「この島からは――〈始まりの地〉とよく似た力の気配を感じますもの」

 不意を突かれて目を瞠るリィンに、ベルは微笑みを返す。
 始まりの地。レプリカなら、リィンはリベールの大聖堂の地下で見たことがある。
 だが、恐らくベルが言っているのは――

「それは法国にあるオリジナル≠フことか?」
「ええ、各国の大聖堂にある紛い物などではなく、本物の〈始まりの地〉のことですわ」

 リィンは実際に目にしたレプリカのことを思い出す。
 リベールの大聖堂にある〈始まりの地〉のレプリカは、結界の内部を異界化することで外と隔離された空間を作りだすものだった。
 アーティファクトの封印に用いられるとの話から、仮に暴走を引き起こしても大聖堂の外にまで被害が及ばないように設計されているのだろう。
 実際リィンが全力をだしても、その余波に耐えるだけの強度を見せたのだ。
 しかし、ベルはそれを紛い物≠ニ評した。本来の〈始まりの地〉は、レプリカとはまったくの別物と言うことだ。

「あれが紛い物ね……具体的にオリジナルはどう言うものなんだ?」
「〈始まりの地〉とは女神が最初に降り立ち、摂理を築いた場所。世界のすべてがそこにあると言われている神域ですわ」

 女神が最初に降り立った場所というのは理解できる。
 しかし摂理を築いたとか、世界のすべてがそこにあるとか、抽象的な言葉にピンと来ずリィンは首を傾げる。
 そんな様子を見て、ベルはリィンにも分かり易い例えを口にする。

「例えるなら、ありとあらゆる願いが現実になる場所≠ニ言った方が分かり易いですわね」

 ベルの説明で、ふとリィンの頭に浮かんだのは〈碧の大樹〉だった。
 七耀脈を通じて世界そのものと繋がることが出来る神樹。
 因果律を操作し、歴史に干渉することで現実を組み替える≠アとが可能な〈零の至宝〉。
 その二つの力を合わせることで、嘗てマリアベル――ベルは望むままに歴史を改変しようと目論んだことがあった。
 ありとあらゆる願いが現実になると言うことは、それと同じようなことが出来るのではないかとリィンは考え、ベルに尋ねる。

「〈零の至宝〉のようなことが出来ると?」
「それ以上と思って頂いて構いませんわね。あれは元々、女神から世界を解放することを目的に造り上げたものですから――」

 ――上手くは行きませんでしたけど。
 と、ベルは肩をすくめる。
 女神が地上に降臨しなかった世界。人々に至宝を与えなかった世界。
 歴史を改変し、そうしたもしも≠現実とすることで、ベルは世界を女神の敷いた摂理から解放しようとしたのだ。
 だが、それは叶わなかった。

「〈碧の大樹〉に出来たのは限定的な歴史改変だけでした。女神そのものに影響を及ぼし、世界を造り変えるような事象改変は叶わなかった」

 当然と言えば、当然だった。
 至宝を生み出したのが女神であるなら、その至宝もまた女神の作った摂理(ルール)のなかにあると考えるのが自然だ。
 だからベルは〈零の至宝〉に見切りを付けた。
 至宝の力では、世界を女神の摂理から解放することは出来ないと分かったからだ。

「その言い方だと〈始まりの地〉ならそれが出来ると?」
「ええ、その通りですわ」

 はっきりと断言するベルを見て、リィンの頭にふとした疑問が過ぎる。

「なら、なんで七耀教会はその力を使わないんだ?」

 始まりの地が〈零の至宝〉よりも凄い力を持っているというのなら、教会は自分たちの思うように世界を造り替えることが出来るはずだ。
 しかし七耀教会は確かに強い権勢を振ってはいるが、敵がいないと言い切れるほど絶対的な組織と言う訳ではなかった。
 そんなリィンの疑問に対して、

「〈始まりの地〉は不可侵の神域。〈導力ネット〉で例えるなら管理者権限を持つ者しか入ることが出来ない制御室のようなものです。〈空の女神(エイドス)〉自身か、彼女から権限を譲り受けた者しか、その中枢に足を踏み入れることは出来ないのですわ。そして肝心の女神は権限を誰かに譲渡する前に姿を眩ませましたから……」

