―――――私の心には、抜けない棘が刺さっている。

 ―――――5年経った今も、甘く鋭く、何より仄かに温かく。

 ―――――私の心に、癒える事なく消える事なく、燻り続けている―――――

 

 

 

 

 

 

 金曜日の夕暮れ時。仕事を終えた私は、通い慣れた道を鼻唄交じりに歩いていく。

 この道の続く先にあるのは、私の家では無い。毎週金曜日の楽しみである、行き付けの喫茶店での一時だ。

 顔見知りの店長の出す珈琲はハッキリ言って不味いけれど、それを補って余りある、人の心を感動で揺さぶる音色を奏でる事が出来る、私の知る限り世界最高峰のサックス奏者だ。これで珈琲が美味しかったら、彼女の店には連日客が押し寄せる事になるだろう。神様はキッチリと人間らしさのバランスを保っておいてくれていたらしい。

 まぁ、そんなことはともかく。

 

 私は、彼女の演奏が大好きだった。

 彼女が初めて私のクラスメイトとなった8年前から。

 

 その想いは、彼女が抱える罪の重さを知ってなお、変わる事はなく―――――

 

 

「…らしくないわね、私。別に引き摺るような事じゃないのに。」

 

 

 軽い足取りも鼻唄も止まり、寂しげな呟きがぽつりと漏れた。きっとこの、別れ際を連想させるような黄昏時の風と空のせいだ。そう自分に言い聞かせて、再び喫茶店への道を歩み始める。

 何だかんだ言っても、彼女の店を訪れるのが楽しみである事に違いは無い。一歩彼女の店に近付く度に、彼女のいつも通りの仏頂面が脳裏で揺れる。そしてその表情が、私の来店を切っ掛けに崩れ、嬉しそうな笑顔になるのを思い浮かべる度、私の顔もほころんでいく。

 

 だけど、彼女に会うのを純粋に楽しみにする一方で、それをどこか後ろめたく思う私が居る。

 

 

 

 

 これは、強い意志を持って勇敢に闘った彼女とは真逆の臆病者の、本筋とは全く関係の無いお話。

 それを恋だと分かっていながら、今彼女の隣に立つ少女のように、一歩を踏み出す小さな勇気を持てなかった、気弱な私の物語。

 

 

 

 私―――――那波千鶴の初恋は。

 クラスメイトで、サックスを吹くのが得意な、元殺し屋の女の子だった―――――

 

 

 

 

 

Thousandrain The Horn-Freak外伝 君の知らない物語

 

 

 

「いらっしゃい、千鶴。珈琲もうすぐ出来るから、座っててくれよ。アップルパイと同時で良いよな?」

 

 

 JAZZ喫茶「白き翼(アラアルバ)」の店長―――千雨ちゃんは、私の予想した通りの嬉しそうな笑顔を浮かべながら、私の特等席―――カウンターの真ん中より、二つ左にずれた席を指差した。メニューの方は、店に入る手前500メートル付近から伝えておいた通りだ。レインさん特製のアップルパイは、本来発売日不定期だが、それが金曜日であるなら、私の分を取っておいてもらえる手筈になっている。

 

 しかし、いつもならさっさとカウンター席に着く所だが、今日に限っては扉を開けたまましばし立ち尽くしてしまった。

 というのも、いつもなら時間帯的にも閑散としているはずの店内の、そのカウンター席に、二人の客が訪れていたのだ。それも、千雨ちゃん同様、私のよく見知った顔だった。

 

 

「お、千鶴さん久しぶりッス。お仕事順調?」

 

「ええ、久しぶりね美空ちゃん。そういうそっちは大変そうね。…主にシャークティさんが。」

 

「本当ですよ、まったく、目を離すとすぐにサボろうとするんだから…。」

 

「むー。こんなトコ来てまでお小言は無しッスよ、シスター・シャークティ。」

 

 

 美空ちゃんと、その上司であるシスター・シャークティ。

 この二人も千雨ちゃんの店の常連であり、時々顔を合わせている。なので、単にここに居るだけなら何の問題は無いし、別に私が驚くに値しない。

 だが、問題はそこではなく―――――

 

 

「…えっと、大事なお話だったかしら?席外しましょうか?」

 

「…いや、いいッスよ気ぃ遣わなくて。もう済んだッスから。ね?シスター・シャークティ?」

 

 

 シスター・シャークティがこくんと頷くと、美空ちゃんが、ね?と言わんばかりの、同意を求めるような笑顔を私に浮かべてきた。しかし私は、到底それに同意する事は出来なかった。

 何故なら、美空ちゃんの目が笑っていないのだ。

 美空ちゃんだけじゃない。シスター・シャークティも、そして千雨ちゃんも、その瞳に激しい炎が燃え盛っている。触れるだけで、その熱さに手を引っ込めてしまいそうな程の、昂る感情の焔が。

 

 

「とりあえず、長谷川さんのお話、確かに承りました。麻帆良(こちら)の方はご心配なく。それでは―――――」

 

「じゃーねー、千鶴さん。」

 

 

 シャークティさんは綺麗な一礼を、美空ちゃんは軽く手をヒラヒラと振りながら、ドアを開けて出ていった。最後まで、目に宿った真剣さが消える事はなかった。

 

 

「…ま、座んなよ千鶴。ちょうど珈琲も出来たし。」

 

 

 湯気の立つコーヒーカップを、私の特等席にそっと置く。

 私はおずおずと席に着き、珈琲を一口啜った。いつもは飲んだ瞬間に眉を顰めてしまう味の悪さを感じ取ってしまうのだが、今日に限っては何の味もしなかった。

 

 

「…えっと、何か、厄介事?」

 

 

 千雨ちゃんがアップルパイを私の前に運んできた時に、先手を打って聞いてみた。千雨ちゃんは険しい視線を崩さぬまま、頷きを返してきた。

 

 

「…天ヶ崎からタレコミがあってな。私が直接行って片付けなきゃならない仕事が出来ちまった。…悪いけど、明後日から2ヶ月くらい店を閉めると思う。」

 

 

 ずん、と臓腑の奥が急激に重くなった。

 また彼女は、彼女自身が武器を取って戦わなきゃいけないような状況に立たされてしまったのだ。

 かつて、誰よりも私たちのクラスを愛し、ようやく掴み取った平穏を捨て去って、血みどろの戦いの渦中へ飛び込んでいった時と、同じように。それを知った時の、内臓が鉛にすり替わってしまったかのような重さが、またしても私の全身を覆った。

 

 私は何も言葉に出来ぬまま、沈黙が流れた。

 ようやく、必死で声帯を震わせ、出てきた言葉は。

 

 

「のっ―――――のどかちゃんと、ザジさんは…?」

 

 

 チクリ、と。心の棘がまた刺さった。

 

 

「レインは私に着いてくるけど、のどかはさすがにな。しばらくこっち空けるから、情報統制とか警備体制の強化とかも必要になるし。代理で焔と暦、刹那が派遣される手筈になってる。…二人とも、後押ししてくれたよ。今回ばかりは、私が戦うのを止める訳にはいかない、ってな。」

 

 

 そうですか、という私の生返事が、千雨ちゃんの耳にどう届いたかは分からない。彼女の顔をまともに見る事も出来ず、俯いて膝の上で拳をぎゅっと握りしめるだけだ。

 千雨ちゃんを止められない事も悔しいのだが、同時に、どうして私はこんな質問をしたんだろう、という疑問が、鎌首を擡げてくる。千雨の意志を誰よりも理解し、尊重している彼女たちなら、千雨の決意を邪魔するような真似をするはずがないと、よく分かっているはずなのに。

 

 ―――いや、そうじゃない。その疑問の答えも、もうとっくに分かっている。

 要するに、私は、妬ましいのだ。千雨ちゃんの信頼を勝ち得て、寄り添っている彼女たちの姿が、あまりに眩しくて、直視出来ないのだ。

 

 ―――チクリ、チクリと、棘の痛みは鋭さを増していく。

 まるで茨の鞭で全身を縛られているかのように。

 

 そんな私の俯いたままの頭を、優しく撫でる感触を感じた。

 

 

「…悪い。不安がらせるつもりは無かったんだが、無理な話だったな。」

 

 

 考えるまでもなく、千雨ちゃんの手だった。その掌から伝わる温もりに、少し体温が上がってしまい、赤らんだ頬を隠すため、ますます顔が上げられなくなってしまった。

 

 

