空が歪んでいた。
 迷宮の最奥、ボスを討ち果たしたその瞬間、あたりの空間が急速にひび割れて、光が捻れ、床が砕け、出口へと押し出された。
 戻ってきたのは、さっきまで迷宮のゲートが開いていた街の裏通り。
 その、今は何もない地面の上に、シオは大の字で仰向けに倒れていた。
 呼吸は荒く、筋肉は鉛のように重く、瞼の奥がじんじんと焼けるように痛む。
 とても起き上がれる状態ではない。だが――その耳に、陽気な声が届いた。

「フフ、やれば出来るじゃないか」

 あの声だった。
 視界を動かす力さえ出ず、首も向けられずに、シオは仰向けのまま唇だけを動かした。

「スパルタにも程があるだろ……殺す気か……」

 とろけそうな体で、絞り出すように言葉を吐く。
 答えたのは、いつもの調子の、悪びれない一言。

「でも、生きているよね?」

 ああ、やっぱり通じない――
 シオは、何かを諦めたように目を閉じ、長いため息を吐いた。
 やがて、少しずつ上体を起こす。腕が震え、膝も言うことを聞かない。
 地面に手をつき、ようやく立ち上がった彼の前で、シズナは嬉しそうに笑っていた。

「それじゃ、次の獲物を探しにいこうか」

 その台詞に、シオは絶句する。

「……鬼か」

 まともに歩くのも厳しい状態で、信じられない言葉を口にする。
 シズナのスパルタを通り越した虐待に、完全にシオは引いていた。
 強くなりたいと言ったのは自分だし、実際に強くなっている自覚もある。
 しかし、こんな特訓を続けていたら、いつか本当に命を落とす。
 シズナを説得する方法をシオが考えていた、その時だった。
 近くの路地裏――薄暗いコンクリートの奥から、複数人の声が聞こえてくる。
 シオは反射的に耳を傾けた。シズナも歩みを止め、気配を察知してそちらを見る。

「……準備がようやく整ったんだな」
「ついに〈ケイオス〉に復讐する時が来たってわけだ。奴らの居場所も割れてる」
「アキヒロも本気だ。例の件で、背中を押されたようなものだからな。まさか、あの人が……」

 シオの目が鋭くなる。
 〈BLAZE〉のメンバー――アキヒロについていった連中だ。
 そう悟った瞬間、いてもたってもいられなくなり、

「どういうことだ!」

 思わず声を張り上げ、物陰から飛び出していた。
 不意を突かれた男たちが、一斉に振り向いた。

「て、てめえは!?」

 戸惑い、焦り、そして警戒。
 その肩のひとつに、突然すっと細い手が乗せられる。

「その話、詳しく聞かせてくれるかな?」

 男たちの後ろに、シズナが笑顔で立っていた。
 空気が凍りつく。動けなくなる男たち。視線が交差する。
 シオは、内心で呟いた。
 ――そういや、こいつがいたんだった……。
 最も話を聞かれてはいけない厄介な人物に興味を持たれたことに、シオは不良たちに同情するのだった。


  ◆


「き、きた!」

 焦りと期待が混ざったような声を上げ、ユウキが道路に飛び出した。
 そんなユウキを見て、リィンはブレーキを踏みながら軽く眉をひそめる。

「遅い! なにやってたんだよ!?」

 怒気混じりに怒鳴るユウキ。
 その額には焦燥の汗が浮かび、目には切迫した色が滲んでいた。
 車を降りたリィンが低い声で答える。

「少しは落ち着け」
「この状況で落ち着いていられる訳がないだろう!? 姉さんが、姉さんにもしものことがあったら僕は……」

 言葉を詰まらせ、肩を震わせるユウキ。
 俯いた姿は、見慣れた生意気さのかけらもなかった。
 その様子に、リィンは黙って横へ視線を流す。代わりに口を開いたのはアスカだった。

「詳しく事情を聞かせてくれる?」

 落ち着いた声色だった。
 ユウキを刺激しないよう、静かに告白を促すような声音。
 自分が問い詰めるよりも、こういうのはアスカの方が適任だとリィンは考えたのだろう。
 その気遣いにユウキも気付き、少しだけ顔を上げて話し始めた。

「あの後、もっと他に情報がないかと思って、グノーシスや教会について調べていたんだ。そしたら、こんなメールが届いて……」

 握り締めたサイフォンを差し出すユウキ。
 画面には、一通のメッセージが表示されていた。

 ――お前の家族は預かった。無事に帰して欲しければ、この件から手を引け。

 その文章を一読しただけで、空気が張り詰める。

「そのメールを見て、家の中を探したんだけど姉さんの姿がなくて……。電話しても出なくて……」

 ユウキの声は震えていた。
 サイフォンにでないことから姉の職場だけでなく実家にも連絡し、それでも消息が分からなかったとユウキは言う。
 メールの発信元を追ったものの、海外のVPNを複数経由した痕跡があって、結局分かったのは「この街から送られた」ということだけだったらしい。

「そこまで辿れただけでも凄いと思うけど……」

 レイカが小さく呟いた。
 あらためて、ユウキのハッキング技術に感心したのだろう。
 半分、呆れのようなものもまじっているのかもしれないが――
 しかし、リィンの反応は違った。
 画面から視線を上げたその瞳には、冷たい光が差していた。