 ――使わないのではなく使えないから、とベルは答える。
 それに対してリィンは、なんとも言えない複雑な表情を浮かべる。

「……要約すると、鍵を持ったまま管理者が行方を眩ませた結果、誰もその制御室に入れなくなったってことか?」
「まあ、有り体に言うとそういうことですわね。それに〈始まりの地〉には世界の歪みを調整する機能もありますから。世界からマナが失われつつあるのは、管理する者がいなくなった弊害だと思いますわ」

 微妙な空気が二人の間に漂う。
 事実は小説よりも奇なりと言うが、世界が滅びようとしている原因が女神のうっかり≠ノよるものだとは思いもしなかったからだ。
 仮にわかっていてやっているのだとすれば、相当に性格が悪い女神と言うことになる。
 それだけが理由ではないだろうが、ベルが〈空の女神〉を敵視するのも分からなくはない話だった。

「結局は〈空の女神(エイドス)〉を見つけない限りは、問題は解決しないってことか……」
「そうとも限りませんわよ?」

 何故か、ベルに意味ありげな視線を向けられ、リィンは嫌な予感を覚える。
 そもそもベルはどうして寝返った? リィンに取り引きを持ち掛けたのは何故か?
 それはリィン自身が一番よくわかっていることだ。
 リィンの中に眠る力。そこに〈零の至宝〉に代わる希望を見出したからに他ならない。

「お前、まさか……」

 零の至宝によって改変された歴史。現実を組み替えることによって生まれた矛盾。
 世界に生じた歪みを修正するために、世界の意志――修正力とでも呼ぶべき存在が原因を排除するために転生させたのがリィンだ。それだけに彼だけが持つ能力は、女神の至宝すら消滅させる強大な力を秘めている。いや、至宝を消し去る能力と言うのは正しくない。〈外の理〉へと通じる異能≠打ち消し、不滅の魂を持つ神≠ウえをも討滅≠オうる黄金の炎。それが――〈王者の法(アルス・マグナ)〉だ。
 その力を行使すれば〈始まりの地〉に満たされた女神の力だけを取り除き、リィンが新たな管理者となることも不可能ではないとベルは考えていた。
 謂わば〈空の女神〉に代わる〈新たな神〉として世界に君臨できると言うことだ。

「お察しの通りですわ。世界の歪みを正すという本来の力の使い方も出来て、一石二鳥ですわね」

 と、しれっと問題発言を口にするベルに、リィンは目眩を覚える。
 そもそもの原因は人間に至宝を与えておきながら、身勝手に姿を消した女神にある。
 その女神の行いを正すのだから、力の使い方としては間違っていないとベルは言いたいのだろう。
 だがそんな真似をすれば、女神を信仰する七耀教会が黙っているはずもない。
 いや、このことが知られるだけでもまずい。最悪、教会との全面戦争になりかねないほど厄介な話だった。

「……却下だ。リスクが大きすぎる」
「無理強いをするつもりはありませんし、それならそれで構いませんわ」

 こんな話をしておきながら、あっさりと引き下がったベルをリィンは訝しむ。

「現状では、世界を滅亡から救える唯一≠フ手段であることは何も変わりませんもの」

 世界を造り替える力があると言うことは、マナの減衰によって滅びに向かう世界を修正することも可能と言うことだ。
 ベルがどうしてこんな話をしたのかを察して、リィンは苦い表情を浮かべる。
 仮にリィンが女神の捜索を諦め、世界の滅亡を受け入れたとしてもベルは何も困らない。
 世界の意志によって生まれたリィンの存在そのものが、至宝の存在を――それを生み出した女神の存在を否定する。
 その時点で、ベルの望みは半ば叶っているとも言えるからだ。
 ましてや、人々に至宝を与えることで現実世界に楽園を築こうとした女神。
 そんな女神が愛した人間たちが等しく滅びを迎えると言うのなら、ベルは黙ってその時を待つはずだ。

「……歪んでるな」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」

 ベルの悪巧みを現実にしないためにも、何がなんでも〈空の女神〉を見つける理由が出来た。
 しかも、その〈始まりの地〉とよく似た力の気配が、この島からは感じられるとベルは言ったのだ。

(出し惜しみをしている場合じゃないかもな……)

 最悪、騎神の使用を含めて全力をだす必要があると考え、リィンは腹を括るのだった。


  ◆


 ――翌日。
 東の探索を終えたリィンたちは、セイレン島南部の探索を開始した。
 密林地帯が広がる東部と異なり、島の中央から南部に掛けては見晴らしの良い景色が続いていた。
 海岸線沿いに半日ほど歩いたところで、シャーリィが何かに気付いた様子で足を止める。