「あ、あ、アップルパイ、食べてもいいかしら…?」

 

「そりゃもう。改良版にして自信作だそうだからな。美味しかったら、また店開いた時にいの一番で出すからさ。」

 

「…別にいいけどさ。作るのは私なんだから、一応私に聞いてからにしてよ。」

 

 

 厨房の奥から、ザジさんが少し不満げな言葉を漏らしながら出てきた。千雨ちゃんがバツの悪そうな顔を浮かべるのをそっと見ながらアップルパイを口に運んだ。林檎の果肉の鵜ジューシーさとシナモンの香りが口いっぱいに広がっていく。うん、千雨ちゃんの言った通り、すごく美味しい。

 

 

「その顔見る限り、感想聞く必要は無さそうだな。なぁレイン?」

 

「うん、そうだね。千雨の言う通り、帰ってきたらまた作った方が良さそう。」

 

 

 千雨ちゃんとザジさんの微笑みが重なり、私はまた恥ずかしさに俯くことになった。ふと気付くと、先ほどまで胸中を埋め尽くしていた不安は、綺麗さっぱり無くなっていた。

 

 

「…ええ、そうね。千雨ちゃんが征くと決めているのなら、私が止める筋合いは無いわ。…ごめんなさい。いつも、辛い事ばかり押し付けちゃって。」

                                                             

「別にそれもこれも千鶴のせいじゃ無いんだから、謝る必要は何もねえよ。やらなきゃいけないと思ったからやる事なんだからな。って――――――」

 

 

 不意に千雨ちゃんが、何かに気付いたような表情になった。ザジさんは分かっていないようだが、私もすぐに気付いた。

 なので、私の方から口に出すことにした。

 

 

「何だか、覚えのある会話ね。具体的には3回目ぐらい。」

 

「そうだな。他のクラスメイトだと2回目になるんだろうけど―――千鶴に限っては3回目だ。」

 

 

 私たちがそこまで口にすると、ザジさんも合点がいったらしい。とはいっても、理解できるのは、世界中で私を含めたこの3人だけだろう。のどかちゃんだって知りやしない。

 

 全員が知っている方はもちろん、千雨ちゃんが私たち3−Aのため、血みどろの戦いに身を投じ続けていた事。

 そして、私だけに限った、もう1つの方は―――中学一年の秋。

 私が、千雨ちゃんへの恋心を、はっきりと自覚した出来事でもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――秋の空が暮れるのは速い。

 時刻は午後4時半を回った所だが、すでに西の空には沈みかけの太陽が煌めいている。黄色く色づいた街路樹の銀杏の葉が、迫り来る冬を感じさせるような風と共に散り、アスファルトを黄色の絨毯に染め上げる。

 そんな秋の中頃の夕暮れ時を、そのままメロディに仕立て上げたかのようなサックスの旋律が、週末の保育園に響いていた。

 

 園児は遊ぶのを止め、母親や先生たちは話すのを止め、その音色に聴覚を集中させていた。演奏者の目の前という最高の席を獲得していた園児たちは、体育座りのまま身じろぎ一つせず、まるでテレビの中のヒーローの活躍に見入っているかのように、その演奏に聞き惚れていた。

 そして、かく言う私も、その最高の席のど真ん中で、演奏者の一挙手一投足を見逃すまい、音符一つたりとも聞き逃すまいと、ただただじっと聞き入っていた。

 

 やがて、演奏が最終パートに入る頃には、遠巻きに眺めていた園児や母親が全員集まり、保育園のそう広くないグラウンドは、野外ライブの会場のようになってしまった。

 

 そして、最後の一音まで全くぶれることなく、そしてたっぷりと余韻を残しながら吹き終わると、私を含む聴衆からは一斉に拍手喝采が湧き起こった。

 感謝の意を込めた優雅な一礼を返す彼女に、私も拍手しながら近づいていった。

 

 やっぱり、長谷川さんの演奏姿は格好良い。

 

 

「ありがとう、長谷川さん。素晴らしい演奏だったわ。」

 

「お褒めいただき光栄だよ、那波―――――って、わぁ!?」

 

 

 演奏者―――私のクラスメイトでもある長谷川千雨さんが、足元に駆け寄って来た子供たち十数人に一気に纏わりつかれ、慌てていた。どうやら彼女の演奏は、子供たちの心をガッチリと掴んだらしい。

 

 

「頼んでおいて何だけど、サックスの演奏は子供たちにはちょっと難し過ぎるかなって思ってたのよね。けれど、何の心配も要らなかったわ。いつもなら全然先生の言う事を聞かない子たちまで聞き入っちゃって。」

 

「そ、それはどうも――――ま、待て待て待て!背中によじ登ろうとするな!」

 

 

 子供たちは長谷川さんの全てに興味津々な様子で、黄金のサックスに何とかして触れようと、四方八方から小さな手を伸ばしていた。中には逆に長谷川さんから離れ、母親にアレが欲しいとねだる子も居た。

 

 

「ほ、ホラ!一度離れてくれって!も、もう一曲!もう一曲演奏するから!お姉さんあんまり近付かれ過ぎると、演奏出来ないからさ!」

 

 

 子供たちを引き剥がすため、自発的にアンコールに応える事にしたらしい。途端に子供たちは千雨から離れ、地面に体育座りした。その際少しでも長谷川さんに近い所に陣取る事も忘れない。

 

 

(演奏すればするほど懐かれて、もっともっとって要求されることになると思うけど…黙っておきましょ♪)

 

 

 意地悪をしているつもりはない。この場で多数決を行った場合、最も多く出るであろう意見を尊重しただけだ。勿論、私ももう一曲聞きたかったし。

 

 

 

 

 

 

「…結局8曲もやる羽目になるとはな…。」

 

 

 街路灯が歩道を照らしだす時間帯になって、ようやく解放された長谷川さんは、私と一緒に女子寮への道を帰っていた。あの後さらに7曲演奏し続け、その間子供たちのエネルギーに圧倒され続けた長谷川さんは、さすがに疲れた表情を浮かべていた。

 

 

「ごめんなさいね、何曲もやらせちゃって。」

 

「ああ、良いよ別に。あれだけ喜んでくれたんだ、演奏し甲斐があったってモンさ。心地良い疲れさ。今晩はぐっすり眠れそうだ。」

 

 

 そう語る長谷川さんは、本当に嬉しそうな表情で、彼女が生粋の演奏家である事を実感した。

 今日の保育園での演奏は、私が長谷川さんに頼んだものだ。別に深い理由があった訳ではなく、以前から長谷川さんに保育園で演奏してもらいたいなぁ、と思っており、先日何の気なしに話を持ちかけてみた所、二つ返事で了承してくれたのだ。

 結果は上々で、園長先生も「またいつでも演奏しに来て欲しい」と頼んでいた。特に母親内での評判は非常に高く、アンコール終了後、「何時から習い始めたのか」とか「サックスはいくらぐらいする物なのか」とか、質問攻めに遭っていた。中には家庭教師を頼んだ親も居るらしい。

 

 

「でも本当に長谷川さん、巧いわよねえ。本当に13歳?」

 

「お前がそれを言うなよ…。まぁ、13歳に間違いないよ。サックスを始めたのは小3ぐらいの時だから、4〜5年って所だな。」

 

 

 お前だって老け顔だろ、と言外に口にされた気がして、少しムッとなるが、それ以上に、たった4〜5年であれ程までに巧くなれるのか、というのが不思議でしょうがなかった。以前テレビでプロのサックス奏者の演奏を聞いた事があるが、どうにも長谷川さん程上手には感じれなかったのだ。

 

 

「長谷川さんは将来、プロのサックスミュージシャンとかになるの?」

 

「その予定は無いな。私は名声とかに興味は無いし、目立ちたいとも思わない。今日見たいに、保育園やら路上やらで、小規模なライブでも開いて、それで拍手でももらえれば、それだけで満足だな。」

 

「ふうん…。何だか勿体ない気がするわねぇ…。」

 

 

 僅か数年でプロと遜色ないレベルの演奏技術を身に付けながら、花も実も付けることなく終わらせようというのだから、勿体ないどころか至宝を一つ失ったに等しい話だ。そう思うにつけ、よく老けてると言われる私やそこら辺の学生とは隔絶した、本当に年齢不相応な精神の在り方というのを垣間見ているような気持ちになる。

 

 

 ―――チクリ、と。心の何処かが痛んだような気がした。

 

 

