|| prologue ||

 

 ハーリーが軽やかにキーを叩く。今日はかなり調子がいい。
 好調ぶりがリズミカルなキータッチに現れている。
「これでよし!」
 ふぅ、と、そこで一息ついて、背中をチェアに預ける。
「ハーリー」
 横からサブロウタが声をかける。
「なんですか?」
「お前、今日この後、ウリバタケさんのところだったよな?」
「そうです」
「了解。遅くなるようだったら、一報入れてくれれば直帰していいからな」
「はーい」
 とハーリーが返事を返したところで、ラピスが割り込んできた。
「準備できたけど、出れる?」
「おおっと、ちょっと待って」
 そう言って立ち上がり、クロークにかかっている上着を着ようとして手を止めた。
「やっぱいいや」
「ん?」
「なんか今日は暑くなりそうかなって」
「だいぶ温かくなってきたもんね」
「ウリバタケさんによろしくな」
「はい。じゃあ行ってきます」
 そう言うとハーリーとラピスの二人はエレベーターに乗りこみ下に降りる。
「あ、そうだ。ウリバタケさんのところに、お土産持っていこうよ」
「うん、いいね」
「私、サセボ・フロマージュのチーズケーキがいいな」
「それ今ラピスが食べたいものじゃん」
 そう言いながらハーリーは苦笑する。

 

「ごめんください」
 ウリバタケの自宅兼ラボに着いた二人は入るなり、そう声をかけた。
「ハーリーか?」
 機材の中からウリバタケがひょっこり顔を覗かせた。
「三河屋です」
「帰れ」
「ウリバタケさん、はい、おみやげ」
 ラピスはチーズケーキの入った包み箱をウリバタケに手渡す。
「お。さすがラピちゃん、気が利くねぇ」
 金出したの僕です、とは言わなかった。
「それにしても、ハーリー。お前、しばらく見ないうちに随分背が伸びたなぁ」
「え、そうですか?」
「ズルいよね!」
 ラピスの抗議にウリバタケはクスリと笑った。見方によってはややニヤリ気味になるのは仕方が無い。
「いつの間にか15cmも差を付けてるんだよ?」
 ハーリーがほぼ年齢平均なのに対して、ラピスの方が平均よりも若干低いというのが実際のところである。
「まぁ、こればっかりはしょうが無いな。最初会ったときはチビッ子だったのにな」
「チビッ子って言わないでくださいよ」
 かれこれ5年は前の話になるだろうか。
「せっかくお土産持ってきてくれたんだからいただこうか。おーい、ミコトー」
 とウリバタケが呼ぶと、奥からはぁいという返事と共に一人の幼女が姿を現した。
「あ、ラピちゃんだ!」
「コラ、ラピスお姉ちゃんだろ」
「こんにちは」
「悪いな、少しこいつの相手してやってくれるか?」
「はい。ミコトちゃん、ケーキ食べる?」
 ミコトは両手を上げて全身で喜びを示した。
「さて、と。悪いなまだ図面見てねぇんだ。ケーキ食べながらちょっと待っててくれ」
 テーブルでチーズケーキを頬張るラピスとミコト。二人を眺めながらケーキは女の子を笑顔にするなぁ、とボンヤリとハーリーは考えていた。
「人型か」
「はい」
 設計図を見ながらのウリバタケの独り言にハーリーは返事を入れた。
「《ヒメ》を載せるのか?」
 ウリバタケが相手だと話が早い。
「そうです。そしてこれが《ヒメ》が提示した、希望の仮想外見アバターです」
 そう言ってスクリーンに現れたのは、ツインテールの少女だった。
「何でまた、こんなに昔のルリにそっくりな姿なんだ?」
「そればかりは僕も何とも…」

 

affection series, episode #5
Martian Successor Nadesico : pieces of love, 2207 A.D.
- trigger -
 
鍵をその手に
 
Written by f(x)

 

|| scene.1 : prescription ||

 

