番外『暁の東亰編』



 緋い、どこまでも続く緋色の空の下に彼女はいた。

「シオリ……」
「来てくれたんだ。コウちゃん……ううん、来てしまったんだね」

 再会を懐かしむ二人。喜びと悲しみ、複雑な感情が二人の間で入り乱れる。
 倉敷栞。杜宮学園高等部に通う二年生、家が隣同士のコウの幼馴染み。
 そして――

「その気配……〈紅き終焉の魔王〉の……まさか……」
「そう、正確には魔王だったものの残滓……。死を受け入れられず〈夕闇〉に願いを叶えてもらった昔の私と同じ……」

 エマはシオリのなかに魔王の気配を感じ取っていた。
 ただの人間が魔王と同化できるはずがない。精神を食われ、魂ごと消滅するだけだ。
 それにコウに届けたという声。並外れた感能力を持っていなければ不可能な芸当。そんな真似はエマにも出来ない。
 だからこそ、確証はなかったが予想はしていた。シオリこそが杜宮で頻発する異変の元凶であると――

「仮初めの身体を失った魔王は器を求めていた。そして私は力が欲しかった」

 仮初めの身体というのは、恐らく〈緋色の騎神(テスタ・ロッサ)〉のことだとエマは察した。
 リィンのグングニルによって騎神との繋がりを断たれ、魔王の霊体だけが時空の狭間を彷徨っていたのだろう。
 そして新たな器と出会った。それが彼女なのだとエマは理解する。

「だから、同化したと?」
「互いに必要だったから引き寄せ合ったの。このタイミングであなたたちがこの世界≠ノ現れてくれたのは、私にとって都合が良かった。ううん、きっと私が望んだから、あなたたちが現れた。シオリの願いを叶えるために、因果を操作する力を持つ〈夕闇(わたし)〉があなたたちを引き寄せたの」

 ずっと胸の奥に引っ掛かっていた違和感の正体にエマは気付く。
 ――私たちを、この世界に呼び寄せたのは一体誰なのか?
 最初はシーカーを疑ったが、彼の様子を見るにその可能性は薄いと感じていた。なら〈紅き終焉の魔王〉が最も有力な候補として浮上したが、どうしても腑に落ちない点がエマにはあった。この世界と魔王の結び付きだ。
 念のため、アスカやミツキにも話を聞いてみたが、誰一人として〈紅き終焉の魔王〉のことを知る者はいなかった。偶然、魔王がこの世界に流れ着き、その転位に巻き込まれたという可能性もないわけではない。だが、そんな偶然があるのだろうか? 他に考えられる可能性として召喚者は別にいるのではないかとエマは考えていた。そして、その予想は当たっていたことになる。

「因果律の操作。まさか至宝の力もなしに、そんなことを為せる存在がいるなんて……」

 ――夕闇ノ使徒。東亰冥災を引き起こしたとされる怪異。因果律を操作する力を持つ存在なら、確かにそのような芸当も可能だろう。
 しかし予想はしていたが、俄には信じがたい話だった。そのようなことが可能な存在はエマの世界にもいない。
 いや、可能性がないわけではないが、それこそ空の女神がもたらしたとされる〈七の至宝(セプト=テリオン)〉を用いなければ不可能な御技だ。

「シオリさん、あなたの望みは何?」

 そんななかアスカは二人の会話に真剣な表情で割って入る。彼女もこの結果は予想していたのだろう。
 だからこそ、エマにあのような提案をした。問答無用でシオリを処分すると言った展開も予想できたからだ。
 しかしコウは勿論のこと、アスカもそのような展開を望んではいなかった。
 だから、シオリに尋ねる。先に彼女の本心を聞いておきたかったのだ。

「十年前、倉敷シオリが死んだ事実をなかったことにする。それが私の願い――」

 ソラとリオンは目を瞠り、驚きの表情を浮かべる。
 そんな二人とは違い、悲痛な表情を浮かべるコウ。彼はそのことを知っていた。いや、思い出したと言うべきか?
 ミツキやアスカもエマと同様に、その可能性に気付いてはいたのだろう。彼女が元凶であるとして、いつ怪異と出会ったのかは大体の想像が付く。十年前の東亰冥災。シオリやコウに限らず、アスカやミツキ。それにリオンも、東亰で起きた災厄の犠牲者と言えるのだから――
 アスカとミツキは両親を亡くし、そしてリオンはシオリと同様に命の危機に瀕し、怪異と同化することで一命を取り留めると言った経験をしていた。
 だからこそ、分かることもある。シオリが嘘を言っていないということが――

「私が十年前、〈夕闇〉に叶えてもらったのは倉敷シオリの死をなかったことにすることだった。私の死がコウちゃんの心を歪めてしまうのを恐れたから――」

 あの日、血塗れのシオリを抱きしめながらコウが口にした後悔の言葉。
 ――俺が手を放さなければ!
 そんなコウの言葉は、死にゆくシオリの心に深く刻み込まれた。
 自分の所為で、コウが自らを責めることをシオリは恐れたのだ。
 だから願った。――倉敷シオリの死が無かったことになればいいのに、と。