 私と長谷川さんの会話が途切れ、沈黙が流れる。しばらく互いに何も話さないまま、街路灯に照らされた道を歩いていたが、女子寮の屋根が見えてきた頃、長谷川さんが不意に尋ねてきた。

 

 

「…身体の具合とか大丈夫か、那波?」

 

「え?どうして?」

 

「…いや、あれだけパワフルな子供たちの相手してた訳だし、やっぱり那波も疲れてるんじゃないかなー、と思ってさ。何となく。」

 

 

 何処となく不自然な質問だが、とりあえず長谷川さんなりの不器用な気の使い方なのだと納得させ、全然大丈夫、という意味のジェスチャーのつもりで、両腕の力瘤を見せつけるようなポーズを取って見せた。

 

 

「勿論平気よ。これでも保母さん歴長いんだから。後数時間ぐらい行けるわよ?」

 

「…そっか。平気ならいいけど。まぁ、季節の変わり目だし、体調崩しやすい時期だから、無理すんなよ。」

 

 

 それっきり長谷川さんは、女子寮の扉の前で別れるまで、自分から私に話しかけてくる事は無かったが、その去り際の横顔―――今までに見た事の無いような、何かを警戒しているかのような険しい顔が、眠る直前まで脳裏に張り付いて取れなかった。

 

 

 

 

 

 

 そして翌週の火曜日の、朝のHR直前の事だった。昨日の夜から少し頭が重いのを夏美に相談していると、長谷川さんが私の机の傍に近づいてきた。

 

 

「那波。今日の夕方、保育園で演奏させてもらってもいいか?」

 

 

 開口一番、挨拶を交わすより速く、そう尋ねて来たのだった。

 

 

「えっと…。何でまた…?」

 

 

 隣の夏美もかなり驚いているようだけど、私はそれ以上に驚いているし、何より戸惑っていた。当の本人はいたって真面目な顔だ。

 

 

「いや、前から練習してた新曲が、子供受けが良さそうなメロディだったんでな。ちょっと聞いてもらって反応を見たいんだ。けど、明後日からサックスを定期点検に出さないといけないから、練習した感覚を失わない内に手応えを掴んでおきたいんだ。ダメかな?」

 

 

 思わず私はむぅ、と難しげに唸ってしまった。

 長谷川さんが演奏しに来て嫌がる人など居るはずもない。だが、どうにも急な話過ぎて、園長先生の許可が出るかどうか分からないし、私自身イマイチ頭の整理が付いていない。それに加えて、長谷川さんの言動から何処となく感じられる不自然さに、妙な不安を感じてしまって、ウンと頷きづらいのだ。

 

 しばらく考えた後、私は断ることにした。

 

 

「…ん。そっか。まぁしゃあない話だわな。悪かったよ。また寄らせてくれ。」

 

 

 私が断りの台詞を伝えると、長谷川さんは残念そうにその場を去り、あやかの所へ朝礼直前のあやかの所に歩いていった。夏美の困惑し切った視線が、私と長谷川さんに交互に注がれる。

 

 

「あらあら、夏美ったら、『ちづ姉どうして断っちゃったの?』って聞きたそうな顔してるわね〜。」

 

「えっ!?え、えっと…あ、うん…。」

 

 なので、先手を打つことにした。元から夏美の考えていることは分かりやすいので、こうして話の主導権を得て、内心の抑え切れない動揺を面に出さないよう努めた。

 

 

「やっぱり、急な話だったから。そういうことは、事前に園長先生に直接聞いてもらわないとねぇ。私はほら、単なる保母見習いだから、イベント事についての決定権は特に無いもの。」

 

 

 ふうん、と相槌を打った夏美の顔は、八割納得二割不可解、と語っていた。その顔のまま長谷川さんの方を見たので、私もつられて彼女の方を見ると、あやかと何やら話し込んでいるようだった。

 

 

「…そういえば長谷川さん、昨日も保育園の近くに居たような…。」

 

「え?」

 

 

 夏美が漏らした言葉に、隠していたはずの動揺が、さらに振れ幅広く露わになってしまった。

 

 

「えっと、昨日ちづ姉の保育園の近く通りかかった時に、長谷川さんが路上ライブやってたんだよね。月曜日に、しかも別にそんなに人通りが多いわけじゃない場所でやってたから、ちょっと気になってて…。」

 

 

 もう少し話を聞きたかったが、その後すぐに高畑先生が入ってきたため、そのまま話はお流れになってしまった。その日はずっと長谷川さんのことが気にかかり、重い頭がさらに重くなったように感じた。

 

 ―――そして授業中、長谷川さんが時折ちらちらと私の方を見ていたことも、一層拍車をかけた。

 

 

(…変なの。何でそんなに私の事を気にしてるのかしら…。)

 

 

 夏美は分かっていなかったようだが、長谷川さんが先ほど口にした理由がこじつけである事は明白だ。そして本当の理由が、私と接触するためである事も。

 けれど、分かるのはそれだけだ。理由が全く分からない。つい先週―――私の頼みで、保育園で演奏をしてもらった時には、特に私を気にかけている様子は無かったのに。だとすれば、この土日で何か、長谷川さんの中に心境の変化があったのだろうか―――――

 

 

(…何で私、こんなに長谷川さんの事、気にしているのかしら…。)

 

 

 ふと、自分が長谷川さんの事を理解しようと必死になっている事に気付き、ますます頭のモヤモヤ感が増した。朝から続く不快な頭の重みに、心の淀みが加わり、授業中だというのに机に突っ伏してしまうほど落ち込んでしまった。

 

 そんな、沈んだ気分のまま放課後を迎え、保育園での手伝いを終えると、あやかが迎えに来ていた。偶然近くに立ち寄ったので、一緒に帰ろうと思い立ったらしい。

 

 

「千鶴さん、今日は元気がありませんわね。まだ頭が重いのですか?」

 

 

 あやかが心配そうに尋ねてくる。確かにまだ頭は重いが、今はそれ以上に頭を悩ませる事柄がある。しかし、正直何故自分がこれ程悩んでいるのかが分からないので、他人に説明しようが無いのだ。

 

 

「正直に言うと、まだ少し痛むわね。…ひょっとすると、ここの所長谷川さんの生演奏を聞いてないからかしら?」

 

「あ、それ分かりますわ。長谷川さんの演奏って、心に直接訴えかけてくる物がありますわよね。今日は超さんに用事があるらしく、さっさと帰ってしまいましたが…。」

 

 

 入学初日のクラスでの自己紹介代わりの演奏と、その時の感動は、今でも鮮明に思い出す事が出来る。あれ以来音楽全般に対して興味を抱くようになったし、長谷川さんの演奏会には足繁く通っている。保育園で演奏してもらったのも、半分は私の我が儘だ。

 

 

「…なるほど、千鶴さんの体調が芳しくないのは、長谷川さんの演奏に対する中毒症状だったのですね。わざわざ保育園に演奏しに来てもらうだけの事はありますわ。それとも、演奏ではなく、長谷川さん本人かしら?」

 

「そ、そういうわけじゃ―――――」

 

 

 ―――そう口にしながらも、否定し切れない自分が居る事に気が付いた。

 

 思えば入学以来、私は妙に長谷川さんの事を意識している。彼女の演奏を聞く度に、心が弾み、高揚する。長谷川さんが教室にサックスケースを担いで来るのを目にする度、彼女の演奏を今か今かと待ち焦がれてしまう。

 それは“長谷川さんの演奏”に向けられた気持ちであると、私自身はずっと認識してきた。

 けれどそれは真実ではなく、本当は長谷川さん本人に向けられた気持ちだったのではないか。

 

 サックスを奏でている彼女の姿は、他の誰より格好良い。

 入学式以来私が惹かれ続けているのは、“彼女の演奏”ではなく、“演奏している彼女”だったのでは――――――?

