「おおおおおおおおおおおおおおおおおおッ」
猛るライフルが幾千の銃弾を吐き出した。その先にいるのは軍服を着た吸血鬼化武装親衛隊。
当たらない、当たらない、当たらない!敵は人外の脚力をもって天井まで足場として使い、縦横無尽に避け狂う。
その無手の一撃は人間を原型を残さぬ程の粉砕し、飢えたその牙は人間を頭蓋骨ごと砕いて喰った。
喰らう、喰らう。最早吸うではない。飽き足らない。腹を割り腸を引き出し流出した血液にぬめりてかるそれらを銜えながら次の主菜を求めて駆け狂う。
館が燃える。燃え堕ちる。傭兵たちの助けを求める声が響き渡る。全ては最早無駄だ。手遅れだ。
館に侵入された、その一事をもって全ては最早台無しになったのだ。
「ケハハハハハハハあハああハハハハハハハハハハハハハハハハハハハあッ」
ゾーリン・ブリッツは右手に携えた白黒の縞模様の大鎌を振り抜いた。瞬間、傭兵たちの胴体は脚と別れ壁に張り付いた。
悲鳴など意に介せぬ。哀願など意に介さぬ!斬って殺して切って殺して伐って殺して剪って殺す。
彼女の後ろでは部下たちが哀れな傭兵の首をすっぽ抜き、存分に食い散らかしていた。まだ暖かい生首は漆喰の壁にナイフで貼り付けた。
両目は抉られ苦悶と絶望を浮かべていた。元は白かった壁は血色に塗り替えられ、そこここに血文字にて「敗北主義者蟲のように死ぬ」などと落書きをされていた。
「弱い弱い弱い弱い弱い弱い!弱い、弱すぎる!これが王立国教騎士団か!これがヘルシングだって!笑わせてくれる、ゲハハハハハハハハハハハッ!」
彼らの晩餐の後には、何もない。哄笑と嘲笑の残滓が氷のように冷たく残っているのみであった。
「こちらB棟!隊長、退路を絶たれました。そちらへの合流は無理です!!」
「バカ抜かせ!はってでも来い!!」
ベルナドットは本館の円卓室に立て篭もることにしていた。英国の指導者たち、アーサー王に仕えた12人の騎士たちの伝承に則り作られた指導者たちのための部屋。ここであればあの呪われた化け物どもの猛攻も暫く耐えることもできると考えたためである。
今はまだバリケードを開けて遅滞戦闘をしつつ後退する部隊の回収を行っていた。
一人でも多く、生き残るために。
「いや、無理です隊長。自分も含め負傷者だらけです。ここでやれるだけ粘ってみますよ」
通信の後ろから――悲痛な声が聞こえた。死にゆく男たちの哀歌だった。ある者は水を求め、あるものは死者をグールなどにさせないために、人間の尊厳を守るために、死者をもう一度殺していた。
彼らの希望は最早一ツだけ。味方の部隊が一人でも多く生き残り、彼らの無念を晴らしてくれるのを願うのみだった。
「バリケードは閉めてください。御武運を!!……さようなら!」
「馬鹿野郎!!!……畜生、そうかよ、くそったれ。分かったよ、死んじまえ、じゃあな、楽しかったぞ」
「こちらこそ、隊長。では、お先に!
以上」
通信の切れる音と共に、ベルナドットは立ち上がった。部下には背を向けた。今の顔を彼らに見られたくはなかった。
「バリケードを閉めろ。このでかい円卓もひっくり返してバリにしろ。何でもいいから積み上げろ!」
「隊長、B棟の連中は……?」
「ダメだった」
「そうですか……残念です」
バカ広い円卓室は絶望の匂いがした。誰も彼も諦めていた。今宵自分たちは殺される。
尊厳などない。戦争屋を始めたときからそんなのは諦めていた。だけども化物の慰みに食い殺されるなどという死に方は吐き気がした。
そしてそんな死に恐怖した。自分が喰われて死んだあとに食屍鬼などという蠢く化物になることを嫌悪した。
「もう駄目だ、俺たちはおしまいだ!」
「うるせえ!!黙れ馬鹿野郎!!」
「もう化物の相手なんて嫌だ!限界だッ!アーカードもインテグラも俺たちを見捨てやがった!!」
仕様のないことだった。兵たちは恐慌していたのだから。一人の傭兵が堪らず叫びだした。それに対し別の傭兵が激昂した。
「俺は帰る!もう嫌だッ!!」
「なにいってんだおめぇは?どこにも出れねぇし、どこにも行かさねぇぞ」
ベルナドットは恐慌する部下に対し、凄絶な笑みを浮かべた。まるで自分が死なないのが分かっているといわんばかりであった。
左目は既にない。眼帯である。帽子のツバと無造作に伸ばされた髪の合間から除く右目が、部下を捕らえる。
「どこに行く気だ?お前の墓穴はここだぞ。墓標はこの馬鹿でかい屋敷、墓守はあのおっかねぇインテグラ嬢だ」
恐慌していた兵も、激昂していた兵も黙った。不思議な迫力があった。嵐の気配がした。
「碑文にはこうだ。『すごく格好良い傭兵達が悪いナチスをやっつけてすごく格好良くここに眠る』だが、おまえのせいで変わっちまう。
おまえがメソメソしているから、『ヘタレの根性無し女の様に泣きながら虫のようにくたばる』……!」
ベルナドットは恐慌していた兵の胸倉を掴みあげた。叫んだ。先ほどまで彼が掴みあげている男が叫んでいたように、否、それ以上に大きく力強く、雄雄しく叫んだ。
「冗談じゃねえ!!おまえには無理矢理でもカッチョ良く死んでもらうぞッ!!好き好んで金もらって好き好んで戦争やってんだろが!!
