「人間を怪異に変える薬……そんなものがあるなんて……」
リィンからグノーシスについて説明を受けたアスカは深刻な表情を見せる。
まさか、そこまで危険な薬だとは思ってもいなかったからだ。
想定を超える事態に戸惑うアスカに、あくまで可能性の話だとリィンは強調する。
「まだ〈HEAT〉が俺の知っている薬だと決まった訳じゃない。効能自体は似ているが、プレロマ草が見つかった訳でもないしな。それに――」
グノーシスには二種類の薬がある。
人間を悪魔――この世界では怪異と呼ばれている異形の存在へと変える赤い薬と、幻覚作用とドーピング効果だけの青い薬の二種類が――
恐らく出回っている薬は、後者の青い薬の方だとリィンは考えていた。
少なくとも、いまのところ人間が怪異に変化したという情報は出回っていないためだ。
だから楽観は出来ないが、差し迫った脅威がある訳ではないとリィンは説明する。
それよりも問題は――
「仮にグノーシスだとして、誰がこの薬を作ったのかが問題だ」
「それって……」
アスカも気付いたのだろう。
HEATの正体がグノーシスだとすれば、リィンの世界にしか存在しないはずの薬の作り方を知る者がいると言うことだ。
それは即ち、リィンとシズナ以外にも、この世界に異世界からやって来た人間がいる可能性を示唆していた。
いや、人間ではないのかもしれないが、とリィンは心の中で呟く。
マクバーンのような例がある以上、可能性がゼロとは言えないからだ。
「どうかしたのか?」
「いえ……リィンさんやシズナさんみたいな敵が潜んでいる可能性があると聞くと……」
思い詰めた表情のアスカが気になって尋ねると返って答えに、そういうことかリィンは苦笑する。
確かに、そう言った可能性がない訳ではなかった。
実際、マクバーンのような存在が黒幕だった場合、いまのアスカでは相手にならないだろうからだ。
いや、アスカどころかリィンとシズナ以外では、まともに相手にならないだろう。
「安心しろ。その時は、俺たちが相手をする」
とはいえ、リィンも他の者に任せるつもりなど最初からなかった。
シズナなら嬉々として強敵との戦いを楽しむのだろうが、それ以外にもリィンには気になることがあったからだ。
グノーシスを調合できると言うことは、〈教団〉の関係者である可能性が高い。
D∴G教団。通称〈教団〉は、ゼムリア大陸で広く信仰される〈空の女神〉の存在を否定し、真なる神――Dを崇拝するカルト集団だ。
その歴史は古く、五百年前まで溯る。
当時のクロスベル自治州の有力者たちと錬金術師たちの手によって〈教団〉は創設された。
女神を否定し、真なる神を崇めることで新たな秩序と叡智を追い求めようとしたのだ。
この錬金術師と言うのが、七の至宝の一つ〈幻の至宝〉を女神より託された一族の末裔――クロイス家だった。
クロイス家の目的は、失われた〈幻の至宝〉の復活。
即ち〈教団〉の崇める神とは、クロイス家が妄執の果てに生みだした〈零の至宝〉――キーアのことだった。
現在はリィンに新たな名を与えられ、ノルンと名乗っているが、彼女が〈教団〉の信仰する神であるという事実は変わらない。
だからこそ、リィンは〈教団〉の生き残りを見逃すつもりはなかった。
ノルンのことを知れば、再び彼女を利用しようと企んでも不思議ではないからだ。
いや、確実にそうなるであろうという確信があってのことだ。それに――
(〈教団〉なら容赦をするつもりはない。奴等には、個人的な因縁もあるしな)
リィンが〈教団〉を捨て置くことが出来ない理由。それは、過去の因縁が関係していた。
だからこそ、分かるのだ。〈教団〉にいた人間に更生の余地など存在しないと――
あるのは狂気とも言える神への執着と、貪欲なまでの真理の追究だけで、善意や良心などと言うものは一欠片も持ち合わせていないからだ。
同じ人間だと思う方が間違っている。だから――
「一つだけ忠告しておいてやる。もし、俺の思っている通りの相手なら、人間ではなく怪異だと思って躊躇うな」
もしもの時のことを考え、アスカに注意を促すのだった。
◆
「なに物騒な話を二人でしてるのよ」
丁度、話が一段落したところで、料理の皿を両手に持ったレイカが姿を見せる。
「良い匂いがすると思ったら、ピザを焼いていたのか」
「アオイさんに教わりながらね。ユウくんの好物らしいわよ」