「……リィン、気付いた?」
「ああ、血の臭いだな」

 潮の香りに混じって微かな血の臭いがするのを、リィンとシャーリィは感じ取る。
 獣同士の縄張り争いか、或いは――近くで大規模な戦闘が行われていることは間違いなかった。

「先に行くね」

 風の向きから大凡の方角に見当を付けたシャーリィは、断りを入れて一足先に飛び出す。
 言うや否や砂を巻き上げ、瞬く間に見えなくなるシャーリィ。
 そんな彼女の背中を呆然と見送るグリゼルダに、リィンは声を掛ける。

「ついて来られそうか?」
「大丈夫だ……と言いたいが、あのスピードは……」

 リィンがシャーリィと一緒に飛び出さなかったのは、グリゼルダがついて来られないとわかっていたからだった。
 確認の意味を込めて尋ねるが、返ってきたのは予想通りの答え。
 この場にグリゼルダを置いていくわけにもいかず、リィンは逡巡する。
 そして、

「な、何を!?」
「時間が惜しい。じっとしてろ」

 グリゼルダを両腕で担ぎ上げると、リィンは大地を蹴った。
 物凄い速さで遠ざかる景色。大凡、人間一人を抱えて走っているとは思えないほどの速度でリィンは疾駆する。
 一方で、グリゼルダはそれどころではなかった。

(これはまさか、侍女たちが以前話していた!?)

 お姫様抱っこという言葉が、グリゼルダの頭に浮かぶ。
 思考が纏まらず、頬が紅潮する。こんな風に異性に抱かれたのは、生まれて初めての経験だった。
 そんなグリゼルダの動揺に気付いた様子もなく、リィンは既に見えなくなったシャーリィを追い掛ける。
 シャーリィが後れを取るとは思っていないが、段々と濃くなっていく血の臭いに自然と顔が強張る。

「一気に駆け上がる。舌を噛むなよ」

 そう注意を促すと、リィンはグリゼルダを抱えたまま見上げんばかりの巨大な岩壁を駆け上がる。
 リィンたちが強いことは理解していたつもりだった。それでもまだ認識が甘かったことを、遠ざかる景色に目を奪われながらグリゼルダは気付かされる。
 人間の域を超越した身体能力。それはもはや腕が立つ≠ニいった簡単な言葉で表せるものではなかった。

「この下か」

 岩壁の上に辿り着くと、リィンは鋭い双眸を眼下に向ける。
 肉が焼けるような香りに混じって、血の臭いが辺り一帯には充満していた。
 思わず手で口元を押さえ、顔をしかめるグリゼルダ。
 二人が向ける視線の先には――

「あ、リィン! お肉ゲットしたよ!」

 血に塗れた姿で、元気に手を振るシャーリィの姿があった。


  ◆


 腰を回転させ、捻るように放った細剣の鋭い一撃が、狼の姿をした獣を斬り裂く。
 だが、彼女の表情には余裕がない。
 ブロンドの髪は土埃で色あせ、呼吸が乱れ、額からは大粒の汗がこぼれ落ちる。
 度重なる連戦で、彼女の体力はとっくに限界を迎えていた。いまは気力でどうにか戦えているに過ぎない。
 倒せど倒せど、際限なく襲い掛かってくる獣の群れ。視界に入る獣の数だけでも、優に二十匹は超えている。
 次々に押し寄せる獣の数に手が足りず、防戦するので精一杯という状況に彼女たち≠ヘ追い込まれていた。

「ラクシャ、これ以上は無理だ! 一旦、退こう!」
「ですが、ここを抜かれたら、もう後がありません!」

 女性の名を呼ぶ赤毛の剣士。彼もまた苦しい状況に追い詰められていた。
 細剣を手にした貴族と思しき彼女の名はラクシャ。
 旅装束に身を包んだ赤毛の剣士の名はアドル。
 偶然、同じ船に乗り合わせ、同じ島に流れ着いた関係の二人。
 名前以外は互いのことをよく知っているわけではない。しかし、この半月。彼等は行動を共にしてきた。
 自分たちと同じ境遇の人たちを助け、協力して集落を作り、共に苦難を乗り越えてきたのだ。