おい兵隊!!だったら好き好んで戦って死ねや!!!」
「糞ッ、そくォ、畜生畜生!!」
ベルナドットに突き放され尻餅をついた男は、悪態を吐いた。
隊長を恨むわけではない、運命を恨んだ。隊長を憎むわけではない、化物どもを憎んだ。
そして、今できることをしなければならないと、知った。そうだ、泣いても喚いても叫んでも、相手は化物だ。
こちらを一人残らず食い物にする気なのだから。最早逃れられない、腹を括るほかは道はない。
「それにな、まだ死ぬときまったワケじゃねえよ。俺達ゃディフェンスだ。ホレ!!さっさとバリ組むんだよ!オフェンスが今、点数をひっくり返すさ」
B棟は、燃えていた。炎に燃え、血に燃えた。
ゾーリン・ブリッツは顔面に嘲笑を貼り付けながら館を守る傭兵たちを皆殺しにしながらベルナドットのいる円卓へと歩んでいた。
「燃やせ燃やせ!!殺せ殺せ!!」
その命を拝領した兵士たちは存分に戦場を闊歩し、殺し燃やした。
その渦中で一人の兵が白亜の支柱に隠れながらH&KMP7A1を構えていた。ベルナドットと通信していた傭兵であった。
「…………」
自分は今宵殺される。今すぐにでも、すぐここで。
死んだら、息子に会えるのだろうか。彼はそんなことを思い、ふと笑った。
会えるはずがない。会えるはずがないとも。自分は戦争屋の人殺し、無限地獄に堕ちる人間だ。息子に会うことなど未来永劫ないだろう。
息子が死んでからずっと戦い続けてきた。まるで死に場所を探しているかのようだった。
死に場所は、ここだ。その時は、今だ。ここが墓穴、この屋敷が墓標、墓守は傭兵達の雇い主…不思議なおかしさに苦笑した。
彼は鋭く呼気を吐き、支柱から半身を乗り出した。機銃は腹に響く音と共に鉛玉をゾーリンへと運ぶ。
ゾーリン・ブリッツの顔から、嘲笑は消えなかった。
弾丸はゾーリンの隣に控えていた武装ssにより阻まれ、悪鬼には届かなかったのだ。
「雑魚がッゴミ屑の分際でうっおしいんだよォ!!」
ゾーリン・ブリッツの右腕が伸びる。通路は無作為にアルファベットが書き殴られたような奇怪な文様に埋まっていた。
通路が黒く染まってゆく。本当が覆い隠され、幻覚が頭をもたげてくる。
またか、また幻覚か!彼は歯を食い縛った。幻覚だ、幻覚だ、全て幻覚だ!
敵はいる、目の前にいるはずだ。撃って撃って撃ちまくれ!銃弾が切れるまで…命の灯火が消えるまで!
――だが。
「………ッ!そんな、馬鹿な!俺の…俺の家…ッ!?」
「おかえりなさい、お父さん」
「ミシェル…!そんな、そんな馬鹿なッ、お前は死んでしまった。死んでしまったじゃあないか……ッ!」
現れたのは、かつての幻影だった。彼は銃を構えるのを止めた。どのような人間が何よりも大切だったものを壊せるというのだろう。
かつて愛した場所、かつて愛した子、再び見えることのないと諦めていた夢。
「どうしたの、お父さん怖い顔して?」
「幻覚…幻覚だ…ッ!これも、これも幻だッ」
彼は銃を捨てた。銃を取ったのはどうしてだったのだろう。銃把をとったのはどうしてだったのだろう。
今息子を抱きしめるのに、銃は要らなかった。息子がいるのならば、銃を取ることはなかった!
「畜生、畜生…!これも幻術だってのかッ、ミシェル、お前も幻なのか…ッ」
「うッそッでぇ―――――すぅ」
ゾーリン・ブリッツは彼の背後に立っていた。
幻想が壊れる。彼は振り返らなかった。
円卓室のバリケードは破壊されつつあった。重火器を逸失したとて相手は不死身の化物、たった一匹に侵入されただけでどれほどの仲間が殺されるだろうか。
その緊張と不安、恐怖は傭兵達の精神を酷く磨耗させた。
敵はさらに、階下の仲間たちの遺品を使って、彼らを追い立てているのだ。持久戦となれば―――敗北は必至だ。
「クソっ、クソっ、目がッ!」
「バリケードがやられたッ!」
「衛生兵、そっちの椅子を持って来い、ここにだ!早くしろッ」
「ふさげ、バリだッ」
「何でもいい、バリケード組みなおせ!」
叫び怒号する中にも、銃弾は途切れることなく躍り狂い、発砲音はとまることなく耳朶を打った。硝煙の匂いが充溢し、息が詰まる。
「畜生ッ、畜生ッ」
一人の傭兵が化物を撃ち殺そうと、バリケードを這い上がる。
「バカッ、体を出すな!」
ベルナドットが叫ぶも、その傭兵は体を蜂の巣にされて死んだ。
「くそッお、おおぉおおッ」
バリケードから銃だけを出し、無闇に撃つ。おそらくは当たらないだろう。威嚇にさえならないかもしれない。だが――撃つことしかできない。
止まれば、終わる。
「もう、もう駄目だ…」
「黙れ馬鹿野郎!!」
「殺してくれぇ…もう駄目だ、目が見えない…殺してくれッ」
「…隊長、もう嫌だ…死にたくない…!」
「うるっせえな、俺だってほんとは死にたかねぇよッ」
終わりが見えていた。このままバリケードが粉砕されれば…吸血鬼たちの侵入を許せば、自分たちは造作もなく死ぬ。
だけど、約束があるんだ。ここを守る、その約束が。
あの気が弱くて可愛らしい女吸血鬼がやつらをぶち殺してここに辿りつくまで、俺たちが死んでここを守れないなんてことがあってはならない!