ピザが好物と聞いて、ソバカスがチャームポイントの少年がリィンの頭に過る。
ユウキと同じくプログラミングやハッキング技術に長けた少年、ヨナのことが――
自称、天才ハッカーと言うのは、ピザやコーラが好物なのは世界が違っても共通なのかと思ったからだ。
「ユウくんって呼ぶな。姉さんも、変なことを教えないでくれ」
ピザの匂いに釣られたのか? ユウキも姿を見せる。
眠たそうな顔をしているのはいつものことだが、今日は少し違っていた。
リィンが訪ねてきてから、既に三時間が経過している。
その間ずっと部屋に籠もって、リィンから頼まれた情報の蒐集に勤しんでいたのだ。
「その様子だと、そっちも一段落したみたいだな」
「まあね。僕に掛かれば、このくらい造作もないさ。まあ、ちょっと手こずったけど……」
だろうなと、ユウキの話を聞きながらリィンは納得する。
幾らユウキが天才的なハッカーだとしても、プレロマ草の情報は簡単に掴めないと思っていた。
仮に収穫がなかったとしても、ユウキを責めるつもりはなかったのだ。
だが、
「いま、そっちの端末に情報を送った」
リィンの〈ARCUS〉がピコンと着信を告げる音を響かせる。
ユウキから送られてきたデータを受信したのだろう。これが、ユウキの凄いところだった。
リィンが〈ARCUS〉を彼に見せたのは一度だけ。だが、その一度で〈ARCUS〉の構造を理解して、この世界の端末〈サイフォン〉と通信やデータのやり取りが可能なアプリを開発してしまったのだ。
自分で自分のことを天才と言うだけのことはある。
リィンが仕事のパートナーとしてユウキのことを認めているのは、その腕を高く評価しているからだった。
「もう、調べ終わったの? あなた本当に優秀なのね」
「優秀じゃなく天才なんだよ。そこ、間違えないで欲しいね」
「ほんとに生意気なガキね……」
ユウキを睨み付けるレイカだが、口だけではないという点は認めているのだろう。
実際、写真と名前くらいしか手掛かりはなかったのに、僅かな時間で情報を集めて見せたのだ。
その手腕は、たいしたものと言える。
「リィンさん? どうかされたのですか?」
険しい顔で端末を覗き込むリィンを見て、アスカは尋ねる。
ユウキから受け取ったデータを確認しているのだと思うが、こんな顔のリィンを見るのは初めてだったからだ。
どことなく戸惑いの色が見える。
「これは……教会?」
アスカとレイカにも見えるように、リィンは端末をテーブルの上に置く。
画面には古い教会が映っていた。すぐに、その教会が聖霊教会のものであるとアスカは気付く。
円環に十字架を合わせた聖霊教会のシンボルが、建物の中央に飾られていたからだ。
「街外れの教会で、戦後すぐに建てられたものらしいよ。で、そこに街の不良たちが出入りしている形跡がある」
「そんなこと、どうやって……」
「監視カメラの映像を辿ったに決まってるじゃん」
返ってきた答えに、なんとも言えない顔になるレイカ。
まったく悪びれる様子もなく、堂々と監視カメラをハッキングしたと言われたら反応に困るのも当然だった。
「教会が、薬を流通させているってこと? そんなこと……」
信じられないと言った反応を見せるレイカだが、一方でアスカは深刻な表情を見せる。
もし、今回の件に〈オルデン〉が関わっているのだとすれば、ありえなくもないという考えが頭を過ったからだ。
「そこまでは分からない。だけど、こっちの画像。これ、似てると思わない?」
別の写真には、花壇が映っていた。
教会の敷地内で撮ったものだと思われるが、植えられている花が確かにプレロマ草に似ているように見えなくもない。
しかし、リィンが気にしているのは、聖霊教会が関与していることでも花のことでもなかった。
「ここに映っている人物。教会の司祭で間違いないんだな?」
「ああ、半年ほど前に赴任してきたらしいよ」
ユウキが集めた写真の中に、教会の前で子供たちと写真を撮る司祭の姿があった。
笑顔が似合う優しげな男性で、歳の頃は三十半ばくらいと言ったところだろうか?
だが、リィンはその男を見て――
「こいつは、ヨアヒム・ギュンター。〈教団〉の研究者……グノーシスの開発者だ」
そう答えるのだった。
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