「ナギ! 崖から落ちたって本当!?」
教室に着いた私を迎えた第一声は、親友の駆鳥秋葉のものだった。
「へ?」
私は、学校鞄を自分の席の上に放り投げながら適当に返事を返す。
「へ? じゃないでしょう! 心配したんだから! 携帯にも出ないし! 帰ってから痛くなったりしてないわよね?」
その言葉を聞いて、彼女が昨日の墜落のことを言っているのだと理解できた。実を言うと、色んなことがありすぎてすっかり忘れてしまっていた。
「あ、うん。な、なんともないよ。元気ぴんぴん!」
腕を捲くって、こぶをつくってやる。親友はほっとしたように胸を撫で下ろした。
(そっか。あたし、崖から落ちたことになってるんだよね。……かすり傷ひとつないから忘れてたなぁ)
『おいおい。俺のおかげだってことも忘れるんじゃないぜ』
突然声を掛けられる。身構えていなかっただけに、つい反応してしまった。
「ちょっと! 急に喋らないでよ!」
あっ、と思ったときにはすでに遅し。親友が驚いた顔で、こちらに目を開いている。
「えと、あたし何か言ったっけ?」
不安そうな目で見てくる親友。あぁそんな目で見ないでくれ。すべてはこの馬鹿が悪いのだ。
『それは、お前のことだよな?』
「あんたに決まってんでしょ!! って! いや! ナンデモナイヨ!!」
あーもう、ややこしい!!
親友に必死に取り繕うと、精密検査を受けることを勧められた。まぁ、心配してくれるのは素直にうれしい。
『に、しても。お前、ナギって名前だったのか』
(はぁ? ……あ、確かに言ってなかったかもね。一応、荒瀬凪って名前があんのよ)
『ぎゃはは! 俺にはあんまり名前を気にする習慣はないからな!』
下品な声が響き渡る。なんか、誰にも聞こえないと分かっていてもどきりとする。
「それにしても、なんで秋葉がそのこと知ってるの?」
昨日の今日で、秋葉の言うとおり私は携帯にすら出なかったはずだが。
「ギャラリーにいた子でね、教えてくれた子がいたの。感謝しなさいよ。ナギみたいな女の子と全力で遊んでくれるの、彼らくらいなんだから。でもね……」
「はいはい。あんまり危ないことはするな、でしょ? たく、みんな秋葉には弱いんだから」
「ナギが危なっかしいからでしょ。私のいないとき見計らって勝負だなんて。確信犯じゃない」
ううむ、この親友には何を言っても負ける気がする。まぁ、そんなところも頼りに思っているのだが。
「そうそう、クラスのみんなもね。ナギの心配してたわよ」
「え? クラスのみんなが!?」
な、なんで皆が私の心配なんてするのだろう。
「ギャラリーもたくさんいたんでしょ? 結構な噂になってるわよ」
周りを見渡す。クラスの人の視線がちらちらと私に注がれている。
「そ、そういえば。朝からなんだか、視線を感じるような……」
「気をつけなさいよ。ナギったら、ただでさえ色んな人に目をつけられてるんだから」
「それは、僕のことかな? 荒瀬さん、崖から転落したらしいね」
「う、うおぉお!!?」
突然の声に飛び上がる。って、ちょっと待て! 待って!!