「やっぱ日本は暑いな」
 タキガワはスーツケースを引き、空いたもう片方の手で日差しを遮りながら空港の自動ドアをくぐった。
 出口を抜けた先のロータリーでタクシーを捕まえると、そのままネルガルのラボへと向かった。若干距離があるが、電車を使って行くよりもこちらの方が早く目的地に着く。
 ラボのあるビルに到着すると、受付で荷物を預けてイネスの在室を確認してもらい、そのままイネスの部屋に向かう。
「お邪魔するぞ」
「いらっしゃい。久しぶりね」
 イネスは部屋の中でコーヒーを飲みながらくつろいでいた。僅かに微笑を向けている。
「1年近く、どこをほっつき歩いていたのかしら?」
 嫌味のようにも聞こえるが、そうではない。単純にタキガワの足取りを聞いているだけだった。
「まぁ、アメリカとユーロを転々としてたよ」
「ふぅん。それで見つかった?」
「何がだ?」
「自分がやりたいこと」
「あ、いや、それがな……」
「……何しに行ってたのよ」
 苦笑というか微笑。バカね。という言葉が隠れて見える。
「アカツキ君のところには行ったの?」
「いや、この後だ」
「あら、真っ先に私のところに来てくれたの?」
「まぁな。博士は恩人だしな」
「ちょっと嬉しいかも」
 タキガワも美人に喜ばれて悪い気はしない。
「ついでにちょっと血液検査させてくれると、もっと嬉しいわ」
「何なんだよ、この色気のない会話」
「私に色気を求めてるの?」
「言葉の綾だよ」
 などと言いつつ、ちゃちゃっとイネスは採血検査の準備を進めている。
 深く突っ込んだところで意味が無いので、タキガワは右手を差し出した。
 検査機がタキガワの右手の人差し指のところに当てはまると、一瞬だけ微かに感じられる程度の痛みが走ると共に、僅かな量の血を採取した。
 そして瞬時に検査結果がモニタリングされる。
 イネスはその検査結果を一瞥する。異常を示す箇所がある場合、関連項目が赤く表示されて注意を引くようになっている。
「若干、中性脂肪が多いわね」
「ヤバイか?」
「それほどでもないわ。食事制限をするようなレベルでもないし。ナノマシンの性能劣化かもしれないわね」
「IFS強化体質と言えど、若い頃とは同じ訳にはいかないってことか」
「そうみたいね」
 と言いながら、イネスは順次結果項目を眺めていく。
「あら?」
「どうした?」
 イネスは一瞬、これを言っていいのかしら?という表情をした。
「……男性機能障害があるの?」
「なんでそんなことまでわかるんだよっ」
 タキガワを冷や汗を流しつつ、羞恥からかイネスの顔を見れなくなった。
「わかっちゃうんだから、しょうがないじゃない。……いつから?」
「最初からだよ」
「最初から?」
「あぁ」
「……あなた、童貞だったの?」
「だから、童貞って言うなよ。この年で童貞って結構傷つくんだぜ」
 ますますイネスの顔を見られなくなってしまった。
 イネスはタキガワの境遇に思いを馳せる。ここに跳んでくるまで、下半身不随の生活を長期間に渡って続けていた影響なのだろうか。あるいは実験を繰り返す日々に、そういった余裕がなかったのだろうか。タキガワのために女性があてがわれるというのは、誰があてがうのかを考えると想像しずらかった。
「治療する?」
「いや、いい」
「どうして」
「相手いねぇし」
「あら、私で良ければお相手するわよ?」
「やめろよ、そういう取って付けたような言い回し」
 むむむと唸って相変わらずイネスと目を合わせようとしない。
「……そうよね、もうちょっと若い子の方が良いわよね」
「いや、そうじゃなくてだな」
「じゃぁ、何なのよ」
「……気持ちが乗らないと、ダメだろ、こういうの」
 口に出すことさえ気恥ずかしくなってきて汗を流す姿が、不意にラピスの隣のハーリーと重なる。
 それがなんだか急に、かわいいような、愛おしいような感情を伴って降ってわいてくる。
「そういうところ、本質的にマキビ・ハリなのね」
「なんだそりゃ」
 大人の関係という都合の良い言葉に流してしまえば、恋愛感情と肉体関係は切り離して考えることもできないことではない。ただし、最初に恋愛を伴った経験していないとそれは難しいことなのだろう。そこを無視すると場合によっては心が軋む。
「恋をしたことは?」
「……ルリさんに向けたものが恋だとするならば、それが最初で、今のところそれ以降は無いな」
 彼が最後のジャンプに臨む前にキスを交わした女性への感情は、恋心とはまた違う何かのように思えた。時間をかければ愛情に変化したのかもしれないのだが。
 一方でイネスはというと、タキガワの人格形成への問題があるのではないかと考えていた。恋愛対象との死別というのは、心に大きなダメージを残す。新しい恋愛感情によって、負った傷をカバーするのがてっとり早いのだろうが、環境的な理由によってそれが不可能というのはかなり歪な環境と言っていい。負った傷を時間に任せて風化させるのは傷が大きければ大きいほど、かえって痛々しい。
「恋の処方箋が必要かしら」
「少女マンガのタイトルか何かか?」
 ぶっちゃけそういうのは苦手です、と顔に書いてあった。

 

|| scene.2 : full course caution ||

 

「いやぁ、あれは食べきれんわぁ」
 ユキナは腹を重そうに若干重い足取りでオフィスに戻ろうとしていた。
 いつもの研究開発部の面々が繰り出した本日のランチは、とあることで近所では有名の中華料理屋であった。その有名な理由とは、主菜副菜にどんぶりいっぱいのご飯にスープとデザートの杏仁豆腐とコーヒーがついて、500円という破格という表現をさらに突き抜けた価格設定の上に、そこそこ美味いという店だった。
 これで客が来ないわけがない。
 どこで利益が出ているのか、通う客の方が逆に店の心配をしたくなる値段設定である。
「その割に、杏仁豆腐は完食でしたね?」
 ハーリーが突っ込む。
「デザートは別腹に決まってんでしょうが」
 そう言ってユキナはハーリーの頬をぐいーっと引っ張る。
「いい」
 涙目になりながらハーリーは訴えたが、「余計なことを言うからだ」というサブロウタの一言で斬って捨てられた。
 デスクに戻ると、ウインドウの中で《ヒメ》が正座で待っていた。
「何してんの?」
 ラピスが問いかける。
【ウリバタケ博士から、ボディの試作品プロトタイプが届いています】
 要するにさっさと私を繋げと要求しているのである。
「よっしゃ!それじゃ、早速繋ごうぜ」
 というサブロウタの指示の下、まずボディが収められたケースからの取り出し作業が始まった。実際のところ、ボディよりもケースの方が重くて、数名の商品開発部の男手を必要するほどであった。
 ケースに収められていたのは、一人の少女の裸体であった。
 それだけなら、本来は問題が無かった。
 無いはずだった。
 問題はそのボディがナデシコA時代のルリと色違いなだけで、あまりに酷似していた、という一点が周囲の男性社員を困らせた。
「ふ、服着せましょう」
 凍り付き気味の空気を察して、ハーリーが逃げるような感じで周囲にすがる。だが、ミナトの無情な「無いわよ」という一言によってそれは跳ね返されてしまった。
「え」
「まぁ、普通、オフィスには小学生サイズの女の子の服やら下着やらがあるわけ無いわよね」
 うん、そりゃそうだ、と言わんばかりに冷静にユキナが相槌を打つ。
 だがこの二人、まさにこういうやり方で周囲の男性社員をからかっているだけに過ぎない。
「よし、経費で落とすから、ラピちゃんは《ヒメ》のボディ用の服を数着買ってきて」
「はいはーい」
「ハーリーは、ブラとショーツな」
「何の罰ゲームですか!」
 実際のところは、選んだのは全てラピスであり、ハーリーは単なる荷物持ちである。
 ラピスとハーリーが買い出しに出かけている間、さすがに目のやり場に困るという理由でボディにはシートが被せられた。
「ねぇ、見てユキナ。この子、肌スベスベよ」
「本当…」
 最初はその感触を楽しんでいた二人であったが、ルリが地雷を踏んだ。
「この子、機械だから身体は成長しないんですよね」
 ニアリーイコールで老化しないずっとこのまま、ということにもなる。
 途端にミナトとユキナの表情が変わる。
「若いっていいわねぇ!」
「本当よね!」
 女って怖えぇ、とは絶対に口が裂けても言えないサブロウタであった。

