小鳥の囀りが聞こえる。
もう朝らしい。
瞼の裏が眩くて、無理やり目をこじ開けようとしてくる様。


「ん……朝、か……?」


いつものように頭の近くに手を伸ばす。
目覚まし時計が鳴るよりも早く起きるため、先に止めておかないと煩くて仕方がない。
ただ、目覚まし時計なんかよりも、とびっきりの目覚まし要因が、今回はあった。


「……っ!」


思わず仁詭は飛び起きた。
一気に意識が覚醒し、周囲を見回す。

まず、そこは自分の部屋の中などではなかった。
草が生い茂る、なだらかな坂道。
坂を下りたところには、やけに水が澄んだ川が流れている。
見回しただけの情報でも、そこがフランチェスカの近くでないことはすぐに分かった。

大きく息を吸ってみる。
どうにも都会の空気とは違う、澄んだ空気。
俗に言う、おいしい空気と言う感じだ。


「(……………え?何がどうなってる?)」


とりあえず、色々と思い返してみる。
だが、どうにも昨日の夜の辺りから記憶が曖昧になっている。
コーチに愛想を尽かしながら、PCを弄っていたことは覚えているが、その帰り道の記憶は所々消えている。

誰かと出くわしたような感覚──
何か惹かれるものを見たような感覚──
ただ、その感覚がはっきりとしているわけでもない。
感覚は所詮、どこまで行っても感覚だった。


「どうするかなぁ……─────ん?」
「……………」


ここがどこか分からない以上、とりあえずどこかに行かなければならない。
そろそろ移動してみようかと考えていた矢先のことだった。


「えっと……何?」
「……………」


仁詭の顔を食い入るように見つめていた少女に、仁詭は漸く気がついた。
混乱していたとは言え、こんなに近くにいたのに気付かなかったというのも、なかなか鈍感なものである。

白、と言うよりは銀に近い色だった。
その色の髪が肩にほんの僅か届いていない。
先程まで泳いでいたのだろうか、その髪はぐっしょりと濡れている。
よく見れば、着ている衣服も──


「……………」


気がついて、仁詭はすぐに目を逸らした。
少女はそのしぐさの意味が分からず、小さく首を傾げている。

まぁ、仁詭の行動にも仕方のないこと。
少女の着ているものと言えば、胸と腰に巻かれた布のみ。
ここ最近の水着よりも、十分に煽情的な代物だ。
しかも水着のような役割を果たしていないのか、若干ながらも透けている。


「な、何か上を着てくれない?」
「……………?」


少女はここまで行ってもよく分かっていない様子。
このまま延々と続きそうなやり取りを察したのか、仁詭は自分の制服を少女に渡す。


「……………?」
「着て!とりあえずそれを着て!目のやり場に困──じゃない、冷えるだろ?」
「……………うん」


言い方を変えると、少女は素直に制服を着てくれた。
一段落し、仁詭は坂を下って行く。
そこまでの長さはないので、あっという間に川まで辿り着く。

寝起きで気持ちが悪かったのか、川の水で顔を洗う。
ついでに嗽もしてしまう。
犬のように顔を左右に振り、水を切る。


「……………」
「え?あ、あぁ……ありがと」


ふと肩を叩かれ振り返ると、少女が手拭いを持って立っていた。
どうやら使ってくれと言うことらしいので、有り難く使わせてもらう。
普段使っているタオルに比べると、随分と肌触りの悪いものだったが、貸してもらって文句を言うほど、仁詭も人が悪いわけではない。
素直に礼を述べ、その手拭いを少女へと返した。





──────────────────────────────────────────────────────────────────────────





「とりあえず、君に教えてほしいことが……そうだな、5つくらいはあるかな」
「……………」
「まずは名前、そしてここがどこなのか。一応、それだけでもいいから教えてくれる?」


少女はじっと、仁詭の目だけを見つめている。
だが、なかなか口を開こうとしない。
それが五分くらい続いただろうか。
業を煮やした仁詭が、若干苛立った口調で口を開いた。


「俺は、萩原仁詭。出身は大阪だが、生まれてすぐに東京に引っ越したから、こんな言葉遣いになってる。所属はフランチェスカ学園。空手部に入部してることも付け加えておく。初対面だからこれ以上言うこともない、だから次は君が──」
「あーーーー!」