否、死んでも守るという気概ななければならない!
「残弾再分配しろ!」
「タマ寄こせ、タマ!」
「頭上げんな!伏せてろ、狙い撃ちにされるぞッ」
「動くな、今止血する、死んじまうぞッ」
「そいつは死んでる…食屍鬼にならないように処置してやれ」
「隊長ッ、こいつを…これでカンバンです」
副長が最後のマガジンをベルナドットに手渡した。皆、満身創痍だった。
「まるであの時と一緒です、ウガンダ・ジャン・グ・ワイデ!飛行場右翼陣地…あの時は援軍が間に合いました…今回は、クソ、駄目ですか」
「馬鹿ぬかせ副長ッ!あいつは来る、必ずやってくるッ!そういう女だ!!」
どごんっ
ベルナドットが叫んだ時だった。バリケードが破壊され、室内は砂埃に包まれた。
辺りには木切れや石膏の破片が散乱しているらしい。吹き飛ばされたベルナドットは素早く現状を確認した。
腹部が、酷く痛んだ。
硝子の破片が深く刺さっていた。抜くことはできない。抜けば出血が酷くなるからだ。
この破片はおそらく――腸を傷つけているだろう。内臓の動脈を傷つけたならば、処置を施さねば――助からない。
「くそっ、ロケットかッ、やつらまだこんな物を…!副長、損害を報告しろッ、全員点呼しろッ」
濛々と立ち込める砂埃は、隻眼のベルナドットの視界を奪っていた。だから、そこにあるものに気づかなかった。
どうして――自分が生きているといって、他の者まで生きているといえたのだろうか。
それはきっと…願いだったのではないだろうか。共に戦ってきた仲間だから、共に生き残りたかった。
副長には腰から下がなかった。血に汚れた腸が飛び出し、半分崩れかけた肝臓が零れだしてきていた。
もう助からない。焦点の定まらない虚ろな目は死の気配がした。
「副長ッ!おい、副長ッ!」
微かに、小刻みに震える体は寒いのかもしれなかった。呼びかけるベルナドットに対して、副長の言葉はいっそ穏やかだった。
「もう疲れました……先に休んでいいですか…?」
「ああ…ゆっくり休め…」
ベルナドットは副長の瞼を閉じてやった。
「じゃあな…」
終わりが来た。セラス・ヴィクトリアは間に合わなかった。自分たちは今ここで、死ぬ。
不思議と悲しくはなかったが、悔しさがあった。自分たちは今、約束を守れずにここで死ぬということが悔しかった。
ベルナドットは目を細めた。
「命中です、突入しますか」
砂塵溢るる円卓の真正面、人と化物の死の山の麓、白煙を吐き出すパンツァーファウストを担ぎながら、武装親衛隊は前方を凝視しつつ尋ねた。
そこにいたのはゾーリン・ブリッツであった。B棟の連中を皆殺ししながら、生けるものを冒涜しながらついに辿り来たった褐色の狂気は、熱を帯びた破滅をその目で見て
愉悦と嘲笑をその顔に貼り付けていた。
「いや、まだだもう一発ぶち込め」
「パンツァーファウストはあと一本しかありません。虎の子ですよ」
「構うものか。やれ、吹き飛ばしてやれ。哀れな連中を木っ端微塵にしろ」
武装親衛隊員は頷くと、最後の一本のロケットを再び肩に担ぎ上げた。照準を定める。
やや砂煙が晴れた通路を、ベルナドットたちはまんじりもせずに壁に張り付いていた。先のパンツァーファウストから生き残ったものは、多くない。否、最早認めなければならない。殆どいない、生きては居ないのだ。
ベルナドットは周囲を見回した……たったの4人。まだ屹度生きている。生きていてくれる。そう思わずには要られなかった。
生存者たちは荒い息をつきながら障害物に身を潜め、また床に張り付いて次の一撃を凌ぎ生を引き伸ばす無駄ともいえる努力を重ねていた。
絶望の焔が身を焦がしていた。アーカードは、来ない。彼は今大洋の上で攻城戦に勝利し、凱歌を上げながら凱旋しているのだ。
死都にたどり着くには、まだ時間が要った。
インテグラもまた、来ない。彼女は雲霞の如く来る親衛隊に剣を向けたところだった。イスカリオテが地獄の天使の如く舞い降りたところだった。
来ない。助けが来ない。
化物が、パンツァーファウストを構えるのが見える。
「ハぁッ、ハぁッ、糞ッ、糞ッ」
最早抵抗する力も残っていない彼らをさらに殺すそれが発射され―――
そして爆音に遮られた。
爆撃は化物どもの背後から。ああ、それが意味するのはたッた一つだけ。
願いと願いと願いの果てに、奇跡が来たった。彼女は化物だ、だが人間だ。化物を、仲間を食い散らかした化物共を憤怒を以って焼き尽くし来たった奇跡が起こった。
「隊長……ッ」
「ああ…きたぜ、約束どおり。本当に来たぜ、あの娘。たった一人で化け物皆殺しにして!ああ、畜生、糞ッ、本当にいい女だあいつ。
畜生め、へへッ、無理やりにでもキスしちまえばよかった!」
ベルナドットは全身から噴水の如く血を流していた。そこここに突き刺さる彼の守るはずだった屋敷の破片。顔面から腹から全身から。
