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長き刻を生きる 三十六話『存在せぬ大徳・ひび割れる鳳凰の翼』
作者:大空   2009/06/07(日) 20:47公開   ID:judaHnkWvTU
 まだ太公望達の下に情報が届いて間もない頃の下邸防衛戦。
 真正面から五万と言う軍勢で猛攻を仕掛けてくる反乱軍を懸命に塞き止めていた。
 元々下邸は業の前に君臨する街の一つであり、その所為か侵攻に備えて強固な城壁が建築されている。

「梯子が来るぞ! 弓兵は優先してそれを叩け!」
「敵兵を取り付かせるな! 城壁に上らせるな!」
「矢の補給はまだかよ!?」

 真正面から向ってくるだけマシかもしれないが、だからこそ恐ろしい。
 五万の戦力が一点集中で攻城を仕掛けてくる様相はまさに圧巻であり、恐怖に近い。
 城壁の上から立て掛けられる梯子を叩き落し、上ってくる敵兵を次々と仕留めねばならぬ。
 しかし攻城部隊だけでなく後方でしっかりと矢を放ってくるのだから当然の如く当たる。
 少しでも防衛力が低下すればそれだけで城壁とは呆気なく陥落してしまうもの。

「もっと石や丸太を寄越してくれ!」
「城門を開かせるな、ありったけの資材で侵入を止めるんだ!」

 城壁からの攻撃は全て反乱軍の梯子部隊や弓兵隊に集中せざる得ない。
 となると出番の少ない騎兵などは馬から下りて、堅牢強固な城門を護る為に働くしかない。
 反乱軍の破城槌がもう何度も鋼鉄の城門にぶつかり、破壊して内部への侵入を目論む。
 
 もし侵入を赦せば五万の大軍が街を蹂躙するだろう事は、明確にして明白。

 既に後ろから退避を始めていた戦う力の無い者達が居た街を”蹂躙”される。
 黄巾賊達の時にも行われた悲惨にして最悪の現実の再来を許す訳にはいかない。

「くそッ! 衛生兵! また負傷人だ!!」
「冗談だろ!? もう薬も包帯なんかも心許無いのにか!?」
「それでも何とかするのが医者の仕事だろ!?」
「なら何とかして持たせろ……絶対に死なせるかよ…雪様、俺達に力を」

 負傷兵が次々と街の中央に設けられた緊急の治療所に運ばれてくる。
 元々駐屯軍達の治療でただでさえ医療品を消耗させられた状況の追撃で攻城戦。
 幾等下邸が大きな街とは言え医療品にも限りがあるし、なによりも保存技術が問題である。

 現代のように冷蔵庫もなければ、カプセル式や専用瓶詰めなど存在しないこのご時勢。

 医療品の荒など探せば幾等でも浮かび上がり、交換を余儀なくされるなど日常茶飯事。
 ましてや薬によっては腐敗や劣化で猛毒になってしまう物も数多くあるのが追い討ち。


「一番の”氷室”から薬! それから残ってくれた人達にお粥を寄越すように伝えてくれ!」


 このご時勢の氷は天然物であり、保存・管理の難しさは天下一品である。
 そんな氷を地下室を建造して気化熱(気化する際に熱を奪っていく現象の事)を利用していた。
 地下熱によって地下水が蒸発する際の気化熱などによって天然冷凍庫が完成するのだ。
 しかし元々そんな物は気化熱で冷える場所であり、常に天然の氷が手に入る場所でなければならない。

 余程の運がなければ氷室なんてそうそうに拝める事はない。

 だがそこに太公望や左慈・干吉の呪術はそんなご時勢を完膚なきまでに破壊していた。
 と言うのも下邸だけで高さ5m・幅30mの地下氷室が”六つ”も存在するのだ。

「二番からの薬が届きました!」
「三番からの包帯も届きましたぜ!」

 干吉や左慈の呪符によって常に冷凍庫を造り上げたのだ。
 氷室維持の燃料の問題は地脈とその土地に住む人間達から、密かに呪力を掠め取る方向に決定。
 元々呪術など使えない人間でも呪力とは自然と生まれて世の中に漏れ出し溶け込む。
 その漏れ出す呪力の行く先を氷室維持へと向けただけであるが、それだけで街の維持は格段に楽なる。

 逐一交換の為に薬を作る必要性の排除と緊急食料の維持。

 だからこそ膨大な量の保存が可能であるが、数万の維持の前には水泡の如く消えていく。
 
「皆さん! お粥を持ってきましたよ!」

「これ食べて元気出してください」

「怪我してるあんた等も! 簡単にくたばんじゃないよ!!」

 すぐ目の前で戦があるにも関わらず、それこそ敵襲によって殺されるかも知れない恐怖があるのに。
 街には何人もの戦えないが”戦える”人達が街に残り出来る限りの事をして”戦っていた”
 料理人の幾人かが残り簡単な料理を作っては冷めない内に兵士達や医師や負傷兵に届ける。
 腹が減っては戦は出来ないが、後ろにその人達がいると言う現実によって兵士達は防衛を更に強固にしていく。

 ―――愛する人が

 ―――大切な人が

 ―――家族が


『今……俺達の後ろで懸命に戦ってくれているッ!!』


 負傷した兵士を、仲間を救う為に医者達が懸命に持てる知識と技術を振るい戦っている。

「熱湯の用意はまだか!?」
「負傷者が二十! その内の三人が重傷です!」
「こっちにも薬を廻してくれ!!」

 こんな激戦の最中にも飯を作り届けてくれる料理人達が限られた物資と戦っている。

「眼の覚める激辛唐辛子入りの握り飯五十個出来たぜ!」
「負傷者さん達用のお粥も出来ましたよ!」
「ほらほら! 次は四番から食料をあるだけ持ってくるんだよ!」

 街から逃げずに自分に出来る事を模索して動き続けている町民が、現実と戦っている。

「石材を使ってくれ! 重いから少しは役に立つ!」
「即席だけど矢も五百本も出来たよ」
「アンタ達! 気付けの美味い飯を持ってきたよ!」

 子供でありながらも逃げずに、懸命に恐怖と戦っている。

「兵士さん! また石集めてきたよ!」
「馬鹿! 子供はさっさと後ろに逃げてろよ!?」
「僕達だってこの街に住んでるんだ! 手伝いたいんだ!」
「……良し! 今日からお前達はこの俺の子分だ! どんどん集めろ!!」