 

「接続完了。パルス安定」
 ハーリーが冷静に数値をモニタリングする。
「《ヒメ》、まず右手の指から動かし始めて下さい」
 ルリの指示に従い、《ヒメ》は右手の親指から順に動かし始める。最初はいかにも機械というぎこちなく直線的な動きをした指先は、繰り返し動くことで次第に滑らかさを覚えていった。
 右手、左手、右腕、左腕、右足、左足。
「自力で起き上がれますか?」
「はい」
 《ヒメ》は初めて、ウインドウではなく、自らの口を借りて声を発した。
 そっとベッドの外に足をついて、ゆっくりと立ち上がり、自分の姿を見渡した。
自己診断セルフチェックを開始します。出力0.12PSで安定」
「0.05まで落として」
「はい」
 ルリの言葉に従いパワーを下げる。すると肩の力が抜けたのか、より少女らしい姿勢と体型に近づいた。
「コンディション全機能異常なしオールグリーン
「どうですか?初めて自分の足で立った感想は?」
「世界が広いです」
 ウインドウを飛び出して広がる視界。
 《ヒメ》が意図的にそうしたとは言え、かつてのルリによく似た姿の《ヒメ》とルリの二人によるコミュニケーションは、血の繋がりにも似たものを引き起こす。
 そんなルリと《ヒメ》の姿を見て、ハーリーは頬杖をつきながら少しだけナデシコ時代の事を思い返していた矢先のこと。

CAUTION!

 「え?」
 唐突にハーリーの脳内に飛び込んできたビジョン。

CAUTION!

「何するのよ!」
 ラピスのか細い両腕に鎖が繋がれる。
「やめてよ!やめて!ってば!」
 男がラピスを張り倒す。そして倒れたラピスの上に馬乗りに跨がって、彼女の上半身の服をナイフで切り裂いた。
「やだ!いやぁ!」

「何だ、これ……」
 冷や汗が吹き出してくる

CAUTION!

 身をよじりながらラピスは逃げだそうとするが、男の両手がラピスの身体を掴んで離さない。
「いやあぁ!やめて!お願い!ハリ!助けて!」
 ラピスの目に涙がにじむ。

「やめろ!」
 ハーリーは机を手で叩きつけ、衝動的に立ち上がった。
 ラピス、ルリ、ミナト、ユキナ、そしてサブロウタの5人が何事かとハーリーの方を向く。
 汗が止まらない。
 右手を顔面に、左手を胸に強く押し当てる。
 呼吸が荒くなる。
 足に力が入らず、膝が少し震えている。
「警告。ハーリーの血圧、脈拍が急激に上昇中。正常値を突破」
 《ヒメ》の報告の直後、5人のまわりに赤い警告のウインドウがポップする。
 ハーリーの様子がただ事では無いことを察知。
 ハーリーは意識を手放しかける。
 頭の中をヤバイという単語がぐるぐる回る。
「ハリ!」
 ラピスが咄嗟に手を伸ばす。
 だがラピスの手が届くより先に、ハーリーは両膝から崩れ落ちた。
 そして胃の内容物を全部床にぶちまけたのだ。
「《ヒメ》!大至急、医務室を確保!」
 ハーリーの様子を見たサブロウタが即断で《ヒメ》に指示を出す。
「了解」
「ハリ!ハリっ!」
 ラピスの声が若干遠い。
「ラピス……」
 呼ばれた声に応えようと身体を上げるものの、力の重心が定まらず倒れ込むハーリーの身体を何とかラピスが抱きしめた。
 ようやくそこで意識を手放した。

 

|| scene.3 : game has begun ||

 

 イネスが眉間に皺を寄せながらモニタリングを続けている。
 そのただならぬ様子に、ラピスは固唾を呑んで返事を待つ。
「困ったわね」
 深く溜息をついた。
 その言葉にビクリとしてラピスは顔を上げる。
「《ヒメ》、もう一度スキャンしてちょうだい」
【はい】
 ラピスは耐えて待つしか無い。身体が震えそうになるのを、自分の両手で両肩を抱えるようにしてじっと耐えていた。
 誰に対してかもわからずに、ひたすら祈る。
「やっぱり、異常が無いわね」
「え」
 もう一度ラピスは顔を上げる。
 異常が無いなら安心な筈なのに、イネスを見て表情を崩すことはできなかった。
「おかしいわ……」
「どういうこと?」
「異常が見当たらないことが、異常なの。《ヒメ》の記録によれば、倒れた時のハーリー君の脈も血圧も明らかにおかしい。なのに、その原因を示すものがどこにも無い……」
 そこまで口にしかけてイネスの中に嫌な予感が広がる。
「今日はこのまま経過観察のために入院させるわ。ラピスは一度帰りなさい」
 ラピスは不安を押し殺して頷いた。
「あの、イネス」
「どうしたの?」
「帰る前にハリの顔見ていい?」
「寝てるわよ?」
「いいの」
 イネスはラピスの頭をぽんぽんと叩いて送り出した。
 ラピスがハーリーの眠るベッドサイドに立つ。ハーリーは静かな寝息で眠っている。
 起こしてしまわないように音を立てずに腰をかがめると、ハーリーの額に軽くキスをした。