「でも、それはあくまで杜宮のなかだけの話。杜宮の外では、倉敷シオリは十年前に死んだことになっている。これまでは、それでもどうにかなっていた。それが近年、ネットワークの普及によって莫大な情報がやり取りされるようになり、シオリが生きている≠ニいう齟齬は説明のつかない矛盾を増大させ、杜宮における時空間を不安定にした」

 それが杜宮で頻発していた異変の原因。言われてみれば、納得の行く話だった。
 サイフォンが普及を始めたのは二〇〇五年頃から――。いまでこそ導力ネットワークは人々の生活に欠かせないものとなっているが、それでも僅か十年ほどのことだ。しかし、その十年は人々の生活を一変させるのに十分な時間を要していた。
 これまでなら本を読むことでしか得られなかった知識や、新聞やテレビを通してしか知ることのなかったような情報も、ネットを通して誰でも自由に知ることが出来る。それに遠距離の連絡手段は電話や手紙しかなかった時代と比べて、現在では『NiAR』の愛称で知られるコミュニケーションツールなども充実していた。
 本来であれば人々の生活を便利にするための技術。しかし、それが原因となって杜宮の異変に繋がっていたのだとすれば、これほど皮肉な話はない。
 サイフォンはネメシスで開発された技術だ。そしてゾディアックやその傘下の北都グループもまた、その普及に一役買っている。そのため思うところがあるのか、アスカとミツキの二人は複雑な表情を見せる。

「だから、私は考えたの。それなら世界すべての因果を操作してしまえばいいって」

 場を支配する空気の温度が何度か下がったかのような錯覚を受ける。
 冷たい眼差しでそう話すシオリの表情からは、人間らしさを感じ取れなかった。

「そのために、嘗ての〈夕闇(わたし)〉と同じ力を取り戻す必要があった。ううん、前よりもずっと強い力が必要だった。世界そのものを変えてしまえるほどの力が――」

 魔王と同化した理由をシオリは語る。
 しかしアスカは、そのシオリの説明に納得してはいなかった。

「嘘ね。あなたは終わらせるつもりだった。嘘を吐き続ければ、いつか大きな破綻を招く。杜宮で起きた異変のように――だから、あなたは最初からすべてを終わらせるつもりだったのでしょう?」
「柊、なにを――」

 アスカが何を言っているのか理解できないと言った顔で、コウは彼女を見る。
 いや、分からないわけではない。しかし、出来ることなら考えたくはなかった。
 シオリの説明の矛盾。どこかおかしいことにはコウも気付いてはいたのだ。

「世界の因果を操作できるのなら、杜宮に限定などせず最初の時点でそうしていたはず。そうしなかったのは〈夕闇ノ使徒〉でも不可能なのか、それだけの力が残されていなかったから――」
「でも、私は〈紅き終焉〉の名を持つ魔王と一つになった。以前の〈夕闇〉とは――」
「なら、その魔王と同化できなかったら、どうするつもりだったの?」

 シオリは自分で言ったのだ。
 ――このタイミングであなたたちがこの世界≠ノ現れてくれたのは、私にとって都合が良かった、と。
 夕闇ノ使徒が因果を操作して魔王を引き寄せたとしても、彼女はそのことを知らなかった。
 となれば、その原因がどうあれ魔王やリィンたちがこの世界に現れたのは彼女にとって偶然だったということになる。

 ――なら、魔王と同化することが出来なかったら、彼女はどうするつもりだったのか?

 夕闇ノ使徒の力だけで世界の因果を操作できるのであれば、十年前にそうしていたはず。しかし、そうはならなかった。ならば、自然とシオリのやろうとしたことに察しは付く。
 自らの存在の否定。十年前についた嘘を彼女はなかったことにしようと考えたのだ。
 それどころか、倉敷シオリの存在そのものをなかったことにしようと考えたのかもしれない。そうすれば、誰も悲しむことはないのだから――
 しかし、彼女は希望≠見つけてしまった。

「シオリさん。もう自分に嘘を吐くのはやめましょう。あなたは時坂くんのために自分が死んだ事実をなかったことにすると言った。でも、本当はあなた自身が生きたかった。死にたくなかった。時坂くんと離れ離れになりたくなかったのでしょう?」
「それは……」

 アスカに内心を見透かされ、シオリは戸惑いを見せる。
 シオリの死にたくない、生きたいという想いが〈紅き終焉の魔王〉を呼び寄せた。
 彼女にとって魔王の存在は、最後の希望だったのだろう。それを間違いだとは言わない。

「生きたいと願うのは人なら当然のことよ。大切な人と離れたくないと思うのは自然なこと。さっきから話を聞いていると、あなたは自分がシオリではない。化け物だと思っているようだけど、あなたにはちゃんと人間の心がある」

