「おい。うちの署に自首してきた女がいる。」瀬戸尚夫はそう言って、椅子に深く腰掛けた。その表情はいつになく険しい。
「なんだって?誰だそれ」
「うちの管轄で起こった殺人事件の犯人だって言ってる。まあ殺された男、昔殺人事件を起こしてたらしいが、結局は関係ないみたいだな」
瀬戸は無造作に書類の束を放り出した。その束の表紙には、見慣れた事件名が記されている。
上野中央署管轄内マンション殺人事件
数日前、上野のマンションの一室で、派遣警備員の山井誠一が胸を包丁で一突きにされて死亡した。遺体からは身元を特定できるものは何も出てこなかったが、指紋照合によって驚くべき事実が明らかになった。
山井誠一の本名は、中根正一。26年前に世間を騒がせた連続強盗事件の犯人で、追ってきた刑事を殺害して逃亡した男だったのだ。時効は成立していたが、警察にとっては因縁の相手だった。
「その女、名前は?」吉本健太が尋ねる。
「大塚晴子、36歳。印刷会社社員で、中根の愛人だそうだ。動機は金銭トラブルらしい」
佐藤は書類を手に取った。分厚いファイルの中には、大塚晴子の供述調書が挟み込まれていた。そこには、事件の顛末が淡々と記されている。
中根には借金があり、返済を迫られていた。中根に金をせびられ、ついカッとなって持っていた包丁で刺してしまった、と。
シンプルな供述だった。しかし、佐藤の胸には拭いきれない違和感が残った。
倫哉の背後から、声が聞こえる。「ねえ、今江くん」
「豊原さん…」
「この女の供述、何か引っかからない?」
「引っかかり?ありきたりな金銭トラブルの痴情のもつれでしょう?」
「確かに。でも…」
豊原は言葉を詰まらせた。
書類から目を離し、遠い目をする。中根正一。逃亡犯。追っていた刑事を殺害した、警察の因縁の相手。その男の愛人が、こともあろうに自首してきた。あまりに出来すぎた話ではないか。
倫哉は立ち上がり、窓の外の灰色の空を見つめた。
豊原はこう口にする。「もし、この自首が嘘だとしたら?」
倫哉は怪訝な顔で豊原を見た。「どういうことですか?」
「本当の犯人をかばっているのかも。中根を殺す動機があった別の人間がいる。その人間を逃がすために、愛人が身代わりになった…」
瀬戸はフンと鼻で笑った。
「小説の読みすぎだ。そんなこと、めったに起こらないですよ」
「そうかもしれない。でも…」
豊原は再び書類に目を落とした。大塚晴子の写真が、そこに印刷されている。
どこにでもいる、ごく普通の女性に見えた。しかし、その瞳の奥に隠された真実があるような気がしてならなかった。
この事件には、まだ見えていない裏がある。
そう確信した倫哉は、大塚晴子の供述をもう一度、最初から読み直す。 一行一行、丁寧に追っていく。
何度読んでも、供述はシンプルで、矛盾点はないように思える。だが、この単純さがかえって倫哉の胸にざわつきを生じさせた。豊原の言葉が頭から離れない。「もし、この自首が嘘だとしたら?」
倫哉は、調書に記載された事件現場の住所をスマホで検索した。上野の古いマンションだ。ストリートビューで確認すると、通りに面した一階に小さな印刷会社が見えた。大塚晴子の勤務先だ。
「よし、行ってみよう」
倫哉は立ち上がり、コートを羽織る。
「どこへ?」と瀬戸が尋ねる。
「現場へ。もう一度、自分の目で確かめてきます」
事件現場となったマンションの一室は、まだ鑑識の立ち入り禁止テープが張られたままだった。倫哉は管理人室を訪ね、山井、いや中根の部屋について尋ねる。
「山井さん?ああ、あの人は夜勤の仕事が多くて、めったに顔を合わせなかったね。でも、最近は若い女の人がよく出入りしてたよ。山井さんの奥さんかと思ってたけど、違うみたいだねぇ」
管理人のおばあさんは、にこやかにそう話した。
「若い女性ですか…大塚晴子という女性ではないでしょうか?」
倫哉は、大塚晴子の写真を見せる。
「ああ、そうそう、この子だよ。いつもニコニコしてて、感じのいい子だった。でも…事件の日から見かけないね」
倫哉は、管理人に礼を言って部屋を出た。管理人の話は、大塚晴子が頻繁に中根の部屋に出入りしていたことを裏付けるものだ。
次に、倫哉は印刷会社へ向かう。中には、数台の大型プリンターが並び、インクの匂いが充満している。奥の事務室にいた中年の女性が、倫哉に気づき声をかけた。
「大塚晴子さんのことでお聞きしたいのですが」
倫哉は、身分証を見せて尋ねる。
「ああ、ハルコちゃんね。真面目な子だったのに、まさか…」
女性は、肩を落とす。
「彼女と山井誠一さんは、いつ頃からお付き合いされていたのでしょうか?」
「さあ…ハルコちゃんはプライベートな話はあまりしなかったからね。でも、最近は少し様子がおかしかったかな。何か悩みがあるみたいで、仕事中も上の空だったりして…」
そして、社長の吉村克明に話を伺った。
「私も…大塚君のプライベートには詳しくなくて…お役に立てることがなくて、申し訳ないです…」
倫哉は、女性の言葉を聞きながら、一つの可能性を頭の中で組み立てていた。
大塚は、なぜ山井こと中根が元連続強盗犯だったという事実を知っていたのだろうか?そして、なぜ彼との間に金銭トラブルが起きていたのだろう?
