思えば、昔から風が好きだった。かけっこでは少しでも早く走りたかったし、ブランコだって、誰よりも高く漕いで、昨日よりも遠くへ飛びたかった。
いつからだ? それにスリルを求めるようになったのは。純粋に風を感じなくなったのは。迫りくる恐怖心。それから逃れられたときの、あの何事にも代え難い安堵感、幸福感。そんなものを求めだしたのはいつからだ?
わからない。ただ、疾っているときだけは、何もかもを、忘れられるのだ。
「おい、聞いているのか? ルール説明はまだ終わっていないぞ」
振り向くと、隣にはマウンテンバイクに跨った黒髪の男が、こちらを睨みながら低い声で何かを叫んでいる。
「今になってビビったか? 言っとくが、お前のほうから持ちかけてきた勝負だからな。今更、やっぱやめますなんて台詞が通ると思うなよ」
黒髪は、顔にかけてあるサングラスを押し上げながら、口元を厭らしく曲げてご満悦だ。ああなるほど、私が臆したと、そう思っているのか。
「ビビるなんて、あり得ないでしょう。あまりにもあんたがどうでもいいから、視界どころか聴覚からも切り離してただけよ」
心底、どうでもいい風に言い放つ。実際どうでもいいのだ。勝ち負けすらどうでもいい。ルールなんかも、勝手にそっちで決めてくれ。とりあえず、早く私を疾らせてくれ。遠くのほうで黒髪がなにやら騒いでいるが、私の意識は、目の前に広がる坂に吸い込まれている。
「くそったれ。すかしていられるのも今のうちだぜ。ルールは簡単だ、この坂の第3コーナーに先にたどり着いたほうが勝ちだ」
「第3コーナー?」
黒髪の言葉に、私の意識が反応した。確か、この坂は第6コーナーまであったはずだが。
「ああ、それについては理由がある。追加ルールだ。この勝負、お互いにブレーキは封印しようじゃないか。つまりはチキンレース。第3コーナーまで、どれだけブレーキをかけるのを我慢できるか。命を賭けたレースってわけだ」
周りのヤジ馬から歓声が上がった。どうやらこの黒髪、このルールでは負けなしの有名人らしい。
「あのさ、だからなんで第3コーナーまでなわけ? ここって確か、第6コーナーまであるはずよね?」
私の言葉に、黒髪が一瞬驚き、そして呆れたように息を吐いた。
「おいおい、女だてらにこんな勝負挑んでくるから、ちっとはやるやつだと思ったんだが、ただの素人かよ」
黒髪はやれやれだぜといって、大げさすぎるジェスチャーで呆れて見せる。
「いいか。いつもはどうなのか知らねぇが、今回はブレーキなしの勝負だ。それだと、第3コーナーにさしかかる頃にはどえらいスピードになってる。ここの坂は、第3コーナーが一番急なんだ。そのスピードで、しかもブレーキをかけずに曲がろうなんて、そんなのはただの自殺行為さ」
黒髪は、わかったかど素人がといった様子で、またまた口元をにやにやとさせている。ああ、わかった。つまり、分かっていないのはお前のほうだ。
「なんだ、そういうこと。いいわ、もう説明することはないわね。なら、早く始めましょう」
「ちっ、いけすかねぇ女だ。・・・・・・おい、ところでお前のバイクはどこだよ? まさか、その背中にぶら下げてる袋じゃねぇだろうな。折りたたみ自転車なんて、それこそバラバラになっちまうぞ」
黒髪が、私のほうをいらいらとした様子で指さしてきた。お話にもならない奴に勝負を挑まれたと、そう勘違いしているようだ。
「折りたたみなんて、あんな軟弱なもの持ってないわよ。私の相方は、こいつ」
背中のナップザックから、相棒を取り出して地面へと叩きつける。
「はあ!? お前、それ本気で言ってんのか!?」
「なに? 自転車じゃないとダメなんて聞いてないけど?」
私の足元には、真っ青に色めく平らなボード。車輪についた傷跡は、幾千の戦場を疾り抜けてきた証だ。
そう、このスケートボードの風丸が、私のたった一人の相棒だ。
「こ、のっ。そ、それとお前、まさかその格好で滑るつもりじゃないだろうな!?」
黒髪が私のほうを指さして怒鳴ってきた。いいかげん女の子を指さすのを止めてもらいたいのだが。さて、指を差された私はというと、ごくごく一般的なカッターシャツに紺色のタイ。そしてチェックのスカート。全て学校指定のものだ。校則にも何も違反してないと自分では思っている。
「なに? なんか問題ある? スカート短い?」
「そう、じゃっ、って! ああ! もういい!! 勝手にしやがれ!!」
黒髪が手を挙げると、やけにジャラジャラとシルバーに輝いている男がやってきた。フラッグを持っているところを見ると、彼の合図でレースは始まるらしい。
(やっと、やっと滑れる。やっと疾れる)
鼓動が、早くなるのがわかる。血が、体中を駆け巡っているのを感じる。
(やばい。ちょっと、気持ちいいかも)
スタートラインに着く。風丸の上に足をかけ、これで準備はととのった。
(早く、早く早く早く! 早く疾らせて!!)