 

 

 ―――また、チクリと、心のどこかが痛んだ。

 

 

 

「…ホントに大丈夫ですの、千鶴さん?」

 

 

 傍らからかけられた声に、急速に思考の渦が希薄化していった。

 横から私を見つめるあやかの視線は心配一色だ。突然考えこんでしまった私を見て、大分参っているのだと勘違いしてしまったらしい。

 

 

「…冗談はさておき、気を付けてくださいね。最近は治安があまり良くないそうですから、無理して倒れたりしたら、もっとひどいことに…。」

 

「ふふっ。考え過ぎよ、あやか。心配してくれてありがとう。」

 

 

 少々気遣いが過ぎる友人に苦笑しながら、首を前に向け、家路を真っ直ぐ歩こうとした。

 

 しかしその途端、突如頭の重さが増し、視界と体幹が大きく揺れた。

 歩く事も立つ事も出来ず、その場に座り込んでしまった。

 

 

「ち、千鶴さん!?大丈夫ですの!?」

 

 

 横合いから慌てて伸びてきたあやかの手が、私の身体が完全に倒れ伏す寸前で抱き止めた。私は小さく、そして荒い息を吐きながら、形を失いかけた平衡感覚を何とか取り戻そうとする。

 

 

「やっぱり身体の具合が―――!と、とにかく救急車!」

 

「だ、大丈夫よあやか!いえ、そんなに大丈夫じゃないけど…。」

 

 

 私以上に慌てるあやかを見て、逆に思考が冴え、パニック状態に陥りかけているあやかを宥める羽目になった。

 

 

「…ええ、もう大丈夫。少しふらついただけ…。今日は寮に帰ったら、薬を飲んですぐに寝る事にするわ。明日になっても治らなかったら、病院へ行く事にするわ。悪いけれど、あやか、寮まで肩を貸してくれる?」

 

 

 そう口にした時には、すでに私はあやかの肩を借り、凭れかかるような姿勢を取っていた。一歩踏み出す度に、鈍い痛みが頭を擡げてくる。自分の知らない間に、かなり体調は悪くなっていたようだ。

 

 

(もう、半分は長谷川さんのせいなんだから…。)

 

 

 私は“演奏している彼女の姿”に惹かれている。それは認めよう。

 しかし、あくまで演奏中に限った話だ。それ以外の日常的な場面でまで、彼女の事で気持ちを一杯にする必要は無い。こんな風に体調が悪い時なら尚更だ。

 

 そうやって自分に言い聞かせたつもりだったが、寮に帰り、そして同居人達に心配されながら眠りに着くまで、心の靄が薄らぐ事は無かった。

 

 

 

 

 

 

 次の日は結局、学校を休む事にした。

 体調は良くないままで、薬もあまり効いていない。結局お昼過ぎまでベッドで過ごし、病院に向かう事にした。

 重い頭と身体を引き摺りながら、いつもの倍以上の時間をかけてゆっくりと病院への道程を歩いていく。

 

 

(…そういえばもう3日以上、長谷川さんの演奏聞いてないわ…。)

 

 

 幼稚園で演奏会を開いてもらった日から―――もっと分かりやすく言えば、私が長谷川さんに対して悶々とした想いを抱き始めた日から、ずっと彼女の奏でる音を耳にしていない。

 今彼女の演奏を聞けば、何かが変わる気がした。体調も良くなり、この胸中で持て余し続けている感情にも答えが見つかりそうな気がした。

 

 

(そうねえ…入学式の時の曲も良いけど…。どちらかというと、バラードやブルースが聞きたい気分だわ。長谷川さんがその曲種で演奏しているのは聞いたことないけど、頼めば演奏してくれるかしら…?)

 

 

 そんなことを考えながら、思いついたバラードやブルースの曲を口ずさみ、歩いていた時だった。

 

 

(――――――――――!?)

 

 

 強烈な耳鳴りと共に、視界と平衡感覚がぐにゃりと捩れた。

 咄嗟に横の電柱に寄りかからなければ、額からアスファルトに倒れ込んでいただろう。電柱に抱き付くような形で、何とか崩れ落ちる身体を支える。

 きっと今鏡を見たら、私の顔は真っ青だろう。ねっとりとした不快な頭痛と身体の重さ、異様な疲労感、胃が捩れるような感触。それらがいっぺんに私に襲いかかり、意識を蝕んでいく。

 

 

「おかしい…どう考えても…。こんなに、急激に、体調が、悪化するはずが…。」

 

 

 立ち上がることすらままならず、荒い息を吐きながらせり上がって来る吐き気を抑える事しか出来ない。助けを求めたくても、今は授業時間帯なので、通りに人影は無い。携帯電話も無い。

 

 

(駄目だ、到底病院まで辿り着けそうもない…。どこか、人の居る建物に…。)

 

 

 それだけを考えながら、頭を真正面に向けた途端―――――再度、視界が雑巾でも絞ったかのように歪んだ。

 

 電柱を抱く腕から力が抜け、私の身体は固いアスファルト目掛けて倒れこもうとする。

 

 

「誰か…。」

 

 

 小鳥の囀りにすら掻き消されてしまいそうな程のか細い呟きだけが、口から漏れる。そんな小さな声を、誰かが聞き止めてくれるはずもなく、私は顔面からアスファルトに突っ込んでいく―――――

 

 

 

 

「―――――那波ッ!!」

 

 

 

 

 ―――――はずだった。

 

 朦朧としていた意識が、その一声で一気に引き戻された。

 私が真っ先に認識したのは、まばたきが掠めそうなほど近いアスファルトの地面。次に、倒れ込みそうになっていた私の身体を、腹から支える腕の感触。

 

 そして―――――聞き慣れた、聞きたかった声。

 

 

「は、せ、がわ、さん…?」

 

「ああ、私だよ那波。何とか間に合ったみたいだな。大丈夫か?まだ気分が悪いだけで済んでるか(・・・・・・・・・・・・・)?」

 

 

 長谷川さんの顔は見えないが、安心し嘆息している様子が伝わって来る。声が少し上ずり、息を荒げているのは、必死でここまで駆けてきた証拠だろう。その事実への理解と嬉しさで、彼女が口にした内容の不可解さに気付く事が出来なかった。

 それに気付いたのは、長谷川さんに抱き起こされた時だったが、それを尋ねようとした瞬間、まるで車にでも撥ねられたかのような勢いで、男性が転げ飛んできた。

 私は驚きのあまり、支える長谷川さんの腕から零れ落ちそうになったが、平静なままの長谷川さんが難なく私を支え直した。

 さらにそこにもう一人、私の見知った人物が現れた。

 

 

「悪いなレイン。ブツの方は?」

 

「この通り。傷一つ無いよ。コイツのアリバイも押さえてるし、超かハカセに見せて、那波さんの病状と照らし合わせれば、裏が取れるんじゃない?」

 

 

 突如現れたザジさんは、とてつもなく不機嫌そうなまま、ボロボロの謎の男性の頭部を踏みつけた。男性は情けない悲鳴を上げながら、ザジさんが持つボストンバッグを掴もうと手を伸ばしている。

 

 

「…さて、コイツを張っ倒す前に、一応説明しておかねえとな。ほぼ全部解決したわけだし。」

 

 

 さぞかし私は、訳が分からない、という表情を浮かべていたことだろう。そんな私の内心の混乱に応えるように、長谷川さんが私の方を振り向いた。

 

 

 

「端的に言えばな、那波。この野郎はここ一週間近くずっと、お前をストーキングしてたんだよ。」

 

 

 

「えっ―――――…え…?」

 

 

 その一瞬で理解出来るはずの内容を私の脳が理解出来るようになるまで、少し時間がかかった。その間男が喚く声も、全く耳に入らなかった。

 

 

「ち、違う!そんな事してない!そんなんじゃない!ぼ、僕は―――――」

 

「―――黙ってろ。テメエが口を開く事を許可した覚えはねえ。次に一言でも喋ったら、喉仏潰れるまで靴先突っ込むぞ。」

 

 

 これまでに聞いたことのない、凄絶な脅迫の言葉で、喚いていた男も、呆けていた私も、まとめて冷水を浴びせかけられたかのように硬直してしまった。

 そして私はようやく、長谷川さんが激怒している事に気が付いた。

 

 

「那波。お前、一週間ぐらい前から偏頭痛訴えてたろ。それ、全部コイツの仕業だよ。コイツのバッグの中の―――コレのな。」

 

 

 そういって弄ったボストンバッグの中からは、ハンディカムより一回り大きい機械が出てきた。当然見た目だけでは何の装置なのだか全く分からない。それよりも、長谷川さんが浮かべる憤怒の表情に目が行ってしまい、それを直視出来ないため、うまく機械を見ることが出来ない。

 

 

「コイツは超音波発生装置。特定個人だけを狙って音波を照射することの出来る代物だ。この装置から発せられる超音波を浴び続けると、人体に有害な影響が出る―――頭痛、耳鳴り、立ち眩みとかな。

