俺はうるさい音で目を覚ます。
目覚まし時計が鳴っている。
閉められていたはずのカーテンが開けられていて、窓からさんさんと光が指し込んできていて眩しい。
俺は手で目を擦り、目覚まし時計に手を伸ばして音を止めようとした。
まだ俺は眠いんだ、もう一眠りしたいんだ、と。
しかし目覚まし時計は設定した時間より早い時間を指している。
鳴ってはいない。
鳴っているのは目覚まし時計じゃなくて、俺の幼なじみの桑林 聡美の声だった。
「早く起きなさいよ俊助!もう起きる時間でしょ!」
「う〜ん…」
この聡美とは、初めて会った時の事を覚えていないくらい昔からの付き合いだけど、別にこいつと俺は何の関係もない、ただの幼なじみだ。
なかなか整った顔をしているが、気が強い性格で髪型がショートカットのボーイッシュな女である。
感謝はしているけど、さすがに目覚まし時計が鳴る前に来られては迷惑だ。
まったく、まだ寝られる時間があるんだから寝かせてほしいもんだよ。
だから俺は、再び毛布に潜り込んで二度寝をしようとした。
━━が、聡美の馬鹿力でベッドから叩き落とされる。
「起きなさいって言ってるでしょ!
せっかく私が起こしに来てあげてるのに!」
「ちぇ、まだ時間あるから寝てていいのに。
だからもうちょっと寝かしてくれよ聡美。」
「だめ、早く行きなさい。早起きは三文の得でしょ?」
背中をゲシゲシ蹴ってくるので仕様がなく立ち上がる。
本当に暴力的な女だ。
こいつももう少し優しくなればモテるのに、と思いながら俺はしぶしぶ部屋を出て、階段を下りていった。
「お前、それ自慢してんの?」
しかし、学校で友達にこの事を話すといつもこんな事を言われる。
幼なじみの女の子に起こしてもらえるなんてうらやまし過ぎると言われる。
そう言うなら、誰か俺と変わってほしいよ。
俺はもううんざりしているのにさ。
「まったく…自慢じゃねぇよ。
愚痴るつもりで言ったんだよ。」
「どんな幸せもんだよ澤村。
アニメとかギャルゲーでしか有り得ないと思ってたぞそんな事。
それを嫌がるなんて、どういう神経してんの?
ホントに男かよ、お前。」
「うるさい、お前の場合は逆に性欲に素直過ぎだ馬場。」
こいつ、馬場 琢磨はまぁ、俺の友達だ。
癖のある髪が特徴で、こいつも聡美と同じくうるさいヤツだ。
高一の時に席が隣になり、それ以来、高二に上がってもこうして話をしにやってくるんだ。
そしてこいつは、聞いての通りのスケベで、女に目がなくて自分のハーレムを作る事を本気で夢見ている。
顔は悪くないが、こいつの性格だと一生無理だろう。
まぁ、俺も高校二年生にもなってまだ女子の話し相手は聡美ぐらいしかいないのだが。
「でもさ、お前まだ彼女いないんだろ?」
「いないけど…」
「そしたら一緒に頑張って可愛い彼女作ろうぜ!
あっ、お前は桑林な。」
「なんで聡美なんだよ!」
俺は強くそう言うが、馬場は変わらずニヤニヤ笑っている。
「いいじゃん。お前、聡美の事が好きなんだろ?」
「誤解を招くような事を言うなよ!
