4月の風は、まだ少し冷たい。
真新しいブレザーの襟元を撫でる風は、春の優しさよりも、冬の残り香を運んでくる。新しいクラス、新しい担任、新しい教科書。すべてが真新しく、そしてどこか居心地が悪い。オレ―県立啓壮高校1年生・木村悠真―は、その空気に馴染もうともせず、教室の隅、窓際の席で、静かに文庫本を読んでいた。
高校生活は、平穏でなければならない。目立たず、波風立てず、誰にも干渉されず、誰にも干渉しない。それがオレの誓いであり、ささやかな願いだった。この三年間を、好きな本と共に過ごせれば、それでいい。
文庫本のページをめくる指先は、まだ少し悴んでいた。この、わずかに冷たい静寂こそが、オレの求めていた日常だ。
「ねえ、木村くんって暇?」
突然、頭上から降り注いだ声に、オレはビクッと肩を震わせた。反射的に顔を上げ、声の主を見上げる。
そこに立っていたのは、藤崎愛海。
クラスの中心にいる、あの女子だ。入学式の日から、彼女の周りには常に明るい光が差しているようだった。いつも笑顔で、誰にでも気さくに話しかけ、周りの生徒たち、特に男子からの視線を集めている。傍から見てもカワイイ。そんな彼女が、なぜ、この教室の隅の、影のようなオレに話しかけているのだろうか。
オレは思わず、持っていた文庫本を胸に抱きしめるように掴んだ。
「え、まあ……」
オレは曖昧に答えた。実際、今、オレは誰とも約束をしていないし、特にやることもない。だが、「暇だ」と即答するのは、彼女と関わる隙を与えるようで抵抗があった。
藤崎ひよりは、そんなオレの心の壁など意にも介さないように、満面の笑顔をさらに輝かせた。
「じゃあ決まり!」
「え?」
「部活、作ろうよ!」
弾むような声が、冷たい風を押しやって、教室の空気を一瞬で温かく、そして騒がしく変えた。オレの平穏な世界に、突然、巨大な岩石が落下してきたような衝撃だ。
「……は?」
オレは、ただそれしか言えなかった。部活?オレが?誰とも関わらず、静かに本を読んでいるつもりのオレが、クラスの中心にいる君と?
愛海は、オレの混乱を完全に無視して、窓枠に手をかけ、外を見やった。
「私ね、ずっとやりたいことがあったんだ。でも、一人じゃ無理で。木村くん、文庫本読んでるし、きっと頭良いよね?ああ見えても、私、結構、行動力はあるんだよ!」
彼女はくるりとオレに向き直り、自信に満ちた笑顔でオレの手を取ろうとした。オレは反射的に文庫本でガードする。
「な、何を……」
「大丈夫、きっと面白いよ!ね、副部長!」
「ふ、副部長!?」
こうして、僕の静かで、誰にも邪魔されないはずだった高校生活は、藤崎愛海という、嵐のような少女によって、あっさりと終わりを告げたのだった。
春の風は、もう冷たくない。むしろ、予期せぬ熱を帯び始めている。そして、オレの三年間は、彼女の「決まり!」の一言で、騒がしい青春の予感に満たされ始めた。
休み時間。親友の
下沢有哉が、木村に話しかけてきた。下沢は中学校の頃からの木村の親友である。
「よう木村。エライことになったな。藤崎は手ごわいぞ。まあ頑張れや」
「えらいことになったなで済ますなよ。こっちの身にもなれよ」
「はいはい、解りました」智明は苦笑いする。
「でもな、ちょっとだけ羨ましいわ。藤崎みたいな子と関われるなんてよ」そう言って有哉は去っていった。
「他人事みたいに言ってよ…」
◇
放課後。愛海から逃げるように教室を出ようとする。しかし―
「木村くん!」 また、弾むような声が響いた。愛海だ。彼女はすでに数人の女子と楽しそうに話していたが、すぐに悠真のいるドア付近へと駆け寄ってきた。その笑顔は、太陽光を浴びて一段と輝いている。
「ね、もう考えてくれた?」 愛海は、机に両手をついて前のめりになった。その距離に、悠真はまた一歩、体を引きそうになる。
「考えるって言っても、まだ、何の部活なのかも……」