 街へと侵入する流れ矢を掻い潜る者達、内側から投石を行い懸命に抵抗を続ける。
 皮肉にも黄巾賊が大兵力で侵攻して際の経験が役に立ち、更に太公望が見越して行わせた防衛訓練。
 元々は主要な将軍に攻城戦の経験を積ませる為であったが、それが今となって兵士達を活かしている。


「伝令ッ!! 国王が兵力二十万を率い救援に来てくれているそうですッ!!」


 街の各地に放たれた太公望出陣の報は、瞬く間に下邸の者達を勇気付けて再起させていく。
 二十万の大援軍が大量の物資と共に援軍に来ていると言う現実が不安を取り除いていくのだ。
 幸いに国道建築による行軍速度の上昇と下邸と業の近さから、到達に時間はそう掛からない。

「聞いたか皆!」

「国王が…将軍が来てくれるんだよね!?」

「皆、ここが正念場だ! 全軍奮起せよ! 勝利は後ろから来てるぞッ!!」

 青年の言葉に防衛に属する兵士全てが『応ッ!!』と元気良く返事をする。
 動きが格段に良くなるのが眼に見えて判るほどに、兵士達の精神は高ぶっていた。
 と言うのもこの街の駐屯将軍はつい先日病死したばかりでまともなトップなしで戦っていたのだ。
 しかし元々防衛力や駐屯軍のような”部隊”で動ける者達が巧く噛み合い驚異的な防衛力を発揮。

 ましてやここで国王自らの出陣と援軍に希望を見出さない兵士はいない。

 そうして彼ら下邸防衛軍および駐屯軍は、驚異的な結束力で数日間の五万もの猛攻を見事に凌いだのだった。



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 本隊到着時の下邸の街並みは綺麗なれど、そこに転がる死体は不似合いにも程があった。
 戦となる以上は死人が出るのは”当たり前”であり、太公望の夢想の尽くを破壊して塵に変える。
 どれほど努力しようと死人は出る……それを少しでも少なくする位は出来るのだが。


「良く来てくださいました……現在防衛軍の指揮官として一時的に着任している―――」


 目の前の青年の言葉に太公望・左慈・干吉は言葉を失う。


「――――――”劉備”と申します」


 まず浮んだ言葉は”在り得ない”の一言。

 そもそもこの世界の物語は担う者が”劉備”と言う存在に成り代わって、三国志を遂行していくのだ。

 それなのに目の前には劉備と名乗る青年が礼儀正しく礼を行い、太公望達に敬意を表している。

 初めて……ここで初めて太公望はこの世界の根幹について思い出した。


(仕損じた!! この世界はもう女禍の手の平……”三国志”である必要性など何処にもないと言う事を忘れておった
  そもそも良く考えれば”劉備”が愛紗達を率いていない時点で三国志はまず成立しない……つまり消去の筈よ
  孫堅の死の早さも…孫策の死の早さも…そうよ世界の始まりの時点でワシは気付かねば――――――ならなかったのだ!)


 そう…太公望の知る歴史通りならばこの物語は”始端”の時点で、あまりにも大きく道筋を外れてしまっている。

 ―――劉備が己の理想故に無様に彷徨い歩き

 ―――曹操が自分の欲望故に滑稽に好色に溺れ

 ―――孫権が自らの若さ故に疑心暗鬼に閉じ篭る

 太公望は気付けなかった滑稽で・無様で・惨めで……何よりも策士であり知識ある者としての自分を忘れた事に怒りを覚える。

 強く噛み締められた唇からは血が僅かながらに流れ出し、歯軋りの音はその場にいる者達にまで聞える程の音。
 握り締められた手はあまりの強さに指の骨が悲鳴を挙げ、心臓は限界と言わんばかりに鼓動を高鳴らせ耳障りに泣く。

「ごっご主人様?」
「どうなされた主殿?」
「………国王?」

 本人は気付いてこそいないがその形相は悪鬼羅刹の形相とでも表現しても、まだ生温いほどに歪にして狂気。

 ―――劉備の魅力に数多の英傑が誓い

 ―――曹操の才気は数多の英傑を引き寄せ

 ―――孫権の血筋に数多の英傑は集う

 数多モノ英傑達によって繰り広げられる覇権・信念・正義・欲望・悪などが複雑に入り乱れ混ざり合う戦の世界。
 各々が各々の理念や信念を携え、それ故にお互いを理解し、それと同時に否定しあい戦乱を彩られる。
 そこにある人間の生き様こそ三国志を彩るものであり、それと同時に醜さがより事を彩り染め上げていく。


「いや惨状を見ての……ところで劉備よ…否……お主は誰で何者だ?」


 その言葉に困惑していた周囲の護衛……愛紗達が一斉に劉備に己の得物を構える。
 鳳国には軍として参加する事となった兵士は一時的に中央に招集され、名前と顔を覚えられる義務があった。
 無論太公望の自己満足の為とは言え中央に行けて業の栄えぶりを体感でき、国王にも無償で謁見できる。
 立身出世を望む者ならば少しでも中央を見ておこうと、喜んで飛びつく者が相当居るのだから困りもの。

 ―――それなのに太公望が”知らない”と言うのはそう言う事

 つまり劉備は従軍しておきながら中央への義務を放棄し、終いにはここの指揮官にまで認められている。
 義務を放棄しておいて堂々と国王の前に現れた劉備の根性は見上げたものだが、赦されるモノではない。