 

 建物を出るとラピスが来るのを《ヒメ》が待っていた。
「《ヒメ》?どうしたの?」
「サブロウタさんの指示が2つ出ています。1つはハーリーが退院するまでラピスのそばにいること。もう1つは明朝、一緒にウリバタケさんのラボに直行するようにとのことです」
「うん、わかった」
 《ヒメ》が起動した直後にハーリーが倒れた。関係があるとは思えないが、やはり一人は心細い。本来であれば2つめの指示だけで良かったのだろうが、サブロウタが気を回して《ヒメ》をラピスのそばに置いたのである。
「不安ですか?」
 自宅のある独身寮へと歩いて向かう途中、《ヒメ》はラピスにそう尋ねラピスも包み隠す事無く答えた。
「うん、とっても不安」
「現在は異常を示していないようですが」
「でも、イネスでもまだ原因を特定できないということが不安でたまらないの」
「今夜、眠れそうですか?」
「……わからない」
 逡巡した後に言葉が続く。
「ねぇ、《ヒメ》」
「はい」
「ちょっとだけでいいから、私のことをぎゅってして」
「こうですか?」
 と言いながら、ラピスより頭半分小さな《ヒメ》の身体が、ラピスを抱きしめる。そして抱きしめられたラピスも《ヒメ》を抱き返す。
「ありがとう」
「私、ラピスのお役に立ててますか?」
「ええ、とっても」
「……良かった」
 《ヒメ》の表情に僅かに笑みが零れていたことに、ラピスの位置からは見ることができなかった。

「ダメね」
 イネスが暗い顔で呟いた。
「もう助からないわ」
「え?」
 モニターの血圧と心拍数の表示がどんどん低下していく。
 脈とシンクロする電子音が刻むビートが徐々に遅くなっていく。
 心の底から震える。
「ウソでしょ?ウソって言ってよ!」
 ビートが、止まる。

 ラピスは毛布を蹴り飛ばしながら跳ね起きた。
「……夢?」
 動悸が止まらない。
 ベッドの下で身体を横にしていた《ヒメ》の目が開き、上半身を起こす。
「ラピス、大丈夫ですか?」
「……大丈夫…じゃない」
 昨晩と同じように《ヒメ》はラピスに寄り添い、身体を抱きしめた。ラピスに頼まれたからではなく、自らそれが必要だと判断したから。
「……ありがとう、《ヒメ》。とても落ち着く」
 《ヒメ》に背中をさすられ、動悸がおさまり、呼吸が整えられていく。
「ハリ……」
 ラピスの呟きに《ヒメ》は、この二人は不可分なのだと強く理解した。
 ラピスにはハーリーが必要であり、ハーリーにもラピスが必要。お互いがお互いを求め、支え合っている存在なのだ。どちらを欠いても、この二人は壊れてしまう。
 なんて脆く、そして、なんと美しいのだろうと思った。

 

「おはようございます」
 ラピスと《ヒメ》がウリバタケのラボに姿を現した。
「誰もいないのかな?」
「はいはい、おはようござい…ま……す?」
 奥から姿を現したのは、ウリバタケの長男ヒロトであった。
「あ、ヒロト君、おはよう」
「ラピスさん、その子は?」
 ヒロトが《ヒメ》を見る。彼女もまたじっとヒロトを見ていた。
 するとヒロトの心の中に、今まで感じたことの無い感情が駆け巡る。
「この子はね、《ヒメ》っていうの。私たちの妹みたいな感じかな」
「はじめまして」
 《ヒメ》が頭を下げる。
「あ、うん。はじめまして」
「ウリバタケさんは?」
「父さんなら、そろそろ戻ってくると思う……けど」
 そう言いながらも、チラチラと《ヒメ》を覗き見する。
「そうなんだ、ちょっと待たせてもらってもいい?」
「うん、中散らかってるけど」
 ヒロトは慌ててよくわからないパーツで溢れかえるテーブルの上を片付ける。自分自身でも、何をそんなに慌てているのかよくわからなかった。一つだけハッキリしたのは、ラピスの隣にいる少女にこんな家の中を見せるのは恥ずかしいと咄嗟に感じたことだけだった。
 そこへヒロトが言った通りに、ウリバタケが戻ってきた。
「お、来たな」
「ウリバタケさん、おはようございます」
「おう。今日は珍しくハーリーと一緒じゃないんだな?」
 途端にラピスの表情がかげる。
「それが、ハリは今入院中で」
「はぁ?あいつが入院?なんでまた」
「イネスさんもまだ原因がわからないって……」
 ふーむとウリバタケが頭を掻きながら考える。
「何か面倒なことにならなきゃいいんだが」
「お父さん!」
 ヒロトは声をかけるタイミングを見計らっていた。
「なんだ?」
「客が来るなら、部屋ん中こんなんにしとかないでよ!」
「何をそんなにプリプリしてんだよ」
 だって、恥ずかしいじゃ無いかという台詞そのものが恥ずかしくて言えなかった。

 

 授業の終了を告げるチャイムが鳴る。
 教科書をしまいながら、《ヒメ》のことが頭から離れなかった時間が自分自身でよくわからないままでいた。
 あの涼しげな眼差しを思い出すだけで鼓動が早くなる。
 授業の内容はほとんど覚えていない。
「何なんだよ、コレ」
 うつむき気味に顔を伏せながら、奥歯をぐっと噛み殺した。