俺は別に聡美が好きな訳じゃないんだよ!」
「嘘だろ?ホントは好きなんだろ?桑林の事がさ。」
んなわけないじゃん、あいつはただの幼なじみだっつの。
そう思って俺は口を尖らせてそっぽを向いた。
すると馬場はため息をつきながら、可哀想な桑林、と呟いた。
聡美が俺の事を好きみたいに言うなよ。
そんな訳ないじゃんか。
俺はそう思って、頬杖をつきながらあくびをした。
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4時限目。
この時間の終盤は皆、そわそわしている。
クラスに必ず一人は貧乏揺すりが激しい人がいるだろう。
俺のクラスにもそんなやつがいるのだが、4限目の終わりになると更に激しくなる。
俺は貧乏揺すりをする癖をもっていないのだが、気付くとこの時間はペン回しが激しくなっている。
みんな考えていることは同じだ。
できれば早く授業が終わってほしい、そう思っている。
鐘が鳴る一分前。
隣のクラスの授業は早めに終わったようで、廊下を走る音が聞こえてきた。
クラスメイトの眉間にはシワが寄る。
30秒前。授業はまだ終わらない。
ダメだ、隣のクラスにもう既にかなりの差をつけられている。
授業はちょうど、切りよく終わりそうだがこのままでは間に合わない。
そうして俺は手に汗を滲ませていると、前の席の馬場と目があった。
俺たちの席は廊下寄りだ。
すぐに廊下に出れるが、こいつとの差はほとんどない。
こいつには、負けたくない。
時計の針が、かち…かち…と、まるで俺たちの脳に響かせるように鳴っている。
あと5秒、4秒、3…2…1…
「うりゃぁぁあー!!」
そして俺たちは鐘と同時に走り出した。
俺も馬場も、うおぉぉと走って廊下に出た。
目的地は全員同じ、一階のある場所だ。
俺たちも急いでその場所に向かうけど、さっきのスタートまでの差が大きく、俺はこれでは間に合わない、と焦り始めた。
だから、普通は階段を降りてから回り道をしないといけないのだが、俺は普通とは違う手を打つ事にした。
「だりゃぁああ!」
「澤村?!」
俺は開けてあった窓から飛び出して中庭の空を飛んだ。
飛び出した瞬間、あまりの高さに弱気になるがもう遅い。
俺は足で着地し、体を回転させて受け身をとった。
足がじんじんと痛むけど、二階からだったので何とか無傷…ショートカット成功だ。
勝ち誇るように俺が飛び出した窓を見てみると、馬場は悔しそうに俺を見ていた。
「じゃあな〜!お先、馬場!」
「くぅぅ…負けるかぁあ!!」
俺が馬場を置いて先を急ごうとすると、なんと馬場も窓から飛び出てきた。
着地して、受け身をとる。
こ、こいつ…本気だ…
「ちぃ…うおぉ!」
馬場の本気は俺を更に本気にさせた。
こいつにだけは負けたくなくて、全力疾走で走り出した。
二階から飛び下りたお陰で人はさすがに前にはほとんど人がいなかった。
前の人達と少し離されてしまっているが、本気の俺たちはすぐに距離を詰め、抜き去る。
残った、そのほとんどの人を、全力で追いかけて全力で抜き去った。
きっと俺たちはすごい形相で走っていたに違いない。
抜いた人は誰しも俺たちに驚き、怯えたような顔していく。
でも俺たちは気にしなかった。本気だった。
目的地に着くと前には誰にもいなかった。
一番乗り、しかも馬場は俺の後ろだ。勝った!
しかし、馬場は諦めなかった。
くそう、と叫ぶと五百円玉を持った手を振り上げたのだ。
「おばちゃーん!
カツサンドとカスタードパァーン!!」
そして投げた。おばちゃんに向かって。
「なにぃいい?!」
しかし―。
ベシン!