「わっ私は……その…えっと………」

「敵軍は先日の疲弊で動けぬようですし、しかしこちらも強行軍が祟って少し兵士達に疲労の色が見えます
  それに下邸から逃れてきた人達の保護で兵力を分断もありましたし…救援優先で仕事に移りましょう」

「……そうね、朱里の言うとおり僕達が今しないといけないのは救護と明日にでも打って出る為の支度
  こんな奴の為に僕達が油どころか貴重な時間を売ってる様子なんて全然ないから」

 反論したい所だが、太公望式の勉強方法の成果か何とこの現状を全員がしっかりと理解。
 この場に残ったのは太公望と近衛の恋だけであり、他の面々は急いで兵士達の休息などを命ずる。
 それから動ける者や雪の救援隊が忙しく動き始め持って来た物資の運搬や負傷兵の治療を開始。


「では答えてもらうかの?」


「わっ私の名は劉備、劉の一族の末裔であり太祖劉勝の子孫でもあります
  しかし私はそんな血筋でありながら武芸にはまったく恵まれず、腕も未熟な半端者
  出来る事と言えば学問の師たる櫨植先生から学んだ知識で少し位の兵法が出来るのみ
  身体も決して強い方ではなく幼少の頃より親に迷惑ばかりを掛ける親不孝者です
  でもそんな私でもその学問を子供達に教える小さな塾の先生をしていたのですが……
  今回の呉の侵攻に加えて駐屯将軍の病死で混乱する皆をこの知識で少しでも救いたかったのです!」


 土下座をする劉備に対して何も言わない太公望。
 つまりこの劉備は貧弱で武術の才は麗羽以下、しかも軍に入る事も出来ず学士へ転任。
 しかし今回の侵攻に少しでも抵抗しようと今は亡き漢軍の名将櫨植(ろしゅく)から授けられた知識を披露。
 元々”劉備”としての才能である人徳や魅力もあって彼の指示通りに防衛軍は奮戦していたらしい。
 良く実戦経験もないような者の指示を防衛軍が受けたと不思議に思うが、師はかの櫨植なのだ。


「先程は……かの国王がやって来られると聞き虚栄心が勝りこのような嘘をした事をお詫びします!」


 劉備は結果として軍に入る事が出来ずに、小さな塾を営みながら下邸で暮らしていた。
 しかし軍人や漢王朝再興の夢を捨てきれずに、今だ鳳国に現れる賊徒相手に小さな自警団を指揮して戦う日々。
 そんな劉備を知る下邸防衛軍はこの本物の戦の土壇場でも劉備の才気と人柄を信じて指示を委ねた。
 案の定と言うべきか名将の実戦知識に裏付けられた戦術に、賊徒相手でも実戦をこなした経験が劉備を支える。
 だが正式な軍人でない自分が軍人として取り上げられるのは今において他はない。

 だから軍人の格好と振りをして太公望に出会い、あわよくば仕官と言うつもりであったのだ。

 流石に劉備は太公望の姿勢と言うか……覚悟を馬鹿にしすぎている。
 何せ鳳国軍八十万を超える兵士の顔と名前を体裁とは言えしっかりと覚えているのだから。
 そんな太公望相手にこんな嘘が通るなどと考えた時点で見上げた根性であり、小物であった。


「素直に謝った事と下邸防衛の功績で極刑にはせぬが……このワシを謀るなど見上げた根性よ
  じゃが貴様の虚栄心は下手をすればワシ自ら手を下し、屍に変えるつもりだったが気が変わった
  劉備よ………軍人にはなれぬならば、ワシの知識を世に広める学士になるつもりはないか?
  太平の世の知識を語り継ぎ紡ぎ子供達にワシ等の知識を教える学士と言うのも視野に入れておけ
  戦えぬならば自分にしか出来ぬ・自分だからこそ出来る”戦”を見つけておくのが得策よ」


「へっ? えっ?」 


 処刑すら覚悟していたのに、太公望の口から紡がれたのは赦す所か特別な学士になる気はないか? という言葉。
 流石の劉備も呆気に取られて何も言えずじまいに加えて太公望はスタスタと街中へと姿を消す。
 負傷兵の治療に多くの者達が飛び交い、料理人達が懸命に支え、町民達が模索しながら戦う街中へと。

 されど劉備には今の言葉の意味は……奇遇にもこの戦によって見出している。

 自分に出来る事を、師櫨植から教えられた誠実で不器用な生き方もまたある意味で彼の根幹である。


『夢の為に努力する事を怠るな・小さな善を蔑ろにせず・小さな悪から目を瞑る事のない者となれ』


 劉備は嘘をついてまで仕官しようとした自分が無性に恥ずかしくなってしまう。
 それこそ師は小さな悪から目を瞑るなと言ったのに、仕官したさに自らを嘘で隠してしまう。
 更には夢に敗れた、才気がないなどと思い込み努力から逃げ出した自分を一発殴りたい衝動にも襲われた。

 何よりも琢群に居た頃に出逢った二人の少女に零した言葉を思い出して嘆いた。

 ―――自分はいつからこんな小物になったのだろうか? 