だがそれなどどうということもなかった。
約束が叶った。
それこそが、奇跡。彼女が来るまで彼が生きて持ちこたえた、約束を果たしたその一事、それこそが奇跡。
僅かに動く者達がいる。生きている。生きている。オフェンスが来たのだ、点数をひっくり返しながら、それでいて静やかに迅速に。
「おめえら寝ている場合じゃねえぞ。起きろ起きろ、仕事は未だ終わっちゃいねえんだ」
生き残った衛生兵が慌てて傷痍兵の救助に当たる。ベルナドットは銃を再び握り締めた。
あの女が見える。幻術を使い、人を暴く悪夢のような女だ。そうさ、ドブスだ。ああ生かしちゃおけねえ。死んでるけど、ここに存在させるだけで怖気がふるうぜ。
セラスはハルコンネンを落とした。もう弾がなかった。馬鹿でかい屋敷を蠢く化物どもを殺しながらやってきたのだ。
準備していた弾丸は予想をはるかに上回る敵兵力の前にすさまじいばかりの早さでなくなった。
殺しきれてはいない。今ここで最後の砲火により腕がちぎれ足が飛んだ化物たちもやがて再び手足を再構築して立ち上がるだろう。
止めを刺さなければならない。今ならば、そう、顎を踏みぬくだけで、心の臓腑に白木の杭を打ち込むだけで完全に滅殺することができるだろう。
今、動けないやつらならそれは簡単だ。だが―――。
「残っているのは、あんただけよッ」
こいつがいる。このゾーリン・ブリッツがいる!こいつを完全に完璧に完膚無きまでに破壊しなければならない。こいつが、こいつこそが部隊の要、戦鬼の角。
幾百の凡百の吸血鬼よりも、こいつの方が怖ろしい。こいつが居るだけで彼らの凱歌は鳴り止まない!今、こいつを完全に倒さなければならない!
ゾーリン・ブリッツは大鎌を振り上げた。その頬には血が一筋垂れ落ちてきていた。
だがそんなことは意に介さずに、右の皮肉を歪ませ、禍々しい獰猛な笑みを浮かべた。
「それがッ、どうしたあッ」
弾丸は既にして切れた。右腕に月を掴む悪鬼にセラス・ヴィクトリアは渾身の一撃を放とうとした。だが――悪鬼は驚くほどに速かった。
たとい彼女の必殺が届いていたとしたら、ゾーリン・ブリッツはボロ雑巾の如く引き裂かれていたやもしれない。
純血の吸血鬼には、それだけの膂力があるのだから。だがしかし、届かなかった、届くまでに――悪夢がやってきた。
地を穿つゾーリンの右手に、セラスは目を閉じた。奇怪な文様が這って来る。床を侵略し壁を制覇し空間を汚濁しながら彼女に侵入する。
出鱈目な文字の羅列。意味などない。意味がない。意味がないからこそ、否、意味を理解しないからこそ恐ろしい!
「幻覚ッ、幻覚だ!嘘だッああぁあ、幻なんだ!」
屋敷を襲った大鎌を、セラスは幻覚だと見抜いた。額の第三の目、人間でない証。ならば、今度もまた破れるはずだ、この幻覚を――
「もっと、もっと奥へッもっと奥へッ」
禍々しい笑みを浮かべるゾーリンはセラス・ヴィクトリアの記憶を侵略していた。野を超え谷超え彼女の人生と死んでからの歩みのその中でもっとも酷い悪夢を探して。
これは幻覚であって幻覚ではない。これは過去の悪夢、実際にあった記憶をまるで今あるかのように見せるのだ。
だから、幻覚だと分かっていても、無駄だ。これはお前のお前自身の痛みと恐怖と絶望なのだから!
暗いくて四角い部屋に死臭がする
平ポリのくせに深入りするからこうなるんだぜ、わかったかい
硝煙銃声
おとうさんおかあさん
おとうさんはあたまがない おかあさんはおなかがない わたしもおなかにあながあいた
もう、ねむたい
「…………あぁあああぁあぁぁあああああああぁあぁ嗚呼ああああああああああぁあああああぁあああああああああああああああああッ」
「グッモーニン、セラス嬢ちゃん!!いい夢見れたかしらんッ!?」
セラスの腕が空を舞った。ゾーリンの大鎌がセラスの左腕を二の腕から切断していた。
悪夢のために、セラスは震えていた。大鎌の大振りの一撃を避けられなかった。それだけではない。次の一撃も…
「もう一つ、もうひとォつッ!!」
今度の一撃はセラスの背から入り、腹を裂いた。骨などお構い無しに圧倒的な膂力をもって繰りだされる一撃は半吸血鬼の肉体を破壊する。
セラスは堪らずくず折れた。
「あっはっはははあ、頑丈な女だねぇ!」
えん臥するセラスの血塗れた髪を鷲掴み、ゾーリンは再び大鎌で彼女の目を抉った。鋭角の刃は骨を削り蒼い双眸を致命的に傷つけた。
「あああぁあああああぁあッ」
両の眼球は潰れ、血と血塊が涙のようにあふれ出る。腕を落とされ光を失い、這いずるセラスをみてゾーリンは大きく口を開けて哄笑した。
「げばァ、げははははああぁッ、ゴミめ、だらしのない女だ!」
…許せない。こんなゴミのような女が、蛙の様に地べたに這いつくばり嗚咽を漏らすこのゴミが、あの大隊を作り上げた、あの大佐に目をかけられていたとは!