「さ、眞田くん!!?」
振り返るとそこには、私の意中の人が立っていた。
「奇跡的に無事だったって噂だけれど、本当かい?」
うわわわわ、近くで見ると本当にかっこいい。眼鏡が知的で、どっかの馬鹿とは大違いだ。
「う、うん! 全然平気! し、心配してくれたんだ」
隣の秋葉が、眞田くんを睨みつけている。秋葉は眞田くんのことをあまりよく思っていない。
「まぁ。クラスメイトが八神峠からダイブしたって聞いて、気にならない奴はいないさ」
「う、うぅ。お恥ずかしい」
どこか棘のある言い方。……心配してくれたんじゃ、ないのかな。秋葉の視線がチクチクと肩に当たる。
「結構な噂になってるよ。うちの女子生徒が、賭けレースで死にかけたってね。まぁ、名前まではまだ、広まりきってはいないようだけど。朝から職員室と生徒会は大騒ぎさ」
眞田くんは、うちの学校の生徒会長だ。私のせいで、大変な迷惑をかけてしまったらしい。
「ちょっと! ナギは事故にあっただけよ! 変な噂を信じないでくれる! それに、昨日の今日で女の子にその言い方はないんじゃない!?」
「あ、秋葉!?」
私と眞田くんの前に、秋葉が割って入った。ものすごい剣幕で、するどく眞田くんを睨みつけている。
「……なるほど、事故ね。すまないな荒瀬さん。噂も妙に信憑性があるものでね。騒がしさもあって、つい軽はずみなことを言ってしまった」
「い、いいよ。迷惑かけてるのは事実なんだし」
正直、本当のことを言ってしまいたかった。けど、私のために嘘をついてまで声を張り上げてくれた秋葉のことを思うと、こう言うしかないだろう。
秋葉はその綺麗な黒髪を振ると、もう用は済んだでしょとばかりに眞田君を睨みつけた。
「まぁ、あまり友人を心配させないようにね。無事でなによりだ。それじゃ」
そう言うと、眞田くんは教室の前の席へと帰っていった。後姿もかっこいい。
「……私、やっぱり彼のこと嫌いだわ。ナギも、あんな人のどこがいいのかしら」
眞田くんが立ち去った後、秋葉が怒気を隠さずに口を開く。
「さ、眞田くんだって生徒会長として大変なんだよ。……迷惑かけてるのは事実なんだし」
「それにしてもよ。噂を信じていたのなら、なおさらだわ」
『同感だな。ありゃあ、俺も嫌いなタイプだ』
今まで黙りこくっていた風丸まで参加してきた。
「な、なによ。……二人して悪く言っちゃって」
「二人? …………はぁ。ナギ、あんな言い方されて腹立たないの?」
油断していたのか、失言。秋葉は言い間違いだと思ってくれたらしい。
「そんな。……眞田くんは悪くないもん」
「あの人、ナギのことしょうもない不良だって決めつけてるのよ。ナギのことなんて、何一つ知らないくせに」
『まぁ、崖からダイブ決め込む奴は普通とは言えないがな!!』
風丸が大声で笑い立てる。だが、正直そのとおりだ。学校からしてみたら、私は手のかかる問題児だろう。
「うちのクラスメイトを庇って他校の不良と喧嘩した時も、ナギの言い分なんて聞いてくれなかったじゃない。あげくに、助けてあげた子まで黙りこくって」
「そ、それは眞田くんに関係ないでしょ」
「生徒会長よ? 学校の手先みたいなものじゃない。同罪よ。そのくせ、その場にいた私だけは無罪放免ってんだから笑わせるわ」
どうやら、秋葉は一人の世界に入ってしまったようだ。こんな風になったら、まず私が何を言っても無駄だ。
『まぁ、心配してくれる友人がいるだけありがてぇもんだ』
風丸の声がやけに響く。
『それにしても、お前さんのタイプがあんなカタブツたあなあ』
(堅物って、眞田くんは真面目なジェントルマンよ)
午前の授業が始まっているにもかかわらず、私は授業に集中できないでいた。
『まあ、お前さんとは真反対の人間だわな。……そこらへんに惚れたのか?』
それというのも、頭の中の声がとめどなく話しかけてくるからだ。
『しかし、惚れた弱みってのはつらいねえ。あそこまで言われて、腹も立たんか』
(あ、あんたね。いい加減にしないと打つわよ)
『ぎゃは! それは無理な相談だな。物理的に不可能だ』
正直、いつも授業なんて聞いているわけではないのだが、ここまで騒音がすぎると逆に聞きたくなってくるから不思議だ。
『いや、真面目な話よ。なんでそこまで惚れてんだ? あんな野郎によ』
( ……あんたは勘違いしてるのよ。今朝のことは、むしろ学校に迷惑かけた私が悪いの)
『自分の責任で命張って、そんで何事もなかったのにか? 人間てのは複雑だねい』
風丸は、心底つまらなさそうに笑った。こいつも、私のために怒ってくれてるのだろうか。
( 眞田くんはいい男よ。何事にも一生懸命で。問題が起こったら、学校のために全力で動ける人なのよ)
『……なるほどねえ。職務に忠実ってやつかい。女の恋心にも気付かずに、ご熱心なこった』
頭の中から、風丸の感情が流れ込んでくる。怒りに似た、どす黒いもの。
( ……あんた、もしかして妬いてるの?)