 英雄の名を持つ青年は、一昔前の思い出に忘れたモノを思い出す。



「傷口の縫合と麻酔は欠かさないで、それから熱湯は常に作り続けて道具の除菌も忘れないで
  しっかりと症状に合わせて薬を使わないと怪我はなおらないわ、それと重傷人優先でお願い
  薬の分配は均等にお願い…何処か一箇所に片寄ると処理化しづらくなるから気をつけて」



 雪の的確な指示に医者や手伝いの者達がキビキビと動き、負傷兵の治療に当たる。
 鳳国の救護隊は今や戦場の英雄の一つでありこれを束ねる雪は女神扱いまでされるほど。
 元々医学に対して才能があったのかも知れないがその技術は太公望から教えられた技術だけではない。
 自ら新しい薬や治療術の探求を怠らず、更には太平道術まで利用した治療術で医長の地位に就いている。
 また知識の開示に対しての抵抗も無く、太公望の許可の下に様々な医学書を書き上げ各地に広めても居た。

「雪様! また一人……」

「立ち止まらないで、ここで立ち止まる時間がある位なら救える人を探しなさい
  薬も包帯も備蓄が多く持ってきているから惜しまないで、呪術が使える人は重傷優先で
  それからもう少し警戒の人を寄越すように伝えて…騒動に紛れ込む輩もいるから」

 救援隊には太平道術を”雪から学んだ”者達が呪術での治療や、薬の配布に全力を挙げている。
 ある意味では三国志と言う物語の始端を担う黄巾賊の残党が静まったのはこれが最大の理由。
 元々黄巾賊頭領の張三兄弟はしっかりとした天下改正の意志を持ち、決起へと走った。
 それに張角は授けられた太平道術を人助けに運用して人心を掌握してたが時勢はそれだは救えぬ時代。

 更に張角はあと数年はゆっくりと決起への仕込みが欲しかったのだ。

 しかし張角は部下の密告によって統率体制などの完成を前に、決起を強攻する羽目に。
 結果が本人達や張角達の人格を知りあくまでも”民衆の為の決起”はいつしか”ただの暴動”へと成り下がる。
 元より張角達の統率力の低さやこの時勢の国は血脈優先であり、その一点で仕損じたのが大きい。
 だからこそ黄巾の乱は義勇の乱ではなくただの暴動へと成り下がり、それすら鎮圧できない官軍が英傑の覚醒へと結びついた。

「………何しに来たんですか」

「んや、単にお主の健気にも努力する姿を見にの」

 雪を慕う者達は決して医者ばかりではない……元黄巾賊達の方がむしろ数が多い。
 愛娘として密かに呪術を会得して父親達と共に人々に振り撒いては、感謝されていた存在。
 張角の知人や側近に雪の正体を知る者達はおり、当然の如く雪に詰め寄ってきた事もあった。

『何故です!? 何故に雪様がお父上達の仇である者達に仕えいるのですか!?』

『……今の私は奴隷商人から太公望様に、終生の主君に買われた【雪】で、ただの女です』

 張角は病死・叔父に当たる二人は官軍左右将軍である皇甫嵩と朱俊に破れ戦死していた。
 更に本隊はまだ存命であった劉備の学問の師である櫨植の合流によって一矢怒涛の攻勢に壊滅。
 元々官軍最後の名将である三人が集った時の強さは官軍と言えど見事に黄巾賊本隊を撃滅してみせる程。

 しかし側近達から言わせてみれば『何故に下々の賊徒の為に張角様が死なねばならなかった!?』である。

 生き残った雪は奴隷商人に捕まり売られていた所を、まだ弱小であった太公望に拾われ事無きを。
 されどやはり太公望が張三兄弟の仇たる官軍左右将軍を配下におく劉虞と手を結ぶのは赦せない。
 また太公望が天下を正しに来たのならば何故、張角の時に現れてくれなかったのかと憤怒の至り。


『張冥様! 今こそ我等が身に刻みし太平道の力で今一度天下を……』


『貴方達は今この土地に住めている太公望様のご容赦と言う事を忘れているの!?
  周囲から黄巾賊残党と謗られ狩られる最中に多くの同胞を救って下さっているのは誰!?
  自らの立場が悪くなるかも知れないのに黄巾賊を受け入れてくださるのは誰!?
  今ここに私達が生きていられるのも一体誰のお陰か、貴方達はそれすら判らないの!?』


 雪のこの説得の言葉に側近達はこれ以降は決して黄巾賊の仇討ちを口にする事はなくなった。
 むしろそれでも口にしようとする者達を干吉が障害になりうると見なして”消して”いたのだが。
 人柄も良く仮にも太公望が唯一自分の手で買った奴隷とあって国や軍で手を出そうなどと考える者はいない。

「ならご自分の仕事をなさってください…サボれる状況ではないとおもいます」

 その言葉に対して太公望は何の返答もせず、眼前に横たわる怪我人達を少しだけ見た後に朱里達の元へと行く。
 対する雪も何も言わずに黙々とただ怪我人達の治療を行う…呪術を多用する副作用でふらつく身体を押しながら。


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 城壁の向こう側に鎮座している反乱軍五万の軍勢は静観してる。
 やって来た本隊との真っ向勝負を望むのか、それとも後退した直後に大騎馬団による追撃を望むか。
 どの道だが反乱軍五万に”生還”の文字は存在しない、鳳国軍は報復を今か今かと待っているのだから。
 その算段も兼ねて街の中に急遽造られた将軍達の軍議の場に一同は集っていた…いないのは雪だけである。

「劉備さんの正体はどうでしたか?」

「王室の末裔で非力さに破れ名将の弟子だが開花せど鳴かす飛ばす、士官すら敵わず私塾をしていただけよ
  だがまぁ……良い眼と覚悟と根性は持っておった、もっと別の形で開花させればあれは飛翔するぞ」


 ”王室の末裔”


 つまり劉虞と同じ漢王室の血筋の一人であり、そう言った筋でならば本来ならば相当の力を持つ者。
 また櫨植と言えば漢王朝屈指の名将でありその愛弟子と言うのはやはり実力や資質の欠片を見せる、
 太公望からも開花すれば飛翔すると認められる程の才能を秘めた存在と言うのはやはり稀有。
 されど鳳国は血筋よりも才能と仁義などの精神を重んずる実力主義世界であり、血筋だけではどうにもならない。
 ましてや劉備は軍への一兵卒としてすらなる事が敵わず塾で子供達を相手に勉強を教えていたのだ。