「リィンさん、これって……」

 アスカが問いかけると、リィンは短く答えた。

「ああ、十中八九。教会――いや、あの男の仕業だろうな」

 あの男。
 その言葉が誰を指しているのか、この場で分からない者は一人もいない。
 ――ヨアヒム・ギュンター。聖霊教会の司祭だ。

「まさか、こういう手でくるとはな」

 リィンの声は低く、静か。
 だが、漂う気配は――剣呑な雰囲気を纏っていた。
 寒気に似たものを感じて、アスカの肩がぴくりと震える。
 レイカも目を細める。アスカのように特別な訓練を受けていると言う訳ではないが、リィンが怒っているということくらいは分かるのだろう。

「それで? 助けに行くのよね」

 レイカの一言に、全員の視線がリィンへ集まる。
 リィンは短く、強く答えた。

「当然だ。これは、あの男を甘く見た俺のミスでもあるしな。それに――」

 その続きは、言葉にならなかった。
 だが、目に宿った意志がすべてを語っていた。


  ◆


 緊迫した空気が、事務所の中に張り詰めていた。
 人質の安全を確保するのが最優先だと判断したリィンは、すぐに動くことはせず、ミツキに協力を求めたのだ。
 自分が動けば、ヨアヒムを刺激することになる。そうなれば、人質も無事では済まない可能性が高い。そう考えたのだろう。
 沈黙が続く中、リィンは無言のまま資料の整理を続けていた。
 その横で、ユウキが落ち着きなく歩き回っている。
 何度もサイフォンで時間を確認し、その度に溜め息を漏らす。

「……まだ、なのかよ」

 呟きには苛立ちと不安が混ざっていた。
 ユウキの焦りを察して、レイカがちらりと視線を向ける。
 何も言わないが、さすがに見かねた様子だった。
 やがて、机の上に置かれたサイフォンが小さく震える。
 リィンが画面に視線を送ると、表示されたのは――ミツキの名前だった。

『お待たせしました』

 皆にも聞こえるように、スピーカーモードで通信を繋げる。
 通話越しに聞こえてきたミツキの声は、いつも通り冷静なものだった。
 だが、その語尾には僅かな緊張が滲んでいた。

『教会に人をやって調べさせましたが、ヨアヒムの姿は確認できませんでした。それだけでなく、孤児院の方にも人の気配がなかったそうです。子供たちやシスターも、誰一人として消息が掴めていません』

 要点だけを絞った簡潔な報告。
 だが、その言葉は、予想以上に深刻な事態を示していた。

「子供たちとシスターも? それも、あの司祭の仕業なのかしら」

 レイカが口にすると、リィンが顔をしかめて答えた。

「だろうな。最初からヨアヒムの目的は、集めた孤児たちを使って〝実験〟することだったんだろう。いや、不良たちもまた、奴にとっては──実験動物(モルモット)に過ぎなかったんだろうな」

 その言葉に、アスカとレイカの目が見開かれる。
 サイフォンの向こう側でも、沈黙が走ったあと――ミツキが、震えた声で言う。

『……私たちの対応が遅れたせいで、この事態を招いてしまったのかもしれません。まさか、教会でこのようなことが行われていたなんて……』

 静かな語調の中に、自責の念が滲む。
 だが、すぐに声の調子が戻る。理解しているのだ。
 後悔を口にしたところで、状況が好転することはないと――

『ですが、今は最善を尽くすしかありません。必要であれば、〈アングレカム〉を動かす用意があります』

 ミツキの言葉に、アスカは目を瞠る。
 アングレカム――その名をよく知っているからだ。
 ゾディアックの実働部隊。ネメシスで言うところの執行者。聖霊教会で言うところの刻印騎士に相当するエリート部隊。まさに虎の子とも言える部隊だ。
 北都が、事態が重く受け止めている何よりの証だった。

「助かる。人質の救出までと考えると、俺たちだけでは手が足りそうにないからな」

 リィンがそう返事をした瞬間――サイフォン越しに、扉を開く音が聞こえた。
 直後、別の声が割り込む。

『お嬢様――』

 キョウカだった。
 ミツキの秘書。普段は冷静な彼女の声にも、緊張が混じっている。

『〈BLAZE〉が動きました。百人ほどの手勢を率いて、港湾区の倉庫へ向かっています。しかも――すでに、ケイオスのメンバーも現地に集まっているという報告があります』

 その言葉に、リィンの目が鋭くなる。
 全員の視線が彼へ集まり、静かな緊張が場を満たした。

『このタイミングで……いえ、恐らく偶然ではないのでしょうね。リィンさん、どうかお気を付けください』

 ミツキの言葉には冷静さと共に、現場へ向かう者たちへの重責が込められていた。
 リィンは短く頷き、声を落として言う。

「後のことは任せろ。あの男には必ず、ケジメをつけさせる」

 ――仲間に手をだした者に、容赦をすつるもりはない。
 どんな手段を使ってでも、ケジメをつけさせる。
 それが、猟兵としてのルール。
 リィン・クラウゼルが背負う、絶対の流儀だった。



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