「お金は投げてはいけはせんよ?」
パン売り場のおばちゃんは厳しかった。
にっこり、営業スマイルを浮かべながら、馬場が投げた五百円玉を振り払ったのだった。
そして俺がゴール…
「はぁ、はぁ……ふっ、今日は俺の勝ちだな。」
「ぐはぁあぁあ!」
今日のレース結果。
1位 澤村 俊助
2位 馬場 琢磨
ちなみに馬場は五百円玉を紛失…
「あんた達バカじゃないの?」
クラスに帰ってからの聡美からの一言。
隣のクラスなのに何故かここで弁当を広げている。
「窓から飛び出すなんて…足折ったりしたらどうすんの?!」
「でも、やる人はやるんだぞ?俺達以外にも飛び降りてた人いるしさ。」
「そういう人達と同じバカなの、あんたは?!」
「でもそうでもしないとすぐにパンがなくなっちゃうし…」
「そんな物の為に体張るの?!」
聡美は眉間にしわを寄せて怒鳴っている。
あんまり無茶するな、とは前から怒られてたけど、今日はかなり怒っているみたいだ。
窓から飛び降りるところを見られたのが失敗だったか…
次からは見られないように気を付けながら飛び降りなければ…
俺がそう反省(?)していると、馬場はにやにやしながら言った。
「…ねぇ、やっぱり桑林は
澤村のこと好きなんじゃないの?」
気付いてみると、既に喧嘩は俺と聡美だけになっていた。
周りを見渡してみるとクラスのみんなは俺たちを見てニヤニヤと笑っている。
どうせ、相変わらず痴話喧嘩が絶えないカップルだなぁ、とでも思っているのだろう。
いつも、付き合っていないと言っているのに。
でも、実際は俺も聡美は俺のことが好きかもしれない、と思っていた。
隣のクラスからわざわざ俺のクラスまでやって来て俺と一緒に食べる。
異性の間でこんな事をするのは彼氏彼女の関係にある人達だけだろう。
だからもしかしたら…と思っていた。
このままなら。
「えっ?そんなわけないじゃない。私が俊助を好きになるはずないでしょ。」
照れもない。
俺と同じように、慣れているようにすぐに答える。
やっぱり自分の気の所為だった。
有り得ないんだ、聡美が俺の事を好きだなんてさ。
聡美が俺のことを好きな訳ないよなぁ、俺って勘違い男?
こういう事は何回もあったんだ。
何回も、好きなのかもしれないと思い、それを破られている。
こうして俺達はずっと友達以上、恋人未満の関係を続けていた。
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「絶対好きだと思うんだけどなあ…」
放課後、俺は馬場の自転車に二人乗りしながら帰っていた。
いつもは聡美と一緒に帰っているけど、今日は聡美は用事があるらしく、馬場と一緒に帰っている。
「なぁ…朝も聞いたけどさ…
お前、ホントに桑林の事好きじゃないの?」
馬場はやけに真面目な表情で訊いてきた。
馬場にとって、どうでもいい事のはずなのに、どうしてそんなにこの事が気になるんだろう。
でも、馬場にふざけている様子はないので、俺はもう一度心の中を覗いてみることにした。
━夏が終わり、秋に入り始めたので海から見える太陽はまだ少し高い。
今日はいい天気で、空は雲一つなくて青に染まっている。
俺の聡美に対する心はこんな感じだった。
心の壁がなく、打ち解けている素直な心。
長い間関わってきたからこそ、持てる心だ。
しかし温かくはない。
きっと長く一緒に居すぎて、側にいるのが当たり前と、心のどこかで思っているのだろう。
「そうだな、友達としては好きかな…
でも恋愛感情とかそういうのはない。
やっぱり、聡美はただの幼なじみだよ。」
「……そっか…そっか。」
海が見えてきた。
リアス式海岸の崖沿いの道を自転車が走る。
下り坂になってスピードも上がり、潮風が吹き付ける。
二人分の重みで更に自転車は加速していった。
「そういうお前は誰が好きなんだよ。」
「さぁ誰だろうかなー」
バギン!
「え…」
何かが前輪から落ちた。
それは地面を激しく転がってガードレールを越え、海へと落ちる。
前を向いて見ると、苦笑いしながら馬場は言った。
「ブレーキ…壊れた…」
「え……」
俺は青ざめた。
坂を下っている俺たちの目の前には、既に急なカーブがある。
馬場が急いでハンドルを切るけど、俺を後に乗せて、こんな速度で曲がれるはずがない。
海へと続くガードレールはどんどん迫ってくる。
曲がりきれずにどんどん近付いてくる。
無理だ…ぶつかる…!
ガシャァ!
俺たちは、ガードレールにぶつかって飛び越えたと思うと、海へと真っ逆さまに落ちていた。
手を伸ばしても、その手は虚しく空を掴む。
これから死ぬからか?