「まっ、所詮は血筋だけの人間か……努力すれば”卓越した凡人”にはなれただろうに」

「この場に曹操がいなくて良かったわね、きっとボロボロの言い草しただろうから」

 今や大陸は血筋ではなく実力であり、太公望と曹操の二人はその実力主義に共感しあう所があった。
 しかし曹操こと華琳はそれに対する意見が毒舌すぎて良く血筋を重んずる臣下との間でイザコザがあったと言う。
 対する太公望は得意の口車で反感を買うよりも説得に廻る主義であり、年の功の交渉術を携えている。
 それでも志願兵に対して更に選別試験を行い、屈強さと高い士気で構成された軍隊を凄まじい勢いで形成した手腕。
 だからこそ太公望の姿勢は民衆に理解され、反感やヒンシュクを買う事無く安定した足場を作り出せた。


「劉備殿の悪口を言うのは止してくれ」

「劉備お兄ちゃんを馬鹿にするのは鈴々が赦さない」


 やはり…と言うべき二人が他の面々の口を閉じさせる発言をする。
 太公望が劉備の出現でもっとも恐れるのは……愛紗と鈴々の劉備側への離脱。
 史実において関羽と張飛の二人の劉備への忠義は並大抵の者とは次元が異なる程に、屈強である。
 この世界では”劉備の存在がない”と言う前提で造られた筈にも関わらず今になって現れる因果。
 更には仮にも鳳国の、太公望の懐刀であり片腕と称される二人が堂々とこう言っては場も不穏になってしまう。

「……アンタ、今の発言が何を言ってるのか解ってるの?」

「ご主人様の片腕を違える気はない、だが劉備殿も劉備殿なりに考えて決起せずに…」

「ふっ、そんな事は世の誰にでも言える言い訳だな…力がないからと言えば全て丸く納まるものだ」

 愛紗の発言を遮ったのは椛、望まない決起をさせられた面々から言わせれば劉備の考えは甘く思えた。
 それこそ才能を備えても誰もが絶え間ない努力などで才能を磨き上げ、腐敗せぬようにしている。
 劉備は仮にも名将から教えを請えるだけの実力者でありながら、自ら力が無いと言って逃げ出した。

 それが大半の面々が抱く劉備に対する認識である。

 ましてや努力によってそれを才能へと昇華させた麗羽の存在を知る面々に、才能の有無の言い訳はきかない。
 だが同時に劉備が漢王室の血筋とあれば下手な決起が意味するのは黄巾の乱の再来を意味しかねない点がある。
 腐敗の真っ只中に王室の血筋が名乗りを上げ、腐敗の改正を謳いながら何処かの勢力にでも飲み込まれれば結果は簡潔。
 体の良い人形として君臨するか人寄せの為に利用されて後はゴミの如く捨てられるのが”結末”であるのだから。

「何だと?」

「戦場を目の前にして他所の男に浮気をするような奴に【片腕】は任せれんと言っているのだが?」

 太公望の【片腕】は並みの意味ではない、それこそ太公望の実力や戦歴に統治している土地の大きさから何もかもが桁違い。
 そんな人物の【片腕】は憧れや絶大な権力とも取られる程に大きく重たいだけでない、それだけ”大切”と言う事を意味する。
 誰とて五体を大事にしない、それこそ兵士であり戦士であれば腕の価値や脚の価値や有無がどれほどに大きいは知っているだろう。
 今は最古参として【左腕:愛紗】・【右腕:左慈】と言う事になっているが、これはあくまで古参に対する処置でしかない。

 つまり誰もが実力として【片腕】の地位を名実共に欲しているのだ。

 武術は間違いなく恋であり、だからこその【総大将直衛】と言う近衛の役職を授けられているのだ。
 無論女心が混ざってこの会議の場はそれこそ数少ない男の左慈と干吉は居心地が悪く、女同士の殺気がせめぎ合う。
 誰もが自分こそ【片腕】と言いたいのをずっと太公望への恋心や自分達の感情が支障になると我慢して来たのだ。

「ほぅ…随分と余裕があるな華雄?」

「関羽、貴様とは一度しっかりと刃を交えねばならないみたいだな」

 最古参としての意地のある愛紗と月以上に心を開いた人への想いがある椛が、双方真名で呼ばす歴史の名で呼ぶ。
 二人とも武器を片手にいつでも切り合えるとばかりに殺気を放ち冷ややかな視線をぶつけ合う。
 仲裁しようとする太公望の思考にも歴史を知る者特有の思考に対する楔(くさび)が打ち込まれていた。

 ―――仲裁するのが歴史通りなのか

 ―――それとも仲裁せぬのが歴史通りなのか


(孫尚香を討つか…救うか……勝つか負けるか――――――何故今更になって迷うのだ)


 今まで迷わず行動して来たにも関わらず【劉備】の存在によって一気に困惑させられる太公望。
 それは左慈や干吉も同じであり、密かに暗部による情報収集や道士仲間による思念会話もしている。
 更に記憶を洗いざらい探してみても今まで太公望が位置している位置こそが【劉備】であり何者でもない。
 どれほど探せど満足する答えは返ってこず、亀裂を前にして何の対処も出来ない状況が訪れる。
 結果突然として現れた存在は予想以上に鳳国上層部に亀裂や不審を生み出し、危険な状況に陥っていた。

「あのぉ…今は目の前のシャオ様の軍勢をどうするかの軍議なんじゃないんですか?」

「陸遜の言うとおりだ、我々の内輪揉めによって起きた戦だ…太公望、すまないが兵を五万ほど貸して欲しい
  臣下がこのような状況ではかえって危険だ、兵さえ貸し与えてくれるなら我々だけでなんとかしてみる
  敵を目の前にしてこのように浮気話で大喧嘩しているようでは連携も何もあったものではないだろうしな」

 喧嘩腰の二人を中心にした殺気の渦をさっさと抜け出したのは孫権達であり、真剣な姿勢で太公望に意見する。
 確かに蓮華は呉国であり鳳国の人間ではない、目の前の渦中は鳳国の者達の者であり蓮華達は蚊帳の外なのだから。
 しかし言い方が悪かったのか含みをあえて混ぜたのか発言は明らかに『呆れている』と言っているような物であった。