仁詭の言葉は、突如響いた大声にかき消された。


「もう、こんなとこにいたのー?探したんだよ、希望(のぞみ)?」
「……………あ、優唯(ゆい)」


優唯と呼ばれた少女は、色んな意味で、希望と呼ばれた少女と違っていた。
髪は真っ黒で、恐ろしく長い。
腰を優に超えるほどの長さで、こちらもどういうわけか濡れている。

また、希望に比べれば、随分と背も高い。
恐らくは仁詭とそれほど変わらないのだろうが、すらりと伸びた手足が錯覚させる。
しかも、なかなかに豊満な胸にも、否が応でも目が行った。
……別段、希望がまな板だとか、そういう話ではない。


「あれ?希望、そんな服持ってたっけ?」
「……借りた」
「この人に?」
「……………うん」


見たことのない服装に、優唯と言う少女は不思議そうだった。
観察するように仁詭をまじまじと見つめ、急ににっこりと笑った。


「あなた、名前はなんていうの?」
「萩原仁詭、だけど……?君は?」
「私?私は吉法師。あっちの方にある、古渡城から来たんだけど……」
「…………………………え?」


思わず耳を疑った。
吉法師……それは、とある有名な人物の幼名。
この間、日本史の課題で取り扱ったばかりなので、鮮明に覚えている。


「優唯、違う……」
「え?……あ、そうだった。昨日元服したばっかりだったから、ついつい間違っちゃった」
「……つまりは、どういうこと?」
「昨日から私は、織田上総介信長!世界征服を目論む、魔王なのだ!」


右手は天を指し、左手を腰に当て、その少女──織田信長は叫んだ。
頭の痛くなっている仁詭を、ほぼ放置した状態で……





──────────────────────────────────────────────────────────────────────────





「……で、君が織田信長。そっちの君は、松平竹千代ってことでいいんだよね?」
「そうそう!一発で名前覚えちゃうなんて、あなたも結構すごいじゃん!」
「いやぁ、そりゃ、ねぇ……」


何かの冗談だと信じたい。
こんな煽情的な恰好をした二人の少女が、日本の歴史の有名人と同姓同名など……
……いや、恐らくはその考えは違うのかもしれない。
もし同姓同名なら、そのことをネタとして持ってくるはずだ。
それがないということは──


「まさかとは思うけど、ここって愛知県?」
「あいちけん?何それ?ここは尾張よ、頭大丈夫?」
「……割かし大丈夫じゃない」


愛知県を知らず、尾張と豪語する。
認めたくはないが、戦国時代にタイムスリップしたようだ。
しかも、信長と後の家康が女性と言う、パラレルワールド。
もう、カタカナ語を並べるだけでは済まされない事態に、仁詭の頭はパンク寸前だった。


「ちょっと大丈夫?目が虚ろになってるわよ?」
「え……?あぁ、よくあることだから……」
「いやいやいや、ないって!」


かなり心配されたので、ある程度は諦めつつ話を進めることにした。
色々考えながらだと、そのたびに混乱する。
そういう諦めの良さは、仁詭の長所でもあり短所でもあった。


「ところで、あなたはこれからどこか行く場所あるの?」
「強いて言わなくてもない」
「え?じゃあ、何でこんな所にいるの?」
「……はっきり言って、それは俺が一番聞きたい。目が覚めたらわけも分からない場所にいたんだ、頭の中の整理もまだ終わってないし……」
「……………優唯」


さっきから黙りこくっていた竹千代─さっきは希望って呼ばれていたはず─が、信長─こちらもさっきは優唯と呼ばれていた─の腕を引く。
呼ばれた信長は、暫く小声で竹千代と話し合っていた。
そして、急に大きな声を張り上げた。


「あーーーーーーーーーーー!!」
「……何?」


しかも、仁詭を指さしながら。


「急に何?」
「あなた……あなたもしかして……」
「……………?」
「あの“天の御遣い”!?」
「……何それ?」


聞いたことのない言葉。
首を傾げていると、信長は嬉しそうに言葉をつづけた。


「知らないの?遥か昔、今の明が三つに分かれていた頃、突如舞い降りて戦乱の世を救ったって言う、あの──」
「……優唯。それ、この人……」
「あ、そうだった。その時みたいに、今度は私たちを救いに来たんでしょ!」