俺たちがぶつかったガードレールが、何だかゆっくりと遠のいていく。
「死」ってのはいきなりだな。
今日もいつも通りの日々を過ごすはずだったのに。
明日もまた聡美に起こされるはずだったのに。
俺は頭が真っ白になり、気を失った。
真っ逆さまに"その世界"に落ちていった。
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しばらくして、俺は目が覚めた。
いつもの天井はなくて、真上には、雲のない真っ赤な空がある。
背中がやたらと冷たくて、起き上がって立ってみると、俺は予想もしない光景に驚いた。
ここは部屋やリビングではなく、広々としたどこかの公園だったんだ。
俺は今まで寝ていた場所は、公園のグラウンドだったんだ。
…そうか、俺たちは、道路からガードレールを突き破って…
でも変だな…
俺たちは海に落ちたはずなのに…
自転車のブレーキが外れ、速度が落とせずガードレールにぶつかって海に落ちたはずなのに…
それなのに、なんで俺たちは地面で寝ていたんだ?
それにこの場所は一体どこなんだ?
「馬場、馬場!起きろ!」
「…う〜ん…あれ?なんで澤村が?」
「俺たち海に落ちたんだろ!ブレーキが壊れて海に!」
「何言ってんだよ澤村…
海に落ちたら公園にいるはずないだろ…」
そう言って馬場はバッと体を起こした。
そして不思議そうに辺りを見回す。
「何で公園の真ん中で寝てんの?!
プロレスでもやって気絶してたのか?!
いや…そういえば…確かに澤村の言う通り、俺たち海に落ちたんだった…!
ガードレールを突き破って海に落ちたんだ!
なのになんでこんなところにいるんだ?!」
「わからない…
俺もさっき目が覚めたんだけど、ここがどこだか全然わからないんだ。」
俺たちは土埃を払って立ち上がり、その公園を見て歩いた。
滑り台があり、鉄棒があり、ジャングルジムもあってテニスコート十面くらいの少し広い普通の公園だ。
ただ小さな休憩所があり、階段を上って上の階にいくと、町が見渡せる、コンクリートの展望台があるだけだ。
しかし、町を見渡せる展望台?
「海は…ずっとこの先だ。」
「それで俺たちが目が覚めて今いる場所は、町が見渡せるくらい高い場所にある公園、か…」
しかも太陽は今、海に沈もうとしている。
海に落ちる前は少し高い場所にあった。
だからつまり、海に落ちてから少ししか時間が経っていないという事だ。
その短時間の中でどうやってここにきたか、俺たちは全くわからなかった。
「不思議だらけだ…
ここがどこかもわからない。」
「携帯電話も使えないし……」
「帰ろうにも帰れないな…」
色々考えてみたけど、どうしようもない。
どの方法もうまくいく保証がない。
最悪の場合で警察に助けてもらう手も考えたけど、一体どうやったらこの出来事を信じてもらえるのだろう。
だから俺達は、展望台で町の景色を眺めながらこの不思議を考えていた。
眺めながら、立ち尽くしていた。
「すいません、誰かここに人が来なかったですか?」
そう立ち尽くしていると、そんな声がした。
後を振り向いて見ると、長くて癖のない黒髪の女生徒がいた。
「あれ…聡美…?」
「あれ…俊太郎…?」
「いや、見間違いか…」
「いや、見間違いだよね…」
初対面なのにいきなりハモった。
馬場は不思議そうに見る。
でも何だか雰囲気が聡美と似てたんだ。
暴力的とは真逆で、静かで大人しそうなんだけどさ。
「あ…えっと、俺たちも今、目が覚め…いや、来たところだからよくわからないな。」
「そうですか、ありがとうございます。」
女生徒は、コンクリートの立方体のベンチに座った。
どうやらここに来る、俊太郎という人を待っているらしい。
女生徒の来ている制服は紺色のブレザーの制服だ。
リボンと胸の校章のワッペンが地味さを逸脱させ、赤と紺の、チェックのスカートが可愛らしくさせている。
でもそんな制服、俺たちは見たことがなかった。
制服は、馬場の影響で地元の何校かの制服を知っているけど、全く知らない制服だった。
やっぱり、自分たちの地元の場所から相当遠く離れた場所らしい。
俺は、ある事を考えていた。
この人に、この場所の事をを訊いてみようと考えていた。
もう、何も知らない自分たちの頼りはこの女生徒しかいない。
地元であるこの人なら何か色々知っているはずだ。
俺と馬場は見合わせた。
考えている事は一緒のようだ。
俺達はこの女生徒に少し助けてもらうことにした。
「あの、ここはどこか教えてくれる?」
「ここ…ですか?