 超に裏取ってもらったぜ。コイツは工大の研究者で、音波に関わる機器を専門に扱ってる。製作と使用はお手の物って訳だ。」

 

 

 まさにこの一週間弱、私を悩ませていた症状そのものだ。思わず男性の方を見ると、絶望的な表情を浮かべたまま顔を逸らした。

 

 

「テメエはここ一週間、保育園やら女子寮付近やら、ずっと那波の近辺に張り付いて、この装置で超音波を浴びせ続けたな?その結果那波が具合を悪くし、倒れることを見越して。そして倒れそうになったところで颯爽と現れて、王子様のように助けるフリして、那波の気を惹こうとしたわけだ。いや、もっと下衆いこと考えてたのかもしれねえなぁ?」

 

 

 長谷川さんの口調は棘というよりも槍そのもので、怒りのままに男性を真実で突き刺していく。次第に私も恐怖心が芽生えてきて、小さく体が震え始めた。

 

 

「―――――私が偶然那波の傍に居て、超音波の存在に気付けたのは、ホントに幸運だった。テメエみたいな男の腐ったようなヤツに、私の大切なクラスメイトが汚されてたかと思うと、怒りしか湧いてこねえ。」

 

 

 不意に長谷川さんが私の隣に来てしゃがみ、私の肩を抱き寄せた。私の怖れを察したが故の行動だったのだろうが、別の意味で大きく動揺してしまったのは、仕方ないことだろう。

 

 

「証拠の方は、雪広と超が、教師陣や警察に掛け合って集めてくれてる。お前のここ一週間の行動や目撃情報、研究履歴とかな。もちろん装置(コイツ)も立派な証拠物件だ。じきに揃うぜ。後は那波の診断書と、被害報告を待つだけだが…。」

 

 

 そこで長谷川さんと、男を取り押さえたままのザジさんが、私の方に視線を向けた。

 私は迷った。ザジさんの足元で倒れ伏している男性が、私に邪な思いを抱き、卑劣なやり方で私を手に入れようとしたことは明白なようだが、当の私には襲われていたという実感が全く無い。超音波によって頭痛を引き起こしていたというのも、例え物証が目の前にあっても、何だか現実味の無い話だ。とはいえ、ここで無罪放免にするわけにはいくまい。長谷川さんの話しぶりだと、あやかや超さんも私のために動いてくれているみたいだし。

 

 

「うっ…うううぅぅ…。」

 

 

 私が考えあぐねていると、容疑者たる男性の口から嗚咽が漏れ始めた。それを見つめる長谷川さんとザジさんの視線は、絶対零度に例えられそうな程冷酷な物だった。かくいう私も、大の男の人がこうも女々しく泣くのを初めて見たため、少し気味悪く感じてしまった。

 

 

「ひぐっ…!ぐすっ、ぐずっ…!ち、畜生…、ちくしょおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 

 突如、情けない泣き声が罵声に変貌した。

 怯える間もなく、キィン、という強烈な耳鳴りが、鼓膜どころか脳までも震わせた。視界が千切れんばかりに捩れ、地面にへたり込み続けることすら出来ず、今度こそアスファルトの上に倒れこんだ。

 

 

「き、きひひひぇひぃっ!い、い、いい気味だ!僕をあ、侮るからこここ、こうなるんだ!ざまぁみみ、み、見ろ!あひははははっ!!」

 

 

 男性の狂ったような哄笑が、遠く、微かに聞こえる。

 私は何も見えず、上下左右の感覚すら全く分からなくなる中で、ただ必死に手を伸ばすことしか出来なかった。

 今どの方角に居るのかも分からない、長谷川さんの方へと。

 

 

「助けて…。」

 

 

 やっとの思いで口に出来たのも、たったこれだけで。

 

 

 

 

「―――――いい加減にしとけよ、テメエ。」

 

 

 

 

 ―――しかしこれだけの言葉で、長谷川さんの怒りの火薬庫に火を点けるには十分過ぎたようで。

 心臓を鷲掴みにされたかのような怖気が、私の全身を走りぬけ、硬直させた。朦朧としていた意識は一瞬で無理やり引き戻され、全身を何百万という針で刺され尽くしていると錯覚してしまうほど鋭く尖った長谷川さんの気迫が、私たちの周りを冷たく包み込んでいた。

 

 誰に教えられたわけでもないが、私はそれが殺気、もしくは殺意と呼ぶべきものである事を、直感的に理解した。

 

 

「…なぁ、オイ。今のテメエの状況、分かってんのか?今私たちは、テメエが追い回してた本人に、テメエの処断を問うつもりだったんだよ。テメエのその、ヘドロより臭くて汚え欲望に晒してくれやがった、私たちの大事な大事な友達に、だ。」

 

 

 男性は長谷川さんに顔を掴まれ、視線を逸らすことすら許されないまま、長谷川さんの放つ殺気をモロに浴びている。蛇に睨まれた蛙ですらこれほど酷くは怯えまい、というほどに、傍目に見ていて哀れなほど震えていた。

 

 

「本当なら何の躊躇いもなくボコボコにしてやりてえ所を、当の被害者たる那波に任せて、温情をくれてやろうとしてたんだぜ…?それを無碍にして、あまつさえ那波まで巻き込んで、超音波の無差別攻撃だぁ…?」

 

 

 まるで長谷川さんの一言一言が、周囲一帯の温度を奪い、それを煮え滾る怒りに変換しているかのように、その声色は冷たく、そして燃え盛っている。

 

 

「―――私だけならいい。だがお前は、私の友達を、私の平穏の象徴を、傷つけようとした。それも一度ならず、二度までも。」

 

 

 すっと、私の視界を遮る手があった。ザジさんの物だ。ザジさんの手が、私の視界を塞いで完全に見えなくする。

 

 その手の向こう側で―――――長谷川さんが。

 

 

 

 

「―――――情状酌量の余地はねえ。生きて償えると思うなよ―――――」

 

 

 

 

 まるで死神が翳した鎌を振り下ろすかのように。

 止めの一言を、目一杯の感情を込めて、眼前の男性に投げかけた。

 

 

 

 そして―――私も。

 自分でも意識しない内に張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れて、そのまま視界を暗闇に落としていった。

 

 

 

 

 

 

 そして、次に目覚めた時は――――――

 

 

「―――起きたか。お早う那波。気分は…良い訳ねえか。」

 

「えっ、お、おは―――――って、な、何で私、長谷川さんに負ぶわれてるの!?」

 

 

 ―――事もあろうか、長谷川さんの背中の上だった。

 

 それに気付いた瞬間、思わず長谷川さんの背中の上で大きく身じろぎしてしまったため、立ち止まって私を降ろさざるを得なくなってしまった。

 途端に膝から崩れ落ちてしまい、地面にへたりこんでしまった。立ち上がろうにも、腰から下に力が入らない。

 

 

「ホラ、まだ立てる身体じゃないじゃないか。また背中に乗っかって―――」

 

「あ、ううん、いいの。それよりも、その―――えっと、何で私は、長谷川さんに背負われてたのかしら…?そ、それと、私が眠ってた間に、何が…?」

 

 

 誤魔化し目的で、とにかく思いついた疑問を尋ねてみた。対する長谷川さんは、何故か何処となく歯切れが悪い。

 

 

「あー、えっとな…。まず何で背負ってたのかっていうと、那波は超音波のせいで気絶しちまってたんだな。で、どう見ても具合悪い様子だったから、とりあえず保健室まで連れてこうと…。」

 

「え、えっと、なるほど…。そ、それじゃあザジさんと、あの男性は?」

 

「そっちは今レインが警察に運んでってる。…尤も、あの様子じゃまず真っ先に病院に運ばれるだろうけど。」

 

 

 ちょっとやり過ぎたかな、と物騒な言葉が続いていくが、ほとんど私の耳には届いていなかったように思う。少し落ち着いた状況に置かれ直した分、さっきまでの混沌とした状況を理解しようと、脳が再整理に努めていたせいだろう。

 やがて、私がストーカー被害を受け、それに気付いた長谷川さんが助けに来てくれたのだ、という要約論に至ったのと同時に、再度長谷川さんが私の両腕を取って、そのまま背負い、歩き始めた。

 

 

「い、いいわよ長谷川さん…。私、重いから…。」

 

「一人で立てねえくせに何を言うか。それに那波はサックスケースより軽いし、温かい。いつまでも背負ってられるよ。」

 

 