 

「しばらく接続コネクションが切れるぞ」
 ウリバタケがコンソールを操作しながら告げる。
「はい」
「ラピちゃん、悪いが1時間くらいはかかりそうだ。どうする?」
「じゃあ、適当に時間つぶしてます」
 ラピスの返事にウリバタケは頷くことで了解をしめした。
 そして手を止めることなく、ラピスに問う。
「そういやさ、ハーリーの倒れた件っていったい何なんだ?」
「わからないけど、昨日突然吐いて、そのまま」
「今朝はイネスと連絡取ったのか?」
「ううん、まだ」
「そうか、朝一でこっち来させたりして悪かったな。今聞いてみ?」
 そして呼び出しコール
『ラピス?』
「あ、ごめん。今、大丈夫?」
『大丈夫よ、そんな暗そうな顔しないの』
 イネスの微笑にほっと一息つく。
『ただハーリー君の件、変なのよ』
「変?」
 割り込んだのはウリバタケだった。
『あら、いたの?』
「ご挨拶だな。それで?」
『それがまだ意識が戻らないのよ』
「なんで」
『それがわからなくて困り果ててるところよ』
 言われて僅かな目尻のクマに気がつく。
「そうか、あんまり無理すんなよ」
『そういう気遣いをなんで奥さんに向けてあげないのかしらね?』
「うるせぇよ」
 本当はちゃんと妻への配慮もあるのだが、そういう言葉で照れを隠す。
『ラピス、今は不安もあるでしょうけど、もう少しだけ時間をちょうだい』
「うん」
 去来する様々な恐怖をひたすら押し殺すが、ひねり出してもこの程度の事しか言えないでいた。
『こっちにはいつでも来て良いのよ?』
 イネスの言葉に気遣いを感じる。その嬉しさから少し笑みが戻ってきた。
「行ってこい」
「ウリバタケさん?」
「こっちは終わったら、俺がヒメを連れてく。タカスギには俺から伝えておくから、行ってこい。こないだのケーキの礼だ」
「あの……うん、ありがとう」
「おう」
 ラピスが身を翻してラボを小走りに出て行く。
『優しいじゃない』
「俺は紳士なんだよ」
『変態でも紳士にはなれるのね』

 

 小走りに走るラピスは信号に捕まった。
 パンプスではやはり走りづらい。
 信号待ちの時間が長く感じる。
 少しでも早く着きたい。気ばかりが何故か焦る。
 そして、何かが背中に当たる。
「え?」
 気がついて振り返ると同時に、全身を急激な衝撃が襲う。
 意識が途切れる前に気付いたのは、それがスタンガンだという事だけだった。

 

 その瞬間、ハーリーの瞼が開く。その速さは普段の寝起きのような気怠さではなく、急激な覚醒を伴うものだった。
 周囲を確認するようなことはしない。
 そして刺さっている点滴の針を自ら抜く。
 途端に警告アラートのウインドウがポップする。
 ハーリーはそれに何ら関心を示すことなく、ベッドから起き上がり、そして立ち上がる。
『ハーリー君?!』
 警告アラートに驚いたイネスのウインドウが次いでポップした。
『何して……』
 ハーリーの顔を見たイネスはギョッとした。
『ちょっと待って!どこに行く気?!』
I must to go行かなきゃ
『待ちなさい!』
 おかしい。明らかにおかしい。
 だが、それ以前の疑問を抱いた。あれは本当にハーリーなのか、と。
『《ヒメ》!ハーリー君の行動を追跡トレースしててちょうだい!』
【了解】
『ハーリー君が起きた瞬間の映像ある?」
 でてきたのは、警告アラート発生直後に捉えた映像。
 ウインドウの中に写るハーリーの目は金色の光を放っていた。

 

|| scene.4 : under the gun ||

 

 アキトの元に第一級指令がもたらされ、アカツキのいる会長室に飛び込んだ。
「何が起きた?」
 アカツキは黙って1枚のウインドウを提示した。
 何かを噛み潰すような表情をしていた。
「こればっかりは予想外だったよ」
 アキトは瞬時にウインドウの内容を読み解く。
「…ラピスが?!相手の正体と目的はなんだ?」
「反戦市民団体トゥルー・ピース。要求はNAISが開発するナデシコから移したAIシステムの全廃棄」
「なんでだよ、ネルガルはもう軍産から撤退してるだろ」
「軍事技術の民間転用は人道的な視点から絶対に許されない行為なんだとさ」
「頭イカレてんのか?」
「そのための人質として誘拐された」
「っくそ!これだから、自分の行為を正義って言葉で正当化する奴らは嫌いなんだよ!」
「テンカワ」
 アカツキの言葉から、敬称が消える。
「命令だ。プリンス・オブ・ダークネスに戻ることは許さない」
 アキトが眉を顰める。
「意味がわからん」
「ただし、それ以外の方法であれば、どんな手段を使ってでもラピス・ラズリを奪還しろ」
「お前……」
「奴らが仕掛けてきたのはビジネスじゃない。宣戦布告だ」
 アキトは思わずアカツキの表情に気圧されて、ゴクリとつばを飲み込んだ。
 次の瞬間にイネスのウインドウが現れた。
『アカツキ君!ハーリー君が!』
「博士、すまないが今は…」
『大至急、第一級指令を敷いて!』
 イネスの表情にただならぬ事態を予感する。
「何があったんだ?」
『これを見て』
 そういって表示されたのは、ベッドから起き上がる時の一瞬を捉えたハーリーの姿。
 ただただ冷たく、暖かみなど一切感じられない硬質な金色の瞳。
『この直後、突然、姿を消したのよ』
 アカツキは再び眉を顰める。
「いったい、何がどうなってるんだ」
「ラピスが攫われたことと繋がってるのか?」
『攫われたですって?!』
「そうかもしれない……いや、そうだと考えるべきだろうな」
 三人の脳裏に過ぎったのは全く同じものだった。
 それはハーリーの中に残された、正体不明のナノマシン。
『ハーリー君の居場所は追跡トレースしてるわ』
「どこに向かってる?」
『現在位置から考えて、おそらく第二港湾地区』
「倉庫区か、いかにもだな」
『そこに時速80kmで向かってる』
「また身体壊す気か、あいつ!」
『壊す程度じゃ済まないわよ』
「すぐに向かうぞ」
「ジャンプを使え」
「なに……」
躊躇まよってる暇は無い!行け!」
 その言葉にアキトは頷き、部屋はボソンの光に包まれた。
「《ヒメ》、SSの半分を第二港湾地区に向かわせろ。残りの半分はトゥルー・ピースの拠点を制圧、指示はゴートに、人選は《ヒメ》に任せる」
【了解】
 アカツキはそこでようやく肩の力を抜く。そして天井を見上げながら呟いた。
「どうやってラピス君の居場所を突き止めたんだろう……」
 その疑問に答えられるものはいなかった。