倫哉は、再び豊原のもとへ戻る。
「豊原さん、大塚晴子が嘘をついている可能性、もっと詳しく教えてもらえませんか?」
豊原は、倫哉の真剣なまなざしを見て、少し驚いたように言った。
「そうね…例えば、中根が殺された日、大塚晴子は別の場所にいたとか。もしそうなら、彼女の供述はすべて嘘になる」
その言葉を聞いた瞬間、倫哉の胸に閃きが走る。
大塚晴子の供述調書には、事件当日の彼女の行動が詳細に記されている。もし、この供述が嘘なら、彼女の本当の行動を突き止める必要がある。
倫哉は、マンションの向かいにあるコンビニに入り、大塚の写真を見せて店員に話を聞く。
「ああ、大塚さん?たまに。でも、最近は全然見ないですね。あ、そういえば、事件があった日の夜、大塚さんがここに来てましたよ」
「本当ですか!?」倫哉は身を乗り出す。
「はい。夜の10時過ぎだったかな。いつものようにアイスコーヒーを買ってました。なんだか、ずいぶん慌ててる様子だったけど…」
倫哉は、その情報に確信を得る。中根誠一が死亡した推定時刻は、夜の9時から10時半の間。もし、大塚晴子が10時過ぎにコンビニにいたなら、彼女は中根を殺すことは不可能だ。
「大塚晴子の自首は、嘘だ」倫哉は、確信を持って呟く。
彼女は、なぜ嘘の自白をしたのか?そして、本当に中根を殺したのは誰なのか?
倫哉は、彼女の供述から、もう一度真実にたどり着くためのヒントを探し始めた。
この事件の裏には、まだ誰も知らない深い闇が隠されている。
倫哉は、中根誠一の遺体発見現場と、大塚晴子の勤務先、そして彼女の自宅周辺を回って得た情報を、全て頭の中で整理していた。特に、事件当夜にコンビニで彼女が目撃されていたという証言は決定的だった。中根が死亡したとされる推定時刻と重なる。
もし、彼女がこの時刻にコンビニにいたのなら、彼女が中根を刺すことは物理的に不可能だ。しかし、彼女は自ら警察に出頭し、自分が犯人だと供述している。
なぜ、彼女は嘘の供述をしたのか?
倫哉は、豊原が言った言葉を思い出す。「本当の犯人をかばっているのかも。中根を殺す動機があった別の人間がいる。その人間を逃がすために、愛人が身代わりになった…」
倫哉は、改めて供述調書を読み返す。大塚晴子が中根について語る言葉には、どこか冷たい感情が混じっているように感じられた。金銭トラブルが動機だと供述しているが、その背後には、もっと個人的で、感情的な理由があるのではないか。
倫哉は、豊原に連絡を入れた。
「豊原さん、大塚晴子の行動をもう一度調べ直してください。特に、事件があった日、彼女の足取りを徹底的に追ってほしいんです。彼女がどこにいたのか、誰と会っていたのか…」
豊原は、倫哉の言葉に驚きを隠せない様子だった。
「どうしたの、急に。何か分かったの?」
「はい。彼女の供述には、嘘が混じっています。もし、この推測が正しければ、この事件はただの金銭トラブルなんかじゃない。もっと、深い闇が隠されている…」
倫哉は、彼女の背後にいる人物を突き止めるため、新たな捜査を始める。手始めに、中根誠一の過去を徹底的に洗い出すことにした。26年前に彼が関わった連続強盗殺人事件。その事件の被害者、関係者、そして彼を追っていた刑事…その中に、中根を殺す動機を持つ者がいるかもしれない。
倫哉は、過去の事件の資料を漁り始めた。時効が成立しているとはいえ、事件の記録は警察署の地下書庫に厳重に保管されていた。膨大な資料の束から、倫哉は一つの名前に目が留まる。
「山村良介…」
26年前、中根に殺害された刑事の名前だ。
資料には、彼の妻と、当時まだ幼かった息子、山村拓也のことが記されている。
倫哉は、直感的に何かを感じた。
「山村拓也…彼が、もし、父親の敵を討つために中根を探し出し、殺害したとしたら?」
しかし、なぜ、その男を大塚晴子がかばう必要があるのか。倫哉は、その繋がりを見つけられずにいた。
倫哉は、自身のデスクに戻ると、豊原に指示を出す。
「山村拓也という男を調べてください。現在、どこで何をしているのか、大塚晴子との接点はないか…」
豊原は、倫哉のただならぬ気配に、何も言わず頷いた。
翌日、倫哉は、豊原から受け取った資料を見て、息をのんだ。山村拓也、36歳。職業、派遣警備員。
中根は、派遣警備員として働いていた。そして、山村もまた、同じ派遣会社に所属していた。
二人は、同じ会社で働いていたのだ。
偶然の一致だろうか。いや、こんな出来すぎた偶然など、ありえない。
「まさか…」
倫哉の脳裏に、一つの恐ろしいシナリオが浮かび上がる。拓也は父親の敵を討つため、中根が働いている派遣会社に潜り込んだ。そして、復讐の機会を伺っていた。しかし、なぜ、晴子がその事件に関わるのか?
この事件の裏には、26年前の悲劇が深く関わっている。そして、晴子の嘘の自白は、その悲劇を終わらせるための、彼女なりの答えだったのかもしれない。
倫哉の立てた仮説は、ただの妄想では終わらなかった。山村拓海と大塚晴子の間に、深い繋がりがある。そして、その繋がりが、26年前の事件と、中根の死を結びつけている。そう考えた今江は、豊原に連絡をする。
「もしもし、豊原さん。ちょっと、僕の計画に協力してほしいんです」