ここは上総町の、日ノ出公園ですよ。」
予想した通り、全く知らない場所だ。
「都道府県から教えてくれる?」
「とどうふ、けん…?
何ですか、とどうふけんって?」
「な…」
俺たちは驚いて言葉にならなかった。
別に馬鹿にしている訳じゃないけど、唖然として女生徒を見る。
「ほら!神奈川県とか東京都とかの!」
「神奈川県?東京都??」
女生徒は全くわからないようで慌ててしまっている。
俺たちは呆気に取られて言葉が出なかった。
女生徒がおかしいのか、俺たちがおかしいのか…
「あの…お二人方はどうかしたんですか?
さっきも深刻な話をしていたようですけど…」
俺はこの出来事を説明するか迷った。
説明しても信じてもらえないかもしれない。
笑われるかもしれない。
しかし俺たちはこのままずっと
この上総町という街を彷徨う事になるかもしれない。
それはやっぱりダメだ。
もう、俺達はこの人に頼るしかない。
俺はこの女生徒に、この出来事を話す事にした。
「…信じられないかもしれないけど
話を聞いてほしい…」
---------------------------------------
「それは…大変でしたね…」
俺はこの女生徒に、先程起こった事を全て話した。
普通なら馬鹿馬鹿しくて信じてもらえない話だけど、俺達の頼りはもうこの女生徒にしかなかった。
話すしかなかったんだ。
「やっぱり、信じられない?」
俺は、ダメ元で訊いてみる。
藤林は、すぐには答えずに黙って俺達の顔を真剣に見ていた。
俺達の目の奥、心の奥を感じ取るように。
そしてしばらく沈黙の時が流れると、女生徒はにっこり笑って言った。
「…いえ、私は信じます。
何となくあなた達が嘘をついているとは思えません。
悪い人にも見えませんし。」
「本当に?!」
俺はいい人だと思った。
信じてくれて逆にこっちが驚くくらい馬鹿げた話なのに、この女生徒は笑って信じてくれたんだ。
「泊まる家は見つかりましたか?」
「いや…まだだけど…」
「じゃあとりあえず、今日は私の家に泊まりましょう。」
「ええっ?!」
なんて心が広い人なんだ!
話を信じてくれただけでなくて、家に泊めてくれるなんて!
いやしかし、さすがにそこまでしてもらうのは悪い。
確かに俺は、この人に出来事を話し、助けを求めたかもしれないけど、夕食を分けて下さいとか、シュラフを貸して下さいとか、些細な事を望んでいたんだ。
泊めてもらえるなんて本当にありがたいけど、やっぱり迷惑をかけてしまうのではないだろうか。
それに、この子はもう何の疑いもないのだろうか。
普通はもっと疑うと思うのだけど…
「い、いやでも…君は俺たちみたいな初めて会った知らない男たちを、自分の家に泊めてもいいの?」
「そうだよ…
泥棒かもしれないって思わないのかよ。」
「泥棒とか、そういう悪い人はこうやって遠慮したりしません。
泊まる家がないなら泊まっていってください。
いや、安心できるように、もう住んでください。」
俺たちは唖然とした。
なんだ?この人は天使か?
この世界にこんないい子がいるとは。
でも、勝手にこの子だけで決めてしまっていいのだろうか。
両親の迷惑にならないだろうか。
そんな事を懸念したけど、泊まらなければ俺たちは、野宿することになる。
秋に入り始めて段々と寒くなってきたこの時期に、この公園で眠る事になるんだ。
俺たちに遠慮をしているほど余裕はない。
とりあえず俺たちはこの人の家に行く事にした。
この人の両親との話もする為に。
「じゃ、じゃあ…お言葉に甘えて…」
「はい!
あの、お名前は?」
「あ…えーっと…」
「俺は馬場 琢磨。よろしくな!」
俺が口ごもっている間に馬場はウィンクして、藤林に露骨すぎるアピールをした。
「あ、はい。」
「えっと、澤村 俊助。」
「はい!