さっぱり分からない。
ただ、誰かと勘違いしているらしい。


「……よく分からないけど、俺にはそんな経験はないよ?」
「じゃあ、べつの“天の御遣い”?」
「そもそも、その“天の御遣い”って何?」


仁詭の質問に、二人は目を見張った。


「え……?」
「『え……?』じゃないでしょ?俺はそんな、何か厳かな雰囲気のある名前とは縁もないし、自分の身も救えないのに、誰かを救えるわけもないだろ?」
「でもでも!明から伝わった書物の中に、あなたのことが書いてあったんだもん!」


どうにも信長は、自分の意見を曲げたくないらしい。


「その書物にはね、『陽光煌めく衣服を纏い、天より舞い降りたる御遣い様が、三つに分かたれた地を、争い渦巻く乱世からお救いくださり──』って書いてあったの」
「……“陽光煌めく衣服”?」
「ほら、今希望が着てるの、あなたのでしょ?」
「──まぁそうだけど……それより、さっきから聞きたかったんだけど、一つ良い?」


二人は無言でうなずいた。


「さっきから君たち、俺に名乗ってない名前で呼び当てるよね?それってニックネームとか、そう言う感じ?」
「にっく……何?」
「ニックネーム。分かりやすく言うと、親しい人間間での愛称みたいなもの、かな」
「あ、それとは全然別物。さっきから呼びあってるのは真名よ」
「真名?」


再び出てきた知らない単語。
一応それに関しても聞いてみる。


「真名って、何?」
「知らないの?あなたにもあるでしょ?」
「いや、無いし……」
「無い!?じゃ、じゃあ……あなたの本当の名前って……」
「本当も何も、さっき名乗った萩原仁詭以外の名前は持ち合わせてない」


仁詭が言いきると、二人はどこか青ざめた様子だった。
何か、重大な失態を犯したような、そんな表情だった。


「真名って言うのはね……私たちの生き様が詰まってる神聖な名前でね、本人の許しがないと呼んじゃいけないの」
「……仮に呼んだとしたら?」
「まぁ、殺されても文句は言えないわよ?」


その言葉を聞いて、仁詭は内心ホッとした。
武器は持っていないが、痛い目は確実にみることになる。
慎重に対応していて、本当に良かったと、心の底から思った。


「──で、あなたは私たちに本当の名前をすぐに教えていたのよね?」
「それしか名前がないんだから、まぁそうなるな」
「言ってみれば、初対面なのに真名を教えてくれたのよね?」
「……そうなるのか?」


真名の仕組みを、仁詭はまだ理解したわけではない。
だが、信長がここまで必死になると言うのなら、自分はある意味真名を名乗ったことになるのだろう。


「名乗られた以上、私たちも名乗るわ。私は織田上総介信長、真名は優唯よ」
「竹千代……真名、希望」
「えっと、教えてもらったてことは……?」
「もちろん、呼んでもいいわよ?」


それでいいのだろうか?
色々と不安になるものの、ある程度は諦めようと決めたばかりだ。
ほぼこの二人に流される形で行く。


「じゃあ、よろしくね、仁詭!」
「……よろしく」
「うん、こちらこそよろしく。優唯に希望」















[おまけ]





「あ、そうだ」
「どうした、優唯?」


何かを思い出したかのように、優唯が声を上げた。


「ねぇ仁詭、ちょっと聞きたいことあるんだけど……」
「分かる範囲内にしてくれ」
「あのね、明の書物の中にあった、“天の御遣い”の説明文の中に、やたらと出てきた単語が分からなくて……」


そんなこと言われても、仁詭にだって分かるかどうか……
大体、仁詭の世界の歴史書だって、江戸時代までにある程度編纂されたものを、さらに近代で編纂し直したくらいだ。
まず分かるはずがないと、仁詭は思っていた。


「それで、何て言葉なんだ?」
「確か……“種馬”だったと思うんだけど……」
「…………………………」


思わず押し黙り、希望の方へと目を移す。
希望は我関せずと、仁詭と目を合わせようとはしない。
雲の流れをじっと見つめている。


「その言葉がね、やたら出てくるの。父様や母様も教えてくれないし、他のみんなも知らないって……」
「へぇー、誰も知らないんだ」


仁詭は既に棒読み。
極力、さっさとこの話題から抜け出したい。


「仁詭は知らない?」
「生憎と知らな──」
「天の御遣いなのに?」
「悪いが知らな──」
「そんなに頭よさそうなのに?」
「知らないったら知らな──」
「そんなこと言わないで教えてよ」
「知らないものを教えられな──」
「意地悪言わないでさぁ?」
「俺は何にも知らない!」
「……なんか、自棄になってない?」
「……気のせいだ」



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