 真っ赤に染まっているであろう私の顔を、長谷川さんの後頭部の髪の中に埋める。シャンプーの香りが、目覚めたての私の鼻腔をくすぐった。

 

 ―――チクリ、と。痛みが走り抜ける。

 

 思えばこの数日間、何度も心の何処かが痛んでいるように錯覚してきたが、それは錯覚などではなく、超音波がもたらす実害だったのだ。

 しかし今、長谷川さんの背中に覆い被さる私の身体を走り抜ける痛みは、それらとは全く異質の、柔らかな痛みだった。

 

 

「…長谷川さんは、何時から気付いてたの?」

 

「先週の保育園での演奏帰りに、一緒に歩いてた時から。やたら耳障りな感触がするなぁと思ってさ。ひょっとして私を尾けてるんじゃないかって、土日で気を付けてたんだけど、その時は何も無かったから、じゃあ狙いは那波なんじゃないか、って。」

 

「…保育園に演奏しに来ようとしたり、私の周りを張り込んでたりしたのも?」

 

「ああ。那波の働いてる保育園辺りで耳澄ませてたら、案の定だ。すぐに超に連絡取って、そういう研究してる人間洗いだしてもらって、それから雪広に送迎とか身辺警護を依頼してた。」

 

 

 ―――チクリ、と。

 この数日間の不安への答えが、一つ一つ綺麗に填まっていく。

 そして、一番大きな欠落部分にも、確実な答えが浮かび上がって来た。

 

 

「長谷川さんって、あんな風に怒れるのね。意外だったわ。」

 

「…頼むからそれは忘れてくれ。私もあれだけキレたの、大分久しぶりなんだ。あんなこと滅多に無いから、怖がったり誰かに話したりしないでくれよ?」

 

「ええ、もちろん。私と長谷川さんだけの秘密ね。」

 

「ああ、秘密だ。けれど、レインを忘れてやるなよ。」

 

 

 ―――チクリ、と。

 ザジさんの事が話題に出た途端、柔らかな痛みが急に煩わしい物へと変わる。抱きつく力を強くすると、痛みは元の柔らかさを取り戻した。

 

 

「…ごめんなさい。私がもっと速く気付いてたら、長谷川さんにもあやかにも超さんにも、余計な迷惑かけなくて済んだのに…。」

 

 

 私がそう言って謝ると、長谷川さんはあからさまな溜め息を吐いてみせた。

 

 

…那波ってさ。よく実年齢以上に大人びてるって言われてたけど、私は実際そんなこと無いと思うんだよな。」

 

 

 何の脈絡もなく呟かれたその言葉に、ストーカー被害に遭っていた事実を知らされた時並の衝撃を受けた。

 中学に入るより前から、周囲から「大人っぽい」だとか「中学生に見えない」とか、酷い時には老けているなんて言われ続けていた。女子大生に間違われ、しつこくナンパされた事も数え切れない。私自身それについてはかなり気にしている。

なので、長谷川さんが突然私のコンプレックスを否定するような事を口走った事が、ちょっと嬉しく感じるとともに、この上なく理由が気になってしまった。

 

 

「那波って大人びてるっていうよりは、大人になろうとしてるっていう感じなんだよな。周りに求められてるみたいに。実際それはその通りに見えるんだけど、中身は年相応の女の子だから、どうしても隠し切れない子供っぽさが時々出てくる。」

 

 

 私は口を挟まず、じっと背中の上で長谷川さんの話に耳を傾けていた。

 

 

「けどそうやって、いつも大人であろうと振舞い続けるもんだから、自分の気持ちとか言葉を押し殺すことに繋がる―――今も、本当に言うべき言葉は、謝罪なんかじゃないだろう?

 第一、別に那波が何か悪い事したわけじゃ無いんだから、謝る必要は何もねえ。私も超もいいんちょも、やらなきゃいけないと思ったからやったんだから。那波のためなら労は惜しくねえよ。」

 

 

 ―――ドクン、と心臓が鼓動を打つ。

 

 

「大人っぽく振舞うのは良いことだし、騒がしいばっかりのウチのクラスじゃ、居てくれるだけでありがてえけど、肩肘張り続けても疲れるだけだぜ?私でもいいんちょでもいいから、少しは寄りかかってくれよ。」

 

 

 優しい言葉をかけられ、少し涙腺が緩む。それを隠すため、彼女の背中に抱き付く力を少し強めた。

 ドクン、と波打つ鼓動が、より鮮明に感じられた。

 

 

 

「…そうね。長谷川さん、本当にありがとう。おかげで助かった。本当に、本当に―――ありがとう。」

 

「―――ああ、那波が無事で本当に良かった。」

 

 

 ドクン、ドクン。チクリ、チクリ。

 心臓が鼓動を刻む度に、甘く鋭く、仄かに暖かい痛みが私を刺す。

 

 私は、この痛みの名前を知っている。

 今まで名前だけでしか知らなかったそれを、体で感じている。

 

 

「…ねえ。千雨さんって呼んでもいいかしら?」

 

「別に構わないよ。じゃあ私も、千鶴って呼ぶ事にするよ。」

 

「ありがとう―――――ねえ、千雨さん。」

 

 

 ―――聞きたい事は沢山ある。

 あの凄絶な気迫のこと、私だけを対象として発せられていた超音波の存在に気付けたこと、授業時間帯なのにこうして外に居ること、そもそも私が襲われている現状を察知出来たこと。

 思い返せば不思議な事実や事象が山ほどある。きっと問い詰めればとんでもない事実が明らかになりそうな、そんな予感さえする。

 

 

「どうした、千鶴?」

 

 

 けれど、そんな些細な問題は、暖かな痛みに飲み込まれて消えた。

 長谷川さんの背中から伝わる温もりと、私の身体の内側から滲む温もりが重なり合い、混ざり合い、大きな一つとなって、心と体を覆い尽くしていく。

 

 

 ―――そして、ドクン(チクリ)と。

 

 

 

 

「―――――私、千雨さんみたいな、男らしくて頼りになる人と結婚したいな。」

 

 

 

 

 ―――ああ、これが恋なんだ。

 この胸を内側から突く、温もりに満ちた痛みが、恋なんだ。

 

 

 

「…何だよ、らしくないこと言ったかと思えば、急に抱き着く力強くして。恐怖が蘇ってきたか?」

 

「…駄目だったかしら?」

 

「んな訳ねえだろ。私の背中でよかったらいくらでも貸してやる。」

 

「ふふっ、そう言ってくれると思ってたわ♡」

 

 

 ぎゅっと力強く、想いを込めて、その大きくて温かい背中を抱きしめた。

 その背中に、そっと囁きかける。

 

 

「―――――長谷川さん。今度は、私に貴方を守らせてね―――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「―――――で、その後保健室に着くまで、ずっと背中で甘えてたんだよな。温かかったり柔らかかったりで、正直ドキドキした。」

 

「うぅ…恥ずかしい…。やっぱり気付かれてたのね…。」

 

 

 当時の顛末を楽しそうに話す千雨さんとは裏腹に、私は顔を真っ赤にして俯くしか出来ないでいた。

 当時はまだ千雨さんの聴力について全く知らなかったので仕方ないことだったのだが、ああして背中に掴まってる間、私が聞こえてないつもりで呟いてた言葉や心臓の鼓動は、完全に丸聞こえだったのだ。

 すなわち、あの時からずっと、私の仄かな恋心は、千雨さんに知られていたわけで。

 

 

「…にしても、あの殺気はやり過ぎだったと思うけど。あのストーカーすっかり怯えちゃって、精神崩壊寸前だったよ?警察も怪しんでたんだから。」

 

「う…。いや、あの時は私も頭に血が昇って…。というかその件に関しては、散々お前に説教されたじゃねえか。『不用意に正体を悟られかねない真似するな。静かに暮らしたいんじゃないのか』って…。」

 

 

 当時は相当こってり絞られたのだろう。追及するザジさんに対して、千雨さんは目を背けたまま力無く反論するのみだ。

 けれど私には、千雨さんが自分の正体が明るみに出る可能性すら省みずに、私のために怒ってくれたことが嬉しかった。

 

 

 

 

「…“千雨さんが私のために怒ってくれて嬉しいな”って顔してるね、那波は。」

 

 

 

 

 そんな私の心情を完全に見透かした言葉が、ザジさんの口から飛んできた。その顔は何処かしら私に対して不満を抱いているような表情だった。

 

 