 アスカはシオリの想いを否定しない。彼女の願いは当然のものだからだ。
 このことだけは、最初にはっきりとさせておきたかった。でないと、きっとシオリもコウも後悔をすることになる。

「私、私は……」

 困惑の表情を見せ、額を抑えながら後ずさるシオリ。アスカは自分の出番は終わったとばかりに、コウへと視線を向けた。
 アスカの視線に気付き、僅かに逡巡するとコウは覚悟を決める。ここまでお膳立てをされて結果をだせないようでは、それこそなんのためにここまで来たのか分からなくなる。だからこそ、コウも胸の内をさらけ出す。
 ずっと認めることの出来なかった自分の弱さを、皆への感謝を、シオリへの想いを、ありったけの気持ちを込めて言葉にする。

「シオリ!」
「コウ……ちゃん……」
「お前を失った喪失感から、ずっとバイトに逃げてた俺が言うのもなんだけどよ。齟齬だとか矛盾だとか、そんなことを言われても、この十年間お前と一緒だった時間まで嘘になるとは思わない」
「でも……私は皆を……コウちゃんを騙してたんだよ? そもそも私は本物のシオリですらない」
「でも、じゃない。偽物も本物もあるかよ! 俺が知っているのは、いつも他人のことばかり心配して自分のことなんて二の次で、毎朝家にまで起こしにきてくれるバカみたいに世話好きな幼馴染みの女の子だけだ」

 この十年、確かにシオリは嘘を吐き続けてきたのかもしれない。しかし、彼女と過ごした時間までもが嘘になるとは思えなかった。

「リョウタの奴、いつも羨ましがってたの知ってるだろ? ほんと俺には勿体ないくらいの良く出来た幼馴染みだよ。お前は――」

 確かにシオリはいたのだ。皆の記憶の中に、コウの心の中にシオリは生きていた。
 偽物も本物もない。大切なのは一緒に育んできた思い出だ。

「だから、偶には我が儘を言っていいんだ。甘えていいんだよ」

 コウは胸の内に溜め込んでいた感情を吐き出す。
 シオリの優しさにずっと甘えてきた結果がこれだ。なのにシオリはいつも笑顔で何一つ我が儘を口にしなかった。
 自分が情けなくて仕方がない。結局は自分の弱さが招いた種だとコウは思う。

「シオリが俺のために、そうしてくれたように何か方法があるはずだ。だから――」

 だから今度は俺の番だ、とコウは決意を顕にする。
 異変を止めるために、世界を変えさせないためにシオリを殺す? そんなことが出来るはずがない。
 シオリが泣いているのなら手を差し伸べてやりたい。生きたいと願っているのなら共に助かる道を探してやりたい。ただ、それだけのことだ。
 シオリがそうしてくれたように、大切な幼馴染みのために出来ることをしてやりたい。そう考えるのは当たり前のことだった。

「コウちゃんだもんね。昔っから、ずっとそう……」

 気が弱く引っ込み思案だったシオリにとって、いつも手を引っ張って外に連れ出してくれるコウは幼い頃からずっとヒーローだった。
 何をするにも一生懸命なコウを見ているだけで勇気を貰えた。もし自分が強く見えるのだとしたら、それはコウのお陰なのだとシオリは思う。コウが傍に居てくれたから頑張れたのだ。
 本当は辛かった。皆を騙して嘘を吐き続けることが苦しかった。そんな自分が生きたいと願っても、コウに甘えてもいいのだろうかとシオリは自問する。でも、そんなことを聞けば、きっとコウはこう言うだろう。――当たり前だろ、って。
 だからシオリは何も言えなかったのだ。コウの負担になるくらいなら黙って消えるつもりだった。なのに、アスカはそれを許してはくれなかった。
 ――ほんと酷いよ。柊さん、とシオリはアスカを見て苦笑する。

「あ……」

 その時だった。ドクン、とシオリの胸が脈打つ。
 ああ、そうか――と自分の身に何が起きたかを理解するシオリ。
 希望は一瞬にして絶望へと変わる。そんなに上手い話があるはずもなかった。
 ソウ、ワタシハ、皆ヲ騙シ続ケテイタノダカラ――

「シオリ!?」
「ダメ……コウちゃん……近づい……ちゃ……」

 苦しそうに胸を押さえるシオリに駆け寄ろうとするコウ。だが、そんなコウの行動をシオリは止める。

「ああ……なんでだろうな、私……いつも大事なところで失敗しちゃ……」

 自業自得と思いながらも、シオリの頭に過ぎったのは後悔だった。
 結局、コウを悲しませてしまう。こんなことになるくらいなら、希望を抱かなければよかったとさえ思う。
 シオリの心が絶望に染まった瞬間、紅い風が彼女を中心に吹き荒れた。

「シオリ――ッ!」

 風と共に空高く浮かび上がるシオリ。そんなシオリを追って、コウは空に向かって手を伸ばし名前を叫ぶ。
 緋色の空が新たな魔王の誕生を祝福するかのように輝き、黄昏の光が地上に降り注いだ。



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