なかなかに面白いことを思いついたので、聞いてみる。
『あほか。ただ単純に気に食わねえだけだよ。惚れた女があんな扱い受けてみろ、普通は怒る』
「……ほ、惚れたって! な、なに言ってんのよ!?」
あまりに不意打ちだったので、思わず声が出てしまった。怪訝に思ったクラスメイトが、こちらを見やる。
『ぎゃはっは! なに慌ててんだお前え』
( あ、あんたが急に変なこと言いだすからでしょうが!!)
口に手をやって、必死に声を押し殺す。お、落ち着け。こいつが言ってるのは私の、王とやらの資質であって、というかそれ以前にこいつは人間じゃない。
『ぎゃはは! 可愛いとこもあるじゃねえか』
( ふ、ふざけるのも大概にしてよ!)
そんなこんなで、授業も中盤。正直、全く付いていけてない。
『……しかし、気になるな』
( なにがよ?)
『あの、眞田とかいう奴だよ。お前の話を聞いた限りじゃ、まるで完璧超人じゃねえか』
( そりゃそうよ。成績は全国でも優秀。運動神経も抜群。それでいてあの顔! 派手さはないけど、逆に物憂げな表情とかたまんないわ!)
『んで、性格の方もねじ曲がってるわけじゃないと』
( そうよ。今朝のことは例外みたいなもん。男女問わずに紳士で、あんないい人他にいないんだから)
そう。秋葉はあの一件以来勘違いをしているが、眞田くんほど出来た人はいない。まあ、私が好きな理由は他にもあるのだが。
『あんな奴に限って、裏で何してるかわからないもんだぜ』
( はあ? なにそれ、男の勘? あてになんないわね)
『意外と変態な趣味を持ってたりするんだよ。隠れオタクとかじゃねえか?』
(ふ、ふん。文系男子を好きな女の、不安なところを突いてくるわね。でもね、あそこまでになるとオタクでもいいの。むしろ博識ってなもんよ)
多少、動揺しつつも切り返す。眞田くんに限って、それはない。
『ロリコン、とかだったりしてな』
( あ、ありえないわよ)
『……もしや、熟女趣味か』
( そ、そんなわけないでしょうが!!)