「…あんまりこういう事言いたくないけど、那波は相手が自分の事を想ってくれればそれでいいって、そういう考え方?相手から自分への一方通行で満足なの?宮崎みたいに、一身同体となって付いていくんじゃなくて、少し離れた視点(ばしょ)から無事を祈って見守るだけ?」

 

「―――――っ、オイ、レイン!」

 

 

 千雨さんの叱責が飛ぶ。それの何が悪いんだ、と私の代わりに弁護しようとしている。

 私はそれを、立ち上がって手で押さえた。

 

 

「…要するにザジさんは、私を宮崎さんと比較して、意気地なしって貶したいのかしら。千雨さんが戦うのも死にかけるのも、遠巻きに眺め続けてただけの臆病者、って。」

 

 

 私が精一杯強がりながら喋っていたことは、誰の目にも明らかだっただろう。声は上ずっていたし、ぎゅっと握った拳はぷるぷると震えていた。

 そんな私の虚勢に、ザジさんは呆れ返ったような溜め息で応じた。

 

 

「そんなこと言う訳ないじゃない。千雨が那波が巻き込まれる事を望むはず無いんだから。ていうか、私の言い方も悪かったけど、宮崎と比較しちゃダメでしょ。あの娘は規格外だって。

 私が言いたかったのは、那波の方から千雨の方に寄っていくことはしないのか、っていう事だけ。」

 

 

 どうやら私の考え過ぎだったらしい。恥ずかしさにますます顔が赤くなる。

 …いや、考え過ぎ、という事ではないのだろう。そんな思考にすぐさま至ってしまったのは、それが私が前々から考えていた事であったからに他ならない。

 

 

「…というか、急にそんなこと口にしたって事は、千鶴自身でそういう風に考えてたって事だよな。」

 

 

 当然千雨さんにも指摘され、少し厳しい目付きで見つめられた。私は静かに頷いた。

 

 

「…ええ。千雨さんが独りで戦ってたって初めて聞いた時、すごく後悔した。何で私は手を差し伸べられなかったんだろう、って。」

 

 

 あの頃、クラスの雰囲気がおかしい事も千雨さんたちの様子がおかしい事も、私は気付いていた。気付いていながら、尋ねるどころか声をかけることさえ出来なかった。暗い面持ちで、剣呑な目付きを浮かべる千雨さんを目の前にすると、どうしても二の足を踏んでしまった。

 

 怖かった、のだと思う。

 千雨さんの放つ殺気の凄まじさは身を以て知っていたし、それにまつわる何かを千雨さんが隠していることも知っていた。

 だが、それについて聞いてしまえば、それまでの日常が変わってしまう、もう戻れなくなる、何もかもが壊れる、そんな予感に囚われてしまい、どうしても千雨さんに尋ねることが出来なかった。

 それは、千雨さんへの好意故の物ではなく、我が身可愛さ故の保身だった。

 

 

「今だから言えるけれど、私、宮崎さんが妬ましかった。千雨さんの(せかい)に躊躇なく踏み込んで行けた彼女が。私にも宮崎さんみたいに勇気があったらって、そんな風に考えてた。」

 

「…のどかと千鶴とじゃ状況が違う。のどかは偶然巻き込まれた末、私と一緒に歩む決断をしたんだ。」

 

「確かにそうね。けれど私が同じ状況に遭った時、宮崎さんと同じ決断を下せたとは、到底思えないの。」

 

 

 勇気は誰もが皆心の内に、同量かつ同質の物を持っている。そこには何の格差も無い。

 違いがあるとすれば、それを使うか否か。自分の意志一つで切り出せるそれを、使うべき時に使えるかどうか。

 

 宮崎さんは使えた。

 そして私は、きっと使えなかった。

 

 

「そんな事―――」

 

「あるわ。確信出来る。…私じゃ、宮崎さんの代わりは務まらなかった。…私じゃ、千雨さんの隣には居られなかった。」

 

 

 ズキン、と。

 巻き付く棘が一層深く心に刺さる。

 

 その棘の痛みが、鼻の奥をツンと突き刺し、瞼から溢れ出そうになる。それを必死で堪えて、無理矢理笑顔を作ってみせた。

 

 

 その瞬間―――――

 目にも止まらぬ速度で伸びてきた千雨さんの指が、思いっきり私の額を弾いた。

 

 

「痛ぁっ!?」

 

 

 所謂デコピンだが、千雨さん(強化込み)の場合洒落にならない威力だ。爆弾が破裂したかのような、デコピンにしては有り得ない衝撃に、後ろ向きに椅子から転げ落ちそうになる。

 

 

「ていっ。」

 

「きゃああぁっ!?」

 

 

 その転げ落ちんとする勢いのまま、いつの間にか真横に回っていたザジさんに、浮き上がった膝裏と背中に手を差し込まれ、そのまま舵でも回すかのように、私の身体をぐるっと一回転させて、元通りに着席させられた。まるで中国雑技団だ。

 

 そして、元の姿勢に戻った私の目と鼻の先に、しかめっ面の千雨さんが迫って来ていた。

 

 

「な・に・を・阿・呆・な・こ・と・を・言・っ・て・る・ん・だ?ああ?」

 

 

 そしてそのまま私の側頭部を掴み、啄木鳥のように頭突きをかましてきた。

 

 

「何が私じゃのどかの代わりは務まらない、だ。当然だろ。のどかと同じ考えに至って、同じ行動を取れるだなんて、誰にも期待してねえよ。ありゃあのどかだからこそ出来た事だ。」

 

 

 千雨さんの言う通り、宮崎さんの見せた勇気は、ただ使い所が正しかったという話で済むものではない。彼女の下した決断は、自分の人生を選び取ったのと同義だ。そう考えると、やはり私に同じ決断は下せそうにない。

 

 

「…やれやれ。納得してないって顔だな。自己卑下が過ぎるぜ、千鶴。

 ――――じゃあ千鶴は、今でも私の力になれなかった事を、やり直したいって思うほどに悔んでるのか?」

 

 

 鼻先をくっつけて真正面から私の瞳を見透かさんばかりに睨む千雨さんの問いかけに、私は一瞬逡巡してから、小さく頷いた。

 

 

 

「―――――じゃあ仕切り直せよ。」

 

 

 

「お前の想いが本当なら、本気なら、その想いを死なせるな、裏切るな、幸せを掴め、夢を語れ。」

 

 

 こつん、と温かい感触。

 千雨さんが、額に額をくっつけてきていた。

 

 

 

 

「のどかがのどかにしか出来ない事をやったように、千鶴は千鶴にしか出来ない事がある。自分にしか出来ない事を、使い所を間違えずに使うのも、勇気の在り方だ。そしてその機会は、きっと何度でも巡って来る。

 

 ―――未来への切符は、いつでも白紙なんだからな。」

 

 

 

 

 ドクン、と。心臓が一際大きく跳ねた。

 それは棘が刺さる痛みでもなく、ましてや超音波のせいでもない。

 

 この、春の陽射しのように温かく、羽毛布団のように柔らかく、咲きたての梅のように芳しい、この気持ちは。

 

 

 

 あの日、千雨さんの背に負ぶわれながら感じた、恋に落ちる心地―――――

 

 

 

 ―――気付けば私は、千雨さんの手を包み込むように握っていた。

 

 

「そっ、それじゃあっ、千雨さん…!」

 

 

 激しい心臓の鼓動に自然と息は荒くなり、言うべき言葉がまとまらず、口がパクパクとどもる。それでも何とか自分の思いの丈を組み上げていき、口に出す。

 

 

「私の想いは、千雨さんが居なきゃ成り立たないものだから…!貴方の隣に立って、貴方を支えていきたいから…!だから…だから…!」

 

 

 気付かぬ内に、私の目から涙が溢れ出していた。

 『別荘』の中で見た、死んだように眠る千雨さんの姿と、切除された千雨さんの傷だらけの胴体が脳裏に浮かぶ。あれを見た瞬間の悲しさ、悔しさだけは、二度と味わいたくないから。

 私の好きな人が死の淵に立たされるのを黙って見過ごすのは、もう二度と御免だから。

 

 

「だから…どうか、無事に帰って来て。私に出来ることなら何でもする。私にも、貴方の背中を支えさせて。」

 

 

 それだけ口にして、後はまともに千雨さんの顔を見ていられず、俯いて涙を零し続けた。嗚咽だけは必死で堪え、ずっと手は離さなかった。

 