本来その眼差しは自分たちに、自分に向けられるべきものだったはずだ。それをこのゴミが、何の力もない蟲が剽窃していったのだ。
ゾーリンはセラスの頭蓋を踏みつけた。骨の軋む音がした。
「さァて、そろそろ死んでもらっちゃおうかなァ!」
最早動く気力のないセラス・ヴィクトリアの金髪を掴み上げ廊下に叩きつけると、ゾーリンは大鎌を振り上げた。
「さぁていよいよお待ちかね!そろそろその首をばチっ切り取るとしようかね!!」
そして月光を得て闇を切り裂く大鎌が振り下ろされ―――。
「うるせえぞ、ブス」
「なッ、にィ!」
鉛を仕込んだライフルで顔面を強打された。気づかなかった、否、気づけなかった!
セラス・ヴィクトリアを始末することに夢中で、自らの功名心と嫉妬により行動していたために忍び寄る殺気に気づけなかった!
「オマケだッ」
ベルナドットは拳銃を撃ち放った。最後の法儀済銀弾であった。ライフルの弾丸は、既に切れていた。
腹に響く轟音を残し音速を超えた弾丸はゾーリン・ブリッツに吸い込まれるように消えた。
ゾーリンは苦悶の声を上げ3メートルも後方へ吹き飛ばされる。
「…ぐッ」
ああ、腹が痛む。
ベルナドットは倒れ付すセラスを肩に担いだ。本当は抱きとめてやりたかったが…腹部を負傷している彼には不可能だった。
背後から煙幕が焚かれた――予定通り。
「隊長、こっちだッ」
「早くッ、急げ隊長!」
ベルナドットは白煙充溢する廊下を一歩一歩進み始めた。元は白かった廊下は今や煤や血で赤黒く汚れ、傷一つ無かった壁面は銃弾の跡で大きくひび割れている。
敵の首魁はやっつけた。屋敷に火を放つ準備はできている。あとは――ここを――脱出するだけ。
本当なら白木の杭を心臓に打ち込み、業火の火輪に晒してやらねばらないところだが、そんな余裕は、ない。
「ベ…るな………たいちょ……」
「しゃべんなッ」
セラスは限界だ。吸血鬼というやつがどうなっているのかベルナドットは知らない。だが、今という峠を越せばきっと生き残れる。
ベルナドットの額に、汗が滲んだ。
腹が酷く痛む。ずきずきずきずき、今生きていることを主張するように痛む。
「はあッ、はあッ、はあッ、はあッ、はあッ、はあッ…!」
一歩一歩死地から脱出するベルナドットに、胸から下を抉りとられた武装ssが銃を向けた。照準など定めない。
震える手はトリガーを引き、弾丸はベルナドットの腿を貫いた。
「うッ、ぐうッ!?」
思わずよろめく。力が、入らない。ベルナドットは力いっぱいに右足を床にたたきつけ、踏みしばった。
武装ss隊は、全滅しているわけではない――中隊規模のそれを粉砕してきたセラスだったが、彼ら化物が全て死に絶えているとは思っていなかった。
セラスは傭兵達を助けるために急いでいたのだから。いまそこここに転がる武装ssたちの幾体かはまだ――動く。
「ベルナドットさん、もういいですッ、逃、逃げて!ベルナドットさんッ!」
「うるせぇッて、言ってるんだ!」
生き残った傭兵達がライフルを構えて瀕死の武装ssに銃弾を浴びせた。ベルナドットを撃ったssは頭部を破壊され、沈黙した。
……彼らはずっとずっとずっと瀕死だったのだ。それが今完全に死んだ。死んでしまった。
死ぬためだけに歩き続けなければならなかった。彼らには彼らが死すべき場所があり、彼らが死すべき時間があり、彼らを養う鉄火場に、彼らを満たす戦場が必要だった。
――館に火を放つ。彼らの妄執も彼らの残滓も綺麗さっぱり消えうせて――灰になってしまうように。
今、脱出したら、ここを焼いちまおう。そうすればナチのおっさん共も綺麗さっぱり消えちまう。足がまだ再構築できないやつ、暫く動けそうもないやつ、
そんな奴らを一切合財火葬にしてしまおう。
今、脱出したら…セラス・ヴィクトリアを担いで、彼女と一緒に脱出――を
「はあッ、はあッ、はあッ、はあッ、はあッ……はッ、はあッ…」
足がもつれる。もうダメだ。これでは残りの人生車椅子の上かもしれない。だが、それでもいいのかもしれない。
もうこんな化物の相手はこりごり。こいつ持って外出たら俺の代で傭兵稼業なんか止めちまって今回の仕事代でゆっくり静かに暮らしてやる。
月夜が見える。今、脱出――を……。
「ぐっ…あアぁッ…ッ!」
ベルナドットの背には大鎌が突き刺さっていた。振り向けば、白煙の向こうにドス黒い悪鬼が浮かび上がる。斜視気味の双眸、奇怪な文様に彩られた半身。
ゾーリン・ブリッツ……
担いでいて…正解だ。セラス嬢ちゃんには、あたって……
「ゴミが、ゴミ屑がッ、気張りやがって!」
猛るゾーリンを傍目に、セラスはベルナドットに呼びかけていた。