 

 ぼんやりと意識が戻ってくる。
 固くて冷たい地面。
 潮の香りとかび臭さが混じり合った臭い。
 覚醒と共にラピスが身体を動かすと、金属がこすれあう音がなり、すぐに自由が利かなくなる。
 自分の身に何が起きているのかが理解できなかったが、どうやら手首と足首が鎖に繋がれているらしい。
「目が覚めたか?」
 聞き覚えのない声がした。
「誰?誰かいるの?ここはどこ?」
「殺しはしないから安心しろ」
 しかし声色に相手を安心させようなどという気遣いは全く感じられないどころか、どこか嗜虐趣味的な響きさえ感じた。
「いったいどういうことなの?!」
「お前は人質だ」
 そういうと男は姿を現し、思うように身体の自由が利かないラピスの顎を持ち上げた。
 その男の爬虫類を思わせるような顔に、ラピスの本能が警鐘を鳴らす。久しく忘れていた、このまま忘れ去ってしまいたかった北辰の顔が重なり恐怖を覚える。
「可愛いじゃねぇか」
 聞くにたえなくて顔を背けた。
 同じ言葉でも、大切な人に言われるのとそうでないのとでは、気持ちは180度変わってしまう。
「まぁ、依頼人クライアントからは殺すなと言われているんでな、取引が終わればお前さんは開放してやるよ」
 裏で何かが行われていることは察した。
「だが、傷一つ付けるなとは言われていない」
 その言葉に、この後身に降りかかるかもしれない事態を想像として血の気が引いた。
「嫌……」
 首を横に振りながら後ずさりする。身体が震え出す。
「逃げんな。どうせ逃げられやしねぇんだからよ」
 男がそう言いながらラピスの上に馬乗りになる。
 そして取り出したナイフがラピスのブラウスを乱暴に切り裂いた。
「やだ!いやぁ!」
 身をよじりながらラピスは逃げだそうとするが、男の両手がラピスの身体を掴んで離さない。
 その両手はラピスの乳房を乱暴に掴んだ。
「いやあぁ!やめて!お願い!ハリ!助けて!」
 ラピスの目に涙がにじむ。
 そのとき、倉庫の鉄の扉がガタガタと大きく揺れ始めた。
 男がラピスから手を離し何事かと身体を起こした次の瞬間、轟音と共に扉が弾き飛ばされた。
「誰だ!」
 男が咄嗟に銃を探す。
 だが手が銃に届く前に、男が体当たりを受け、もんどり打って数メートル転がった。
 倉庫の室内の明かりにハーリーの姿が浮かび上がる。
「ハリ!」
 駆けつけてくれたというそのことだけで絶対の安心感に包まれる。
 だが、次第に違和感を覚えるようになってきた。
 なによりも気になるのが、自分と同じ光彩の色を放つ瞳。
「くっそ!なんだてめぇは!」
 起き上がると同時に男はハーリーに殴りかかろうとする。
 だが、それよりも早くハーリーが男の目の前から姿を消す。
「?!」
 次の瞬間、ハーリーの姿は男の後ろにあった。
 そして背中に拳を叩きつけられた。
「ぐっ!」
 よろめいたところを更に後ろから、おおよそ人の力とは思えないスピードとパワーで蹴り飛ばされ、数メートル宙を飛ばされて、倉庫の壁に叩きつけられた。
 血を吐きながら、それでもまだ男はハーリーに目を向けた。
「人間業じゃねぇ」
 男は自分の死を直感する。
 人質を利用することも考えたが、どう考えても相手の方が早い。勝ち目は無かった。
「投降する」
 男は手持ちの武装を床に捨てた。
 だがハーリーの目に慈悲の心は全く浮かんでいない。
 次の瞬間、倉庫の中がボソンの光で満たされる。
「止めるんだ!」
 アキトがジャンプするなり、後ろからハーリーを止めた。
 いや、止めようとした。
Don't get in the way邪魔するな
 その金色の瞳を見てアキトは戦慄した。
 彼はハーリーでは無い?!
 その隙を狙って男が動いた。ラピスを盾に取るように、彼女の背後に回り込んでラピスの首筋に腕を引っかけた。
「これで逆転だな。この女を殺されたく無ければ、武器を全部捨てろ!」
 逆転したと思ったのだろう。
 だが、次の瞬間に決着はついた。
 誰もがハーリーが消えたように見えた。
 だが実際は高速で飛び上がり、鋭角な放物線を描くとそのまま落下のスピードを伴って、男の脳天に蹴りを叩きつけた。
 男は強烈な脳震盪を起こして、その場に倒れ込んだ。
 そして、ラピスにこれ以上の害を及ぼすものがいないことを確認すると、ハーリーもまたその場で崩れ落ちた。