「随分と含んだ言い方をするな孫権?」

「気に障ったか? これは私と太公望の交渉だ…そちらはそちらの話を続けてくれ関係のない事だからな」

 部外者にどうこう言えた義理もないが、愛紗の頭には余程”キタ”らしく自制を破って身体は勝手に武器を振るう。
 思春が腰に下げている剣で愛紗の堰月刀の軌道に割り込むよりも早く、恋の戟矛が割り込み愛紗の一撃を造作もなく止める。
 激昂した一撃は本来の威力など宿しておらず元々恋の筋力などが優れているとは言え、片手で軽々と防げはしない。
 流石に自分がしてしまった事に慌て狼狽する愛紗に対する視線は皆が冷ややかである。

「……いい加減にする」

「そうよ二人とも、敵を前にして争うのは止しましょう……でも愛紗ちゃんの今の行動は赦されないわ
  孫権さんにも悪い所があるけど、それでも激昂したからとは言え同盟国の王に刃を向けるのはダメよ」

「冷静さのない関羽と一緒に戦場を駆ける気はウチにはないわ…望チンの判断しだいやけどね」

 一気に視線が太公望に集まるが、本来の即断を始めた判断力を働かない太公望の答えは返ってこない。
 それに流石に違和感を覚えた面々が太公望に声を掛け、愛紗の行動に対する処罰をどうするのか聞いてくる。

(どうする…どうすれば)

「……ここはまったく”異なる歴史”だ、貴様が望む答えを言えば良い…正しいと思う答えをな」

 存在しない筈の存在によって自慢の思考力に深く打ち込まれた大きな楔が、ほんの少しだけ外れる。
 太公望は前の世界でも女禍に打ち勝てた、更に女禍の性格や行動理念を考え直しても見た。
 更にこの世界での最大にして最高の手足たる南華老仙は自らの独自の目的の為に動いている節がある。
 つまり常に女禍の為に動いているとは言い切れず、太公望は自らの”運”を信じて行動に決心を伴わせた。

 それでも楔が消える訳では無いが―――


「愛紗…そこまで劉備に恩義があるならばこの地に残り守備隊を指揮しろ
  前線への移動および援軍としての個人的な感傷による軍の使用の一切を禁ずる
  鈴々も愛紗と共にこの地に残りこの街を護れ、反論の一切を赦す道理はない
  仮にも同盟国の国王に刃を向けたのだ……首が繋がっているだけマシと思え」


 太公望から下された愛紗への処罰は下邸の地に指揮下の数万と共に留まり、疲労困憊している下邸の地を護る事。
 しかし付け加えられている『本隊への一切の従軍不可』は事実上の戦力外通告であり、愛紗にとっては最悪の宣告。
 常に左将軍として、最古参として共に居続けていた筈の自分がふとした事で我を忘れて大失態を犯し戦力から外される。
 愛紗の思考は真っ白へと変色し、ただ唖然と後悔の一念に支配されて崩れ落ちその後の事などほとんど覚えない事に。



「―――では、夜明けを待ち外の反乱軍孫尚香隊の五万を”一掃”するが先鋒を…………」



 自らの副官に引きつられるように愛紗はただ無言と失念のままに会議の場を立ち去る。
 鈴々もそれに続き自らが戦力外通告された事よりも眼の前の愛紗の方が心配で仕方なかった。
 二人にも二人になりに劉備を邪険されたくない理由はあったが、それを語るにはもはや立場が高くなりすぎた。
 高みに上った事で二人は恩師と呼べる人物との繋がりそのものが自分達を追い詰めている状況に苛まれる事に。


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 愛紗が孫権に刃を向けていた時とほぼ同時刻の鳳国首都【業】の王城で、その騒ぎは起こるべくして起きたのかも知れない。


「何をしていますの?」

「これは袁紹様、いえなに…この反乱軍が送り込んできた間者を少々……」


 太公望が出陣してからすぐに二喬こと大喬と小喬は凄まじく肩身の狭い想いをすると同時に、ただ混乱していた。
 二人は周喩に心酔こそするが周喩の様に孫権に対して嫌悪感を持っていなければ、頭ごなしの否定も一切していない。
 むしろ孫策の後継者として着実に成長し、努力している孫権の事は憎からずも思っており信頼もしていたつもり。
 もし気に入らないならば気に入らないなりに行動はとうの昔に起こしていたが、結局静観をし続けてきたのだ。


 ―――そこに突然知らされる『孫策奇跡の再臨』と『周喩による呉国支配と大反乱』の報


 二人は周喩も決して孫権を否定していた訳ではなく、ただ亡き孫策の影を求めていただけと言うのを知っている。
 そしてそれは太史慈もまた同じであり周喩と同じ亡き孫策への忠義と想いこそ原動力だと知っていた。
 なのに…なのに周喩ほどの人物が死人を―――キョンシーを本物と間違えている事に苦しまされてしまう。
 自分達は周喩の心のシコリを取り除けなかった、太史慈や孫権達のように立ち直らせるキッカケになれなかった。
 苦しみはひたすらに戦う事の出来ない二人を攻め立て、心を蝕んでいく。


「この二人はあの反乱軍の大将である周喩が送ってきた間者です! 大事になる前に全てを”吐かせる”べきです」


 兵士達の心配ももっともであり、確かにその行動は間違っては居ない。
 周喩が率先して送ってきた二喬は間違いなく間者であったが、既にその意思は太公望達の手によって食い潰されている。

「その二人ならば既に間者として機能しておりませんわ、もうその意思は望様が撃ち砕きする意志などありませんわ」

「しかし!」

「それにこの二喬の処遇は今ここにいる私に一任されています……まだ目立って行動した訳では有りませんわ
  もしここで二喬のお二人に何かすれば敵軍に大義名分の一つを与えてしまいまうのは明確なのは当然の事
  ならば飼い殺しにするのが今ここの総大将であるこの袁紹の判断! 下手な手出しは無用と思いなさい!」