セラスの目にベルナドットが映ることはなかったが、彼女は己が体質ゆえにベルナドットの死の匂いを敏感に嗅ぎ取っていた。
「ベルナドットさんッ、ベルナドットさんッ!」
そう、セラスの目には映らなかったが――ベルナドットは大きく血を吐いていた。
内臓が手酷くやられてしまっていた。彼はここで死ぬ。この屋敷が墓標、墓守はインテグラ・ヘルシング。そう言って笑った男はここで死ぬ。
死にたくないと願った男は今ここで、死ぬ。
「ばかッ…ばかッやろ…助けに来たお前が俺、俺に……ッたす、たすけられちゃあ、世話がねぇ、な」
自らもまた死を予感した。不可避であった。どんなに最先端の医療であろうと、神がかかった治療であろうと、彼を生かすことなどできはしない。
背から胸を突き貫いた大鎌は確実にベルナドットの体を破壊していた。先程のロケットによる腹部の負傷もまた、さらに悪化した。
助からない――分かっていた。
火のついた葉巻が白煙を燻らせながら地に落ちる。
「べッ、ベルナドットさんッ!」
セラス・ヴィクトリアは目が見えない。葉巻の落ちる音を聞き、彼女は恐慌した。そして諦めた。
また死んだ、また!仲間が、友人が死んでゆく……永遠を生きる者がいつか必ず感ずる痛苦を、セラスは覚悟もなく受け入れた。
ベルナドットは死んだ…次は自分の番だ――。
―――だが。
セラス・ヴィクトリアはまだ暖かい血流を感じた。目は見えない。大鎌に切り裂かれたゆえである。
感じたのは熱であった。まだ確かにここにある、生きた人間の熱であった。最後の最後まで諦めなかった男の熱だった。
ピップ・ベルナドットは心底往生際の悪い男だったのである。
接吻は、一瞬だった。盲のセラスの唇を、ベルナドットが啄ばむように、一瞬だけ触れて交わした。
粘りつく血液が二人の間にあった。それは、赤黒いそれはしかし赤い糸のように見えたのだった。
「けっ、ははッ、がッほッ、ボサっとしてるからだ。けへへへ、やっと唇奪ってやったぞ…」
死に行く男は笑った。子供のように無邪気に、楽しい夢を見るように。笑って、笑って、くずおれた。
背もたれの代わりにしていた白壁は彼の血で冷たく真紅に染まっていた。倒れていくベルナドットに合せてさらに赤の度合いが増した。
ずるずると流れる血の跡は大空の零した涙のようにも見えた。
「…なあ、泣くなようセラス…お前しぶとい女じゃん。俺を喰えよう…」
ずるずる倒れ行くベルナドットはしかし、自分の死よりもセラス・ヴィクトリアの未来を憂えていた。
このまま自分が死ねば――否死ななかったとしてもセラス・ヴィクトリアは、生き残った傭兵達は皆殺しにされる。
ならば。ならば…自分が彼女の供物になろう。セラスという吸血鬼に自分の心を差し出そう。
自分の全てを差し出せば、彼女は化物になるのだろう。
幾千幾万の絶望を喰らい肥え太り闇から闇へ、闘争から闘争へ、只歩き歩き続ける戦鬼に成り果てるのだろう。
だが、人間を辞めても、化物に成り果てても、セラスは在り続ける。
自分の心を、自分の魂を…血液を通貨として同化させる。それでセラスは歩き続けられる。
エゴだ。けどやつら倒してセラスには何が何でも部下共守って、それで生きて――…
いや、詭弁だ。
ああ――――そうか。
今わの際に気づいたことだったのだが――自分はどうやらセラス・ヴィクトリアという少女が好きらしい。
このことがどこか誇らしく、気恥ずかしく、そして嬉しかった。
ドジでアーカードとは似ても似つかなくて、優しくて弱くて強い。
人殺してたつきを立ててきた自分のために今泣いてくれている、それがセラスだ。
こいつ、自分が泣いてることも気づいてないんだろうなぁ―――。
「俺を喰って…一緒にやっつけようぜ、セラス…」
闇の生き物の癖に、暗闇をおっかなびっくり歩いていくような――こいつには――誰、か共に歩いていく者が、必、要だろう。
地獄、の、底でも。果てな、い旅路も。心、の、中に、一緒に……
もう、目が見えない。血を失いすぎた。
最期に見た光景は、やっぱりセラスが彼のために涙を流している姿であった。
ベルナドットは笑みを浮かべていた。
彼は彼の生き様に、満足した。
最早彼の手が何かに届くことは無い。彼の声が誰かに届くことは無い。彼の願いが彼らに届くことは無い。
壁に背を預けることさえできなくなって、ベルナドットは床に落ちた。
もう光は見えないから、暗闇の中で彼の最後の光景を思い起こした。
バカ…泣くなっていってるじゃねぇか…
お前目ン玉えぐられてんだぞ、バカだなぁ…
腕だってちぎられてんだ。ボロボロじゃん。バカな女だなぁ…
ああ。畜生、畜生め…いい女だな、こいつ