私は藤林 美郷です。」
-------------------------------------
「シクシクシク…」
「どうした馬場。」
「せっかく可愛くていい子だからアプローチしてみたのに、俺はなんか、邪魔者みたいに…」
「アプローチって…
ウィンクしただけだろうが…」
藤林 美郷か…確かに、可愛い子だったな…
優しくていい人だし。
馬場が気になるのもわかる気がする…
しかし俺は可愛い、いい人以外にも、違う点で気になる点があった。
普通でない何かが、引っ掛かっていた。
「おい澤村。お前は聡美って決まってんだからな。
美郷ちゃんには一切手ぇ出すなよ。」
「だからなんで聡美なんだよ!
…ってお前、藤林を狙ってんのか?!」
「へっへっへ…」
全くこいつは…
こんな事態に巻き込まれているって言うのに、よくそんな事を考えられるよな…
でも、心では藤林のことが気になっている自分がいた。
俺の心の奥で、肩より長い髪を揺らしながら、笑っている藤林がいた。
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「お風呂、ありがとうございました。」
「いえいえ。
そこで待っていてください。
もうすぐ夕飯ができますよ。」
藤林の母さんに言われて俺は食卓の座布団に座った。
藤林の家は中々裕福なようで、居間には机やテレビなどが余裕を持って置かれている。
床は懐かしい匂いを放つ畳で、ここから見えるキッチンは、襖を開けてダイニングキッチンみたいになっている。
キッチンで藤林のお母さんが、一つに結ばれた長い髪を揺らしながら夕飯の支度をする姿は、何故か懐かしくて昔の日本を感じた。
居間の人達に目を配ると、馬場と藤林のお父さんがテレビを見ていた。
藤林はまだ二階の部屋にいるようで、ここにはいない。
「なぁ、澤村…上総園ってどこかわかるか?」
「上総園?」
そうやって部屋を眺めて夕飯を待っていると、馬場は藤林の家族達に聞こえないようにひそひそと話しかけてきた。
「ここの地名の事らしいんだよ澤村。
ほら、見ろよテレビ。
俺たちが聞いたことがない単語ばかり言ってる。」
「ホントだ…」
「聞いてると通貨まで違うみたいだし、やっぱりここ…俺たちが知ってる場所、ていうか世界から違うよ。」
「世界から…?」
『皆さん、夕飯が出来ましたよー』
「は、はいっ!」
お母さんが両手に皿を持って居間に来たので、座布団に急いで座り直す。
黙って、食卓に並べられていく料理を見ていた。
でも、世界から違う、か…
確かにこの世界は色々とどこかが違うし、都道府県や金の単位の円もない。
それだけじゃない。
俺達の世界と、この世界で違うものが沢山あるんだ。
でもそうとなると一体ここはどこなんだろうか。
俺達は一体どこに迷いこんでしまったのだろうか。
「澤村さん、馬場さん。」
「あ…はい、なんでしょうか。」
料理を並べ終わったのか、藤林のお母さんが尋ねてくる。
「さっき、美郷から話を聞きました。
…不思議な事に遭ってしまったのですね。」
「…はい。」
俺は目を落として応える。
「あなた達は今、住む場所がないんですね?」
「はい。」
「面倒を見てくれる親は、側にいないんですね?」
「はい。」
「なら、二人とも無事に家に帰れるまでこの家で暮らしてください。
私達が出来る限り面倒を見ますので安心して暮らしてくださいね。」
「…はい。ありがとうございます。」
「ありがとうございます…本当に。」
俺は少し、涙が出そうになった。
見ず知らずの子供にここまでしてくれるなんて…藤林家は本当にいい家族だ…
俺達は本当に感謝しなければならない。
感謝して、いつかこの家族に恩返しをしなければならないと俺は思った。
「おいおい美代子。
それは僕の台詞じゃないのかな。」
お母さんの隣の、眼鏡をかけて優しそうなお父さんが口を開く。
「あら、そうだったわね。
思わず亭主振りしてしまったわ。」
お母さんも笑って応える。
きっとこの二人は仲が良いんだなと、俺は思う。
「僕は美郷の父の和俊(かずとし)だよ。
こちらは女房の美代子(みよこ)。
二人とも、よろしくね。」
「よろしく、お願いします…」
俺達は揃って頭を下げた。
感謝を表すように深く、3秒くらい頭を下げていた。
頭を上げると、そこに藤林が入ってきた。
居間の入口に立っている。
そして、自分が食卓に着くのを待っているのだと気付くと、一言謝って少し慌てて俺の隣に座った。
でも、あれ?