 不意に、私の背中に手が回された。

 それが千雨さんの手だと気付いた時には、私の頭は千雨さんの胸の中に抱き竦められていた。

 

 

「分かってる…いや、違うな。“分かったよ”、千鶴。お前との約束は絶対に果たす。絶対に、五体満足で帰って来てみせる。…だからもう泣くな。美人が台無しだぜ?」

 

 

 ぽんぽん、と、千雨さんの手が私の背中をあやすように叩き、擦る。その感触が心地良くて、思わず吹き出してしまった。

 

 

「…ホントに女たらしなんだから。千雨さん。宮崎さんもこうやって籠絡したのかしら。」

 

「失敬な…と言いたい所だけど、似たような事してた覚えがあるな。」

 

 

 次第に涙が引いていくと同時に、幾分思考も冷静さを取り戻していき、自分が千雨さんの胸の中に抱かれている現状を認識して、顔が赤くなっていくのを感じた。尤も、もう少し落ち着きを取り戻せるまで抱き締められていよう、と真っ先に考えついてしまう辺り、全く冷静さは取り戻せていないのかもしれないけれど。

 

 

「…ハイハイ、ご馳走様二人とも。もうとっくに閉店時間は過ぎてるわけだけど、そのまま夜通し抱き合ってみる?」

 

 

 いつの間にか席に座っていたザジさんが、カウンターに肘を付いてつまらなそうに私たちに声をかけた。

 私と千雨さんはお互い一瞬目を合わせた後、戸惑いながらもおずおずと体を離し合い、それから同時にザジさんの方に視線を向けた。当のザジさんは、あからさまに私たちと視線を合わせようとしない。

 

 

「あら…。ひょっとして…。」

 

「…やきもち焼いたか、レイン?」

 

 

 私と千雨さんの質問がシンクロするや否や、ザジさんは完全に明後日の方向を向いてしまった。

 

 

「…馬鹿な事言ってないで、千雨はさっさと閉店の札出してきたら?それと那波も、もうそろそろ帰った方がいいんじゃないの?村上は最近帰って来るの早いんでしょ?」

 

 

 どう考えても妬いていた。千雨さんは懸命に笑いを堪えながら、軒先の営業中の札を片付けに行った。私も口の端で笑いを何とか抑えながら帰り支度を始める。

 

 

「じゃあ、私は帰るわね。明後日の見送り、顔出してもいい?」

 

「出るの早朝だし、別にいいよ。大丈夫、千鶴の気持ちは、確かに受け取ったから。」

 

「そういうこと。まぁ安心して。千雨が無茶し過ぎないよう、私も目を光らせておくから。」

 

「ええ、お願いね。気付いたら片腕失くしてたなんて事になったら大変だから。」

 

「信用無さすぎだろ…。」

 

 

 千雨さんが項垂れるが、これまでの千雨さんの所業を省みれば当然の心配だと思う。今度は私とザジさんが揃って笑った。

 

 

 

「それじゃあ―――行ってらっしゃい、千雨さん。麻帆良で待ってるからね。」

 

 

 

 教室でまた明日と言って別れるような軽い感じで、手を振って店を後にした。

 時刻は七時過ぎ。すでに空には星が輝き始めている。今もルームシェアして暮らし合っている夏美も、すでに戻って来ている頃だろう。

 そういえば、夏美は私の恋心に勘付いていた節があった。今日私がようやく一歩目を踏み出した事を、どう伝えるべきだろうか。どう伝えたら、目一杯驚いてくれるだろうか。

 

 

「一歩…そう、一歩目、なのよね。」

 

 

 街灯に照らされた路でふと立ち止まり、女子中等部の校舎の方角を見る。その方角には、千雨さんに助けてもらった路地もあるはずだ。

 

 私はずっと、あの時の背中の温もりに縋っていた。あの温もりを忘れたくないから、損ないたくないから、千雨さんの背中におぶさったままだった。

 けれど、それは恋であっても愛ではない。

 想うだけなら誰にでも出来る。だが、想いを形に、行動にするのは難しい。そこが恋と愛の境目だ。

 結局の所、今日の今日まで私は境目を超える一歩を踏み出す事が出来なかったのだ。その一歩で崩れ去ってしまうかもしれない何かが怖くて、断崖の向こう側の彼女に並び立つ事が出来なかった。一方宮崎さんやザジさんは、その断崖を跳び越えてみせた。

 

 そして私も、あまりに長い時間が経ってしまったけれど、ようやく一歩目を踏み出せた。

 正確には半歩かもしれない。千雨さんが歩み寄ってくれた半歩に、私も半歩分の勇気を出して応えただけかもしれない。

 でも、それでも、この足はようやく断崖を超え、彼女と同じ地平に立てた。新たな一歩を踏み出す“小さな勇気”を振り絞る事が出来た。

 

 その事実を改めて実感し、じわりと視界が霞む。

 この涙が、隣に並び立てた嬉しさ故の物なのか、それとも無為に過ごしてしまった数年間を嘆く物なのかは分からない。

 けれど。

 

 

「…うん、泣いてる暇なんて無いわよね。」

 

 

 この足は、この身体は、彼女の隣に立つ資格を得た。

 だから、付いていかなければならない。涙も痛みも堪えて、共に歩んでいかなければならない。泣いて立ち止まっている暇なんて、一瞬たりとも無いのだ。

 

 ―――気付けば、あれだけしぶとく心に巻き付き、巣食っていた棘は、まるで最初から居なかったかのように消え去っていた。

 胸に手を当て、心臓の鼓動を確かめる。茨の解けた心は、自然で優しいリズムを刻んでいる。そのリズムに合わせるように、鼻唄を奏で、星空を仰ぎながら、帰り道を急いだ。

 

 

 

 

 ――――願わくば。

 私の存在が、本当に千雨さんの力となり、支え助けていけますように―――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――後日、千雨さんの帰国後、本当に私が必要とされる環境となったのだけれど。

 まぁそれは、別のお話。

 

 

 

 

 


(後書き)

 何は無くとも、まずはお詫びを。

 

 書くの遅れてスミマセンっしたーーーーーー!!

 

 えー、3月からおよそ20日間ほど卒業旅行に出ていたもので、その間ろくに執筆出来ず、いざ書き始めたら内容が迷走してしまい、ここまで遅くなってしまいました…。ホントは3月中に外伝もう一つ上げる予定だったのになぁ…。特にエヴァとの外伝が5月ごろになってしまいそうで、リクエストして下さった名無しさんには申し訳ない限りです。陳謝致します。

 

 さて、今回の外伝ですが、本編で全く活躍の無かった那波千鶴にフィーチャーいたしました。元々彼女はプロットの段階でのヒロイン候補の一人だったのですが、キャラが上手く掴めなかったのと、どうしても夏美やあやかも絡んできてしまうため、立ち回らせ方が難しそうだったので、外すことにしました。もし彼女が本編でのヒロインになっていた場合、のどかと同じ道を辿っていた可能性が大きいです。

 

 本文中でも仄めかしましたが、千雨は千鶴が自分にずっと恋愛感情を抱いている事を知っています。知ってはいるけど、千鶴の接し方は今まで通り変わらないので、千雨の接し方も変わらず、結果二人の関係は進展せず。アプローチをかけなかった千鶴も悪いですが、知っていながら何一つ接し方を変えなかった千雨の罪は重いです(笑)

 

 …にしても、恋愛描写なるものを初めて書いてみたんですが、コレジャナイ感が半端ねえです。甘ったるくも甘酸っぱくも苦くもない、非常に中途半端な味というべきか。やはり非リア充には無理な事だったか…。

 

 で、書いてる間に気付いたんですが、本編では千雨は千鶴のこと名字で呼んでたんですよね。うーむミステイク。とはいえ一回きりだったし、そのためだけに今さら訂正するのもなぁ、と思ったり。笑って許していただければ幸いです。

 

 後、この期に及んでようやくツイッターを始めました。u.n.smithで登録してますので、フォローして下さると嬉しいです。後二つ残ってる外伝の投稿予告も、そちらで行おうと思っていますので。

 

 とうとう社会人デビューいたしますので、次がいつになるか分かりませんが、なるべく速めに投稿出来たらいいなぁ、と思ってますので、よろしくお願いします。それでは!

 

押して頂けると作者の励みになりますm(__)m


<<前話 目次 次話>>

作品を投稿する感想掲示板トップページに戻る

Copyright(c)2004 SILUFENIA All rights reserved.