もはや、勝負のことなどは頭から消え去っている。頭の中にあるのは、早くあのスリルを、あのギリギリを味わいたいという、ただそれだけ。
そして――、
「いくよっ!! 風丸!!」
私は風の中に身を投げ出した。
(やばい、やばいやばいやばい!! いい!! やっぱこれだ!!)
目の前の視界が、絵の具のように後ろに流れていく。輪郭は消え去り、視界が一転へと集約される。音はただの風鳴りへと高鳴り、私の心がまた一歩、天国へ近づいていくのが分かる。
(きた! もうちょっと。あと、ここっ!!)
第1コーナー。身体を傾け、重心をそれでも前へ前へと押し出していく。曲がり切った直後、びくんと身体が波打った。
(やばい、今のやばい!! でも、だめ、まだ、これじゃあ!!)
第2コーナー。今までに膨れ上がったスピードを、それでも殺すことなく曲がり切る。あまりの大勢に、スカートの端が破け飛んだが気にしていられない。
(ああ、きた。きたきたきた!! これ、これ!! これがいいの!!)
突如として、視界が開け、先ほどまで溶けきっていた視界が回復する。音はソプラノで鳴り響き、五感の全てが開ききる。ある、一定のラインを超えると現れる、至福の時間。身体を切るように触れる風だけで、今にも私の意識は飛んでしまいそうになる。
でも、足りない。まだ、これじゃあだめなんだ。けれど――、
(いける!! 今日はいける!! )
第3コーナー。今にも弾け飛びそうな全身。千切れ飛びそうな身体。その全てを、さらに前進するエネルギーへと変換する。
(今だっ!!)
そして、全ての重心を一か所に集め、そいつを強引にねじり飛ばす。身体が不可に耐えきれずに悲鳴を上げる。そんなことは分かっている。身体がバラバラになっていく快感。今にもイきそうなそれを――、
(いっけぇええええええええええええええ!!!!)
さらに強引にひっこぬき、重心をカーブの中心へと弾き飛ばし、そして―――、
こつん
視認することさえ困難な小石。そんなものに、車輪は僅かに弾きあげられ――、
(あ、死んだわ)
私は、崖の外へと放り出された。
遠くのほうで、黒髪の叫ぶ声が聞こえた気がした。
視界がゆっくりと流れる。雲の数まで、数えられそうな気がした。
「―――きれい」
風が、吹いた。荒々しいが、優しい、風だ。
「ははっ、気持いいや」
自然と笑みがこぼれた。そうだ、忘れていた。この風だ。この気持ちよさだ。自分を包んでくれる、この風が、私は好きだったんだ。
「うん。悪くない」
このまま風の中で、そう思った。
『ぎゃはっは!! おもしれぇ!! お前に決めたぞ、我が王よ!!』
そして、薄れゆく意識の中で、何かが聞こえた気がした。
何か外が騒がしい。五月蠅い。眠れないじゃないか。
「・・・・・・うっ、眩し」
眼をあけると、真っ白な太陽が飛び込んできた。頭がガンガンする。
「大丈夫か!?」
視界に、なにやらとてつもなく黒いものが飛び込んできた。
「・・・・・・あんた、年頃の女の子に跨ってなにしてんのよ?」
とてつもなくむかついたので、ぎろりと睨んでおいてやる。
「相変わらず嫌な女だな。だがよかった、意識ははっきりしてるみたいだな」
見ているこちらが恥ずかしいほどに安堵のため息を流す黒髪。なんだ? 何が言いたいんだ?