何だか、藤林の表情が暗いような…
「じゃあ、食べましょうか。」
「うん、頂きます。」
そう言って、藤林夫妻は食事を始めた。
藤林も浮かない雰囲気で、箸を動かし始める。
俺は藤林の様子が少し気になったけど、馬場も既に料理を食べているので、箸を取った。
それにしても、何か緊張する…
こうやって女の子の親と食事をとるなんて滅多に…いや、聡美とは何度かあったんだけど、他の人とはないだろう。
普段は家では気にしない食事のマナーを注意深く行っているし、和俊さんにビールを注いであげたりしている。
その緊張の所為か、俺はいつもより食べる速さが遅くなっていた。
馬場も、カチコチに緊張してあまり食べられていない。
「あ、あの…ハンバーグ、おいしいです…!」
「ありがとう。まだあるからね。」
「お前は緊張しすぎ…
…あれ?」
気になっていた藤林の方を見てみると、皿の上にはまだ多くのメニューが残っているのに箸がぴたりと止まっていた。
緊張…してるわけではなさそうだ。
浮かない顔をしているし、目線は下に落ちている。
考え込んで、悩んでいる様だ。
「藤林?何かあったの?
何か思い悩んでるみたいだけど…」
「えっ?いや、その…」
遂に俺が訊いてみると、藤林は不意を突いた質問に少し慌てた。
そして俺を見つめると、俯いて、ゆっくりと話し始めた。
「実は…私の友達が、出かけてからまだ帰ってきてないんです。
それで心配してて…」
「友達?」
「あの公園で会うはずだった人です。
私は待ち合わせの時間に15分遅れてしまって公園に来たんですけど…その人はいなくて…
家に帰ってしまったのかと思ってさっき電話してみたんですけど、まだ帰ってきてないって言われたんです。
気にしすぎているのかもしれませんけど、私、何だか嫌な予感がして…」
「あら、俊太郎くん?」
「うん…」
俊太郎。
藤林が初めて俺を見た時に間違えて呼んだ名前…
君付けで呼んでいない事から、俊太郎は藤林にとって親しい人という事がわかる。
藤林がこんなに心配しているんだから、藤林とその俊太郎という人との間には深い関係と時間があるとわかった。
俺は時計を見てから、藤林を励まそうと少し笑って言った。
「大丈夫だって、そう気を落とすなよ。
まだ7時だぞ。ちょっとどこかに遊びに行ってるだけだって。
しばらくしたら、きっと家に帰ってるよ。」
「えっ、う、うん…」
そう言うと、藤林はきょとんとした顔をして俺を見た。
俺は何かマズい事を言ったかなと思い、ちょっと焦る。
いや、大丈夫だよな…普通の事だよな…
普通に励ましただけだよな…
「そうですよね。
きっと、私の気の所為ですよね…
考え過ぎですよね…」
藤林は少し安心したようで、作り笑いを俺に見せてハンバーグを口に運んだ。
-------------------------------------
俺は電気を消す。
隣で寝ている馬場は、もういびきをかいて寝てしまっている。
まったくこいつは…
よくこんな状態の時に満足に寝れるよな。
女の事を考えてたし、本当に困ったやつだ。
心の裏ではこの出来事をどう思っているかわからないけど、
何だか少し、お前が羨ましく思えてくるよ。
俺は溜め息をついて、敷いた布団に潜る。
今日は色々な事があって疲れていて、俺は布団に潜ると体の力が抜けてぼーっと惚けて天井を眺めていた。
「知らない天井…」
そうだ…
この天井も、藤林も、この出来事も全部夢だ。
きっと俺のマンガの読みすぎの所為で変な夢を見ているんだ。
次に目が覚めた時は、いつものように聡美が怒鳴っている。
聡美と一緒に登校して、昼休みは馬場とパンを巡って走る、いつもの日常が戻っている。
…藤林の言ってた俊太郎って人も帰ってきて、全ての問題は解決だ。
うんうん、夢だ。
こんな不思議な出来事は夢に決まってる。
そう思って俺は寝ることにした。
次の日を期待して―。
to be continued-