あ―――死にたくねぇ。死にたくねぇ……
だけど……あぁ、だけど。
こいつ守って死ぬんなら、別にいい
床に落ちた煙草は暫く燻ってから、音を立てて消えた。
「あああっああああああああああああアあっああああぁあああああああああぁああぁああッアあああッ」
セラスは震え慟哭した。
傭兵達は悪態を吐いた。ベルナドットは優秀な傭兵だった。反発はあったが――尊敬していたのだった。
「泣かせるじゃないか!?ええッ!」
ベルナドットを殺したゾーリン・ブリッツは軍靴を鳴らしながらやってきた。ベルナドットの一撃と、法儀礼済み弾丸は並の吸血鬼には十分な威力を持っていたが、
この化物を殺しきるにはいま少し足りなかった。
化物は首をこきりと鳴らした。それが合図であったかのように、躯を再構築した武装ssが再度立ち上がる。彼らはゾーリンを将とし左右に控えていた。
「ゴミのような虫けらの分際で!やかましく飛び回るから……そうなるッ」
ゾーリン・ブリッツは右手を伸ばした。
「うるさい子蟲は平手でつぶしてしまいましょう」
眼前には咽び震える一人の少女、隊長を失った傭兵達はゾーリンの右手を見て自分たちの末路を悟った。
セラス・ヴィクトリアは彼らを助けることはできない――それは仕方のないことのように思えた。
恨み言をいうつもりなければ憎むこともない。
だが、目の前の化物に殺されることだけは真っ平ご免だ。隊長が人間として死んで逝ったのに自分たちは…!
ゾーリンの右半身を覆う奇怪な文様が壁も床も縦横無尽に侵食していく。
幻だと、幻術だと頭で理解していても、これに抗う術は傭兵達に残されてはいなかった。
「くッ、くそッ!」
「またかッ」
世界が闇に包まれる――人が死んだように寝静まり太陽は星の影に隠れるその時間に――人が化物に対抗する術は驚くほどに少ない。
ゾーリン・ブリッツは勝利を確信した。なぜなら彼女は化物だからだ。正真正銘闇の住人であるからだ。
彼女は驕った。先ほどの失敗も忘れて猛った。
知るべきだった。勝利を確信した時ほど滅びが始まる契機は他にはないと―――!
忘れていたのか、ここには「敵」がいることを。狂った大隊指揮官殿をして奇跡と言わしめたそれがいることを。
一人、敵の中に闇の住人がいることを!
「蟲と言ったな…!この人を、蟲ケラと言ったなッ!!」
セラス・ヴィクトリアは怒っていたのだ。彼女を救った恩人、彼女と過ごした友人、彼女を人として扱い
共に戦ってきた男。
その男を、ゾーリン・ブリッツは侮辱した。セラスは牙を剥いた。鋭くとがった犬歯が顔をのぞかせる。
彼女は怒っていたのだ。
「許さない…許さない…!許さない…!!許さない…ッ!!!」
一瞬だけ眉を顰めて――セラスは大きく口を開いた。余りに白い項が見えた。そして…ベルナドットの首筋に歯を立てた。
震えた。震えた。震えながらも、冷たくなりつつあるベルナドットの…未だ熱いその血液を嚥下する。
涙のように血は流れた。否、それは涙ではなかったか。
ベルナドットの命を拝領したセラスはやおら立ち上がった。切り裂かれた左腕からはまだ出血が止まらず――否、既にそれは出血ではない。
切り裂かれ、光を失ったはずの両目を開く。
瞬間、ゾーリンブリッツの世界は音を立てて崩れ始めた。
その様はガラスが崩れる様に似ていた。小石と投じられたガラス窓が割れる様に似ていた。それほど容易く、ゾーリンの世界は崩壊した!
セラスは眼前の遺体を見下ろした。哀れみが篭っていた。カーキ色だった婦警服はいまや鮮血に彩られていた。
ベルナドットのものであった。彼の意思と命であった。
「征きます、ベルナドット隊長。征きます、征きます!一緒にあいつらをやっつけます!」
セラスは銃弾の如く駆け出した。
「射、射てッ、射てッ!」
ゾーリン・ブリッツに傅く武装ssたちがライフルを乱射する。が――セラス・ヴィクトリアの切断された右腕、その断面から生じた血の「影」、
それに防がれる。
セラスは己に何ができるのかを理解していた。右手を握り締める。ぎゅッ、と音がした。
これを、思いっきりたたきつける、それだけ。
渾身の一撃はssの顔面を捕らえた。瞬間、武装ssの骨は圧壊し眼球を飛び出させながら引き千切れた。
周囲に血飛沫が飛ぶ。セラスは意に介さず左手を振り上げた。二人のssは脳天から真っ二つに切り裂かれ、臓腑を床に零した。
腕を振り切れば首が飛んだ。赤く赤く染まった手袋を握り締めれば血が汗のように滴り落ちる。
破壊する。ただ圧倒的な膂力を持って打倒する。
今まで血液を取らなかった半吸血鬼ではない。今ここにいるのは一人の、
不死者。
(何だこれはッ!何なんだこいつはッ!!)