「あ、言ってなかったっけ?」 愛海は、悪びれる様子もなく、小首を傾げた。その仕草すら、クラスの男子がチラチラと見ているのがわかる。悠真は内心、早くこの場を立ち去りたい衝動に駆られた。
「読書部、作ろうよ!って言ったじゃん!」
悠真は、一瞬、自分の耳を疑った。 「……読書部?」
「そう!悠真くん、いつも文庫本読んでるし、本が好きだって一目でわかったもん!」 彼女の瞳は、まるで宝物を見つけたかのようにキラキラしている。 「私ね、本を読むのは好きなんだけど、なかなか一人だと続かなくて。それに、ただ読むだけじゃなくて、もっと深く、面白くできたらなって思ってたんだ!」
「でも、読書部なんて、地味だし……正直、活動内容とかあるのか?」 悠真は、つい、余計なことを口にしてしまった。目立たない活動なら、むしろ大歓迎なはずなのに、なぜか愛海の熱量に水を差したくなった。
「あるよ!むしろ、最高に面白い活動にするの!例えばね、ただ本を読むだけじゃなくて『小説の舞台を巡る旅』とか、『読んだ本を元にオリジナルの物語を作る』とか!あと、『謎の古書を巡るミステリーイベント』とか!」
愛海のアイデアは、次から次へと泉のように湧き出てくる。そのどれもが、悠真の想像する「読書部」の枠を完全に超えていた。それはもう「読書部」という名の「冒険部」だ。
「ちょっと待て。小説の舞台を巡るって、それ、旅行じゃん。活動費とかどうすんだよ」
「それはね、『啓壮高校裏サイト』で、資金を援助してくれるスポンサーを募集するの!あ、冗談だよ!生徒会に企画書を出して、予算をもらうんだ!私、そういうの、得意だから!」
悠真は、眩しさに目を細めた。彼女は、本当に「行動力がある」を地で行く人間なのだ。 「それにね、悠真くん。一人で読むのもいいけど、誰かと感想を共有するのって、すごく楽しいんだよ。特に、考えもしなかった視点をもらえたりすると、その本の魅力が何倍にもなるんだ!」
その言葉だけは、なぜか、胸にストンと落ちてきた。確かに、好きな小説について誰かと語り合えたら。それは、少しだけ魅力的だ。しかし、相手がこの「嵐」では。
「で、副部長の仕事だけど」 愛海は、再び満面の笑みを浮かべた。 「悠真くんは、静かに本を読みたいんでしょ?だから、悠真くんの役割は、『思考』と『ブレーキ』をお願いしたいの」
「思考とブレーキ?」
「そう!私が思いつきで突っ走ろうとした時、冷静に『それは無理だ』って言って止めてくれる、常識という名のストッパー。そして、私が思いつかないような、深く、知的なアイデアを出してくれるブレーン!」 愛海は、悠真の胸元に抱えられた文庫本をそっと指でつついた。 「ほら、悠真くん、絶対、面白いこと、考えてくれるって信じてる!」
悠真は、その真っ直ぐな視線から逃れるように、窓の外を見た。冷たい風は、もうどこにもない。窓から差し込む光は、ただただ明るく、暖かかった。そして、目の前にいる少女の熱量が、自分の内側にある「平穏」という名の壁を、少しずつ溶かし始めているのを感じた。
「……じゃあ、もし、オレの提案が却下されたら、即刻退部だぞ」 悠真は、精一杯の抵抗として、小さな条件を突きつけた。
「却下するわけないじゃん!約束する!悠真くんの読みたい本、やりたい活動、全部尊重するよ!もちろん、私のやりたいことも、聞いてもらうけどね!」
愛海は、屈託のない笑顔でそう言い放った。その笑顔に、もう抗う術はないことを、悠真は悟った。
こうして、木村悠真の高校生活は、「平穏」という名の静かな水面から、「騒がしい青春」という名の激流へと、強制的に流れを変えることになった。県立啓壮高校の片隅に「(実は)冒険とミステリーを愛する)読書部」という名の、奇妙な部活が誕生しようとしていた。
春の風は、もう冷たくない。むしろ、予期せぬ熱を帯び始めている。そして、オレの三年間は、藤崎愛海の「決まり!」の一言で、騒がしい青春の予感に満たされ始めたのだった。