「覚えてないのか!? お前、あそこから落っこちたんだぞ!?」
心配そうに私を抱え上げる黒髪。指さされたほうを見ると、そこは崖だった。
「・・・・・・そっか。私、坂から放り出されて」
見上げてみると、20mはあろうかという断崖絶壁である。
「大きな怪我はないか? どこか動かないところとか」
「え? あっ、うん大丈夫。ところどころ痛いけど、大したことないみたい」
立ち上がり、身体のいたるところを捻ってみるが、無茶をした筋肉が悲鳴を上げるだけで数日後には治るように思える。
「そっか。ならいいんだが、お前の悪運は凄まじいな。あの高さから落ちてほぼ無傷だなんて」
黒髪につられて、再び崖を見上げる。確かに、あの高さから落ちたのなら、生きているだけでTVに出られそうだ。
「まぁ、こうして生きてるんだ。レースは俺の完敗だな。ここの峠は好きにしてくれ」
「えっ、いいよそんなの。もともと疾りたかっただけだし」
「まあ、そう言うな。俺たち全員、お前さんの疾りに惚れてしまったからな。また顔出してくれるとありがたい」
黒髪はそう言うと、少し気まずそうな顔で私のナップザックを持ってきた。
「あっ、風丸。ありがと、拾ってくれたんだ」
「ああ、回収するには回収できたんだが」
手渡されたナップザックを広げてみると、そこには無残な姿の相棒がいた。ボードはなんとか折れていないものの、車輪部分が砕け、前輪なんて取れてしまっている。
「・・・・・・ありがと、風丸」
相棒に感謝を告げる。恐らくあの風は、風丸から私への最期のプレゼントだったのだ。帰ったら、墓を作ってやろうと思った。
「あんたも、ありがとね。私の無茶で迷惑かけちゃってごめんね」
黒髪にも頭を下げる。考えてみれば、こいつは私の欲求不満に付き合わされただけなのだ。悪い事をした。
「えっ、いや。俺のほうこそ楽しかったよ。ありがとうな」
そう言って、手を差し出してくる黒髪。いやいや、本当にお前は恥ずかしすぎる奴だな。
「ふふ、しかたないな。女の子と手をつなぐのは初めてかい?」
「お前を女にカウントしてよいのか、俺だけでは判断に苦しむな」
がしい! とりあえず足を踏んづけておいた。何か叫んでいるが自業自得である。
「さってと、私は帰ろうかな。体中泥だらけだし、お風呂入らないと」
「ん、一人で大丈夫か? なんなら俺が一緒に――」
「最低。変態の極みね」
「帰り道の話だ!! 帰り道の!!」
ああ、なるほど。帰り道か。送ってくれるなんて、なかなか紳士でないか。
「でも、遠慮しとくわ。大丈夫だから。いらない貸しは作らないことにしてるの」
「へいへい。まあ、くれぐれも無茶はするなよ」
「それは、賛同しかねるわね。私が私でなくなるわ」
そして、ひとしきり二人で笑いあった後、私は相棒を担いで帰路に着いたのだった。
「ただいまー。って、誰もいないか」
無人の家の玄関を開け、無造作に靴を脱ぎ捨てる。カギをかけ忘れた気がするが、この際どうでもいいだろう。
シャツのボタンを外しながら、風呂場へと向かう。相棒の墓作りもしなければならないが、優先すべきは乙女の身体だ。
洗面台の鏡で、体中の傷を確認する。腕や足に多少のすり傷はあるものの、この程度なら数日あれば治りそうだ。
「それにしても、我ながらすごい悪運だわ。あんな高さから落ちてこれだけなんて」
不安になってシャツを脱ぎ、背中のほうも確認するが、特にこれといって傷もなく、うち身もないようだった。本当に、あんな高さから落ちたのだろうか。傷が少なすぎて、逆に内部が大変なことになっているのではと不安になる。
「それに、シャツも破れてないんだよね」
泥だらけになったシャツをまじまじと見つめる。泥まみれにはなっているが、破れたりしているところは皆無だった。さすがに気味が悪くなってくる。
「そう言えば、なんか風に包まれてた気がするんだよね」
そうそう。なにか、荒々しくも温かい何かに包まれていたような、そんな気がするのだ。崖から上昇してくる気流にでも助けられたのだろうか?
「ま、考えてもしかたないか。助かったんだし」
とりあえず、考えるのはそこまでだ。運良く助かった。それでいいではないか。そんなことよりも、今はこの泥だらけの乙女の身体が一大事である。
「よいしょっと。ちょっとは育ちましたかねえ」
ブラに手をかけ、鏡を見やった。うむむむむ。いつもながら忌々しき事態だ。
「で、でも。綺麗さにはちょっと自信があるんだから」
誰に弁解するでもなく、自分に言い聞かせるようにブラを外そうとした。
『おいおい。そんな貧相な胸見せられたって、嬉しくもなんともないぜ?』
ブラが外れて床に落ちる瞬間。そんな声が聞こえてきた。
・・・・・・頭の中から。
「って、ぇえぇええ!!?」