 

|| scene.5 : wherever you are ||

 

「何をどうすれば、こんなになるの?」
 イネスはハーリーの容態を確認しながら呟いた。
「酷いのか?」
「命には別状はないけれど、筋組織ボロボロよ?またしばらくは立ち上がれないわね」
「そうか……」
 うつむくアキトの視界に、SSが相手組織の制圧を完了させたという通知が届く。それを指先で弾いて消した。
「なんで、こんなことになるんだろうな」
「結果論としてこれがラピスを救っていると言っても、これじゃいつ命を落としても不思議じゃない」
 アキトは黙り込む。
「でも、きっと、この子はやめろと言っても聞かないんでしょうね」
 そういうとイネスは、眠っているハーリーの瞼を軽く開く。
「やっぱり、戻ってない……」
「何がだ?」
「ハーリー君をこうさせているナノマシン。いつもは、通常のナノマシンと見分けが付かないから、どれがそのナノマシンなのかわからない。発動するとその形質を変えるところまではわかってる。問題は、どうすればそれが治まるのかがわからないことよ」
「治めさせる必要はあるのか?」
「それもわからないわね」
 静かにイネスは首を横に振った。
「さ、そろそろラピスを入れてあげないと、今度はそっちがおかしくなるわね」
「なぁ、イネス」
「なあに?」
「ひょっとして、このナノマシン自体が意思を持っているんじゃないのか?」
「……どういうこと?」
「ただの感なんだが、あの時のハーリー君が別人のように思えてな」
 言われて見れば、そう感じない事も無い。
 むしろ金色の瞳が放つ表情の無さに、納得しかけているのをイネスは自覚した。
「だとしたら」
 イネスが指を顎にあてて考える。
「医療的なアプローチからだけじゃダメね。必要なのは説得なのかも。ナノマシンに対する」
 といいながら、ラピスをこちらの病室に呼んだ。
 扉がすっと開く。恐らくドアのすぐ近くで待っていたのだろう。
「おまたせ。ハーリー君のそばにいてあげて」
 無言で頷くとまっすぐのハーリーのそばに向かい、ベッドサイドのスツールに腰掛ける。
 以前、火星の後継者残党による襲撃事件の後にハーリーの隣でそうしたように、再び彼女はハーリーの手を取ると、その手を自らの頬にあてた。
 大事に、愛おしそうに、ハーリーの手を両手で包みこむ。
「ねぇイネス、ハリに何が起きてるの?」
 一瞬、躊躇したものの、イネスはそれまでわかっているナノマシンに関する話を全てラピスに打ち明けた。
「この先、ハーリー君の身に何が起きてもいい覚悟だけは持っていて」
「大丈夫」
 静かだが迷い無く言い切った。
「ハリが私の期待を裏切ったことは一度も無いよ」
「ラピス……」
「だから今度も大丈夫だから」
 そう言うと、ハーリーの頬にキスをし、そして唇を塞いだ。
「愛してる、ハリ」
 するとハーリーの瞼が開こうとしていることにイネスが気付いた。
 その瞳の色は金色ではなかった。
「え?」
 というイネスの驚きの声にラピスが気付いた。その機微を察知したラピスがハーリーの顔をのぞき込む。ハーリーはゆっくりと覚醒してきた。
「あれ?ラピス?」
「おはよ、ハリ」
「ここ、どこ?」
「病院」
「ああ、そっか。倒れたんだっけ」
「ハーリー君、どこまで覚えてる?」
 とイネスから尋ねられ、直前までの記憶を辿る。
「えーっと、みんなでお昼食べに行って、午後から《ヒメ》のプロトタイプの接続をしてたら、急に気分が悪くなって……」
 イネスはその話をやや驚きをもって聞いていた。
 ハーリーの中にあるナノマシンが起動している間の記憶が無い。ということは、あの間にハーリーを動かしたのは誰なのか。先程アキトが口にした、ナノマシンの意思という言葉がいよいよ納得のいくものになってきていた。
 不意にハーリーの脳内で、その時のビジョンが頭に浮かぶ。
 あんな場面、想像したくも無い。
 襲いかかる嫌悪感に似た感情が苦しめる。
 ハーリーはそこまで言ってから身体を起こそうとした瞬間、身体に走る激痛に短い悲鳴をあげ倒れるように枕に沈む。
「ハリ!」
「あー、しばらく動けないわよ。じっとしてて。ハーリー君の身の回りのことは、ラピスお願いね」
「うん」
 しばらく不安と共に消えていた笑顔がラピスに戻ってきた。
「ラピス……」
 ラピスを病室に残してイネスとアキトが出て行った後、ハーリーは言葉を続けた。
「ん?」
「嫌な夢を見たんだ」
 伏し目がちにハーリーが呟く。
「ラピスが知らない男に襲われる夢。ぞっとした。ラピスが奪われるのが、ラピスを失うのが、たまらなく怖くなった」
 そこまで言ってはぁ、と溜息をついた。
「情けないな」
「そんなこと無いよ」
「え?」
「情けなくなんかない。そう思ってくれるのが、どうしようも無いくらい嬉しい。私だってハリがいなくなるって思っただけで、頭おかしくなりそう」
 ラピスはそう言うと、ハーリーの唇を再び塞いだ。
「ハリ、愛してる」
 その言葉にハーリーは一気に赤面し、思わず身体を動かしてしまい再び悲鳴みたいな声をあげて沈み込んだ。
「初めて言われた……」
 好き、大好きは今まで何度もあったけど、さすがに愛してるという言葉は初めてだった。
「ハリも言って」
「え!いや…あの……愛してるよ、ラピス」
 照れくさそうに言うハーリーの頬をもう1度ラピスのキスが触れる。
「退院したら、私と……して?」
 ラピスが真っ赤になりながらハーリーの耳元で囁く。
 今日は告白された日以来の赤面デーとなった。