まるで泥人形のように――武装ssを破壊しながら迫り来る化物を捕らえ、ゾーリン・ブリッツは汗を垂らした。
こいつは、やばい。何だか知らないがこいつは――やばい!
臓物を振りまき、死臭を振りまき、隻腕の吸血鬼は万力の如く締め上げた右腕を伸ばした。
(やばいッ、こいつはやば―――!)
その右腕は、ゾーリン・ブリッツの顔面を捉えた。
「ぎッ、あッぐぅっ」
潰される、何たる握力、何たる膂力。
頭蓋が軋みを上げ悲鳴を上げ、もう持たないと警告を発する。
「ぎッ、あァぁあッ、ぐォおオッ」
ゾーリンブリッツはセラスに押し倒されながらも、左手でセラスの顔面を打ち据えた。
一撃、二撃――口内は破壊され、鼻骨は粉砕され、セラスは血を吹いた。
三撃、四撃――左手で打ち据える。布石だ。勝利のための。今、このマウント・ポジションでは勝ち目は薄い。
ゾーリンは左手でセラスを捕らえながら――呪刻の右腕を伸ばす。
セラスには左腕がない。右腕はゾーリンを捕らえるために使っている。ならば…ならば取れる。
今一度再び直接にセラスを捕らえる。空間支配が効かないならば過去と言う過去全てを暴いて止める!
セラス・ヴィクトリアの動きが止まったその時こそ、この女吸血鬼が崩れ落ちる時だ!
五撃――!
(いッ、今だ!)
―――が。
「ギぃあぃッ!」
セラスは鋭く尖った犬歯でゾーリンの左手を食いちぎった。指が飛ぶ。ゾーリンは目を見開いた。
セラスは既に再生し、綺麗に整った顔をゾーリンに向け――食いちぎった指を吐き出した。
「お前の血などッ、一滴一片一マイクロリットルたりとも飲んでやるものかッ」
「おごォおオオォぉッ」
頭蓋が断末魔の叫びを上げた。
しかし同時にゾーリンの右腕はセラスに届いた――!
見える、見える見える見える見える見える。
セラス・ヴィクトリアの過去が見える。
こいつは生前は警官だった。なぜ、どうして?父親が警官だったのか。ゲハッ、殺されていやがる。母親も!
奥へ…もっと奥へッ
こいつの初任務はチェダース村…先遣部隊が壊滅した死の村。一匹の吸血鬼がわんさと喰屍鬼を生産して――自分を強姦して殺そうとする吸血鬼が――?
………誰だ?
誰がアーカードと話している?粗野な傭兵共と酒酌み交わしてるのは誰だ?なぜセラスがそこにいる!
夜間の射撃訓練を――なぜお前がそこにいるッ
セラスを見ているお前は、血涙流すセラス・ヴィクトリアを見ているお前は―――
お前は誰だ!
違う、こいつはこいつじゃあないッ、記憶が、心が混ざり合って……何だ、誰だッ、誰の心だッ!?
不意に浮かび上がってきたのは、隻眼三つ編みの傭兵隊長の姿だった。ゾーリン・ブリッツが造作も無く殺した一匹の人間だった。
蟲のように踏み潰したただの人間だった。
まだ、まだいたのか。まだ守っていたと言うのかッ、お前は……お前は―――!
バリバリと、再び世界が割れる。ゾーリンの世界が割れて崩れる。最早直接の幻術さえも意に介さず、セラス・ヴィクトリアはゾーリンを捉える。
「消えろ…私の前から、私の心からッ」
セラスはヘルシング家の白壁にゾーリンの顔面を押し当て――そのまま直進、その顔面を擦り潰した。
幾重にも重なった傭兵達の血痕に、部隊の首魁の残骸が残る。
やがて頭蓋さえも粉々に擦り減らしたゾーリンの体内から、炎が上がった。狂った少佐らの仕掛けた爆薬であった。
燃える――灰も残さず、妄執も残滓も、吐き気を催す憎悪も、哀れな渇望も、一切合財燃えて落ちる。
セラスは歩んだ。
その先にはベルナドットの遺体があった。笑っていた。一瞥し、唇を噛み締める。
一度俯いて――上げた顔は決意に満ちていた。その眼光は死都に向いていた。
「行ってきます」
「い、行ってきますって……どこに……?」
数人であったが生き残った傭兵もいた。彼らは彼らの任務を終えた。
ゆえにどこかに行く必要はもう無かった。しかし。
「約束、したんです。隊長と。あいつらをやっちまおうって。だからあいつらをやっつけちまいに行ってきます」
「あ……」
唐突に気づいたことがあった。
ベルナドットは、死んだ。今ここでおっ死んだ。
だが――あんたはそこにもいるのか。
「待ってくれ」
死都に向かおうとするセラスを、傭兵達は呼び止めた。皆満身創痍であった。
彼らは姿勢を正し、軍靴を揃え、敬礼した。
「Sir.Yes,sir」
彼らの、彼らの隊長に向けた言葉にセラスはこくりと頷くと、窓を破り翼を広げた。ゾーリン・ブリッツに切り落とされた左手は再構築することはなく、ベルナドットの血の影になっていた。
影を広げ、白み始めた空を征く。
夜が明ける。終わりが終わる。
惜しみなく光を与える太陽の昇る頃には化物たちはそっと身を潜める。
夜が明け雲を刺し闇を切り裂き――光が七色の靄を伴って世に満ちる。
やがて妄執の彼方、狂気の終わりを見届けるだろう―――暁の出撃。