 そして、そんな漂流者の村が彼等の後ろにはある。
 島へ流れ着いた者たちで身を寄せ合い、協力して築き上げた集落だ。
 だからこそ、ここで逃げる訳にはいかない。
 皆の居場所を守るためにも――と、ラクシャはアドルの声を無視して前へでる。
 だが、

「くッ!?」

 背後から忍び寄り、不意を突いた獣の一撃がラクシャの太股を掠め、鮮血を散らす。
 獲物を見定め、畳み掛けるようにラクシャに襲い掛かる獣の群れ。
 しかしそこにアドルが割って入り、闘気を宿した剣を一閃することで獣の群れを薙ぎ払った。

「前へ出過ぎだ。キミがここで倒れれば、それこそ後が無くなる。漂流村の皆を守るんだろう?」

 現在、アドルたちの集落は東西にある二つの出入り口から同時に獣の襲撃を受けていた。
 しかし実戦経験がある漂流者は、アドルとラクシャを含めても片手で数えるほどしかいない。
 だから東の守りに人手を割くため、たった二人でアドルとラクシャは西の守りを請け負ったのだ。
 だが、それも限界にきていた。獣の数が彼等の予想を大きく上回っていたからだ。
 せめて、獣と戦える仲間がもう一人か二人いれば……と思うが、考えても仕方のないことだとアドルは頭を振る。

「ラクシャ。キミは一旦下がれ」
「……すみません」

 アドルが前へでて、足に傷を負ったラクシャを一旦下がらせる。
 まだまだ獣の数は多いが、それでもラクシャと違い、アドルにはまだ幾分かの余力があった。
 彼は冒険家だ。命の危機に直面したことは一度や二度ではない。
 死と隣り合わせの状況で、何度も危機を乗り越えてきた経験と自信が彼を支えていた。
 だが海へ投げ出された際に装備を失い、現在は浜辺で拾った剣を使っていた。
 ロムンで鍛冶屋を営んでいるという漂流者の女性に鍛え直して貰ったとはいえ、元が錆びた剣だ。アドルの全力を受けきれる武器では決してない。

「この気配は――」

 そんな不利な状況のなかで、アドルは何かが近付いてくる気配を察知し、警戒を強める。
 獣の血を大量に吸った剣は切れ味が鈍くなり、既に限界に近い。いつ折れるかもしれない状態だ。
 そして体力も残り少ない。追い込まれていることに変わりはなく、これ以上の増援はアドルでも厳しいものがあった。

「影……まさかッ!」

 太陽の光を遮る巨大な影に気付き、空を見上げるアドル。
 視界に飛び込んできたのは、段差を利用して高台から飛び降りる巨大な獣の姿。
 それは以前、グリゼルダとサハドを襲ったのと同種の獣だった。

「この獣は……まさか、古代種!?」

 アドルの頭上を飛び越え、ラクシャの前に異形の獣が降り立つ。
 獲物を見定めるように鋭い双眸を向け、にじり寄るように異形の獣はラクシャとの距離を詰める。

「ラクシャ!」

 ラクシャの名を叫び、踵を返すアドル。
 だが狼の姿をした獣が群れと化し、そんなアドルの行く手を遮る。
 焦りを隠せない様子で、それでもラクシャのもとへ駆けつけようと剣を振るうアドル。
 そんなアドルを見てラクシャは、

「……わたくしなら大丈夫です。自分の戦いに集中してください」

 傷を負った足の痛みに耐えながらも剣を構え、強がって見せる。
 足手纏いになっている――その自覚がラクシャにはあった。
 冒険家なんて、ただの道楽に過ぎない。
 それは以前ラクシャがアドルに向けた言葉だ。

 しかし実際にはどうだ?

 アドルは強い。剣の腕が立つという単純な話ではなく、実戦慣れしているのだ。
 このような状況でも諦めるどころか、アドルにはまだ余裕がある。
 体力は限界に近いはずだが、それでも期待を抱かせる予感のようなものが彼にはあった。
 一方で自分はアドルの足を引っ張ってしまっている。そんな考えがラクシャのなかに渦巻く。
 それが悔しくて、情けなくて、こんな時でも素直になれない自分が嫌になる。
 本当は怖い。いますぐにでも逃げ出したいくらい身体は震え上がっている。
 それでも――

(アドルだって消耗しているはず。せめて一太刀――傷を負わせることが出来れば!)