 袁紹の総大将としての指示に反対や反感はおきないが、兵士達の間ではもう二喬に対する心証は最悪と判明してしまう。
 兵士達も仮にも太公望直下の将軍であり首都防衛の総大将たる袁紹に対して堂々と文句を良いわしないが眼は物語っていた。

 ―――それでも自分達は二喬を信じはしない

 兵士達は渋々と解散し、二喬は拷問や尋問の地獄を今回は回避出来たが強硬派がいない訳では無い。
 次に出会うのが強硬派であり袁紹などの武将に出会えなければ、上層部の判断など請わずに行いかねない。
 それは鳳国では決して表沙汰にされる訳にはいかない大きな問題の火種であり、一気に内輪揉めの原因となる。

「お二人とも…大丈夫ですか?」

「はい…大丈夫です………大丈夫」

 ふらふらとした足取りでお互いの肩を支えあい、よろよろと自室へと戻っていく。
 そんな小さくて儚く今にも壊れてしまいそうな二人の監視と護衛を務める数人の暗部が、麗羽に話しかける。

「一人は現状の報告と望様の判断を早急に聞いてきてください、残りは私が後で割符を渡しますからあの二人をお願いしますわ」

「……承知しました」

 数人の暗部は言い渡された仕事に従事するが、彼らとて全員が全員二喬の処遇に対しては決して納得はしていない。
 しかしだからと言って拷問を行おうなどとは考えず、今は大将たる麗羽につき従うのみである。
 暗部はすぐさま行動を起こし、影の中へと消え姿も気配も消してただ暗部としての行動に従事するだけ。


「望様がいないだけでこんなにも兵士達が脆いなんて……学ぶ事はまだまだ多いですわね
  まずはここに残っている将軍や軍師を招集して軍議を行うのと二喬の処遇について…それから」

 
 鳳国の危険な現状を目の当たりにした麗羽は努力によって鍛え上げられた能力を駆使し始めた。
 兵士達の派閥抗争を防ぐ手立てと二喬に対する処遇をどうするかの判断に…最悪の事態の回避方法。
 更に万が一の敵軍侵攻への対処に本隊や分隊への支援軍の形成と大将の仕事の多さを前に足並みが止まる。

「姫―――!」
「お―――い、麗羽!」

 しかし脚が止まったのは正解であったようだ。


「……ふふっ、どうしてこうも頃合(タイミング)が良いのでしょうね」


 次第に近づいてくる声と足音に、少しずつはっきりとして来る輪郭。
 何故か麗羽は自然と強張っていた表情が自然と緩むのを理解していた。
 そして暖かな微笑んでいる自分がいる事も何故か良く分かった。


 ―――だがその笑顔が撃ち砕かれるのに時間は掛からない


 絶望はすぐ傍に佇んでいるのだから。


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 別働隊の華琳は自分でも不思議なくらい”嫌な感覚”を感じ取っていた。
 その所為か十万の預けられた軍勢に半ば強行軍を強いながらも蔡冒との合流地点を目指している。
 兵士達の多くが旧魏兵が構成されており、華琳が抱いているある種の不安から来る焦燥を悟っていたのかも知れない。
 無論春蘭達が華琳の焦燥を悟っていない訳がなく、同時に華琳が”焦燥”を抱く事そのものに”焦燥している”。

 ―――そして最悪な程に華琳の焦燥は”最悪”を引き当ててしまう


「……蔡冒殿?」

「馬鹿な…かの蔡水軍が……」


 最初に絶望させられた風景は小高い丘から見渡せる場所から見えた、燃え盛る膨大な数の船団の姿。
 船には無数の【蔡】の文字が掲げられた旗が風に揺れていたがそれはごく僅かな数しか存在しない。
 あとはただボロボロに引き裂かれ、気高く造られていたであろう元の姿を想像する事すら敵わない。


「蔡冒小父さん?」

「そんな、仮にも呉にも匹敵する強兵揃いの水軍が…こんな……」


 次に絶望させられた風景はただ河を埋め尽くし堤防の如く浮ぶ蔡冒軍の兵士達の亡骸。
 激戦を物語るかのような無惨な死体の数々に群がる膨大な数の獣達がその恐怖が倍増させていく。
 槍に突き立てられた死体は腐食している者もあり腕や脚が崩れ落ち、目玉などが飛び出ているほど。
 明らかな狂気たる”戦後”がそこにはただ際限なく広がっている。


「………【劉】の御旗…劉焉ならまだしも主君たる劉表に討たれるなんて」


 華琳が怒気に満ちた眼で見下す風景に勝者として優雅に佇んでいる【劉】の御旗の数々。
 中には蜀の地で建国を果たしたが華琳に破れ、その華琳が破れた事で太公望に敗れた劉焉の旗。
 もう一つもまた華琳に敗れたと言うよりも平和主義を主張し治世で活躍していた劉表の旗。
 それが自身の最高の臣下と称えていた蔡冒を殺しその水軍を滅ぼしているのは、何処か悲しい。


 ―――だが華琳の怒りをもっとも誘うのはその軍勢のもっとも大きく掲げている御旗である。


『蛮族の王たる太公望を赦すな! 蛮族を気高き我等の王にするな! 蛮族を迎え入れる太公望を殺せ!
  蛮族の分際で我等の守護神たる四聖と四霊を使うな! 帝にのみ赦されし龍の御旗を掲げさせるな!
  我等が帝の一族を皆殺しにした蛮王太公望を赦すな! 帝による誇り高き治世の世を呼び覚まさせる!
  太公望に組する全ての者達に聖戦による死を与えよ! 与えしモノの全てを我等が手で蹂躙しつくせ!
  穢れに満ちた蛮王をこの大地より死によって追いだぜ! 蛮族を全てこの大地より皆殺しにせよ!
  【劉】の血筋による王朝の再臨を! 蛮族の血筋に滅びを! 組する全てに滅びを与える聖戦を!』


