線の意味を察した、雪広を始めとするクラスメイトたちが、またしても悪戯っぽく笑う。それがちょっと悔しくて、歯を喰いしばって涙を堪えようとする。

 だが、堪えれば堪えるほど、その優しさを、暖かさが身に沁みていき、ますます視界は滲んでいく。

 

 護ってくれてありがとう。

 戦ってくれてありがとう。

 

 そんな言葉の数々が。

 殺人者(わたし)にとって最も縁遠いはずの言葉の数々が。

 

 私に。

 私の、戦いに。

 私の、流した血に。

 

 私の、血に塗れた生き方に。

 

 

「確かに長谷川さんは、前世でも、そして今の人生でも、数えきれない程の人間を殺してきた事でしょう。その罪深さを誰よりも痛感しているからこそ、私たちに知られたくなかったのでしょう。けれど、私たちに言わせれば―――――」

 

 

 そこで雪広は一瞬言葉を切り、私の鼻先まで迫り寄ってきた。

 

 

「―――それがどうした、って感じですわ。」

 

 

 私の今の心情を、そして葛藤を見透かし、その上でそんな物知ったこっちゃないとばかりに、雪広はきっぱりと、自信満々に言い放った。神楽坂やネギ先生、そして私の周りを囲むクラスメイトたちも、力強く頷いている。

 

 

「長谷川さんが人殺しであろうと血まみれだろうと、そんな事何の問題にもなりません。長谷川さんが長谷川さんである事に、私たちの大切なクラスメイトである事に変わりはないんですから。」

 

 

 だから、と言って、優しく私の両手を握りこむ。

 

 

「だから、そんなに自分を責めないでください。私たちの傍にいる資格がないとか、私たちと同じ世界で生きてちゃいけないとか、そんな悲しい事言わないでください。私たちは、長谷川さんと一緒に居たいんです。長谷川さんと、一緒のクラスで、一緒に学園生活を送りたいんです。」

 

 

 包まれた手から伝わる温もりは、冷たく凍った心を溶かす陽射しのようで。

 私を見つめる幾重もの視線は、暗闇に差し込む一条の光のようで。

 

 

(―――――貴方に護られた人も、世界も、貴方の想いにきっと応えてくれる。)

 

 

 夢の中で聞いた言葉が、頭の中を駆け巡る。

 

 人殺しであっても構わない、と。

 疫病神であっても構わない、と。

 

 殺人鬼という側面を取っ払って、今ここに居る私を信じてくれる、必要としてくれる人が居る。

 

 

「…我が儘だな。」

 

「ええ、我が儘ですわ。」

 

 

 本来なら皮肉っぽく放たれていたであろう言葉は、口にした途端に涙声に変わる。

 

 

「…碌な目に遭わないぞ。」

 

「跳ね除けてやりますわ、そんな災難。」

 

 

 そしてとうとう、静かに涙が私の頬を伝い始めた。

 

 

「…私、はっ…!」

 

 

 一度堰が切れてしまえばそれまでで、両目から止めどなく涙が溢れてくる。抑えきれない嗚咽が、喉も感情も詰まらせる。

 

 

「私はっ、人殺しでっ…!何百人も、人を殺してきて…。人として、最低な事ばっかりしてきたけどっ…!」

 

 

 この、暗く果ての無かった孤独な闇の中に。

 差し伸べられる手が、光があるのなら。

 

 汚れきったこの手を、掴んでくれる人が居るのなら―――――

 

 

(―――――貴方の大切な人たちと一緒に、色んなものを見て回ってみて。)

 

 

 

「これからも、皆と一緒にいて、いいかな…?」

 

 

 

 しゃくり上げながら尋ねる声は、我が声ながら聞き取りづらく、まるで幼児に戻ってしまったかのようだった。

 

 

「ええ、もちろんですわ。長谷川さんの背負う罪過も、怨嗟も、全部ひっくるめて、私たちと一緒に居ましょう。長谷川さんだけに辛い思いをさせる事は、金輪際ありませんわ。」

 

 

 そして、滲んだ視界に皆の顔が映る。およそ30人分の、自信と決意に満ちた顔が。

 

 

(―――貴方の流した魂の血は、きっと報われるよ。)

 

 

 

 

 

 

「私たちは皆、長谷川さんが大好きなんですから。」

 

 

 

 

 

 

 ―――その言葉がトドメだった、のだと思う。

 

 正直に言うと、その後の事はほとんど覚えていない。

 まるで瞼が無くなってしまったかのように涙が溢れだし、子供のように泣き崩れてしまった。何分間、何十分間泣き続けていたのかも分からない。

 クラスメイトたちに代わる代わる頭を撫でられ手を握られ、泣き疲れて眠ってしまったのだった。

 

 胸一杯の心地良い充足感と幸福感と、少量の恥ずかしさ。

 そして、生まれ変わった(・・・・・・・)という確かな実感。

 

 それらの、初めて手に入れた物の心地良さを、存分に味わいながら。

 

 

 私を迎えてくれる人が居る。

 私を必要としてくれる人が居る。

 

 私が大切にしたいと思う人々が、私を大切に想ってくれている。

 

 

 ああ。

 それは何て、希望に満ちた―――――――

 

 

 

 

 

 


(後書き)

第41話。おかえりなさい回。イメージとしてはほとんどそんな感じです。TRIGUN読んだことある人なら、何となく理解してもらえるはず。

 

というわけで、千雨後始末と見せかけた千雨救済回でした。クラスメイトに受け容れられる、というこの展開あってこその、これまでの鬱展開でした。分かりやすく言えば、千雨以外の3−Aのクラスメイトたちは、目を背けて当然の映像の数々を見せつけられて尚、千雨の生き方(=殺人歴)と千雨との絆を天秤にかけて絆を取った、という事です。ご都合主義と言われればそれまでですが。

 

今回はずっといいんちょのターン!お嬢様口調が安定しなくて苦戦しました。第一話で千雨を名字呼びしていたせいで、この局面に来ても長谷川さん、という呼び方にせざるを得ませんでした。結構デカイ失敗です。不自然でも千雨呼びの方が良かったかなぁ…?ちなみに、書いてはいませんが、この場には刹那も木乃香も茶々丸も楓もさよも全員居ます。

 

今回のサブタイは、最早言わずもがなでしょう!アニメ「魔法先生ネギま!」一期OP、「ハッピー☆マテリアル」です!いやー、ようやくこのタイトルぶっこめた!これが話題になった時、私はまだ何も知らない、純粋無垢な高校一年生だった…、というと、当時を知る友人達から鼻で笑われること間違いなしですが。

 

えー、今回は書き上げるのがかなり遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。そしてもう一つ申し訳ないことに、3章あともう一話書かなきゃいけなくなりました…。なので次回で3章終わりです。4章への繋ぎが必要なので…。ああ、文章を書くって難しい。

 

次回は千雨とネギ先生との会話、そしてクライマックスへの繋ぎです。感想どしどしお待ちしています!それでは、また次回!

 

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