 アドルに助けを求める訳にはいかなかった。
 アドルは最後の希望だ。ここで彼が倒れてしまえば、本当に何もかも終わってしまう。
 生きて島をでる。それが皆の共通の想いだと、ラクシャは信じていた。
 その希望を抱かせてくれたのが、アドルだ。
 せめて一太刀。勝利に繋げる一撃を、とラクシャは気力を振り絞る。

「はあああああッ!」

 ――ブリッツチャージ。
 渾身の突きを放つラクシャ。彼女がこれまでに放った突きのなかでも間違いなく最高の一撃。
 獣の急所を狙った一撃は光の軌跡を描き、真っ直ぐに吸い込まれていく。
 しかし、

「……そんなッ!?」

 獣の身体を貫くどころか、砕け散ったのはラクシャの武器の方だった。
 ゼムリアストーン製の武器でも、闘気込めなければ切り裂けないほどの強度を誇る鱗。
 そこに加え、度重なる連戦で武器の耐久値も限界にきていたのだろう。
 呆然とした表情で、その場に膝をつくラクシャ。
 もはや逃げるどころか、立ち上がる力すら彼女には残ってはいなかった。
 そんな彼女に容赦なく迫る巨大な顎。もはや絶体絶命に思えた、その時。

「え?」

 ラクシャの口から驚きの声が漏れる。
 目の前で一瞬火花が散ったかと思えば、その直後、獣から噴き出した血飛沫が視界を覆ったからだ。

「……喰い足りない」

 大地に転がる異形の頭。獣の背にはアドルと同じ赤い髪の少女が悠然とした姿で立っていた。
 鮮血が舞う光景の中で、異様な存在感を放つ巨大な武器を肩に担ぎ、少女は怠そうな声を漏らす。
 ――シャーリィ・オルランド。〈血染め〉の異名を持つ少女は、屍と化した獣の背から戦場を俯瞰するように眺めると――

(な、に……)

 空間が凍り付くかのような殺気を放った。
 濃密な死の気配が戦場を支配する。一秒が一分にも一時間にも感じられる長い静寂。
 次の瞬間、赤い風がラクシャとアドルの横を通り過ぎたかと思うと――
 一閃、再び鮮血が舞った。

「お腹一杯になるまで、シャーリィを愉しませてよねッ!」

 シャーリィの武器〈テスタ・ロッサ〉に仕込まれた七耀石(セプチウム)が火を噴き、放たれた炎が獣の群れを呑み込み、戦場を紅く染める。

「か……はッ!」

 肺の中に溜まった空気を絞り出すかのように息を吐き、ラクシャはその場に蹲る。
 ポタポタと顔の輪郭を伝って地面にこぼれ落ちる大粒の汗。
 顔を上げると、

「アハ……アハハハハ! もっと、もっとシャーリィを愉しませてよッ!」

 そこには炎の海のなかで舞うように殺戮を愉しむ悪魔≠フ姿があった。

「ラクシャ!」
「アドル……気を付けてください。彼女は……」

 人間の姿をしてはいるが、同じ人間には見えない。
 悪魔――陳腐ではあるが、そんな言葉がラクシャの頭に過ぎる。

「まだ、ちょっと足りないかな……」

 僅か数分の出来事。あれだけいた獣がたった一人の少女に殺し尽くされていた。
 すべての獣を屠り、それでも満ち足りない様子で空虚な表情を浮かべるシャーリィ。
 そして、ようやくアドルとラクシャに気付いた様子で、シャーリィは視線だけを二人へ向ける。

「――ッ!?」

 シャーリィと目があった瞬間、アドルは何かを感じ取った様子でラクシャを庇うように前へでた。
 そんなアドルを見て、先程までとは打って変わって楽しげな笑みを浮かべるシャーリィ。

「いいね。お兄さん、凄く美味しそう」

 シャーリィは唇に舌を這わせながら、狂気に満ちた目をアドルへ向ける。
 数多の冒険に身を投じ、幾つもの危機を乗り越えてきたアドルでさえ、死を予感させる気配。
 互いにその場から一歩も動かず、出方を窺うように視線を合わせるアドルとシャーリィ。
 どちらから攻撃を仕掛けても不思議ではない。まさに一触即発と言った状況にラクシャも息を呑む。
 だが、何かに気付いた様子でシャーリィが視線を外すと、

「あ、リィン! お肉ゲットしたよ!」

 一転して、場を支配していた濃密な死の気配が霧散するのだった。



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