『案外、三次元に興味なかったりしてな!!』
「違うっつってんでしょうがぁああ!!!!」
「……え、えと。荒瀬、先生どこか間違ってるかな?」
「……わかりません!!」
「……なんで私が居残り掃除なんてやってんのよ」
『いや、あれはお前さんが悪いと思うぜ?』
箒をがしがしと床に抑えつけながら、ため息をつく。なぜか私以外の正規の掃除当番は誰もいないし。
「……まぁ、昨日の今日だもんね。近寄りたくはない、か」
秋葉は家の用事で先に帰ってしまったし、適当にやってさっさと帰ってシャワーを浴びよう。
『それにしても、お前さん嫌われてんな。あの女以外友達とかいないのか?』
「……別に、嫌われてなんかないわよ。ただ、恐がって近寄ってこないだけ」
そう。別に嫌われてもなければ、いじめられてもいない。ただ、触らぬ神に祟りなしってやつだ。
『普通にしてたらそうはなんねえだろ。なんかしたのか?』
「さあね。昔は友達もいたんだけどね、その子いじめてた奴をぶん殴ったらこのありさまよ」
『なんでい、ヒーローじゃねえか。てことは、いじめの対象にでもなったか?』
「馬鹿言ってんじゃないわよ。男子6人、殴って暴れて気絶させて、気が付いたら立派な危険人物よ」
そう。世間では、手を出したら負けなのだ。でも、別に後悔はしてない。もともと、私にこの学校は不釣り合いだ。
「うちは私立で進学校だからね。お坊ちゃんお嬢さんが多いのよ。そんな人たちからしてみれば、私は宇宙人みたいなものなんでしょうよ」
ため息をつく。秋葉に合わせたとはいえ、あんなに頑張った受験戦争はなんだったのか。まあ、あの子さえいてくれればそれでいいのだが。
『それで今では立派な落ちこぼれか! 笑えるな!!』
「……いや、笑えないわよ」
苦笑しつつ、机の上を拭いていく。ところどころ落書きがあって、しょせん進学校と言ってもこんなもんよねと思ってしまった。
「って、まちなさい! この机は!?」
『ん? おお、あの野郎の席だな』
辺りを確認する。誰もいない。こ、これはチャンスか。
『おいおい、まさか漁るつもりじゃねえだろうな』
「眞田くんは生徒会の仕事でまだ残ってるし、私物も机の中に置きっぱなし。……こ、これは調査よ」
『調査?』
「そ、そうよ。あんたが眞田くんが変態とか言うから。彼の潔白は私が証明してみせるわ」
とりあえず、机の中に手を入れる。やばい、どきどきしてきた。
「こ、これはね。眞田くんのためなの。別に、やらしい気持なんかないんだから」
こつんと、手に何かが当たった。ペットボトル大の、何か。
「なにかしら? よっと」
それは、可愛らしいお人形さんだった。
くりんとした瞳。栗色の髪。白と紺を基調とした、流れるような服の曲線。風にたなびく髪は、静かな春の風を感じさせる。
「ま、まあ。お人形さんで遊ぶ男の子もいるわよね」
『フィギュアっていうんじゃねえのか、それ』
手に取って、まじまじと見る。可愛い。だが、これは……。
「……スカートの中とか、どうなってんのかしら」
くるっとひっくり返す。うおお、なんという作りこみ。
「きゃ!」
……え? 声がしたような――――
「何をしている!!」
「う、ひゃあ!?」
突然の声に、フィギュアを落としそうになる。いや、というかこの声は。
「さ、眞田くん!?」
「荒瀬さん! あんた、なに勝手に人の机を、って! あぁああああ!!!」
眞田くんの悲鳴。そして――――
「マリアぁああ!!!!」
ばばばばっ!!
目にも留まらぬ速さで駆け寄ってきて、人形を奪い取る眞田くん。てか、……マリア?
「あぁあああ!! こんなに指紋が!! ごめんよ! 僕が君を置いていったばっかりに!!」
すぐさまポケットから、純白のスカーフを取り出して拭き始める眞田くん。……なんだこれ?
「ふぅ。綺麗になった。って、そうだ荒瀬さん? 勝手に人の机を漁るのは感心しないな」
かなりの眼光で睨みつけてくる。かなり怒ってらっしゃるようだ。こんなに怒っている眞田くんは見たことがない。
「え、いや。あの、その。あ! なんか掃除してたらその人形が落ちてきて。拾おうとしたんだけど……」
とっさに言い訳をしようとしたが、長くは続かない。
私の言葉は、風丸の一言にさえぎられた。
『離れろ。 ……神候補だ』