 それは明確な宣戦布告であると同時に鳳国の全てを否定し、蔑む複数の旗に掻き分けられた【劉連合】の大義名分。
 確かに太公望の出自は蛮族と蔑まれる部族の生れだが、それはかつての帝が信頼した馬騰の太祖に当たる存在。
 帝は蛮族でありながら帝に忠節を持ち自らの為に忠誠を誓う馬騰を大層信頼したからこそ、土地と移住権を与えたのだ。
 しかも太公望が帝の血筋を殺したなど根も葉もない嘘であり、帝の死は南華老仙の軍勢によって放たれた炎によるモノ。
 太公望が国王として建国こそしているが【帝】として名乗りを挙げた訳でもなければ、なりたいなど言う訳がない。

「太公望殿がどれほど苦労して国土安寧を願っているかも知らずによくもヌケヌケと」

 秋蘭は旧魏軍でも太公望に対する恩義は人一倍であり、同時に太公望は秋蘭を華琳同様に信頼し当初では信じられない程の権限を与えた。
 立場の悪い華琳達を護る為の権限を周囲からの陰口すら気にせず与え、時として愛紗達とすら対峙しながらも権限を与えくれた。
 だからこそ秋蘭はどれ程の陰口を叩かれようと華琳達を護れ、同時に太公望が護った自らの命を恩義を決して忘れる事はない。
 それ故か旧魏軍でもっともその御旗に掲げられた太公望に対する侮辱の文章が決して赦せず、今もその矢で引き裂きたかった。

「……気に喰わんな、華琳様突撃の指示を」

 春蘭も決して頭が強い方ではないが、旗が言いたいのは話もしていない人物を批判しながら更に実態も知らない部族への罵倒。
 武人たる春蘭にとって蛮族と蔑まされている者達の馬術や弓術は純粋に尊敬に値するモノであり、幾度か師事もしている。
 自慢の臣下であり良く華琳達に劉表の人柄を自慢しながら自らの才気に驕っていなかった蔡冒の人柄を知るからこその怒り。
 武人としての共感を持つ者達への侮辱と太公望への侮辱は主君華琳の侮辱であり、その華琳が仕える程の人物への侮辱は赦さない。

「……小父さん」

 季衣は幼さから良く蔡冒にとって娘のようだと言って世話を焼いてもらった暖かい経験がある。
 そして口喧嘩ばかりせど何だかんだと仲の良い鈴々のようなチビッ子仲間への侮辱も赦せない。
 なにより自分にも見せてくれる太公望の父親の大きさと暖かさを”蛮族”だからと否定されるのも赦せない。
 それに太公望の政治手腕によって小さな村でも飢えている者達の少なさと、自分もお腹一杯に食べれる日々を純粋に感謝している。

「ふんっ、力も無い奴等が何をヌケヌケと言ってるのかしら…華琳様、すぐに策を」

 桂花は無論太公望の事を気に入らないが、純粋な能力の一点ならばそれこそ尊敬し、軍師として認めている。
 優秀な軍師仲間の存在への侮辱にそもそも王朝が腐敗したからこその現状すら悟れず、好き勝手良い喚く馬鹿共への哀れみ。
 更に組する者全てに滅びと言うのは親愛なる華琳も含まれ、華琳に敵対する者は敵でありそれを撃ち砕くのは自らの仕事。
 だが桂花自身でも理解出来ない程に太公望への侮辱が何故か赦せず、完璧にして最高の蹂躙の策を捻り出そうとしている。


「――――――合流が遅れても構わないわ……一切の情け容赦なく潰す」


 太公望の苦悩を知る華琳にとって、これ程の侮辱はただひたすらに赦せなかった。 
 血筋や格式に拘り国を腐敗させた連中がまた現れようとしている。
 異民族の同胞達の事を何も知らずに平然と侮辱し排除などと叫んでいる。
 何より自らをもっとも慕い付き従っていた筈の旧友蔡冒を殺しながら依然としている事。
 目の前の敵がしている事の”全て”が気に入らず、そして絶対に赦せない。

 ―――主力を欠きながら反乱軍と激突する太公望隊

 ―――突如して起きた絶望に対処する麗羽隊

 ―――蜂起軍と対峙し怒りを燃やす華琳隊

 標されし未来なのか…それともまったく異なる未来なのか? 

 それを知る者はただ歪にほくそ笑むだけ。


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■作者からのメッセージ
黒い鳩様
お久しぶりです
メッセに参加できずに申し訳こざいませんでした
何かうちの姉がブロックしているのかまったく出来なくて
二ヶ月も音沙汰なしで申し訳ございませんでした

春都様
お久しぶりです
孫策さえ使えばきっと原作のような手間も必要ないでしょうしね
下手な後悔な懺悔などなく周喩は全力で行動するでしょうし
孫権のふとした事による成長と麗羽の涙ぐましい努力による開花
二ヶ月もかかってすみませんでした

YOROZU様
お久しぶりです
無駄死にではありませんが、流血には変わりませんね
太公望にとっては血が流れる事すら本来は拒絶しているのですから
そして白装束による一斉決起や鳳国の危機がついに目の前に
二週間のつもりが二ヶ月も掛かってすみませんでした

ソウシ様
お久しぶりです
周喩生存の道程は遠いですね、何分強制ではなく自らの決起ですから
更に焦土作戦による鳳国の民の血が流れすぎと言うのもありますね
孫権次第かも知れませんが……道は険しいです
伏義は結構腹黒ですね、何分女禍を討つ為なら結構な事してましたし
それでは〜〜

やっと帰ってこれました
家のリフォームやら大学の課題の忙しさやバイト生活の辛さ
新体験とは身体に負担が掛かります、インフルエンザの流行もありましたし
とりあえず帰って来れましたが、更新ペースは大分乱れそうです
なにより劉備の登場がここまで執筆に影響するとは……自分でも思ってませんでした
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