 

「だいぶ疲れてるみたいだな」
 イネスはタキガワと共に食事をしていた。疲労が溜まっている自覚はあったので、豚肉が中心のディナーをレストランに用意してもらったのだが、やはり疲れのせいなのだろう、アルコールの酔いが回るのが早い。
「そうね、疲れたわ。若くないってことを実感させられるわね」
「あんまり無理すんなよ。今日はもう帰ろう。家でゆっくり休め」
「来てくれないの?」
「休めって言ってんだよ、この酔っ払い」
 子供みたいにふくれっ面をしてみる。
 それがタキガワの笑いを誘う。
「博士でも、そういう顔すんのな」
 帰り道。街灯が二人を照らす。イネスはタキガワと腕を絡ませながら、やや千鳥足気味に歩いている。
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫よ」
 と言うわりには足取りが覚束ない。
「今日の博士の言葉は全然説得力がねぇぞ」
「その、博士ってやめてよ」
「なんで」
「もう気付いてるでしょ?」
「何に?」
「……ねぇ、本気で言ってるの?」
「だからいったい何の話をしているんだ」
「この鈍感野郎!」
 イネスにぐいっと腕を引っ張られる。
 そしてイネスはタキガワの身体に腕を回し、抱き寄せる。
「ここまでされないとわからない?」
「え……」
「気付いてよ」
「……男を見る目が無さすぎだろ。こんなポンコツのどこがいいんだよ」
「ポンコツって言わない」
「はいはい」
 すっとタキガワの手がイネスの頬に触れる。
 触れられたイネスのタキガワに向けた微笑みが、まるで少女のように見えて年甲斐もなく胸の高まりを覚えた。
「驚いた」
「何が?」
「俺にこんな感情がまだ残ってたんだな、ってことに」
「ちょっとお酒臭くても許してね」
 そういってイネスはタキガワの唇を奪う。
「ん……」
「イネス……」
「あ」
「どうした?」
「ただ名前呼ばれただけなのにすごく嬉しい。そんなの今更なのにね」
「そんな笑顔見せられたら、俺の理性吹っ飛ぶぞ」
「いいわよ?」
「いや、ダメだ」
「なんでよ!」
「今日は休め。ほんと、無理するな」
 そう言いながら今度はタキガワの方からイネスを抱きしめる。
「ねぇ」
 タキガワの耳元でイネスが言う。
「ん?」
「これは治療じゃないからね。本心から、あなたが好き。そこだけは誤解しないで」
「こんないい女が今までフリーでいたことが、俺には信じられねぇよ」
「一年近くほったらかしにしたのは誰なのかしら?」
「え、俺が悪いの?」
「ばか」

 

|| epilogue ||

 

 ヒロトは表には出さないでいたが、内心では心の中でガッツポーズを繰り返していた。
 ラピスに会って、《ヒメ》への連絡先アドレスを貰ったのだ。
 これでヒメにメールでも送ろうか。
 ひょっとしたら直接、話することができるかもしれない。
 ドキドキが止まらなかった。
「ヒロト!見たぜ昨日!」
 クラスメートに声をかけられた。
「何を?」
「お前がすげぇ美人のお姉さんと一緒にいるとこ!」
「はぁ?!」
 教室の中が騒然となる。
「え!マジ!それヒロトの彼女?!」
「違ぇし!そういうんじゃないって!」
 慌てるヒロトを中心とする輪の外に、なにやら少し悔しげな表情でヒロトを見る内気そうな女の子の姿があった。
「この人だろ?」
 といって表示されるのは、確かに昨日一緒にいたヒロトとラピスの姿があった。本当はハーリーの見舞いに行くのに、ラピスに連れて行ってもらったのだが、あらぬ誤解を生んだらしい。
「うわぁ、このお姉さん、超美人だよ!」
「ってか!これ盗撮だろ!消せよ!」
 そういう弁明の仕方が、実は誤解を余計に煽っている。
「ヒロトすごーい!」
「だから違うんだっての!」

 

fin

Postscript
 最後までお読み頂きありがとうございます。
 四年半ぶりのaffectionシリーズ更新となります。そうか四年半か…。最早これ読む人いるのかなぁとか、今更ナデシコ二次創作なんて需要あるのかなとか思ったりしますけど、ほとんど自己満足の世界ですね。
 仕事と育児で余暇なんてほとんど無いという生活を送ってると、何かを書こうという意欲すらなかなか生まれてきません。
 ところが、突然時間が降って湧いてきました。
 仕事中に倒れてしまいまして(てへぺろ
 で、病床でwebサイト見て回ってたら、久々にシルフェニアを覗きました。あぁ、そういや俺、前にここに投稿したっけ……。と思い、自分が書いたものをもう一度読み返したら、書いていなかった「その後」の場面が次々と思い浮かんできてしまったんですね。
 こうなるともう収まりが付きません。時間もあるし、こりゃ書くか!と。
 ということでepisode.5をお届けしました。
 どうでしょうか、どうでしょうね。
 今回書いてて一番楽しかったのは、実はイネスとタキガワのやりとりだったりします。彼はこの後、無事に童貞を卒業できたのでしょうか?
 まだもう少し時間があるのでこのままepisode.6まで突っ走ろうかどうしようか、ちょっと迷ってます。もし続けることができた時には、またepisode.6でお会いしましょう。
 あ、あともう一つ。自分で書いておいてこういう事言うのは何なのですが、爆ぜろリア充!(特にハーリー)
 
2014年10月

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