ㅤ加部友恵が顎関節症と診断を受けてしばらく。
「じゃあ優子、一年生のところ行ってくるね」
ㅤそう言って、加部友恵がその場を後にした。
ㅤそれは、何も変わらない日常。
ㅤ彼女は一年生指導係として、三年生としての職務を、いつも通りに全うするだけ。
ㅤ誰も、彼女が三年間積み上げてきたものを、刃物でズタズタに引き裂かれた後だと言うことは知らない。
ㅤ──傷ついていないフリ。
ㅤそれが加部友恵の特技だった。
ㅤしかしそれを、三年間と言う月日を共に過ごしてきた吉川優子の眼は、微かな違和感として捉えていた。
「あれ?加部は?」
ㅤそう問い掛けるのは、加部友恵と同じく三年間を共に過ごしてきた滝野純一だ。
「一年生のところ」
「ふぅん。
そういや、さやかがちゃんと音出せるようになったって喜んでたっけ。
あいつにそんな世話焼くことないのになぁ」
「なら、あんたが教えてあげなさいよ」
「俺より加部に教わりたいって言うんだからしょうがないだろ?」
「それはそうね。
同じ女子だし、そもそもあんたと友恵じゃ、人徳に差が有りすぎるわ」
「瀧川みたいなこと言うなよ……」
「ちゃんと友恵にお礼しておきなさいよね」
「わかってるよ。
それよりさ、吉川」
「何よ」
「加部のやつ、最近ずっと一年に付きっきりで全然練習してなくないか?
気のせい?」
「…………」
ㅤその問い掛けに、安堵と不安が襲い来るのを感じた。
「…………ねぇ滝野。
最近の友恵、少し変じゃない?」
ㅤまるで答え合わせをするかのように、吉川優子は言葉を紡ぐ。
「本人は何も言わないし、全然元気そうではあるんだけど……
何か引っ掛かるのよね」
「確かに、何となく壁を感じ…………あっ」
ㅤ暫しの沈黙を挟む。
ㅤ吉川優子の眼が、滝野純一に圧をかける。
「いや、マジでわざとじゃない!
本当だって!怖いから睨むな!
本当に悪かったって!」
「……はぁ。
もう良いから、早く練習行きなさいよ」
「スッキリしねぇ……」
ㅤそう言いつつも、滝野純一はトランペットを抱えて練習へと向かった。
ㅤよく男子達と頭の悪そうな会話を繰り広げているが、トランペットに対する姿勢と熱意は、真面目そのものと言っていい。
ㅤ事実、彼は昨年度、コンクールメンバーに選ばれている。
ㅤそんな滝野純一に、吉川優子は感心を覚えていた。
ㅤ彼にあてられて練習に熱が入ったことも、二度や三度ではない。
ㅤそしてそれは、加部友恵に対しても同じだった。
ㅤ長くトランペットに向き合って来た吉川優子に、初心者だった二人は、意図せず更なる熱を与えていた。
「私も練習しないとね」
ㅤ誰に聞かせる訳でもなく、けれど確かに言葉にした。
ㅤそして、吉川優子は決意する。
ㅤ部活動が終わったら、彼女と話をしよう。
ㅤ今迄何度も口にして来たことを、今日もまた口にしよう。
ㅤ一緒に、コンクールへ。
ㅤその想いが届くことを願いながら、吉川優子はマウスピースに息を吹き込んだ。
──その日の練習時間は、何故だかとても長く感じた。